日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

500年前、身の丈6尺、180㎝という大男が現れました。
茶の湯の大成者・千利休です。
彼が愛したのは、その体とは対照的なとても小さな宇宙でした。

千利休 本覚坊遺文

新品価格
¥216から
(2023/2/3 23:22時点)



京都府の南・・・大山崎町。
ここには、千利休がつくった唯一現存する茶室が残っています。
国宝・待庵です。
小さな入り口をくぐると、わずか2畳の極小の空間。
壁は、素材がむき出しで質素な素材。
窓は小さく、室内は薄暗い・・・
利休が好んで使ったのが、武骨で荒々しい黒樂茶碗。
独自の日を追求したこの小宇宙で、名だたる戦国武将たちをもてなしました。
茶の力によって時代を動かした利休。
しかし、歴史の表舞台に現れたのは、50代の頃でした。
そこから激動の人生を歩むことになります。
堺の商人出身で、52歳の時に信長に茶の師匠として抜擢されます。
信長が本能寺の変で討たれると、その後、天下人となる豊臣秀吉のもとでは茶の湯のみならず、裏で政治を操るほどの大出世。

「利休以外には、秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」

また、茶の湯を大衆に広めるため、1000人を超える茶の湯の大イベントを成功に導きます。
さらに、秀吉の信頼を受け、前代未聞、御所での茶会をプロデュースします。
天皇からも認められる存在となりました。
硬い絆で結ばれた秀吉のもと、時代の寵児となった利休・・・
しかし、秀吉から命じられたのは切腹でした。
利休に何が起きたのでしょうか??
その栄光と挫折とは・・・??

千利休の生まれは、自由な商売で繁栄した商売の町・堺。
しかし、利休は、その自由な町の支配を狙う戦国武将・織田信長に仕えることになります。
どうして信長に仕えたのでしょうか??
千利休・・・幼名・与四郎は、室町時代終盤の1522年、現在の大阪・堺に生れました。
倉庫や魚、塩を扱う商家と言われますが、父や祖父を早くに失い、暮らしは厳しかったといいます。
当時は戦国大名が、各地で力を競い戦乱の時代・・・。
堺の商人の中でも、外国と貿易を行い武器を大名に売るものは巨万の富を得て豪商へと成長しました。
堺は、町の周囲に堀を築いて守りを固め、豪商が自ら町を治める自治都市として繁栄しました。
日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、自由で豊かな商業都市・堺をこう例えました。

「まるで東洋のベネチアのようだ」byフロイス

そんな堺の町の商人たちの間で流行していたのが茶の湯です。
茶の湯は、4畳半ほどの茶室でお茶を飲みながら商談や世間話などをするサロンのようなものでした。
茶の湯を楽しむときに欠かせないのが、名物・・・主に中国製の高価な茶道具です。
堺の商人にとって、莫大な富で名物を買い集め、客に披露しながら茶の湯を行うのがステータスでした。
与四郎も、商人のたしなみとして、十代の頃から茶の湯の稽古を始めました。
そして、19歳の頃、大きな影響を受ける人物と出会います。
武野紹鴎・・・武具・甲冑を売る豪商で、名物の収集家・・・堺の商人や茶人としても一流でした。
与四郎は、紹鷗の茶会に参加するなど修行を続け、この頃から千宗易と名乗るようになります。
ある時紹鴎が、宗易の才を試そうとした逸話が残っています。

「庭を掃除しなさい」by紹鷗

しかし、宗易が庭に行ってみると塵ひとつありません。
紹鷗は、わざと宗易を困らせて反応を見ようというのです。
宗易は、庭の木の1本の近づき揺らす・・・やがて落ち葉が風に舞い、地に落ち、庭に自然の趣を添えました。
宗易は、わざと完璧を崩すことで美しさを演出したのです。
完璧・・・完全無欠を日本人は好みません。
花も散り際が美しいという、古来日本で語られていたある種の「わび」が生まれてくるもとになった言葉を表現しています。
「わび」とは何かを理解し、それを表現しようとする少年でした。

さらに宗易は、茶会の際、独自の工夫で客人を喜ばせます。
当時、宗易がもっている数少ない名物のひとつは、香炉。
宗易は、茶会の前に本来は床の間に飾り披露する香炉を茶入れ用の袋に入れて隠しておきました。
茶会が始まり、客が見せる様な名物もないのかと思う中、宗易が素知らぬ顔で袋を開けたところ・・・
名物の香炉が出てきて客はビックリ!!
この宗易の大胆な工夫は、客を楽しませ、茶会は大成功に終わったといいます。

名物道具の鑑賞というのが、お茶会の柱でしたが、名物を持っていない茶人も出てきます。
これを当時はわび数寄と言い、千利休の弟子の山上宗二が書きとどめたわび数寄の心構えが”胸の覚悟ひとつ 作分ひとつ手柄ひとつ”。
作分は創意工夫、作分を支えるのが胸の覚悟・・・名物の鑑賞会から脱却して、お茶というものを通じて亭主と客がコミュニケーションをとっていくことが中心となっていくお茶を、突き詰めていったのが千利休でした。

ディープフィクサー 千利休 (幻冬舎時代小説文庫)

新品価格
¥836から
(2023/2/3 23:23時点)



宗易の評判は次第に広がり、37歳の時に有力武将とも親交を持ちます。
戦国武将・三好実休です。
三好家は、畿内や四国で大きな勢力を持つ大名で、堺が商人の自治都市として維持できているのは三好家の後ろ盾のおかげでした。
三好実休も、茶の湯をきっかけに宗易を気に入り、お抱えの商人にしました。
いわば、宗易の恩人です。

実休亡き後、1568年、宗易47歳の時に三好家との間にひびが入ります。
織田信長の上洛です。
尾張の一大名だった信長は、京の都で足利将軍家の権威を得ることで、畿内での勢力を拡大。
畿内の有力者三好勢を京から追い払うとともに、後ろ盾の無くなった堺の商人に過酷な要求を行います。

「軍資金2万貫の献上を命じる」

現在の価値で20億円という莫大な金額の献上金でした。
これは、信長が堺を支配下に置くための第一歩でした。
豪商の多くは、堺の自治を守るため三好の反撃に期待し、信長の要求を拒否しようとします。
しかし、そんな堺の中で、信長に従おうとする者が現れます。
堺で指折りの豪商・今井宗久です。
宗久は、戦国大名が欲しがる鉄砲の生産に目をつけ、その売買で得た大金で多くの名物を持つ茶人でした。
信長の上洛後すぐに、茶つぼと茶入れを信長に献上、敵意がないことを示していました。
また、千宗易も今井宗久と親しいことから、これまでの三好とのつながりよりも、信長側につくことを選んだと言われています。
信長の上洛の翌年・・・堺の多くの期待を背負った三好勢は、信長方に攻め込みますが・・・反撃を受け敗北。
後ろ盾を失った堺は、信長からの軍資金の要求を受諾。
信長の支配下に置かれることになりました。
そして、今井宗久はいち早く従う意思を見せたことで信長に認められ、その経済面を支える重要な配下となります。
この時宗久は、茶の湯を嗜みとする信長に、堺の優れた茶人を紹介・・・その中に千宗易もいました。
信長の茶の湯を仕切る一人として召し抱えられることとなったのです。
この時・・・52歳!!

室町時代の中頃まで身分の高い人々が嗜んでいた茶の湯・・・
大広間に高価な美術品を飾り、大人数んで行うことが一般的でした。
しかし、宗易は、わずか2畳の質素な茶室を作ります。
そこにはどのような狙いがあったのでしょうか??

堺が織田信長の支配下に置かれた2年後、54歳の千宗易は信長3番手の茶頭に。。。
茶頭とは、主君に仕え茶会を仕切る重要な役割です。
しかし、宗易はその重い責任に臆することなく、自らの茶の湯を表現しました。

ある茶会にて・・・
信長は、宗易が茶をたてる様子に違和感を覚えました。

「他の茶頭と比べると、作法を略してあるところがあるようだが・・・」

信長に、手を抜いていると思われたら一大事!!
ところが・・・

「信長さまは、茶の湯をお好みですから、後には世の人々もそれに倣うようになるでしょう
 その時、古法の通りにやっていては難しがって嫌がります
 そう考えて、わかりやすい作法にしました」by宗易

これを聞いた信長は、大いに感心したといいます。

型をその場その場に応じて変化させることに恐れない・・・
必要とあらば、ある種の権威や格を外したり崩したりすることを恐れないという踏み込んだ勇気と個性がありました。
信長が、宗易たち茶頭を重宝したのは、趣味のためだけではありません。
茶の湯は、政治に利用できるからです。
武士の時代、功績を上げた家臣には領地を与えて労うのが常識でした。
しかし、土地には限りがあります。
そこで信長は、高価な茶器・名物に目をつけました。
新たな支配地で、茶器の収集・名物狩りを行い、家臣に褒美として与えるようになります。
褒美の茶器が素晴らしいものと価値をつけるためには、目利き役として宗易たち茶頭は欠かせなかったのです。

”褒美には、茶入れを所望したが、都から離れた国を与えられては茶の湯が出来ない”by滝川一益

また宗易は、相手の気持ちを察し気遣いできる達人でもありました。

「戦の前、鉄砲の弾千発が届いた
 心遣いを大変うれしく思う」by信長

やがて宗易は、信長のもとでその後の人生を決める大きな出会いを・・・!!
羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、信長の有力な家臣として各地で戦をする多忙の中でも、茶の湯を好んだといいます。
そんな秀吉に、宗易は茶釜を送り、親交を深めていきました。

利休にたずねよ

新品価格
¥300から
(2023/2/3 23:25時点)



1582年6月、宗易61歳。
本能寺の変!!
明智光秀が謀反を起こし、信長を討ちます。
この時、利休は大きなかけに出ます。
新たな支配者として京の都を制した明智光秀ではなく、中国大返しのさ中の秀吉のもとへ身を寄せたのです。
二人とも成り上がりで、持たざる者でした。
それと同時に、茶の湯など、文化芸術が二人とも好きでした。
宗易は、元祖職業茶人・芸術家なので、それを愛してくれる人と結びついたのです。
本能寺の変からおよそ10日後・・・
畿内に駆け戻った秀吉は、京の都のある山城国の入り口・山崎で明智光秀を撃破。
信長の後継者として名乗りを上げ、天下人へと向かう秀吉・・・その茶頭として、宗易も天下に名を上げていきます。

光秀を破ったのち、秀吉が本拠地を構えたのが山崎。
ここに、秀吉と共に千宗易がつくった茶室が残っています。
国宝・待庵。
茶の湯の伝統を覆す、独創的な空間で知られています。
かがまなければ入れないにじり口、中はわずか2畳・・・
それまでの開放的な大広間や、堺の茶人たちが使用した四畳半よりもさらに狭く・・・。
さらに茶道具にも革命を起こします。
本能寺の変で、信長が持っていた中国製の価値のある名物の多くが失われました。
新しい茶器が必要でした。
そこで、宗易が新しく職人に作らせたのが、黒!!

”黒キハ古キコゝロ 赤ハ雑ナルコゝロ”

”黒は古き心なり”の中に、見せかけの華やかさや豊かさを捨てることで、物事のもともと持っている素の形、姿の中に、美しさとか価値というものと向き合って、それを自分が選び取っていくことが、わび数寄には大事なんだということを、利休は好み、人に伝えようとしました。
黒楽茶碗は、名物とは対照的な質素なデザインでした。
しかも、適度な厚みで熱を伝えにくいため、持ちやすくて実用的でした。
宗易は、茶の湯を通して時代の美意識を変えていきます。
この時、61歳!!

1585年、宗易64歳。
秀吉が関白に就任します。
天下人への道を歩む秀吉は、朝廷から天皇の補佐をする関白職に任じられたのです。
そのお礼として秀吉は、御所で茶会を開きます。
秀吉自ら天皇に茶をたてる”禁中茶会”です。
これには、秀吉の権威を見せつけるという意味もありました。
失敗が許されない催しに、宗易も茶頭として参加することになりました。
しかし、一つ問題が・・・
朝廷で位も官職もない宗易は、御所に入ることができません。
そこで、宗易が天皇から授かったのが、”利休居士”の号です。
居士とは、朝廷に仕えず自由に修行に励む者のことです。
階級や身分から外れた特別な立場です。
こうして禁中茶会に参加が叶った宗易・・・以後は、利休と名乗るようになります。

「禁中で台子の茶式を行った
 この上なく光栄なことだ」by利休

そして、禁中茶会で利休と秀吉は権威を示す驚くべきものを持ち込みました。
黄金の茶室です。
この茶室の特徴は、組み立て式だということ。
禁中茶会の後も、どこにでも持ち運ぶことができました。
秀吉は、後に大坂城で組み立て、訪れた客に披露したといいます。
世間の序列の外、特別な存在として認められた利休・・・
彼の言動は、時代の価値観を大きく揺さぶっていきます。

「古い由緒もない新品に1000貫文の値をつけた」

1000貫文は、今の価値でおよそ1億円・・・
利休が認めれば、どんな茶器も高い価値を持ったのです。
全てを常識にとらわれずに見定める利休は、政治も大きな影響力を持つようになります。
秀吉の有力の補佐・弟の豊臣秀長は、ある大名に語っています。

「内々に秀吉さまに申し上げることは利休に
 公に申し上げるにはこの秀長にお伝えください」by秀長

秀長の信頼を得た利休は、その後ろ盾によってますます大きな存在となっていきます。

「利休以外には秀吉さまへ一言も進言できる者がいない」

トイズキャビン 戦国の茶器 四 利休の章 [全6種セット(フルコンプ)] ガチャガチャ カプセルトイ

新品価格
¥1,800から
(2023/2/3 23:25時点)



利休64歳の時、秀吉は天下統一への大きな足掛かり・・・九州平定に乗り出します。
秀吉は、九州全域を手に入れるべく戦いを続けていた島津義久に対し、警告を送ります。

「戦を中止しなければ、遠征し成敗する」by秀吉

九州では勢いのある島津でしたが、圧倒的な軍事力の秀吉に攻め込まれれば勝ち目は薄い・・・
島津義久は返事を送ります。
あて先は利休でした。

「少ないですが、生糸十斤を送ります
 秀吉殿におとりなしくだされば大変喜ばしいです」by島津義久

やがて秀吉は、九州を平定。

1587年、利休66歳・・・歴史的な茶会を開催します。
京都の北野天満宮に1000人以上が集まったとされています。
北の大茶湯です。
その様子を描いた図が、北野天満宮に残されています。
秀吉や利休の姿・・・くじ引きで当たった者は、秀吉や利休の点てた茶を飲むことができたといいます。
しかも、この大茶湯が画期的だったのは、上流階級だけの茶会ではなかった事です。

「茶の湯に興味がある者は、若侍、町人、農民、誰でも参加せよ
 茶座敷は各々2畳、ただし、畳を持って来られない者はむしろでも構わない」by秀吉

藁の敷物を敷いた茶席、地面に傘を差しだただけの茶席・・・
秀吉が、天皇から庶民に至るまで、自分こそが天下人であり、天下人は政治・権力を握っているだけではなく、ある種の文化の庇護者として世の中をリードしてこれを庇護する存在なのだとアピールする意味で、必要なイベントだったのです。

秀吉と利休、2人は同じ志のもと、長く固まっていた社会の序列を破壊し、新たな時代を目指そうとしていました。

常識外れの茶会を次々成功させ、秀吉と共に新たな時代を目指していた千利休・・・
しかし、利休は、盟友のはずの秀吉に切腹を命じられます。
二人の間に何があったのでしょうか?
1590年、利休は69歳の時、小田原にいました。
秀吉の天下統一に抵抗する最後の大物・北条氏を屈服させる小田原攻めに同行したためです。
しかし、この頃から、利休と秀吉の関係は悪化していきます。
一説には、小田原攻めの時、利休の弟子・山上宗二が秀吉に処刑されたことが原因とされています。
もともと宗二は、利休と共に秀吉に仕えていました。
歯に衣着せぬ発言で、頑固な性格と言われる宗二・・・率直な物言いが、秀吉を怒らせ追放処分に。
その後、宗二は北条氏に仕えたため、小田原の地で利休と宗二は再会します。
利休は、愛弟子を利休に面会させ、追放処分を解いてもらおうとしました。
しかし、宗二の発言がまたも秀吉を怒らせます。
そしてついに、処刑!!
耳と鼻を削ぐという残酷な仕打ちでした。
利休は、手紙に記しています。

”小田原で悲しい思いをした
         涙を流すばかりだ”

花戦さ

新品価格
¥400から
(2023/2/3 23:26時点)



1590年、利休69歳・・・
北条氏を倒した秀吉は、天下を統一!!
しかし、この後、秀吉は変わります。
茶の湯では新たな作法をもうけ、秀吉が認めた者のみが秘伝を教わるように限定しました。
茶の湯をルールで縛る権威付けに使う秀吉・・・
利休は密かにつぶやきました。

「本来、茶の湯に大事な習いなどというものはありません
 習いなどないことを極意とするのです」by利休

1591年利休70歳・・・
彼の立場は大きく揺らぎます。
利休と共に秀吉を支え、信頼篤かった豊臣秀長が病死したのです。
その後、利休は秀吉から突然罪に問われました。
罪状は二つ・・・
①大徳寺の山門に利休の像を設置したこと
山門は、天下人である秀吉や天皇の勅使もくぐるもの
それを、利休の像が上から見下ろすのは不敬とされたのです。
しかし、この像は、2年前から設置されており、今更罪に問うのは不自然でした。
②売僧と呼ばれた不当売買
鑑定や売買で不正を行い、値段を釣り上げたというのです。
しかし、そもそも茶器売買は、目利きの利休が決めた値打ちに客も納得して行うものです。
昔からのやり方を不当と言い出すのも、おかしな話でした。
罪に問われた利休は京を追放され、堺に蟄居を命じられてしまいます。

それはまさにでっち上げでした。
平和な時代が訪れる中で、身分制度など新たに立ち上がっていく武士を中心とした社会の中で、階級に属さない特別な立場の人間の居場所がなくなっていきました。
利休のような特殊な立場の茶頭を必要としない世の中になっていったのです。
利休は、都を去る時、弟子に言い残しています。

「都の思い出が様々思い出され、今は悲しく涙を流すばかりだ」by利休

利休追放から間もなく、京都では大徳寺の利休像が一乗戻橋のたもとで磔に・・・晒されました。
一説には、直ちに謝罪しなければ、利休本人も処刑するという秀吉の脅しともいわれています。
利休を慕う武将たちは、秀吉に物申したくても、仲介役の利休が罪に問われ、秀長もすでにいない・・・
そこで頼ったのが、秀吉の家族である母・大政所と妻・北政所でした。
秀吉が大切にする身内であれば、仲介も上手くいくに違いない・・・
二人は秀吉に謝罪するように助言します。
しかし、
「茶の湯で天下に名をあらわした私が、命が惜しいからと女性たちを頼って助命となるのは無念でしょう」by利休

秀吉は、利休を京に呼び戻し、命じます。
「切腹・・・」と。
利休は受け入れます。
1591年・・・70歳の時でした。

利休は、己の運命を神となった偉人に例えました。
優れた才能が嫉妬され都を追われた人物・・・

「利休は何はともあれ果報者である
        菅原道真になると思えば」by利休

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

京都・表千家 ~わび茶の世界~



1859年10月27日、江戸時代末期の江戸・伝馬町・・・

「ご苦労様」

近代日本の夜明けのために、命を捧げた男が露と消えました。
男の名は、吉田松陰。
その辞世の句・・・

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
          留め置かまし 大和魂

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰

新品価格
¥1,485から
(2023/2/3 23:11時点)



吉田松陰の素顔①遊ばない子供
山口県萩市・・・かつての長州藩の城下町です。
1830年、吉田松陰はこの町で、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
幼名は虎之介・・・兄弟は6人で、2歳下の妹・千代は、後年、松陰についてこう語っています。

「兄・松陰は、幼い頃から遊びということを知らないような子供でした
 いつも、机に向かって書物を読んでいるか、筆をとっているか、それ以外の姿はあまり思い浮かびません」by千代

遊ばずに学問ばかりしていたという松陰・・・その理由は、父にありました。
父・百合之介は、半士半農の質素な生活を送る下級武士でしたが、大の学問好きでした。
野良仕事の際には、手伝いをする松陰たちと一緒に「孟子」や「論語」を読誦。
夜は、米つきなどをしながら親子で読書。
そうした父の影響で、松陰は学問の面白さに目覚め、遊びよりも学問に夢中になっていきました。
さらに、松陰が学問にはげむようになったきっかけが、5歳の時のこと。

父の弟で、吉田家の養子に入っていた吉田大助が、男子を残さないまま大病を患ったため、松陰が吉田家の跡継ぎとなるべく、大助の養子となりました。
吉田家は、江戸時代前期の兵学者・山鹿素行が開いた山鹿流の兵学師範の家でした。
代々長州藩主・毛利家に仕えてきました。
兵学とは、敵に打ち勝つ方法を考える学問です。
間もなくして、義理の父が亡くなり、6歳にして吉田家の当主となった松陰は、兵学師範としては約独り立ちしなくてはなりませんでした。
そこで、大助の弟子だったもう一人の叔父・玉木文之進が、松陰の教育係を務めることになりました。
その教え方は尋常ではありませんでした。
文之進はスパルタ教育で、体罰も日常茶飯事でした。
それは、松陰を早く一人前の兵学者に育て上げるためでした。
松陰も、根をあげることなく学問に精進しました。
しかし、松陰は、大助がなくなると同時に、杉家で兄弟たちと共に過ごしています。

1840年、松陰は猛勉強の甲斐あって、11歳で聴衆藩主・毛利敬親の御前で兵法の講義を行う機会が訪れます。
松陰は、藩主や多くの家臣が居並ぶ中、一つも物おじせず、抗議をやり遂げました。
毛利敬親は松陰を絶賛し、その後もしばしば講義を行わせ、耳を傾けていたといいます。
こうして松陰は、若き天才兵学者としてその名を馳せるようになりました。

1848年、19歳になった松陰は、山鹿流の兵学師範として独り立ちをします。
長州藩の藩校・明倫館で教壇に立つことになります。
しかし、松陰の教壇デビューはほろ苦いものでした。
長州藩には、四流派の先生がいて、明倫館の学生たちは、好きなものを選ぶことができました。
松陰の講義は一番不人気で、ひとりしかいないこともありました。

しかし、講義そのものの評判は悪くなかったようで・・・

「大人も子供も兄を慕うようになりました」by千代

松陰の素顔②あふれる家族愛

明倫館の師範となった翌年の1849年、松陰は兵学者としての意見書を長州藩に提出します。
「西洋諸国を研究し、その長所を柔軟に受け入れながら、既存の兵法を時勢に合うよう政変すべし」と訴えました。
そして1850年8月、松陰は藩の許可を得て、九州遊歴へ出発します。
建前上は、平戸にある山鹿流兵学の宗家を訪ねるというものでした。
本当の目的は、長崎や平戸というところは海外の窓口が近いということで、海外情勢、動向・・・アヘン戦争などの最新の世界の情報を得るためでした。

吉田松陰の名言「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし~」額付き書道色紙/受注後直筆(千言堂)Z0002

新品価格
¥5,980から
(2023/2/3 23:11時点)



1840年に勃発したアヘン戦争は、イギリスがアジアの大国・清に圧勝した侵略戦争でした。
松陰はその詳細を知ることで、海外列強の強さを推し量ろうとしたのです。
萩を発った松陰は、まず鎖国中唯一外国との門戸が開かれていた長崎へ!!
そこで、出島のオランダ商館などを見学。
長崎奉行の計らいで、オランダ船に乗せてもらった際には、様式を細かく記録しています。
その後松陰は、平戸に向かい、山鹿流の兵学者・葉山左内を訪ね、その蔵書を完読します。
アヘン戦争んついて書かれた「阿芙蓉彙聞」、西洋砲術書「百幾撤私(ぺキサンス)」など、50日ほどの滞在で、80冊を読破しました。
世界の情勢をおぼろげながら掴むとともに、西洋列強に対する危機感をいっそう強めたのでした。
こうして九州遊歴を終えた松陰は帰路に付き、年明けには実家に着く予定でしたが・・・急遽急ぎ足で大晦日の夜に実家に着きました。
家族と一緒に正月を迎えたい!!という理由でした。

吉田松陰の素顔③不器用な生き方
1851年、家族と正月を過ごした吉田松陰でしたが、西洋列強に対する危機感は高まっていました。
さらなる知識と情報が必要だと考え、藩主の参勤交代に同行して江戸へ・・・
そして、4月に江戸につくと、儒学・兵学・洋学など様々な学者に弟子入りします。
なかでも浸水したのが、松代藩士・洋学者の佐久間象山でした。
象山は、アヘン戦争の衝撃を受けて、江戸で西洋砲術塾を開いていました。

「開国して西洋の科学技術を学び富国強兵に務めるべし」と提唱していたのです。

松陰は、学者たちに学ぶとともに、長州藩江戸藩邸にて勉強会を開催します。
多い月では1か月に30回もありました。
勉強のし過ぎでフラフラになっても、酒もたばこも、大食することも戒めていました。
仲間たちがつけたあだ名は仙人でした。
学用品を買うので、食事のおかずは金山寺味噌か梅干しで・・・ガリガリにやせ細っていました。
しかし、研究心は劣らず、江戸に兵学修行に来ていた旧知の友・熊本藩士・宮部鼎藏らと共に、東北視察の旅を計画します。
当時の東北地方は、ロシア船が我が物顔で津軽海峡を頻繁に往来していました。
宮部らと共に決めた出発予定日は、12月15日。
ところが、出発直前に問題が起こります。
長州藩が、松陰の手形の発行に手間取ったのです。
「出発を延期せよ」と通告してきました。
手形を持たずに出発すれば、それは脱藩!!重罪です。
長州藩士であれば、出発を延期する以外道はありませんでしたが・・・
松陰は手形のないまま予定通りに出発してしまいました。

松陰は、東北視察の旅日記に記しています。
”藩に背いた罪は、私の一身に留まる
 藩を辱めるより余程良い”
友との約束をたがえる方が長州の名折れとなると思ったのです。
余りにも不器用な生き方・・・しかし、松陰は、元来そういう性分でした。

厳罰覚悟で江戸を発った松陰は、水戸や佐渡を経由して、東北各地をくまなく偵察します。
江戸にもどったのは、翌年の4月で、すぐに長州藩の江戸藩邸に出頭しました。
すると、「萩に帰って謹慎し、処分を待つように」と命じられました。
そして、およそ7か月後、萩の実家に戻っていた松陰に下されたお沙汰は、”御家人召放し”・・・藩士の籍を剥奪し、家禄を没収するという厳しいものでした。
これで松陰は、一介の浪人となってしまいました。
しかし、その能力を高く買っていた毛利敬親は、松陰を見捨てませんでした。
実父・百合之介の育の立場となりました。
育とは、身分を剥奪された藩士を、親族の保護課に置き、後に復帰できるようにした長州藩独自の制度のことです。
そして、実父に、松陰の諸国遊歴の願書を提出させました。
藩が10年間の諸国遊歴を認めたことで、松陰は自由に他国修業が出来るようになりました。
毛利敬親が、天祐ともいえる諸国遊歴を許したのは、見識を広げた松陰を、いずれ藩士に復帰させるつもりだったからと言われています。
ところが・・・

吉田松陰の素顔④猪突猛進
脱藩の罪で浪人となるも、長州藩主・毛利敬親の温情で諸国遊歴を許された吉田松陰。
再び江戸の地を踏んだのは、1853年5月24日でした。
日本の眠りを覚ます大事件が起こったのは、その9日後のことです。
アメリカ船隊・・・黒船来航です。
マシュー・ペリー率いる黒船が、浦賀に来航しました。
黒船の来航を知った松陰は、江戸を飛び出し5日の深夜に浦賀につくと、先に到着していた佐久間象山たちと合流。
高台に登って4隻の黒船をつぶさに観察しました。
驚くのも当然、当時の和船は150tでしたが、黒船は4000t近くもあったのです。
さらに9日には、日本に開国を求める第13代大統領フィルモアの親書が浦賀奉行に手渡されました。
アメリカに抗えない日本の姿に、松陰は落胆しました。
松陰と同じように黒船を見た佐久間象山も欧米の技術力の高さを改めて痛感します。

「留学生を欧米に派遣して、その技術を学ばせるべきだ」by象山

と、幕府に建白書を提出しましたが、幕府はこれを却下しました。

「ならば、講義に頼らず渡航するしかない」by象山

とはいえ、国禁を破る渡航は死罪にもなり得る重罪でした。
誰がその役を担うのか・・・??

「私が行きましょう」by松陰

この時、松陰24歳でした。
1854年1月16日、ペリーが再び来航しました。
幕府と数回の交渉の末、3月3日に日米和親条約が締結します。
日本は開国への一歩を踏み出しました。
江戸で密航の機会を伺っていた松陰は、ようやく締結後、下田に移動した黒船に狙いを定め、ともにアメリカに渡りたいと申し出た足軽・金子重之助を連れて下田へ向かいます。
3月27日、下田についた松陰は、午前2時ごろ・・・盗んだ小舟で黒船に向けて漕ぎ出しました。
ところが、盗んだ小舟には、櫓を固定する杭がついていなかったので、なかなか前に進みません。
松陰は、櫓をふんどしで縛り、やっとのことでミシシッピー号にたどり着いたのですが・・・
ミシシッピ号には、日本語の分かる船員がいなかったため、再びポーハタン号に移ります。
そこで、ようやく日本語の話せる通訳のウィリアムスと対面します。
ウィリアムスは、松陰たちの勇気を讃えます。
しかし、「アメリカに連れてはいけない」と、きっぱりと拒否しました。
失意の中、引き返そうとした松陰たちでしたが、乗ってきた小舟が流されてしまいます。
暗闇で、船の行方も分からず・・・止むなく、ウィリアムスが用意してくれたボートで陸地まで送ってもらいました。

翌朝「公儀も放っては置かないであろう」と、金子重之助をつれて奉行所に出頭しました。
潔く自首することで、自分たちの行動の意味を幕府に問おうとしたのです。

「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」by孟子

誠の心で接すれば、必ず人の心を動かすことができる・・・

松陰はこれを実行したと言われています。
しかし、国禁を破る重罪・・・未遂だったとはいえ、死罪を覚悟していました。
幕府が下したお沙汰は・・・
”父・百合之介に引き渡し、在所において蟄居を申し付ける”
実家での謹慎でした。

金子に対しても、”長州藩に身柄を引き渡し、萩で蟄居させよ”という寛大なものでした。

実は、2人に対するお沙汰が寛大だったのは、外国に渡ろうとした松陰たちの勇気をペリーが讃え、厳しい処罰は避けてほしいと幕府に通告したからでした。

[新釈]講孟余話 吉田松陰、かく語りき

新品価格
¥1,529から
(2023/2/3 23:11時点)



罪人用の駕籠に乗せられた松陰たちが萩についたのは、1854年10月でした。
生きて再び家族の顔を見ることができた松陰は、感激していたといいます。
しかし、長州藩は、松陰たちの蟄居を許さず、萩城下の牢獄に入れました。
長州藩は、海外密航の罪を甘くは見ていないという幕府へのアピールでした。
こうして松陰は、武士階級の罪人用の牢獄・野山獄に・・・
元々染物屋の息子だった金子は、庶民の罪人用の岩倉獄に入れられました。
岩倉獄は劣悪で、1855年1月に、金子は岩倉獄で死去。
同志を失った松陰は、深く悲しみ、野山獄で使う日用品を節約して蓄えた金を、金子重之助の遺族に送りました。

吉田松陰の素顔⑤根っからの指導者
獄中で松陰は、読書漬けの日々を送っていました。
記録によれば、約2カ月間で106冊を読破。
ジャンルは歴史・地理・兵学・医学など幅広く、みな、兄・梅太郎が差し入れしたものでした。
また妹の千代も、食料品などを松陰に差し入れていました。
松陰は、女性に対して非常に潔癖で、30歳までは結婚しないと宣言していました。
結婚すれば、学問に費やせる時間が減り、志が揺らぐ恐れがあると考えていたからです。
まさに、学問一筋!!
そんな松陰が、野山獄に改革をもたらします。

野山獄は、一般的な牢獄と違い罪人だけでなく身内から厄介払いされた者も収容していました。
その為、出獄の見込みがなく、自暴自棄になっている囚人が多かったのです。
そこを松陰は、ひとりひとりの才能を磨くように、「孟子」や「論語」など、儒学の知識を提供します。               
囚人たちで知識を共有します。
松陰が始めた獄中勉強会・・・やがて牢番も参加するようになり、消灯時間を延長するという便宜も図ってくれるようになりました。
松陰は、野山獄に学問をする環境を作ることで、囚人たちに希望を与えたのです。
そして、1855年12月、松陰は病気・保養を名目として野山獄から釈放されます。
しかし、罪を許されたわけではなく、実家での幽閉を命じられました。
与えられた部屋は3畳半・・・外出は許されず、公に他人と接触するのも禁止。
そんな松陰を父は不憫に思い、気晴らしになればと身内を相手に「孟子」の講義を行わせました。
すると、近所の下級武士の子弟なども受講するようになります。
その評判が広がると、さらに受講生も増え、ついには私塾のような形になりました。
松陰の松下村塾の始まりです。
塾生は、90~100人ほどだったと言われ、入塾には身分の制限がなかったため、武士だけでなく、町人や僧侶、医者の子弟などがいました。
松陰は、どの塾生も対等に扱い、自身も決して選ぶらず、塾生たちを一緒に学ぶ友と呼び、塾生たちの間を歩き回りながら授業を行ったといいます。
決まったテキストがなく、塾生それぞれに合わせたテキストを与えていました。
24時間体制・・・講義の時間割も、月謝もありません。
塾生への食事の提供もありました。

「あなたは何をするためにここに来たのか}by松陰

その答えの最後は、”実行に移すことが大事、実行を以て世の中の役に立ちなさい”と言っていました。
塾生のことを第一に考えた松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋などが在籍し、その力を育んでいきました。

吉田松陰の素顔⑥誠を貫く

吉田松陰が、主催する松下村塾で塾生たちの教育に心血を注いでいた1858年6月19日、幕府の大老・井伊直弼が朝廷の同意を得ないまま日米修好通商条約を締結。
その勝手な行為に、外国嫌いの孝明天皇が激怒!!
これを知った松陰は、”大義を議す”と題した意見書を長州藩に提出。
そこにはこう記されていました。

「公儀は、帝を無視して亜米利加にへつらった
 これは将軍の罪であり、攻め滅ぼしてよく
 少しも許す必要はない」

幕府への不満が限界を超えた松陰は、ついに討幕を視野に入れるようになります。
一方幕府は、大老・井伊直弼のもと、幕府の政策に反対する者たちを次々と弾圧!!
世にいう安政の大獄です。
そんな中、松陰は、気になる情報を手に入れます。
尾張・水戸・越前・薩摩の四藩で井伊直弼を暗殺する動きが起こっていて、長州藩にも協力が求められているというのです。

「今から長州が加わっても、天誅の手柄は四藩に奪われてしまう」

焦った松陰は、別の幕閣の暗殺を画策します。
目をつけたのが、井伊直弼のもとで安政の大獄の指揮を執る老中・間部詮勝でした。
松陰は、松下村塾の塾生たちに、暗殺計画への参加を呼びかけ、藩には暗殺に使用する武器弾薬の借用したいと申し入れます。
しかし、幕府・老中の暗殺計画に、藩が手を貸すはずもなく・・・勝因を危険人物とみなし、松下村塾は閉鎖。
松陰は再び野山獄に投じられました。

吉田松陰 異端のリーダー 角川oneテーマ21

新品価格
¥634から
(2023/2/3 23:12時点)



1859年4月19日、安政の大獄を進める幕府は、危険人物である松陰の身柄を差し出すように長州藩に命じます。
そして、江戸に送られる前日の5月24日。
松陰は野山獄の役人の計らいで、1日だけ実家に帰ることを許されました。
風呂に入っていた松陰に、母の滝が、
「江戸から無事にもどり、もう一度その顔を見せておくれ」というと、
「見せましょうとも、必ず元気で帰りますよ」
翌朝、護送用の駕籠に乗せられた松陰は、家族に見送られて出発。
その顔に涙はありませんでした。
しかし、萩郊外の高台で駕籠を止めてもらうと、故郷の風景をしばらく眺めていたといいます。

7月9日、江戸についた松陰の取り調べが始まりました。
しかし・・・松陰は、老中の暗殺計画について追及されると思っていましたが、問われるのは身に覚えのない罪状ばかり・・・
実は、幕府は松陰の老中暗殺計画を知りませんでした。
他の過激派との関係を取り調べていたのです。
このままでいけば命は助かるはずでした。

「僕は国をよくしたいだけだ
 その為なら、ご老中・間部殿の天誅も辞さなかった」

老中の暗殺計画を自白してしまいました。

そして下されたお沙汰は、”死罪”

松陰の至誠はむなしくも通じませんでした。

1859年10月27日、刑場に連れてこられた松陰は、処刑に立ち会う役人たちに毅然と声をかけました。

「ご苦労様」

そして、誠を貫いた30年の人生に幕を閉じました。

松陰が処刑前日に書き上げた「留魂録」
”もし、私の真心に共感し、志を受け継いでくれるものがいれば、それは撒かれた種に絶えることなく実を結ばせるも同じである”
その遺言とも取れる松陰の厚き思いは、松下村塾の塾生たちに受け継がれ、時代を動かすことになったのです。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

近代日本の礎を築いた男 吉田松陰50の教え

新品価格
¥1,078から
(2023/2/3 23:13時点)

飛鳥時代・・・日本がまだ倭国と呼ばれていた645年。
クーデター乙巳の変によって、時の最高権力者・蘇我入鹿が暗殺され、強大な権勢をふるっていた蘇我氏が滅亡。
古代日本を大きく変える政治改革・大化の改新が始まります。
そんな中、天皇を中心とした新たな国づくりを目指す倭国に、国家存亡の危機が訪れました。
白村江の戦です。

白村江の戦い

新品価格
¥1,900から
(2023/1/25 11:31時点)



クーデター乙巳の変ののち、大和政権は新たな政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、
都を飛鳥から難波に移します。
蘇我氏に代わり、政治の実権を握ったのは、中大兄皇子、この時まだ20歳!!
大王と呼ばれた天皇を両親に持つ有力者でした。
中大兄皇子は、天皇を中心とする中央集権体制を目指し、改革を進めていきます。

その一つが、公地公民制です。
それまで有力な皇族や豪族が私有していた人民と土地を天皇のものにすると定めました。
これによって、国家による税や兵の徴収がスムーズに、強大な軍事力を作り上げるために必要な改革でした。

しかし、既得権益を失う豪族が反発。
改革は思うようには進みませんでした。
そんな中、国を揺るがす大問題がもたらされます。

・戦乱、海の向こうより来る
海の向こうは不安定な情勢にありました。
628年、中国大陸に成立した巨大な統一王朝・唐が、東アジア諸国を支配下に治めようと目論んでいました。
狙われた朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が並び立つ、三国時代・・・
当時、高句麗と百済は新羅への侵攻を繰り返していました。
侵略の脅威にさらされた新羅は、唐に助けを求めます。
ゆくゆくは、最大の領土を有する高句麗を倒し、朝鮮半島を手に入れたいと目論んでいた唐は、新羅の救援要請を幸いにと、660年、百済討伐を決定!!
唐・新羅の連合軍は、百済に18万の兵で侵攻。
百済の王都を陥落させ、滅亡に追い込みました。
その数か月後、倭国に百済の使者がやってきました。

「百済に援軍を送っていただきたい!!」

使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信でした。
福信ら、生き残った百済の遺臣たちは、百済再興を目指し、半島各地で抵抗を続けていました。
その軍事支援をしてほしいというのです。
さらに、倭国にいた百済の皇王子・余豊璋の召喚も求めます。
余豊璋は、百済王「義慈」の息子の一人でした。

古代史再検証2 白村江の戦い (古代史再検証 2)

新品価格
¥1,760から
(2023/1/25 11:32時点)



643年に倭国に人質として送られていました。
人質として送られてくるほどなので、百済王朝の中での地位は上位ではありませんでした。
しかし、百済が唐に攻め込まれて滅んでしまった・・・
百済にいた王族たちは、根こそぎ唐に連行されていました。
百済の遺臣たちが国を再興しようとしても、王に立てる人物がいない・・・!!
そこで、倭国に人質として送られた王子を擁立せざるを得なかったのです。

百済を助けるか、見捨てるか??
中大兄皇子は、大きな決断を迫られました。
強大な唐を敵に回し、もし負ければ国が滅びるかもしれない・・・
倭国の政権内では、百済を見捨てるべしと言う意見が強かったといいます。
ところが、倭国は百済の要請を受け入れて、出兵を決めます。

百済の要請を受け入れた理由①百済との関係
倭国と百済の外交は、4世紀まで遡ります。
当時、高句麗の支配下にあった百済は、独立するために軍事力が必要で、倭国が必要で同盟を結んだのです。
朝鮮半島の国から倭国は、軍事大国として認識されていました。
倭は百済を援護して軍事介入していました。
そして、その見返りとして百済は中国の進んだ文化を提供していました。
そうして、倭国と百済は、友好関係を保っていました。
百済より仏教・易学・医学など、様々なものが倭国にもたらされ、倭国発展の礎となりました。

時のの大王で中大兄皇子の母である第37代斉明天皇は、
「滅亡に瀕したものを助け、継承させるべきことは、恒典に記されている
 百済国が困窮して、我が国に頼ってきた 
 その気持ちを見捨てることはできない」

中大兄皇子もまた、同じ気持ちで、交流を深めてきた百済の窮地を見捨てることはできないと出兵を決意しました。

百済の要請を受け入れた理由②唐の状況
百済の使者のこんな言葉も決断に至りました。

「新羅の軍を破り、百済はその兵を奪った
 唐もあえて介入はしてきません
 各地で挙兵した百済の兵たちは団結し、新羅軍を圧倒!
 唐の軍勢も近づくことが出来ないほど戦局は有利にあります」

唐の介入がなく、百済復興軍は優勢だというのです。

唐の元々のターゲットは、高句麗でした。
唐の目的は、高句麗侵攻にあって、百済は遠征の生涯にならないように先に滅ぼされていました。
唐が百済駐留軍に割ける戦力は多くはなかったのです。
これならば戦えると判断しました。

百済の要請を受け入れた理由③倭国の思惑
さらに、中大兄皇子は野望がありました。
「百済王柵封を軍事力によって達成する!!」
柵封は、中国の皇帝がやったことで、力のある王が周辺諸国の王を自分の臣下に位置付けることです。
日本も中国の皇帝に倣って、百済王として擁立した余豊璋を、倭国王の臣下に位置づけようとしました。

斉明天皇は、みずから筑紫国に赴き、百済救援軍の陣頭に立ちました。
男性であっても陣頭に立った例はありません。
そこまでしたのは・・・斉明天皇は、東アジアの動乱の中で、倭国を軍事拡張路線へ導こうとしていたのです。
百済救援戦争を通じて倭国の領土御拡大させ、次の天皇として中大兄皇子に与えようとしたのです。

斉明天皇は、難波宮で様々な兵器を準備し、駿河国には船を作るよう命じました。

日本国の誕生?白村江の戦、壬申の乱、そして冊封の歴史と共に消えた倭国

新品価格
¥1,980から
(2023/1/25 11:32時点)



661年1月、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子・中臣鎌足らが兵を率いてなにわを出航。
本拠となる筑紫国へと向かいました。

斉明天皇と中大兄皇子らは、各地で兵を動員しながら瀬戸内海を西へと進んでいきました。
その即席が残されているのが、岡山県真備町・・・上二万・下二万という地名が残っています。
中野終えの皇子が立ち寄り、2万の兵を集めたという伝説が残っています。
3月25日、一行は現在の福岡県博多港にあたる那大津に到着しました。
5月9日に筑紫国の朝倉橘広庭宮で出兵の準備に入ります。

ところが・・・思いもかけない事態が起こります。
7月24日、斉明天皇倒れて崩御
すると、後を継ぐべき中大兄皇子は即位をせずに大王としての権力を振るうことができる称制と呼ばれる政治形態をとります。
斉明天皇が始めた戦争を完遂しなければ、周囲から斉明の後継者として認められないという状況でした。
偉大な母の後継者となるには、この戦いに勝ち、自らの実力を知らしめ、周囲を納得させなければなりません。
こうして、中大兄皇子は唐という大国と戦うことになったのです。

661年7月、中大兄皇子は長津宮に移って軍勢を指揮、出兵の準備をします。
そして倭国は、百済救済のため、3回の遠征を行い、のべ4万2000の兵を朝鮮半島に送ります。

662年1月、5千の兵による第1陣が出航。
そこには、百済復興の希望・余豊璋の姿がありました。
倭国軍に護衛され、およそ20年ぶりに百済の地を踏んだ豊璋。
百済復興軍を率いる鬼室福信と合流し、百済王として擁立されます。
この時、百済が本拠地としたのがクムガンの河口、白村江に近い天然の要害・周留城でした。
倭国・百済連合軍は、戦いを優位に進めていきます。
白村江周辺の地形、潮の流れを熟知していた鬼室福信の指揮も的確でした。
百済復興軍は、ゲリラ戦を繰り広げ、唐・新羅連合軍を翻弄・・・新羅の城を落とすなど、戦果をあげていきます。
唐の皇帝・高宗が、倭国・百済連合軍の抵抗に、百済からの撤退を指示したほどの勢いでした。

ところが・・・倭国・百済連合軍内に大事件が勃発します。
百済王となった豊璋が、将軍・福信を処刑してしまったのです。
日本書紀によると・・・
”豊璋が福信を捕らえ、その罪を明らかにした後惨殺した”とあります。
福信が、何らかの罪を犯したというのです。
それは、処刑の半年前・・・険しい地にあった周留城では、兵士たちの食糧確保が困難となったため、百済軍の豊璋と福信は、本拠地を避城に移しました。
倭国の将軍たちの反対を押し切ってのことでした。
しかし・・・平坦な地にあった避城は、敵の激しい攻撃にさらされてしまいます。
わずか2か月で周留城に戻ることになってしまうのです。
無駄な死出費と労力を使った本拠地の移動は、倭国・百済連合軍に痛手を与える大きな失敗でした。
百済王・豊璋は、軍事指揮官・福信ひとりに責任をとらせ罰したと言われています。
こうして豊璋が福信を殺したのにはそうしなければならない理由がありました。
二人の不仲です。
豊璋は、王子としての位が低かったので、福信が内心自分をさげすんでいるのでは??と思っていました。
福信は、自分こそが百済の復興を引っ張ってきたというプライドがありました。
福信は、百済王家と姻戚関係を結んでいました。
百済王にはなれないけれど、それに次ぐ家格だったのです。

避城への移住を最初に主張したのは豊璋でした。
福信は、移動することに異議を唱えませんでした。
福信は、避城への移動の失敗を豊璋のせいにするのでは??

福信は、自分罪を着せる豊璋の殺害を画策したと言われています。
本拠地移動の失敗で、豊璋と福信の仲は決裂!!
身の危険を感じた豊璋が、先んじて福信を殺害したのです。

卓越した軍事指揮官だった福信を失った百済軍は一気に弱体化し、戦況は不利となります。
唐は、新羅救援のために7000もの兵を送り込みます。
唐・新羅連合軍は、豊璋が立ても凝る周留城を水陸から包囲、戦況は一気に唐・新羅連合軍有利へと傾いていきます。

663年3月、九州・長津宮で指揮を執っていた中大兄皇子は、倭国・百済連合軍劣勢の報せを受け、第2陣の派兵を決めます。
その数2万7000!!
さらに8月、第3陣として1万の兵を送ります。
百済軍の本拠地である周留城が、唐・新羅陸上部隊に包囲されてしまったからです。
さらに唐から水軍およそ170艘が、白村江に布陣!!
周留城周辺に駆けつけるであろう倭国軍を向かえ撃つためでした。
唐の予想通り、倭国軍第3陣の1万の兵は、400艘の船で周留城に向かっていました。
そして、8月27日・・・倭国軍は、待ち構えていた唐の船団と激突!!
白村江の戦い勃発です。
唐の軍船は170艘・兵は7000あまり
倭国軍は400艘・1万人と、数の上では優勢でした。
ところが、倭国軍は、大敗を喫するのです。
日本書紀には・・・
”ときのまに官軍敗れぬ”
あっという間に勝敗が決したといいます。
どうして倭国軍が、惨敗したのでしょうか??
有能な指揮官・鬼室福信を失ったこと以外にも、様々な要因がありました。

戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書)

新品価格
¥880から
(2023/1/25 11:33時点)



敗因①無謀な敵中突破
倭国軍第3陣の目的は、周留城救援のための兵の輸送で、海上戦は想定外でした。
白村江での戦いは、2日間にわたって行われました。
1日目(8月27日)・・・倭国軍は、全ての船が戦場に到着していなかったのに、戦いを挑みあえなく敗走。
2日目(8月28日)・・・再び戦闘。倭国軍は、前日の敗戦にもかかわらず、待ち構える敵に策もなく突入!!
指揮系統も一本化されておらず、それぞれの豪族たちが手柄をあげようと、無謀な突入を繰り返したのです。
倭国は、まだ徴兵制が施行されていませんでした。
豪族の私兵の寄せ集めによる混合軍でした。
数の上では倭国軍が勝っていましたが、しかし、寄せ集めという弱点は覆せませんでした。
一方、唐軍は、見事な連携と巧みな操船により、左右から倭国軍の船を挟み撃ち!!
倭国軍の兵は、次々と唐軍の餌食となりました。
唐は、律令制が確立しており、戸籍による徴兵が行われていました。
府兵制という常備軍もすでに完備していました。
倭国の寄せ集めとは比べ物にならない質のいい兵が備わっていました。

敗因②軍船の性能
数で劣るとはいえ、楼船と呼ばれる唐の船は三層の櫓を持つ巨大な軍船でした。
鉄の甲板は、馬が走り回れるほどの広さで、乗船できる兵は数百に及びました。
対して倭国軍の船は、輸送用の小舟にすぎず、乗れる兵もわずかでした。
果敢に挑むも、火矢を浴びせかけられ海の藻屑となりました。

”戦いは四度び及び、全て唐軍の勝利
 倭国水軍の船 四百艘を焼き払い
 その煙は天を覆い海は真っ赤になった”by旧唐書

寄せ集めの倭国の兵と、常備軍の唐の兵との質の差と、強力な唐の楼船に太刀打ちできずに倭国軍は惨敗を喫したのです。

663年、倭国は白村江の戦いで大敗。
中大兄皇子は、唐と新羅の倭国侵攻に備え、北九州を中心とした軍事施設の建設に邁進していきます。
福岡県筑紫野市にある前畑遺跡・・・
ここで発見された土塁は、発掘されている部分だけでも長さ500m。
砂や粘土などを固めた「版築」という技術で、堅固に作られています。
この遺跡の土塁は、巨大な防衛網の一部ではないかと推測されています。
護ろうとしたのは、大和政権最大の出先機関・大宰府でした。
中大兄皇子は、筑紫国に大野城などの山城を築きます。
さらに、水城・・・全長1キロに及ぶ堤防で、堀に水をためた防衛施設を作りました。
コレラの防衛施設に、山や川など自然の地形を利用して、大宰府を守る全長50キロ以上もの防衛網を作ったと考えられています。
そして、九州北部沿岸の対馬・壱岐などには警備に当たる防人らを配置。
中大兄皇子は他にも、進行ルートとなりうる瀬戸内海沿岸に山城を築きました。
そこには、別の狙いもありました。
西日本の各地に朝鮮式山城という要塞を作っていきました。
専守防衛のためと考えられますが、主要な山城の近くには、太宰・惣領と呼ばれる軍事組織が置かれていました。
筑紫・周防・伊予・吉備に軍事施設を設け、徴兵を強化しました。

667年には、都を海に近い難波宮から、責められにくい内陸の近江大津宮へ遷都。
しかし、結局、唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくることはありませんでした。
どうして、唐と新羅は攻め込んでこなかったのでしょうか?

668年、唐と新羅は高句麗を攻め、滅ぼしました。
すると、領土の配分を巡って、両国の間で諍いが起きます。
唐は、領土のほとんどを自分のものにしようとしましたが、新羅が反対し、武力衝突へ!!
朝鮮半島の戦いにおいて、倭国の軍事力はキャスティングボートを握っていました。
朝鮮半島を直接支配しようとする唐・・・新羅と戦っている唐に、倭国を攻める余裕はありません。
うまく関係改善できれば、軍事支援が期待できる・・・!!
新羅は、倭国に背後から攻められる恐れがあり、関係改善の必要がありました。
唐と新羅、それぞれの事情から、倭国と関係を改善する必要に迫られ、両国ともに攻めてくることはありませんでした。

「白村江」以後 国家危機と東アジア外交 (講談社選書メチエ)

新品価格
¥743から
(2023/1/25 11:33時点)



唐より、白村江の戦いで捕らえられた捕虜の返還が行われました。
両国は、和解への道を進んでいきます。
一歩間違えれば、国が滅んでいたかもしれない倭国・・・
古代日本が襲われた国家存亡の危機はこうして回避されたのです。

668年、中大兄皇子は即位し、第38代天智天皇となります。
そして、画期的な改革に着手します。
670年、日本初の戸籍「庚午年籍」の作成に着手。
庚午年籍は、身分、氏姓を確定するための台帳として利用され、租税収入の予測を容易にしました。
しかし、最大の目的は・・・
「白村江の戦い」での敗戦によって、徴兵軍の強さを思い知らされました。
庚午年籍は、全国規模の戸籍です。
戸籍があることで、民衆から一定の割合で兵を集めることが可能となりました。
庚午年籍は、徴兵制確立のために、なくてはならないものだったのです。

天皇になる前、中大兄皇子は自らの力を見せようと、唐・新羅連合軍との戦いに挑みましたが、白村江の戦いで大敗・・・
しかし、その敗戦が、天智天皇の目指す国づくりを進める結果となったのです。
手痛い負け戦・・・外敵からの脅威は、豪族たちに危機感を生み、国をまとめる結果となりました。
この時、倭国には、多くの百済貴族・官僚らが逃れてきていました。
最先端の知識を持った百済人・・・そのたくさんの知識を吸収したことで、倭国の文化は発展しました。
改革は一気に進んでいったのです。

「今度こそ、強い国がつくれる」

白村江の戦いによって、天皇を中心とする中央集権国家へと変わる加速度が増しました。
しかし、道半ば・・・671年、天智天皇崩御・・・46歳でした。
その志は、弟・天武天皇が引き継ぎ、新たな国の形・律令国家を目指していったのです。

白村江の戦いで大敗によって、倭国は軍事拡張路線を土台とした律令国家へと変わっていきます。
天皇を中心とした中央集権体制を、日本という国を形作っていくのです。
律令国家・日本の誕生・・・その契機となったものの一つが、白村江の戦いでした。


↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです

壬申の乱─新しい国家の誕生─

昭和の選択です。
昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリスを相手に開戦をしました。
太平洋戦争です。
日本はどうして大国と戦争を始めてしまったのでしょうか?
そこには、ヒトラー率いるナチス・ドイツとの軍事同盟が大きく影を落としていました。
日独伊三国同盟!!

復刻・松岡洋右「東亜全局の動揺-我が国是と日支露の関係・満蒙の現状」

新品価格
¥1,280から
(2023/1/25 11:26時点)



1934年ベルリン・・・
日本陸軍からドイツ駐在武官として一人の男が派遣されました。
大島浩大佐です。
大島は、陸軍軍人の父によって幼い頃から厳しいドイツ語教育を受けていました。
大島は、流暢なドイツ語で人脈を築き、日本陸軍の仮想敵国・ソ連の情報収集という任務を帯びていました。
この2年前、日本は中国東北部に傀儡国家・満州国を建国していました。
資源の獲得に加え、ソ連との戦争に備えるためでした。
しかし、武力を背景にした現状変更はイギリスやアメリカの警戒心を煽ることになります。
1933年、満州国の承認をめぐり、各国と対立した日本は、ついに国際連盟脱退を宣言します。
前年の総会で、日本の正当性を力説したのは、首席全権・松岡洋右でした。
列強に屈しない松岡の態度は、帰国後国民の喝さいを得ます。

当時、ドイツは第1次世界大戦の敗戦によって、莫大な賠償金を課せられた上に、領土を削られ、領土も大きな制限を受けていました。
これを回復するために、民族の団結を鼓舞するナチ党のリーダーアドルフ・ヒトラーが台頭し、首相の座についていました。
ヒトラーはすでにソ連を敵視していました。
大島は、着任早々ドイツ国防省のソ連情報の責任者・・・ドイツ国防省諜報部長カナーリスに接触。
諜報や謀略など軍事に関わる協議を重ねました。
二人の間に割り込んできたのが、ヒトラーの外交顧問ともいえるリッベントロップでした。
ビジネスマン出身で、政治基盤のないリッベントロップがヒトラー政権で地位を得るためには、確固たる実績を必要としていました。
リッベントロップは、ソ連を敵とした大島とカナーリスの協議を国家レベルの協定にすることを持ちかけました。
彼らは、正式な外交ルートである両国外務省を通さずに、密かに具体案を練りました。
ところが、交渉開始からおよそ3か月後、ソ連に情報が漏れたことで交渉は中断します。

1936年7月、スペイン内戦。
ヒトラーは、反乱勢力を支持しました。
反共産主義をアピールしようという考えでした。
図らずも、これを機に日独交渉が再び動き出します。

ヒトラーは、反共産主義を宣伝するために、スペイン内戦がいいチャンスでした。
もともとヒトラーは、イギリスを味方につけたかったのです。
イギリスを自分たちの側に・・・反共産主義の側に獲得したい!!
それにイギリスは応じませんでした。
そこで、ヒトラーが目をつけたのが、東アジアの日本でした。

ヒトラーと親密な関係にあったと言われている大島は、戦後こう語っています。

「突拍子もないことをね、ヒトラーってヤツは考えますからね
 頭のいいことはこれはもうね、やっぱり常人の考えないことですよ」by大島

大島たちの交渉を知った日本外務省は、ドイツと反共産主義でつながることに利益を感じました。
満州事変以来の国際的孤立を緩和するために、有効な協定だと考えたのです。
交渉は加速し、1936年11月25日「日独防共協定」締結
大島が画策した軍事的な協定ではないものの、日本とドイツはソ連を敵とした政治協定で強く結びつきました。

復刻・松岡洋右「興亞の大業」

新品価格
¥1,050から
(2023/1/25 11:26時点)



1937年、日本は大陸での勢力拡大を目的に、中国との全面戦争に突入しました。
中国・蒋介石政権を支援するイギリスとの対立があらわになろうとしていました。
この翌年、ドイツではヒトラーが軍事と外交の実権を握り、独裁政権の成立です。
これを機に、大島が組んできたリッベントロップが外務大臣に就任します。
軍を掌握したヒトラーは、オーストリア併合という実力行使に出ました。
イギリス・フランスなど、第1次世界大戦の戦勝国が決めた体制へのあからさまな叛逆でした。
英仏に対抗するため、ヒトラーは日本との協定強化を目指しました。
日独防共協定締結の働きが評価され、大使に昇格していた大島にとって、願ってもない動きでした。
大島は、またしても日本外務省に無断で交渉を進めました。
大島はソ連だけでなく、英仏と戦争になった場合でも援助するという軍事同盟手結に独断で合意しました。
イギリスと敵対するドイツとの軍事同盟・・・
それは、イギリスを支援するアメリカとの戦争を呼び込む危険がありました。
ソ連を仮想敵とする陸軍とは違い、太平洋上で戦うのは海軍でした。
アメリカの強大な国力を知る海軍上層部は、大島の画策に強硬に反対しました。
かたやヒトラーは、チェコスロバキアを解体し、ポーランドに触手を伸ばそうとしていました。
名目は、当地で迫害を受けているドイツ人の救済というものでした。

1939年8月23日、ヒトラーは1年以上進捗しない日独交渉を見限り、思いがけない行動に出ます。
独ソ不可侵条約です。
ドイツは、日本との協定で、仮想敵国・ソ連と戦わないという条約を結んだのです。
イギリス、フランスとの戦争準備として、背後の不安を消すヒトラーの策略。
それは日本にとって、裏切りともいえる条約でした。
ドイツとソ連の条約締結を察知できなかった大島は、ドイツ大使の座を失い、失意のうちに帰国しました。
ドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまります。
その後ドイツは、オランダ、ベルギーを下し、フランスをも屈服させました。
残るヨーロッパの大国は、イギリスのみとなりました。
1940年7月、ヒトラーはイギリスに襲い掛かります。
同じ頃、中国で戦争を続ける日本に対し、アメリカは経済制裁に踏み切りました。
石油や屑鉄などの物資に輸出制限をかけたのです。
資源を求めた日本は、ドイツの勝利で主のいなくなったアジアのフランス領インドシナ、オランダ領東インドに野心を抱きました。
しかし、それはイギリスの拠点シンガポールと、アメリカの自治領フィリピンに接近することを意味していました。
日本陸軍は、ドイツの勝利を信じ、再び軍事同盟締結を望みました。

復刻・松岡洋右「政党を脱退して日本国民に訴う」

新品価格
¥699から
(2023/1/25 11:27時点)



1940年7月、新たに発足した内閣で、松岡洋右が外務大臣に就任しました。
国際連盟脱退時の強面外交で喝さいを浴びたあの松岡です。
これ以降、松岡が日本の外交をリードしていくことになります。
一方、ヨーロッパではドイツの攻勢に陰りが見え始めていました。
ヒトラーが企てたイギリス本土上陸作戦が、激しい抵抗にあい、停滞していたのです。
アメリカも、イギリス支援に動き始めていました。
ヒトラーは、アメリカを太平洋に引き付けておくため、日本との連携を目論みます。
そこで日本の考えを見極めるために使者を派遣します。
やってきたのは、リッベントロップ外相の腹心ハインリヒ・シュターマーという男でした。
9月7日、来日したシュターマーは、前年までドイツ大使をしていた大島のもとを訪ねます。

シュターマー来日直前のこと・・・
松岡外相に呼ばれた大島は、シュターマーの人となりを話しました。
さらにこの時、大島はドイツとの同盟の原案を書くよう、松岡から依頼されたと告白しています。
シュターマー来日の2日後、交渉は松岡の自宅で密かに進められました。
参加したのは、松岡とシュターマー、それに駐日ドイツ大使オイゲン・オットだけでした。
交渉に当たり、ドイツは日本に好条件を提示しました。
アジアや南洋を日本の勢力圏内とする大東亜共栄圏の承認と、長年日本が敵対するソ連との仲介を約束したのです。
しかし、松岡は難問を抱えていました。
かつての交渉で障害となった参戦義務についてです。
松岡は、同盟国が攻撃された場合、自動的に参戦する義務を外したかったのです。
そこで、そのような場合は、三国で一旦協議するということを主張しました。
参戦の最終判断は、各国が決めるというのです。
シュターマーとオットは、この条件を含む案文をドイツ本国に送りました。
9月21日、ドイツから松岡たちの案への返答が来ました。
そこには、協議は認めず、自動参戦の義務だけが明記されていました。

”欧州戦争あるいは日支紛争に参加していない国が、締約国を攻撃した時には、日本、ドイツ、イタリアは宣戦を布告し、政治的、経済的、軍事的手段で相互に援助する”

その国とは、アメリカに他なりませんでした。
これではアメリカがヨーロッパ戦線に参戦した場合、日本は自動的に対米戦に踏み切る義務を負うことになります。

防共協定は、少なくとも日本側から見れば反ソ連。
ところが、日独伊三国同盟は、仮想敵はアメリカでした。
アメリカは・・・ルーズベルトは、着々と、ヨーロッパにおける第2次世界大戦への参加の布石を打っていたのです。
ドイツにとっては、アメリカがヨーロッパに参戦してくることは、悪夢・・・恐怖に近いものがありました。
第1次世界大戦で、1917年にアメリカ画集国が参戦しています。
そこで、勝負がガラッと変わり、ドイツの勝ち目はなくなりました。
対米戦の危険をはらむ、厳しい条約案を突き付けられた松岡・・・
アメリカがヨーロッパに参戦する前に交渉を始めるために、一刻も早く日独伊でgん児童名を締結する??
しかし、自動参戦義務はあまりにも危険・・・今はしばらく世界情勢を静観するべき??
中国を支援している英米に対抗するためには、ドイツやイタリアの力を利用するべきなのか??
外務大臣・松岡洋右は、国の運命をかけた選択に迫られました。

1940年9月24日、自動参戦義務を課したドイツ案が届いた3日後、交渉を詰めてきた3人は、苦肉の策を考え出しました。
それは、公式な文書ではなく、オット大使から松岡へ個人的な手紙を書くことでした。
その手紙で、日本の自主的な参戦判断を認めるという・・・
分類番号G1000号と呼ばれる文書で、オット駐日大使から松岡に渡された極秘の書簡です。
そこには、松岡の主張通り、締約国が攻撃されたかどうかは協議により決定することが明記されています。
つまり、自動参戦義務はないというのです。

9月26日、天皇の諮問機関・枢密院での審議が行われました。
松岡はその場で自動参戦義務がないことを明言しました。
根拠は、オットからの手紙でした。
「自分の国の運命は、自分で決する」by松岡

よみがえる松岡洋右 昭和史に葬られた男の真実

新品価格
¥1,529から
(2023/1/25 11:27時点)



1940年9月27日、交渉開始からわずか3週間足らずで日独伊三国同盟締結。
東京で開かれた祝賀会には、軍事同盟締結に執念を燃やしていた大島浩の姿がありました。
大島は、この直後、再び駐ドイツ大使に復帰します。
三国同盟締結の翌年3月、松岡はヨーロッパを訪れベルリンで熱烈な歓迎を受けました。
この帰り道・・・モスクワに立ち寄った松岡は、スターリンと電撃的に日ソ中立条約を締結。
しかし、この2か月後、ヒトラーはかねてからの計画通り、ソ連に進軍します。
これ以後、4年にわたって3000万人の死者を出す凄惨な戦いが始まります。
日独伊にソ連を加えてアメリカを圧迫しようという松岡の構想は崩れ去りました。
しかし、日本は三国同盟に固執し続け、最悪の結果を呼び込むことになります。

1941年12月8日、太平洋戦争開戦!!
この報せを聞いた松岡は・・・「三国同盟の締結は、僕一生の不覚」
ドイツの勝利を前提としたかたくなな姿勢があだとなりました。
敗戦後、松岡と大島は、極東軍事裁判で永久戦犯として平和に対する罪を問われました。
松岡は、審議中の1946年6月に病死、大島は終身刑を申告されたものの1955年11月恩赦を受けて仮釈放されました。

「結局いろんな悪口を言うが、(ヒトラーが)天才児であることは確かですよ
 いろいろあるけれどもね
天才であることは疑いのないことでしょうからね」by大島

大島はヒトラーを公表した2年後、89歳で世を去りました。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面 (中公文庫)

新品価格
¥817から
(2023/1/25 11:27時点)

1590年、豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めました。
天下統一の総仕上げとなった戦場・・・そこに苦楽を共にした一人の武将の姿がありませんでした。
秀吉の弟・豊臣秀長です。兄が壮大な夢を叶えるのを見届けることなく、秀長はこの世を去りました。

全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)

新品価格
¥900から
(2023/1/25 11:02時点)



1582年6月2日、秀吉、秀長兄弟の運命の歯車が急速に回り始めました。
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変・・・
信長の家臣として出世を重ねていた羽柴秀吉、この時46歳!!
中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを受け急ぎ畿内へと引き返します。
中国大返しです。
この時、撤退する秀吉軍の殿を任されたのが、弟・秀長・44歳でした。
最後尾で敵の追撃を食い止める殿は、命を張って大将を守る危険な任務です。
これまで幾度となく秀吉軍の殿を務めてきた秀長・・・
この時も、明智光秀のもとに攻めあがる秀吉の背後を守る地味ながら重要な役割を一手に引き受けました。
そして迎えた明智光秀との山崎での戦い・・・
秀長は、勝敗を分ける天王山に布陣!!
この地の守りを固め、秀吉本体の突撃を援護、勝利に貢献しました。
強気に攻める秀吉に対し、守りを固める秀長・・・
そんな兄弟は、生い立ちからして対照的でした。

1537年、尾張国の農民の家に生まれた秀吉は、若くして家を出ます。
行商人として放浪したのち、武士を志し信長に仕えるようになります。
一方、秀長は、1540年、秀吉の3歳下の弟として生まれました。
真面目で働き者の秀長は、長男の秀吉に代わり農家を守っていました。
しかし、秀長が20歳を過ぎた頃、突然、秀吉が弟の元を訪れ、自分の家来になってほしいという・・・。
武士になるなど夢にも思わなかった秀長は困り果てたものの、兄の強引な誘いを断り切れませんでした。
以来、行動を共にするようになった2人・・・20年後、本能寺の変をむかえたのです。
山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉と秀長・・・ここから天下統一への兄弟の挑戦が始まります。

1583年、賤ケ岳の戦い・・・
秀吉は、信長の後継者の座をかけて、柴田勝家と戦います。
勝家軍は、北国街道を南下、それを琵琶湖の右岸で秀吉軍が迎え撃ちました。
布陣から一月後、両軍睨み合う中でハプニングが発生!!
信長の3男・織田信孝と、滝川一益が挙兵。
秀吉は戦場を離脱し、美濃に向かわなければならなくなりました。
後を任されたのが、秀長でした。

この時、秀吉から秀長に送られた書状が残されています。
秀吉が秀長に、どう戦闘を行うべきか、柴田軍と対峙するべきかの命令が書かれています。

”私が戻ってくるまでは攻め込んではならない”

この時も秀長は、秀吉から戦場の守りを任されたのです。
しかし、敵の大将がいなくなったのを知った柴田軍は、一斉に攻撃を開始。
窮地に立たされる秀長・・・それでも秀吉の命に徹し、守り続けました。
そこへ秀吉本体が美濃から引き返してきました。
形勢は一気に逆転し、戦いは秀吉軍が勝利!!

兄弟の連携によって、秀吉の後継者争いに一歩抜き出たかに見えました。
しかし、ここで二人に待ったをかける者が現れます。
徳川家康です。
賤ケ岳の戦いの翌年の1584年。
家康は、信長の2男・織田信雄の求めに応じて挙兵。
小牧長久手の戦いで、秀吉は家康に手痛い敗戦を被りました。
各地の反秀吉勢力と関係を深めた家康・・・最大のライバルとして秀吉の天下統一に立ちはだかります。

志 豊臣秀長伝

新品価格
¥1,650から
(2023/1/25 11:03時点)



家康と敵対するうえで、戦略拠点となった城・・・それは、大和国の宇陀松山城です。
ここを難攻不落の城に大改修したのが秀長でした。
この城の東には、伊賀・伊勢、南には紀伊、そこには、家康と気脈を通じる勢力が根を張っていました。
伊賀衆、根来衆、雑賀衆・・・といった地侍集団の本拠地でした。
彼らは、小牧長久手の戦いでは家康と連携して秀吉を苦しめました。
もし、再び彼らが家康と結託して攻め寄せる事態となれば、秀吉は二方面から攻撃を受けることになってしまう・・・
その脅威を阻むためには、宇田松山城で、伊賀や紀伊の在地勢力を押さえ込むことが必要でした。
その為に、秀長は、この宇陀松山城の防御能力を飛躍的に高めようとしました。
東海より東に領地が広がる徳川家康・・・西に広がる秀吉。
両者がぶつかり合う地点を、秀長は堅固な城で守り通すのに成功します。
秀長は、秀吉の影の存在として、兄の天下取りを支え続けていたのです。

秀吉の天下取りを陰で支え続けた秀長・・・
46歳になった時、武将としての真価が問われる機会が訪れました。
1585年、四国攻めです。
小牧長久手の戦い以降、秀吉は徳川家康と手を組む勢力への対応に苦慮していました。
なかでも、秀吉に強く反抗し続けていた人物が・・・長宗我部元親です。
土佐の豪族から身を立てて、一代で四国全土を制覇した戦国大名です。
小牧長久手の戦いの際には、徳川家康の重臣・本多正信が元親に畿内への出兵を依頼していたことが記録されています。
四国支配を目論むようになってきた秀吉には、服従しない姿勢を貫いていました。
業を煮やした秀吉は、対に自ら総大将となって、四国攻めに出ることを決断し、準備に取り掛かります。
しかし・・・直前になって秀吉は体調を崩したため、急遽総大将は秀長が任されることになります。
これまで影の存在となってなってきた秀長は、予期せず表舞台に立つことになりました。
徳島県土佐泊・・・秀長が率いる6万の軍勢が、ここに上陸しました。
秀長は、長宗我部方の前線の城を次々と攻略。
そして行きついたのが、阿波一宮城!!
四国山地の入り口に位置するこの城は、長宗我部の本拠である土佐へ侵入するのを防ぐ防衛拠点でした。
ここを突破すれば、四国攻めは一気に秀長側に形勢が傾くと考えられていました。
5000の長曾我部軍は、阿波一宮城に籠城します。
秀長は、川を挟んだ辰ヶ山に本陣を置き、およそ5万の兵で城を包囲しました。
城攻めを進めていた秀長・・・そこに、大坂から思わぬ知らせが届きます。
病のいえた秀吉が、出陣して来るというのです。
秀吉からの申し出に・・・指示に従い秀吉の出陣を待つ??それとも、秀吉の出陣を断わる??

四国攻めを行っていた当時、秀吉は別方面にも手ごわい敵を抱えていました。
家康に与していた佐々成政が、北陸で敵対行動を起こしていました。
佐々討伐のために、秀吉が発給した命令書が残っています。
記されているのは、前田利家・池田輝政・山内一豊・蒲生氏郷・細川忠興・・・名だたる武将への出兵要請でした。
兵の総勢は、5万7300!!
北陸で、四国攻めと同等の大きな戦が始まらんとしていました。
もしここで秀吉が四国攻めに参加すれば、佐々成政や家康に自由に動く機会を与えることになってしまう・・・!!

秀吉の出陣を待つべきか??自ら四国攻めを決着させるべきか・・・??

秀吉が四国攻めに参戦すると聞いた秀長は、思案の末、兄に書状を送りました。

”ご出陣は、殿の御威光を損ねます
 たとえ日数がかかっても、期待に応えますのでご出陣をおやめください”

秀長は、秀吉の出陣を断わり、自ら四国攻めをやり遂げることを選択しました。
これまで戦場では、兄からの命令を忠実にこなしてきた秀長が、自らの考えで行動することを決断した瞬間でした。

豊臣家の人々 新装版 (角川文庫)

新品価格
¥924から
(2023/1/25 11:03時点)



鉄壁の阿波一宮城をどのように攻略すべきか??
秀長は一つの策を思いつきました。
貯水池を干上がらせるため、秀長は城の背後から侵入させ、水路を破壊しました。
水の手を奪われたことで、城の兵たちは慌てふためきました。
このタイミングで、秀長は長曾我部元親に和議を提案しました。

”城が落ちる前に降参すれば、元親殿の面目も保てるでしょう
 私に任せてもらえれば、良きように取り計らわせていただきます”

秀長は、どちらかが滅ぶまで戦うよりも、和議による道を探ります。
阿波一宮城が落城すれば、本領土佐への侵攻は避けられないと考えた元親は、提案を受け入れ降伏。
阿波・讃岐・伊予の三国は秀吉方に接収されましたが、秀長の計らいによって土佐は安堵されました。

一方、四国に来なかった秀吉は、北陸を攻め佐々成政を降伏させました。
各地の味方を失った徳川家康・・・
ここで秀吉は、思い切った懐柔策に打って出ようとします。
妹・旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所も家康のもとに送ろうとしたのです。
家族を事実上の人質に差し出そうとする兄に、秀長は猛反対!!強く意見したといいます。
この頃を機に、秀長は秀吉からいわれるがままに動かずにはっきりと反対意見もいう存在に変わっていきました。

1585年、秀長は、大和、紀伊、和泉の大名になります。
秀長が、領国経営の拠点とした大和郡山城!!
近年の発掘調査によって、この城について新たな事実が明らかになりました。

2014年に行われた発掘調査で、礎石が発見され大和郡山城に天守があったことが分かりました。
さらに、大坂城と同種の金箔瓦が出土したことから、豪華絢爛な天守であったことも明らかとなりました。
秀長が、煌びやかな天守を築いたことには、ある狙いがありました。
薬師寺、東大寺、興福寺を見ることができます。
大和国はもともと寺院や神社の力の強い地域でした。
寺社勢力は、広大な荘園からなる経済基盤を持つだけでなく、独自に兵を組織し、武力も備えていました。
武士にはなびかない厄介な相手に対して、天守を見せることで領主としての権威を示そうとしたのです。
豊臣が力を持ち、これからの時代は豊臣が中心の大和国である!!
そのメッセージを、いかにお寺のお坊さんたちに見せつけるか??意図して豪華にしたものです。

秀長は、寺社勢力と渡り合うために他にも知恵を絞っていました。
興福寺の僧が記した”多門院日記”には、秀長の行った政策が細かく記されています。

・多武峰(寺)が、弓・槍・鉄砲などの全てを秀長に差し出した
秀長は、強大な兵力を備えていた多武峰寺をはじめとする寺社から、武具や防具をすべて没収し、武装解除させました。
これは秀吉が行った刀狩りの3年も前のことです。
秀長は、戦乱の世を終わらせる方策をいち早く考えていたのです。
秀長が行った政策について、こうも記されています。

・土地の面積など書き、差し出すように申しつけられた
秀長は、所領の面積や米の収穫量を申告させる差しだしという検地を行いました。
申告内容は、細かく確認され、寺の土地はことごとく押し取られたというケースもあります。
実際、興福寺は、2度に渡った検地で、領地を1/5にまで減らされました。
秀吉は、大和国の検地をさらに改良した太閤検地を全国の大名に実施させ、長く続いてきた荘園制に基づく土地所有の在り方を一新させました。

秀長は、後に豊臣政権の屋台骨となる政策を先駆けとなってあみ出していたのです。

勝利の道を行く ナンバー2になれる人 なれない人

新品価格
¥1,760から
(2023/1/25 11:04時点)



1587年、九州攻めでは秀吉が肥後方面の総大将・・・秀長は日向方面の総大将となり、二方面から島津氏を攻略。
九州平定によって、東海より西はほとんど秀吉の支配する処となり、天下統一は目前となりました。
秀長はこの年、48歳にして従2位大納言に叙されます。
豊臣政権内では、秀吉に次いで高い官位です。
この頃になると、秀長は戦場よりも政治の場で重要な役割を担うようになっていました。
秀吉に謁見する為に上洛する各地の大名達・・・
血の気の多い戦国武将たちをもてなすのも秀長の仕事となりました。
秀長の居城・大和郡山城に招かれた毛利輝元の言葉が残されています。

”お供の衆にまで気を遣われる大納言殿の心配りは、筆舌に尽くしがたい”

九州の有力大名であった大友宗麟は・・・

”内密の話は千利休だ
 公式な業務は私が執り計らうので安心してほしい”

大友宗麟は、豊臣ファミリーをこう評しています。

”秀長殿に頼ればすべて大丈夫である”

今や権力者となった秀吉に、意見を言える数少ない存在となった秀長・・・
最も強く反対したのは、朝鮮出兵の構想についてでした。
決して実行すべきではないと歯止めをかけ続けました。

1590年の北条攻め・・・秀吉の天下取りも最終段階に入ったこの戦に、秀長の姿はありませんでした。
1591年・・・病を患った秀長は、52歳でこの世を去りました。
秀長の葬儀には、20万もの領民が集まり、野山を埋め尽くしたと記録されています。
秀長に領地を奪われた興福寺の僧でさえ、こう記しています。

「これからこの国はどうなるのか、心細い限りである」

その心配は、ほどなくして現実となります。
秀長の死から1か月後、政権を内から支えていた千利休が、秀吉に命じられて切腹。
さらに翌年、秀長が頑なに反対していた朝鮮出兵が断行されました。
秀長亡き秀吉政権は、崩壊へと進んでいったのです。

↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

超ビジュアル! 戦国武将大事典

新品価格
¥1,471から
(2023/1/25 11:04時点)

このページのトップヘ