日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:高天神城

戦国時代、甲斐の虎と畏れられた英雄がいました。
武田信玄です。
言わずと知れた戦国時代最強の猛将です。

信玄を描いた肖像画・・・

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柔和な表情を浮かべたその姿は、従来の姿とは全く異なっています。
今、信玄の実像は大きく変わり始めています。
そんな信玄が、生涯最大の敵と向き合ったのが、1572年10月・・・2万5000の大軍勢を率いて西へと進行した西上作戦です。
尊厳を前に、後の天下人・徳川家康は大惨敗!!
怒涛の快進撃で、西を目指す信玄!!
信玄の目的とは何か??



武田信玄の名が天下にとどろいたのが、上杉謙信との死闘・川中島の戦いです。
5度にわたる国境をめぐる謙信との戦いは、およそ12年に及びました。
しかし、信玄最大の敵は謙信ではなく、後の天下人・徳川家康と織田信長でした。
ことの発端は、桶狭間の戦いで今川家の当主・義元が撃たれてから8年後・・・
1568年12月、武田・徳川が密約を結び今川に侵攻・・・
それぞれ今川領を割譲しました。
ところが、これが対立の火種となります。
信玄が家康との密約を破り、国境の大井川を越え、家康の遠江へと侵攻したのです。
どうして、信玄は密約を破ったのでしょうか?
国境の大井川を基準にというあいまいな共通の理解はあったようです。
しかし、状況次第によって・・・と考えていたようです。
もうひとつ、両者の関係は、信長を通じてなされています。
つまり、両者の本当の意図が伝わっていたかどうかはわからないのです。

この頃信玄は、信長と同盟関係にあり、一方信長は、信玄だけでなく家康とも同盟を結び、両者の仲介を果たしました。
ところが、信玄が徳川領へ攻め込むことで、家康と敵対・・・さらに、今川家の当主を庇護した北条、積年のライバル・上杉謙信と、信玄は周りを敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥りました。
その起死回生の秘策として、信玄は、とんでもない手に打って出ます。
信玄は、10年以上抗争を繰り広げた宿敵・上杉謙信と和睦を試みます。
川中島の戦いから5年後のことです。
しかし、同じ頃、家康も謙信との同盟締結を進めていました。
家康は、武田家と織田家の婚礼を妨害するなど、信玄と信長の同盟をも破たんさせようと画策していました。

これを知った信玄も黙っておらず、家康は口先ばかりの嘘つきだと非難!!
信長に、家康との同盟関係を解消するように迫りました。
さらに、信玄はそれまで敵対関係にあった北条とも同盟を締結、信玄にとって当面の敵は家康のみとなりました。
こうして、信玄の西上作戦の下準備は着々と整えられていきます。
信玄が、傘下の武将に宛てた手紙には・・・

”3年にわたるうっぷんを晴らさなければならない”

3年にわたる家康との抗争・・・しかし、実は信玄の恨みは一人家康のみに向けられたものではありませんでした。
信玄は、家康だけではなく、織田信長との対戦にも向かっていきます。
信玄の恨みは、家康ばかりでなく、その背後で糸を引く信長にも向けられていきます。



一方信長は、この頃窮地に立たされていました。
浅井・朝倉、本願寺や一向一揆の勢力、そして松永久秀など、周囲を反信長勢力に囲まれていたのです。
信玄にとって、遂に3年のうっぷんを晴らす機会が訪れます。

1572年10月信玄挙兵!!
家康・信長打倒の兵を挙げました。
総勢2万5000の大遠征軍!!
信玄のその後の命運を左右する西上作戦が始まろうとしていました。

1572年10月3日、信玄は2万5000の大軍勢を率いて、甲府を出陣!!
これまで信玄率いる武田軍の進行ルートは、甲府から北上し、険しい峠道を越え、徳川領の遠江を目指したと言われてきました。
しかし、それまでとは全く違うルートが浮上してきました。
新説のルートでは、信玄はそのまま南下し、東海道を西へと進軍します。
つまり、信玄は険しい山道での行軍を選ばず、徳川領まで最も近い平坦ルートを選択したことになります。
さらに、新説を裏付ける信玄の言葉が残されています。

「高天神城を下し、明日陣を進め、天竜川を越え、家康の居城・浜松へ向けて出馬する」

その日付は10月21日・・・
書状にある高天神城は、信玄と家康の国境近くに築かれた徳川方の城です。
甲府を10月3日に出陣した信玄は、その18日後、徳川領の高天神城あたりに出現したことになります。
従来のルートでは、ありえない道行でした。
徳川の”当代記”の中で、この時の武田軍のルートが遠江に向かうにあたって、高天神城を通って・・・とあります。
つまり、甲府から高天神城を通っていたと考えられます。

100キロ以上の道行きをどのように行軍したのか??
山梨県には信玄の棒道と呼ばれる道が残されています。
馬が3頭ぐらい並んで走っても問題がない広さです。
当時としては大きな道路でした。
武田の軍勢は、甲府から今の静岡県清水や、静岡市周辺まで2日、3日かかってしまいます。
信玄はこれだけの道幅の道路を領国全域にこまめに整備していました。
それが、他の大名に比べて行軍の迅速さの差につながったのです。

これまで信玄本隊が行軍したルートとされたのは、別動隊の道行でした。
信玄は、敵の目を欺くために、様々な策を弄して進軍していたのです。
信玄のこうした陽動作戦に翻弄され、謙信や、家康、信長は、信玄本隊がどこに向かっているのか把握することができなかったとみられています。
かくして信玄は、突如姿を現し、高天神を降伏させ、遠江国衆を下して西へ向かいました。
すでに家康の居城・浜松城は目と鼻の先・・・しかし、信玄は、急に北へ進路変更し、二俣城を目指しました。
信玄はどうして浜松城ではなく、二俣城を目指したのか??
そこには、信玄ならではの戦略がありました。

浜松城に近い二俣城を押さえることは、常に家康の本拠地・浜松に匕首を突き付けるような状況になります。
要害堅固な二俣城・・・しかし、思わぬ弱点がありました。
城内には井戸がなく、直接川から水をくみ上げる井戸櫓を築き、水の出を確保していたのです。
そこに目をつけた武田軍は、大量のいかだを川に流し、井戸櫓を破壊!!
水の手を断たれた城は、わずか半月余りで開城しました。
その後、信玄は二俣城付近に対陣、用意周到な信玄は、次なる目標・浜松城への振興のため、城の改宗や軍事道路の普請を進めました。



この頃になってようやく信長は、信玄の狙いが同盟者・家康の領国にあったことに気付き、烈火のごとく怒ります。
信長が謙信に宛てた手紙には・・・

”信玄の所行、寔に前代未聞の無道なり
 未来永劫にわたり、信玄と二度と交わることなどない”

そして・・・万全の体制を整えた信玄は、家康の本拠地・浜松城を目指します。
信玄対家康・・・遂に両者の戦い・・・三方ヶ原の戦いとなります。

静岡県浜松市・・・信玄と家康の決戦は、東西10キロ、南北15キロに及ぶ三方原台地の上で行われました。
広大な大地の上のどこで・・・??具体的なことは明らかになっていません。
しかし、地元では、信玄率いる大軍勢が大地を登り進軍した道が信玄街道という名で伝わっています。

1572年12月、浜松城を素通りした信玄軍2万5000・・・そのあとを家康軍が追撃!!
三方ヶ原の戦いの火蓋が切られました。
ところが、信玄は追撃してくる家康軍を待ち受けていたのです。
夕刻に始まった戦いは、既に夜半には勝敗が決していたといいます。
信玄の戦術に翻弄され、家康は大敗を喫するのです。
信玄は、わずか半日で家康軍を撃破したのです。
信玄は、信長と家康が合流して武田と決戦という状況を防ぎたかったのです。
各個撃破!!これが、次の信長との戦い・・・おそらく戦場は美濃!!
ここで、家康に大きなダメージと武田に対する恐怖心を与えておく・・・これが、信玄の目的でした。
浜松城に逃げ帰った家康を横目に、信玄は西へと軍を進めます。
ところが、浜松城からおよそ10キロ先の刑部で行軍を休止したのです。

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信玄に一体なにが・・・??
12月28日の信玄の書状には・・・
「今こそ信長滅亡の時期が到来したというのに、兵を払って帰国したとはなんとも驚くべき話である」
信玄が、兵を払って帰国したと非難した相手こそ、越前の朝倉義景でした。
信玄の信長に対する作戦は、浅井、朝倉、本願寺など畿内周辺の反信長勢力と連携し、信長を宝することにあります。
しかし、朝倉勢が兵を引き上げたことで、信長包囲網の一角が崩れたのです。
ところが、信玄には更なる秘策がありました。
信玄が足利義昭に宛てた書状には・・・

”早く、信長、家康以下の凶徒を誅戮すべき旨、お下知を賜わりたい”

三方ヶ原の戦いで家康を破る信玄の行いは、信長と義昭政権に対する謀反となります。
それを信玄は、将軍を味方に引き入れることで、自分の行いを正当化させようとしたのです。
信玄の秘策とは、将軍・足利義昭を味方につけ、反信長勢力をまとめることでした。
この後、いかに信長と決戦を行うべきか・・・慎重に戦略を建てる信玄!!

徳川領にとどまり家康を討つ??それとも、西へ向かい信長を討つ・・・??

家康と信長を討つべく信玄が企てた西上作戦・・・信玄は、刑部に対陣した後、三河への侵攻を開始。
信玄は信長との決戦を視野に入れ、西へ向かうことを決断したのです。
申した信玄の行動に対し、謙信は不吉な予言を語っています。

”信玄が信長・家康に手を出したのは、まさにハチの巣に手を差し入れたようなもの
 今後、無用なことを招くであろう”

しかし、謙信の予言に対し、信玄が西へ行軍を続けることで、戦局は大きく変わり始めました。
東美濃・近江の国衆、伊勢長嶋・三河の一向一揆も次々と信長と敵対!!
そして、遂に将軍・足利義昭も挙兵しました。
信長に反する全ての者たちが信玄の西上を心待ちにしていたのです。

その矢先・・・
1573年4月12日、信玄は病の為死去・・・享年53・・・あまりに突然の死でした。
病床にあった信玄は、重臣を呼び寄せうわごとを繰り返したといいます。

「明日には我が武田の旗を瀬田に立てよ」と

琵琶湖の南に位置する瀬田は、古来東国から京へ向かう玄関口です。
信玄が最後に夢見たのは、信長軍を倒した後、武田の軍勢が瀬田を渡り、花々しく上洛を果たした姿だったのかもしれない・・・。
信玄の死によって、反信長勢力は瓦解しました。
信玄の死から3か月後、将軍・足利義昭は信長軍の猛攻を前に破れ、室町幕府は滅亡・・・。
反信長勢力の筆頭だった浅井・朝倉も戦いに敗れ去ります。

武田信玄の突然の死は、反設永陣営の武将たちの命運をことごとく左右し、そして、信玄最後の敵となった信長と家康が天下の覇権を握り、新しい時代を切り開いていくのです。

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前回で織田に逆らえずに、正室の瀬名と嫡男・信康を失ってしまった家康です。
これ以後、家康は子供の教育に対して熱心になっていきます。
もしかして、家光の乳母にとっても賢くって公家との関係も深い春日局を選んだのもそうなのかもしれませんね

が・・・もう立ち直ってしまいました。
”絶望から救ったのは、万千代の言葉でした”・・・って、「そうか??」とも思うんですが・・・
主人公もどきの万千代のおかげで「この先の徳川のために!!」で、立ち直りました

岡崎衆は・・・去る者、信康の後を追うもの・・・なので、殿が自ら仕置きのためにやってきました。

瀬名と信康を褒めて、褒めて、褒めちぎり・・・
二人のためにも駿河を取りたい!!と、大演説を繰り広げます。
皆の力を貸してほしいと!!頭を下げます。

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「やりましょう!!」
「駿河取るぞ~~~!!」
みんな、やけに素直なんだな・・・。
それは、腹を割って話すように勧めた万千代のおかげになりました。

私は・・・史実は信康&瀬名が武田と手を組んでいたと思っているので、命を懸けたやり取りにすんなり応じるんだな・・・と、違和感ありますが、この大河では、武田あれこれは濡れ衣なので、これでOKなんでしょう。
基本、戦国時代はいろいろと策を練らないと生きていけない世界だと思っています。
つまり、どちらに転んでもいいように、二手、三手を考えていると思うんですよね。
この家康の立ち位置・・・織田と武田と北条に囲まれている状況では、どこと手を組んでもいいようにあの手この手を考えていたんじゃないかな?って思うんです。
ま、悲劇は武田と内通していたかもしれない信康の正室・徳姫が信長の娘だったってことかな・・・??

戦に出ることとなった六左と直之・・・もちろん今回も材木を擁するお役目・・・なので、高天神へ!!

織田が天下布武をするという・・・
しかし、卑劣極まりない男に天下を治めることができるのか??
人が慕って従うのか??
疑問を持つおとわです。

高天神城は遠江支配の要でした。
以前から小競り合いをしていた武田VS織田なのです。
まずは、横須賀城に本陣を置く徳川!!

指揮を執って立派な万千代に目頭を熱くする六左と直之!!

誰とでも気さくに仲良くできる六左は、”竜宮小僧”の話で盛り上がっていました。

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とある場所では”川三郎”というらしい・・・
この”川三郎”が引っかかる直之・・・
「あ・・・確か、高瀬様の育ったところではそういうらしい・・・」by六左
ピン!!ときた直之!!
「あの者、武田領から来たということではないか・・・??」by直之

そう・・・彼らは間者でした。
万千代は・・・
「おい、お前らもはや、武田には戻れぬであろう。
 話によっては、俺のところで抱えてやっても良いが・・・
 高天神城の井戸がどこにあるか知っておるか?」by万千代

ということで、高天神城攻めに有利になりそうです!!

と・・・

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この井戸を聞き出したことで、ご加増を受け、2万石になったらしい!!
そして、六左と直之を抱えたいと家康が言っているらしいと・・・!!

話しをしたいと万千代の元へやってきたおとわ。

本多忠勝と挨拶するんですが・・・
忠勝、おとわが綺麗なので、気があるような振る舞いで・・・気持ち悪い・・・
私の忠勝はやっぱり仮面ライダー1号だし・・・でも、高嶋政広さんも最近は武骨な感じやナイスガイな感じで私好みの俳優さんなんですが・・・
この演出はほんと、気持ち悪かった・・・だって、すでに、おとわはBBA・・・
あ・・・忠勝もJJIだからいいの・・・??
それでもなあ・・・許せないのよ・・・この大河の一番の許せないところ。
女を捨てたおとわに女を匂わせるところです!!


家康は、高天神城を兵糧攻めすることで、じわじわと追いつめて、一兵も失うことなく降伏させようと思っていました。
そして、反旗を翻さないように、家臣は徳川が丸抱えにするという考えを持っていたのです。
叩き潰して屈服させるのではなく・・・

「織田に屈せずとも良い力を持つため、徳川のこれから先のために。
 敵を叩き潰す力ではなく、敵を味方とする力を鍛える。」by家康

それを聞いたおとわは・・・戦わない道を選んだ政次を思い出していました。
そう・・・政次も戦わない方法をずっと考えていました。
自分の考え方に似ている徳川・・・日の本一になるように・・・
戦の嫌いな人がなれば、戦は無くなるかも・・・と。

「しますよ・・・俺が・・・徳川を日の本一の・・・殿を日の本一の殿にします。
 俺が仕える殿なのですから、なってもらわねば困ります。」by万千代

久し振りに万千代と話したことで、ちょっと成長したな・・・と思うおとわでした。

徳川のもとで働かないか??と言われた六左と直之・・・。

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「それがしは、参りませぬ。。。
 身に余るお話ではございますが、お断りください。
 それがしは、井伊谷の番人にございます故、徳川へは参りませぬ・・・。」by直之

「井伊谷の安堵は願わぬ・・・と、万千代が言うておったと・・・
 中野殿や六左には来ていただきたい。
 なれど、井伊谷の土地は、何の役にも立ちませぬ故。」by万千代

一大事が!!
高天神から降伏したいと矢文が飛んできました。
そこには、家康が助命を受け入れるならば、小山城、滝坂城も明け渡すと・・・??

しかし・・・織田からの使者が・・・。
高天神城の降伏を受け入れてはならぬ!!と言いだしました。

「高天神は、最後は力攻めで落とすようにと織田様のお指図でござる。」by水野忠重

どうして下るという者を攻め滅ぼさねばならぬのか??
最後には織田が戦を代わると言い出しました。

「降伏は受け入れぬと、我等から申し上げる。
 まずは駿河じゃ・・・。
 武田に干上がるか、討ち死にするか選ばれよと申し伝える。
 織田様はそれでよろしいか・・・!!」by家康

もちろん、武田と徳川が内通していると思われているんだから、叩き潰すしかないわな・・・。

武田が出てきたというのに・・・本意ではない戦に力なく参陣する徳川勢・・・。

徳川を日の本一にするために、万千代の元へ行けとおとわに言われる直之。
直雪にとっては、今の織田の顔色を窺っている徳川は、今川の顔色を窺っていた井伊のように映っていました。

「俺は、俺なりに折り合いをつけてやってきたのでございますよ。
 女子が己の殿となり、女子だからこそ守るのだと己に言い聞かせ、その殿は井伊を潰すというならば、井伊谷の番人になればよいと思い直し・・・。

 そうやってきて、今があるのでございます。
 断ることなどできることがございますまい!!
 俺だって、ずっと見てきたのですから!!
 殿が、但馬が、必死に戦を避けられなかったさまを・・・。
 逃げられなかったさまを・・・。
 百姓となってなお、武田から皆を逃がすさまを・・・!!
 あなたの・・・隣で、見てきたのですから・・・。
 殿がさような戦をするというならば、やってみるしかないではないですか・・・!!

 まあ・・・男みょうりに尽きるということにしておきますよ。」by直之

ということで、六左、直之は万千代の元へ!!

武田との戦いが、勝頼の自刃で終わり・・・それは同時に、戦国随一の武勇を誇った武田家は、滅亡を迎えたのでした。

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そして・・・たくさんの犠牲のもとに、徳川が、駿河を拝領することとなりました。

いよいよ天下統一に向けて・・・タヌキオヤジになるんでしょうかね?家康!!
そして、その家康の四天王として活躍する直政を見たいものです

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1575年5月・・・
戦国の世を左右する大きな戦いが行われました。
織田・徳川連合軍VS戦国最強武田軍との戦い・・・長篠の戦いです。
この激しい合戦は、後々の語り草になるほど。。。

鉄砲軍と無残にやられていく武田軍・・・
この時武田軍を率いていたのは、名将武田信玄の息子・勝頼でした。
カリスマの信玄、これに対し勝頼は愚将とされてきました。

長篠の戦いは、本当に無謀な戦いだったのでしょうか???
長篠の戦いの真実は???
負けた勝頼側からの分析です。

勝頼のイメージ・・・家を潰した武将・・・それだけなのでしょうか?

singen山梨県甲州市にある恵林寺。
ここに、名将と言われた武田信玄の不動明王に似せた像「鎧不動尊像」が残っています。
家臣たちによって、神仏のように崇められた信玄。。。
信玄が尊敬を集めていたのは???
信玄一代で所領は7倍になり。。。
その過程で、独立心の強い武将が、多く配下に加わりました。
信玄は、家臣たちを戦国屈指の強さにまとめ上げていきます。

1573年、4男・勝頼28歳が武田家の家督を継ぎますが。。。
家臣団を統率する難しさに直面します。
「震源と共に国を大きくしてきたという自負のある家臣たち。」
勝頼の置かれた状況は・・・意見の通らない・・・困難な状況でした。


その主な原因は、勝頼が家督を継いだ経緯に関わります。
家督を継ぐはずだった長男・義信・・・
4男の勝頼は、諏訪勝頼と名乗っていました。
しかし・・・義信は、謀反の嫌疑をかけられ廃嫡。。。
他の兄たちも死んでしまい・・・急遽家督を継ぐことになってしまった勝頼。。。

”武田家が、諏訪にとられてしまった!!”

信玄の時代からの重臣たちは、勝頼の重臣たちと馬が合わず、対立することもしばしば。。。

katuyori
勝頼は起請文を書き、積極的軍事行動に出て求心力を高めようとします。
最大の課題は、父の代からの宿敵を倒すこと・・・!!
そう、立ちはだかったのは織田信長・徳川家康でした。
父の悲願と共に・・・!!

1574年1月、東美濃に侵攻。
勝利を重ね、18もの城や砦を攻略!!
さらに家康の遠江にも侵攻。
難攻不落と言われていた高天神城も落とすことに成功します。

勝頼率いる武田軍は、連戦連勝でした。
信長は・・・「四郎は若輩に候といえども信玄の掟を守り、油断の儀無く候」と、怖れていました。
勝頼は信玄と同じく、大きな脅威となっていたのです。

1575年4月、信玄の三回忌法要を済ますと、大規模な軍事行動に打って出る勝頼。
家康の本拠地三河に1万5000の兵をもって出ます。
5月1日長篠城に到着、取り囲むように布陣し、砦も築きます。
長篠は、信濃から三河に抜ける道中の入り口の要衝。。。
ここを抑えれば、岡崎城と浜松城を分断でき、大きな打撃を与えることができます。

家康は、武田軍に対抗できないと感じ、信長に援軍を要請します。
5月13日、岐阜を出陣した織田軍・・・武田をはるかにしのぐ3万。
鉄砲の数は、1000丁とも3000丁とも言われています。
父の宿敵を倒す絶好の機会がやってきました。

戦国時代必要なのは血統のカリスマと能力のカリスマ・・・
この二つを持って、勝ち続けないといけないのです。
1575年5月14日、三河・岡崎城に到着した織田の援軍・・・織田徳川連合軍は3万8000となっていました。
連合軍は、長篠城の救援には向かわず、設楽原に布陣。。。
動きを止め、柵を築き始めました。
戦略的に優位な場所陣取り、敵の出方を待つ!!それこそが信長の戦略だったのです。
左手に雁峰山、右手に豊川・・・真正面から敵を迎えられる状況でした。
勝頼の長篠城攻めは、こう着状態にあり・・・
城内の兵はわずか500・・・
家康の家臣、奥平貞昌は必死に抵抗し、落城を免れていました。
勝頼の陣の軍議では・・・
甲陽軍鑑によると、3つの戦術が話し合われました。

①大軍なので撤退・・・信玄以来の家臣
②長篠城で迎撃
③決戦・・・・・・・・・・・・・勝頼の家臣

織田・徳川が動きを止めて2日が経ち・・・
5月20日勝頼が行動を起こします。
3000の兵を長篠城の包囲に残し、自ら1万2000の兵を率いて設楽原へと移動。
川を挟んで連合軍に対峙しました。
敵陣を攻撃する決戦を選んだのです。

というのも勝頼は、敵が攻める手立てを失っていると判断したからでした。
さらに・・・「今こそ本意を遂げたい!!」
21日、夜明けとともに、武田軍の攻撃が始まりました。
前面に兵を集めず、後方の見えないところに兵を配置する信長。
さらに合戦開始から2時間後・・・衝撃的な情報が!!それは、徳川軍の奇襲でした。
長篠城を囲っていた砦が陥落したのです。
酒井忠次が夜のうちに別働隊を率いて攻めていたのです。
背後を断たれた勝頼。。。おまけに敵は少ない???
力攻めにかける勝頼でした。

最強と言われた武田軍が完膚なきまでにやられた???

「長篠合戦図屏風下絵」には、連合軍による鉄砲の連射にも関わらず、柵まで攻め込む武田軍。
さらに、柵の中に逃げ込む織田軍。。。
攻めても攻めても、柵を打ち破って来る武田軍。
半分の戦力にもかかわらず、4時間にわたる猛攻が行われました。
しかし信長は、隠していた兵と鉄砲を次々と出し・・・
そして遂に、信長の策略と兵力の前に潰えた織田軍でした。

勝頼は再起をかけて領国へ撤退・・・
しかし、この戦いで多くの重臣たちと数千の兵力が失われて。。。

連戦連勝の勝頼が、はじめて味わった敗北でした。

戦いののち、信長は他国の大名たちのこの戦いを大々的に伝えています。

「即時に切り崩し、数万人討ち果たし候」

「四郎赤裸の体にて一身逃げ入り候」

信長は、勝利を誇張して伝えることで、自らの強大さを伝えようとしました。

勝頼は、敗戦をものともせずに、国力回復に力を尽くしていました。
家臣たちに兵や武器の準備を命じた軍役書を何度も送っています。

その内容は、鉄砲1丁につき弾300・・・細かいものでした。

勝頼は家臣団への統率を強化しようと努めていました。
内政と外交の成功で・・・1573年の信玄死去時の領土よりも超え、最大を誇ることになります。

信長との差を埋めようともしています。
長篠の戦いでの弾は・・・中国・挑戦・東南アジア産の・・・外国産の鉛を使っている物もありました。
信長が、南蛮貿易によって火薬・鉄砲玉の輸入が可能だったのです。
織田と武田との差は交易量。。。

韮崎に新府城を築きます。
城の側の釜無川を下れば富士川に・・・駿河湾に・・・。
交易・物流にも適していたのです。

着々と体制を整えようとしていた勝頼。。。
1582年2月織田軍が武田領に侵攻。
徳川・北条も呼応し、窮地に陥った勝頼。。。
家臣たちは、敵に寝返っていきます。
勝頼の急激な改革が、家臣たちの心を遠ざけていたのです。
武田家終焉の地は天目山。。。

わずかな手勢と共に逃げ込んだ勝頼は、ここで討ち死にしたとも自害したとも言われています。
1582年3月11日のことでした。

天下にあと一歩及ばなかった勝頼の武勇を称えて信長は・・・

「日本のかくれなき弓取」

と言ったといわれています。

あまりにもしがらみが多い・・・
優秀であるが故・・・恵まれた者ゆえの悲劇だったのです。


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