武田信玄です。
言わずと知れた戦国時代最強の猛将です。
信玄を描いた肖像画・・・
柔和な表情を浮かべたその姿は、従来の姿とは全く異なっています。
今、信玄の実像は大きく変わり始めています。
そんな信玄が、生涯最大の敵と向き合ったのが、1572年10月・・・2万5000の大軍勢を率いて西へと進行した西上作戦です。
尊厳を前に、後の天下人・徳川家康は大惨敗!!
怒涛の快進撃で、西を目指す信玄!!
信玄の目的とは何か??
武田信玄の名が天下にとどろいたのが、上杉謙信との死闘・川中島の戦いです。
5度にわたる国境をめぐる謙信との戦いは、およそ12年に及びました。
しかし、信玄最大の敵は謙信ではなく、後の天下人・徳川家康と織田信長でした。
ことの発端は、桶狭間の戦いで今川家の当主・義元が撃たれてから8年後・・・
1568年12月、武田・徳川が密約を結び今川に侵攻・・・
それぞれ今川領を割譲しました。
ところが、これが対立の火種となります。
信玄が家康との密約を破り、国境の大井川を越え、家康の遠江へと侵攻したのです。
どうして、信玄は密約を破ったのでしょうか?
国境の大井川を基準にというあいまいな共通の理解はあったようです。
しかし、状況次第によって・・・と考えていたようです。
もうひとつ、両者の関係は、信長を通じてなされています。
つまり、両者の本当の意図が伝わっていたかどうかはわからないのです。
この頃信玄は、信長と同盟関係にあり、一方信長は、信玄だけでなく家康とも同盟を結び、両者の仲介を果たしました。
ところが、信玄が徳川領へ攻め込むことで、家康と敵対・・・さらに、今川家の当主を庇護した北条、積年のライバル・上杉謙信と、信玄は周りを敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥りました。
その起死回生の秘策として、信玄は、とんでもない手に打って出ます。
信玄は、10年以上抗争を繰り広げた宿敵・上杉謙信と和睦を試みます。
川中島の戦いから5年後のことです。
しかし、同じ頃、家康も謙信との同盟締結を進めていました。
家康は、武田家と織田家の婚礼を妨害するなど、信玄と信長の同盟をも破たんさせようと画策していました。
これを知った信玄も黙っておらず、家康は口先ばかりの嘘つきだと非難!!
信長に、家康との同盟関係を解消するように迫りました。
さらに、信玄はそれまで敵対関係にあった北条とも同盟を締結、信玄にとって当面の敵は家康のみとなりました。
こうして、信玄の西上作戦の下準備は着々と整えられていきます。
信玄が、傘下の武将に宛てた手紙には・・・
”3年にわたるうっぷんを晴らさなければならない”
3年にわたる家康との抗争・・・しかし、実は信玄の恨みは一人家康のみに向けられたものではありませんでした。
信玄は、家康だけではなく、織田信長との対戦にも向かっていきます。
信玄の恨みは、家康ばかりでなく、その背後で糸を引く信長にも向けられていきます。
一方信長は、この頃窮地に立たされていました。
浅井・朝倉、本願寺や一向一揆の勢力、そして松永久秀など、周囲を反信長勢力に囲まれていたのです。
信玄にとって、遂に3年のうっぷんを晴らす機会が訪れます。
1572年10月信玄挙兵!!
家康・信長打倒の兵を挙げました。
総勢2万5000の大遠征軍!!
信玄のその後の命運を左右する西上作戦が始まろうとしていました。
1572年10月3日、信玄は2万5000の大軍勢を率いて、甲府を出陣!!
これまで信玄率いる武田軍の進行ルートは、甲府から北上し、険しい峠道を越え、徳川領の遠江を目指したと言われてきました。
しかし、それまでとは全く違うルートが浮上してきました。
新説のルートでは、信玄はそのまま南下し、東海道を西へと進軍します。
つまり、信玄は険しい山道での行軍を選ばず、徳川領まで最も近い平坦ルートを選択したことになります。
さらに、新説を裏付ける信玄の言葉が残されています。
「高天神城を下し、明日陣を進め、天竜川を越え、家康の居城・浜松へ向けて出馬する」
その日付は10月21日・・・
書状にある高天神城は、信玄と家康の国境近くに築かれた徳川方の城です。
甲府を10月3日に出陣した信玄は、その18日後、徳川領の高天神城あたりに出現したことになります。
従来のルートでは、ありえない道行でした。
徳川の”当代記”の中で、この時の武田軍のルートが遠江に向かうにあたって、高天神城を通って・・・とあります。
つまり、甲府から高天神城を通っていたと考えられます。
100キロ以上の道行きをどのように行軍したのか??
山梨県には信玄の棒道と呼ばれる道が残されています。
馬が3頭ぐらい並んで走っても問題がない広さです。
当時としては大きな道路でした。
武田の軍勢は、甲府から今の静岡県清水や、静岡市周辺まで2日、3日かかってしまいます。
信玄はこれだけの道幅の道路を領国全域にこまめに整備していました。
それが、他の大名に比べて行軍の迅速さの差につながったのです。
これまで信玄本隊が行軍したルートとされたのは、別動隊の道行でした。
信玄は、敵の目を欺くために、様々な策を弄して進軍していたのです。
信玄のこうした陽動作戦に翻弄され、謙信や、家康、信長は、信玄本隊がどこに向かっているのか把握することができなかったとみられています。
かくして信玄は、突如姿を現し、高天神を降伏させ、遠江国衆を下して西へ向かいました。
すでに家康の居城・浜松城は目と鼻の先・・・しかし、信玄は、急に北へ進路変更し、二俣城を目指しました。
信玄はどうして浜松城ではなく、二俣城を目指したのか??
そこには、信玄ならではの戦略がありました。
浜松城に近い二俣城を押さえることは、常に家康の本拠地・浜松に匕首を突き付けるような状況になります。
要害堅固な二俣城・・・しかし、思わぬ弱点がありました。
城内には井戸がなく、直接川から水をくみ上げる井戸櫓を築き、水の出を確保していたのです。
そこに目をつけた武田軍は、大量のいかだを川に流し、井戸櫓を破壊!!
水の手を断たれた城は、わずか半月余りで開城しました。
その後、信玄は二俣城付近に対陣、用意周到な信玄は、次なる目標・浜松城への振興のため、城の改宗や軍事道路の普請を進めました。
この頃になってようやく信長は、信玄の狙いが同盟者・家康の領国にあったことに気付き、烈火のごとく怒ります。
信長が謙信に宛てた手紙には・・・
”信玄の所行、寔に前代未聞の無道なり
未来永劫にわたり、信玄と二度と交わることなどない”
そして・・・万全の体制を整えた信玄は、家康の本拠地・浜松城を目指します。
信玄対家康・・・遂に両者の戦い・・・三方ヶ原の戦いとなります。
静岡県浜松市・・・信玄と家康の決戦は、東西10キロ、南北15キロに及ぶ三方原台地の上で行われました。
広大な大地の上のどこで・・・??具体的なことは明らかになっていません。
しかし、地元では、信玄率いる大軍勢が大地を登り進軍した道が信玄街道という名で伝わっています。
1572年12月、浜松城を素通りした信玄軍2万5000・・・そのあとを家康軍が追撃!!
三方ヶ原の戦いの火蓋が切られました。
ところが、信玄は追撃してくる家康軍を待ち受けていたのです。
夕刻に始まった戦いは、既に夜半には勝敗が決していたといいます。
信玄の戦術に翻弄され、家康は大敗を喫するのです。
信玄は、わずか半日で家康軍を撃破したのです。
信玄は、信長と家康が合流して武田と決戦という状況を防ぎたかったのです。
各個撃破!!これが、次の信長との戦い・・・おそらく戦場は美濃!!
ここで、家康に大きなダメージと武田に対する恐怖心を与えておく・・・これが、信玄の目的でした。
浜松城に逃げ帰った家康を横目に、信玄は西へと軍を進めます。
ところが、浜松城からおよそ10キロ先の刑部で行軍を休止したのです。
信玄に一体なにが・・・??
12月28日の信玄の書状には・・・
「今こそ信長滅亡の時期が到来したというのに、兵を払って帰国したとはなんとも驚くべき話である」
信玄が、兵を払って帰国したと非難した相手こそ、越前の朝倉義景でした。
信玄の信長に対する作戦は、浅井、朝倉、本願寺など畿内周辺の反信長勢力と連携し、信長を宝することにあります。
しかし、朝倉勢が兵を引き上げたことで、信長包囲網の一角が崩れたのです。
ところが、信玄には更なる秘策がありました。
信玄が足利義昭に宛てた書状には・・・
”早く、信長、家康以下の凶徒を誅戮すべき旨、お下知を賜わりたい”
三方ヶ原の戦いで家康を破る信玄の行いは、信長と義昭政権に対する謀反となります。
それを信玄は、将軍を味方に引き入れることで、自分の行いを正当化させようとしたのです。
信玄の秘策とは、将軍・足利義昭を味方につけ、反信長勢力をまとめることでした。
この後、いかに信長と決戦を行うべきか・・・慎重に戦略を建てる信玄!!
徳川領にとどまり家康を討つ??それとも、西へ向かい信長を討つ・・・??
家康と信長を討つべく信玄が企てた西上作戦・・・信玄は、刑部に対陣した後、三河への侵攻を開始。
信玄は信長との決戦を視野に入れ、西へ向かうことを決断したのです。
申した信玄の行動に対し、謙信は不吉な予言を語っています。
”信玄が信長・家康に手を出したのは、まさにハチの巣に手を差し入れたようなもの
今後、無用なことを招くであろう”
しかし、謙信の予言に対し、信玄が西へ行軍を続けることで、戦局は大きく変わり始めました。
東美濃・近江の国衆、伊勢長嶋・三河の一向一揆も次々と信長と敵対!!
そして、遂に将軍・足利義昭も挙兵しました。
信長に反する全ての者たちが信玄の西上を心待ちにしていたのです。
その矢先・・・
1573年4月12日、信玄は病の為死去・・・享年53・・・あまりに突然の死でした。
病床にあった信玄は、重臣を呼び寄せうわごとを繰り返したといいます。
「明日には我が武田の旗を瀬田に立てよ」と
琵琶湖の南に位置する瀬田は、古来東国から京へ向かう玄関口です。
信玄が最後に夢見たのは、信長軍を倒した後、武田の軍勢が瀬田を渡り、花々しく上洛を果たした姿だったのかもしれない・・・。
信玄の死によって、反信長勢力は瓦解しました。
信玄の死から3か月後、将軍・足利義昭は信長軍の猛攻を前に破れ、室町幕府は滅亡・・・。
反信長勢力の筆頭だった浅井・朝倉も戦いに敗れ去ります。
武田信玄の突然の死は、反設永陣営の武将たちの命運をことごとく左右し、そして、信玄最後の敵となった信長と家康が天下の覇権を握り、新しい時代を切り開いていくのです。
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