日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:鹿鳴館

栃木県那須塩原市・・・明治時代、外国の要人たちがしばしば訪れた別荘があります。
洋館の奥には、日本ならでわの和室もあります。
ここで、賓客たちをもてなしたのが、鹿鳴館の華とよばれた大山捨松です。
捨松は、日本人初の女子留学生として渡米・・・11年に及んだ留学生活で、完璧な英語と西洋の社交術を身につけました。
明治16年に完成した鹿鳴館では、各国の外交官たちを前に華麗なダンスを披露しました。
しかし、その活躍は社交界にとどまりませんでした。

捨松は、生涯、明治という壁に挑み続けました。

福島県会津若松市・・・江戸時代、徳川一門としてほうほくの要を担った会津藩の城下町として栄えました。
1860年、後の大山捨松・・・山川咲は、藩の家老・山川家の末娘としてこの地に生れました。
会津藩は、当時、最も高い教育水準を誇っていた藩の一つ・・・
「什の掟」は、藩の子供たちが日々唱えていました。
咲は、人としての生き方を唱えたこの掟に従い、家老の娘として人々の模範となるように努めました。

しかし・・・1868年8月・・・咲の運命は一変します。
薩摩・長州を中心とする新政府軍が、最後まで旧幕府に忠誠を誓っていた会津藩に攻め入りました。
近代兵器の猛攻に晒された会津藩士たちは、家族もろとも籠城を余儀なくされました。
炸裂する砲弾・・・立ち込める煙の中、負傷者たちが次々城内に運び込まれました。
当時、8歳だった咲も、家族と共に籠城戦に参加・・・
当時の状況を振り返ってこう述べています。

「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめ、お城の中に落ちてきました
 私たち、女子供も、精一杯、男たちを助けて働きました
 幼かった私に割り当てられた仕事は、弾薬づくりの準備を手伝うことでした」

1か月に及ぶ籠城戦の末、鶴ヶ城は陥落・・・2000人以上の犠牲者を出し、会津の敗北という形で戦争は終結しました。
戦後、苦境にあった山川家に、大きな転機が訪れます。
明治新政府による留学生の募集です。 
1872年、岩倉使節団の派遣・・・それに伴い、士族の子弟を留学させるという話が持ち上がります。
山川家は、この募集に応じ、10年に及ぶ長期のアメリカ留学に咲を送り出すという決断を下しました。

家名再興を学問にかける・・・!!

この時、咲が母から贈られた名前が”捨松”です。
捨てたつもりで遠い異国にやるが、帰ってくる日をいつまでも待つという思いが込められています。
日本初の女子留学生となった5人の少女たち・・・
この時、捨松は11歳・・・その隣には、幕臣だった父を持つ6歳の津田梅子の姿がありました。

1872年11月・・・捨松、アメリカへ・・・!!
目的地は、東海岸コネチカット州ニューヘイブン・・・イェール大学など高等教育機関のある学術都市です。
捨松のホームステイ先は、牧師のベーコン家・・・レオナルド・ベーコンは、知識人として尊敬される地元の名士でした。
捨松は、夫人から毎日のように英語を習い、勉強に励みました。
捨松は、ベーコン家で実の娘のようにかわいがられます。
そんな捨松に、大きな影響を与えたのがベーコン家の末娘・アリスです。
2歳年上の14歳で、アリスは人種や性別の隔てなく、誰もが平等に教育を受ける社会の実現を目指し、教師になるという目標を持っていました。
その強い志は、捨松に大きな衝撃を与えます。

女子留学生の派遣を決断した明治政府でしたが、求めていたのはあくまでも良妻賢母・・・家庭の模範となることでした。

ところが、アメリカでは、女性たちが学校で学んだことを活かして自立し、社会に貢献しているという道が開かれていたのです。
アリスに触発された捨松は、勉学に励み、名門ヴァッサー大学に入学します。
英語はもちろん、フランス語も完ぺきにマスター・・・政治学や、自然科学を学び、成績は常にトップクラスでした。
22歳の時、大学を優秀な成績で卒業した捨松は、ある明確な目標を持つようになりました。

日本への帰国を目前に控えた1882年8月2日・・・アリスへの手紙にそのことを記しています。

「あなたが日本に来て、共に働いてくれることを心から願っています
 あなたが英語と文学を教え、私は生理学と体育を教えることができると思います」

それは、私たち自身の学校・・・アリスと共に日本で学校を作ることでした。
1882年10月、11年に及ぶ留学を終えた捨松は、学校設立という大きな夢を胸に、帰国の途に就きました。

鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]
鹿鳴館の貴婦人大山捨松 日本初の女子留学生 (中公文庫) [ 久野明子 ]

1882年11月21日、アメリカを出港して20日後、横浜沖まで来た時の興奮を、捨松はこう振り返っています。

「その前夜は、ほとんど眠ることができませんでした
 陸が見えたという声に飛び起きて、デッキに走りました
 その通りでした
 祖国の山々の稜線が、くっきりと見えているのです
 まるで、夢の中にいるような気持になりました」

しかし、喜びは束の間・・・帰国した捨松には、過酷な運命が待ち構えていました。

政府首脳は、一足先に留学から帰った男子を官僚や大学教授として重用していましたが、女子のための仕事は何一つ用意していなかったのです。
この時の失望を、捨松はアリスに語っています。

「ああアリス、人生とはどうしてこんなにも複雑なのでしょう
 私は今まで、人生の暗い面など想像したこともありませんでした
 自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方をなくしてしまいました」

捨松はすでに22歳・・・十代半ばで結婚するのが当たり前の時代に、家族からもすぐに結婚するように求められていました。
この頃、捨松の人生にとって大きな転機が訪れます。
陸軍卿・大山巌からのプロポーズです。
大山は、フランスやスイスに3年間留学して近代兵器を研究・・・日本陸軍の創設に尽力した人物です。
当時、捨松より18歳年上の40歳・・・前妻に先立たれ、再婚相手を探していました。
ところが、これまで結婚を進めていた山川家当主の兄が、この縁談には断固として反対しました。
大山は、西郷隆盛の従兄弟で、薩摩の出身・・・会津戦争で、同胞や家族を死に至らしめたかつての敵だったからです。
それでもあきらめず、何度も求婚を続ける大山に、兄はついに根負け・・・
判断は、捨松本人に委ねられることになりました。
プロポーズを受け入れるか否か・・・??
アリスに胸の内を語っています。

「もし私が婚約したと言ったら、あなたは何と思うでしょう
 でも、大丈夫、心配しないでください
 あなたが日本に来た時、きっと私は売れ残りの独身のままだと思います」

あくまで結婚はしないという捨松・・・
プロポーズを受けた当初は、教育の夢に胸を膨らませていました。

「就職先が見つかりそうなのです
 個々のお給料と英語の個人授業をすることで、学校を作る資金を貯めることができるかもしれません」

この手紙を出す直前、捨松のもとに文部省から官立の師範学校で教えてくれないかという依頼が届いていました。
しかし、思わぬ問題が浮上しました。
11年以上もの海外生活で、捨松の日本語の読み書きは初等教育レベルで止まっていました。
日本語の教科書で教えることは難しかったのです。
結局、就職を断念・・・

途方に暮れる中、捨松は、結婚に新たな可能性を見出し始めていました。

「今や教えることは、ほとんど見通しが立たなくなりました
 ですが、たとえ私の夢をあきらめたとしても、何か別の方法でお国のために、役に立つことはできないものでしょうか
 今、一番やらなければいけないのは、社会の現状を変えることなのです
 日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです」

政府高官である大山との結婚で、社会を変える道が開けるかもしれない・・・
プロポーズから5か月後・・・1883年6月、悩んだ末に、捨松は結婚を決意します。
その時の気持ちをアリスに綴っています。

「大山氏は、とても素晴らしい方で、私は将来を託すことにしました
 未来の夫のために、自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています
 今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」

大山との結婚は、捨松の人生を大きく変えることになります。

2人は3人の子供にも恵まれ、生涯仲睦まじい生活を送ったといいます。
日本陸軍の発展に尽力した大山巌・・・列強に匹敵する軍隊を作るため、海外から最新鋭の武器を購入するなどの対外交渉にも関わりました。
栃木県那須塩原市・・・
巌の接待外交にも使われた大山家の別荘が、そのまま残されています。
伝統的な日本家屋の隣に、当時珍しかったレンガ造りの洋館が築かれました。
レンガは、巌がこの別荘のために特別に作らせたものだと言います。
応接室や、遊戯室など、8部屋からなる豪勢な洋館・・・
捨松は、国ごとの作法に合わせ、食事の出汁方などを差配し、パーティーを取り仕切ったといいます。
椅子やテーブルなどの調度品は、捨松がアメリカから取り寄せました。
欧米人が多かった賓客たちに、母国にいるようにくつろいでもらう心づくしでした。
捨松は、アメリカでの経験を活かし、巌の公務を積極的に支えたのです。

そんな捨松の手腕は、西洋化を進めていた日本にとって欠かせないものでした。
東京日比谷に鹿鳴館が作られました。
明治政府は、列強との不平等条約解消のため、夜な夜な舞踏会を開いて外交官を接待・・・
日本が文明国であることをアピールしようと努めました。

捨松も、鹿鳴館の夜会に出かける際には、華やかなドレスに身を包みました。
当時の日本人は、西洋のダンスはおろか、テーブルマナーさえ知らない人がほとんどでした。
そんな中、捨松は本場仕込みの華麗なステップと卓越した語学力で外交官たちをもてなしました。
各国の記者たちは、その振る舞いをこぞって称賛。
鹿鳴館の華として、捨松の名声は、遠く海外に届いたといいます。
社交界で確固たる評判を得た捨松は、さらに、鹿鳴館を舞台に社会の現状を変えようと新たな取り組みを始めました。

「私は病院を援助するために、バザーの準備をしています
 日本では、バザーは今回が初めての試みです
 これは病院だけでなく、日本人全員のためになると思います
 今では東京中がこの話題で持ちきりです」
 
捨松は、留学中ヴァッサー大学卒業後に、半年間看護学校に通い、最新の看護教育を受けていました。
帰国後、日本に看護師を養成する学校がないことを知り、自らその設立にのりだしました。
そして、留学時代に目にしたアメリカの婦人たちのチャリティーバザーと同じようなバザーを開き、開業資金を集めようとしたのです。
上流階級の女性が商売をすることなど考えられなかった当時、多くの新聞が驚きをもって捨松のバザーを取り上げました。
捨松の呼びかけに、多くの布陣が賛同・・・
手製の人形やハンカチ、帽子など、多くの商品が瞬く間に集まりました。
鹿鳴館を会場に、日本初のバザーが開かれました。
皇族や、政府高官が馬車や人力車で押しかけ、来場者は3日間で1万2000人を記録。
集まった金額は、現在の価値で1億円に上ったといいます。

この資金を元手に、わずか4か月後に、有志共立東京病院看護婦教育所・・・日本初の看護学校が設立されました。
これまで男性のものとされていた看護に、女性たちも加わり、現代まで続く看護教育の礎となりました。
時代の壁を乗り越え、社会に貢献しようとした捨松の姿は、明治の女性像を大きく変えました。

東京都にある津田塾大学・・・津田梅子が始めた女子英学塾がその前身です。
英学塾の設立には、留学仲間の捨松も尽力しています。
政府に公認を得るために、梅子が文部省に提出した書類・・・
筆頭に、大山捨松の名前、その次に津田梅子の名前がありました。
捨松は、サポート役ではなかったのです。

英学塾の設立にあたって、捨松は顧問に就任、資金集めに困っていた梅子のために奔走し、学校運営を支え続けました。
一人のアメリカ人女性がやってきました。
それは、アメリカ時代の親友・・・アリス・ベーコンでした。
英学塾の教師として働いてもらうため、捨松がアメリカから招いたのでした。
少女たちが18年前に交わした約束が、実現した瞬間でした。

やがて、時代は大きく動きます。
1904年、満州と朝鮮半島の権益をめぐって、日本とロシアが対立・・・日露戦争が勃発しました。
大山巌は、満州軍総司令官に任命され、95万人の兵を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。
2倍の兵力を誇る精強なロシア軍を相手に、日本は厳しい戦いを強いられます。
1年半に及ぶ戦いの末、陸軍で8万人を超える犠牲者を出しながら、日本は辛くも勝利を収めました。
戦争中、捨松は、出征兵士たちの家族を支援する活動に力を注ぎました。
働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯などの仕事をあっせんしました。
母親が働きやすいように、子供を預けられる無料の託児所なども作っています。
そして、総司令官の妻として、捨松が何より大切にしていたのが、戦死者の家族を慰問することでした。

「今、私が一番つらいのは、遺族の方たちをたずね、慰めの言葉をかけるときです
 たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」

晩年、大山夫妻は、こよなく愛した那須の地に足しげく通い、静かな余生を送りました。
夏休みなどの休暇には、孫たちを連れて別荘に集い、共に大自然の中で過ごしました。
捨松は、晩年の平穏な日々をこう手紙に綴っています。

「親愛なるアリス
 私は自分の生活が、今とても幸せであることに心から感謝しています
 夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました
 あなたの親友 捨松より」

58歳で捨松はその波乱の生涯を閉じました。
愛する伴侶・巌と共に、愛する那須の地で眠りについています。

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レンズが撮らえた幕末明治の女たち

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かつてアメリカでBrilliant Womanと呼ばれた女性がいました。
彼女の生きた時代は文明開化に沸く明治初期。
陸蒸気にガス灯・・・急速に進む西洋化。
その象徴として作られたのが鹿鳴館でした。
毎夜行われる舞踏会・・・そこで鹿鳴館の華と言われたのが陸奥亮子でした。
夫は剃刀大臣と言われた陸奥宗光。
日本政府の悲願、不平等条約改正を成し遂げた第8代外務大臣です。

東京銀座七丁目・・・金春通り。
かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


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幕末明治 時代を変えた女たち

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東京・日比谷公園・・・今から130年ほど前にこの向かいに瀟洒な洋館が建てられました。
迎賓館・・・その名も鹿鳴館。。。総工費は当時破格の5億6000万円!!

roku

鹿鳴館建設を取り仕切ったのは井上馨!!
どうして鹿鳴館建設を推し進めたのでしょうか?




1868年7月・・・
江戸へ乗り込んだ政府軍は、天皇の詔の元、江戸を東京と改名。
それから16年後の1883年・・・迎賓館である鹿鳴館が建てられました。
その名は、中国の「詩経」の”鹿鳴”・・・賓客を迎えて鹿が鳴くに由来します。
8000坪の敷地に建てられたのは、2階建てのレンガ造り・・・本格的な西洋建築で部屋数は40あまり・・・
一階には食堂やビリヤード場、二回には豪華なダンスホールが設けられ、そこでは毎晩のように晩餐会、舞踏会が催されました。

どうして鹿鳴館が建てられたのでしょうか?
”太政官公文録”によると・・・
当時の官省のほぼ全てからお金が出された鹿鳴館建設!!
近代日本の象徴として国家の威信をかけて作られたものでした。
総額は・・・14万1633円・・・今のお金に換算すると、5億6000万円以上となります。
同じころ作られた外務省の庁舎が4万円だったことを考えると、けた違いの建築費でした。
政府は、潤沢な資金があったわけではなく・・・
かき集めた大金・・・どうして鹿鳴館は必要だったのでしょうか??

幕末・・・黒船が浦賀に来航し、幕府はアメリカの圧力に負けて開国しました。
1858年日米修好通商条約調印、アメリカだけではなく、オランダ、イギリス、フランス、ロシアとも同じように条約を結びます。
安政の五か国条約と呼ばれるこの条約は、日本にとって不平等なものでした。
その問題のひとつ・・・領事裁判権が各国に与えられているという現実・・・
外国人が日本で犯罪を犯した場合・・・日本の法律で裁くことは出来ず・・・その権利は諸外国の領事にあるというものです。
関税自主権もなく・・・
外国からの輸入品にかける関税・・・関税率を自国できめられないので、外国の製品が安く入ってきてしまうのです。
国内産業が大打撃でした。
金銀の交換率も、外国に有利だったことから・・・開港半年で100万両(1000億円)もの金貨が海外へ流出してしまったといわれています。
このままでは植民地化されてしまうかもしれない!!
政府としては、不平等条約改正が急務となったのでした。

1871年岩倉使節団を欧米諸国に派遣し、条約改正に向けて発進した日本。
しかし、最初の訪問地アメリカで苦境に・・・
書類の不備などで交渉を打ち切られてしまいました。
この時、明治政府は日本の外交の弱さに直面します。
痛感し・・・罵倒を受け取ったのが井上馨でした。

1835年長州藩士の次男として生まれた井上馨。
16歳で明倫館に入り、20歳で江戸遊学を果たしました。
尊王攘夷に共鳴し、高杉晋作、久坂玄瑞らと共にイギリス公使館焼き討ちなどに参加。。。
過激な行動を繰り返していました。
不平等条約を結んだ幕府にも腹立たしさを感じていた井上。。。
「日本の植民地化を防がなければ!!」
ということで、敵を知るために海外渡航を決意します。
1863年5月、長州ファイブとしてイギリスへ・・・!!
そこで目にしたのは、産業革命にわく街で・・・攘夷は無理だと判断し、開国へと変わっていきます。
日本の近代化構想を練りながら帰国の途に就きます。

明治維新・・・国際感覚を買われ、1879年外務卿に就任。
条約改正の役を担うこととなるのです。

その目的のためのひとつが鹿鳴館でした。
井上は鹿鳴館建設を急がせます。
当時外国の来賓をもてなす迎賓館が無く、その社交場として必要でした。
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それまでは・・・旧幕府の”延遼館”だったのです。
が・・・井上はさらに西洋化された迎賓館の必要性を感じていました。
社交外交を通じて条約改正を狙っていたのです。


東京大改造計画
当時、外国人居留地は築地にありました。
そこで、銀座・・・煉瓦街として文明開化の象徴にしようと再開発に着手します。

銀座の街は大変貌を遂げ・・・洋館が立ち並び、拡張された道路では馬車が・・・ガス灯が・・・
洋服姿の紳士も・・・

しかし、庶民たちの西洋化は容易ではなく・・・
裸同然でも平気な男女・・・非文明国で野蛮な国から脱却するために。。。
違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)を出します。
庶民の風俗を取り締まるもので、90条の風俗を取り締まっています。
もっとも逮捕者の多かったのは・・・”裸体禁止”でした。
外国人の目を気にしていたのです。
罰金刑で払えないものはむち打ちでした。
今までの暮らしが制約されたことで、文明開化に反発する人も出てきましたが・・・突き進む井上馨。

鹿鳴館を建設したのはイギリスの建築家”ジョサイア・コンドル”・・・文明開化の日本には欠かせない建築家で、日本文化に傾倒していました。
1877年工部大学校で建築を教えるために招かれました。
当時政府は近代国家建築のために、お雇い外国人をたくさん抱えていました。
ニコライ堂・旧岩崎邸なども彼の建築です。
その初期の代表作が鹿鳴館でした。

国家的大プロジェクトの鹿鳴館・・・。それは、西洋と日本の建築を融合させたものでした。
が・・・その設計を井上は却下!!
井上が求めていたのは、外国人好みのする堂々とした西洋的なものだったのです。
不本意ながら、煉瓦の洋館の設計をし・・・2年の歳月をかけて鹿鳴館が完成しました。
堂々たる白亜の洋館でした。

しかし・・・外国人の反応は・・・
「まるで温泉場のカジノ!!」だったのです。
政府の威信をかけて作った鹿鳴館だったのに・・・!!
歴史的な重みのない・・・西洋そのまんまなところが駄目だったのかもしれません。

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日本を男女平等の世の中にしたいと思っていた井上・・・毎晩のように鹿鳴館で交流を広げます。
そんな井上の外交は、鹿鳴館外交と言われています。
食事も、最高の食材を使ったフランス料理が出されました。
当時は食材は香港から取り寄せていました。

日本が西洋に並ぶ国だということを見せつけるために・・・!!
料理一つにしても疎かには出来ません。
が・・・外国人たちの評判は一向に上がりませんでした。


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当時の招待状の裏には・・・
「婦人着服はローブ・デコルテの事、男子着服は燕尾服の事」と書かれていました。
日本女性が洋服を着るのは男性よりも遅く、鹿鳴館時代が洋装の始まりでした。
日本製だったといわれるドレス・・・招待客は1500人余り・・・皇族・財界人・政府役人・・・婦人を連れてやってきます。

sute猿まねのようだ・・・と嘲笑される中で、外国人をも魅了したのが「鹿鳴館の華・大山捨松」です。
日本人離れしたスタイルに、洗練された語学力にダンス・・・まさに完ぺきでした。

捨松は・・・1860年会津藩山川家の末娘として生まれました。
12歳の時に岩倉使節団と共に日本初の女性留学生としてアメリカへ・・・!!
11年後、アメリカの大学を卒業した際には・・・
「イギリスの日本に対する外交政策」・・・不平等条約について語ったのです。

日本が文明国として見せることが自分の責任だ!!と思った捨松は、陸軍大将・大山巌と結婚します。
夫と共に鹿鳴館の舞踏会に出席し・・・鹿鳴館外交に拍車をかけることとなるのです。

捨松は・・・井上馨夫人、伊藤博文夫人と共に、1884年には鹿鳴館で日本で初めてとなる慈善バザーを開きます。
手作りのハンカチや人形をだし・・・1万2000人が訪れ、大きな収益を得、この資金を元に作られたのが、1885年有志共立東京病院看護婦教育所です。

外交の場だけではなく・・・慈善事業の場ともなっていく鹿鳴館。。。
しかし、完成からわずか4年で潰されてしまうこととなるのです。

井上の外交の成果が見られずの時・・・1886年に事件が勃発します。
ノルマントン号事件です。
横浜から神戸に向かった途中・・・和歌山沖で沈没。。。
この事件で・・・船長以下イギリス人は全員助けられたものの・・・乗り合わせた日本人は救助されず、たくさん亡くなりました。
その船長の裁判が行われましたが・・・結果は無罪!!
イギリスに裁判権があったからです。
この結果に日本中が憤りをあらわに・・・早期の解決が望まれました。


譲歩案・・・
①外国人裁判官の採用
②内地雑居を許可しよう
というものでした。

井上の譲歩案には内閣府でも反対意見が・・・!!
急速な欧化政策にも不満を持っていた庶民。。。
鹿鳴館を舞台にしたものは・・・海外の顔色をうかがうための媚態外交とまで皮肉られるようになりました。

日本の西洋化が条約改正に繋がると思っていた井上は窮地に陥り・・・
1887年9月に外務大臣辞任させられ・・・それと共に鹿鳴館外交も終わりを告げました。
国辱的建物とまで言われるようになった鹿鳴館。。。
条約改正の失敗によって・・・完成からわずか4年で・・・その時代を終えるのです。

華族会館に払い下げられた鹿鳴館・・・表舞台から消えていくことになります。

「鹿鳴館時代・・・それは実に奇妙な時代であった」by大倉喜八郎

井上馨の辞任後・・・大隈重信、陸奥宗光らが外務大臣を務め、不平等条約改正を進め・・・
1894年領事裁判権の廃止、1911年関税自主権を獲得するのです。
それは。。。開国から60年の事でした。

華族会館に払い下げられた鹿鳴館は、1940年・・・昭和15年不経済であるという理由で解体されてしまいました。
そして・・・今、その面影は全くありません。

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1882年(明治15年)。
伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信は、・・・早稲田大学の前身となる東京専門学校を開校しました。

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その頃・・・襄もまた、大学設立に向け準備を始めていました。
会津へ行った後、襄は体調を崩し。。。
しかし、心配する八重をよそに襄は精力的に働いていました。

デービス先生がアメリカから帰ってきました。
途中・・・船の中でに会津の女性に会ったという。。。
名前は・・・山川捨松。

文部省で・・・
帰国した山川捨松は同じく帰国子女の津田梅子と共に、女子大学の設立を求めて政府に掛け合っていました。
でも・・・日本語もあまり話せない。。。なかなか相手にされません。

この捨松の留学は、10年前に北海道開拓使が勝手に募ったもので。。。
当時としては、大事な娘を留学さ汗対なんて思うものなどおらず。。。
逆賊の東北諸藩や幕臣の子弟にお鉢が回っただけだという。。。
女は嫁に行って、男子を生むことが、国家への最上のご奉公であると、却下されます。

ま、健次郎でさえ留学できたのは同じような理由だと言えますから、
当時は男尊女卑の時代・・・
女性に学は要らない。。。嫁に行って男子を生むこと。。。
今でもそんな風に言う人いますからねえ。。。

なかなか仕事が見つからない捨松。。。嘆くものの。。。
健次郎の勤めている東京大学でさえ女性教員はいないという。。。
おまけに、山川家の人々は書生たちの面倒を見、会津にも送金していました。
形見の狭い捨松。。。

女が身をたてるのは難しい。。。
自分のアメリカでの10年は無駄だったの???


陸軍大阪鎮台となっていた山川浩は、山本家を訪問していました。
・・・会えなかった15年という長い年月。。。

「覚馬さん・・・
 俺も戦で敗れて・・・あわせる顔がなかったんです。
 そんじも・・・こうしてまた無事に会えた。。。」

浩と覚馬にはお互いに負い目がありました。

浩は・・・捨松の就職を頼みに襄に会いにきたのです。
二つ返事で捨松のことを受け入れる襄。。。

突然、浩は東京に呼び戻されました。
陸軍省人事局への栄転です。
日陰の身である会津モンに・・・なぜ、栄転??

突然山川家を訪れたのは、陸軍中将・大山巌。

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理由は・・・
”山川殿の妹御・捨松さんを・・・おいの嫁に戴きたく・・・”
とやってきたのです。

「此度の栄転は・・・妹を釣るためのエサ???
 言い訳は要らん・・・
 妹を人質に出すぐらいなら、陸軍など辞職いたしやす!!」

怒って席を立った浩。
なぜ、捨松なのです?と健次郎。

「不平等条約の改正は、日本政府の悲願。
 そいには日本が文明国じゃち列強に認めさす必要がある。
 捨松さは、西洋ん流儀を身に着けられ、才媛としてアメリカでも名高い。
 ゆえに我妻に最適・・・」

「妹を道具のように言うな!!」by浩。

それを聞いて捨松は・・・

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「日本の為に働けるなら、大山のアクセサリーになります。よろこんで。」

やけになる捨松。。。
一度会って、自分の目で見極めろ。。。と、健次郎が諭しました。

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パーティーで会った大山は。。。
何度かパーティーで捨松の事を見かけ・・・一目ぼれしていたという。。。
「おはんは外国人などではありもはん。
 誇り高か会津んおなごでごわす。
 おいが薩摩ん人間じゃっとが気に障っとでごわんそ。
 じゃっどん・・・
 海外に出れば同じ日本人です。」

実際、とっても紳士的だったと言います。
なんだか良い人。。。

会ってきたことに反対する山川家の人たち。。。
代々会津家老の家柄の娘が・・・会津には嫁げない。。。
会津の汚名を雪ぎ、国の礎となるための留学だったのに。。。
と、母に責められるのでした。

助けることの出来なかった尚之助の「会津戦記」を読んで忍びなく兄の背中を見て・・・
未だ残る・・・癒すことのできない心の傷を知るのでした。
やはり・・・この結婚は無理だと悟る捨松でした。

大学設立の為に東京にやって来た襄。ついてきた八重の本当の仕事は・・・
山川家に乗り込むことでした。
宿に訪ねてきたお客様は・・・捨松。。。
このまま京都に連れて行ってくれと頼みます。

「薩摩との縁談など、会津の者には迷惑です。
 兄は断っています。
 それでも大山さまは毎日うちに来ます。」

山川家に乗り込んだ八重。。。
そこには大山がいました。
大山は言う。。。
「捨松さあとの結婚・・・薩摩と会津が恨みを乗り越えたと・・・民に示すためにも意味のあること。。。
 お許し願いたか。。。
 海の外に出たら、同じ日本人でごわそ。。。」
「ここは日本です。」
「そげなせまか見識じゃ・・・日本は立ち行かん。。。」
「狭い??
 日本の政治は、薩長の狭い見識で決められてるではねえですか・・・」
バチバチな大山VS山川。

ごちゃごちゃいう男たちに・・・腕相撲で決めようという八重。
なんと、大山VS八重になっちゃいました。

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いや~八重に託されちゃいました。
この感じじゃ、八重は本気だったように思えるんだけども、もっと女性らしく、捨松の気持ちも想っての腕相撲にしてほしかったなあ。。。って思います。

「大山様」by捨松

「よい勝負でした。
 かつて・・・命がけで銃を撃ちあった手で・・・
 腕相撲ができた。
 15年・・・
 誰にも等しく時は流れたんです。
 この手は形を変えると・・・」
なんて優しい襄。
 
「戦は終わったの・・・山川・・・」

「この屋根の下では、兄上と呼んでもらおうか。。。」

う~ん、良い男ばっかりです。
これをみる限り、八重が一番ガサツです

1883年8月伊藤博文が帰国しました。
強力な官僚組織を作ろうとしていました。

東京大学を有能な官僚の育成機関とするように命じられる健次郎。。。

「学問は、国家によって左右されるものであっては断じてなりません。
 大学は、政治から独立した教育と研究の場です。」

「会津モンか・・・」

ここでも未だ偏見が残っていました。

12月には・・・鹿鳴館で大山巌と捨松の結婚披露宴が行われたのでした。

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「兄上・・・山川家の出世頭は、捨松かも知れませんね。。。」
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「時が乗り越えさせてくれるものもある。。。
 だけんじょ、俺が忘れぬうちは相手も同じ。。。
 逆賊と呼ばれ続けんだろう。。。
 それでも100年後、会津が日本の誉んなる日がくっかも知んねえ。。。
 それは、若いもん次第だ。。。」

一方、官僚が帝国大学に集まる中・・・私立大学生は徴兵に行かなければならなくなります。
そう、同志社は今後、徴兵による生徒不足に頭を悩ませることになるのでした。
 
山川捨松さんは、本当にカッコいい女性だったようです。
八重と比較しちゃいますが、親子ほども歳の離れた大山家に・・・もう世話をする必要はないとはいえ、前妻の子3人の親となり、世界で活躍します。

そう思うと、「八重の桜」は八重桜をもじったものなんでしょうが・・・
いつも思うのは、福島=大河ドラマ=捨松でも良かったんじゃないの?って思っていました。
捨松だったら題は何になったんだろう???松・・・う~ん、松。

良妻賢母・おまけに当時の働く女性のNo,1だったんじゃないかしら?

山川捨松さんです。はこちら

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