大塩平八郎

新品価格
¥2,940から
(2013/6/9 16:26時点)




天保8年2月19日午前8時。。。
徳川の世が始まって230年、太平の眠りの中の大坂で・・・
突如、号砲が・・・
乱が始まりました。

リーダーは、大坂町奉行所元与力・大塩平八郎。。。
その矛先は、腐敗した幕府官僚・暴利をむさぼる商人たちに天誅を!!

民を救えと決起します。
世にいう「大塩平八郎の乱」です。
この時代江戸後期は、写楽・歌麿が活躍した”パックス・トクガワーナ”と呼ばれる時代。
幕藩体制を支える元役人が起こした乱に、幕府は驚愕しました。

大塩平八郎は、強大な幕府軍の前に会えなく敗北しましたが、一地方役人の決起に大坂庶民は喝采を送ります。
何故勝ち目のない決起を起こしたのか?

その謎は、伊豆に・・・
28年前に発見された幕閣への密書の写し・・・
そこには、幕府エリート官僚を巻き込んだ一大疑獄がありました。

長く続いた太平の世に、元大坂役人が起こした反乱です。
そこから見えてくるのは、江戸時代の終焉と、明治の幕開けでした。

この乱。。。どんな世の中に、何を訴えて行ったのでしょう?
それは、日本の官僚制度のドロドロした部分を暴き出したということでしょうか?
これをきっかけにして、30年の幕末、明治維新の始まります・・・
体制側の人間なので、人々にとっては、単なる庶民のヒーローではありませんでした。

大坂生まれの大坂育ちの大塩平八郎。。。

この天保年間は、地震や飢饉・・・
多くの自然災害が続いた国民が、大変つらかった時代でした。

大坂は、天下の台所と言われ、日本の経済の中心地でした。
幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられます。
祖父のあとを継いで14歳から与力見習いとなりました。

当時の大坂の町奉行西と東に分かれており、与力30人、その部下である同心は50人でした。
上士に媚びる役人の多い中、正義を貫く清廉潔白で庶民に人気がありました。

菓子折り(付け届け)を持ってこられた時も・・・
「こんなことを許しているから町方に付け込まれ、吟味がなかなか進まないのだ!!」
と怒ったと言います。

当時は、賄賂が横行していたのです。

大塩平八郎は、少し堅物でしたが、優秀な与力でした。

大坂に大塩あり!!と言われた事件が・・・

①キリシタン逮捕事件・・・1827年解決
怪しげな宗教団体を、キリシタンとして摘発しました。

②破戒僧処分事件・・・・1830年解決
寺の中で、とばくをしていた僧・他50人を逮捕しました。

③大坂で横行していた殺人・強盗・・・
その組織犯罪のリーダーは、大坂西奉行所筆頭与力”弓削新右衛門”。
役人の立場を利用して犯罪を行っていました。
せしめた金は、3000両(6億円)。
その手下を摘発し・・・本人も自害となります。

その翌年、38歳で、突然辞職しました。
与力の限界を感じていたようです。

キャリアVSノンキャリの戦いです。
大塩平八郎はもちろんノンキャリ。

大坂城代・京都所司代は、重要拠点に置かれた大臣のようなもので・・・
江戸から来る人は、大坂町奉行⇒若年寄(江戸)・城代⇒老中・・・とキャリアアップしていきます。
与力は、大坂で採用され、大坂で職務する・・・。
江戸に行ったり、昇格することはありません。

その差は大きく、大塩は出世できない。。。
有能さゆえの下級役人の辛さ・・・

フラストレーションがたまる一方でした。

「幕府の重職でなければ、十分に思い通りには出来ない。
 与力はゴリゴリだった・・・。」

大塩平八郎は、与力を辞め、塾(洗心洞)を開きます。


乱まであと7年。。。
38歳で役人を辞めた大塩は、何を考えていたのでしょう???

この大塩の辞職のきっかけは、上司の高井実徳が転属したことにもあったようです。
理解してくれる上司の転属・・・それを機に隠居。
現役よりも、本当にやりたかったこと(教育者)に専念したのです。

彼の考え方の基礎となったのは、王陽明の陽明学。
「知行合一」旨とします。
知識と行動は別々ではなく、行動に移してこそ知識の意味があるというものです。

大塩が町奉行を辞職して3年、日本中を天保の大飢饉が襲います。
その惨状は、目を覆わんばかりでした。
大坂だけでも毎日200人の死者が出たそうです。

さらに、大塩決起の1年前には打ちこわしが相次ぎます。
庶民の窮状を見かねた大塩は、奉行所に対策を進言します。

「米不足とは言っても、大坂には全国から米が集まっている
 その多くは、商人が売り惜しみをし、蔵にため込み
 値を吊り上げようとしている。
 商人に蔵を開けさせ、米を分け与えるよう指導してはどうか。」

しかし、キャリア官僚・大坂東奉行所・跡部山城守良弼は・・・
「元与力の分際で何を言う!!
 身分をわきまえろ」
と言いました。。。

さらに・・・
大坂町奉行所は、江戸に米を横流しし、幕府中枢のご機嫌をとり、出世の点数稼ぎにしていました。

憤慨した大塩は、決意します。
蔵書をすべて売り払い、救済金を捻出。
その金額は、620両、現在の1億3000万に当たります。

大塩は、お金の引換券を渡します。
「天満に火事あらば、必ず駆けつけよ」
と、言い添えたそうです。

機は、熟しました。
檄文を村々に配布します。
版木は細かく分割され、それ一枚では何が書かれているのか解りません。
一枚の板にすることによって、文章がわかるというものになっていました。
極秘裏に進められていました・・・。

決起予定日は、天保8年2月19日。。。

この「怒り」の真意は???
徳川幕府は、国民の政府ではない。。。
市民のための政治を!!という怒り。

腹が減って一揆を起こすのではない。
米を投機対象として見ている商人たち・・・
そこに見えてくる不条理・不公正が見えてくるので立ち上がるのです。

天保8年2月19日。
この日は、新しい東西両奉行が挨拶回りをする日でした。
2人を襲撃する絶好のチャンスでした。

午前8時・・・。
耳をつんざく大砲の音とともに、大塩平八郎の乱が起こります。
当初、目指すは東西町奉行所でした。
が、事前に情報が漏れてしまい頓挫。。。

有力商人の家に向かい、火を放ちます。
「救民」という旗のもと、天満の町を大砲とともに練り歩きます。
街に上がった火を見て、農民たちが立ち上がります。
その人数、300人に膨れ上がっていました。

もはや、奉行所の手に負えません。
幕府軍と淡路町で衝突!!

幕府軍は、大塩たちに発砲!!
民衆は、びっくりして散り散りに逃げてしまいます。

午後4時・・・。
大塩の蜂起は、わずか8時間で鎮圧されてしまいました。

大塩と息子の2人は行方知れず。。。
元地方役人の反乱は、終わったかに見えました。

事件は思わぬ方向へ・・・。
大塩は、事件直前に、幕府に密書を送っていました。
一大不祥事の告発でした。

密書は3通。

うち二通は・・・
昌平坂学問所・林述斎、水戸藩藩主・徳川斉昭宛てでした。
ときの幕府に大きな影響力を与える人物です。

老中6人のうち、4名までもが不正に関わっていたことを告発していたものです。
それは、「不正無尽」という詐欺行為でした。

その構造は・・・
胴元が、多くの人からお金を集めます。
くじのかたちを以て配当するというものですが、不当に高いマージンを胴元がとっていたというものです。

<一例>
出資   270人×9両   =2430両
配当   1等  23両
     2等  12両  =1723両3分
     3等  5両
     4等  2両
手数料          =706両1分

それを老中たちが黙認。

それどころか、胴元から上納金をせしめ、私腹を肥やしていたのです。
大塩は、丹念に帳簿を調べ上げていました。

この「不正無尽」は、大坂町奉行所の役人が差配、疑惑は、かつて赴任していた幕府の上層部にまで及びました。

しかし、この「不正無尽」については、根深いものがあり、大名たちはこの不正蓄財で芸者遊びをしていたわけではなく・・・
当時のキャリア官僚の家計も苦しかったのです。
老中に上がるための運動資金がありません。。。
そんな藩財政補填の面もあったのも事実です。


大塩の告発に対する幕府の反応は・・・

「一切 返答なし」でした。。。

この密書は、一旦江戸に届いたのち、大塩の元へ帰されることになります。
しかし、その途中に盗まれてしまいます。
伊豆山中で拾われて、写しがとられ・・・今から28年前に発見されたのです。

この密書で大塩の評価が変わりました。
エリート官僚に大打撃を与える可能性があったということです・・・。
御家人が、老中に意見が出来ません。もみ消し以前の問題でした。

そこには、大きな身分制度の壁がありました。
届くはずのない書状だったのです。

大塩が消えた!!

大捜索が始まります。
その捜索に白羽の矢が立ったのが、剣豪・斉藤弥九郎でした。
斉藤は、大塩を斬るという密命を帯びていました。

しかし、大坂では大塩は大人気!!

「大坂の民は、たとえ大塩の首にかけられた懸賞金が100両から1000両に上がっても、
 大塩を差し出すつもりの者はいない」

当時江戸にいた平戸藩9代藩主松浦静山もこの乱に衝撃を受けました。
乱の一部始終を書き留めていました。

町民たちは、大塩を太閤秀吉になぞらえて、英雄視している。と、書かれています。
大塩は実は死せず、船に乗り清国へ・・・という噂までありました。

乱から40日余り・・・
御用となる・・・?
持っていた火薬で、息子とともに自害しました。

その遺体は、同志とともに、磔の形となりました。

しかし、逃げ回っていたわけではありません。
東大阪にある潜伏先で、江戸から聞こえてくる幕府の人事刷新を待っていたと思われます。

大塩は、その噂を聞くことが出来たなら・・・本望だったのです。


しかし、最近の研究で、大塩は、水戸藩に抜け米を送っていたことが解りました。
江戸の儒学者山田山川の日記によると・・
「水戸侯は、一斎へたのみて
 大塩にたのみ
 六万両の米を買わせたり」
とあるのです。

もしかすると、大塩は、敬愛する徳川斉昭を頼りに、幕府の人事刷新を願っていたのかもしれません。


大塩平八郎の乱から175年・・・
その大塩の本当の想いは、どこにあったのでしょうか?


どうだったにせよ、下剋上の扉が開いた瞬間であったことには違いありません。

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれるともっと頑張れます。黒ハート
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

幕末・明治(日本史) ブログランキングへ

大塩平八郎の乱―精神科医が診た歴史上の事件

中古価格
¥3,000から
(2013/6/9 16:27時点)