日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

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かつて、物質の最も小さな構成要素と思われていた原子・・・
しかし、20世紀初頭、その中央に原子核があると判明・・・
以来、世界の科学者は、謎に包まれた原子核の正体を知ろうと競って研究を続けてきました。
日本でも、最先端の施設で研究が行われています。
原子核の内部構造を解き明かそうと、科学者たちが実験に取り組んでいます。
しかし、かつて、純粋に原子核を研究する科学者が、戦争のための兵器開発に駆り出された時代がありました。

京都大学の核物理学者・荒勝文策博士の研究室・・・プロジェクトの名は、”F研究”
海軍の依頼で、原子の力を利用した新型爆弾の可能性を探っていました。

戦争中・・・世界中の科学者が、国家の存亡を左右する原子爆弾の開発に駆り出されました。
その競争を制したのは、アメリカ・・・
戦争直後、アメリカは日本でも原爆を造る計画がなかったのか、調査に乗り出しました。
アメリカの公文書館、日本の遺族のもとに眠る2000点以上にのぼる資料から、F研究の実態と科学者たちの思いが見えてきました。

原子の魅力にとりつかれ、人類の未来に貢献したいと科学を志した原子核物理学者たち・・・
彼等は何故、戦争に関わっていったのでしょうか?
そして、その研究とは・・・??
科学者たちの葛藤を通して、科学の持つ光と影を見つめます。

科学技術は、光と影をまとっている・・・
人々を飢餓から救った化学肥料、その技術から毒ガスが生まれました。
医学に恩恵をもたらした生命科学、その進歩が生物兵器を生みました。
そして20世紀、世界に衝撃を与えた発見が、原子核分裂!!
原子核を分裂させ、膨大なエネルギーを生み出す・・・
しかし、これはパンドラの箱でした。

それを開けたのはアメリカ・・・!!

終戦直後、彼らはある調査を行いました。
その膨大な資料には、重要なことが書かれていました。
アメリカ国立公文書館に保管されていた機密資料です。
アメリカ軍が作った、日本での調査リポートです。
そして、研究者から没収されたノートや設計図・・・
ここから浮かび上がってきたのは、アメリカが持っていたある疑い・・・それは、日本の原爆開発!!
これまで語られることが無かった真相が、今、明らかになる!!

アメリカ・ニューメキシコ州の砂漠の真っただ中・・・トリニティサイトです。
1945年7月16日、ここで世界で初めて核実験が行われました。
アメリカ人にとってこの場所は今も、第2次世界大戦の勝利と結びついています。

7月16日午前5時29分・・・原子爆弾が爆発、核の時代が始まりました。
この原爆開発計画を指揮したレスリー・グローブス少将の補佐役だったロバート・ファーマン少佐・・・
ファーマンには、ある重要な任務がありました。
アメリカ軍の占領下にある日本に赴き、原爆の開発計画があったのか調査することでした。
ファーマンが作成した調査報告書・・・
日本の第一線の科学者や軍人を対象に、原子核研究の実態について調べています。

「名前が挙がっていた科学者は、8人ほどいました
 ドイツなどに留学した人たちです
 もし日本が開発計画を進めていた場合、それを遂行する能力があった人たちです
 私たちとは違う原爆の製造方法を誰かが開発しているかもしれない・・・そうした懸念を持っていました」byファーマン

最重要人物とされたのは、理化学研究所の仁科芳雄博士でした。
1920年代のヨーロッパで学び、日本の原子学物理学の礎を築いた科学者です。

1945年9月10日、ファーマンの調査団は仁科の聞き取りを行います。
しかし、施設が空襲で大きな被害を受けていたこともあり、原爆開発につながる証拠は見つかりませんでした。
4日後・・・調査団は、既に世界的に物理学者として知られていた京都医帝国大学の湯川秀樹博士を京都大学に尋ねました。
しかし、報告書は、内気で学究肌の湯川は、原爆開発計画を進んで動かすとは考えられないと結論付けています。
この時、湯川と一緒にいた一人の核物理学者にファーマンは強い関心を示します。
京都大学の原子核研究を率いていた荒勝文策です。

調査団が荒勝を知っていたかどうかはわかりません
仁科と比べて、荒勝は重要な調査対象ではありませんでした。
しかし、彼は1930年代から大変重要な仕事をしていて、日本では間違いなく10本の指に入る核物理学者でした。
調査団は、荒勝の研究室を訪れ、実験装置などの捜索を行います。

「荒勝は、有能で非常にエネルギッシュな実験原子物理学者である
 私は日本に来て初めて、核分裂検出チェンバーや比例増幅器を見た
 それは素人っぽいものだが、よく作動している」byファーマン

ファーマンは、新型兵器の開発責任者だった海軍中佐の聞き取りも行います。
その証言から、海軍は原子の力を使った爆弾に興味を持ち、荒勝がその研究に関与していたことが明らかになりました。
アメリカは、彼に大きな関心を寄せることになります。

日本の原子核物理学の父・仁科芳雄・・・
戦前から原子核の理論で世界から注目を集めていた湯川秀樹・・・
しかし、ファーマンが目をつけたのは、アメリカではほとんど知られていなかった荒勝文策でした。
彼は一体、どんな人物だったのでしょうか?

荒勝文策が研究を続けていた京都大学・・・当時は、京都尾帝国大学と呼ばれていました。
荒勝が所属していたのは、理学部物理学科・・・
今も多くの学生が、原子核物理学の研究に取り組んでいます。
荒勝文策は、長い間、歴史の彼方に忘れられた科学者でした。
その荒勝に光を当てる本が出版されました。

「荒勝文策と原子物理学の黎明」です。

彼の原石と、科学者としての歩みを記した初めての本です。
書いたのは、京都大学名誉教授で素粒子物理学者の政池昭名誉教授です。
政池は、長年荒勝の助手を務め、荒勝の後任の教授となった木村毅一の教え子です。
膨大な資料を日本とアメリカで収集し、10年以上もかけて本にまとめました。

日本でも知らない・・・海外でも知られていない・・・しかし、非常に重要な人物でした。

荒勝文策は、1926年、ドイツ・ベルリン大学に留学します。
この時、36歳・・・当時ドイツは、世界の核物理学研究の中心地でした。
20世紀初頭、この分野で世界的な発見が相次いでいました。

1911年、イギリスのアーネスト・ラザフォードが原子核を発見
原子の中心には、原子核があり、物質の根源を解き明かす秘密が隠されているはずだ・・・!!
荒勝達科学者は、真理を求めて研究に没頭します。
荒勝がベルリン大学の教授だったアインシュタインの授業を受け、自宅を訪れ、議論を交わしたといいます。
その時の印象をこう書き残しています。

「彼の偉大さは、私たち日本人が単にその著書論文のみから知る偉さとは桁が違う
 その人格上の偉さ、人類愛の高さをさしていうことをやめても、どうしてどうして、単なる理論物理学者ではない」

その後、荒勝はイギリスに渡ります。
学んだのは、原子核を発見したラザフォードが所長を務めるのケンブリッジ大学・キャベンディッシュ研究所でした。
ここでは、理論を重視するドイツとは違い、実験を重んじる研究が活発に行われていました。

「私は基本的にはアングロサクソンの自然を率直に見つめ、実験によって新しい理論を引き起こすような発見、開拓、測定をしていく在り方に、心を多く惹かれるようになってきた」

イギリスの実験主義の学風が、その後の荒勝の研究姿勢に大きな影響を与えます。

2年間のヨーロッパ留学を終えた荒勝は、1928年、当時日本の統治下にあった台湾に・・・!!
台北帝国大学の物理学講座の教授に就任したのです。
ここでは今も、荒勝の功績が称えられています。
ここでは、荒勝がアジアで初めて作った実験装置が展示されています。

1934年7月、荒勝は、加速器を使ってある実験を成功させます。
加速した粒子をリチウムの原子核にぶつけたところ、別の物質ヘリウム2個になりました。
アジアで初めて人の手によって原子核を変換させた画期的な出来事でした。
日本本土から離れた不便な場所で、世界中が競争する中での実験成功でした。

当時、荒勝は44歳・・・核物理学の未来に、大きな希望を抱いていました。

「この衝撃の手段によって、多くの原資は破壊せられ、さすれば天に輝く太陽の紀元も、空に瞬く無数の星の生まれし状況も、宇宙に存在する一切の物質の成り立ち、天地が生まれた状況をも一歩一歩明らかにすることであろうと思うのであります
 一切の秘密の鍵は、ただくらい研究室に閉じ籠る自然科学者の手にあるのでありまして、いずれはその人の手によって、扉は開かれ、光明はつけられるものと信ずるのであります」

荒勝は、原子核を研究する科学者が、いずれ全ての物質の成り立ちを解き明かすと考えていたのです。
世界で核物理学の進歩は止まりません。
4年後、ドイツで歴史的な発見がなされます。
発見したのは科学者オットー・ハーン・・・
ウラン235の原子核に中性子をぶつけると、二つに分裂しました。
原子核分裂です。
その時、エネルギーが放出されることが分かったのです。
このエネルギーを使えば、人類の未来が明るい・・・当時、世界中の科学者がそう信じました。

世界の科学者たちを驚かせた原子核分裂の発見・・・
この原子核分裂が発見されたのが、ナチス政権下のドイツ・・・
その直後、第2次世界大戦がはじまる・・・!!

荒勝文策と原子核物理学の黎明[本/雑誌] / 政池明/著

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アメリカなど連合国は、ナチスが原子の力を利用した新型爆弾を開発するのを恐れました。
恐怖が世界を支配する・・・大国の間で、原子爆弾の開発競争が始まりました。

1936年、台湾での業績を認められ、荒勝は京都大学理学部教授に就任します。
しかし、3年後の1939年、第2次世界大戦がはじまります。
世界は、優秀な科学者を多く要するナチス・ドイツが核分裂のエネルギーを利用した新型爆弾を開発することを恐れます。
これに対しアメリカは、極秘の原爆開発プロジェクト・・・マンハッタン計画を立ち上げます。
数千人の科学者を動員し、20億ドルという巨額の予算を投じました。
彼等が目指したのは、核分裂の連鎖反応です。
ウラン235の原子核に中性子を当てると、二つに分裂し、この時エネルギーが生れます。
この核分裂を次々と起こすことで、膨大なエネルギーを生み出し、それを爆弾に利用しようと考えました。
後に日本で調査を行うファーマンも、マンハッタン計画の一員でした。
ファーマンには、もう一つ重大な任務がありました。
ナチス・ドイツの原爆開発計画を探る諜報活動です。

「アメリカの科学者たちは、ドイツの開発が何年も進んでいて、
 すぐに爆弾を落とすのではないかと不安で開発に集中できませんでした。
 私の仕事は、彼らが安心できる様有益な情報を提供し、各自が研究室に戻って開発に集中できるようにすることでした」byファーマン

1944年9月、ファーマンは、ALSOS=アルソスと呼ばれる諜報組織を率いて、戦闘が続くベルギーに潜入します。
最大の標的は、31歳でノーベル賞を受賞した天才物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクでした。
ナチスが原爆を開発していれば、彼の頭脳を必要とするはずだと考えたからです。
ドイツ南西部の小さな町・・・ハイガーロッホ・・・
教会が建つ崖の下の洞窟に、ハイゼンベルクが実験をつづけた場所が残されています。
原子炉を作り、ウランの核分裂の実験を繰り返していました。
さいころの形に固めたウランをロープで結び、重水で満たされたプールに浸し、中性子をぶつけます。
しかし、核分裂の連鎖反応が起こるまでには至りませんでした。
1945年4月23日、原子炉はアルサスに見つかり、ハイゼンベルクは拘束されます。
ナチス・ドイツの原爆開発計画は終わりを告げました。
ドイツが成し遂げたのは、数グラムのウランを濃縮したことだけでした。
原爆には程遠い状況でした。
この頃、ドイツの潜水艦Uボートが大西洋を進んでいました。
積み荷の中には、原爆の原料であるウランが含まれていました。
ある極秘の作戦が進められていたのです。
しかし、5月・・・ナチス・ドイツ降伏
Uボートは、アメリカ軍に拿捕されました。
560キロのウランが積み荷から見つかりました。
目的地は日本・・・それは、日本がドイツに依頼したものだと後に判明します。
日本で、原爆開発が行われているのではないか??
ファーマンは、日本にも疑問の目をくけることになります。

2000ページ以上にのぼる資料・・・
そこに京都大学荒勝研究室が行っていた研究の詳細が記されています。
戦時研究37-2・・・通称F研究・・・核分裂を意味するNuclear FissionのFを取ったものです。
F研究の柱の一つは、ある装置の開発でした。
遠心分離機・・・
原子核分裂を起こす物質ウラン235を濃縮するための装置です。
彼等は何を目指していたのか??
歴史に埋もれてきたF研究の詳細とは・・・??

太平洋戦争が進むにつれ、日本の戦況は悪化していました。
こうした中、戦局を打開する新型兵器への要望が高まります。
原子爆弾の可能性に目をつけた陸軍は、理化学研究所の仁科芳雄に研究を依頼します。
通称”二号研究”です。
その後、海軍も原爆の開発計画を立ち上げます。
技術将校として兵器の開発を担当していた三井再男大佐です。
海外の情報を集めていた三井は、原子の力に強い関心を持っていました。

「超爆裂分子というのがドイツとアメリカの雑誌に出ていますよ
 こんなことが考えられるってことだけが出てる
 原子力がそっちの方に使われるということはわかっている
 情報によればアメリカはピッチブレンド(ウラン鉱石)とか減量を一所懸命集めている
 そういう情報だけはあった あとの情報は何もない」

三井は、以前から海軍が研究を助成していた荒勝をたずね、原爆の基礎的研究を頼みます。
荒勝は考えた末、研究を引き受けることに同意しました。
1944年秋・・・戦時研究37-2・・・F研究が始まります。
最大の目標は、目的物資の軍事化に付必要なる資料を探求するにあり
研究方針は、鉱石より目的物を分離、同位元素の分離、基本数値の測定に関する研究並びに応用に関する検討を行い活用上の資料を得んとす

すなわち、ウランを原爆の材料として使えるように詳しく調べることでした。
荒勝を主任に、湯川秀樹など校と大学を中心に14人の科学者が、戦時研究院として名を連ねました。
その一人・・・荒勝研究室の清水榮は重要な任務を担っていました。
清水は、ある手書きの設計図を残していました。
空気タービン式の超遠心分離機の装置でした。
原爆の原料であるウランを、濃縮する重要な装置です。
天然のウランには、核分裂を起こしやすいウラン235が0.7%しか含まれていません。
そのため、残りの大部分を占めるウラン238から分離して取り出す必要があります。
荒勝研究室では、天然のウランを超高速で回転させることで、遠心力を利用してウラン235を取り出す装置の開発に乗り出しました。
当時、清水がつけていた研究ノート・・・
戦前に、アメリカなどで発表された遠心分離機の論文を研究し、試行錯誤を繰り返していたことが伺えます。
科学者たちは何故、対良策率をも可能にする原子爆弾の研究を引き受けたのでしょうか??

湯川秀樹記念館には、様々な資料が保管されています。
1945年の湯川の日記には・・・
湯川が荒勝達と共にF研究の会合に出席していたことが記されています。
湯川が1943年に新聞に発表した文章があります。
タイトルは「科学者の使命」
”今日の科学者の最も大いなる責務が、既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用することにあるのは言を俟たない”

戦時中、国家総動員体制のもと、科学者も戦争への協力を求められました。
文部省は、”科学研究は戦争の遂行を唯一絶対の目標として協力にこれを推進すること”とする方針を発表。
後に、閣議決定されます。

一方、荒勝はどう考えていたのでしょうか?
当時、荒勝は戦時下でも原子核の基礎研究をしたいと考えていました。
そこに、海軍の三井からF研究の依頼があったのです。

「原子爆弾って言うのは、可能性の研究をする必要がありませんかと
 もう一つ欲張って言うならば、日本の原子核物理学者の勉強を助けましょう
 それを、荒勝文策っていう物理の主任教授に頼みに行くんですよ」

依頼を受けた荒勝は、「原爆は理論的には可能だが、今度の戦争には間に合わない」と答えたといいます。
それでも、F研究を引き受けることには同意しました。
海軍と荒勝との間には、密接な関係がありました。

戦争末期、アメリカ軍による日本本土への空襲は、激しさを増していきます。
1945年4月、仁科を中心に研究を進めていた理化学研究所が空襲を受けます。
ウランを濃縮するための分離棟が破壊され、”二号研究”は中止となりました。

7月21日、F研究の戦時研究員と海軍との合同会議が琵琶湖沿いのホテルで行われます。
京都大学からは、荒勝や湯川、清水が・・・海軍からは、三井らが出席しました。
会議では、遠心分離機について議論がなされますが、未だ完成していませんでした。
海軍側からは、原料のウランが十分に入手できないという悲観的な報告があったとされます。
F研究の合同会議は、大きな進展もなく終わります。
その直後のことでした。
荒勝達の研究は、突然終わりを告げます。

アメリカによる原子爆弾の投下・・・

何万人もの人が、一瞬にして命を落としました。
人類の未来のために原子核の研究を続けてきた科学者たち・・・
それが、原子爆弾を生み出す結果となりました。

荒勝は、物理学の基礎研究に力を注ぎ、軍事研究には極めて消極的だったと考えられます。
しかし、大戦末期には、荒勝も軍に協力せざるを得なくなりました。
責任を逃れることはできません。
日本の原爆調査を行ったファーマンの最終報告書には・・・

・日本にはウラン資源が決定的に不足していた
・原爆の基礎研究がアメリカの1942年のレベルだと分析

しています。

大学での学術的な研究の域を超えることはなかったと結論付けています。

アメリカが恐れていた日本の原爆開発・・・
しかし、それは原子核分裂の基礎研究の域を出ていなかった・・・!!
広島と長崎への原爆投下を目の当たりにした荒勝達・・・
自分達の研究の先に凄まじい破壊の世界があることを知ります。
科学が持つ光と影・・・



”我は死なり
 世界の破壊者なり”byロバート・オッペンハイマー

1945年7月、世界で初めての原子爆弾の開発に成功した科学者・・・オッペンハイマーの言葉です。
ナチス政権下のドイツで発見され、世界を驚かせた核分裂反応・・・
人類の未来に貢献すると思われたこの発見は、原爆の開発競争を引き起こします。
日本では、京都大学の荒勝文策博士に海軍が研究を委託、基礎研究を続けていた科学者たちが、戦争に巻き込まれていきました。

1945年8月、広島と長崎に原子爆弾が投下されました。
京都大学荒勝文策博士の研究チームは、直ちに調査団を組織して現地に調査に向かいます。
彼等が目にしたのは、自分たちの研究の先にあったもの・・・
原子爆弾の膨大なエネルギーで、破壊しつくされた世界でした。

アメリカのラジオ放送から新型爆弾投下の情報を入手した荒勝は、調査団を結成しアメリカに向かいます。
遠心分離機の設計を担当していた清水榮も調査団の一員でした。
清水はこの時の衝撃を日記に綴っています。

”その破壊の惨状を見て、驚くばかりなり
 かつて広島市の沖天にそびえし鯉城も一瞬にして飛んだということなり
 至るところ破壊”

この日、広島陸軍兵器廠で、陸海軍合同で会合が開かれます。
最大の議題は、投下された爆弾が原子爆弾なのかどうか??
理化学研究所で原爆の基礎研究を行っていた仁科芳雄は、被害の規模から原子爆弾だと推定します。
これに対し荒勝は、慎重な姿勢を取ります。

「私もそう思いますが、科学者としては、今、科学的な調査をやっていますから、それができたら判断します」

荒勝達は二度にわたる調査を行い、広島市内の百数十カ所で様々な物質を採取・・・
放射性物質が含まれているかどうか分析を行います。
その結果、陸軍の西練兵場の土壌に強いβ土壌を検出しました。
自然にある放射能に比べて、極めて高い数値でした。
原爆以外は考えられない・・・徹底的に調べます。

8月15日に荒勝が海軍に送った電報・・・

”シンバクダンハ ゲンシカクバクダント ハンテイスル”

1945年8月15日終戦・・・

この日、日本は終戦を迎えます。
荒勝達の戦争も終わりました。
9月中旬、荒勝は新聞紙上に4回にわたって原爆の調査報告を発表します。
そこに記されていたのは、測定された放射線量の詳細な記録・・・
さらに、放射能が人体に与える影響についてもいち早く言及・・・!!
記事をこう結びました。

”我々は、学術的調査が広島市の人と街に希望と光明を与え、今後に行わるべき種々の原子核の学術基礎研究が、全人類にこの三条に対する治策を与えるのはもちろん、人が人として生まれたる喜びを感じせしむる日にあらんことをねがいかつ信じてやまない”

9月15日、荒勝は第3次調査団を広島に派遣します。
原爆投下から40日を経て、残留放射能がどうなっているのかを調べ、復興に役立てたいとの思いからでした。
調査団は、陸軍病院を宿舎としました。
医学部の学生も合流し、放射能測定器を設置します。
この時、広島に大型の台風が近づいていました。
しかし、広島気象台は原爆から復旧しておらず、予報を出せませんでした。

夜・・・悲劇がやってきました。
台風が広島を直撃!!
宿舎は流されます。
荒勝研究室の3人を含む11人が亡くなりました。

若い研究者を一度に3人も失った荒勝は、失意の底に沈みます。
実は、荒勝にはF研究を引き受けたもう一つの理由がありました。
戦争中、京都大学からも多くの若者たちが兵隊として戦場に送り込まれていました。
荒勝は、戦時研究に参加することで、若者の命を救おうとしたのです。

「残り少なくなった若い研究者を何らかの方法で教室に残したい
 学問を続けさせたいと常々考えていた
 それだけの代償がなければ、とてもあのような研究は引き受けられたものではない」

原爆の基礎研究を引き受けることで、若い研究者の命を守ろうとした荒勝・・・
戦争が終わってからその尊い命を失う結果となってしまいました。
しかし、この後も、予期せぬ事態は続きます。

1945年11月、荒勝の運命を大きく変える事件が起こります。
アメリカの調査団から告げられた言葉は・・・
「全ての研究装置を破壊する!!」
その中に、彼が心血を注いで開発をしてきた物がありました。
サイクロトロン・・・円形の加速器の一種です。
粒子を加速させ、高速で原子核に衝突させ破壊することで物質の変化を研究する装置です。

荒勝の研究と、心に秘めていた思いとは・・・??

京都大学には、今も戦時中に荒勝が建設していたサイクロトロンの痕跡が残されています。
そこからは、当時の最先端だった原子核の研究をしようとしていたことが伺えます。
アメリカにある資料からは、荒勝達が戦前からサイクロトロンの建設構想を持ち、設計図を何度も書き直し、構想を練っていたことが読み取れます。
荒勝は何故、新型の加速器であるサイクロトロンの建設にこだわっていたのでしょうか?

ひとつ前のコッククロフト・ウォルトン型加速器を使って、様々な成果をあげていました。
戦争中に出された荒勝研究室の核分裂に関する論文・・・
中性子源を使って核分裂で放出される中性子の数を測定し、平均2.4個であるとしています。
これは、当時世界的にも最も精度の高い測定値でした。
加速器を使ってさらに制度の高い測定値を求めようとしていました。
このような基礎研究を続けるために、サイクロトロンを熱望していました。
サイクロトロンは、コッククロフト・ウォルトン型に比べてはるかに原子核の構造を調べるのに重要だからです。

荒勝研究室の清水榮は、戦争中でも純粋な学問の大切さを説いていた荒勝の言葉をこう語っています。

「年寄ったやつは、軍のそういう研究、弾帯の事とか何とかをやっててもいいけども、私たちには純粋な学問をしてろと・・・そういうのが先生の考えだった
 純粋な学問が、それだけ行くかっていうことも、民族として一つの誇りになるわけでしょ
 そういう考えを持っていたわけ
 だから、若いものは戦争中でこうだけども、物がないけど、とにかく純学問もしろとそう言ってた」

サイクロトロンの完成を夢見ていた荒勝に、運命の日が訪れます。
アメリカ本国からGHQに日本にあるサイクロトロンを破壊せよとの命令が下されたのです。

1945年11月21日、アメリカ軍の将校が、荒勝研究室を訪れます。
アメリカ軍の撮影したフィルムには、建設中のサイクロトロンが映し出されています。
破壊命令を知らない荒勝は、実験施設や研究ノートを求めに応じて公開しています。

この時、通訳を務めたトーマス・スミス・・・
スミスが戦後書き残した回想録には、この時の様子が記されています。

”テーブルを挟んで荒勝と向かい合って腰を下ろすと、私は話した
 荒勝は、静かに耳を傾けていた
 驚いた風はまったくなかった
 私が話し終わると荒勝は
 「サイクロトロンは原子爆弾の製造にしか使わないと思っておられるようだが、そうではない」ときっぱり言った”
 「自分が長年、サイクロトロンの研究に従事してきたが、自分の研究に軍事的な利用価値を見出したことはない 軍からはそうするようにせっつかれていたけれども」と

荒勝も、この時の思いを日記に書き記しています。

”研究室の破壊撤収は、必要無きにあらずや
 これらは全く純学術研究施設にして、原爆製造とは無関係のものなり” 
 スミスは「余等もそう思えども、連合国軍最高司令部より厳重命令ゆえにこれに従うより道なし」と述べたり”

荒勝は、せめて実験ノートだけは没収しないように懇願します。

”実験ノートを手元に残しておくことはできないと告げると、荒勝はこみ上げる感情に声を詰まらせながら、接収は不当だと抗議した
 「これで研究メモまで接収されたら、自分と教え子が過去の研究成果を有意義な形で生かすことすら不可能となる」と”

荒勝が戦前から付けていた研究ノート25冊は、すべて没収・・・
研究室は、アメリカ兵によって封鎖され、サイクロトロン破壊!!
この事件に対し、一人の学生が声をあげます。
京都大学の医学部の大学院生だった堀田進が、マッカーサー元帥に講義の手紙を送ったのです。

「人類の幸福のために、原子エネルギーを善用術く、着実、かつ不撓の研究を遂行することは、戦勝、戦敗の別を問わず、すべての国民に課せられた尊い義務であると確信するのであります
 殊にわたしは、医学を専攻する学徒として、原子エネルギーの医学的活用に大きな夢を描いております」

当時の研究者たちは、サイクロトロンは人類の未来に貢献する様々な可能性を秘めたものだと考えていました。
理化学研究所と、大阪大学のサイクロトロンも同じ運命をたどりました。
こうした行為に対して、世界の科学者からも抗議の声が起こります。

アメリカではトップニュースとして伝えられ、一般の科学者たちは基礎研究に使うものを壊したというのは書物を焼き払う行為に等しい!!と、声明がアメリカの各地の大学から起こります。
結局、アメリカは、サイクロトロンの破壊は誤りだったと陸軍長官が公式に認めることになりました。

サイクロトロンの破壊が影響を与えたのは、荒勝の人生だけではありませんでした。
アメリカ軍の通訳を務めたトーマス・スミスは、2004年に亡くなりました。
戦後スミスは、軍を除隊し、アメリカの大学で日本の社会経済史を教え続けました。
その大きなきっかけが、荒勝との出会いだったのです。
軍がサイクロトロンを破壊し、実験ノートを没収したことを、恥じていたのです。
荒勝の核物理学への真摯な姿勢や、研究成果や施設を誠実に公開してくれた姿に、強い感銘を受けていたのです。
そして学問探求の道へと進ませたのです。
スミスは生涯、サイクロトロンの破壊を後悔し続けたといいます。
サイクロトロンも実験ノートも失った荒勝・・・
原子核物理学者の第一線から退くことになります。

戦争によって翻弄された原子核物理学者たち・・・
彼等は終戦と共に、人類の未来を豊かにする本来の研究へと戻っていきました。
しかし・・・東西冷戦が始まり、核開発競争は激化・・・
再び彼らは、科学の壁と向き合うことになりました。

戦後、世界は冷戦の時代に入ります。
アメリカとソ連の核開発競争が激化・・・
荒勝研究室にいた清水榮もそこに巻き込まれていきます。

1954年、ある事件が世界に衝撃を与えます。
太平洋ビキニ環礁での水爆実験です。
広島、長崎についで、第五福竜丸乗組員の被ばく・・・
事前にアメリカが通告していた危険水域の外側にいたにもかかわらず、死の灰を浴びて乗組員一人が亡くなりました。
清水たちは、第五福竜丸の船体のマグロから肺を採取し、京都大学で分析を行います。
清水は、1954年に書いた報告書・・・清水リポートには・・・
分析の結果、灰に含まれた放射性物質の量も種類もかつてない規模であることが分かりました。
水爆のすさまじさを明らかにしたこのリポートは、世界の研究者の目に触れることとなります。
清水リポートは、後にイギリスの哲学者ラッセル卿の手に・・・
1955年、核兵器兵絶、科学技術の平和利用を唱えたラッセル・アインシュタイン宣言に繋がったと言われています。
清水のこうした行動には、師である荒勝の影響が色濃く残っています。

荒勝たちと共にF研究に携わった湯川秀樹・・・
戦後、科学と平和について真剣に考えていました。
1949年、湯川は戦前に行った中間子の研究を認められ、ノーベル物理学賞を受賞します。
第五福竜丸の被ばくはその5年後・・・
ラッセル・アインシュタイン宣言の11人の呼びかけ人に名を連ねました。
その後は、核兵器廃絶を話し合うパグウォッシュ会議に参加するなど、世界の反核運動に積極的に関わっていきます。

湯川をはじめ、科学者たちの行動は日本の世論を動かしていきます。
原爆や水爆に反対する大衆運動が日本中で巻き起こりました。

終戦の年に、湯川が書いた短歌・・・

いまよりは 世界ひとつに とことはに
           平和を守る ほかに道なし

1950年、荒勝は京都大学を定年で退官します。
その後、神戸に新設された甲南大学の初代学長に就任し、学校経営という慣れない仕事に取り組みます。
晩年、荒勝が取り組んでいたのが書道・・・
最も好んで描いた言葉が”行得一”・・・荒勝の思いが込められた言葉です。

晩年の荒勝は、乱の栽培に熱中するようになります。
一人黙々と花の世話をする日々・・・戦争中のことを語ることはほとんどなかったといいます。
荒勝は、1973年83歳でその生涯を閉じます。
戦争に翻弄されながらも、原子核物理学の研究に全てを捧げた生涯でした。

荒勝達の研究の成果は、次の世代に受け継がれています。
茨城県東海村にあるJ-PARC(大強度陽子加速器施設)・・・
ここに在るのは、最先端の加速器・シンクロトロン・・・かつて荒勝が夢見ていたサイクロトロンがはるかに進化した装置です。
全長1.6キロ・・・高速の99.5%まで粒子を加速させることが出来ます。
この加速器を使って、原子核の中にあるさらに小さな素粒子の観測を行います。
この研究が進めば、物質がどのように生まれたのか、そしていつか宇宙誕生の謎にせまれると考えられています。

75年前、原子核の謎に迫り、その力を解き放った科学者たち・・・
その経験は最先端の科学が希望と絶望をももたらすことを私たちに伝えています。

「科学の本質・・・自然本来の姿であるが、その働きは平等なる人類愛であり、偉大なる愛情である
 我々は、人類が自ら破滅するがごとく行為に出ることを戒めるとともに自然界の一切の性質を究明し、すべてこれを人類の平和目的に利用せんことを望むものである」

戦後、荒勝が残した言葉です。

純粋な好奇心で、研究を推し進める科学者たち・・・
しかし、その思いとは裏腹に、彼らの研究は戦争に利用されてきました。
歴史はその事実を私たちに投げかけています。

科学技術は、光と影をまとっている・・・!!

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戦争の20世紀です。


第1時世界大戦で幕を開けた20世紀。
世界が戦争に巻き込まれた時代でした。
戦争が戦争を呼び、悲劇の歴史となりました。
第1次世界大戦・ナチスの台頭・太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争・・・なぜ戦争に踏み出し、どうして繰り返されたのか???


その第1次世界大戦の背景はどのようなものだったのでしょうか?
もともとは、地域紛争でしたが・・・人類始まって以来の世界大戦になってしまいました。
20世紀の初頭の戦争・・・日露戦争が、第1次世界大戦と深い関係がありました。

1904年日本とロシアとの間に日露戦争が勃発します。
この戦争は、中国や朝鮮・・・東アジアで台頭しようとしていたロシアと日本の戦いでした。
この戦争の背後には、ヨーロッパでのドイツのしたたかな戦略がありました。
それは・・・第1次世界大戦に大きな影響を与えることになります。
日露開戦前に、ドイツがとった行動は・・・???
ロシアにヨーロッパに出てきてもらっては困る、東に出てほしいと思ったドイツ・皇帝ヴィルヘルム2世はロシア・ニコライ2世に黄禍論(欧米で広まった黄色人種が白色人種に災いをもたらす主張)を吹き込みます。
今のうちに、日本をたたいておけ!!というものでした。

1905年ロシア帝国バルチック艦隊が日本海海戦で敗北・・・敗戦が決定的となります。
しかし、日本も戦争を継続する国力もなく・・・
1905年ポーツマス条約で講和条約を結びます。
アジアで勢力を拡大できなかったロシア・・・ドイツの思惑は外れてしまいます。
ロシアは東アジアへの勢力拡大を断念し、東ヨーロッパ(バルカン半島)に重点を置き始めました。
当時、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれるほど・・・第1次世界大戦の発火点となるのです。
小国を後押しする諸外国・・・ロシアはセルビア(スラブ民族)を、ドイツはオーストリア=ハンガリーを(ゲルマン民族)。
第1次世界大戦の発端となったのが、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フェルディナント大公夫妻が、サラエボを訪問し・・・悲劇的な事件が!!
1914年サラエボ事件です。
フェルディナント夫妻がセルビア人青年によって暗殺されてしまいます。

オーストリア=ハンガリー帝国の要求は・・・
民族運動の抑圧・サラエボ事件の裁判への参加などでしたが、最終的には拒否をし・・・
オーストリアが軍事行動を起こすのです。

民族の対立を発端に・・・どうして世界大戦へと移っていったのでしょうか?
そこには、大国の複雑な利害関係がありました。

イギリス・ロシア・フランスの三国協商。
これに対抗したのが、ドイツ・オーストリア・後に抜けることになるイタリアの三国同盟。
日本はイギリスと日英同盟。。。ロシアとは日露協約。
協商側と同盟側の緊張が高まっている中でのサラエボ事件でした。
この大国の参戦により、世界大戦に拡大したのです。

その発端となったのは、ドイツがオーストリア側についての参戦でした。
ドイツはまずベルギーに侵入し、フランスに侵攻していきます。
イギリスは、フランスを助ける形で参戦。
では、どうしてドイツは参戦したのでしょうか?
それは、1879年に独墺同盟を締結していたこと・・・これは、ロシアに軍事対抗するためでした。
このドイツの参戦で連鎖的に参戦していきます。
たくさんの国が、世界大戦に参加するようになります。
第1次世界大戦の主要な参戦国は・・・
同盟国側は、ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン=トルコ帝国・ブルガリア。
連合国側は、主要国はフランス・ロシア・イギリス・イタリア・日本・アメリカ・・・・たくさんあります。
当時アメリカは、世界最大の工業国で、このアメリカの参加によって、連合国の勝利が決定的に決まることになります。

1914年日本がドイツに宣戦布告します。
どうして日本は世界大戦に参加したのでしょうか?
それは、1902年の日英同盟があったからですが、イギリスは、日本が東アジアで大きくなることを警戒していたので、軍事行動に対してかなり制限していたようです。
しかし、日本は、東アジアでの安定した勢力を望んでいました。
その後、ドイツ権益であった南洋諸島に勢力を伸ばしていくことになります。
日本は、遠く離れた戦争で・・・国運をかけた戦争ではなかったのですが。。。
参戦することによって景気が回復、経済効果は大変大きかったようです。


そして、近代兵器の登場が、世界を戦場にしていきます。
戦場だけで戦いの勝敗が決まるわけではない戦争・・・総力戦となるのです。
戦争を大規模にし、残虐なものにしていきます。
戦車は、1916年9月イギリスがソンムの戦いで使用し始めました。
潜水艦は、ドイツ軍がUボートの名称で、敵の商船への攻撃に使用しました。
航空機の参加・・・偵察機から戦闘機や爆撃機へと分化し発達していきます。

第1次世界大戦の犠牲者は2000万人以上の死傷者を出します。
これは、今までに類を見ない犠牲で、兵器の発達・・・戦争の大規模化へと繋がっていきました。

どうして地域戦争が世界大戦となったのか???

オスマン=トルコ帝国の衰退で、多くの少数民族がバルカン半島で独立運動を始めたこと。
そのバックには、勢力拡大を狙う大国の複雑な同盟関係・協商関係・利害関係があったからなのです。

1918年11月11日第1次世界大戦終結。

オーストリア=ハンガリー帝国や、オスマン=トルコ帝国が敗戦後に相次いで崩壊し、多くの民族が独立していきました。
ドイツは、ベルサイユ条約で多額の賠償金を背負い、経済的に苦境に追い込まれました。
そして・・・経済的に苦しめられるドイツはヒトラー率いるナチスが台頭していきます。

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