日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:高句麗

台地を悠々と流れる大河・・・それは、運河。。。
広大な中国を南北に貫く京杭大運河・・・北京から杭州まで長さは1800キロメートル。
水運の大動脈として、2014年に世界遺産に登録されました。この運河の原型が完成したのは、今から1400年以上も前・・・隋の煬帝が一世一代の事業としたのです。

中国の歴史の中で最悪の皇帝とされる人物が、2人います。
ひとりは万里の頂上を建築した秦の始皇帝。
もうひとりは、隋の煬帝です。
日本では飛鳥時代とされるこの時代・・・厩戸王が”日出づるところの天子”で書き出しの有名な書状を送った相手です。
煬帝の煬とは、天に逆らい、民を虐げるという意味・・・後世の人がつけた諡です。
皇帝の次男として生まれ跡継ぎではなかった煬帝は、野心を隠して父母に取り入り、卑劣な手段で巧妙にライバルを蹴落としていきます。
フェイクニュースで兄を糾弾し、自分に敵対する者は父親でも容赦なく死に追いやりました。
皇帝の座に就くと、狂気の偉業と言われる運河開発に全人口の4割を動員。
さらに対外戦争を繰り返し、民に重い負担を課しました。
民の苦しみをよそに、遊興にふける煬帝・・・。
遂に大規模な反乱が巻き起こります。
その時、煬帝の口から出たのは反省ではなく

「どうも人間が多すぎる
 刃向かう者は、片っ端から捕らえて殺すが良い」

中国全土を混乱に巻き込んだ最悪の皇帝。
しかし、近年の研究でその評価が変わりつつあります。

果たして煬帝は史上最凶の皇帝なのか??
それとも大事業を成し遂げた名君だったのか??

隋の煬帝と唐の太宗 暴君と明君、その虚実を探る

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6世紀の末、群雄割拠の争いが続いた中国大陸で、400年ぶりに統一国家隋が誕生しました。
初代皇帝・文帝のもとでは、律令制や科挙など、中央集権政策が推し進められました。
その文帝は、即位後すぐに長男を跡継ぎに指名しました。
しかし、24年後、2代目皇帝に即位したのは、次男の楊広・・・後の煬帝でした。
どうして楊広は皇帝の座に就くことができたのでしょうか?

中国の歴史書「隋書 資治通鑑」
これらの中に、煬帝の生涯が記されています。
569年、長安で楊広・・・のちの煬帝誕生。
楊広が生まれた頃、4つの国が、北朝と南朝に分かれてしのぎを削っていました。
楊家は、モンゴルの騎馬民族の出身の貴族で、父・楊堅は、質実剛健を尊ぶ軍人でした。
隣国・北斉を滅ぼす戦いで武功をあげ、北周王朝での地位を確かなものにしていました。
母の独孤・・・騎馬民族の家系でした。
男勝りの聡明な女性で、12歳年上の楊堅も一目置いていました。
しかし・・・一つだけ難点がありました。
男女関係には、超潔癖だったのです。
14歳で結婚した時、母は父にこう誓わせました。

”他の女性に子供を産ませない”

それでも、一度だけ父の浮気がバレ・・・母は、怒りのあまり浮気相手を殺してしまいました。
そんな両親のもとに生れた楊広は、北周の皇太子に嫁いだ姉と、兄・楊勇、さらに3人の弟がいました。
楊広は、容姿端麗で幼いころから賢く、学問を好み詩の才能に長けていたことから父母に愛されました。
しかし、彼には裏の顔がありました。
人をだますことなどなんとも思っていませんでした。
楊広が12歳の時、姉の夫である北周の皇帝が崩御。
幼い跡継ぎの後見人となった父・楊堅は、その翌年政権を奪い取り、即位。
こうして隋を開いた父・楊堅は、7年後、中国統一に向けて動き出します。

588年、20歳になっていた楊広は、陳征討の総司令官に任命されます。
隋の勢力はおよそ52万!!
対する陳は10数万・・・!!
圧倒的な戦力差で陳を滅ぼし、およそ400年ぶりに中国の統一が成し遂げられました。
即位後、父・楊堅は、長男・楊勇を皇太子に任命。
楊広ら弟たちには兄を支えるよう命じました。
しかし、楊広は密かに皇帝の座を狙い始めます。
楊勇と比較的近い年齢の楊広は、兄のことを頼りない存在としてみていました。
この兄では隋は大きくなれない・・・!!
兄を追い落としたい楊広・・・目をつけたのは、父に強い発言力を持つ母でした。
ある時、母に涙ながらに訴えます。

「私は平素より兄弟の道を守っておりますのに、兄の楊勇は、自分に好意を示してくれず、それどころか毒殺される危険におびえております」

日頃、兄の自堕落な暮らしぶりを苦々しく思っていた母・・・この言葉が火をつけました。

「もう我慢ならぬ、楊勇は愛人にうつつを抜かしているばかりか、弟に対してそんなたくらみを持っているとは、こんなにも許しがたいことがあろうか!!」by独孤

次いで、楊広は父の側近に近づき、皇太子に謀反の企てありという嘘の情報を流しました。
これを聞いた父は激怒、母の強い口添えもあって、楊勇から皇太子の剥奪を決行。
突然、身に覚えのない罪をかけられた楊勇は、城内の一角に幽閉されることになりました。

こうして、母と父を騙し・・・
600年、32歳の時に皇太子の座につきました。
それから2年後、母・独孤皇后が亡くなります。
すると、父・楊堅は、2人の側室に入れあげるようになります。
その2年後、父・楊堅が重い病に・・・
すると楊広は、父の死後、隋の政治をどうするのか腹心とやり取りをするようになります。
そして、以前から目をつけていた父の側室に言い寄り関係を迫ります。
しかし・・・このことを知った父は激怒。
直ちに腹心を呼びつけます。
楊広を皇太子から下ろし、幽閉されている長男・楊勇を再び皇太子にするつもりでした。
このままでは皇帝の座が逃げて行ってしまう・・・!!

部下に命じて宮殿に侵入し、父を監禁。
その直後、父はこの世を去りました。
父の死後、楊広は父の側室二人と関係。
そして、父・文帝の命令と偽って、幽閉されている兄を殺害。
604年、楊広はついに皇帝の座につきました。
この時、36歳!!

隋の二代皇帝となったとき、煬帝はこう言いました。

「私は先帝の後を継いで世界に君臨し、先帝の意思の遵守に努める」

しかし、実際は父の時代をはるかに超える壮大な政策に野心を燃やしました。
父・文帝の時代、長安が中心でした。
しかし、煬帝は長安から東に400キロメートルの洛陽に新たな都を作り始めます。

「洛陽は古からの都
 南ははるか遠く、東は広大であるから、今こそ”洛陽”に都をおくべきなのである」

その洛陽を拠点に、一世一代の大事業を起こしました。
中国大陸を南北に結ぶ大運河網の建設です。
黄河と淮水、揚子江を結ぶ大運河網です。
隋の統一後、長安と洛陽の人口は増え続けていました。
これらの都へ、物資を農産物の豊富な揚子江域から運ぶ必要がありました。
歴代の中国では、運河を作って南北をつなごうという発想は常にありました。
色々な試みがされていました。
その背景においても、父を超えて、新しい国づくりをやろうという思いがあったのです。

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605年、三代河川を結ぶ長大な水路が早くも完成。
次いで洛陽と涿郡(現在の北京)との間に運河を建設、さらに南部の江都と杭州を結ぶ運河も建設。
こうしてわずか4年で長安から洛陽を経て、北は涿郡、南は杭州まで2500キロメートルが水路で繋がりました。

運河の完成を記念し、煬帝は巨大な船を建造。
龍舟と呼ばれるこの船に乗り、洛陽から江都まで水路をめぐりました。
龍舟は、長さ60m、高さ15mの4階建てで、船体には美しい彫刻がなされていました。
龍舟の後ろには、数千隻の船が付き従う、列の長さは100キロにも及んだといいます。
皇帝の権威を示す巨大な船の行進・・・
煬帝にはもうひとつ目的がありました。
運河が無事きちんとできているか、確認したかったのです。

一方、洛陽の郊外には、巨大庭園を建設。
この西苑は、皇帝のレジャーランド。
世界中の奇獣や珍木を集めた動植物園が設けられ、サーカスや音楽などの催しも行われました。
また、園内には、皇帝専用の離宮が16カ所設けられ、それぞれに美人を侍らせていたといいます。
1年中、美しい景色を保つため、木には絹の葉を一枚一枚結びつけ、色が変わらないようにしました。
これらを建設するための莫大な資金は、父の代からの蓄えから支出。
そして、民にも多くの負担がかけられました。
工事に駆り出された人の数はのべ2000万・・・総人口の4割以上にあたります。
この労働には、女性や老人も動員されました。
こうして、国内の変革を一気に推し進めた煬帝は、国外にも進出します。
歴代の中国皇帝を悩ませた北方民族対策です。
万里の長城を修復し、騎馬民族の東突厥を服従させることに成功します。
また、自ら辺境地に赴き、周辺国と朝貢関係を結びました。
煬帝は、やみくもに国外に目を向けたわけではなく、計算しつくしていました。
南北を貫くと同時に、東アジアに君臨したいという密な野心がありました。

607年、煬帝が39歳の時、東方のある国の施設がやってきました。
相手は倭の国・・・当時の日本・・・厩戸王が派遣した遣隋使です。
煬帝は、使者の小野妹子から書簡を受け取ります。
そこには・・・

”日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す
 つつがなきや”

これを読んだ煬帝は激怒。
隋が日没する国・・・落ち目の国のように聞こえる・・・!!
決定的に無礼なのは、中国の皇帝だけが名乗る天子を倭も名乗っていることでした。
しかし、激怒したにもかかわらず、煬帝は倭と良好な関係を築こうとしました。
使者が帰国する際に、返礼の使者を同行させたのです。
初めて本格的に動き出した倭という国がどんな国なのか??
興味があったのです。
さらにもうひとつ・・・切実な理由がありました。
高句麗の牽制です。
その為に、倭とつながる必要があったのです。
倭を隋側につかせ、高句麗を孤立させようと考えていました。
この頃、隋の周りでは、朝鮮半島の高句麗だけが朝貢に応じていませんでした。
それどころか、国境を閉じ、隋との交流を拒み続けていました。
611年、43歳の煬帝は、高句麗遠征の詔を発します。

煬帝が建設した大運河は、その後何度かの改修を経て今も中国を南北に結んでいます。
出発点は、北京の郊外・白浮泉・・・
新しい都を作り、大運河で国中をつないだ煬帝・・・
それによって、多くのものや人が行き交い、未曽有の反映を極めていく隋・・・。
経済力を飛躍的に高めたのにどうして暴君と呼ばれたのか・・・??

612年、隋は高句麗遠征を開始。
隋の兵力は、陸軍、海軍をあわせて110万!!
さらに、200万もの民衆を動員して遠征の補給部隊を組織しました。
煬帝が高句麗遠征を決断した背景は・・・高句麗が国交を拒否したから・・・というだけではありません。
高句麗と朝鮮半島の覇権を争う百済と新羅のあと押しがあったからです。
新羅の使者が煬帝に高句麗遠征を請願します。
そして、百済の使者も、海路の案内をすると協力を申し出たのです。
圧倒的な戦力の差・・・勝利は間違いないと思われました。
しかし、高句麗軍は籠城し、しぶとく抵抗しました。
隋がさらに進撃すると、高句麗は軍に使者を送ってきました。

「私は高句麗王から遣わされた降参の使者です
 攻撃をやめていただけたなら、王が面会しに参ります」

実は、この男、降伏を装った高句麗のスパイでした。
面会のためと称して、隋の奥深くに入り込んで内情を探ると、隙を見て逃走しました。
そんなこととは知らず、敵が降伏すると思い込んで進む隋軍。
待ち伏せした高句麗軍の奇襲を受けて壊滅しました。
また、ある戦闘では、30万以上の水軍が国境の川を渡り、高句麗に攻め込みました。
しかし、散々に打ち負かされ、帰ってきた兵士は2700名でした。

隋が思わぬ大敗を喫した原因は、実は味方にありました。
隋とつながっていた百済の存在です。
百済は、ある面、二枚舌な動きをしていました。
「高句麗を遠征しましょう」と、問題提起をしてきたのは百済でした。

でありながら、百済は高句麗を支援する方向で、隋側の情報を流したり、高句麗が都合よく動けるような支援をしていたと思われます。
しかし、煬帝は、敗北の原因は、役人の無能だとしました。

「下級役人たちが、勝手に賄賂を取り、政治を仕切っている
 そのことが敗北につながった
 役人を糾弾し、体制の引き締めをはかれ!!」

613年、45歳の時、第2次高句麗遠征。
しかし、予想外の事態が・・・
後方の基地を任されていた隋の大臣・楊玄感が反乱を起こしたのです。
楊玄感は、高句麗遠征のため、苦しみ困窮する民を救うと立ち上がります。
国内の反乱軍と、高句麗軍に挟まれることになった隋軍は、前線から撤退し、大臣の反乱を鎮圧。
こうして、2度目の高句麗遠征も失敗に終わりました。

しかし、あくまで高句麗遠征にこだわる煬帝は、3度目の高句麗遠征を計画します。
臣下は誰一人として賛成しませんでしたが、煬帝は強行します。

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614年、46歳の時に第3次高句麗遠征。
ところが、この戦いでは逃亡する兵が後を絶ちませんでした。

「高句麗戦に行って無駄死にするな」・・・そういう運動が、民衆たちの間で起こっていました。
止む無く煬帝は、高句麗と和睦。
3回に及ぶ遠征は、ことごとく失敗に終わりました。
一方、この頃隋の国内では、圧政に苦しむ民が反乱を起こします。
大きな盗賊団や夜警団が生まれ、やがれそれらが集まって、隋への反乱軍が形成されました。
しかし、煬帝は、自分の行いを反省しないばかりか、

「どうも人間が多すぎるらしい
 多すぎるからこそ、集まって盗賊になるのだ
 刃向かう者は、片っ端から捕らえて殺すがよい」

強盗を働く者は有無を言わさず死刑、家族も財産没収。
車裂きや晒し首などの刑も見せしめに行われました。
しかし、刑罰の厳格化が、ますます反発を呼びます。
隋への反対運動は、ますます激しくなりました。
当時の反乱集団の数は、200以上、記録には、

”天下の人 十分の九を上げて群盗と為る”

と書かれています。

煬帝、この時46歳。

戦争への重い負担にあえぐ民衆・・・国のあちこちで反乱を起こし、もはや収拾がつかない状態になっていました。
そんな折、煬帝は東突厥を訪問しました。
東突厥は、隋に朝貢していた配下の国でした。
しかし、その帰り道で突厥兵に囲まれ、命からがら逃げかえります。
隋の威光は地に落ちたのです。
洛陽に逃げ帰った煬帝は、龍舟に乗り、南方の都市・江都へと避難しました。
江都では、宮中に100を超す部屋を作り、美女を侍らせて順番に回ったといいます。
臣下が訴える政治の窮状には耳を貸さず、女官に囲まれてただ酒を飲み、一日を過ごしていました。

江都へ来てから1年後の617年、これまでとは比較にならない大規模な反乱が起きました。
反乱お起こしたのは、煬帝の臣下である隋軍の司令官でした。
3万の兵を率いて、長安に侵攻したのです。
反乱軍の中心は、後に唐王朝をひらく李淵です。
李淵の軍は、進撃を続ける中で膨れ上がり、遂に20万の大軍で長安を占領。
およそ1000キロ離れた江都で、知らせを耳にした煬帝・・・
鏡を見ながらつぶやきました。

「わしのこの首、誰が斬るのかな」

翌年3月、煬帝の側近である家臣たちがデマを流します。

「陛下はたくさんの毒酒を作り、宴会に見せかけて部下を皆殺しにするつもりだ」

これを聞いた護衛兵たちは、殺されてはたまらないと宮殿に侵入。
煬帝を捕らえようと迫ります。
煬帝は、

「私は何の罪があって殺されるのか?」

「陛下は、外の征伐ばかりに一生懸命で、内は贅沢の限りを尽くしている
 女子供も野垂れ死に、民は職を失い、盗賊が横行、どうして罪がないなどと言えようか!!」 

「万民にはすまないと思っている
 だが、高い官位と報酬を受け取っているお前たちが、なぜこんな仕打ちをする?
 首謀者は誰か?」

「皆が恨んでいて、首謀者は一人ではありません」

斬りかかろうとする兵士に、煬帝は・・・

「天子には、天子の死に方がある
 刀ではいかん、毒酒を持ってきてくれ」

しかし・・・願いは聞き入れられませんでした。
煬帝は、絹の布で首を絞められて死にました。
兄や父を欺き、皇帝即位から14年後のことでした。
煬帝の死後、ほどなくして隋王朝は滅亡。
李淵が起こした唐の時代が始まります。

それからおよそ1400年後の2013年、かつて江都のあった場所から驚くべきものが発掘されました。
”煬帝”と刻まれた石板です。
長らく不明だった煬帝の墓です。
墓誌には、大業十四年・・・618年に亡くなった煬帝が、唐の時代に改めて葬られたと記されています。
豪華な副葬品もありました。
ベルトや、龍がデザインされた鏡・・・皇帝のみが身につけることができるこれらの品から、格式の高さが伺えます。
この墓を建てたのは、唐の二代皇帝・太宗です。
どうして煬帝の墓を改めて作ったのでしょうか??
それは、唐を中心とした新しい東アジアを作り上げ、太宗自身が東アジアの君主になる・・・
「盟主になりたい」という思いは煬帝と同じでした。
国づくりにおいても、煬帝が方向付けをした同じ路線に立ち入っていきます。
太宗自身、煬帝を評価しようと・・・煬帝のやった政治の正当性を認めようとしたのです。
煬帝が作り上げた大運河網は、今も中国各地に人や物を運んでいます。

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シリーズ日本のインパクト~2~です。

6世紀~8世紀に朝鮮半島の百済から仏教が伝わりました。
仏教との出会いは、人々にとって衝撃でした。

それまでの日本の神々は、万物に宿る八百万の神。。。霊的な存在でした。
突然現れた、姿かたちのある黄金に輝く神々は・・・
受け入れるかどうか・・・で、大和朝廷は大分裂!!
蘇我氏VS物部氏との半世紀にわたる戦いとなりました。

”仏教伝来”以前の日本人の宗教心は・・・???
自然の山・森・・・だったのが、その信仰対象が自然から人形のものに。。。
今まで見えなかった神が、見える神となったのです。
では・・・何を持って仏教伝来???
以前から入っていた可能性はありますが、仏教公伝・・・百済から日本に・・・政府間でもらってしまったことから始まりました。

長野県・善光寺には、日本初の仏像が安置されています。
その仏像は、絶対秘仏とされ、誰も見ることができません。
しかし、その雰囲気は、江戸時代に作られた「善光寺縁起絵伝」に描かれています。
朝鮮半島・百済の聖明王から伝えられた仏教・・・
ところが、縁起に描かれている仏像は、川に投げ捨てられたり、焼かれたり・・・木づちで壊されているものもありました。
日本書紀によると・・・仏教を巡る一大抗争が浮かび上がってきます。
仏教を礼拝するかどうか???
当時天皇は、司祭のような存在でした。
そんな天皇が、異国の神を崇拝しても良いものか???

代々王家に従属する豪族・物部尾輿は、
「外国の神を礼拝すれば、日本古来の神の怒りを招くでしょう。」と猛反対。
自制部門を司る豪族・蘇我稲目は、
「ほかの国はみな、礼拝しています。
 日本だけが背けますでしょうか?」と、賛成しました。

廃仏派物部氏VS崇仏派蘇我氏・・・
両者は真向から対立し、血で血を洗う崇仏論争が始まりました。
半世紀にわたるその戦いの結果、物部守屋は討ち死にし、崇仏派・蘇我馬子が勝利しました。
というのが、定説でした。
しかし、この抗争の原因は仏教ではない???
崇仏論争は架空のお話???
というのも、物部氏は親百済派でした。
だから、仏教に対して冷淡ではなかったというのです。
その根拠は・・・
①仏教国・百済との緊密な関係。
 日本書紀には、物部氏の百済王に仕える日系人の記録が残っています。
 物部氏の子孫が、日系百済官人として活躍していたのです。
②実は仏教寺院を建てていた???
 大阪府八尾市渋川天神から礎石が発見され・・・巨大な仏教寺院があったようです。
 河内の地は物部氏の本拠地・・・仏教と関わりが深かったと考えられます。
 むしろ崇仏派のようです。

では、その争いは???
”渡来人の掌握”でした。
当時、たくさんの渡来人がありました。
その遺跡は、奈良・大阪で30カ所以上。。。
中でも有力だったのが、飛鳥・蘇我氏の東漢(やまとのあや)と、渋川・物部氏の西漢(かわちのあや)です。
渡来人縁の東漢の遺跡では・・・
古代の床暖房・オンドルを使いこなし、金はしを使って鉄器生産を行っていました。
それは、当時の最先端技術。。。
その中には、仏師もいました。

西漢は・・・新羅の国の接待など外交官の役目をしていました。
優秀な技術と知識を持つ渡来人たち・・・自らの勢力拡大をするために・・・
必要だったのが、仏教。。。
仏教を保護し、帰依する・・・それが、渡来人との結節点となったのです。

日本最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺には、飛鳥大仏があり・・・日本で一番古い大仏です。
飛鳥寺の発案者は、蘇我馬子。。。一大国家プロジェクトでした。
金の装飾品や勾玉などがあり・・・日本の伝統的な古墳文化と外来の仏教文化の融合だと思われていましたが、韓国の王興寺でも同じような金の装飾品・勾玉が発見されています。
つまり・・・百済の強い影響を受けていたのです。
建物の並び方・・・一塔三金堂の造り、瓦も王興寺の影響と言われています。
そして、この王興寺を建てた人物こそ聖明王の長男・昌王・・・百済王だったのです。
飛鳥寺は日本独自のものではなく、百済の技術者派遣によって造られたものだったのです。

6世紀の古代ニッポンに忽然と出現した飛鳥寺。。。
その姿は・・・???
金堂に安置されていたのが飛鳥大仏。
この大仏が日本の技術発展に多大な影響を及ぼしました。
金銅仏は鋳造技法。・・・技術が発達していきます。
建築技術も発達し、高層の木造建築が可能となりました。
赤や緑の鮮やかな色彩・・・。自然の色とは違う趣に圧倒されます。
ここから日本の技術発展が始まる・・・まさに文明開化だったのです。

どうして百済は飛鳥寺建立に力を注いだのでしょうか?
当時百済は、高句麗・新羅と領土問題で対立していて・・・日本に仏教や技術を伝える代わりに、強固な同盟関係を望んでいたのです。
では、日本はそれにどう応えたのでしょうか???
書物には、
「蘇我馬子と2人の息子、及び従者百人あまりはみな髪を分け、百済の服を着た」
とあります。百済との外交を宣言したのです。
この後、ニッポンは東アジア社会へと船出していくことになります。

しかし、初めは外交のツールとして使われていた仏教・・・担い手は、貴族階級でした。
そんな中、仏教が民衆に浸透するきっかけとなったのが、”東大寺大仏の建立”でした。
仏教伝来から200年後のことです。
発案したのは、時の天皇である聖武天皇です。
それは・・・平城京に都を移した苦難の時代でした。
政治は乱れ、飢饉や疫病が蔓延していました。
民に幸福をもたらすために、仏教を使います。
巨大仏像を!!

計画されたのは、高さ15mにも及ぶ世界最大級の大仏です。
聖武天皇は、この巨大な大仏を建てるために・・・建設地を求めて流転します。
そんな天皇を支えたのは行基でした。
行基は、父は百済王の王子・王爾(わに)の子孫、母は百済から渡来した蜂田家の家系でした。
そう、行基は渡来人の末裔で。。。自らが持つ渡来系ネットワークを駆使していました。
多くの民衆の智識を駆使して、貯水池・橋・・・色々なものを作りながら、仏教の教えを広めていきます。
行基の下で働くことは、徳を積むことになる・・・
そこで、聖武天皇は協力を仰いだのです。
幅広い層の人々が大仏づくりに参加して・・・それが仏教の大きな転換点となり。。。
信仰心は一貴意に孝あまり、仏国土・日本が確立されていきました。
752年大仏開眼法要が行われました。
そして、ここから新しい日本が始まるのです。


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