二・二六事件の謎 昭和クーデターの内側 (光人社NF文庫) [ 大谷敬二郎 ]

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(2018/3/23 08:09時点)
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今から80年ほど前の首都・東京で、昭和の日本を震撼させた事件が起きました。
舞台は政治の中心・永田町周辺・・・。
平均年齢27歳。陸軍の青年将校二十数人が企てた2.26事件です。
総勢1483人の部隊が、僅か数時間で帝都の中枢を占拠しました。

1936年2月26日・・・東京は一面の銀世界、夜明け前・・・静寂の中にある東京の街で、えもいわれぬ緊張感が・・・
陸軍第一師団歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊です。

東京六本木にある国立新美術館・・・かつて、ここに決起した青年将校たちの多くが所属した陸軍第一師団の兵舎がありました。
昭和11年2月26日、午前4時半ごろ・・・永田町に向けて決死の覚悟で出発したのは27歳の栗原安秀中尉率いる第一師団歩兵第一連隊273人。
彼等の標的は、時の総理大臣・岡田啓介でした。
5時頃、首相官邸に到着。
総理官邸を包囲し、挺身隊が塀を乗り越えて中から鍵を開け、決起隊を中に入れると・・・彼らは屋敷の窓を壊して侵入・・・護衛警官の大半を軟禁し、一部の警官と銃撃戦をすると、岡田総理を探し回ります。
すると・・・一人の兵士が中庭に逃げていく老人を発見、発砲します。
まだ息があるのを確認した栗原中尉は、兵士にとどめを刺させ、すぐさま部屋に会った写真と見比べ、本人であると判断!!
そして、総理官邸を占拠してしまったのです。
この間、僅か1時間ほどでした。
青年将校たちは、時を同じくして5カ所で襲撃事件を起こしていました。
赤坂に向かったのは、中橋基明中尉率いる第三連隊125人!!
標的は、高橋是清大蔵大臣でした。
2階で寝ていた大臣を襲い、軍刀で切りつけ殺害します。

天皇の側近たちも標的に・・・。
安藤輝三大尉率いる第三連隊200人は、麹町にある鈴木貫太郎侍従長官邸でした。
取り囲まれると、鈴木貫太郎は「話せばわかるから・・・」といったといいます。
しかし、「問答無用!!」と、拳銃でこめかみと腹部を撃たれ倒れました。
安藤大尉は鈴木侍従長を寝床に運ばせ一部始終を正座をして見ていた夫人に・・・
「最後のトドメを刺させていただきます。」by安藤
「どうかトドメだけは待ってください。」by夫人
「では・・・これ以上のことは致しません。」by安藤
このことが幸いし、鈴木侍従長は一命をとりとめます。

内大臣・斎藤実の自宅を襲撃したのは、坂井直中尉率いる第三連隊で215人で、立ちはだかる夫人を押しのけて、40発以上もの銃弾を内大臣に浴びせます。
これに参加していた高橋少尉と安田少尉は、30人の兵を引き連れ、杉並の荻窪に会った教育総監へと向かいます。
教育総監とは、陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官のひとりで、この時の教育総監は渡辺錠太郎でした。
事件の日、渡辺は娘と一緒に寝ていました。
襲撃の一部始終を目撃していた娘・和子は・・・
「私は、兵士たちの声で目を覚ましました。
 父を見ると、枕元においてあった拳銃を構えていました。
 立てかけてあった座卓の後ろに行くように目で促したため隠れると、父は少し安心したような顔をしました。
 それから間もなくして、隣の部屋の襖がほんの少し空いたかと思うと、軽機関銃の重臣だけのぞかせて、父の足をねらって撃ったのです。
 父は銃の名手で3発ほど応戦しましたが、命は奪えませんでした。
 それなのに彼らは、父にとどめを刺して引き上げていきました。」

決起部隊は、要人を暗殺するだけではなく、警視庁も占拠、朝日新聞社を襲撃、陸軍大臣官邸を占拠・・・青年将校らは、僅か数時間で永田町周辺を占拠してしまったのです。

陸軍の青年将校ら1483人が起こした2.26事件・・・。
彼等は次々と政府要人を襲撃していきます。
その武力蜂起の理由とは・・・??
青年将校たちは、永田町の一角の陸軍省へも向かいます。
そして、敷地内にあった陸軍大臣官邸を占拠。
川島義之大臣の面前で、用意してきた決起趣意書を読み上げます。

当時の日本は世界恐慌のあおりを受けていました。
主力の輸出品であった生糸とコメの価格が大暴落。
追い打ちをかけるかのように、東北、北海道を大凶作が襲います。
長引く不況にもかかわらず、政治家は財閥と癒着し、私利私欲をむさぼるばかり・・・。
青年将校たちは、そんな政治に不審を募らせていきました。
更に彼らは、世界的に軍備縮小の機運が高まっていたことに大きな不安を覚えていました。
浜口雄幸内閣は、平和外交へと舵を切り、1936年ロンドン海軍軍縮条約締結・・・アメリカ、イギリスとむすびます。
岡田内閣では、大蔵大臣の高橋是清がこれ以上軍事予算を増やすことはできないと発言していました。

軍備を拡大しないと、大国ソ連の脅威にさらされてしまう!!
青年将校たちは、軍部中央を助けるために決起したと思っていたでしょう。
軍部拡大を拒む政治家たちを排除し、昭和天皇の元、軍部による新しい政治を・・・と考えたのです。
自分達の手で昭和維新を成し遂げるのだ!!と。

青年将校たちは順調に事が運んでいると思っていました。
しかし・・・総理官邸で・・・。
写真で死亡確認した人は、岡田総理ではありませんでした。
彼等が射殺したのは、義理の弟で総理大臣秘書官だった松尾伝蔵でした。
二人はよく似ているといわれていました。

襲撃の時、総理本人は・・・??
襲撃に一早く気付いた松尾伝蔵によって寝室を抜け出し、風呂場に身を隠していました。
その後、中庭に逃げた伝蔵が間違われてしまったのです。
岡田総理は隙を見て女中部屋に隠れ、押し入れに入って洗濯物に紛れて息をひそめていました。
そのことをもう一人の秘書官・迫水久常が知ったのは襲撃から3時間以上たった8時半ごろ・・・
占拠する将校に頼み込んで、総理の亡骸を確認する為に官邸内に入ることを許された迫水は、女中に「ケガはなかったか?」と、声をかけます。
すると女中はしきりに押し入れの方を気にしながら、「お怪我はありませんでした。」
迫水は岡田総理が無事であることを確信しました。
午前11時過ぎ、迫水は決起隊の包囲網をかいくぐり宮内省へ向かうと、岡田総理が生存していることを報告。
そして、宮内大臣に総理大臣救出のための近衛師団の出動を要請します。

「しかし、近衛師団長にこのことを話せば、陸軍の将官たちの耳にも入るかもしれぬ。
 彼らはどっちの味方かわからんから、非常に危険だ。」

そう忠告を受け、迫水は断念・・・救出を考えながら、時間は過ぎていきます。
そんな中、海軍大臣が宮内省にやってきます。
すぐに救出の相談をするものの・・・
「とんでもない、そんなことをして、海軍と陸軍の戦争になったらどうする!!」
きっぱりと断られてしまいました。
その頃総理官邸では、岡田総理のいびきを隠すため、女中が寝たふりをして骨を折っていました。
迫水に救いの手が差し伸べられたのは翌日の事・・・。
軍事警察である憲兵たちが救出を手伝うと申し出てきたのです。
憲兵たちは襲撃直後総理官邸に急行、岡田首相が生存していることを密かに確認していました。
迫水は青年将校たちに交渉します。
岡田首相の家族や慰問客が首相官邸に入ることを認めてほしいと交渉します。
その弔問客に紛れさせて首相を救出しようというのです。
許可を得て、憲兵と弔問客が官邸内に・・・。
すぐさま、総理に礼服に着かえてもらい、目がねとマスクで変装。
岡田総理は嘆き悲しむ弔問客を装いながら、憲兵に抱きかかえながら玄関へ向かい無事脱出しました。

陸軍の青年将校が武力蜂起した2.26事件・・・。
26日に青年将校たちは、早朝から午前中にかけて政府要人を襲撃し、警視庁、陸相鑑定などを占拠。
それから事件収束まで4日を擁することになります。
彼等の決起という未曽有の事態に困惑したのは陸軍上層部でした。
川島陸軍大臣召集の元、この事態をどう治めるのかが話し合われました。
一部には武力討伐を主張する強硬派もいましたが、ひとまず説得による撤退をさせようとします。
この決断には、青年将校たちが占拠していた場所に関係していました。
皇居に砲弾が飛び込むようなことは絶対に避けたかったのです。
在外公館もあり、国際問題にもなりかねませんでした。
穏便に済ませたかったのです。
さらにこの時、上層部には思惑がありました。
青年将校たちの決起を利用して、自分たちの思い通りになる内閣を作ろうと考えていました。
陸軍上層部は、決起部隊に文書を届けます。
「陸軍大臣告示」・・・そこには、
決起の主旨については、天皇陛下のお耳にも届きつつある。
諸君らの行動が国を守り、確固たるものにしようという熱い思いに基づいていることは認める
これを聞いた多くの青年将校たちは、決起の主旨が天皇陛下にまで届いた、自分たちの行動が認められたと湧きたちます。
昭和維新の道が開けたのだ!!と。

2月27日午前3時ごろ・・・厳戒令公布
事態に対応する為に、九段の軍人会館に戒厳司令部が設置されます。
司令官についたのは、香椎浩平陸軍中将でした。
香椎司令官は、青年将校たちに決起部隊に命令います。

「戒厳部隊下に入り、麹町地区の警備にあたれ。」

これは、青年将校たちを反乱軍ではなく、友軍として自らの指揮かに置くというものでした。
友軍によって、決起部隊の勝手な行動を抑えられるのでは・・・??
穏やかにさせたうえで、青年将校たちを説得し、撤退させようとしたのです。
宮中にも穏便な解決に向けて動いている男がいました。
陸軍大将で軍部の人間として常に天皇に仕えていた侍従武官長の本庄繁でした。
当初から青年将校たちの考えに理解を示していた本庄は、天皇陛下に理解してもらおうと尽力します。
27日・・・本庄侍従武官長は天皇陛下に訴えます。

「かれら将校の行為は、陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、統帥権を犯す甚だしきものであり、もとより許されないことです。
 しかしながらその精神は、陛下と国家を思うあまりのものであり、必ずしも咎める事ではないかと思うのですが・・・。」

「朕が最も頼りにする老臣を殺戮したことは、真綿にて朕の首を絞めることと等しき行為である。」

天皇は怒っていました。

しかし、本庄侍従武官長はこの日、13度も天皇の前に出て訴えたといいます。

「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧にあたらん!!」by昭和天皇

昭和天皇は、最後まで青年将校たちに同情することも同調することもありませんでした。

「陸軍大臣告示」は、上層部が考えた詭弁でした。
実際には天皇は強く反発していたのです。
昭和天皇は、側近であった斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長が斬殺、襲撃されたことに強い怒りを感じていました。
若い青年将校たちが政治に口を出すことに強い権を漢を持っていました。
早く鎮圧することを望んでいたのです。

青年将校は、国家のためにやったことなので、昭和天皇に自分たちの思いが伝わると思っていたのです。
天皇の怒りを買ってしまったことは、青年将校たちにとって大きな誤算であり、衝撃でした。
天皇の支持を得られなかったことは、青年将校たちの決起が失敗に終わる大きな要因でした。
が・・・ほかにも要因はありました。

2.26事件の裁判記録は、公開後も閲覧は厳しく制限されてきましたが・・・。
そこには意外な事実がありました。
高橋是清大蔵大臣を襲撃した中橋基明中尉は、裁判で蹶起趣意書について聞かれると・・・
「決起後、総理官邸で見ました!!」
蹶起趣意書もみずに事件を起こしていたのです。
中には蹶起の理由さえわかっていない者もいました。
決起隊のメンバーは、一枚岩ではなかったのです。
中心メンバーでも、決起の時期についても意見が分かれていました。
磯部浅一によると・・・
安藤輝三大尉は時期尚早と思っていたようです。
安藤は青年将校のリーダー格でしたが、決行を決意したのは最も遅かったのです。
それまででも、軍部の青年将校たちが政治家や軍幹部を襲撃する事件が頻発していました。
安藤は軍の上層部と「武力蜂起を起こさない」と、約束をしていたのです。
決起隊1483人のうちの半分以上が安藤の兵でした。
安藤無くして計画の成功はありませんでした。
磯部は、一生懸命蹶起の必要性を安藤に説きます。
青年将校たちの間でかなり激しい論争があり・・・結局強硬派に押し切られて蹶起したのです。
青年将校たちの結束が強くなかった事、意見の相違があったことが蹶起失敗のもう一つの原因でした。
2月28日午前5時、奉勅命令発令!!
「決起部隊は所属原隊に帰れ」
それは、帰らなければ討伐するという最後通告でした。

驚いたのは、青年将校たち決起部隊でした。
自分達は官軍でその行動を認められていると思っていたのに、突然反乱軍となってしまったのです。
彼らの行動を半ば容認していた陸軍も、大元帥である天皇の命令により、手のひらを返したように決起討伐へと向かうのです。
事件発生から3日・・・戒厳司令部は青年将校たちが占拠する永田町界隈に、2万人の鎮圧部隊を出動させ完全包囲!!
周囲の交通、通信機関を遮断するように命令!!
そのうえで撤退するように最後まで説得を試みますが、青年将校の殆どが応じませんでした。
占拠している総理官邸からは、自分たちを鼓舞する万歳や軍歌が・・・。
街頭に出て演説をする者も・・・。
しかし、頑なに見えた決起部隊が、銃撃戦を交えることなく帰っていくこととなります。
28日深夜・・・反乱軍となった決起部隊の一部が戒厳司令部に連れてこらたときのこと・・・。
「おまえらの上官は、間違った考えから恐ろしい反乱を起こして今や逆賊として討伐されようとしているのだ。
 それでもお前らは、その上官の命令に従うのか??」戒厳司令部参謀
「どうしてよいかわかりません。」by兵士
兵士たちは今にも泣きだしそうな顔をしていました。
そんな尋問の様子をじっと聞いていたのは・・・陸軍省新聞班の大久保弘一少佐でした。
「彼等は本当のことを知らないんだ・・・何も知らずに上官に引きずられているだけなんだ・・・」
大久保は、何も知らずに蜂起させられた兵士たちに現状を教え、撤退を促すビラを撒くことに・・・。
すぐさま彼らの気持ちを動かす文面を考え批准勧告の原稿を書き上げて3万枚を刷ります。
翌29日午前8時過ぎ・・・飛行機から永田町に撒かれました。

「下士官兵に告ぐ
 今からでも遅くはないから原隊へ帰れ
 抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する
 お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」

何が起こっているのか、何をしているのかわからなかった者たちにとって、このビラは絶大な効果を・・・。
ラジオも流され、「手向かわないように」と、ビルの上にアドバルーンがあげられました。
午前9時30分・・・決起隊の一部が帰り始めたとの報告が入りました。
次々と部隊は帰っていき、午後3時、戒厳司令部が事件の終結を宣言!!
首都東京を震撼させた大事件が幕を閉じたのでした。

蹶起した青年将校たちの裁判が行われたのは、事件から2か月たった4月28日。
軍法会議によって裁かれることに・・・
非公開、弁護人なし、上告なし(一審制)という厳しいものでした。
政府や陸軍は青年将校たちの論争を封じるために、迅速に片付けようとしたのです。
死刑17人、無期懲役5人、有期禁錮2人
その僅か1週間後・・・1936年7月12日死刑執行
事件後内閣は総辞職し、廣田弘毅が第32代内閣総理大臣となります。
が・・・思わず事件の余波が・・・
軍部に逆らうと、武力蜂起するかもしれないという恐れから、政治家たちは発言を抑えるようになったのです。
陸軍の責任は免罪されてしまいました。
そして、陸軍は組閣の人選にまで横槍を入れる用に・・・
内閣に圧力をかけ、軍部大臣現役武官制・・・陸軍、海軍大臣は、現役の大将・中将に限るという制度まで認めさせてしまいました。
”軍部の意向に沿う内閣でなければ、軍部から大臣を出さない”といわれる可能性があり、この後軍備拡大の時代へと突き進んでいくのです。

この事件の後、日本の軍国主義は急激に加速!!
そして、戦争の泥沼へとはまっていくのです。
歴史の大きな転換期に起こった2.26事件・・・もしこの事件が成功していたら、日本はどうなっていたのでしょうか?
起こらなかったらどうなっていったのでしょうか?
戦争へと突き進んでいった軍部。
2.26事件から5年後には太平洋戦争が開戦。
しかし、徐々に敗戦の色が濃くなっていきます。
そんな中、総理大臣に就任したのが、2.26事件で奇跡的に一命をとりとめた鈴木貫太郎でした。
鈴木は、軍部の強い反対にあい、再び命を襲われる危険にありながらも、戦争を終わらせ、日本に平和を取り戻したのです。

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