中島知久平伝 [ 豊田穣 ]

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「昭和の選択」シリーズです。

1941年12月8日、日本軍の航空機三百数十機が、ハワイ真珠湾奇襲。
次々と爆弾、魚雷を落とし、米軍艦船を大破、沈没させました。
爆撃機の名は、「九七式艦上攻撃機」・・・航空機が戦争の主役となったことを世界に示しました。
作ったのは、軍用機メーカー「中島飛行機」です。
その創業者は、中島知久平・・・早くから航空機の重要性に着目し、国土防衛のためには、民間による軍用機開発が必要だと、開発・生産しました。
しかし、太平洋戦争の戦況は逆転し、米軍の航空戦力は質・量ともに力を増し、日本軍は太平洋各地で劣勢に追い込まれていきます。
さらに・・・アメリカは、日本本土を空襲するために、「超大型爆撃機 B-29」の開発を進めていました。
このままでは、アメリカによる本土爆撃で日本が焼け野原になってしまう・・・!!

アメリカを上回る超大型爆撃機を新しく開発し、アメリカ本土の直接爆撃をする??
戦闘機を大量生産し制空権をとり、戦況を打開する・・・??

日露戦争から数年後・・・一人の若い海軍機関少尉が巡洋艦での任務についていました。
この機関少尉が毎日のように時間外外出を願い出ることを不審に思った上官が尋ねました。

「佐世保の下士官集会所で飼っている鷲を調べているのです」

「どういうことだ?」

「これから飛行機は進歩し、将来必ず国防上重要になります。
 もし飛行機で、爆弾や魚雷を投下できるようになれば、軍艦一隻の何百分の一の費用で日本を守ることができます。
 鷲の研究をするのも、飛行機研究の参考になると思うからです。」

彼こそ、中島知久平でした。

ライト兄弟の初飛行から数年・・・航空機が軍艦を倒す日が来ると予見、貧しい日本の有力な武器になると考えていました。
1884年1月11日、群馬県新田郡(現・太田市)の養蚕農家に生まれました。
18歳で故郷を出奔!!東京で勉強し、陸軍士官学校に入ろうとしました。
軍人になって大陸に渡ったら、馬賊の棟梁となり、自らの手で当時の敵国・ロシアを打ち負かしたい!!
そう思っていました。

しかし、陸軍士官学校や海軍兵学校の試験には失敗し、合格した海軍機関学校へ・・・!!
思わぬところから技術者の道へ進むこととなりました。
そして出会うのが飛行機でした。
もともと数学が得意で、機関学校を3位で卒業し、技術将校となると、飛行機の魅力に取り付けれていきます。
そして大胆な行動へ・・・

1910年英国国王即位記念行事に派遣されると、イギリスへの航海の途中で・・・フランス・マルセイユで船を下ります。
当時、最先端だったフランスの航空機を視察したい!!
この思いは認められ、2か月の間、各地の飛行場、工場を精力的に回ります。
最先端のフランスでも木と布でできた機体・・・その機体が数機ほど存在していました。

中島は、27歳で海軍大学飛行機科選科学生となります。
当時は、航空技術のことを教えられる教官がおらず、独学で研究しました。
卒業後、海軍命令でアメリカへ航空機製作と整備の技術習得に行きます。
ここでも・・・本来の任務を越え、航空機の操縦を学びました。
アメリカの飛行機ライセンスを無断で取得してしまいました。
勝手な行動を詰問する上官に中島は・・・
「飛行機の製作・整備に関する技術を身につけるには、飛行機を実際に飛ばす技術をも身に着ける必要があると気づいたのです。
 したがって、命令に違反したとは思っていません。」

1913年横須賀海軍工廠飛行機工場長となった中島は、飛行機製作を開始します。
はじめての経験にもかかわらず、僅か2か月で日本海軍製を第1号機を完成。
しかし、当時軍艦には数億円の予算を割いても、航空機には僅か20万円というものでした。
中島は上官に長文の意見書を提出!!
当時の海軍の主流だった”大艦巨砲主義”を真っ向から否定、軍艦を増産する競争ではかなわない、国力の劣る日本だからこそ、少ない経費で有効な攻撃力を持つ航空機開発に予算を割くべきだと主張しました。

その信念を裏付けるかのように、独自の新型機を開発。
日本では誰も見たことのない斬新なものばかりでした。
が・・・中島の航空機開発は行き詰っていきます。
海軍という組織の中では、彼の考え方は理解されなかったのです。
反発を買い・・・開発した飛行機の一つは試験飛行もままなりませんでした。

1917年中島は海軍を退役。。。
そして故郷の群馬県に、民間の飛行機研究所(中島飛行機)を立ち上げます。
最初は、楊さん小屋を借り受けた設計事務所・・・
経理を担当する弟と、5人の技術者のみ・・・!!
それでも、中島の信念は・・・

「飛行機開発は、民間をもって行うときは、一ヶ年に12回の改革を行ない得るも、官営にては正式に言えば僅かに1回のみ。
 故に、官営の進歩は、民営の12分の1たるの理なり」

しかし、民間の航空機製造会社は苦難のスタートでした。
利根川の河川敷を借りて飛行実験すれども、墜落などの失敗の連続・・・
人々は、中島の航空機を皮肉ります。

「札はだぶつく
 お米はあがる
   何でもあがる
     あがらないぞい 中島飛行機」

1919年中島式四型複葉機 試験飛行に成功

さらに改良した五型練習機は、陸軍からの大量注文を獲得!!
後れて海軍からも、横廠式ロ号甲型水上機の大量注文が・・・!!
中島飛行機は、急速に拡大していきます。
そして、性能向上と大量生産への道を邁進していくのです。

群馬県太田市には、旧中島飛行機の工場跡がいくつも残されています。
中島の予見通り、第一次世界大戦以降世界中で航空機の需要が高まっていました。
中島飛行機も、日本初の金属製飛行機「軽銀号」をはじめ、生産機種、機体数ともに急成長を遂げることとなります。
1925年、航空機エンジン国産化のために、東京にも工場を建設。
群馬県に7万5000坪の新工場も!!
1930年46歳となった中島は政界に進出!!
地元群馬県から国会議員に出馬し当選。
政治家となることで、古い考えの大艦巨砲主義から抜け出せない軍部にも意見できるようになりました。
中島は、当選直後の国会で、反目しあう陸海軍から独立した「空軍」創設を主張!!
航空兵力の一元化によって、少ない軍事費で最大の効果を得る・・・ことを考えます。

1937年日中戦争勃発
戦線の拡大とともに、航空機の需要はますます増していきます。
最盛期、中島飛行機は機体数で1位、エンジン数で2位・・・財閥系の三菱重工と並ぶ軍用機メーカーとなっていきます。
議員となって社長を退いても、会社への影響力を持ち続け、大社長と呼ばれ・・・そこには最高の頭脳を持った技術者たちが集まりました。

1939年ノモンハン事件・・・
地上戦ではソ連軍の戦車に完敗するも、空の戦いにおいては九七式戦闘機が圧倒!!
中島飛行機の性能を支えたのが、優れたエンジンの開発力でした。
軍部に正式採用された「栄」エンジン・・・
小型軽量でありながら、高馬力を達成したこのエンジンが、日本海軍の最重要作戦に導入されることに・・・!!

1941年12月8日、真珠湾攻撃!!
栄エンジンを積んだ九七式艦上攻撃機から落とされた魚雷が、アメリカの軍艦を次々と沈めていきました。
若き日の中島が予見した航空機による魚雷攻撃が、戦艦を倒す時代が到来したのです。
しかし、大勝利の知らせに沸く国民をよそに・・・中島飛行機の幹部たちは大変なことになった・・・と、思ったといいます。
進歩したと言っても、日本はまだアメリカの指導を受ける程度・・・
中島飛行機では、アメリカの提携会社から技術指導を受けているような状況でした。


日米開戦を機に、軍の要請によって航空機を増産・・・中島飛行機も、工場数105、就業人員25万人に膨れ上がっていました。
開戦から5か月後・・・アメリカの反撃が始まりました。
1942年4月、太平洋上の米空母を発した爆撃機が東京をはじめとする6都市を始めて爆撃したのです。
その日、東条英機首相は、中島飛行機の太田工場を視察予定でしたが、空襲の知らせに驚き、急遽東京に戻っています。
中島は、いずれ日本本土の空襲の本格化を予想しました。
アメリカは、真珠湾攻撃を機に、航空戦力の大拡充を図っていたのです。

本土空襲から2か月後・・・6月ミッドウェー海戦で日本は主力空母4隻を沈められ、海上の航空戦力の多くを失ってしまいます。
その2か月後の8月・・・連合軍は、日本軍は飛行場を作ったばかりのガダルカナル島上陸!!
激しい争奪戦が始まりました。
9月、アメリカはB-29初飛行に成功・・・エンジンを4基備え、日本の戦闘機が到達できない高度1万メートルを飛ぶことのできる”超空の要塞”!!
日本まで行ける飛行場さえ確保できれば本土大空襲が可能となりました。
10月、南太平洋海戦では日本軍も、米空母を撃沈。
南太平洋の戦況は一進一退を続けていました。
しかし、中島の元には、B-29完成の報が入っていました。
おそらく2年後には、東京が焦土と化すだろう・・・
11月、ひそかに一部の社員を集めて対抗策を研究し始めました。

1943年1月、東京三鷹研究所で「必勝防空研究会」と称する会議を開き、会社の幹部技術者たちに語りました。
「米軍も、大艦巨砲主義を捨てて、航空機主義に転向してしまった。
 戦いは航空機の量と質を考えて、作戦を勧めなくてはならない状態になった。
 国力の貧弱な日本としては、誠に憂慮すべき重大決意を要する事態に立ち至ったわけである。」

アメリカの大型爆撃機B-29による空襲は迫っていました。
航空機に関わるものとして、選択肢は限られていました。

①日本を空襲から守るために、超大型爆撃機を新たに開発する??
資材や人材はどうする・・・??
B-29より先に実戦配備できる可能性は・・・??

②戦闘機を大増産する
前線の兵士が一機でも多くの戦闘機を望んでいる。
B-29よりも先に、制空権を支配してしまう・・・??
しかし、日本本土への爆撃できる島を抑えられてしまったら・・・??


中島の選択は、①超大型爆撃機を新たに開発するでした。

超大型戦略爆撃機Z飛行機の生産・・・
大きさはB-29の1.5倍、幅65m、5000馬力のエンジンを6基積み、爆弾20トンを搭載しても、航続距離16000㎞・・・速度は、時速680㎞、高度7000mを飛ぶ。。。

「これが日本の技量を以て、果たして実現性があるのだろうかとの懸念が生ずるのは一応尤もであります。
 しかし研究の結果、生産は断然可能であることを確認せられたのであります。」

アメリカの製鉄能力は日本の20倍、工作機械生産能力は50倍・・・不利は明らか・・・

「一、二年の間に於て、日本の生産力が米国に拮抗しうるに至ることは思いもよらざる所である。
 生産絶対量の差は、寧ろ更に拡大するの憂さえある。」

敗戦を予言しています。

日本とアメリカとの航空機の生産力の差は16倍・・・
相手の物量にはかなわない・・・

Z機は、日本への空襲を防ぐために、太平洋上の敵飛行場を破壊・・・
次に、千島列島から偏西風のジェット気流に乗って太平洋を無着陸横断・・・
アメリカ本土を爆撃したのち、ドイツ軍占領下のフランス基地に着陸する計画でした。
アメリカの工業地帯や主要都市を破壊することで、アメリカの生産力を減らし、国民の士気を鈍らせようとしたのです。
そして、米軍の大空襲を防ぐための、Z機完成・配備を期限を昭和20年6月・・・最少機数を400としました。

「米国に於ける超空の要塞の整備と何れが速いかに依って、国家の運命は決するのである。」

未知の大型機を2年以内に完成させるという計画・・・軍部や内閣の説得は困難を極めます。
それでも1944年2月、陸海軍も協力し、Z機を元にした超大型爆撃機の試作研究開始が発表されました。
それは「富嶽」と名付けられました。
富嶽専任委員長となった中島は・・・ 

「残るは技術で勝つしかない
 だからこれをやるのだ。」

設計は、現場の技術者にとっても試練・・・不眠不休で新技術開発に挑みます。
前代未聞の大型機の設計・・・様々な工夫がなされました。
5000馬力のエンジンの設計にも難航します。
試作の直前までたどり着いていましたが・・・
悪化する戦況が全てを変えます。

1944年7月、サイパン島陥落
日本本土へのB-29の攻撃が可能となりました。
8月・・・”富嶽”計画中止・・・
軍の方針は、戦闘機の大量生産へと舵を切ったのでした。
当時、南方からの資源輸送ルートがアメリカ軍によって遮断され、アルミニウムの原料が手に入らなくなっていました。
富嶽計画をやめれば、1000機以上の戦闘機や小型爆撃機が作れる・・・という計算でした。

設計者のひとりは・・・
「この瞬間に、戦争に負けてしまった。」

富嶽に関わった技術者一部の人は、特攻機の開発に・・・
富嶽計画中止と同じくして・・・B-29がサイパン島などに実戦配備されます。
11月からは、東京への本格的な爆撃開始!!
その最重点目標は、中島飛行機のエンジン工場・武蔵製作所でした。
空襲は9回に及び、工場は使用不能に・・・!!

1945年3月、B-29による無差別爆撃によって、東京は焼け野原となりました。
その後、日本軍が戦況を打開することはなく・・・

1945年8月ポツダム宣言受諾・・・日本は無条件降伏をしました。
富嶽の資料はすべて焼却・・・占領軍に富嶽計画を知られることを恐れたためでした。
終戦後・・・中島飛行機はその生産をすべて停止・・・
GHQの財閥解体命令によって、11の会社に分割されました。
中島は、永久戦犯指名によって、逮捕命令が出るものの、病気のため収監されることなく、三鷹研究所近くの別邸に拘禁されます。
2年後、永久戦犯指名解除・・・そして、1949年10月29日、脳出血で・・・65歳で中島知久平死去。
中島が再び航空機に関わることはありませんでした。



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