日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:黒田官兵衛

戦国最強の武将は誰か??
歴史通の間で評価が高いのは、浪人まで身を落としながらも大名に返り咲いた復活の名将・立花宗茂です。

・二人の父
復活の名将・立花宗茂に大きな影響を与えたと言われているのが、高橋紹運と、戸次鑑連(立花道雪)です。
共に、北九州の大部分を支配していた戦国大名・大友宗麟を支えた重臣でした。
どうして宗茂は二人の父を持つことになったのでしょうか?

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1567年、立花宗茂は、豊後国に生れます。
幼名は千熊丸・・・そこから何度も名を改め、宗茂と名乗るようになったのは40歳を超えてからのことでした。
その宗茂の実の父が高橋紹運です。
高橋紹運は、知略を以て知られた人物で、大友宗麟からも信任の厚い人でした。
そして、最後まで主家である大友家を支えた忠義の人物として知られています。

1581年、15歳になった宗茂は、大友氏に反旗を翻した秋月勢の討伐戦に参加します。
敵将のひとりを討ち取るなど、勝利に貢献したといいます。
これが宗茂の初陣ともいわれ、益荒男ぶりを遺憾なく発揮していました。

高橋紹運と双璧をなす大友家の重臣・立花道雪が、紹運に・・・
「そなたの子をわしにくれぬか」と、申し出ます。
男子がおらず、既に還暦を過ぎてきた道雪は、武勇に優れた宗茂に家督を継がせたい・・・そして、それによって両家の結びつきを強くして主君である大友宗麟をいっそう盛り立てていこうと考えたのです。
しかし、宗茂は大事な跡取り・・・
道雪が、熱心に頼んでくるとその思いに心が動かされた紹運は、宗茂を養子に出すことにしました。
高橋家の家督は、宗茂の弟に継がせることにしたのです。

宗茂が道雪のもとに行く前日・・・紹運は、宗茂に言葉をかけます。

「これからは、わしを夢にも親と思ってはならぬ
 敵味方に分かれることがあれば、お前は先鋒になってわしを討て
 少しでも迷いを見せたら、道雪さまはそれを許しはしない
 道雪さまから親子の縁を切られるようなことになっても、おめおめと帰ってきたりせず、潔く自害するが良い」

そして、自分と戦う時や自害する際にはこれを使えと、「長光の剣」を与えました。
宗茂はこの剣を、終生大切にしていたといいます。
一方、宗茂を譲り受けた道雪は、この時69歳。
35歳の時に落雷を受けた影響で歩行が困難でしたが、輿で戦場に乗り込み負け知らず!!
大友家臣団きっての猛将で、ついたあだ名は「鬼道雪」。
しかし、男子に恵まれなかったため、筑前国にある居城と家督は一人娘の誾千代に譲っていました。
誾千代の誾という字には、慎ましやかという意味が込められています。
非常に男勝りでプライドの高い性格でした。

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1581年、宗茂(15歳)は誾千代(13歳)と結婚、道雪の婿養子となりました。
厳しい道雪に鍛えられた宗茂は、その期待に応えていきます。
1582年、反大友勢の鎮圧に道雪と共に参戦。
敵軍に囲まれて苦戦していた道雪を助け、敵方の城を攻め落とすという活躍を見せました。
その甲冑から、宗茂の身長は180㎝という大柄で屈強だということが想像されます。
心身ともにひとかどの武将に成長した宗茂でしたが、全てが順調というわけではありませんでした。
この頃、主家である大友氏は、島津氏や竜造寺氏に押され、筑後国を失うなどかつての勢いはなく、宗茂の2人の父の奮闘によって、なんとか持ちこたえているような状況でした。

1584年、筑後国の奪回戦に、立花道雪と高橋紹運が参戦。
宗茂は1000の兵で立花城の守備を任されました。
道雪の不在を狙って押し寄せてきたおよそ8000の反大友勢を紀州などを用いて撃退しました。
しかし、翌年、筑後国の戦いを優勢に進めていた道雪が病に倒れそのまま亡くなってしまいました。
それを好機と見た大友氏最大のライバル島津氏が、5万ともいわれる軍を率いて筑前国に侵攻。
もはや、自分のみでは島津軍の侵攻を止められないと悟った大友宗麟は、天下人に大きく近づいていた豊臣秀吉に臣従を誓い、援軍を要請しました。
そして、宗茂の実父・高橋紹運は援軍が到着するまでの時間を稼ぐため、筑前国にある居城・岩屋城で島津軍を迎え撃ちました。

とはいえ・・・紹運の兵はわずか700・・・到底勝ち目はありませんでしたが、紹運は一歩も引かずに徹底抗戦を貫きました。
結果は、紹運を含む全員が討死!!
それでも島津軍に死傷者およそ4500人という甚大なダメージを与えたのです。
まさに武士の鑑だった高橋紹運・・・しかし、秀吉の援軍はまだ到着していません。
島津軍の矛先は、岩屋城からわずか4里・・・およそ16キロ離れた宗茂の守る立花城に向けられました。

二人の父を失った宗茂・・・しかし、悲しみに暮れる暇もなく、
1586年8月、宗茂の居城である立花城が島津軍に包囲されてしまいました。
宗茂軍が籠った立花城は、標高376mの立花山の山頂に築かれた堅固な山城でした。
その城で、宗茂は徹底抗戦の構えを崩さず、島津軍が降伏を迫っても応じませんでした。
すると島津軍は、豊臣秀吉の援軍が迫る中、立花城の攻略に時間を割くのは得策ではないと撤退を開始しました。
これを見た宗茂は、
「今が勝機!打って出る!!」
と、島津軍を追撃します。
怒涛の勢いで討ち取り、その数は一説に1000人以上。
さらに、島津方の城となっていた高鳥居城を攻め落とし、父・紹運が最後まで戦いぬいた岩屋城を奪回しました。
時を前後して、秀吉が送った援軍が続々と九州に上陸。
1587年3月には、秀吉自身も豊前国に入りました。

宗茂の奮闘を伝え聞いた秀吉は、いたく感心したと言われ・・・
その武勇を讃えた文書にはこう記されています。

”宗茂は九州の一物である”

秀吉は、総勢25万ともいわれる大軍を二つに分け、東西それぞれのルートで島津の本拠地である薩摩を目指すことに・・・。
秀吉は、西側ルートの指揮を執りその先鋒を任されたのが宗茂でした。
すると宗茂は、竹迫城、宇土城、出水城、大口城といった島津方の重要拠点を次々と攻略。
追い詰められた島津氏は、もはや勝ち目はないと降伏し、九州は秀吉の手によって平定されたのです。

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そして、1587年6月、宗茂は秀吉から
「その忠義鎮西一 その剛勇また鎮西一」
と、讃えられ、筑後国柳川13万2000石を拝領します。
21歳にして大友氏から独立し、豊臣家の直臣大名に取り立てられたのです。

13万2000石の大名となった宗茂は、立花城から柳川城に居城を移します。
宗茂はこの地で領国経営に力をつくしたと言われ、宗茂が農業用水の確保のために作った運河は、今も残り、立花宗茂の名をとって花宗川と呼ばれています。

家臣や農民からも慕われる良き殿様・宗茂・・・しかし、一つ問題がありました。
誾千代と別居・・・
誾千代が移り住んだ館は、柳川城から500mほどの位置にあり、別居の理由は今もはっきりとわかっていません。
子供がいなかったこともあって、2人は不仲だったともいわれていますが・・・
当時は、誾千代を当主と仰ぐ勢力もあったようです。
立花家内の勢力争いを解消するために城を出たのではないか?と言われています。
夫婦といううよりも、立花家を守る同志!!
二人はそんな関係だったのかもしれません。

立花宗茂 天下無双
豊臣秀吉から武勇を絶賛され、13万2000石の大名に取り立てられた立花宗茂。
主君となった秀吉のために、次々と武功をあげていきます。
宗茂が大名となった1587年の7月、肥後国で大規模な一揆が起きました。
秀吉はすぐに鎮圧隊を送りましたが、必死に抗戦する一揆勢は手ごわく、苦戦を強いられます。
すると宗茂は、1200あまりの兵を率いて肥後に入り、鉄砲隊を駆使して戦況を打破、時には1日に13度も戦い一揆勢が戦勝していた城を次々と落とし、およそ650の首を討ち取ったといいます。
一揆勢が降伏したのは、それから間もなくのことでした。

比類なき強さを再び見せつけた宗茂は、一揆鎮圧の翌年、従五位下侍従を授かり、豊臣姓を下賜されます。
そして1590年、宗茂は小田原攻めで集められた諸大名の前で秀吉からこう称賛されます。
「東の本多忠勝 西の立花宗茂 天下無双」
徳川四天王の一人である本多忠勝は、勇猛果敢で知られた猛将でした。
その忠勝と並び称されたのは、宗茂にとってこの上ない名誉でした。

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1592年、文禄の役・・・
3000あまりの兵を率いる宗茂は、明の軍と激突した碧蹄館の戦いで先鋒を務めます。
多くの将兵を討ち取って、日本軍の勝利に貢献します。
主将を務めていた小早川隆景から「立花の三千は他家の一万の軍勢に匹敵する」と、称賛されました。
二度目の朝鮮出兵・・・慶長の役でも、宗茂は落城寸前だった日本勢の城・蔚山城に駆けつけ、籠城していた加藤清正を救うなど活躍を見せました。

ところが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵は中止。
宗茂の運命も大きく揺さぶられることになります。
帰国した宗茂たち諸大名を待っていたのは、五奉行筆頭の石田三成と、五大老筆頭の徳川家康の対立でした。
秀吉の嫡男・秀頼を支え豊臣家を守ろうとする三成に対し、家康は天下取りの野心をたぎらせ勢力拡大していました。
1600年、石田三成は、五大老のひとり・毛利輝元を総大将に担いで家康を討つべく挙兵!!
すると、家康は、秀吉から天下無双と称賛された宗茂を東軍に勧誘します。
一説には、東軍勝利の暁には宗茂の所領を50万石に加増するという破格の条件を出したと言われています。
しかし、宗茂は、西軍に着きました。
柳川家臣団から東軍につくべきという声が上がり、三成との確執があった加藤清正からも西軍への参加を思いとどまるように言われますが・・・宗茂の決意が揺らぐことはありませんでした。
自分を大名に取り立ててくれた秀吉への恩顧に報いるため、西軍についたと考えられます。
また、毛利やその一族である小早川家は、朝鮮出兵で宗茂と同じ隊で戦っていました。
近しい関係だったので、行動を共にしたとも考えられます。

しかし・・・天下分け目の関ケ原に宗茂の姿はありませんでした。
1600年9月7日(関ケ原の戦いの8日前)
宗茂は、西軍から東軍に寝返った大名大津城主・京極高次を討つため、その居城である近江国の大津状を包囲。
大津は琵琶湖に面した交通の要衝だったため、寝返りに早急に対処する必要があり、その任を宗茂が任されたのです。
戦いは、鉄砲隊を使った宗茂が終始優勢・・・しかし、京極の軍勢を粘りを見せなかなか降伏せず、ようやく9月15日に城を明け渡しました。
9月15日・・・その日こそ、関ケ原の戦いが始まった日でした。
しかも、戦いはわずか半日で西軍の大敗に終わったのです。

納得できない宗茂は、大坂城に向かい西軍の総大将・毛利輝元に訴えます。

「大坂城に籠って徹底抗戦すべし!!」by宗茂

しかし、すでに家康と和睦交渉を始めていた輝元はそれを認めませんでした。
止む無く宗茂は領国・柳川に向けて撤退を開始。
するとその道中で西軍として戦った島津軍に遭遇します。
島津軍は、九州の覇権をかけて闘ったかつての敵で、宗茂の実父の仇でした。
家臣たちは、仇を討つ機会だと息を巻きます。

「敗軍を討つのは武門の恥」by宗茂

逆に、島津軍の護衛を申し出て、共に九州に帰りました。
宗茂の男気に島津義弘が感服したのは言うまでもありません。

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10月、柳川城に帰還。
すでに、この時家康の命を受けた鍋島直茂・加藤清正・黒田官兵衛たちが、柳川侵攻の気配を見せていました。
一説に、誾千代は、女官たちと共に武装し敵襲に備えていたといいます。
まもなく、鍋島軍3万が、柳川の領内に進攻。
立花軍の兵力はその1/10ほどしかなく、死力を尽くして戦うも、宗茂は将兵たちを失って行きました。
戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛は、これ以上の戦いは無益だと、宗茂を説得。
宗茂はそれを受け入れて、柳川城を明け渡しました。
宗茂を慕う領民たちは、「柳川を見捨てないでほしい」と懇願しますが、宗茂は、
「皆を戦に巻き込みたくない故降伏したのじゃ」・・・領民を巻き添えにしたくない宗茂の苦渋の決断でした。

関ケ原の戦いの後、改易された大名は88家・・・立花家もその一つで、所領も城も失った宗茂は、34歳にして浪人となってしまいました。
加藤清正や前田利長は、その器量を惜しみ仕官話を持ち掛けます。
しかし、宗茂はそれに応じることはありませんでした。
大名への復帰・・・立花家の再興を諦めていなかったからです。
その為宗茂は、加藤清正が治める肥後国に妻や家臣たちを預けます。
20人ほどの側近と京にのぼり、浪人生活を開始します。
当時の家康は、伏見城で政務を行うことが多かったので、近くにいてお家再興の機会をうかがっていたのです。
しかし、貧しい生活が続き・・・1602年10月、誾千代が死去。

立花宗茂 大名復帰
1606年9月・・・千載一遇のチャンスが・・・!!
家臣に宛てた手紙には・・・
”将軍様に召し出され候 まずもって当分 心安くこれあり”
これ以上家臣たちに苦労をかけずに済むという安堵の言葉でした。
そして宗茂は、2代将軍・秀忠と謁見、陸奥国棚倉に1万石を拝領・家臣として取り立てられます。
1万石は、大名と呼ばれる最低限の所領で、しかも柳川から遠く離れた東北の地でしたが、宗茂は6年ぶりの大名復帰を果たしました。

どうして将軍・秀忠は宗茂を召し抱えたのでしょうか?
「徳川実記」には、秀忠は武勇の誉れ高い宗茂を、将軍になった暁には召し抱えたいとかねてから考えていたと書かれています。
家康も健在だったことから、家康の意向を抜きには考えられません。
一説によると、家康は宗茂を高く評価しており、若い秀忠の相談役にしようと考えていたようです。
当時は大坂城に豊臣秀頼が健在でした。
宗茂を豊臣方に取られると大きな痛手となるので、先んじて召し抱えたのです。

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関ケ原の戦いで西軍についたため、改易されて浪人になるも徳川秀忠のもとで大名に復帰した立花宗茂・・・
大名復帰の4年後には、江戸御留守番に就任しました。
将軍の警護が主な仕事だったと考えられています。
それに伴い、宗茂の所領は3万石に加増、幕府内での地位も高まっていきました。
そして、大名復帰から8年がたった1614年・・・徳川が豊臣との最後の戦い・大坂の陣に臨むことになります。

立花宗茂 柳川に戻る
大坂の陣で、かつての主君・豊臣家を敵に回すことになった宗茂・・・

「秀吉さまへの恩は、関ケ原で返した」by宗茂

徳川家に仕えて8年・・・もはや、迷いはありませんでした。
この時、48歳。宗茂は、大坂の陣で重要な役を担います。
秀忠のそばにあって、軍事の指南役を担っていました。
2度に渡った大坂の陣・・・それは最終決戦・夏の陣の時のこと。
秀忠が宗茂に尋ねます。

「本陣をもっと前方に置くべきではないか」by秀忠
「敵は必死に攻めてくるため、本陣は後方にひくべきです」by宗茂

これには多くの者が異を唱え、結局本陣は動かしませんでした。
いざ戦いが始まると、豊臣軍の圧力に押され、本陣を1キロほど後方に下げることになりました。
重臣たちは、宗茂殿が正しかったと、自分たちの見通しの甘さを認め、さらに本陣を下げようとします。
ところが宗茂は、
「先ほどの戦闘で敵は力を使い果たし、動きが緩慢になっております
 もはや、本陣を下げる必要はなく、このまま戦うべきです」by宗茂

すると、またしても宗茂の読みが的中・・・
敵はそれ以上攻め込むことが出来ず、至近距離から徳川軍の攻撃を受けた豊臣軍は、総崩れとなりました。

あまたの激戦を制し、勝ち方をよく知っていた宗茂は、軍師としてもまた天下無双!!
これを聞いた家康は、
「今後も宗茂とは懇意にすべし」と、秀忠に命じました。
その家康が、大坂夏の陣の翌年、駿府城で病に伏すと、秀忠は見舞いのために江戸城を留守にしましたが、その間、江戸城大手門の警備を任されたのは宗茂でした。
通常は譜代大名が務める任務で、家康の言葉通り、秀忠が宗茂を重用していたことが伺えます。

そして、1620年、54歳になっていた宗茂は・・・宿願を果たします。
立花家が改易されたのち、柳川には田中家が入っていましたが、跡継ぎがいなかったことで取り潰しに・・・
代わって宗茂が20年の時を超えて旧領に復帰したのです。
柳川藩10万9000石の大名に返り咲いた宗茂は、肥後国の加藤清正のもとに預けていたかつての家臣たちを柳川に呼び戻しました。
歓喜の再会・・・
関ケ原の戦いで失った旧領を回復したのは、立花宗茂ただひとりでした。

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立花宗茂が最後の勇士を見せたのは、1637年の島原の乱。
宗茂はすでに70歳を超えていたといいます。
3代将軍・家光の命を受けて参戦!!
幕府軍の総大将・松平信綱の補佐役を務め、敵の夜襲を的確に予想し、兵糧攻めを指示したり、往年の実力を見せつけ、一揆勢が立てこもる原城での戦いに一番乗りを果たした際には、武神が再来したと称賛されたといいます。
そして、76歳・・・波乱の生涯に幕を閉じました。
宗茂のかつての領地・福岡県柳川市に鎮座する三柱神社・・・
ここには、天下無双の名将・宗茂と、義理の父・立花道雪、妻・誾千代が御祭神として祀られています。
その為、復活の社とされ、現在も宗茂にあやかろうとする人々の厚い崇敬を集めています。

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戦国の世に革命をもたらし、天下統一を目指した武将・織田信長・・・

その冷酷な言動ゆえに、魔王と呼ばれて畏れられた信長に、刃向かった男たちがいました。
ひとりは、本能寺の変を起こした明智光秀。
信長が光秀の謀反により命を落としたのは有名です。
しかし、信長が信頼する重臣に裏切られたのはこれが初めてではありませんでした。
本能寺の4年前・・・光秀より先に信長に反旗を翻したのが、摂津国を治めていた荒木村重でした。

荒木村重史料研究 信長公記が村重をおとしめた

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大阪市北西部に位置する池田市・・・ここにはかつて摂津国の有力国人であった池田氏の城がありました。
1535年、池田氏に仕える荒木家に生まれた村重は、優れた武将に成長し、当主になると主君である池田勝正に信頼され、重臣の一人となりました。
村重が仕えていた池田氏は、摂津国北部を支配、畿内や四国で力を有し、室町幕府足利将軍家と対立していた三好勢の傘下にありました。
そんな池田氏や村重たちの運命は、ある男の登場で翻弄されることになります。
尾張の織田信長です。

1568年、天下を狙う信長は、室町幕府再興を目指す足利義昭と手を組み上洛・・・
信長が、三好勢を京都から追い出したことで、義昭が15代将軍に就任します。
この時、池田氏当主の勝正は、京都を追われた三好勢を見限り、将軍となった義昭に寝返りました。
これに、池田氏内の三好派の重臣たちが猛反発!!
謀反を起こし勝正を追放、新たな当主として勝正の弟・知正を据えたのです。
村重は・・・??
三好派側にいたため、池田氏の重臣として残りました。
しかし、義昭が将軍となったことで、摂津国の情勢は大きく変わります。
将軍義昭が、側近だった和田惟政に摂津北東部の支配を任せたことで、北東部の和田氏、北部の池田氏、西部の伊丹氏らが鎬を削る状況となったのです。

1571年、池田知正と和田惟政が、領地争いにより激突!!
この時、敵将の惟政を討ち取ったのが、村重でした。
フロイスの”日本史”によると、発端は和田惟政が荒木村重の領地の境に城を築いていきました。
これによって、村重が激怒、惟政を討ち取って武功をあげることになります。
この戦いで、池田家臣団のその他大勢ではなく、池田家臣団を率いていく代表の地位を固めていきます。
しかし、惟雅の息子惟長が党首を継いだことで、池田氏と和田氏の対立が続くこととなります。

一方、信長もまた敵対する勢力に苦しんでいました。
1573年、三方ヶ原の戦い・・・信長は、徳川家康と手を組み、武田信玄と戦うも完敗・・・
これを知った将軍義昭が、信長を見限り、反信長勢力と手を組んだのです。
信長は、足利将軍家、三好勢、大坂本願寺、浅井長政、朝倉義景、武田信玄にまで包囲される形となり、窮地に追い込まれました。
そこで、将軍義昭に人質を差し出し、和睦を申し出るも、義昭はこれを拒否。
これで戦となれば、信長の敗北は決定的であろうと畿内の武将たちの誰もが思っていました。
そんな中、村重は敗色濃厚な信長方につくことを決意します。

この時、池田氏内で村重と対立関係にあった重臣たちが、反信長勢力となった将軍・義昭方につきました。
そこで、村重は、対立する重臣たちに対抗するため、信長に味方することにしたのです。
池田氏内の勢力争いに勝つため、信長にかけた村重・・・
同じく、将軍・義昭の家臣から織田方についた細川藤孝を通じ織田家に忠節を誓う旨を伝えました。
そんな中、村重は、池田氏と対立していた摂津北東部を支配していた和田惟長を追放。
北摂津最大の実力者となったのです。

荒木村重研究序説?戦国の将村重の軌跡とその時代

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そして1573年3月29日・・・村重は、近江で初めて信長に対面します。

”村重が信長の前に進み出ると、信長は自らの刀を引き抜き、そこにあった大きなまんじゅうを突き刺し、村重の前に差し出した
 すると、村重はひるむことなく、大口を開けてそのまんじゅうを口にくわえた
 これを見た信長は大喜びしたといい、名刀を与え、摂津方面は任せたと、村重が摂津国を支配下に置くことを許した”by陰徳太平記

信長は、将軍・義昭と和睦するため、その交渉役に荒木村重と細川藤孝を起用。
そこには、将軍・義昭に圧力をかけるという狙いがありました。
その思惑通り、将軍・義昭は、疑念を抱きます。
京都に近い摂津の実力者である村重や、それまで自分に仕えていた細川藤孝まで信長についたことで、このまま信長と対立を深めると、都の周りの他の武将たちも寝返るのではないか・・・
そんな、好戦意識の薄れた将軍・義昭を、信長はすかさず攻め、京都から追い出しました。
こうして、室町幕府が滅亡へと追い詰められていきました。
村重の決断は、信長の危機を救っただけでなく、室町幕府滅亡という日本の大きな歴史を変えるきっかけとなったのです。

そうした功績から、村重は、信長の厚い信頼を得て、柴田勝家や丹羽長秀らとならび織田家の奉行を任されます。
さらに、摂津一国を支配する権限を与えられたのです。
これによって、池田氏との立場は逆転!!
池田知正が村重の臣下となりました。
摂津を治める権限を与えられたとはいえ、摂津には、まだ西部を支配する伊丹氏などの武将がいました。
切り取り次第・・・自力で支配領域を広げていかなくてはなりませんでした。

1574年、村重は、西摂津への侵攻を開始。
物流の要所だった尼崎を押さえたことで力を増し、伊丹氏などを滅ぼすことに成功!!
摂津国の統一を成し遂げました。
そんな中、村重は、明智光秀の娘を嫡男・村次の正室に迎えていました。
信長のもとでともに活躍していた外様の光秀との関係を強化することで、新参者である自らを守り、その地位を確かなものにしようとしました。
さらに、村重は織田軍の主力として各地を転戦!!
常に最前線で戦い続けることで、自らの存在を信長にアピールしていきました。

1575年、活躍目覚ましい村重に、信長は播磨国の浦上宗景の救援を命じます。
信長は、備前国の実力者だった宗景を味方にするため、備前・美作・播磨三国の支配権を与えたのですが、宗景には三カ国を治める実力がなく、毛利方の武将・宇喜多直家に次々と城を奪われていました。
信長が宗景の実力を見誤った尻拭いをすることになりましたが・・・
播磨に向かうと、信長の期待に見事にこたえ、小寺氏、別所氏など、播磨の武将たちを説得し、信長への忠誠を誓わせます。
その村重の能力を、信長は高く評価、ますます信頼を置くようになります。
こうして村重は、播磨方面の武将と信長を仲介する取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となりました。

ところが・・・1578年10月21日。
安土城にいた織田信長のもとに、荒木村重が背いたという知らせが届きます。
信長は信じませんでした。
というのも、村重は、織田家代々の家臣ではないものの信長に忠誠を誓い、何度のも窮地を救った功労者だったからです。

謀反のきっかけ①大坂本願寺攻め
1576年、信長と敵対していた仏教勢力・本願寺が、法主の顕如を中心に大坂で挙兵!!
村重は、信長から明智光秀らと共に大坂本願寺攻めを命ぜられます。
村重ら信長軍は本願寺を包囲、何度も攻撃するも落とすことができず、とうとう信長自ら援軍に駆けつけました。
どこまでも力攻めにこだわった信長は、次に行う総攻撃で村重に先鋒を命じます。

「それは、お受けできませぬ!!」

この時、本願寺は、信長と敵対している毛利輝元に援軍を要請しています。
これにたいして、輝元は、兵糧や弾薬を、水軍を使って大坂本願寺に届けようとしていました。
これを見越していた村重は、海からの補給を断つために木津川口を遮断、無益な力攻めではなく、兵糧攻めを行う準備をしていました。
村重が先鋒を断ったのは、もはや力攻めではできないと考え、兵糧攻めの準備をしていたからでした。
しかし、村重が兵糧攻めに変えるよう進言するも、信長は総攻撃を決行したのです。

結果は、またしても失敗!!
結局、兵糧攻めに戦法を変えることになります。

村重の意見を無視し、いたずらに力攻めを行って失敗・・・
兵糧攻めの際も、村重ではなく尾張出身の佐久間信盛を本願寺攻めの司令官に登用。
こうしたことから、信長の人材登用の不公平さを村重は不満に思い始めていました。
おまけに、佐久間信盛は、結局、本願寺を攻め落とすことができませんでした。

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謀反のきっかけ②羽柴秀吉の行動

1577年、信長は、毛利輝元の勢力圏内である山陰、山陽道の侵攻を決断。
その中国方面軍総司令官・総大将に羽柴秀吉を指名します。
これを聞いた村重は・・・怒ります。
播磨方面の武将と、信長の取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となっていた村重が、総司令官になってもおかしくはなかったからです。
さらに、秀吉の行動が村重を怒らせます。
中国方面軍の総司令官として播磨に入った秀吉は、播磨の実力者小寺政職の家臣・黒田官兵衛を参謀役に起用、官兵衛の居城・姫路城を毛利攻めの拠点にしたのです。

これが、信長を見限る決め手となりました。
もともと小寺などを味方につけたのは村重でした。
その功績を無視して、秀吉が小寺氏の家臣である黒田官兵衛と繋がっていく・・・
これは、村重の権益を侵すものでした。
そうして、村重の取次役としての面目をつぶすことになりました。
本来ならば、播磨方面の取次役である村重が、小寺政職に話がいき、その小寺から黒田官兵衛に話がいくのが筋でした。
それを、秀吉は無視して、直接官兵衛を起用してしまったのです。
権益を侵され、メンツをつぶされることは、当時の武将にとってその地域の支配力を失うのと同じことでした。
周囲の武将たちからも、見限られかねません。
そして、なにより村重は、自分を無視した秀吉の行動を、信長が容認したことに腹を立てたのです。
つまり、村重が信長に叛いたのは、尾張出身の家臣を優遇し、功労者の村重を蔑ろにした信長への不信感によるものでした。

村重の謀反が事実だと知った信長は、すぐに説得に乗り出します。

「不満があるなら聞くとつたえよ!!」

そう言って、明智光秀や羽柴秀吉など、錚々たるメンバーを説得に当たらせますが・・・村重は応じませんでした。
すると、信長自ら筆を執り、こう認めたのです。

「天下の面目を失った
 早く出頭せよ
 待っている」

それまで自分に歯向かう者は、実の弟でも殺害してきた信長が、村重を許し、説得して呼び戻そうとします。
それだけ、村重を評価し、天下取りに欠かせない存在と思っていたからです。
しかし、信長の書状にも村重の気持ちは揺るがず・・・
秀吉の参謀役となっていた黒田官兵衛が説得に有岡城にやってくると、村重は官兵衛を有岡城内に幽閉してしまいました。

当時の常識では、外交官・使者は、敵に捕まったら殺されてもおかしくない時代でした。
しかし、官兵衛を殺してしまうと、官兵衛の主君である小寺政職が離反しかねない・・・
そこで、村重は、あえて官兵衛を殺さず、軟禁することで小寺に対し恩を売りつけたのです。

村重は、信長に反するにあたり、味方を増やすための様々な工作を行っていました。
事前に安芸・毛利輝元に同盟を要請、その証として人質を送っています。
さらに、本願寺の顕如とは、同盟を結ぶ際の細かい条件を決めた起請文を作成。
村重は、反信長勢力と結ぶなどして、謀反の準備を進めていました。

1578年10月、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、軍勢を有岡城・尼崎城・花熊城などに分け、籠城戦に打って出ます。
対する織田軍は、村重が籠城する有岡城に攻撃を仕掛けると苦戦!!
有岡城が難攻不落!!
村重は、もともと伊丹氏の本拠地であった有岡城を奪った後、大改修を行っていました。
城下町を土塁と堀で囲い込んだ惣構の城とし、周囲に3つの砦を配置するなど、防御機能を最大限に強化していました。
その為、織田軍は城攻めにてこずり、逆に反撃にあって2000もの死傷者を出してしまいました。
力攻めが通用しないと悟った信長は、兵糧攻めに変更します。
しかし、荒木軍は、2年近くも織田軍に抵抗します。
それは、有岡城が難攻不落の城だっただけでなく、援軍があったからでした。
安芸・毛利輝元は、軍勢を摂津に派遣、本願寺も紀伊の傭兵集団である雑賀衆などを送ってきました。
援軍が、海路を通り、尼崎などから上陸、兵糧はもちろん、武器や兵力の補充がなされたことで、荒木軍は長期の籠城戦に耐えることができました。

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そして、もうひとつ、村重の籠城を支えたものは・・・
地元・摂津の領民たちでした。
花熊城には近隣の村々から1000人余りが加勢して立てこもり、六甲山地周辺の農民たちは、海から有岡城への補給路を守るため立ち上がります。
全ては、領主である村重の為・・・
村重は、有事の際、周辺の領民が逃げ込める場所を作るなど、領民思いの領主でした。
その為、領民は信長が主になることを断固阻止したかったのです。

信長は、戦の際に領民たちを総動員させる体制を作らせました。
このような体制が、摂津の領民たちに不信感を抱かせていました。
信長に駒として扱われることを避けたい領民たちは、自分たちを守ってくれる村重に協力することを選びます。
村重と共に戦う・・・となっていったのです。
領民たちが協力したことで、長期の籠城戦に耐えることができたのです。

織田信長に反旗を翻した荒木村重は、居城である有岡城で籠城・・・
対する信長は、織田信忠・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益など織田軍の精鋭たちを送り込みます。
しかし、そんな織田軍に対し、村重は果敢に猛攻を跳ね返していきます。
ところが、1579年9月2日、村重は突如有岡城を出て、嫡男が守っていた尼崎城へと移ってしまいます。
信長公記によれば、村重は夜陰に乗じて数人の家臣を連れて城を出ます。
妻子や家臣を見捨てて逃亡したと言われています。
この時、備前に宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返ったことで、毛利軍は尼崎城、花熊城から撤退し始めていました。
おまけに、拠点の尼崎城が落城することがあれば、村重の有岡城だけではなく、大坂本願寺への補給もたたれてしまう・・・!!
村重は、危機的状況にあった尼崎を守ろうとしたのです。
有岡城を見捨てたわけではありませんでした。

村重は、尼崎城に移ってからも毛利や雑賀に援軍を・・・戦線を立て直そうとしていました。
ところが、村重が家臣・荒木久左衛門や妻のだしに任せた有岡城で誤算が生じます。
村重不在の有岡城で、城兵たちの士気が低下・・・
結束力が弱まったとみた織田軍の武将・滝川一益が、内通社を通じ、有岡城の足軽大将たちを寝返らせます。
そして、惣構えの中に侵入すると、城下町に放火して、本丸だけの裸城にしてしまいました。
もはや、落城寸前・・・!!
すると、村重と姻戚関係にあった織田方の明智光秀がやってきて説得します。

「村重殿、有岡城は間もなく落ちる・・・
 潔く、この尼崎城も明け渡しなされ
 そうすれば、上様は城内の女子供や家臣たちの命を助けると仰せですぞ!!」by光秀

有岡城内の女子供や家臣の命と引き換えに、尼崎城の開城を要求します。

「白を開け渡すことは、出来ぬ!!」by村重

これを聞いた信長は、
「己ひとりの命を惜しみ、開城を拒むとは前代未聞!!」
そう言って、有岡城を落城させると、見せしめのために尼崎城の近くで有岡城にいた家臣やその妻子ら500人余りを処刑!!

”女たちの悲しみ泣き叫ぶ声が天まで響いていた”by信長公記

さらに、信長は村重の妻・だしをはじめとする荒木一族ら30人を京都の六条河原で処刑したのです。
その為、村重は妻子を見殺しにした卑怯者と言われますが・・・
本当に村重は卑怯者だったのでしょうか??

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信長公記によると、開城を拒否したのは荒木村重一人だけの責任のようにしていますが、尼崎城と花熊城には荒木村重の軍勢だけではなく、毛利氏からの援軍や本願寺からの援軍(雑賀衆)がいました。
彼等も籠城していたため、ひとりでは決断できなかったのです。
ひとりの決断で城を明け渡せる状態ではありませんでした。
開城すれば女子供は殺さない・・・というのは、信長の方便だったと思われ、それを知っていた村重は、信長を信用して城を明け渡すことはできなかったのです。

結局、有岡城の女子供は処刑された後、8か月も村重は籠城戦を続けます。

信長公記では、村重のことを恩知らず、卑怯者と書かれました。
わざと村重を悪く書いています。
これは、作者の太田牛一が、信長の家臣であったこと、主君の信長を美化した結果なのです。

1579年11月、有岡城落城。
しかし、荒木村重がこもる尼崎城や花熊城での籠城戦は依然続いていました。
ところが、1580年4月、本願寺・顕如が織田信長と和睦して大坂を退去・・・。
村重が同盟する顕如は、大坂城を開城したことで、織田軍は大坂に張り付けていた軍勢を、尼崎城と花熊城に集中させることができました。
つまり、荒木軍の敗北は決定的となっていきます。
7月2日、花熊城落城・・・すると、村重は、「もはや・・・これまで・・・!!」
村重は、嫡男・村次らと共に尼崎城を出ると、信長の追撃を避けるため、毛利氏の領国へと逃れ生き延びます。
荒木家再興のために・・・!!
こうして2年近くに及んだ籠城戦・・・信長に反旗を翻した村重の戦いは、終わりを告げました。
この時、46歳・・・!!
その後の村重は、表立った行動ははっきりとわかっていません。
しかし、道薫と名乗り、茶人として堺での茶会に参加したことが記録に残っていることから、堺に移り住み、毛利方の交渉役として活動していたと考えられています。

信長に果敢に刃向かった荒木村重は生き延び、1586年5月4日、52歳で死去・・・
荒木家の再興を息子たちに託して・・・!!
しぶとく戦い抜き、生き残ることで再起をかけた荒木村重・・・民を思う優しさと、先を読む鋭さを兼ね備えた武将でした。

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天下分け目、関ケ原の合戦・・・わずか半日で決着がついたといわれていますが、戦いが行われていたのは関ケ原だけではありませんでした。
この時、遠く九州を舞台にもう一つの関ケ原の戦いが繰り広げられていました。
その主人公が黒田官兵衛・・・秀吉の天下統一を軍師として支えた人物です。
秀吉の死後、全国の武将が東軍と西軍に分かれ、決戦の時が近づいていました。
この時、九州の領主だった官兵衛は、大胆な行動に打って出ます。
蓄えていた金銀によって、9000もの兵を集め、九州各地への侵攻を開始したのです。
領主も兵も関ケ原に赴き、守りが手薄になっていた城を次々と落としていきます。
その勢いはすさまじく、九州に残る敵は、薩摩の雄・島津氏のみとなりました。

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江戸時代の逸話集に、官兵衛がこういったと書かれています。

「家康を攻め滅ぼし 天下を取らんと思わんには いと易きことなり」

果たして官兵衛には、天下取りの野心はあったのでしょうか?
大分県中津市にある中津城・・・豊臣秀吉の九州平定後、この地の領主となった黒田官兵衛が築いた城です。
中津城は、山城ではなく平地に城を築いています。
側には川が流れており、船を通じて色んな物資をそして情報をダイレクトで把握することができます。
物流の大動脈を、城が直接おさえていました。

川と海に面して築かれた中津城。
官兵衛は、大坂との間に早船のルートを作り、上方の情報をわずか3日ほどで手に入れていました。
秀吉死後の権力争いや、石田三成の挙兵についてもいち早く情報を掴んでいたといわれています。
今も残る官兵衛時代の石垣からは、海のそばに強固な城を作るため、官兵衛が施した工夫がみられます。
官兵衛は、長細い石を横に使うのではなく奥に縦に使う・・・川のそばで地盤としては強力でないということに配慮していました。
400年の時を越えて、石垣が今も立派に残っているのです。

もともと播磨国の小領主に過ぎなかった黒田官兵衛。
しかし、豊臣秀吉に仕えて以降、天下統一の参謀役としてその才能を如何なく発揮します。
中国地方の雄・毛利氏との戦いでは、川を堰き止める大胆な作戦で、備中高松城を水没させます。
さらに、本能寺の変が起こるや驚異的な速度での行軍で、中国を大返しを成功させました。
近年発見された賤ケ岳の戦いで秀吉が送った書状・・・
ここでも、官兵衛が戦に加わっていたことが見て取れます。
その後も、四国平定や、九州平定で功をあげ、1587年、豊前6郡(12万石)を与えられます。
しかし、それは、官兵衛の功績からすると少なすぎるとの見方もあります。
その理由については、黒田家が編纂した「黒田家譜」にはこう記されています。

”官兵衛の大志あるを忌給ひ
 其功は大なるといえども
 終に大国を賜わらず”

官兵衛に野心があると秀吉が考えたため、領地を多く与えなかったというのです。
秀吉の官兵衛に対する警戒・・・
それを示す事実がもう一つあります。
領地を与えられた九州は、治めるのが非常に難しい土地でもありました。
秀吉は、九州平定に当たって、国衆や地侍に領地の安堵を約束。
しかし、実際には、検地を強行して隠していた田畑を明らかにし、領地替えを命じるなど、それまでの権益を奪い、支配を強めていきました。
その為、秀吉が送り込んだ領主への反感が高まり、九州各地で大規模な反乱が勃発!!
肥後を与えられた佐々成政は、度重なる反乱によって領地支配に失敗し、秀吉から切腹を命じられます。
官兵衛が領主となった豊前でも、各地で国衆の反乱が起きていました。

中津城の東・20キロの場所にある高森城・・・官兵衛が、豊前を統治するために築いた城です。
城の本丸は、二重の堀によって守られ、迫りくる敵に矢や鉄砲を撃つ櫓台まで設置されていました。
官兵衛は、この高森城のような軍事要塞を各地に設置、それを拠点に反抗する国衆たちを次々と打ち破っていきました。
官兵衛の居城・中津城にある城井神社・・・これは、官兵衛に滅ぼされた武将を祭ったものです。
祭られている祭神は、宇都宮鎮房という戦国武将です。
宇都宮氏は、鎌倉時代から約400年間豊前の地を拠点にして支配をしていました。
新たにやってきた黒田家・・・黒田官兵衛に対して反抗します。
秀吉は、豊臣政権に反抗する国衆への厳しい処分を命令。
官兵衛の、宇都宮鎮房への対応も凄惨なものとなりました。
鎮房と一旦和睦し、中津城に招き入れて、家臣もろとも暗殺したのです。
さらに家族も捕縛し、磔にしてしまいます。

官兵衛は調略を得意として、だまし討ちを好むタイプの武将ではありませんでした。
自分としてはやりたくはなかった・・・
しかし、秀吉の命令で、ジレンマに陥り、その犠牲になったのが鎮房
でした。
秀吉の命令を実行するときには、それに抵抗する者は討たざるを得ない・・・!!
苦しい立場に置かれていました。
秀吉の命令に納得できない思いを持ちつつも、従わざるを得なかった官兵衛・・・
豊前入国から2年後の1589年、領内の抵抗勢力を一掃します。
しかし、この豊前支配での苦悩は、官兵衛にある思いを抱かせました。
九州は、島津氏をはじめとして、古くからの大名と新たにやってきた大名が入り混じった土地でした。
秀吉が、しっかりしていれば統治体制は揺るがないものになる!!
しかし、秀吉に何かあったら・・・豊臣政権の権威が揺らぐようなことがあれば、九州は一波乱ある!!
そのチャンスは絶対来ると、準備をしていたのが官兵衛でした。
稀代の軍師・黒田官兵衛・・・彼は、この九州・豊前の地で、関ケ原の戦いへと向かう時代を眺めていました。

1598年、天下人・豊臣秀吉が死去。
その後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣体制を守ろうとする石田三成の間で激しい権力闘争が起こります。
全国の大名は、家康につくか三成につくか、選択を迫られました。
官兵衛が領地を持つ九州では、薩摩の島津、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長といった有力大名が西軍につきました。
東軍に与したのは、肥後の加藤清正など少数でした。
そんな中、官兵衛の動きは奇妙でした。
嫡男・黒田長政が正妻を離縁して家康の養女と結婚。
家康につく立場を鮮明にします。
その一方で、西軍の総大将となった毛利輝元の家老に官兵衛は書状を送っています。

”輝元様が大坂城に移ったことは、めでたく存じます
 豊臣秀頼様に別心(二心)ある者は存在すべきではなく、やがてめでたく鎮まることでしょう”

毛利輝元の大阪城入城を讃え、西軍に心を寄せているような言葉を伝えているのです。
歴史の結果を知っている立場からすると、東軍・家康方が勝って当然と思いますが、この時点で現場に置かれていた武将たちにしてみれば、まだ西軍の勝つ見込みがあったのです。
官兵衛にしても、どちらが勝つか見えていない時点では、西軍にもすり寄る必要があったのです。

東軍か、西軍か、立場をはっきりさせない官兵衛・・・

しかし、関ケ原の戦いに向け、着々と準備を整えていました。
家康の元に送った長政率いる黒田軍本隊とは別に、兵を集めました。
蓄えていた金銀によって、新たに召し抱えた浪人は、およそ3600人!!
さらに、領内の百姓からも希望者を募り、総勢9000もの軍を組織しました。
そこに、九州の情勢を変化させる新たな動きが生じます。
かつて豊後国を治めていたながら秀吉に領地を没収されていた大友義統が、毛利輝元の後押しで西軍として九州に戻ってきたのです。
官兵衛は、即座に東軍として動き始めます。
新たに組織した黒田軍を率いて、大友軍に向けて出陣!!
1600年9月13日、現在の大分県別府市で、大友軍と石垣原の戦いと呼ばれる激闘を繰り広げます。
官兵衛は、寄せ集めの兵を指揮しながら、大友の名だたる武将を討ち取っていきます。
9月15日、大友義統降伏・・・
奇しくも関ケ原の戦いと同じ日でした。
その後、官兵衛は、領主と兵が上方の戦いに赴いて守りが手薄になっていた西軍の城を立て続けに攻略。
毛利氏の香春岳城と小倉城も攻め落とし、豊前と豊後、二か国を占領しました。
西軍の多い九州で、東軍となったからこその離れ業でした。

官兵衛は、戦の直前に家康の右腕だった井伊直政から書状を送られていました。

””家康はどこに出兵しても構わないとのこと
 また手に入れた国は与えると仰せになっています”

あらかじめ、家康から手に入れた領地を自分のものにする約束を得ていたのです。
この時の官兵衛は、戦国の論理そのものでした。
戦いに買って、敵地を奪っていく・・・自分の領地を増やしていく・・・
九州各地を荒らしまわって、自分の土地を増やしていこうというものでした。

次に官兵衛の標的となったのは、筑後・柳川の立花宗茂でした。
西軍についていましたが、関ケ原の戦いののち、領地に逃げ帰っていました。
猛将と名高い宗茂が相手でしたが、この頃には、2人の大名が官兵衛に加担するようになっていました。
関ケ原の戦いの前から官兵衛と連絡を取り合っていた肥後・熊本の加藤清正、西軍につきながら関ケ原のたあ他界に参戦せず東軍に寝返った肥前の鍋島直茂です。
三方から責め立てられた立花宗茂は、降伏せざるを得ませんでした。

立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]
立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]

関ケ原の戦いからおよそ1か月・・・
九州の大半を傘下に治めた官兵衛・・・残る西軍勢力は、薩摩・大隅を治める島津氏のみとなりました。
関ケ原の戦いに乗じて九州の西軍勢力を次々と撃破していった官兵衛・・・
最後まで残った西軍・島津氏を攻めるため、薩摩へと軍を進めました。
先鋒に選んだのは、降伏させたばかりの名将・立花宗茂でした。
さらに、加藤清正と鍋島直茂、九州の雄の二人の兵も加わり、軍勢は4万を越えました。
しかし、薩摩との国境・水俣まで進軍したところ、家康から思わぬ書状が届きます。

”立花宗茂を召し連れて薩摩へ出陣し、加藤清正・鍋島直茂と相談して戦うとのこと、まず年内は中止することがもっともなことです”

家康は、島津への攻撃中止を求めてきたのです。
島津攻めを前に、大きな選択を迫られた官兵衛・・・どうする??
家康に従う??それとも従わない・・・??

加藤清正と自分が力をあわせれば、島津を押さえ込める自身は持っていました。
どうしてここで停戦をしなければならないのか・・・??
官兵衛が、薩摩侵攻の先鋒にしたのは、立花宗茂でした。
この立花宗茂は、薩摩とも懇意でした。
官兵衛自身も、島津義弘と親しくしていたことが分かっています。
島津と敢えて戦わず、和睦して傘下におさめることもできる状況でした。
もし、島津を引き入れることができれば、九州一円が官兵衛の配下となり、家康と対等に向き合える可能性もありました。
どうする・・・官兵衛・・・??

家康から薩摩攻め中止命令が出てから10日後、官兵衛は、島津の元へ使者を出します。
薩摩への攻撃中止を正式に伝えたのです。
こうして官兵衛の九州での戦いは終わりを告げました。
黒田家は、関ケ原の戦いでの黒田長政の功績により、筑前52万石に加増。
しかし、戦で切り取った土地は与えるという家康の約束が果たされることはありませんでした。

筑前国を与えられた黒田家が築いた福岡城・・・
黒田官兵衛集大成の城です。
その城づくりからは、徳川の世になってなお、官兵衛が実践を強く意識していたかが伺えます。
さらに、福岡城の守りを堅固なものにしていたのが、今も官兵衛の時代から同じ位置に立つ多門櫓です。
櫓の内部には、16もの部屋が作られ、守りの兵を多数配置できるようになっています。
そして国境には、筑前六端城と呼ばれる6つの城が置かれ、強固なネットワークが築かれました。
福岡城の三の丸に置かれた御鷹屋敷で晩年を過ごした官兵衛・・・
関ケ原の戦いから4年後の1604年、59歳にしてその人生を終えました。

官兵衛は、島津攻め中止という家康の命令に従うことを選びました。
しかし、黒田家の記録の中に、彼の本心が隠されていました。
官兵衛の嫡男・黒田長政の遺言状・・・
そこには、長政が聞いた父・官兵衛の壮大な計画が書かれていました。

”官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ
 その外の九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して京へ向かえば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が家康一人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げ入れるようなものだ”

壮大な野望を胸に秘めていた黒田官兵衛・・・彼がもし、違った選択をしていれば、再び天下分け目の決戦が起こっていたかもしれません。

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黒田官兵衛 知と情の軍師 [ 童門冬二 ]
黒田官兵衛 知と情の軍師 [ 童門冬二 ]

天正10年6月2日早朝・京都・・・
戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こりました。
天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!

織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。

柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。

北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。

中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。

「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。

①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証

暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。

その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。

「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春

しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景

結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。

秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。

6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。

1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。

2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?

秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。

中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。

「こやつらも、随分疲弊している・・・
 そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」

そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。

「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
 それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」

それを聞いた秀吉は・・・

「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」

そういって取り合わなかったといいます。

その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。

みなぎる自信と天下取りの野望・・・

秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。

「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」

そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。

”上様は難を逃れ、無事である” 

信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。

②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。

こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。

6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??

秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!

6月13日

劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」

しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。

3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。


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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎

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今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

sawayamajyou
















表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
sekigahara










有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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