日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:馬場信春

疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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群雄割拠の戦国時代・・・中でも最強とうたわれた軍が・・・”甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄の軍団です。
信玄亡き後、この軍団を率いたのは武田勝頼!!

”暗愚の凡将”と呼ばれているものの、7年もの間武田家を支え、信玄時代を超える最大の版図を獲得しています。

これには信長も・・・
「勝頼は若輩と言えど、信玄の掟を守り、表も裏もある。
 油断ならぬ敵である」

彼の人並外れた優秀さを示すのが、新府城です。

その評価は・・・??

英雄信玄亡き後、家督を相続した勝頼・・・
勝頼とはいったい何者なのでしょうか?
長野県にある諏訪大社・・・諏訪明神の総本社です。
信玄の四男として生まれた勝頼・・・勝頼の母は、諏訪明神の大祝を司る諏訪家の娘でした。
勝頼は諏訪家を継ぎ、諏訪勝頼と名乗っていました。
信玄の男子の中で、代々の信の字が使われていたいのは、勝頼のみでそのためです。
1573年4月、武田信玄死去。
武田軍が織田・徳川領内に進攻するさ中のことでした。
諏訪家を継いだ勝頼には、武田家を相続する権利はありません。
しかし、嫡男・義信は謀反のために自刃、次男・信親は体が弱く、三男・信之は夭折していました。
信玄の実質的な後継者は、勝頼の他になかったのです。
亡くなる直前・・・信玄はこう遺言したと言われています。

後継者については、勝頼の子・信勝が16歳になれば家督を譲り、それまでは勝頼が陣代を申し付ける・・・と。
陣代とは、幼い当主に代わり、軍務や政務を統轄する者のことを言います。
勝頼は、武田家を継いだとはいえ、中継ぎに過ぎないというのです。

信玄と勝頼・・・親子の関係を示す兜が残っています。

諏訪法性の兜は、勝頼が着用することとする。
その後、これを信勝に譲るべし!!

諏訪家を継いでいる男子が、武田家の当主になる・・・
名門の武田家としては、物凄い抵抗感が・・・譜代・一門衆の中にありました。
信玄は、それを承知したうえで、その立場から早く自由にしてやるために、信勝に生まれながらの嫡男・・・家督を渡すようにしたのです。
勝頼のために、信玄が考えたことでした。

竹だけを相続したとはいえ、勝頼を取り巻く状況は厳しく・・・
西には織田・徳川、北には上杉・・・と、敵勢力に囲まれていました。
信玄の死から2年後・・・
1575年5月21日、勝頼は、信玄の弔い合戦を挑みます。
長篠の戦いです。
戦国最強の武田軍の猛攻に、3000丁という鉄砲を駆使した織田・徳川連合軍・・・敵の圧倒的火力の前に、武田軍は半日で敗退!!

この戦いで、信玄以来の多くの重臣たちが討死しました。
大敗北を喫した勝頼・・・最悪の状況から巻き返しを図ります。

長篠の戦いで武田軍に快勝した織田・徳川連合軍・・・しかし、それ以上兵を進めることはできませんでした。
織田も徳川も、武田軍を強敵と見なし、深追いを警戒したのです。
その間、勝頼は着々と武田家の立て直しに奔走!!

家臣団の再編成
信玄に仕えた武田二十四将・・・長篠の戦いでは、信玄以来の多くの者が戦死しました。
赤備えで知られる山県昌景、武田四天王のひとり馬場信春、猛将・原昌胤など、描かれた重臣のうち8人が討死し、最強軍団を支えていた屋台骨は揺らいでいました。
勝頼は戦死した家臣たちの後継者選びに奔走します。
甲斐、信濃、上野・・・名のある武将の跡継ぎとして、子や孫、出家した弟を還俗させ、町人となったものも集めて2万の兵を作ります。
その成果は着実に・・・長篠の戦いの3か月後、家康が武田寮に侵入した時、勝頼は一早く1万3000を率いて出兵し、徳川を撤退させています。
これには家康も驚きを隠せません。

勝頼の巻き返し策は、外交交渉にも及びます。
当時の武田は、織田、徳川、上杉と敵対関係にありました。
勝頼は、信長と家康に対抗する為に、長年の宿敵・上杉謙信と和睦します。
どうして勝頼は、剣心と和睦したのでしょうか??
信玄の遺言には・・・
「勝頼は謙信と和議を結ぶように
 謙信は猛き武将なれば、若い勝頼を苦しめることはない
 和議を結び、謙信を頼るとさえいえば、決して約束を破ることはないであろう」
また、勝頼は、信長に追放された足利義昭の仲立ちで、毛利、北条とも手を結びます。
新たな信長包囲網を作ろうとしたのです。

更に勝頼は、本拠地を移転することで巻き返しを図っています。
信玄時代の本拠地・躑躅ヶ崎館から20キロ・・・領国の中心となる韮崎に新府城の築城を決意します。
信長、家康の大軍勢を迎え討つためには、手狭な甲府では足りないと感じたのです。
高さ100メートル以上の崖が連なる大地の上に築城された新府城・・・
東京ドーム5.5個分の巨大な土の城です。
新府城の大手門には、巨大な馬出がありました。
敵の攻撃を食い止めるばかりか、武者溜から出撃して敵に打撃を与える、守りと攻めの機能を持ち合わせた武田流築城術の代表です。

城の北側には突起物が・・・
堀の中に突き出た構造物は、出構と呼ばれています。
「横矢」という敵が迫ってくるのに対し、側面の防射(防衛射撃)をするをする場所です。
鉄砲と組み合わせて、もっとも効果的に仕える守りの工夫です。
従来の武田氏の城では、これほど発達したものはありません。
勝頼が、最後に到達した武田の城づくりの一つの到達点でした。
長篠の戦いで、鉄砲隊という火力兵器に大敗を喫した勝頼・・・
新府城に残された対鉄砲戦を意識した防御し捨て身は、勝頼の先進的な考えを今に伝えています。

勝頼にとって思わぬ事態が・・・
1578年3月13日、上杉謙信死去。
謙信亡き後、上杉家では二人の養子による家督争いが激化・・・御館の乱です。
武田の同盟者北条氏政は景虎を推し、しかし、勝頼はそれに敵対する景勝支持を表明しました。
上杉の家督相続は、景勝の勝利!!
その見返りとして、上杉領国の一部を獲得します。
武田の版図はついに日本海にまで・・・信玄時代を超える武田家最大の版図を得たのです。
しかし、上杉の家督相続により、北条との関係は悪化の一途をたどり・・・遂には破たん!!
北条は家康と同盟を締結・・・結果、勝頼は三方に敵を抱えるようになってしまいます。
1582年2月・・・北信濃の武将・木曽義政が織田方と内通・・・勝頼に反旗を翻しました。
それに呼応するように穴山梅雪も徳川方に寝返ります。
梅雪は、信玄の姉を母に、娘を正室にもつ一門衆筆頭・・・武田二十四将に数えられた重臣でした。
木曽義政の防衛していた北信濃口、穴山梅雪の駿河口に風穴があきました。
織田と徳川は、二方面から攻め入ることができる・・・!!
危機が迫っていました。
勝頼は新府城内で軍議を開きます。
この時、勝頼の嫡男・武田信勝は新府城での籠城を強く主張します。
一方、譜代衆家老の小山田信茂は岩殿城での決戦を進言!!
そして真田正幸は自ら城代を務める岩櫃城で敵を迎え討つことを進言します。
ここに、三つの山城候補が・・・!!

岩殿城・・・圧倒的な岩の壁で、強さを実感できます。
武田領の東にある岩殿城。
岩山に覆われた山城は、北条の抑えの位置にあります。
標高600メートルを超える岩殿城・・・籠城戦を戦い抜く条件を満たしているのでしょうか??

岩櫃城・・・圧倒的な断崖絶壁で、要害堅固な城であったことが分かります。
武田領の北東を守る岩櫃城・・・天然の崖に囲まれた真田正幸の居城です。
山の中腹にある本丸跡・・・独特の防御の工夫がありました。
本丸に入ってくるところに竪堀が屈曲しながら山麓に向かい長く伸びています。
少人数でも敵を攻撃できる工夫がなされています。
敵を中に引き寄せて、徹底的にたたく!!城の作り方の発想が他とは違います。

新府城、岩殿城、岩櫃城・・・特徴的な堅固な山城です。
どの城で織田・徳川軍を迎え討つべき・・・??

1582年2月14日、勝頼の運命をさゆうする大事件がおこりました。
浅間山の噴火です。天変地異は、人心を惑わします。

「神の力は人力の及ぶところに非ず。
 噴火はこれからの世が信長に従う前触れであろう。」

武田討伐の総大将は、信長の後継者・織田信忠です。
信忠率いる織田軍は、怒涛のように侵攻・・・。
武田の城を次々と陥落させていきました。
中でも勝頼を追いつめたのが、高遠城陥落の知らせでした。
高遠城は、諏訪勝頼時代、城主を務めた品の支配の拠点です。
壮絶な籠城戦の果てに高遠城は落城・・・僅か2日の出来事でした。
勝頼のみを案じ、上杉景勝は援軍を申し出ています。
これに対し勝頼は、
「2000でも3000でも、早々に兵を派兵してくれるとありがたい・・・」
武田家存続のために、なりふり構わない勝頼の切羽詰まった状況がわかります。

どの城に向かうべきか・・・??

ついに勝頼は、譜代衆家老・小山田信茂が薦めた岩殿城へ・・・!!
自ら新府城に火を放ち、不退転の決意でした。
城を後にした勝頼一行・・・新府城を出立した時5、600人いた兵士たちは、次々と逃亡。
僅か41人となってしまいました。
更に勝頼を悲劇が襲います。
岩殿城を勧めた小山田信茂が、織田方に寝返ったのです。
行き場を失った勝頼一行・・・遂には、織田軍に囲まれてしまいました。
1582年3月11日、勝頼、自刃!!享年37歳でした。

鎌倉以来続いた名門・・・武田家はここに滅亡・・・。
戦国最強とうたわれた武田軍団の終焉となりました。
勝頼の首と対面した信長は、勝頼を
「日の本に隠れなき弓取り」と、勝頼を称賛しました。
運がつき、こうなっただけのことであると・・・。

しかし、運が尽きたのは、武田だけではありませんでした。
勝頼の死からわずか3か月・・・
6月2日本能寺の変!!
信長と共に武田討伐の総大将・信忠も討死しました。

奇しくも戦国の世は、ここから新しい局面を迎えることとなります。

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