日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:黒田官兵衛

今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

sawayamajyou
















表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
ogaki
















水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

matuo












郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
sekigahara










有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ペーパークラフト ファセット 戦国の合戦 関ケ原の戦い

価格:1,540円
(2019/10/10 09:32時点)
感想(0件)

壬申の乱と関ケ原の戦い なぜ同じ場所で戦われたのか

価格:880円
(2019/10/10 09:33時点)
感想(0件)

大阪市中央区にある純白の大聖堂・・・カトリック大阪大司教区・大阪カテドラル聖マリア大聖堂・・・
荘厳な大聖堂の正面には、生母マリアが日本画壇の重鎮・堂本印象によって描かれています。
マリアの前に跪く女性は、戦国時代きっての美女とうたわれた細川ガラシャ。
ガラシャは、織田信長を本能寺で討った明智光秀の娘で、乱世を生き抜いた細川忠興の妻です。
豊臣秀吉、徳川家康の天下取りに翻弄され、悲劇的な死を遂げたガラシャ・・・。

世は大航海時代・・・南蛮渡来の先進文化が日本にも押し寄せ、宣教師たちがもたらしたキリスト教は庶民にまで広がっていました。
そして、キリスト教に入信したガラシャには、過酷な運命が待っていました。

1574年正月、織田信長の居城・安土城のこと・・・天下統一に邁進する信長は、重臣・明智光秀の娘・玉を細川藤孝の息子に嫁がせるように命じました。
信長は、政権基盤確立のために、家臣たちに婚姻でむすびつけ、強大な結束を結ぼうとしていました。
光秀の娘・玉子・・・後のガラシャ12歳は、夫・忠興も同じ年でした。
信長の命令から4年後、16歳になった玉子は細川忠興のもとへ輿入れしました。
玉子が嫁いだのは、京都・・・長岡京市にある勝竜寺城・・・陸の交通と水運の要衝に位置したこの城は、今は公園となっています。
城内には、玉子が嫁いだころからの井戸が残っています。
玉子はどんな女性だったのでしょうか?

結婚から間もなく一男一女をもうけた玉子と忠興夫妻・・・
戦での功績も目覚ましく、細川家は信長から丹後国を与えられます。
はれて12万石の城持ち大名となった細川家・・・玉子の未来も限りはありませんでした。
ところが・・・玉子の人生を一変させる事件が起こります。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・父・明智光秀が突然織田信長を襲います。
光秀は、娘・玉子の嫁ぎ先の細川家に援軍を求めます。
羽柴秀吉らに対抗する為に・・・!!
しかし、細川藤孝・忠興親子はこれを拒絶!!
藤孝は出家し、信長を弔う姿勢を見せます。
忠興は怒りのあまり、光秀の使者を斬り殺さんばかりでした。
援軍を得られないまま秀吉との決戦に敗れた光秀・・・。
その他の明智一族も、玉子を除いてほとんどが命を落としました。
細川家の嫁でありながら、謀反人の娘となってしまった玉子・・・人生最初の選択に迫られます。

明智の娘であるから、謀反人の娘として生き恥をさらすなら自害すべき??
この時、玉子は3人目の子を身籠っていました。
「御身の父光秀は、主君の敵なれば同室叶ふへからす」by忠興
忠興は、玉子を離縁して、三戸野に幽閉しました。
要害の地で切ない日々を過ごす玉子・・・。



細川家は、形勢が逆転し、明智の味方が増えたなら・・・
玉子を生かしておくことで、両天秤にかけたのです。
男たちの思惑によって、子供たちと離れてしまった玉子・・・。

身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく

「謀叛人の娘」というレッテルを貼られたものの、子供に細川家を継がせることで、明智の血を後世まで残すこと・・・
明智家からついてきた侍女や家臣も守らなければいけない・・・
そのためにも、自分が今、命を絶つわけにはいかない・・・
幽閉の翌年、水戸野で男児を出産した玉子・・・数え21歳でした。

幽閉から2年・・・信長のあと天下の実権を握った秀吉は、大坂に大きな城を築きつつありました。
党第一の実力者となった秀吉から、玉子との復縁を許された忠興・・・
父・光秀を討った秀吉の許しで、玉子は大坂城下の細川邸に正室として返り咲きました。
秀吉が美貌で噂の玉子との面会を望んだ時・・・

「秀吉は父の仇・・・殺されても出ていくことはありません。
 それでも強いてということなら、懐剣で刺し殺し、復讐を果たします。」by玉子

気丈に振る舞う玉子でしたが、忠興は厳しく監視します。
それは、嫉妬とも旧織田勢から守るためだったともいわれています。
謀反人の娘というレッテルを貼られた世間の目に苦しんで、精神の変調をきたす玉子。。。
細川家の正室としての態度をしっかりとしながらも、閉じ込められた苦しさ、悩み、ストレス・・・
その葛藤が気鬱となって現れます。

この頃、世界は激動の時代を迎えていました。
航海技術の発達によって、スペインとポルトガルがアジアやアメリカに進出していました。
新たな交易ルートの開拓や、領土獲得を目的とした大航海時代の到来です。
スペインとの覇権争いの中、ポルトガルが日本に・・・
南蛮船との交易で、利を得ようと大名たちは自領の港を開きました。
南蛮船によって、イエズス会の宣教師も来日・・・宣教師たちは有力大名たちに領内での布教を認めさせていきます。
大名の中にも自らキリスト教に入信する者も相次ぎます。

大阪府高槻市・・・かつてここは、キリシタン大名として知られる高山右近の領地でした。
領内からは、キリシタンゆかりの品が見つかり、キリスト教が広く普及していたことを伺わせます。
キリスト教は、広く人々に受け入れられます。
大坂城築城と同時期に、キリスト教に入信する大名が増加します。
その多くが、黒田官兵衛ら大坂に直接地縁のない武将たちでした。
天下統一に向け各地から来た彼等は、キリスト教で団結を図ったとも考えられます。
キリスト教に興味を持った人の中に、気鬱になっていた玉子もいました。

1587年秀吉の命令で、忠興は九州へ出兵!!
忠興の留守中、玉子は屋敷近くの教会へ向かいます。
これをきっかけにキリスト教に傾倒していく玉子・・・。
キリシタンの考え方は、基本的に一夫一婦制。
自分の疑問に・・・心の葛藤を解決してくれるのは一体何なのか??
それは、儒教的考えや仏教的教訓ではないと考えるようになります。
キリシタンの教えを勉強するようになります。

抑えがたい衝動にかられた玉子は、キリスト教への入信を決意し、洗礼名をガラシャに・・・。
それは、ラテン語で恩恵を意味するグラティアを意味していました。
キリシタン細川ガラシャの誕生でした。

西洋の文物は、土豪出身の戦国大名の権力を高める文化になりました。
おまけに実利がある・・・。

1587年6月、九州を平定した秀吉は驚くべき法令・・・伴天連追放令を出します。
それは、キリスト教を邪法をし、バテレンは20日以内に国外退去せよというものでした。
領内でキリスト教に深く帰依している大名たちに危機感を抱いたからです。
見せしめに南蛮寺と言われた教会が、京都をはじめ50カ所以上破壊されました。
宣教師たちの多くは、一旦長崎に逃れ、潜伏を余儀なくされます。
ガラシャは心を痛め、苦悶の日々を送ることとなります。

伴天連追放令から11年後・・・秀吉の死によって新しい展開が・・・
秀吉亡き後、天下取りに動いた徳川家康!!
これに対抗したのが石田三成!!
ガラシャの夫・細川忠興は、家康に味方しました。
家康は会津征伐のために、伏見城から京を出ました。
忠興も軍を率いてこれに従います。
忠興は、出陣に際しこう言い残します。

「ことが起きれば恥を着せられぬよう振る舞え」

これが、ガラシャの人生を大きく変えることに・・・
忠興らの出陣から間もなく、大坂で噂が立ちます。
家康に従い関東に出陣している諸大名の妻を石田方が人質として大坂城に取り入れるというのです。
時を置かず、細川邸に石田方から密かに使者が・・・

「内々に大坂城へご登城されたい」

ガラシャを人質に出し出せとの要請でした。
ガラシャは毅然と言い放ちます。

「夫・忠興のためにはどのようなことがあっても同意できません」

しかし、彼女は大きな問題を抱えていました。
登城を拒否し続けていれば、いずれ力づくで拘束に来る・・・
その時は、夫の言いつけを守り命を絶たなければならない・・・
しかし、キリスト教は自殺を神に対する罪としている!!
忠興の出陣から3週間・・・石田方は正式な使いを差し向けガラシャに登城を迫ります。
家臣たちはガラシャを守るために、細川家の重臣たちは、細川の本拠地丹波に逃がそうと考えていました。
事ここに及んでは人質になるしかないのか・・・??
それとも身をかくすのがいいのか・・・??
それとも自害する・・・??
自害を禁じているキリスト教・・・その時は、神が決めるのだ・・・!!
神はどこまで私に試練を与えるのか・・・??

1600年7月17日、石田方に取り囲まれた細川邸から火の手が・・・
ガラシャは屋敷に火を放たせ自害を選びました。

最後を見届けた侍女が後に語っています。
細川家の重臣たちが相談し、いざという時に表門で石田方を防いでいる間に、自害する手はずになっていました。
その日の夜・・・敵が門まで迫ってきたとき・・・守備隊の寝返りもあって「もはやこれまで」と、重臣に長刀で介錯させ、ガラシャは自害しました。
そしてこの様子を侍女に忠興さまに伝えるようにと逃がすのでした・・・。

潜伏していたイエズス会の神父が、焼け跡にガラシャの骨を拾いにやらせ葬儀を行ったと言われています。
イエズス会の記録にガラシャの死はこう書かれています。

”ガラシャはその死を受け入れ、強い勇気をもって主の御旨に従い、その手にあるものとして亡くなった”

キリシタンであったけれども、最期は家に殉じた自害でした。

ガラシャはその生涯を終えるにあたり、辞世の句を書いています。

”ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

新品価格
¥2,808から
(2019/3/31 14:58時点)

朱なる十字架

信長・秀吉・家康 天下人の夢

新品価格
¥7,695から
(2018/6/27 22:55時点)



1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

30の戦いからよむ日本史〈下〉 (日経ビジネス人文庫)

新品価格
¥842から
(2018/6/27 22:56時点)

歴史REAL戦国最強の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛 (洋泉社MOOK 歴史REAL)

新品価格
¥4,483から
(2017/11/29 20:41時点)



羨望術数渦巻く戦国時代、大きな野望を抱き、下剋上という荒波を乗り越え、遂には天下統一を成し遂げた男・豊臣秀吉。
そんな秀吉には二人の軍師がいました。
一人は、若き日の秀吉を支えた竹中半兵衛。
織田信長が認め、家臣にしたがったほどの逸材!!
もう一人は、その半兵衛の後を継ぎ、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛です。
天下無双の戦術と巧みな交渉術で次々と敵を落としていきます。
清算帽として名を馳せた半兵衛と官兵衛。
二人の天才軍師・・・最強なのはどちらでしょうか?

美濃国・斎藤家に仕えた竹中半兵衛は、1544年に生まれ、細身で色白女性のような面立ちでした。
性格も温和で女性のようでした。
しかし、軍師・半兵衛は、「敵を制すること神の如し」と、軍師・諸葛孔明に例えられ、”今孔明”と呼ばれていました。
黒田官兵衛は・・・半兵衛よりも年下の1546年生まれ、姫路出身です。
軍師としては、戦国一の切れ者と言われました。

①戦術
竹中半兵衛は、豊臣秀吉に仕える前は、美濃国・斎藤龍興の家臣でした。
龍興に対し、クーデターを起こします。
難攻不落の稲葉山城をわずか17人で、1日で落としてしまいました。
1564年稲葉山城占拠事件です。
半兵衛はどうやって難攻不落の城を落としたのでしょうか?
まず、稲葉山城に詰めていた弟・久作に仮病をさせ、その見舞いの為と見せかけて城に向かいます。
酒と御馳走と偽って、長持ちの中にびっしりと武具を詰め込んで!!
一行は、武具を身に着けるや否や、一気に奇襲!!
龍興の側近ら6人を殺害します。
半兵衛の奇襲に龍興は動揺し、家臣らと共に城から飛び出していきました。
どうして半兵衛はクーデターを起こしたのでしょうか?
斎藤龍興は、政務に関心を示さなかった上に、遊興に溺れていました。
この悪政を見かねてのクーデターだったのです。
電光石火のクーデター・・・半兵衛21歳でした。
これに織田信長が驚きます。
自分が長年攻めあぐねていた稲葉山城をわずか17人で・・・しかも1日で落としてしまった・・・。

「稲葉山城を明け渡すならば、美濃国を半分与えよう」by信長

しかし、半兵衛はこれを拒絶し、半年後、反省した主君・龍興に城を返すのです。

この一件で、半兵衛に惚れこんだ信長は、木下藤吉郎をつかって落とそうとします。
渋る半兵衛のもとに足しげく通う藤吉郎。
どうやって口説き落としたのでしょうか?
と、これは、三国志演義を元にしたお話。。。
信長が美濃・斎藤家を滅ぼした後、斎藤家の家臣を自らの家臣団に迎えています。
この中に一緒に家臣となって、秀吉の与力となっています。
与力とは・・・身分は信長の家臣で、軍事行動の際には、秀吉の一員として戦ったのです。

信長が、天下統一を目指す中、同盟を結んでいた北近江の戦国大名・浅井久政、長政親子が反旗を翻します。
起こった信長は、小谷城を攻撃!!
半兵衛は、秀吉と共に小谷城近くの横山城へ!!
浅井は横山城攻略のために・・・
あたかも別の場所に向かうふりをして横山城を通過、これにつられて出てきたところを迎え討とうというのです。
秀吉は、この策にまんまと引っかかり出撃命令を出してしまいますが・・・
半兵衛はこれを見ぬいていました。
出撃を思いとどまらせ、近くの山中に速やかに兵を配置!!
なかなか兵を出さない秀吉軍に業を煮やした浅井軍は、横山城に接近!!
半兵衛はこれを不意打ちして撃退したのです。
半兵衛のするどい洞察力と起点に救われた秀吉でした。

浅井攻めも大詰め・・・小谷城に・・・!!

「城内にいる御位置を救出せよ!!」by信長

信長の妹であり、浅井長政の正室・お市とその子供たちを救出せよという難題でした。
小谷城は、急峻な山城で、攻め落とすだけでも困難・・・その上、救出とは!!
仮に攻め落とすことができたとしても、お市も自害してしまうかもしれない!!
半兵衛は、情報収集に走ります。
反信長は、父・浅井久政で、長政は仕方がなかったという。
長政とお市は織田に城本丸に、父・久政は小丸に・・・と、離れていました。

そこで半兵衛は、本丸と小丸の間にある京極丸を占拠!!
父・久政を攻撃し、長政のもとへ使いをだしお市を説得!!
追い込まれた浅井親子は自害するものの・・・お市と三人の娘は助け出されました。
情勢を把握し、知略を尽くした半兵衛の見事な戦略でした。


黒田官兵衛は、播磨の小寺政職の家臣でした。
1575年、着々と勢力を伸ばしている織田に付くか、西の大勢力毛利輝元に着くべきか??判断に迫られていました。
割れる意見・・・
小寺家の重臣は、今までのことを考えて毛利に付こうという考えの者が多かった中、官兵衛は・・・
「輝元は凡庸な男、一方信長は向かうところ敵なしで、武名を天下にとどろかせている!!」と、重臣たちを説き伏せました。
播磨が信長に味方することを使者として伝えに行く官兵衛。
秀吉に信長へのとりなしを頼みます。
これが二人の初対面でした。
そして、二人は、毛利の中国地方に攻め入ることになります。

城攻めを得意とした官兵衛。
❶1577年福原城攻め・・・囲師必闕
この時福原城には、毛利方1000の兵が!!
これを知った半兵衛は、三方に兵を置き、一方を空けておきました。
どうして一辺を空けておいたのでしょうか?
「孫氏」の戦術・囲師必闕で、四方を囲むと置き込まれた敵が、予期せぬ力を発揮することがある・・・
死に物狂いでかかってくることを生じさせないために、逃げ道を作っておいたのです。
その逃げ道に密かに兵を置いた官兵衛は、城から逃げてくる敵を一網打尽にしました。
リスクを避けて効率よく相手にダメージを負わせる・・・。
合理的な戦術です。

❷1581年鳥取城攻め・・・渇え殺し
毛利に組した山名豊国の重臣と、毛利からの援軍・吉川経家合わせて2000の兵が鳥取城に籠城!!
経家は兵糧の確保に走りますが、一向に手に入らず苦境に・・・
事前に官兵衛は手を打っていました。
1年前の秋口に、官兵衛が派遣した商人が通常の倍の値段でコメを買い占めていたのです。
農民たちは、鳥取城に治めるはずの備蓄米まで売り払ってしまい・・・城下の米の殆どを手にした官兵衛。。。
そして・・・①城下の村々を焼き払い
      ②領民を鳥取城に逃げ込ませます。
      ③2000人ほどだった城内は倍に!!食料は瞬く間になくなり、多くの人が餓死していきました。
非情な渇え殺し!!
たまらず吉川経家は、鳥取城を明け渡したのでした。

❸1582年備中高松城攻め・・・水攻め
この時、秀吉軍は攻めあぐねていました。
高松城は、湿地帯の中にあり、容易に近づけなかったからです。
大軍では近づけない・・・。
官兵衛が選んだのは水攻めでした。
湿地帯の南側に3キロ(高さ8m・奥行24m)に及ぶ堤防を築きます。
土嚢一つを100文(5000円)で買い取ると農民たちに呼びかけて・・・
数百万個の土嚢が集まって、2週間ほどで完成!!
次に官兵衛は、西にある足守川を堰き止めます。その方法は・・・大量に石を積んだ船を空きなく並べ、一気に船底に穴をあけて沈めました。
梅雨の時期だったこともあって、湿地帯の水位は瞬く間に上昇!!
城主・清水宗治は観念して自害!!
毛利と秀吉との間で講和が結ばれることに・・・!!
官兵衛の場合、極力味方にダメージを与えないような合理的な戦術です。


②交渉術

戦は、必ずしも力のある者が勝つとは限りません。
天候、運、不運・・・も関係している??
戦国時代前期までは、占い、呪術を使う軍師が活躍していました。
戦いによい日時を占ったり、勝利を願う儀式を執り行いました。
しかし、後期になると、兵法に長け、策略や外交交渉もこなせる策士タイプが求められるように!!
豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛と黒田官兵衛もこのタイプでした。

半兵衛がその力を発揮したのは、浅井の小谷城攻め!!
信長と秀吉は半兵衛を使って浅井家家臣の寝返り工作を進めさせます。
半兵衛の場合、浅井家にも仕えていたのでは??と言われています。
浅井の家臣・堀秀村、宮部継潤など浅井の家臣を寝返らせています。
戦わずして勝つことを理想とした半兵衛は、事前に敵との交渉し、できるだけ戦を避ける戦術をとったと言われています。
外交交渉だけでなく・・・半兵衛のことを快く思わない秀吉の家臣たちとも交渉を・・・
相手を褒めちぎり、褒めた後にアドバイス!!
秀吉の名前を上手く使いました。


官兵衛の交渉術は・・・
1590年小田原城攻めでは・・・
長期に渡り籠城していた北条氏政、氏直親子を、説得し無血開城していますが・・・。
その交渉術は大胆なものでした。
秀吉軍は小田原城を完全に包囲したものの、なかなか落とせずにいました。
そこで、交渉役として官兵衛を遣わします。
城の中の北条方に、酒・二樽、魚・十尾を差し入れます。
北条家はプライドも高いので、礼を尽くし懐柔しようとしました。
その返礼として鉛玉と火薬が出されました。
この意味は・・・北条の降参ととり、交渉に臨んでいます。
礼装に身を包むと、台頭せずに丸腰で、単身で小田原城に乗り込む官兵衛。
礼を尽くし、説得に当たった官兵衛に対し、北条親子は城を明け渡すことを承諾します。
この官兵衛の働きによって天下人となった秀吉です。


③人間力
二人が秀吉の下で一緒に働いたのは4年間ほどでした。
その頃の二人のエピソードから人間力を推察すると・・・??

官兵衛が秀吉について間もない頃、毛利方の大名を次々と織田方に寝返らせたことで、秀吉から感謝状を受け取り有頂天に!!
得意げに半兵衛に見せると・・・その書状を破り捨てた半兵衛は・・・
「こんなものを残しておいても、そなたの物にはならぬ!!」過去の栄光に縋りつくことを戒めた半兵衛は、手柄をひけらかすことを良しとしない愚直な男でした。

1578年織田信長に仕えていた荒木村重が裏切って毛利についたとき・・・
官兵衛は信長から村重を説得してくるように命じられ、意気揚々と有岡城に入りますが・・・
そこで囚われの身となってしまいます。
いつまでたっても戻ってこない官兵衛に、「村重に続き、官兵衛も裏切ったか!!」と思い込んだ信長は、人質に取っていた息子・松寿丸を殺すように秀吉に命じます。
これに断固反対したのが半兵衛でした。

「人質を殺せば、官兵衛は深く恨み、敵となるでしょう。
 そうなれば、大きな損失となります。」by半兵衛

しかし、この信長の直談判は聞き入れられません。
そこで半兵衛は松寿丸を、美濃国にあった自分の屋敷に匿ったのです。
バレれば自分の命も危ういというのに・・・。
しかし、半兵衛は、官兵衛を信じていました。
出会って数年のふたり・・・半兵衛は、軍師としての官兵衛を高く評価しており、自分が死んだ後、秀吉を支えるのは官兵衛だと思っていました。

1年後、救出された官兵衛は、家臣から半兵衛が息子を匿ってくれていたことを聞くと、半兵衛の懐の大きさに改めて感服し、自分を信じてくれたことに深く感謝しました。


④危機管理能力

乱世の世、危険だらけ??
半兵衛は、高価な馬には乗りませんでした。
それは、いつでも捨てて逃げられるように!!

官兵衛は、??
1582年毛利方の備中高松城を落とした秀吉は、毛利との講和条約を結ぼうとしていました。
が・・・衝撃の知らせが!!
本能寺で信長が光秀に討たれたのです。
焦る官兵衛!!
そもそも、毛利が交渉に応じるのは、急速に勢力を拡大している信長に脅威を感じていたから・・・。
しかも、秀吉軍は、信長軍に加勢すべく集まっていた播磨・備中の諸大名の混成部隊!!
信長が死んだと聞けば、秀吉軍は瓦解する可能性があり、毛利から反撃を受けた場合どうなるか・・・大ピンチでした。
おまけに秀吉は、主君・信長の死で冷静な判断ができない状況でした。
官兵衛はどうしたのか??
秀吉の耳元で・・・
「今こそ、貴殿が天下人となる好機ですぞ!!」by官兵衛

この言葉で我に返った秀吉は、官兵衛にすぐさま毛利との講和条約を結ばせ、明智光秀を討つべく、岡山から猛スピードで200キロを進軍!!
光秀がいた京都・山崎に僅か1週間で到着します。
中国大返しです。
この中国大返しを成し得た裏で、官兵衛が動いていました。

「本能寺で無念の死を迎えた信長公の仇を、秀吉さまが討てば、秀吉さまが天下人となる。
 此度手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう。」by官兵衛

出世欲を刺激された兵たちは走りに走ります。
こうして、空前絶後の大移動が完成したのです。
本能寺の変の時点で、信長の部下がどこにいるのか?それを官兵衛は把握していました。
なので、一早く、秀吉に光秀を撃たせるために!!
信長の死を、秀吉のチャンスに変えたのです。
これがなければ、秀吉は天下をとれなかったかもしれません。


⑤秀吉からの信頼度
軍師・竹中半兵衛最後の戦いは、1578年播磨三木城主・別所長治の三木城攻めでした。
兵糧攻めに出るも、粘る別所軍に思わぬ持久戦に・・・。
長く陣を張り、待つ中で、半兵衛は病に倒れてしまいました。
京都に戻って養生するも、一向に回復せず・・・。
死を悟った半兵衛は・・・
「どうせ死ぬのであれば、戦場で死にたい・・・」
望み通り、戦場に戻ると36歳の若さで亡くなりました。
秀吉はその亡骸に縋りついて泣き崩れたといいます。
病弱だった半兵衛は、私利私欲のない男でした。
いかに敵を攻略するかだけを求めた、生粋の軍師でした。
なので、野心のない半兵衛は、秀吉にとって信頼できる数少ない家臣でした。


中国大返しの後、官兵衛は四国征伐、九州征伐で武功をあげ、秀吉の天下統一に大きく貢献していきます。
しかし、秀吉から与えられたのは・・・豊前12万石の小国でした。
どうして官兵衛の印象は少なかったのでしょうか?

酒の席で・・・
「わしが死んだなら、誰が天下をとると思うか?」by秀吉
家臣らは、徳川家康や前田利家など、有名武将の名をあげたといいます。
すると秀吉は・・・
「官兵衛こそが、天下を取るであろう!!」と言ったと言います。

数々の戦で絶妙の判断・・・多くの信頼を寄せていたものの、あまりの切れ者ぶりにいつしか恐れを抱くようになったのではないか??
天下人の座を官兵衛に奪われるのではないか??
これを伝え聞いた官兵衛は・・・
「某は、恐ろしい者と目されているようだ。」
自分がいると秀吉にお家を潰されてしまうかもしれない・・・と、44歳で隠居。
切れ者過ぎたことで、秀吉に疑念を抱かせてしまった官兵衛でした。

秀吉の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛・・・どちらが最強でしょうか?
どちらか一人ではなく、二人いたからこそ、秀吉は天下をとれたのです。
 


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

<戦国時代の天才軍師>秀吉を支えた二人 竹中半兵衛と黒田官兵衛 (歴史群像デジタルアーカイブス)

知れば知るほど面白い 黒田官兵衛 忍従と野望 (じっぴコンパクト新書)

新品価格
¥12,020から
(2017/11/29 20:42時点)

大河ドラマ 軍師官兵衛 完全版 ブルーレイBOX1 全3枚セット BD【2014年8月29日発売】※発売日以降の発送になります。

価格:13,932円
(2014/12/28 07:17時点)
感想(1件)


1600年5月・・・如水率いる9000の黒田軍は、豊後で次々と西軍を打ち負かしていきます。
九州は大いに揺れ・・・赤合子と呼ばれる如水の兜を見ただけで、恐れをなしました。
如水の快進撃の一方・・・関ケ原では・・・天下分け目の戦いが幕を開けようとしていました。

ここが命の捨て所・・・!!
黒田軍も一気に戦いに・・・!!

九州から天下を狙う如水は・・・関ヶ原の戦いに応じて勢力を拡大・・・
って、このナレーション、ちょっとおかしくない??
だって、関ヶ原の戦いに乗じて・・・って、戦いはほんの6時間だったのに・・・
乗じるも何も、あっという間ですよ・・・。

「九州はすべて黒田のものに・・・!!」by官兵衛


関ケ原では・・・史実どおり・・・日和見な小早川・・・
善戦する三成・・・だって、三成家臣はほとんど討ち死にだもん。

「鳴かぬなら・・・鳴くまで待とうホトトギス」
・・・とどっこい、多分3人の中で一番短気な家康さんは、小早川に向けて砲弾を撃ち込みます。

浅利さんの演技・・・とってもいいですね。
小早川秀秋の気の小ささが手に取るようにわかるわ・・・。
ビビった小早川勢は、三成を裏切って・・・もちろん東軍の巻き返しが始まりました。

ま・・・これに関しては、裏切るかも?感は三成は持っていました。
なので、色々な陣は小早川を牽制しながらの布陣だったんですけどね・・・。
歴史を見ると失敗でしたね。。。


九州・豊後でも戦いが・・・!!
kan7













殿のために、みんな戦ってますよ。
kan6













殿を男にする為に・・・!!
kan5












よく考えると、みんな相当な歳なのになあ・・・。
そんな中・・・
大坂より知らせが届きました。
善助から如水に渡された書状には・・・

「全て・・・終わりました。。。」by善助。

わずか1日で終わってしまっていた関ケ原・・・。
西軍についてしまった恵瓊同様・・・その眼は曇ってしまったのか・・・??官兵衛!?

大坂城では・・・
逆賊・三成を討ち果たしたことを秀頼&淀殿に報告する家康。。。

う~ん・・・こういうところがとっても日本的。
神輿は変わんないってとこがね。。。
こうやって、天皇も万世一系続いてきたんだなあ・・・って、つくづく思うわ。

10月1日・・・三成、恵瓊、行長は捕えられ・・・洛中引き回しの上・・・三条河原にて処刑・・・晒されたのでした。

長政は、この働きで筑前52万石をもらえることになりました。
いよいよ大大名の仲間入りです。

「如水殿は九州で十分と骨を折ってくれたようじゃが・・・
 もう十分じゃとお伝え下さらんか・・・」by家康。

如水は・・・7か国を手に入れるもすべて放棄し・・・豊前・中津へと帰るのでした。

そう・・・武功一番と讃えられた長政・・・。

kan4















しかし・・・この52万石には、これで父を黙らせろ・・・的な含みがあったのです。

「長政・・・内府殿がお前の手を取ったと言うが・・・それはどちらの手じゃ・・・」

「右手にございますが。。。」

「その時お前の左手は何をしておった・・・??」

「左手・・・??」

余った手で家康を討てば・・・黒田の天下だったかも知れない・・・。
そう、もしかすると、家康は長政が家臣たるかどうか見極めようとしたのかもしれません。
前田利家親子然り・・・黒田官兵衛親子然り・・・やはり、二代目はお坊ちゃん育ちなのでしょう。


上座につく家康に・・・まさに拝謁するかのような官兵衛。。。
ここにも既に序列が完成・・・。

でも・・・建前抜きのお話が・・・

「この後・・・徳川殿は・・・どのような世をお作りなさるのか・・・お聞かせ願いたい・・・。」

如水の踏み込んだ質問に・・・家康は

①天下はそれを相応しい者が治めるべきである

②但し天下は一人の天下にあらず

③天下は天下のための天下なり

「わしが死んでも争いの起こらぬ太平の世を創る。。。それがわしの望みじゃ・・・」by家康

「それがし・・・生涯戦で負けたことはござらん・・・。
 此度は内府様に負けました。
 負けて悔いなし。そう思うておりまする。」by如水。

kan1













歩みの違う二人が目指したものは・・・まさに、戦のない平和な世の中でした。
完敗の官兵衛なのです。

筑前に移った黒田家は・・・福岡城を築きます。
黒田家待望の跡継ぎも生まれ・・・黒田の家も安泰です。

家康は征夷大将軍となり・・・江戸に幕府を築きます。

如水は。。。長政を一人前と認め・・・
家臣や民に耳を傾け・・・信じることを諭すのでした。
自分のように・・・”善助のような存在”を探すことを。。。

そして、善助にはあの兜を譲るという。。。
「わしの魂をお主に託す・・・。」

1604年3月20日・・・如水永眠。。。

1615年4月・・・あれから11年が経ち・・・大坂夏の陣・・・乱世最後の戦いでした。
この戦いの豊臣方の牢人に紛れて・・・長政と袂を分かった又兵衛の姿がありました。

そんな又兵衛も・・・討ち死に。。。

「父上・・・某が至らぬばかりに・・・又兵衛を死なせてしまいました。。。」by長政。

そう、又兵衛は、大殿のことが大好きだったのよね。
”父”と慕っていたのです。
なので、本当の子である長政とは、やっぱり確執があったのです。
あんなこと、そんなこと、こんなことを端折って・・・この件だけでわかったんだろうか・・・??
という感じです。

で・・・ああっというまの5月8日・・・大坂城は最後の日を迎えていました。

kan3












大坂城は落城し・・・戦無き世の始まりを如水に語る家康。。。
そう、官兵衛の願った戦無き世が。。。


1年間を通して観て・・・
戦いのシーンが少なかったことがちょっとでしたが、なかなか良かったと思います。
岡田くん、カッコ良かったしね。
俳優陣の気迫もガンガン伝わってきましたしね。
最終回って、いつも回想が殆どでおわるような気もしますが、今回の官兵衛の良かったところは、そんな回想シーンが殆どなかったところかな?

こんな大河は珍しいんじゃないかしら??

そう言えば、去年の今頃、ガンガン官兵衛を宣伝していたNHKさん、「軍師 官兵衛」に心躍らせている自分がいましたが、それが1年も前だなんてね。

山本八重子は好きでしたが、大河はやっぱり男の人でないと・・・と、男尊女卑な私なので??ほんと、ウキウキだったのです。
でも、期待を全く裏切らない作品になっていたんじゃないでしょうか?
偉そうでしたか・・・私??

そう思うと、残念でなりません。。。
なんせ、前回も書きましたが、こんなにオタクな私でも、”杉文”なんて全く知らないのよ。。。
おっと、これは官兵衛でした。

あ~、終わってしまって本当に残念・・・。
でも、みなさま、本当にお疲れさまでした。
まさに、堪能な1年でした。


官兵衛の息子を救った半兵衛・半兵衛の息子を官兵衛の息子が救うはこちら
死ぬまで天下を狙っていた???黒田如水はこちら
黒田官兵衛の夢と野望はこちら
秀吉が最も恐れた男~黒田官兵衛~はこちら


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれえると励みになります。


にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

花燃ゆ(1) [ 大島里美 ]

価格:1,512円
(2014/12/28 07:17時点)
感想(1件)

【新品】【本】2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」完全ガイドブック

価格:1,080円
(2014/12/28 07:18時点)
感想(0件)

【新品】【本】花燃ゆ 前編

価格:1,134円
(2014/12/28 07:18時点)
感想(0件)

このページのトップヘ