日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:黒田長政

天下分け目、関ケ原の合戦・・・わずか半日で決着がついたといわれていますが、戦いが行われていたのは関ケ原だけではありませんでした。
この時、遠く九州を舞台にもう一つの関ケ原の戦いが繰り広げられていました。
その主人公が黒田官兵衛・・・秀吉の天下統一を軍師として支えた人物です。
秀吉の死後、全国の武将が東軍と西軍に分かれ、決戦の時が近づいていました。
この時、九州の領主だった官兵衛は、大胆な行動に打って出ます。
蓄えていた金銀によって、9000もの兵を集め、九州各地への侵攻を開始したのです。
領主も兵も関ケ原に赴き、守りが手薄になっていた城を次々と落としていきます。
その勢いはすさまじく、九州に残る敵は、薩摩の雄・島津氏のみとなりました。

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江戸時代の逸話集に、官兵衛がこういったと書かれています。

「家康を攻め滅ぼし 天下を取らんと思わんには いと易きことなり」

果たして官兵衛には、天下取りの野心はあったのでしょうか?
大分県中津市にある中津城・・・豊臣秀吉の九州平定後、この地の領主となった黒田官兵衛が築いた城です。
中津城は、山城ではなく平地に城を築いています。
側には川が流れており、船を通じて色んな物資をそして情報をダイレクトで把握することができます。
物流の大動脈を、城が直接おさえていました。

川と海に面して築かれた中津城。
官兵衛は、大坂との間に早船のルートを作り、上方の情報をわずか3日ほどで手に入れていました。
秀吉死後の権力争いや、石田三成の挙兵についてもいち早く情報を掴んでいたといわれています。
今も残る官兵衛時代の石垣からは、海のそばに強固な城を作るため、官兵衛が施した工夫がみられます。
官兵衛は、長細い石を横に使うのではなく奥に縦に使う・・・川のそばで地盤としては強力でないということに配慮していました。
400年の時を越えて、石垣が今も立派に残っているのです。

もともと播磨国の小領主に過ぎなかった黒田官兵衛。
しかし、豊臣秀吉に仕えて以降、天下統一の参謀役としてその才能を如何なく発揮します。
中国地方の雄・毛利氏との戦いでは、川を堰き止める大胆な作戦で、備中高松城を水没させます。
さらに、本能寺の変が起こるや驚異的な速度での行軍で、中国を大返しを成功させました。
近年発見された賤ケ岳の戦いで秀吉が送った書状・・・
ここでも、官兵衛が戦に加わっていたことが見て取れます。
その後も、四国平定や、九州平定で功をあげ、1587年、豊前6郡(12万石)を与えられます。
しかし、それは、官兵衛の功績からすると少なすぎるとの見方もあります。
その理由については、黒田家が編纂した「黒田家譜」にはこう記されています。

”官兵衛の大志あるを忌給ひ
 其功は大なるといえども
 終に大国を賜わらず”

官兵衛に野心があると秀吉が考えたため、領地を多く与えなかったというのです。
秀吉の官兵衛に対する警戒・・・
それを示す事実がもう一つあります。
領地を与えられた九州は、治めるのが非常に難しい土地でもありました。
秀吉は、九州平定に当たって、国衆や地侍に領地の安堵を約束。
しかし、実際には、検地を強行して隠していた田畑を明らかにし、領地替えを命じるなど、それまでの権益を奪い、支配を強めていきました。
その為、秀吉が送り込んだ領主への反感が高まり、九州各地で大規模な反乱が勃発!!
肥後を与えられた佐々成政は、度重なる反乱によって領地支配に失敗し、秀吉から切腹を命じられます。
官兵衛が領主となった豊前でも、各地で国衆の反乱が起きていました。

中津城の東・20キロの場所にある高森城・・・官兵衛が、豊前を統治するために築いた城です。
城の本丸は、二重の堀によって守られ、迫りくる敵に矢や鉄砲を撃つ櫓台まで設置されていました。
官兵衛は、この高森城のような軍事要塞を各地に設置、それを拠点に反抗する国衆たちを次々と打ち破っていきました。
官兵衛の居城・中津城にある城井神社・・・これは、官兵衛に滅ぼされた武将を祭ったものです。
祭られている祭神は、宇都宮鎮房という戦国武将です。
宇都宮氏は、鎌倉時代から約400年間豊前の地を拠点にして支配をしていました。
新たにやってきた黒田家・・・黒田官兵衛に対して反抗します。
秀吉は、豊臣政権に反抗する国衆への厳しい処分を命令。
官兵衛の、宇都宮鎮房への対応も凄惨なものとなりました。
鎮房と一旦和睦し、中津城に招き入れて、家臣もろとも暗殺したのです。
さらに家族も捕縛し、磔にしてしまいます。

官兵衛は調略を得意として、だまし討ちを好むタイプの武将ではありませんでした。
自分としてはやりたくはなかった・・・
しかし、秀吉の命令で、ジレンマに陥り、その犠牲になったのが鎮房
でした。
秀吉の命令を実行するときには、それに抵抗する者は討たざるを得ない・・・!!
苦しい立場に置かれていました。
秀吉の命令に納得できない思いを持ちつつも、従わざるを得なかった官兵衛・・・
豊前入国から2年後の1589年、領内の抵抗勢力を一掃します。
しかし、この豊前支配での苦悩は、官兵衛にある思いを抱かせました。
九州は、島津氏をはじめとして、古くからの大名と新たにやってきた大名が入り混じった土地でした。
秀吉が、しっかりしていれば統治体制は揺るがないものになる!!
しかし、秀吉に何かあったら・・・豊臣政権の権威が揺らぐようなことがあれば、九州は一波乱ある!!
そのチャンスは絶対来ると、準備をしていたのが官兵衛でした。
稀代の軍師・黒田官兵衛・・・彼は、この九州・豊前の地で、関ケ原の戦いへと向かう時代を眺めていました。

1598年、天下人・豊臣秀吉が死去。
その後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣体制を守ろうとする石田三成の間で激しい権力闘争が起こります。
全国の大名は、家康につくか三成につくか、選択を迫られました。
官兵衛が領地を持つ九州では、薩摩の島津、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長といった有力大名が西軍につきました。
東軍に与したのは、肥後の加藤清正など少数でした。
そんな中、官兵衛の動きは奇妙でした。
嫡男・黒田長政が正妻を離縁して家康の養女と結婚。
家康につく立場を鮮明にします。
その一方で、西軍の総大将となった毛利輝元の家老に官兵衛は書状を送っています。

”輝元様が大坂城に移ったことは、めでたく存じます
 豊臣秀頼様に別心(二心)ある者は存在すべきではなく、やがてめでたく鎮まることでしょう”

毛利輝元の大阪城入城を讃え、西軍に心を寄せているような言葉を伝えているのです。
歴史の結果を知っている立場からすると、東軍・家康方が勝って当然と思いますが、この時点で現場に置かれていた武将たちにしてみれば、まだ西軍の勝つ見込みがあったのです。
官兵衛にしても、どちらが勝つか見えていない時点では、西軍にもすり寄る必要があったのです。

東軍か、西軍か、立場をはっきりさせない官兵衛・・・

しかし、関ケ原の戦いに向け、着々と準備を整えていました。
家康の元に送った長政率いる黒田軍本隊とは別に、兵を集めました。
蓄えていた金銀によって、新たに召し抱えた浪人は、およそ3600人!!
さらに、領内の百姓からも希望者を募り、総勢9000もの軍を組織しました。
そこに、九州の情勢を変化させる新たな動きが生じます。
かつて豊後国を治めていたながら秀吉に領地を没収されていた大友義統が、毛利輝元の後押しで西軍として九州に戻ってきたのです。
官兵衛は、即座に東軍として動き始めます。
新たに組織した黒田軍を率いて、大友軍に向けて出陣!!
1600年9月13日、現在の大分県別府市で、大友軍と石垣原の戦いと呼ばれる激闘を繰り広げます。
官兵衛は、寄せ集めの兵を指揮しながら、大友の名だたる武将を討ち取っていきます。
9月15日、大友義統降伏・・・
奇しくも関ケ原の戦いと同じ日でした。
その後、官兵衛は、領主と兵が上方の戦いに赴いて守りが手薄になっていた西軍の城を立て続けに攻略。
毛利氏の香春岳城と小倉城も攻め落とし、豊前と豊後、二か国を占領しました。
西軍の多い九州で、東軍となったからこその離れ業でした。

官兵衛は、戦の直前に家康の右腕だった井伊直政から書状を送られていました。

””家康はどこに出兵しても構わないとのこと
 また手に入れた国は与えると仰せになっています”

あらかじめ、家康から手に入れた領地を自分のものにする約束を得ていたのです。
この時の官兵衛は、戦国の論理そのものでした。
戦いに買って、敵地を奪っていく・・・自分の領地を増やしていく・・・
九州各地を荒らしまわって、自分の土地を増やしていこうというものでした。

次に官兵衛の標的となったのは、筑後・柳川の立花宗茂でした。
西軍についていましたが、関ケ原の戦いののち、領地に逃げ帰っていました。
猛将と名高い宗茂が相手でしたが、この頃には、2人の大名が官兵衛に加担するようになっていました。
関ケ原の戦いの前から官兵衛と連絡を取り合っていた肥後・熊本の加藤清正、西軍につきながら関ケ原のたあ他界に参戦せず東軍に寝返った肥前の鍋島直茂です。
三方から責め立てられた立花宗茂は、降伏せざるを得ませんでした。

立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]
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関ケ原の戦いからおよそ1か月・・・
九州の大半を傘下に治めた官兵衛・・・残る西軍勢力は、薩摩・大隅を治める島津氏のみとなりました。
関ケ原の戦いに乗じて九州の西軍勢力を次々と撃破していった官兵衛・・・
最後まで残った西軍・島津氏を攻めるため、薩摩へと軍を進めました。
先鋒に選んだのは、降伏させたばかりの名将・立花宗茂でした。
さらに、加藤清正と鍋島直茂、九州の雄の二人の兵も加わり、軍勢は4万を越えました。
しかし、薩摩との国境・水俣まで進軍したところ、家康から思わぬ書状が届きます。

”立花宗茂を召し連れて薩摩へ出陣し、加藤清正・鍋島直茂と相談して戦うとのこと、まず年内は中止することがもっともなことです”

家康は、島津への攻撃中止を求めてきたのです。
島津攻めを前に、大きな選択を迫られた官兵衛・・・どうする??
家康に従う??それとも従わない・・・??

加藤清正と自分が力をあわせれば、島津を押さえ込める自身は持っていました。
どうしてここで停戦をしなければならないのか・・・??
官兵衛が、薩摩侵攻の先鋒にしたのは、立花宗茂でした。
この立花宗茂は、薩摩とも懇意でした。
官兵衛自身も、島津義弘と親しくしていたことが分かっています。
島津と敢えて戦わず、和睦して傘下におさめることもできる状況でした。
もし、島津を引き入れることができれば、九州一円が官兵衛の配下となり、家康と対等に向き合える可能性もありました。
どうする・・・官兵衛・・・??

家康から薩摩攻め中止命令が出てから10日後、官兵衛は、島津の元へ使者を出します。
薩摩への攻撃中止を正式に伝えたのです。
こうして官兵衛の九州での戦いは終わりを告げました。
黒田家は、関ケ原の戦いでの黒田長政の功績により、筑前52万石に加増。
しかし、戦で切り取った土地は与えるという家康の約束が果たされることはありませんでした。

筑前国を与えられた黒田家が築いた福岡城・・・
黒田官兵衛集大成の城です。
その城づくりからは、徳川の世になってなお、官兵衛が実践を強く意識していたかが伺えます。
さらに、福岡城の守りを堅固なものにしていたのが、今も官兵衛の時代から同じ位置に立つ多門櫓です。
櫓の内部には、16もの部屋が作られ、守りの兵を多数配置できるようになっています。
そして国境には、筑前六端城と呼ばれる6つの城が置かれ、強固なネットワークが築かれました。
福岡城の三の丸に置かれた御鷹屋敷で晩年を過ごした官兵衛・・・
関ケ原の戦いから4年後の1604年、59歳にしてその人生を終えました。

官兵衛は、島津攻め中止という家康の命令に従うことを選びました。
しかし、黒田家の記録の中に、彼の本心が隠されていました。
官兵衛の嫡男・黒田長政の遺言状・・・
そこには、長政が聞いた父・官兵衛の壮大な計画が書かれていました。

”官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ
 その外の九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して京へ向かえば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が家康一人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げ入れるようなものだ”

壮大な野望を胸に秘めていた黒田官兵衛・・・彼がもし、違った選択をしていれば、再び天下分け目の決戦が起こっていたかもしれません。

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感想(4件)



日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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戦国の世を生き抜き、齢62にして天下人となった徳川家康。
それからおよそ10年・・・天下統一の総仕上げとする最後の戦いに挑みます。
大坂の陣です。
難攻不落の大坂城を2度にわたる合戦で攻略・・・豊臣家を滅亡へと追い込むのです。
しかし・・・炎に包まれたその城には、家康最愛の孫・千姫がいました。
その生涯は悲劇に満ちていました。

徳川家康の孫娘・千姫は1597年4月11日に京都伏見で生まれます。
父・秀忠、母はお江です。
誕生の地・御香宮神社には、貴重な品が・・・贅を尽くした神輿が残っています。
これは、千姫の初節句に寄進したものです。
その重さは2トン・・・江戸時代から昭和35年まで、祭りで実際に担がれ、人々に親しまれてきました。
そこに込めた父・秀忠の思い通り、健やかに育った千姫・・・。
しかし、千姫の行く先には数々の悲劇が待ち受けていました。

①政略結婚
千姫が生まれた頃、天下を治めていたのは豊臣秀吉でした。
祖父・家康は五大老のひとりとして豊臣政権を支える一大名にすぎませんでした。
そんなある日・・・病に伏していた秀吉に、家康はこう言われます。

「徳川殿の孫娘を秀頼の正室に迎えたい。」

秀吉は、秀頼との婚姻を持ちかけたのです。
そこにはある思惑がありました。
秀吉は、秀頼と千姫を結婚させることで、自分が死んだ後も家康を豊臣家に従わせようとしたのです。

二人の婚礼を待たずに・・・
1598年8月18日、秀吉死去。。。
その後を狙って天下取りに動いたのが徳川家康でした。
豊臣家に忠義を尽くす石田三成と激しく対立!!
そして・・・秀吉の死から2年後・・・関ケ原の戦いが起こります。
戦いに見事勝利した家康は・・・3年後に・・・1603年に征夷大将軍となります。
これによって、豊臣家の五大老から天下人へ・・・!!
徳川の世が訪れたのでした。
そんな中、家康は秀吉との約束を果たすのです。

孫娘・千姫と、豊臣秀頼との縁組です。
この時、秀頼11歳、千姫は7歳になっていました。
どうしてここに来て千姫を豊臣家に嫁がせたのでしょうか?
家康は、秀吉との約束を守ることで、豊臣家を尊重しているとアピールしたかったのです。
淀の方・・・豊臣家に忠誠を誓っていた大名たちの多くが、徳川家はまだ豊臣の一家臣だと思っていました。
彼等は、秀頼さまが成人すれば、家康は政権を返すと思っていたのです。
そんな豊臣恩顧の大名達を納得させるためにも、
豊臣家と良好な関係を保っていると見せたかったのです。

1603年7月28日、千姫、伏見から大坂城に向かいます。

この時、千姫にお供した船は、1000艘以上・・・
前田利長、細川忠興、黒田長政が警護を務めるなど、盛大な輿入れでした。

祖父・家康の思惑で、僅か7歳で豊臣家に嫁いだ千姫。
嫁ぎ先の大坂城の暮らしは・・・??
姑となった淀の方が教育しました。
豊臣家にふさわしい最高の教養を身に着けるために・・・!!
我が子のように幼い千姫を養育しました。

しかし・・・千姫の幸せは長くは続きませんでした。
祖父・家康の思惑は・・・??
家康は・・・上洛した際に、秀頼に二条城にまで来るように要求・・・
秀頼が求めに応じて対面します。
久し振りの秀頼に驚きます。
19歳になった秀頼は、身長190㎝以上の聡明な男に成長していたのです。
この時、家康70歳。。。!!
徳川家安泰のために、豊臣家を潰しにかかります。

1614年11月大坂冬の陣!!
この戦いが千姫の運命を大きく変えるのです。

②夫・秀頼との死別
秀頼を総大将とする豊臣方は、全国から寄せ集められた浪人を含め15万!!
対する徳川方は20万で大坂城を包囲!!
兵の数では劣りながらも善戦する豊臣軍!!
徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐねていました。
そこで・・・和睦に持ち込もうとしますが、豊臣方がこれを拒否!!
徳川方が放った砲弾が淀の方のいた御殿を直撃!!
お付きの者が死傷したことで、淀の方がおびえだし、一転して和睦を受け入れるのです。
和睦の条件は、秀頼の領地を安堵する代わりに、大坂城の堀の一部を埋めるというものでした。
しかし、家康の策略により、堀の殆どを埋められてしまいました。

すると家康は、防御力が落ちた大坂城を一気に攻め落とそうとします。
1615年5月大坂夏の陣!!
総勢5万5000の豊臣方。
それを15万という兵力で大坂城を包囲!!
数の上で一方的に勝る徳川軍が、豊臣方の武将を次々と討ち取っていきます。
そして豊臣方の立て籠もっていた城が炎上!!
中の千姫たちに危険が・・・!!
落城寸前!!
千姫は、火の手を避けるために、秀頼や淀の方、お付きの者たちと糒櫓に避難します。
侍女たちは、この時、櫓から千姫を逃がそうとしていました。
それを察してか、淀の方は千姫の振袖を膝で押さえていたといいます。

が・・・大野治長が、秀頼と淀の方の助命嘆願の為、千姫を家康の元へ向かわせたといいます。
豊臣家のために城を出たのです。

夫秀頼らの助命嘆願のために、大坂城を出て茶臼山に向かった千姫・・・。
豊臣家の命運は、千姫に託されていました。
千姫は、徳川方から攻撃されないように葵の御門入りに衣を身にまとっていました。
そして、二の丸を出たところで・・・徳川方の坂崎直盛に出会います。
この坂崎の護衛によって家康のいる本陣に・・・!!

しかし、その判断は、秀忠に任せると家康は言い出しました。
父・秀忠の岡山砦に向かう千姫。
そして、秀頼と淀の方の助命嘆願をしますが・・・。

「なぜ、秀頼と共に自害しなかったのだ??
 夫を置いて一人城を出るとはどういうことじゃ!!」

と、激怒しました。

千姫の助命嘆願が受け入れられることはなく、5月8日秀頼と淀の方は大坂城の中で自害・・・豊臣家滅亡。
燃え上がる大坂城が見えた千姫・・・二人の自害を聞いて、ただただ泣き崩れたといいます。

家康は、徳川家が権力を掌握するためには、豊臣家を滅ぼすしかないと考えていました。
豊臣家と運命を共にしようと思っていた千姫は、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみます。
病に伏せる千姫・・・。

大坂の陣の後、江戸に戻った千姫は、江戸城北の丸にあった御殿で暮らし始めましたが・・・。
夫・秀頼を救えなかったことで心に大きな傷を負い、病に伏せるようになります。
家康は・・・再婚相手を探すことにしました。
候補に挙がったのは・・・
大坂城から千姫を連れ帰った坂崎直盛。
家康は、千姫を助けたものには、千姫を嫁にやると言っていました。
ところが・・・この約束を反古にしてしまいます。
1616年正月・・・鷹狩りに出かけた家康は突然病に・・・駿府城で床に伏せっていました。
多きの見舞客の中には、孫娘・熊姫も・・・熊姫は、息子・本多忠刻とやってきていました。
忠刻は、桑名藩主・本多忠政との間にできた嫡男で、眉目秀麗と評判でした。
そんな忠刻に・・・家康は忠刻の祖父・忠勝(徳川四天王)を思い出しました。
坂崎直盛は、豊臣家五大老・宇喜多家の出身でした。
対して本多忠刻は徳川四天王・本多忠勝の孫・・・。
坂崎よりも、長く忠義を果たしてくれている本多家に嫁ぐのが幸せだと・・・千姫と忠刻の縁談を進めることにしました。

当時は夫に離縁されない限り結婚はできませんでした。
秀頼は、九州まで遁れて生き延びたという噂まで出ていましたが・・・。
このままでは再婚できない・・・と、家康は・・・。
満徳寺・・・妻が満徳寺に弟子入りすれば、夫と離縁できる習わしとなっていました。
家康は、千姫を満徳寺に入れることで、秀頼との縁を切ろうとしたのです。
千姫の場合、特別に撃場である刑部卿局が寺に入り、千姫は江戸城で修業するという形がとられました。

家康は、4月17日75歳の生涯を閉じました。
再婚する千姫の姿を見ることはなく・・・。
5か月後、千姫は本多忠刻と再婚。
桑名藩主となった本多家が、翌年姫路藩15万石の藩主となり、千姫も姫路城へと移りました。
本多家に結婚祝いとして10万石が与えられました。
忠刻は、姫路城西の丸に二人の御殿をもうけ、それを囲むように日本一の櫓を建てるのです。
夫の心遣いに癒された千姫は、長女・勝姫、嫡男・幸千代を授かります。
ようやく訪れた心の平安・・・しかし、不幸が襲います。

③相次ぐ家族の死

幸せな暮らしをしていた千姫・・・
1621年幸千代、3歳で夭折。
千姫はもう一度子宝に恵まれるようにと、城の傍に天満宮を建て、羽子板などを奉納します。
そして、朝に夕に櫓から見える天満宮に祈りました。
しかし・・・流産を繰り返します。
そんな千姫が、藁をもすがる思いで頼ったのが、占いでした。
それによると不幸の原因は、秀頼の祟りだというのです。
驚いた千姫は、秀頼のために仏像を彫らせます。

その願いもむなしく・・・子が生まれることはありませんでした。
そんな中、1626年参勤交代で江戸から戻った夫・忠刻が病に倒れてしまいました。
介抱するも・・・この世を去ってしまいました。
またしても夫に先立たれてしまった千姫・・・。
そして・・・熊姫、お江の死・・・。
愛する人々を次々と失った千姫は、この時30歳。
娘・勝姫を連れて失意の中江戸へ・・・。
天樹院となり、仏門に入ります。
そんな千姫を気にかけていたのが弟である三代将軍家光でした。
千姫には、江戸城の竹橋御殿で暮らし、500石が与えられました。
ここで、娘・勝姫と何不自由なく暮らすことに・・・
千姫は、家光の子・綱重の養育を任されたことで、大奥にも影響力を持つようになっていきます。

1628年千姫に嬉しい出来事が・・・
娘・勝姫が、鳥取藩主・池田光政と結婚。
二人の夫婦仲は良く、5人の子供に恵まれました。

千姫にはもう一人守りたい人が・・・
古都・鎌倉・・・東慶寺。
ここに千姫が守り続けた人物・東慶寺第20世住持天秀尼でした。
かつての夫・秀頼が側室との間にもうけた一人娘です。
秀頼は千姫との間に子は出来なかったものの、一男一女をもうけていました。
二人の子は、大坂の陣で大坂城から逃げだすものの、徳川に捕まってしまいました。
そして、豊臣家の血を絶やさねば・・・と考えていた家康によって、息子・国松は市中引き回しの上、京都・六条河原で斬首刑に・・・。
この時、国松は8歳でした。
娘もどうなるのか・・・千姫が家康に懇願します。
「秀頼殿の娘を、私の養女にさせてもらえぬでしょうか?」
そんな千姫の必死の嘆願に折れた家康。
娘は家康の命により、東慶寺に入れられて出家し、生きていくこととなったのです。
出家させて結婚できなくさせることで、処刑せずとも豊臣家の血を絶やすことができたのです。
千姫は終生天秀尼の事を気にかけ、何通もの手紙で強い絆で結ばれていきました。

天秀尼のいた東慶寺も縁切寺で、天秀尼はそこで夫と離縁できずに駆け込んでくる者たちの保護に努めていました。
千姫も縁切寺で救われた一人・・・。
千姫は、不幸な女性を天秀尼の寺で救いたいと思うようになります。
東慶寺の縁切り・・・二人は、東福寺の「縁切寺法」を幕府に認めてもらうため動きます。
その思いが通じ、東慶寺は幕府公認の縁切寺となり、その後200年以上、女性を守り続けました。

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1590年豊臣秀吉が天下を統一。
しかし、加藤清正と石田三成の亀裂が関ケ原の戦いを生むこととなりました。
その真実とは・・・??

1574年長浜城・・・織田信長の家臣・豊臣秀吉がこの地で初めて一国一城の主となりました。
有能な少年が付きました。
その中に・・・加藤清正と石田三成がいました。

三成は15歳で、秀吉の身の回りの世話をする近習番という役で、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
二つ下の清正は、剣術の才能に・・・武芸に秀でていました。
切磋琢磨して大きくなったふたり・・・
最初に名を挙げたのは清正でした。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・秀吉と柴田勝家が戦った戦で、七本槍として功名をあげます。
その後も武断派の中心として、秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には功績が認められ、肥後国北半分・・・25万石の大名となりました。

三成は、胃腸が弱く、戦いでは腹を壊して戦えません。
その代わりに、豊臣の家臣随一の頭を生かし、兵員・武器・兵糧・・・兵站を担当し、裏方として活躍しました。
二人は秀吉の天下取りに貢献していきます。

1590年、秀吉は小田原討伐をし、天下取りを実現させました。
それは、清正と三成の夢が達成された時でした。


平和な世の中になったことで、戦が減ってしまい・・・武断派と入れ替わるように台頭してきたのは奉行派・・・。
その中心は三成・・・。
法治国家としての刀狩、太閤検地を実施し、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そんな三成に反発するようになっていく清正。。。

秀吉もこの関係は解っていたようで・・・
奉行派の三成には19万4千石、武断派の清正には19万5千石・・・と、武断派に優越感を持たせ、対立が大きくならないように苦心していたようです。
しかし・・・最悪の事態へ・・・!!

佐賀県唐津市には、名護屋城がありました。
1591年その築城を任されたのは、城づくりのスペシャリスト・加藤清正をはじめとする九州の大名たちでした。
清正は5か月で巨大な天主、たくさんの櫓・・・大坂城に勝るとも劣らない城を造ります。
さらに周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、今までにない大戦の始まりを告げていました。

朝鮮出兵、明の征服です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが・・・九州の清正でした。
小西行長と共に先陣を任されます。
奉行派に主導権を握られていた清正にとってチャンス!!

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい!!」by清正

清正にとっては、自らの領地を拡大させる大きな夢の始まりでした。

三成は・・・大きな疑問を感じていました。

「今大切なのは・・・豊臣の世を不動のものにするための国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし。」by三成

秀吉に異を唱えたものの・・・聞き入れてもらえませんでした。

1592年、日本軍・15万9千が朝鮮へと渡りました。
この大軍のうち、1万を任された清正は・・・陣頭指揮に立ち、釜山に上陸北上し、朝鮮の首都・漢城を陥落させました。
そして、朝鮮国の2王子を捕らえ、明との国境まで攻め上り、破竹の勢いでした。
武断派の面目躍如!!
朝鮮の兵士からは鬼上官、幽霊将軍と呼ばれ、恐れられました。
が・・・時間がたつにつれて戦況は様変わり・・・
民衆が立ち上がったのです。
朝鮮水軍が活躍しだすと、日本の補給路が断たれ、苦境に立たされてしまいました。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参加!!
戦況は膠着状態に入りました。
膠着状態・・・多くの兵がいるために、食料や武器がたくさんいることとなります。
この危機的状況を打開するために、秀吉に変わって朝鮮に渡ることとなった三成。

「早期終戦に向けた講和しかない!!」by三成

これが、異国で戦う武将・・・清正たちの反感を買うようになるのです。

三成は戦における消耗を最小限に抑えるために、親しかった小西行長と共に講和に向かいます。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた朝鮮国王子の引き渡しだったのです。
これに猛反発した清正!!

「我々は何のために、この過酷な戦いをやってきたのか・・・!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって明との講和は耐え難いものでした。

そこへ・・・秀吉からの帰国命令が・・・!!
最も活躍し、武功をあげた清正に、帰国命令とは・・・!?
そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は、三成の謀略だったのでしょうか??
清正は、告げ口と思ったかもしれませんが、三成としては見てきたそのままを秀吉に報告したというのが正しいのかもしれません。
それが三成のいいところでもあり、悪い所でもあったのです。
三成は裏方、清正は表・・・と、住む場所の違った二人、もともとは憎みあったわけではありません。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎となったと思った清正は、益々三成を忌み嫌うようになっていきます。

1585年秀吉が関白に就任、諸大名が直接謁見したり献上品を手渡すことが出来なくなります。
その窓口となったのが側近の三成でした。
秀吉に好かれるかどうかは三成次第・・・。
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏せざるを得ませんでした。
三成には諸大名からのわいろが殺到!!
ところが三成は私腹を肥やすことなくはねつけます。
よく言えば清廉潔白、悪く言えば融通が利かない・・・。
主君秀吉のために働けば働くほど敵が多くなっていく三成。

しかし三成は秀吉のせいで悪者になろうとも傍を離れませんでした。
秀吉から大名を打診されたときも・・・断っています。
自分が九州に行くと豊臣政権を支える人間がいなくなってしまう・・・!!と。

秀吉の忠誠心なら加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵時の虎退治の逸話は・・・秀吉への忠誠心と思われます。
世継ぎが出来なかったため・・・当時朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に献上しようとしたのです。
清正の虎退治は、清正の勇敢さを示すとともに、秀吉への忠誠心からだったのです。

朝鮮出兵の処罰で、弁明の余地も与えられず、伏見の屋敷に謹慎となった清正・・・
ひたすら法華経を唱える日々・・・。
そこへ・・・1596年慶長伏見地震が・・・!!
秀吉のいる伏見城に、甲冑をつけて一番に駆け付けたのが清正でした。
地震に乗じた反乱を防ぐために、戦支度を整えて参上したのです。
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎を解きました。

三成、行長がしようとしていた講和が破談となり、朝鮮への再出兵を命じることとなった秀吉。
秀吉の命を受けた清正は、再び一万の兵を引き連れて朝鮮へと渡ります。
1597年慶長の役です。
その戦いは、前回にもまして過酷なものでした。
明・朝鮮軍の猛攻撃を受ける清正。
食料が尽きた日本軍は、苦しい戦いを続けます。
この危機的状況に三成は、援軍、食料、武器を送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまい、十分な輸送が出来ませんでした。
しかし、最前線の清正にはそんなことは解りません。
三成に対する不満が募る一方!!
1597年12月・・・明・朝鮮軍が日本軍の蔚山城を奇襲!!
劣勢に立たされたこの戦いで500人が討ち死に・・・!!
その後、包囲されてしまいます。
城内の日本軍は4500、対する明・朝鮮軍は5万7000!!
この時、10キロ離れた西生浦城にいた清正は、周囲の制止を振り切り救出に向かいます。
僅か500の兵で敵陣を突破!!
その日のうちに入城!!
しかし、ここからが地獄でした。
大量の死者を出した日本軍は、壊滅寸前。。。籠城するにも食料や武器は2,3日分・・・
しかも骨まで凍ってしまいそうな寒さで・・・凍死者が続出!!
それでも清正は弱音を吐かず励まします。
食料の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を食べ・・・もはやこれまでか・・・!!
死を覚悟した清正でしたが、援軍が到着。敵を撃退してくれました。
この10日余りの籠城戦は、清正の戦いの中で最も過酷なものとなりました。
九死に一生を得た清正ですが、そこには援助をしてくれなかった清正への激しい怒りが残りました。
三成と清正の関係は、修復不可能となっていました。

天下人亡きあと、豊臣政権の後を継いだのは秀吉の忘れ形見・秀頼でした。
反目していても三成と清正の思いは同じ!!
幼い秀頼を盛り立てて豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな二人の前に立ちはだかったのが・・・五大老筆頭の徳川家康でした。

朝鮮出兵に参加していなかったことで兵力を温存していた家康は、虎視眈々と天下を狙っていました。
1599年3月、前田利家死去・・・まさにその日に事件が勃発!!
武断派の七将(黒田長政、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、池田照正、細川忠興、浅野長政)が三成の首をとるために挙兵・・・石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の知らせを受けた三成は、間一髪で難を逃れ・・・この時、仲をとりもったのが家康でした。
三成は奉行職を解かれ佐和山城に蟄居を余儀なくされました。

どうして清正たちは三成を襲撃したのでしょうか?
家康の謀略に引っかかった・・・??
秀頼を大切に思っていた清正、正則たちは、三成に丸抱えにされるよりも、家康に後押ししてもらうことを、描いていたようです。
家康にしてやられた清正!!
本当の家康をわかっていた三成と、わかっていなかった清正。。。

やがて天下分け目の関ケ原へ・・・
1600年6月、兵を東へ動かす家康・・・会津征伐へ・・・!!
三成は家康が上方を離れたのを知ると挙兵を決意します。
豊臣家を守るために、打倒家康を決意した三成・・・その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
しかし・・・
「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない・・・!!」と、忠告されます。
三成には人望がない・・・。
そこで三成は家安と並ぶ五大老の毛利輝元を総大将とし、西軍の陣を整えていきます。
そんな中、加藤清正にも西軍に入るように要請がありましたが・・・九州を動こうとしません。
どうして豊臣寄りの政権につかなかったのでしょうか??
三成への反発心から、九州において東軍に賛同する清正。

それがやがて豊臣家を滅亡へと向かわせます。
1600年9月15日、関ケ原の戦い!!
東軍7万4000VS西軍8万4000!!
軍勢では西軍有利も、徳川の裏工作によっての寝返り・・・結局は東軍の圧勝!!
三成は敗軍の将となりました。
密かに陣を抜け出し佐和山城を目指した三成・・・東軍の追手に捕まり京で引き回しの上、斬首となりました。
東軍についていた加藤清正は、西軍の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、九州で東軍の勝利に貢献します。
1611年・・・清正は徳川の元、豊臣家を存続させるために二条城にいました。
徳川家康と豊臣秀頼の面会を実現させます。
これで秀頼さまも安泰・・・ほどなくして倒れ、50年の波乱の人生を終えることとなります。
天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅亡させてしまいました。
清正が死んで4年後の事でした。

関ケ原の戦いの3日前・・・三成が西軍の武将に送った書状には・・・

「人の心計りがたし・・・」とありました。

三成と清正・・・二人の心が通じ合い、力を合わせていれば・・・豊臣家の滅亡も、徳河の繁栄もなかったのかもしれません。




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<石田三成と関ヶ原合戦>反三成の急先鋒! 加藤清正と福島正則 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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毛利輝元 傾国の烙印を押された男

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関ヶ原の戦い・・・
今から400年前に行われた天下分け目の戦いの、大きな謎。。。
主戦場では東軍・徳川家康と西軍・石田三成が死力を尽くして戦っていました。
しかし・・・南宮山に陣取って静観を決め込んでいたのは西国の雄・毛利家。。。
しかも毛利輝元は西軍の総大将を務めていました。


terumoto

どうして毛利家は動かなかったのでしょうか??
家康が本陣は桃配山・・・南宮山とは峰続きの場所・・・どうして敵の毛利を背にした場所に本陣を置いたのでしょうか?

そこにはそれぞれの選択の連続がありました。

1553年1月輝元は郡山城で誕生!!
その頃、毛利家の実権を握っていたのは、祖父・毛利元就。
戦国時代きっての武将でした。
父の死によってわずか11歳で毛利家を継いだ輝元。
しかし、その実権は、元就が握り続けていました。
おまけに、頭の上がらない叔父がふたり・・・吉川元春・小早川隆景です。
祖父・元就に説教されるうえに、隆景・元春が様々に意見をしてくるので、このままでは身が持たない・・・とも言っています。
実績も経験もない輝元は、指導のもとに動くような存在だったのです。
おまけに家臣も・・・
もともと大きな家ではなかった毛利家・・・異を唱える家臣も多かったのです。
そんな輝元の支えとなったのは、豊臣秀吉でした。

秀吉は、石高に応じて様々な要求をしてきました。
そんな中、家臣の意見を聞くこともできなくなった輝元。。。
輝元は秀吉の命令を自分の権威とすることで、家臣たちを支配していきます。
豊臣政権の意向を理由に、家臣の統制や領国の統治体制を確立させていったのです。
豊臣政権の存続は、輝元の願いだったのです。

40を過ぎて・・・ようやく毛利家のTOPとなった矢先・・・
1598年8月18日・・・秀吉死去。。。
秀吉のカリスマ性で成り立っていた政権が揺らぎ始めました。
家康と三成の対立が始まったのです。

秀吉に、家康と共に秀頼に奉公すると誓っていた輝元・・・。
その一方で・・・三成や奉行たちに対して・・・三成と意を異にする者たちがいれば、三成と話し合う・・・と、約束していました。

ところが・・・毛利家の中にいた吉川広家は、輝元を補佐する立場でありながら、黒田長政と親しい関係にありました。
広家は、徳川と行動を共にするのが良作と考えていたのです。
異なる考えの輝元と広家。。。
秀吉の死去によって風雲急を告げる豊臣政権・・・!!

家康と三成の対立が深まってきます。
1599年前田利家死去!!
ここで大きく時代が動きます。
三成を討とうと細川忠興・藤堂高虎・黒田長政・福島正則らが兵を起こします。七将襲撃事件です。
この事件を利用したのが家康。
長政たちを退かせる代わりに、三成を奉行職を解任し、居城・佐和山城で蟄居に追い込みます。

この時の輝元は・・・??
涙を流し、三成の失脚を悲しんでいました。
そして、家康に対しては・・・「父や兄のように思う」と、起請文を送っています。
家康か??三成か・・・??どうする??輝元!!

家康はさらに・・・同じ大老職だった上杉景勝に謀反の疑いがあると、1600年6月16日、討伐に乗り出します。
関ヶ原の戦いの3か月前の事でした。
上杉が討伐されると、次に家康に狙われるのは自分でなないのか・・・??

輝元の選択は、”三成に味方する”でした。
毛利の外交僧・安国寺恵瓊・・・三成と密会し、輝元を西軍の総大将に担ぎ上げることを決めました。
輝元は、二日で大坂に入ると大坂城にいた家康の家臣を追い出し、西の丸に入りました。
名実ともに西軍の総大将となった瞬間でした。
そして、それを待っていたかのように、奉行は、家康を糾弾する書状を諸大名に発します。
”内府ちがいの条々”です。
家康のこれまでの行動には大義名分がないと、弾劾したのです。
豊臣秀頼に対する反逆者となってしまった家康。。。
上杉討伐を中断して江戸城に戻ります。

輝元・・・家康とどこで戦う・・・??
この時、輝元と三成の間で作戦がたてられていました。
輝元が浜松まで出陣し、進軍してくる家康を3万の兵で迎え撃つ!!
しかし、この作戦には障害がありました。
東海道の大名は、全て家康の味方・・・兵の消耗は避けたい・・・大坂城に止まる??
輝元は・・・家康について出陣している四国の大名の領地を奪おうとしていました。
大坂城に止まり、西国をしっかり押さえることが確かだと判断したのです。

しかし、家康は、西に兵を進める準備をしていました。

大坂城にとどまったまま・・・家康に加担した伊勢国の城攻めに吉川広家を向かわせます。
しかし、ここで広家は手痛い反撃に会ってしまいました。
たった1日で300名以上の死傷者が・・・!!全体の1/10の兵でした。
もともと家康につくべきだと考えていた広家。。。
このタイミングで黒田如水から一通の手紙が・・・??
「家康が大坂に向ってくるでしょう。
 みな、家康に味方するでしょう。
 あなたの考えが第一です。」と・・・。
事実、家康方は岐阜城を落城させ、勢いを増していました。

1600年9月1日、家康・江戸城を出陣!!

吉川広家どうする??

1600年9月7日・・・毛利軍・南宮山に陣を張ります。
その数1万5000!!指揮官は養子の毛利秀元!!
家康は、9月14日・・・3万の軍勢で美濃赤坂に突如現れます。
そこは・・・南宮山からほど近い場所でした。

広家・・・毛利家を守るために、家康に従います。
そして広家は、本田忠勝、井伊直政と和議を結びます。
家康は・・・いささかもおろそかにしない・・・と、毛利の領土はそのままに・・・
それは、関ヶ原の前日の事でした。
通説では、これは広家の独断であるといわれています。
が・・・15日深夜、家康は美濃赤坂から桃配山に本陣を移します。
この桃配山は、南宮山と峰続きで繋がっていました。
つまり・・・毛利軍は徳川軍の背後にあるということになってしまうのです。

momokubari


















直線距離にしてわずか3km・・・家康は毛利に対して軍事的防御もなされていないことから、あまり毛利に対して警戒心がなかったのかもしれません。
そう・・・広家の密約は・・・輝元も承知のことだったのかもしれないのです。

関ヶ原の戦い!!天下分け目の戦いが繰り広げられます。
毛利は「動かない!!」という決断をし、家康の天下は決定的なものとなったのです。
しかし・・・この動かない行動が問題となって・・・10月10日、輝元は、中国8か国から2か国への減封となったのでした。


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