1987年5月10日、ひとりの死刑囚が獄中で死を迎えました。
平沢定通・・・彼がその罪を問われた事件こそ、今から70年以上前、戦後の日本を震撼させた大量毒殺事件・・・帝銀事件です。
東京豊島区にあった帝国銀行椎名町支店に、東京都防疫課と名乗る人物が現れ、銀行員ら16人に毒物を飲ませ、12人を殺害、現金などを奪った事件です。
事件からおよそ6カ月後に、平沢貞通は逮捕され自白、しかし、裁判が始まると一転、無実を訴えました。
そんな平沢の死刑判決が確定されたのは、事件から7年後・・・
それから32年物の間、死刑が執行されることもなく、獄中で無実を訴えながら、95歳でなくなりました。
当時からささやかれていたのは冤罪・・・無実である・・・と。
今なお、謎が残る帝銀事件!!
事件はどうして起こったのか??
どんな事件だったのでしょうか??
太平洋戦争の敗戦から2年半・・・
いまだGHQの占領下にあった日本・・・東京都豊島区かつての椎名町でその事件は起きました。
現場となったのは、帝国銀行椎名町支店。
1948年1月26日、その日はみぞれ交じりの雪が降る寒い日でした。
閉店直後の午後3時過ぎ・・・東京都防疫課の腕章をつけた中年の男がやってきてこう言いました。
「長崎2丁目に住む相田さんという方の共用井戸から集団赤痢が発生しました
その家の者が今日、ここに預金にきています
まもなく進駐軍がここにきて、店を消毒しなければなりませんが、その前に、銀行員の皆さんに消毒薬を飲ませておいてくれと言われてきました」
男は赤痢の消毒薬を飲んでほしいと銀行員たち16人を集め、ゴム付きピペットで手際よく2回づつ湯呑に分け入れると、こう指示します。
「自分がするように飲んでください」
銀行員たちは言われたとおりに一斉に薬を飲みました。
そして1分ほどすると・・・男は第2薬を湯呑に入れて飲ませました。
男がこうして2回に分けて銀行員に飲ませたのには大きな意味がありました。
薬を飲んだ銀行員たちは、やがて焼けつくようなのどの痛みを感じたため、
「うがいに行ってよろしいですか」
銀行員たちはみな、水を飲みに走るも・・・
次々と腹痛を訴え、嘔吐し、もだえ苦しみ始めます。
男が銀行員たちに飲ませたのは、毒物だったのです。
そんな修羅場をよそめに、犯人は現金16万4000円と、1万7400円分の小切手を強奪して逃走!!
現在の500万円ほどです。
残されたのは、苦しみもがいた末に命を落とした人たちの痛ましい姿でした。
どうして銀行員たちは薬を飲んでしまったのでしょうか?
理由のひとつは時代です。
いまだ戦後の混乱期・・・町には親を亡くし行き場を無くした浮浪児たちがあふれていました。
路上で暮らす彼等は、ゴミを漁り、時には犬や猫を食べて何とか生き延びていたのです。
待ちの衛生状況が悲惨なうえ、水害や台風の被害も多く、伝染病が各地で発生!!
その為、集団赤痢という犯人の言葉には説得力がありました。
しかし、それだけでは薬を飲んだわけではありません。
かろうじて一命をとりとめた銀行員は4人・・・そのうちの一人がこう証言しました。
「決して一方的に無条件に犯人に命令されて薬を飲んだのではなくて、一応疑って、異論を聞いて、そして納得して飲むことになったというのが真相なんです」
銀行員たちが、犯人の言葉に納得したのは、犯人の物腰が影響していました。
「犯人は落ちついていました
お医者さんの持っているあの落ち着きです」
医者然として落ち着いた物腰と、手慣れた薬の取り扱い方・・・
何より犯人が自ら飲んで見せたことで、銀行員たちは犯人を信用し、毒を飲んでしまったのです。
事件発生の翌日、警視庁は合同捜査本部を設置。
捜査員257人を筆頭に、全国10万人以上の警察官が協力するという未曽有の大捜査を展開。
生き残った銀行員たちの証言をもとに人相書きが・・・情報提供を呼びかけました。
新聞紙上には、何度も犯人逮捕間近との憶測も流れましたが・・・
捜査は難航。
現場となったのは、帝国銀行椎名町支店。
帝銀は、昭和20年代まで存在した都市銀行で、質屋を改装した支店の建物は商店街に近い住宅地にありました。
銀行員が助けを呼ぶために這い出ると・・・近所の住民は、集団食中毒だと勘違いし、救助や片付けを行ったことで、犯行現場は荒らされてしまいました。
そのうえ、警察の鑑識活動もずさんで・・・重要な物証・・・湯呑に残っていた毒物を、まとめて醤油瓶に入れてしまいました。
毒物は化学反応を起こし、後の解析が困難に・・・
さらに、警察は捜査の過程で様々なミスを犯しました。
まずは、鑑識活動がきちんと行われていませんでした。
昼間の発生で、夜には現場検証が打ち切られていました。
そんなに難しい事件とは思われなかったのです。
・椎名町支店に詳しい人物??
・出入りして様子をよく知っている人間??
ブツから何か手に入るという発想がなかったのです。
結果的に、奪われた現金がいくらだったのか?
当時は小切手が奪われていたこともつかめていませんでした。
小切手の盗難が判明したのは、事件発生翌日・・・
直ちに各金融機関に手配するも、時すでに遅し・・・!!
その時点で、犯人は現場からさほど遠くない安田銀行板橋支店で難なく小切手を現金化していました。
なぜ、これほどミスが重なったのでしょうか??
当時は、戦前の警察に対して批判的な要素がありました。
特高警察など・・・戦前は強大な力を持ちすぎていました。
戦後しばらくは、警察組織が分割され、現在の都道府県警察よりも細かい自治体警察が置かれました。
GHQにより、警察力はバラバラに解体されていました。
それとは別の捜査班が追ったのが名刺でした。
実は、帝銀事件の発生前、近隣の銀行でも同様の手口による未遂事件が2件起きており、警察は同一犯の犯行と見なしていました。
その未遂事件の際、犯人は名刺を出して名乗っていました。
安田銀行荏原支店では、”厚生技官・松井蔚”
三菱銀行中井支店では、”厚生省技官・山口次郎”
この山口次郎は架空の人物でしたが、松井蔚は実在の人物で、本人は当日のアリバイがありました。
「名刺班」は、この松井蔚氏と交流し、名刺を交換した人物を追いました。
そんな中、事件から7カ月がたった1948年8月21日、ひとりの容疑者が、北海道の小樽で逮捕されたのです。
画家の平沢貞通・56歳。
平沢は、松井蔚氏と青函連絡船の中で名刺を交換していました。
周囲から勇み足だと言われても、名刺班の刑事が平沢をホンボシと睨んだのにはある驚きの理由がありました。
後の、平沢の面越しの主張によれば、平沢を逮捕した名刺班の刑事は、占い師に凝っており、「平沢」という名は、占い師から教えられたという話もあります。
平沢逮捕の理由
①事件当日のアリバイがはっきりしていない
②大金を所持していたが、その入手経路が不明
③刑事が犯人の人相書きに似ていると感じた
平沢は、逮捕翌日東京に移送されます。
取り調べが始まったのは、事件が起きた年の8月23日でした。
「松井博士から名刺をもらったのは事実ですが、スられて無くしてしまいました
あることはある、ないことはないと、十分申し上げますから、命にかけて申し上げますから、私は帝銀のことに関しては、天地神明に誓って犯人ではありません」
平沢は、この段階では何人もいた容疑者の一人でした。
その為、すぐに釈放されると思われていたのです。
しかし・・交流期限の48時間を過ぎても、平沢は釈放されず、取り調べが続けられました。
平沢が、過去、銀行を相手に詐欺事件を起こしていたことが判明したのです。
警察は、その余罪により再逮捕を繰り返し、拘留期限を延長していったのです。
取り調べは苛烈を極めました。
時に、犯行を再現させられ、犯人と同じ格好をさせられ、被害者に面通しさせられました。
平沢は、一貫して容疑を否認しますが、逮捕から37日・・・
1948年9月27日、「私がやりました」自白・・・犯行を認めたのです。
しかし、この時点で、平沢と帝銀事件を結びつける物的証拠は何もありませんでした。
本人の自白があろうとなかろうと、起訴して有罪に持ち込める捜査をする・・・
自白こそ、証拠の神様という発想・・・自白偏重主義がありました。
帝銀事件ではそれが如実に表れています。
帝銀事件のあった昭和23年に、刑事訴訟法が改正されています。
旧憲法は、人の言動や行動を理由に身柄を拘束できました。
新憲法では、何人も法律の下に根拠なく身柄を拘束されてはならないと謳われています。
新憲法の最も重要な部分は「人権重視」でした。
しかし、新憲法に精通した警察官も、検察官もいない状態でした。
新憲法で謳われた「自由」「平等」「人権」が、全く咀嚼されないまま帝銀事件は処理されたのです。
10月12日、帝銀事件の強盗殺人犯として起訴されます。
平沢はどうして自白したのでしょうか??
帝銀事件の犯人として逮捕された平沢貞通・・・
どんな人物だったのでしょうか?
平沢は、1892年、東京大手町の帝国陸軍憲兵隊本部官舎に生まれます。
憲兵だった父の転勤で4歳の時に北海道・小樽に。
成績がいいものの、気が弱かったという平沢少年が没頭したのは絵を描くことでした。
中学を卒業すると、ひとり上京し、絵の道へ・・・
22歳の時には二科展に初入選。
その後、結婚して5人の子供をもうけた平沢は、権威ある展覧会への入選をかさね、画家としての名声を手にしていきます。
その一方で、悪い評判も・・・
見栄っ張りで分不相応な買い物をしたり、実際は売れていない絵を売れたと吹聴することもありました。
女性関係も奔放で、数カ月間家族のもとに帰ってこないこともあったといいます。
1948年12月10日第1回公判・・・裁判で驚きの行動に出ます。
「わたくしは、捜査の中では完全に犯人にされております
しかし、私はあの犯行は行っておりません」
平沢は犯行を否認。
自白は強要されたものとして、無実を主張したのです。
では・・・どうして自白をしたのでしょうか??
平沢は、33歳の時、飼い犬が狂犬病にかかったことから、狂犬病の予防注射を受けます。
すると、その直後、薬の副作用によって意識不明の重体となるのです。
コルサコフ症候群と診断されました。
コルサコフ症候群とは、脳炎によって脳の一部が破壊され、重い記憶障害及び時と場所に関する判断力をそこなう病です。
作話症・・・作り話をするようになり、特に他から暗示されることで作り話をしやすくなるという症状も見られるといいます。
「私は検事の取り調べにより催眠術にかかったようになり、自分がその犯人と思いこまされ、ついに自ら犯人となって死刑にしてもらおうと思ったのであります」
コルサコフ症候群の症状により、誘導に乗せられる形で自白した可能性があるのです。
裁判官は、およそ1年5か月をかけて、法廷で平沢と対峙。
60回に及ぶ後半の末、判決を下します。
1950年7月24日・・・「被告人を死刑に処す」
裁判官は、平沢が犯行に至った動機についてこうのべました。
「平沢は、終戦前後を通じて自分の絵の技能も落ち、その絵も売れなくなり、収入も少なくなったのにも関わらず、なお自分は一流の画家でその絵は高く売れ、その収入も相当あると家人等を偽っていたので、その経済的な苦しさから逃れるのには、銀行から大金を一度に奪うよりほかはないと考えるようになった」
それにより、12人もの命を奪う凶行に及んだとされたのです。
第2審への控訴、最高裁への上告がともに棄却され、1955年5月7日、最高裁判決への異議申し立てが却下され、平沢の死刑が確定しました。
憤怒と絶望に満ちた平沢の言葉です。
「ざまを見ろ いい気味だ 平沢貞通は死んじゃった
本当に 彼は死んじゃった
もう会いたくても 彼はいないんだ
確かに彼は灰になっちゃった
もう会いたくとも 彼はいないんだ」
平沢貞通は、獄中からも無実を訴え、再審請求書を書き続けました。
その叫びに応える者たちが現れました。
作家・松本清張もその一人です。
平沢無罪に立った小説「日本の黒い霧」を書き、問いかけます。
そして、平沢を救うための運動が始まり、証拠が集められたのです。
1962年「平沢貞通氏を救う会」発足・釈放運動が始まりました。
犯人捜査の手掛かりとなった松井蔚の名刺について、平沢は、事件前、財布ごとスリにスられたと主張。
その被害届が警察に出ていたことが確認されました。
また、逮捕時に持っていた大金については、春画を描いて入手したとされ、画家としてのプライドから出所を言えなかったと弁護士に告白。
しかし、その春画の依頼者はすでに死亡しており、確認はできませんでした。
そして、真相にたどり着ける可能性を最も持っていたのが・・・毒の正体。
12人もの命を奪った毒物・・・
現場検証での杜撰な扱いもあり、その解析は困難を極めました。
分かったのは青酸化合物であるということ。
しかし、裁判では平沢貞通は「市販の青酸カリ」を使用し犯行を行ったと具体的な毒名が示されました。
どうして犯行に使用された毒物が、青酸カリとされたのでしょうか?
登戸研究所の関係者が、毒物の専門家として帝銀事件の捜査に協力していました。
帝銀事件に使用された毒物は、効いてくる時間が遅い・・・
通常の青酸カリであれば、もっと早く効きます。
使われたのは、青酸カリに比べ、遅効性のある毒でした。
犯人は薬を2回に分けて銀行員に飲ませました。
2回に分けたのは、遅効性のある毒物の特性を利用するためだったのです。
その毒物とは・・・??
有力なのは、青酸カリではなく旧日本軍が開発した毒物「アセトン シアン ヒドリン」の可能性です。
これは、青酸カリと同じで、青酸化合物です。
戦時中に、日本陸軍の登戸研究所で開発された暗殺用の毒薬です。
実践でもつかわれたとされています。
暗殺用の毒物は、仕掛けた人物が逃げる時間を稼がなければなりません。
即効性よりは遅効性が望まれました。
しかし、一般人に渡るようなものではありません。
どれくらい時間が経つと薬物が効いてくるか、あらかじめわかっている人物・・・
第1薬を飲ませた後、第2薬を飲ませる・・・
第2薬は、瓶から直接お茶碗に注いでいます。
「第2薬」は毒性のない液体・・・水だったのでは??と考えられています。
第1役を飲んだ銀行員たちが、苦しんでバラバラに行動しないよう、銀行員たちをその場に止めておくために「第2薬」を飲ませたのでは・・・??
犯人は、なぜ毒物を飲んでも死ななかったのでしょうか?
第1薬は、毒薬の入った瓶からピペットでお茶碗に移しています。
あらかじめ毒薬の入っていた瓶の中に、比重の軽い油のようなものを若干入れていたのではないか?
犯人は、それを自分のお茶碗に入れる・・・
他の人には毒薬部分を・・・としたのではないか?
平沢氏のような、毒物に素人な者には出来ないのではないか??
当時の警察は、毒物を使ったことがある人物ということで、旧日本陸軍関係者を調べています。
登戸研究所、731部隊・・・
捜査当初、警察が追っていたのは、毒物の扱いに長けた旧日本軍関係者でした。
ところが、ある時から捜査方針が変更・・・
結局、逮捕されたのは、軍とも毒物とも無縁の平沢貞通でした。
その平沢の裁判で、大きなカギを握っていたのが、旧登戸研究所の研究員でした。
事件に使用された毒物を鑑定した人物です。
捜査が始まって3か月ほど経った1948年4月(平沢逮捕前)に、捜査員が訪れ、その時に「帝銀事件で使われた毒は、アセトン シアン ヒドリンである。青酸カリではありえない」というふうに言っていました。
しかし、平沢逮捕の後に捜査本部にやってきて、「誰にでも手に入る青酸カリである」という鑑定書を提出します。
どうして鑑定結果が変わったのでしょうか?
丁度、帝銀事件の捜査は行われている頃、米軍が旧日本軍の人体実験のデータを持つ人物たちを保護して、米軍が人体実験のデータを独占的に得ようとしていたのです。
旧日本軍の秘密については口止めを行ったのでは・・・??
戦争犯罪を免責する代わりに、秘密を米軍に教える・・・その秘密は、帝銀事件の捜査陣にも話してはいけない!!というやり取りが、米軍との間に行われたと推測されています。
旧日本軍の人体実験に関するデータと引き換えに、戦争犯罪を見逃したGHQが「帝銀事件」が旧軍人による犯罪であると不都合なため、圧力をかけ、捜査方針を転換させたと言われています。
ここにもまた、戦後日本の闇が・・・!!
当時、青酸カリは、一般人でも薬局などで購入が可能でした。
平沢逮捕という前提があり、それに合わせて毒物の情報が再構成された可能性があるのです。
帝銀事件で使用された毒物は、公式には青酸カリ・・・
しかし、それには多くの疑問が呈されています。
毒物への疑念・・・新たな証拠や証言を加えて、帝銀事件の死刑囚・平沢貞通の再審請求は続けられ、18回に及びました。
しかし、18階の再審請求も、5回に及んだ恩赦出願も認められることはありませんでした。
その一方で、死刑は執行されませんでした。
どの法務大臣も「ひょっとしたら冤罪じゃないか・・・!!」ということが頭をかすめたと思われます。
死刑執行の命令書の中に名前があったが平沢だけ除いた・・・??
「これは執行できない」と言った法務大臣も実際にいました。
あの時の捜査、あの時のGHQ・・・真犯人とは違うのではないか??
そう思っている国民が相当しました。
憲法が変わっていく・・・刑事警察も変わっていく中で、みんながどうしたらいいのかわからない・・・
そんな中で起きてしまった事件・・・最後まで誰も納得しない事件でした。
死の恐怖と向き合いながら、ただ過行く時間・・・
そんな平沢の心を支えたのは描くこと。
その数1300枚余り。
最期まで画家であり続けました。
そして、逮捕から39年・・・1987年5月10日、平沢貞通は釈放されることなく、95歳で獄死しました。
平沢は死を前にこう書き残しています。
”我 死すとも 瞑目せず”
帝銀事件には、まだまだ多くの謎が残っています。
しかし、何の罪もない12人の命を奪った凶悪な事件は、実際に起こったものでした。
そして、その裏にあったのは、敗戦後の混乱した日本の姿でした。
その闇は、今もなお続いているのかもしれません。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村
平沢定通・・・彼がその罪を問われた事件こそ、今から70年以上前、戦後の日本を震撼させた大量毒殺事件・・・帝銀事件です。
東京豊島区にあった帝国銀行椎名町支店に、東京都防疫課と名乗る人物が現れ、銀行員ら16人に毒物を飲ませ、12人を殺害、現金などを奪った事件です。
事件からおよそ6カ月後に、平沢貞通は逮捕され自白、しかし、裁判が始まると一転、無実を訴えました。
そんな平沢の死刑判決が確定されたのは、事件から7年後・・・
それから32年物の間、死刑が執行されることもなく、獄中で無実を訴えながら、95歳でなくなりました。
当時からささやかれていたのは冤罪・・・無実である・・・と。
今なお、謎が残る帝銀事件!!
事件はどうして起こったのか??
どんな事件だったのでしょうか??
太平洋戦争の敗戦から2年半・・・
いまだGHQの占領下にあった日本・・・東京都豊島区かつての椎名町でその事件は起きました。
現場となったのは、帝国銀行椎名町支店。
1948年1月26日、その日はみぞれ交じりの雪が降る寒い日でした。
閉店直後の午後3時過ぎ・・・東京都防疫課の腕章をつけた中年の男がやってきてこう言いました。
「長崎2丁目に住む相田さんという方の共用井戸から集団赤痢が発生しました
その家の者が今日、ここに預金にきています
まもなく進駐軍がここにきて、店を消毒しなければなりませんが、その前に、銀行員の皆さんに消毒薬を飲ませておいてくれと言われてきました」
男は赤痢の消毒薬を飲んでほしいと銀行員たち16人を集め、ゴム付きピペットで手際よく2回づつ湯呑に分け入れると、こう指示します。
「自分がするように飲んでください」
銀行員たちは言われたとおりに一斉に薬を飲みました。
そして1分ほどすると・・・男は第2薬を湯呑に入れて飲ませました。
男がこうして2回に分けて銀行員に飲ませたのには大きな意味がありました。
薬を飲んだ銀行員たちは、やがて焼けつくようなのどの痛みを感じたため、
「うがいに行ってよろしいですか」
銀行員たちはみな、水を飲みに走るも・・・
次々と腹痛を訴え、嘔吐し、もだえ苦しみ始めます。
男が銀行員たちに飲ませたのは、毒物だったのです。
そんな修羅場をよそめに、犯人は現金16万4000円と、1万7400円分の小切手を強奪して逃走!!
現在の500万円ほどです。
残されたのは、苦しみもがいた末に命を落とした人たちの痛ましい姿でした。
どうして銀行員たちは薬を飲んでしまったのでしょうか?
理由のひとつは時代です。
いまだ戦後の混乱期・・・町には親を亡くし行き場を無くした浮浪児たちがあふれていました。
路上で暮らす彼等は、ゴミを漁り、時には犬や猫を食べて何とか生き延びていたのです。
待ちの衛生状況が悲惨なうえ、水害や台風の被害も多く、伝染病が各地で発生!!
その為、集団赤痢という犯人の言葉には説得力がありました。
しかし、それだけでは薬を飲んだわけではありません。
かろうじて一命をとりとめた銀行員は4人・・・そのうちの一人がこう証言しました。
「決して一方的に無条件に犯人に命令されて薬を飲んだのではなくて、一応疑って、異論を聞いて、そして納得して飲むことになったというのが真相なんです」
銀行員たちが、犯人の言葉に納得したのは、犯人の物腰が影響していました。
「犯人は落ちついていました
お医者さんの持っているあの落ち着きです」
医者然として落ち着いた物腰と、手慣れた薬の取り扱い方・・・
何より犯人が自ら飲んで見せたことで、銀行員たちは犯人を信用し、毒を飲んでしまったのです。
捜査員257人を筆頭に、全国10万人以上の警察官が協力するという未曽有の大捜査を展開。
生き残った銀行員たちの証言をもとに人相書きが・・・情報提供を呼びかけました。
新聞紙上には、何度も犯人逮捕間近との憶測も流れましたが・・・
捜査は難航。
現場となったのは、帝国銀行椎名町支店。
帝銀は、昭和20年代まで存在した都市銀行で、質屋を改装した支店の建物は商店街に近い住宅地にありました。
銀行員が助けを呼ぶために這い出ると・・・近所の住民は、集団食中毒だと勘違いし、救助や片付けを行ったことで、犯行現場は荒らされてしまいました。
そのうえ、警察の鑑識活動もずさんで・・・重要な物証・・・湯呑に残っていた毒物を、まとめて醤油瓶に入れてしまいました。
毒物は化学反応を起こし、後の解析が困難に・・・
さらに、警察は捜査の過程で様々なミスを犯しました。
まずは、鑑識活動がきちんと行われていませんでした。
昼間の発生で、夜には現場検証が打ち切られていました。
そんなに難しい事件とは思われなかったのです。
・椎名町支店に詳しい人物??
・出入りして様子をよく知っている人間??
ブツから何か手に入るという発想がなかったのです。
結果的に、奪われた現金がいくらだったのか?
当時は小切手が奪われていたこともつかめていませんでした。
小切手の盗難が判明したのは、事件発生翌日・・・
直ちに各金融機関に手配するも、時すでに遅し・・・!!
その時点で、犯人は現場からさほど遠くない安田銀行板橋支店で難なく小切手を現金化していました。
なぜ、これほどミスが重なったのでしょうか??
当時は、戦前の警察に対して批判的な要素がありました。
特高警察など・・・戦前は強大な力を持ちすぎていました。
戦後しばらくは、警察組織が分割され、現在の都道府県警察よりも細かい自治体警察が置かれました。
GHQにより、警察力はバラバラに解体されていました。
それとは別の捜査班が追ったのが名刺でした。
実は、帝銀事件の発生前、近隣の銀行でも同様の手口による未遂事件が2件起きており、警察は同一犯の犯行と見なしていました。
その未遂事件の際、犯人は名刺を出して名乗っていました。
安田銀行荏原支店では、”厚生技官・松井蔚”
三菱銀行中井支店では、”厚生省技官・山口次郎”
この山口次郎は架空の人物でしたが、松井蔚は実在の人物で、本人は当日のアリバイがありました。
「名刺班」は、この松井蔚氏と交流し、名刺を交換した人物を追いました。
そんな中、事件から7カ月がたった1948年8月21日、ひとりの容疑者が、北海道の小樽で逮捕されたのです。
画家の平沢貞通・56歳。
平沢は、松井蔚氏と青函連絡船の中で名刺を交換していました。
周囲から勇み足だと言われても、名刺班の刑事が平沢をホンボシと睨んだのにはある驚きの理由がありました。
後の、平沢の面越しの主張によれば、平沢を逮捕した名刺班の刑事は、占い師に凝っており、「平沢」という名は、占い師から教えられたという話もあります。
平沢逮捕の理由
①事件当日のアリバイがはっきりしていない
②大金を所持していたが、その入手経路が不明
③刑事が犯人の人相書きに似ていると感じた
平沢は、逮捕翌日東京に移送されます。
取り調べが始まったのは、事件が起きた年の8月23日でした。
「松井博士から名刺をもらったのは事実ですが、スられて無くしてしまいました
あることはある、ないことはないと、十分申し上げますから、命にかけて申し上げますから、私は帝銀のことに関しては、天地神明に誓って犯人ではありません」
平沢は、この段階では何人もいた容疑者の一人でした。
その為、すぐに釈放されると思われていたのです。
しかし・・交流期限の48時間を過ぎても、平沢は釈放されず、取り調べが続けられました。
平沢が、過去、銀行を相手に詐欺事件を起こしていたことが判明したのです。
警察は、その余罪により再逮捕を繰り返し、拘留期限を延長していったのです。
取り調べは苛烈を極めました。
時に、犯行を再現させられ、犯人と同じ格好をさせられ、被害者に面通しさせられました。
平沢は、一貫して容疑を否認しますが、逮捕から37日・・・
1948年9月27日、「私がやりました」自白・・・犯行を認めたのです。
しかし、この時点で、平沢と帝銀事件を結びつける物的証拠は何もありませんでした。
本人の自白があろうとなかろうと、起訴して有罪に持ち込める捜査をする・・・
自白こそ、証拠の神様という発想・・・自白偏重主義がありました。
帝銀事件ではそれが如実に表れています。
帝銀事件のあった昭和23年に、刑事訴訟法が改正されています。
旧憲法は、人の言動や行動を理由に身柄を拘束できました。
新憲法では、何人も法律の下に根拠なく身柄を拘束されてはならないと謳われています。
新憲法の最も重要な部分は「人権重視」でした。
しかし、新憲法に精通した警察官も、検察官もいない状態でした。
新憲法で謳われた「自由」「平等」「人権」が、全く咀嚼されないまま帝銀事件は処理されたのです。
10月12日、帝銀事件の強盗殺人犯として起訴されます。
平沢はどうして自白したのでしょうか??
帝銀事件の犯人として逮捕された平沢貞通・・・
どんな人物だったのでしょうか?
平沢は、1892年、東京大手町の帝国陸軍憲兵隊本部官舎に生まれます。
憲兵だった父の転勤で4歳の時に北海道・小樽に。
成績がいいものの、気が弱かったという平沢少年が没頭したのは絵を描くことでした。
中学を卒業すると、ひとり上京し、絵の道へ・・・
22歳の時には二科展に初入選。
その後、結婚して5人の子供をもうけた平沢は、権威ある展覧会への入選をかさね、画家としての名声を手にしていきます。
その一方で、悪い評判も・・・
見栄っ張りで分不相応な買い物をしたり、実際は売れていない絵を売れたと吹聴することもありました。
女性関係も奔放で、数カ月間家族のもとに帰ってこないこともあったといいます。
1948年12月10日第1回公判・・・裁判で驚きの行動に出ます。
「わたくしは、捜査の中では完全に犯人にされております
しかし、私はあの犯行は行っておりません」
平沢は犯行を否認。
自白は強要されたものとして、無実を主張したのです。
では・・・どうして自白をしたのでしょうか??
平沢は、33歳の時、飼い犬が狂犬病にかかったことから、狂犬病の予防注射を受けます。
すると、その直後、薬の副作用によって意識不明の重体となるのです。
コルサコフ症候群と診断されました。
コルサコフ症候群とは、脳炎によって脳の一部が破壊され、重い記憶障害及び時と場所に関する判断力をそこなう病です。
作話症・・・作り話をするようになり、特に他から暗示されることで作り話をしやすくなるという症状も見られるといいます。
「私は検事の取り調べにより催眠術にかかったようになり、自分がその犯人と思いこまされ、ついに自ら犯人となって死刑にしてもらおうと思ったのであります」
コルサコフ症候群の症状により、誘導に乗せられる形で自白した可能性があるのです。
裁判官は、およそ1年5か月をかけて、法廷で平沢と対峙。
60回に及ぶ後半の末、判決を下します。
1950年7月24日・・・「被告人を死刑に処す」
裁判官は、平沢が犯行に至った動機についてこうのべました。
「平沢は、終戦前後を通じて自分の絵の技能も落ち、その絵も売れなくなり、収入も少なくなったのにも関わらず、なお自分は一流の画家でその絵は高く売れ、その収入も相当あると家人等を偽っていたので、その経済的な苦しさから逃れるのには、銀行から大金を一度に奪うよりほかはないと考えるようになった」
それにより、12人もの命を奪う凶行に及んだとされたのです。
第2審への控訴、最高裁への上告がともに棄却され、1955年5月7日、最高裁判決への異議申し立てが却下され、平沢の死刑が確定しました。
憤怒と絶望に満ちた平沢の言葉です。
「ざまを見ろ いい気味だ 平沢貞通は死んじゃった
本当に 彼は死んじゃった
もう会いたくても 彼はいないんだ
確かに彼は灰になっちゃった
もう会いたくとも 彼はいないんだ」
平沢貞通は、獄中からも無実を訴え、再審請求書を書き続けました。
その叫びに応える者たちが現れました。
作家・松本清張もその一人です。
平沢無罪に立った小説「日本の黒い霧」を書き、問いかけます。
そして、平沢を救うための運動が始まり、証拠が集められたのです。
1962年「平沢貞通氏を救う会」発足・釈放運動が始まりました。
犯人捜査の手掛かりとなった松井蔚の名刺について、平沢は、事件前、財布ごとスリにスられたと主張。
その被害届が警察に出ていたことが確認されました。
また、逮捕時に持っていた大金については、春画を描いて入手したとされ、画家としてのプライドから出所を言えなかったと弁護士に告白。
しかし、その春画の依頼者はすでに死亡しており、確認はできませんでした。
そして、真相にたどり着ける可能性を最も持っていたのが・・・毒の正体。
12人もの命を奪った毒物・・・
現場検証での杜撰な扱いもあり、その解析は困難を極めました。
分かったのは青酸化合物であるということ。
しかし、裁判では平沢貞通は「市販の青酸カリ」を使用し犯行を行ったと具体的な毒名が示されました。
どうして犯行に使用された毒物が、青酸カリとされたのでしょうか?
登戸研究所の関係者が、毒物の専門家として帝銀事件の捜査に協力していました。
帝銀事件に使用された毒物は、効いてくる時間が遅い・・・
通常の青酸カリであれば、もっと早く効きます。
使われたのは、青酸カリに比べ、遅効性のある毒でした。
犯人は薬を2回に分けて銀行員に飲ませました。
2回に分けたのは、遅効性のある毒物の特性を利用するためだったのです。
その毒物とは・・・??
有力なのは、青酸カリではなく旧日本軍が開発した毒物「アセトン シアン ヒドリン」の可能性です。
これは、青酸カリと同じで、青酸化合物です。
戦時中に、日本陸軍の登戸研究所で開発された暗殺用の毒薬です。
実践でもつかわれたとされています。
暗殺用の毒物は、仕掛けた人物が逃げる時間を稼がなければなりません。
即効性よりは遅効性が望まれました。
しかし、一般人に渡るようなものではありません。
どれくらい時間が経つと薬物が効いてくるか、あらかじめわかっている人物・・・
第1薬を飲ませた後、第2薬を飲ませる・・・
第2薬は、瓶から直接お茶碗に注いでいます。
「第2薬」は毒性のない液体・・・水だったのでは??と考えられています。
第1役を飲んだ銀行員たちが、苦しんでバラバラに行動しないよう、銀行員たちをその場に止めておくために「第2薬」を飲ませたのでは・・・??
犯人は、なぜ毒物を飲んでも死ななかったのでしょうか?
第1薬は、毒薬の入った瓶からピペットでお茶碗に移しています。
あらかじめ毒薬の入っていた瓶の中に、比重の軽い油のようなものを若干入れていたのではないか?
犯人は、それを自分のお茶碗に入れる・・・
他の人には毒薬部分を・・・としたのではないか?
平沢氏のような、毒物に素人な者には出来ないのではないか??
当時の警察は、毒物を使ったことがある人物ということで、旧日本陸軍関係者を調べています。
登戸研究所、731部隊・・・
捜査当初、警察が追っていたのは、毒物の扱いに長けた旧日本軍関係者でした。
ところが、ある時から捜査方針が変更・・・
結局、逮捕されたのは、軍とも毒物とも無縁の平沢貞通でした。
その平沢の裁判で、大きなカギを握っていたのが、旧登戸研究所の研究員でした。
事件に使用された毒物を鑑定した人物です。
捜査が始まって3か月ほど経った1948年4月(平沢逮捕前)に、捜査員が訪れ、その時に「帝銀事件で使われた毒は、アセトン シアン ヒドリンである。青酸カリではありえない」というふうに言っていました。
しかし、平沢逮捕の後に捜査本部にやってきて、「誰にでも手に入る青酸カリである」という鑑定書を提出します。
どうして鑑定結果が変わったのでしょうか?
丁度、帝銀事件の捜査は行われている頃、米軍が旧日本軍の人体実験のデータを持つ人物たちを保護して、米軍が人体実験のデータを独占的に得ようとしていたのです。
旧日本軍の秘密については口止めを行ったのでは・・・??
戦争犯罪を免責する代わりに、秘密を米軍に教える・・・その秘密は、帝銀事件の捜査陣にも話してはいけない!!というやり取りが、米軍との間に行われたと推測されています。
旧日本軍の人体実験に関するデータと引き換えに、戦争犯罪を見逃したGHQが「帝銀事件」が旧軍人による犯罪であると不都合なため、圧力をかけ、捜査方針を転換させたと言われています。
ここにもまた、戦後日本の闇が・・・!!
当時、青酸カリは、一般人でも薬局などで購入が可能でした。
平沢逮捕という前提があり、それに合わせて毒物の情報が再構成された可能性があるのです。
帝銀事件で使用された毒物は、公式には青酸カリ・・・
しかし、それには多くの疑問が呈されています。
毒物への疑念・・・新たな証拠や証言を加えて、帝銀事件の死刑囚・平沢貞通の再審請求は続けられ、18回に及びました。
しかし、18階の再審請求も、5回に及んだ恩赦出願も認められることはありませんでした。
その一方で、死刑は執行されませんでした。
どの法務大臣も「ひょっとしたら冤罪じゃないか・・・!!」ということが頭をかすめたと思われます。
死刑執行の命令書の中に名前があったが平沢だけ除いた・・・??
「これは執行できない」と言った法務大臣も実際にいました。
あの時の捜査、あの時のGHQ・・・真犯人とは違うのではないか??
そう思っている国民が相当しました。
憲法が変わっていく・・・刑事警察も変わっていく中で、みんながどうしたらいいのかわからない・・・
そんな中で起きてしまった事件・・・最後まで誰も納得しない事件でした。
死の恐怖と向き合いながら、ただ過行く時間・・・
そんな平沢の心を支えたのは描くこと。
その数1300枚余り。
最期まで画家であり続けました。
そして、逮捕から39年・・・1987年5月10日、平沢貞通は釈放されることなく、95歳で獄死しました。
平沢は死を前にこう書き残しています。
”我 死すとも 瞑目せず”
帝銀事件には、まだまだ多くの謎が残っています。
しかし、何の罪もない12人の命を奪った凶悪な事件は、実際に起こったものでした。
そして、その裏にあったのは、敗戦後の混乱した日本の姿でした。
その闇は、今もなお続いているのかもしれません。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村