日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:風林火山

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戦国最強・武田信玄の不思議をめぐる甲府の城下町です。
人口・190,456人、面積212.47㎢、特産はブドウ・イチゴ・ワイン。
山梨県甲府市は、四方を2000m級の山に囲まれた甲府盆地にあります。
その中央に武田神社が・・・その昔、ここに信玄の本拠地があり、ここから家臣たちと共に大きく甲府の町を発展させました。
その後、豊臣秀吉によって、新たに甲府城が建てられました。
しかし、庶民にとって、甲府はやはり信玄の町です。
そんな民に愛された信玄の町にはどんな不思議があるのでしょうか?

武田通り・・・武田信玄公にあやかってつけられています。
甲府市は、信玄公・・・武田家の町です。

疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し

ご存じ信玄の代名詞、”風林火山”の旗印の内容は・・・
戦における兵たちの心得を旗に記したといわれています。

風林火山は、孫氏の兵法を引用したものです。
孫氏とは、紀元前500年頃・・・中国春秋時代の思想家・孫武の作とされる兵法書です。
信玄は、そこに書かれていた戦に対する心得を徹底的に学んだといわれています。

武田神社は、1919年に創建されています。
武田信玄が御祭神として祀られています。
戦において、連戦連勝の信玄にあやかって、勝負事のご利益があるとされています。
武田神社に隠された謎とは・・・??
ここは、武田信玄の館でした。
難攻不落の信玄屋敷です。
甲府駅から北に二キロ・・・町全体を見守るように鎮座する武田神社。
戦国時代、この時代には、信玄が本拠地として活動した武田氏館がありました。
現在も、堀や土塁、古井戸などの信玄時代の遺構がそのまま残されています。
信玄はこの地に城を建てず、生涯屋敷住まいでした。

どうして戦上手の信玄が、平屋の屋敷に住んでいたのでしょうか?
館の周りは、三方を山に囲まれ両側には左に相川、東に藤川が流れていました。
つまり、南側以外は、天然の要害で、敵が容易に侵入できないようになっていました。
武田氏館を攻めるためには、南側だけしかありません。
その南側も橋もなく、堀で囲まれて入り口は東側にありました。
正面を塞ぎ、東側へ敵を迂回させるようにしたのです。
しかもその手前には、家臣たちの屋敷があるために、容易に近づくことができません。
万一東側・追手門にたどり着いても、門の前に三日月堀と土塁があり、その内側に味方が忍び、弓や投石で狙い撃ちできるようになっていました。
この防壁は、丸馬出とよばれ武田氏考案の鉄壁の防御システムです。
安心して外へ攻めていけたのです。

信玄が残したといわれる言葉があります。

人は城
  人は石垣
     人は堀
 情けは味方
    仇は敵なり

当時、戦国大名たちは、己の権力を見せつけるために、巨大な天守や石垣を作りました。
しかし、信玄は、堅牢な城を造ることより、町の整備にお金と労力をかけたといわれています。
400年以上たった今も、その姿を残す”信玄堤”。
川の氾濫を防ぎ、広大な新田開発に大いに役立ちました。
信玄は、家臣や民との信頼関係を築くことができれば、城などなくても強固な国づくりができると考えていたのです。

戦国最強といわれた武田騎馬隊。
最大で5万人以上いたといわれる中で、最も優れた武将24人を武田二十四将といいます。
信玄の右腕ともいわれた軍師・山本勘助を始め、武勇に優れたものが集まり、彼らの手によって、武田最強伝説が作られたのです。

最近、武田の騎馬隊にある疑問が出てきました。
それは、大きな馬に乗ってかっこよかったのではないのでは??
ポニーに乗っていたようです。
颯爽と戦場を駆け抜け、百戦錬磨といわれた武田騎馬隊がポニー集団??
今でこそ馬といえばサラブレッド・・・彼らが日本に伝わったのは明治時代です。
信玄の時代にサラブレッドは存在しません。
当時の馬は、長野の木曽馬などが一般的でした。
この木曽馬、ポニーと呼ばれることもあり、サラブレッドに比べて小柄で足も短くスピードも出ません。
そして平成元年7月・・・武田氏館から一頭の馬の骨が発見されました。
馬でありながら人のように埋葬されていたことから、武田家の中でも重要人物・・・大将クラスの馬の可能性があるといわれています。
125センチとかなり小柄で、この小柄な馬が、武田騎馬隊の馬の可能性を秘めているのです。

1575年長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍が、当時最も恐れられていた武田の騎馬隊と激突!!
3日前、家康は武田軍を警戒して家臣に命じます。

「武田の騎馬隊がまっしぐらに突入してくるので、柵など念入りに作るように。」by家康

「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまい。」by信長

騎馬専用の防護柵を築いて警戒したといいます。
果たしてポニーの武田騎馬隊は、信長&家康が警戒するほど強かったのでしょうか?
孫氏の兵法は、「戦わずして勝つ!!」です。
「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」・・・つまり、百戦百勝は、最善に見えるが、勝った方も被害が出るため、戦わずに敵を屈するのが最善ということなのです。

これこそ、信玄が生涯実践しようとしていた「戦わずして勝つ」なのです。
諜報活動、調略を重んじ、「武田軍団は強い、騎馬軍団も強い!!」と、イメージ戦略していたのです。
それはもちろん本当の強さがあってのこと。
信玄の生涯戦績は。72戦3敗です。
それだけの強さがありながら、戦わないようにしていたのは、戦いによる被害の大きさを知っていたからなのかもしれません。


北杜市には・・・味噌なめ地蔵があります。
全身味噌まみれです。
お地蔵さんに味噌を塗る部分は、自分の身体の悪い部分です。
武田信玄が信濃の国で初陣(海ノ口城の戦い)を飾った信玄が、帰り道に光り輝く地蔵菩薩を見つけ、持ち帰ったものです。
っしかし、正覚寺の前で、急にお地蔵さんが動かなくなり、仕方なくこの場所において行ったとされています。
背中には信玄が括りつけて持ち帰った二筋の縄の跡が残っています。
どうしてお地蔵さんに味噌を塗るようになったのか??
味噌は、塩分のきいた保存食で腐らない=悪くならない=これ以上悪くならなように塗っているのです。
その理由には諸説あり、コメの不作が関係しているといいます。
甲府は、山に囲まれた盆地で、味噌の原料となる米の栽培が難しかったといいます。
貴重な味噌を塗ってご利益を願ったのです。
信玄は400年後、この地蔵が味噌まみれになっているとは思いもよらなかったでしょう。

山梨には甲斐九筋があり、領地拡大を図り軍用道路として当時の武田軍にとって重要な道でした。
街道筋には狼煙が置かれました。
戦国時代は、馬での伝達が主でしたが、山で道が入り組んでいた甲州では、狼煙を重宝しました。
信玄ほど、狼煙をたくさん置いた人はいないといわれています。
記録によれば、4,5キロ置きに狼煙が置かれました。

狼煙は”狼の煙”と書きます。
それは、狼煙は、古来中国で連絡手段として生まれました。
狼の糞を燃やしたところから、狼煙といわれるようになりました。
情報を確実に伝達するためには、煙が風に流されないことが重要でした。
そのために、強い火力で、濃い煙を出すことが重要でした。
肉食動物である狼には、たんぱく質が豊富に含まれ、草木だけで燃やすより高温となり、蒸気機関車のように真っ直ぐな煙が上がったといわれています。
どのくらいの速さで届けられたのでしょうか??
新幹線と狼煙とどちらが早いのか??実験した過去があります。
新尾道駅から新大阪駅までの全長250km・・・新幹線と僅か10分ほどの差だったといわれています。


信玄が死ぬと跡を継いだのは勝頼です。
2年後には武田家の行く末を左右する長篠の戦いへ・・・
大量のてっぽうを用いた織田・徳川軍に武田軍は完敗!!
二十四将の多くはこの戦いで命を落とし、武田家を滅亡させた戦といわれています。
武田家にとって、歴史的な敗戦となった長篠の戦い・・・
二十四将の中で、四天王のひとりとして活躍した内藤修理亮は、勝頼を安全に逃がすために戦場に残る選択をします。
その時、勝頼に頼みごとをします。
形見の旗を家族に・・・!!
無事に甲斐国に戻った勝頼は、自ら内藤家に足を運び、内藤の旗を家族に渡し、気にかけたといいます。

山梨県内では、ほうとうを食べられる店がたくさんあり、家庭料理で花嫁修業の一つといわれています。
ほうとうのルーツは、武田信玄です。
ほうとうは、小麦粉を平たく練って作られています。
即席に造ることができるので、陣中の非常食でした。
戦場に運ぶ兵糧には限りがあり、携帯性や保存性が重視されていました。
ほうとうは、味噌と小麦粉さえあれば、どこでも作ることができるので信玄が広めたといわれています。
信玄が自ら刀で細く切ったことから「伝家の宝刀」=ほうとうとなったといわれています。
戦場でしっかりとした食事ができるかどうかは、戦いを左右する大事なことでした。

天目山栖雲寺は、信玄の先祖が眠っている寺です。
信玄の祖先にあたる武田信満が眠る栖雲寺には、信玄ゆかりの貴重な品がたくさんあります。
経に軍配を持っている武田信玄・・・川中島の戦いは伝説として受け継がれていますが、その時、謙信の刀を受けたのも軍配だったといわれています。
どうして右手に軍配なのか??
相撲で使われる軍配ですが、元々は、戦において武将が軍を采配する道具のことです。
多くの武将の中でもひときわ軍配のイメージが強い信玄。
この栖雲寺にはたくさんのお宝が眠っていますが・・・その中に、信玄が使っていたといわれる本物の軍配があります。
普通は木や紙でつくられますが、鉄製の軍配で、鍛冶屋に武器として作らせた一点物です。
信玄が本当に鉄製の軍配を使っていたなら、伝説の川中島の一騎打ちで謙信の刀を軍配で受け止めたのも頷けます。
軍配には傷が入っており・・・謙信と交えたときの刀傷かも知れません。
信玄は38歳の時に、戦国大名でありながら出家の道を歩みます。
その時、晴信から信玄に改名。
さらに、恵林寺住職の快川紹喜を招きます。
そこで、信玄の人生を変えてしまう出来事が!!
ある日信玄は和尚がどれほどの人物なのかお経を読んでいる時に刀を突き付けます。
和尚はびくともせずに、
「一国の主たる者、そうやすやすと刀を抜いてはいけません。
 刀を抜かないということが、家臣を信頼している証で、采配をしっかりしておけばそれでよいのです。」と進言を諭しました。
己をたいそう恥じた信玄は、以来刀を抜くことなく、軍配を持つようになったのです。

武田信玄と徳川家康が変えてしまった日本の伝統文化とは??
それは「門松」です。
門松を飾る習慣は、平安時代からで、家内安全や豊作をもたらす神様が訪れる目印として松を飾ったものです。
武田流門松は、竹を削ぎ切りではなく、寸胴に切ってあります。
寸胴型門松が日本のスタンダードでした。
しかし、戦を機に新しい門松が誕生しました。
1572年三方が原の戦いで、浜松城で待ち構えていた徳川家康と上洛の途上にあった信玄との戦いで、信玄が家康を手玉に取った戦いとしても知られています。
武田軍に完膚なきまでに叩かれた家康・・・家康は無様な姿を一生忘れないようにしかみ像を書かせたことで有名です。
そんな家康に勝った信玄から手紙が・・・その手紙の内容は??

松枯れて 竹類なき 明日かな

松は松平のことで、竹は武田のことです。
松平は終わって、武田の将来は類まれなく良くなる明日である。
これを怒った家康は、返歌を送ります。

松枯れで 武田首なき あしたかな

子供じみたようにもなりますが・・・家康の返歌は、ひらがなにするとすべて同じ字で書かれています。
濁点だけで全く違う意味になります。
そして、武田の首を斬ってしまえ!!ということで、削ぎ切りの門松を送ったといわれています。
これをきっかけに、江戸幕府以降、削ぎの門松が主流になりました。

甲斐・善光寺・・・長野の善光寺と深いかかわりがります。
創建664年国宝・信州善光寺。江戸時代は、伊勢神宮と並んで、庶民の観光スポットNo,1で、一生に一度は善光寺参りといわれるほどでした。
6世紀半ばごろ、百済から持ち込まれた日本最古の阿弥陀如来像が安置されています。
そんな信州善光寺と同じ名を持つ甲斐善光寺・・・甲斐善光寺は、武田信玄が長野の善光寺を移した時からあります。
お寺には川中島の陣太鼓があります。
川中島の戦いの舞台となった川中島から信州善光寺は近く、戦いによって消失してしまう可能性がありました。
消失を恐れて、こちらに移したともいわれています。
信玄は、信州善光寺の全てを持ってきたのは、親切心だけではなく・・・
信州善光寺にある日本最古の如来像・・・それを手にすることは権力を手にすることになる。
以後、信長→家康→秀吉の手から、善光寺に戻されたといいます。
手にした彼らは、大きな権力を手に入れていきます。

山梨県甲府には、人と人とのつながりを大切にする信玄の想いが息づいていました。

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戦国時代最強と詠われた武田信玄。

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甲斐の虎と呼ばれるまでには、いくつもの転機が。。。。。
5つのターニングポイントがありました。

山梨県甲州市塩山・・・ここ恵林寺は、鎌倉時代に開かれ、信玄が尊敬する快川紹喜が住職となったことから菩提寺となりました。
信玄は快川紹喜を仰ぎ、いろいろ人間として相談していたようです。
ここにある武田不動尊には、領民を守るという信玄の強い意志が現れています。

その武田信玄の人間像とは???

武田信玄は、戦国時代を代表する武将ですが・・・
人びとのイメージは・・・立派な武将・大物政治家・戦略家・・・戦上手な人と思われているようです。


1521年11月3日甲府市積翠寺で武田信虎の嫡男として生まれます。
孫子の兵法を重んじ、風林火山の名のもとに、甲斐の虎として恐れられていました。
「民こそが国家の財産である」という孟子の政治学を重んじ、国内の開発にも積極的でした。

信玄棒道・狼煙台・・・周囲の戦国大名に恐れられた戦略家でした。
対するは越後の龍・上杉謙信です。
龍虎の戦い・・・これを納めているのが甲陽軍は、武田信玄・勝頼二代の記録です。
高坂虎綱が口述し、甥が書き、江戸時代に軍学者によってまとめられたものです。
信玄を密かに尊敬していた家康、この甲陽軍鑑が江戸幕府の教本となりました。

徳川時代タブーだった三方が原の戦い・・・出版禁止されずにありました。
つまり、甲陽軍鑑は、徳川家にとって権威ある書物だったようです。


ターニングポイント①父・信虎を駿河へ追放する

では、どうして父親を追放したのでしょうか?
当時甲斐の国は、自信過剰でワンマンな専制君主・信虎の悪政に苦しめられていました。
そう、当主としての信頼は薄れつつあったのです。
政権末期的な様相で・・・家臣をはじめ、民衆が世直しを求めていたようなところがありました。
そんな中、嫡男晴信は大手柄を立てます。
父のできなかった海ノ口城の攻略にわずか300人で攻め落としました。
しかし、その城に残らなかったということで“臆病だ”と、信虎は弟・信繁に盃を取らせ跡を継がせようとし・・・晴信を阻害しようとしました。

こうした信虎の振る舞いに、父を駿河に追放することを決めるのです。
当時、武田を配下にしようとしていた駿河の今川義元に手紙を送ります。
うつけのふりをして・・・今川義元に家督を誰にするか???と・・・任せます。
うつけなら大丈夫???と、今川が思うように・・・。
その思惑通り、謀反に協力させようとしたのです。
信虎が駿河から戻ってくるところを待ち受けて・・・甲斐の国から追放したのです。
駿河で隠居することになった信虎・・・
こうして晴信は一国の主となり、甲斐の国を治めることになったのです。
大胆不敵な戦略家だったのです。


ターニングポイント②甲斐で初めての法律を作る

甲斐の国は山岳地帯で積雪が多く・・・実りもあまり多くなく・・・
借金や訴訟が多くありました。
人びとは、貧しさゆえに疲弊していました。
1547年甲州法度之次第を制定します。
この法律は、家臣や領民に対してですが・・・
領民に対しては減税もありました。
釜無川と笛吹川・・・この二つの河川の氾濫は、当時の甲斐にとって大きな問題でした。
そこで、信玄堤を作り、その周辺に集落をつくりました。
その人たちには・・・信玄堤の管理を任せ、税金を免除しました。
また、貴重な財源だった甲州金・・・金山衆に免税をし、増産をさせます。

そして・・・そこにはびっくり、
「晴信、決まり事を破ったら相当の処分を受ける」
と、ありました。必罰を自分に課したのです。
内政の充実を図り、家臣や領民の信頼を得ようとしたのです。
人と金を握る“カリスマ経営者”でもあったのです。


ターニングポイント③三国同盟を結ぶ

甲斐の国は、越後の上杉謙信、駿河の今川義元、相模の北条氏康と・・・戦国大名の中でも屈指の三氏に囲まれていました。
北の上杉の土地は・・・海もあり、豊穣で・・・どうしても手に入れたい土地でしたが。。。
その為には、後ろにいる今川・北条が気がかりでした。
1554年三国同盟が、甲斐、駿河、相模の間で結ばれます。
戦国時代2国間の同盟でも大変なのに、3国の同盟を結ぶのは、並大抵のことではありませんでした。
ところが、晴信は・・・前例のない快挙をすることが出来ました。

注目していたのは、相模の北条氏康。
北には関東管領の上杉憲政、西は駿河の今川義元がいたため、武田とも戦いが始まれば・・・窮地に陥ってしまいます。
そこで・・・北条に敵対していた上杉・今川と和睦させることに成功し。。。
そして・・・この二国を取り込み、三国同盟を成功させるのです。
この同盟は、婚姻関係を結ぶことで強いきずなとなり、以後20年間友好関係を結ぶことになりました。
三国同盟のおかげで背後に安心した晴信は・・・念願の信濃平定に向けて全力を尽くすことになります。


ターニングポイント④川中島・壮絶な戦い

越後の雄・上杉謙信との戦い・・・
川中島の戦いは5度にわたっています。
信濃平定を望む信玄と、それを阻もうとする謙信。
両者には、本陣同士の決戦はなく、小競り合いが続いていました。
しかし、第4次川中島の戦いは、今までとは明らかに違う・・・戦国時代最大と言える壮絶な戦いがそこにはありました。

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上杉が布陣したのは妻女山。
武田軍は茶臼山に布陣し、上杉軍の退路を断ちます。
この時、武田軍は2万。上杉軍は1万3000。
そして、合戦は、山本勘助がたてたキツツキ戦法から始まるのです。

武田軍別働隊が、妻女山の後ろから攻め込みます。
逃げた上杉軍を武田の本陣が待ち受ける・・・その場所は、八幡原。
戦いは、上杉軍優勢に徹し、武田軍は壊滅寸前に!!

そして、謙信が・・・・・信玄との一騎打ちです。

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盛り返す信玄側は、この戦いで名だたる武将を失います。
弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助・・・この激戦で武田軍の死者数は8000人、上杉軍は5000人と言われています。
余りにも多くの兵士を失ってしまった信玄・・・この後は戦法を変え、戦わずして勝つ戦いへとなります。
“失わずして得る戦い”
箕輪城・・・長野業盛城主は、5年かけて落城しています。それは、家臣たちを武田に寝返らせることで城主を孤立させるという方法でした。

深沢城・・・北条網成城主は、籠城する敵方に屋文を投げ込んで、降伏するように説得しています。
戦わずして勝つ!!という戦術を手に入れました。
“失敗から学べる強さも持っていた”のでしょう。


ターニングポイント⑤義信が謀反を企てる

1565年一人の男が信玄に反旗を翻そうとしていました。
信玄の嫡男・義信です。
発端となったのは・・・駿河に対しての意見の相違でした。
川中島の信玄との戦いが思うようにいかない中、駿河の今川義元は桶狭間で討ち死に・・・駿河は当主交代で揺らいでいました。

そこを攻め込もうとしたのですが・・・駿河は義信の正室の故郷・・・
その為に反対したのです。

しかし・・・信玄には駿河を・・・海を手に入れたくてたまりませんでした。
織田信長と対決するために・・・水軍が必要でした。
そして、その先には・・・天下統一!!
思いがすれ違っていく親子・・・そして、義信は、信玄謀殺に臨みますが、悟られて失敗。甲府市の東光寺に幽閉されることになりました。

それから2年後・・・
息子・義信に死を命じます。
わが道を貫くために!!
天下統一の夢は、確固たる意志へと変わっていくのでした。

本格的に駿河侵攻に挑みます。
間もなく駿河は、信玄の手に落ちることになります。

そこには“我が道を貫く、冷徹なまでの合理性”がありました。

天下統一を夢見ていた信玄・・・
1572年京を目指しているうちに、病気に。。。
長篠城で療養するも、一向に良くならず甲斐に戻ることに・・・
しかし、甲斐の土地は踏むことはありませんでした。

食道がんを患っていたようです。
享年53歳。甲陽軍鑑によると、家督をついだ4男の勝頼や家臣に遺言を・・・

①三年間は自分の死を隠しておくこと。
②信長が攻めてきたときは、難所に陣を構え持久戦に持ち込むように。
③家康が攻めてきたときは、駿河国内で討ち取るように。

“上杉謙信と和議を結ぶこと”
“謙信は男らしい武将であるから、若い勝頼を苦しめるような行いはしないだろう
 まして和議を結んで頼ると言えば、決してそれを破るような者ではない”

それは、自分の口から“和議を結びたい”と言えなかった後悔からだったのでしょうか?
やはり、武勇を決した仲だったからでしょうか?

信玄は、決して城を持つことはありませんでした。
そこには・・・
「人は城 人は石垣 人は堀」
裏切りが当たり前だった時代に・・・信玄にとっては人こそが城そのものでした。

武田信玄は打算的で計算高い・・・しかし、先見の明のある一筋縄ではいかない
武将でした。そこにはぶれない決断力がありました。


甲陽軍鑑には信玄の誓いがあります。
生涯守り抜いた言葉・・・
それは・・・“生涯力を抜かない”ということ。
でした。



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合戦を描いた絵巻、屏風絵には、色とりどりの軍旗、指物、馬印が咲き誇り、殺伐とした戦場に彩りを与えています。

血なまぐさい戦場にあって、武将たちは己を美しく飾り、その武功を目立たせるために、意匠を凝らしました。

はじめは、敵味方を区別し、自軍の勢威を示すものでしたが、やがて平家が白旗に「南無阿弥陀仏」と経文を、源氏が赤旗に「八幡大菩薩」と、信奉する八幡神の神号を記すようになりました。


そしてそこに、新しく意味が加わります。

有名なのが、上杉謙信の「毘」の軍旗。
謙信が、熱心に信仰する毘沙門天の一字をとったものです。
謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」の旗の守護の下、戦場を縦横無尽に疾走しました。
謙信はこのほかに、懸り乱れ龍の旗と言われる「龍」の一字を記した軍旗を作り、総攻撃の際、陣頭に押し立て、士気を鼓舞しました。

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謙信のライバル武田信玄の軍旗は、「孫子」の「風林火山」有名です。
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が、「南無諏訪南宮法性上下大明神」など、戦勝祈願を行った神社の名を記したものもあります。
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信長が、家紋の「織田木瓜」の代えて永楽線銭を旗印にするようになったのは、その頃明から大量に輸入され、広く流布していた天下の貨幣、永楽通宝をモデルにしています。
永楽銭の旗印を使い始めたのは、「天下布武」の印判を用いるようになった1567年の翌年以降です。
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家康の場合は、「厭離穢土欣求浄土」と書かれたものもあります。
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浄土宗に帰依していた家康は、その教えを軍旗としました。

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ちなみに、こちらには、石田三成の「大一大万大吉」と、現世利益を願うめでたい言葉や、真田幸村の六文銭があります。この六文銭は、三途の川を渡るときに必要なお金・・・死ぬ覚悟で戦うことを意味しています。

一つの旗に、それぞれの想いが込められていたことが解りますね。


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