日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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およそ100年続いた下剋上の世に終止符を打ったのは、関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢が相まみえた天下分け目の合戦です。勝ったのは東軍・・・勝因は、西軍の4人の武将達による裏切りがありました。
最も西軍に痛手を与え、得をしたのは・・・??

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明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の戦いの布陣図を見せたところ・・・即座にこう答えました。

「勝ったのは西軍であろう」

西軍は、石田三成が北側の笹尾山に、他の武将達はその周囲に布陣・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上から牽制・・・平地に追い込んで、一網打尽にしようと考えていました。
一方、東軍は、大将の家康以外ほとんどが平地に布陣。
誰の目にも、東軍不利という状況で戦は始まりました。

しかし、この圧倒的な不利な状況が覆ります!!

①松尾山・小早川秀秋(1万5000)
②三成のそば・島津義弘
③家康のそば・吉川広家
④吉川の後ろ・毛利秀元

ここに、西軍大将である毛利輝元はいませんでした。
この時輝元は、大坂城に居たのです。
この4人がなぜ、どんな形で裏切って・・・関ケ原の戦いを左右したのでしょうか??

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時
野外の雨もあがり、霧が立ち込める中、15万もの兵たちが睨み合っていました。
そして、午前8時、ついに天下分け目の火蓋が切られます!!
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早くこの膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に陣を敷く小早川秀秋に攻撃を仕掛けるよう合図します。
しかし、小早川は動きません。
再三の出撃命令にもかかわらず、一向に動こうとしない小早川に三成は苛立ちます。
この時、小早川にいら立っていた男がもう一人いました。
東軍の大将・徳川家康です。
実は、小早川は戦の前からすでに徳川家康と内通し、東軍に寝返るよう説得されていました。
家康は、開戦から4時間後の正午・・・小早川軍に向かって鉄砲を撃ち込ませます。
世にいう”家康の問鉄砲”です。
小早川はこれに怯み、寝返りを決断!!
味方である西軍に襲い掛かったと言われています。

関ケ原の形地から、小早川の布陣する松尾山に発砲したとして・・・その距離1.5キロ!!
有効射程距離はたかだか100mなので、玉は届きそうにありません。
では、小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
当時の大筒では・・・??
実験では、撃ってから5秒後に聞こえましたが・・・大筒の音は聞こえますが、かなり小さいです。
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っているので、聞こえそうにもありません。
問鉄砲が後世の創作だとすると、どうして小早川は寝返りを決断するのに4時間もかかったのでしょうか?
実は、石田三成からも勝った暁には関白の地位と上方で二カ国を加増すると褒賞が約束されていました。
秀秋は、東軍西軍、どちらにつくのか最後まで迷っていた・・・悩んでいたのです。
悩む小早川は、戦局を伺っていたため、4時間もの間動かなかったのです。

そもそも、小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
裏切りの理由その①秀吉への恨み
豊臣秀吉の正室・ねねの甥である小早川秀秋は、3歳の時跡継ぎがいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられます。
ところが、秀吉の側室・淀の方が男子・・・後の秀頼を授かると状況は一変します。
13歳で有力大名・小早川隆景の元へ養子に出されてしまいます。
さらに、秀吉からこんな仕打ちを・・・
秀吉のもう一人の養子であった秀次が、謀反を企てた嫌疑をかけられたことと、それに加担したと噂され、秀秋も当時の領地・丹波亀山10万石を没収されてしまいます。
謀反自体、秀吉のでっち上げかも・・・??
自分を疎んじた秀吉を、小早川は恨んでいたのかもしれません。

裏切りの理由その②三成への憎しみ
丹波亀山を没収された小早川でしたが、その後養父の隆景から領地の一部である九州の筑前国などを受け継ぎました。
そして、15歳の時、秀吉の命令で朝鮮出兵!!
ところが、帰国すると突如越前への減封・転封を命じられたのです。
一説には、五奉行であった石田三成が秀吉に、朝鮮における小早川の失敗を大袈裟に報告したからではないか??と言われています。

開戦から4時間後、1万5000の軍を率いる小早川秀秋が、東軍へと寝返りました。
近くにいた脇坂弾正、朽木元網、小川祐忠、赤座直保・・・それぞれの武将達が、小早川に便乗するように次々と寝返っていきました。
すぐさま西軍は大混乱に陥り、東軍の勝利が確定しました。

「関ヶ原の戦い」



②島津義弘
小早川秀秋が加わったことによって優勢に転じ始めた東軍・・・
家康は、この機を逃さず全軍に総攻撃を命じます。
これに焦った石田三成は、開戦からずっと傍観している島津義弘に出陣を求めました。
ところが・・・島津もまた動かなかったのです。

裏切りの理由その①
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の連合軍を破るなど、勇名を轟かせていた島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参戦したのはわずか1500の兵だけでした。
それは、この時、義弘の兄・義久との対立・・・島津家が二分していたからです。
この時、島津家の実質的な決定権は、兄・義久にありました。
義久は義弘が弟にもかかわらず、”関ケ原には参加しない”と兵を送りませんでした。
本隊は関ケ原にはいかず、義弘の家臣たちが行っていたのです。
”鬼の島津”こと島津義弘66歳!!
百戦錬磨の武将ですが、1500の兵で戦っても勝ち目はない・・・とみて動かなかったのです。

裏切りの理由その②
戦わなかった理由は、合戦前日のある出来事にもありました。
西軍は大垣城に・・・東軍は中山道の宿場町・美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで戦いを繰り広げました。
しかし・・・結果は、西軍の大勝!!
兵たちの指揮は大いに上がりました。
そこで島津義弘は、石田三成にこう提案します。

「勢いをそのままに夜襲をかけてはどうか?」by義弘

「夜襲はかけぬ!!」by三成

この時、三成は家康の東軍は大坂に向かっているかもしれないという情報を掴んでいました。
それを何としても阻止しようと、先回りしたかったのです。
その結果、関ケ原で東軍を待ち構えることになります。
もうひとつ・・・島津軍があまりにも少なかった・・・。
三成としては、あまりにも頼りない・・・!!と思っていました。
自分が軽んじられていると感じた島津義弘・・・
その前の、墨俣の戦いの時も島津軍は三成に置いてきぼりにされていました。
三成に対する不信感がぬぐえませんでした。

小早川軍の寝返りと、島津軍の不戦!!
これによって午後2時、西軍は総崩れとなりました。
主力が次々と敗走するとともに、多くの武将達が討ち死にに・・・!!
これを見た島津義弘は、「さて・・・我らもいかにここから脱出するか」
その大脱出劇が伝説の、島津の退き口です。

関ケ原は、3つの街道が交わる交通の要衝です。
西への逃走ルートは3つ!!
①北国街道を通る北西ルート
ところが、このルートは、敗走して行く西軍とそれを追う東軍の黒田長政や細川忠興の兵で溢れていました。

②中山道を通る南西ルート
東軍に寝返った小早川軍が占拠。

③伊勢街道へと向かう南東ルート
前線まで移動してきていた家康の徳川本体が待ち受けていました。
井伊直政、本多忠勝といった東軍の猛者たち相手に、1500の兵では討ち死にも同然!!

しかし、鬼の島津は、敵中突破!!

少ない軍勢で、如何にして敵中を突破して関ケ原から脱出したのでしょうか??
島津軍は、笹尾山あたりから南東に進み、徳川本体のわきを通って伊勢街道へと向かいました。
穿ち抜けという島津軍独特の先鋒で、キリで穴を穿つように敵の一点を集中攻撃!!
大将の義弘を通過させたところで、捨てがまり戦法に切り替えます。
狙撃部隊が残って敵を足止めし、その間に本体を先に!!
これを何度も繰り返して、距離を稼いだのです。
島津義弘は、こうして井伊直政や本多忠勝らを振り切って関ケ原を脱出しました。
捨てがまりによって、合戦前に1500の兵だったものが関ケ原を脱出した時には100人も残っていなかったと言われています。

③毛利輝元
中国地方の半分ほどを治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな戦果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後も、豊臣政権を支える五大老を家康と共に務めていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大勝に就任したのは、反家康ののろしを上げた三成に要請されたからでした。

関ヶ原



7月半ば、輝元は、大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀吉の跡継ぎ・豊臣秀頼の補佐を輝元に任せ、決戦の際には、共に出陣させようと考えていました。
関ケ原の戦いは、秀吉の家臣同士の戦い・・・
恩顧の意識が強いうちに、秀頼という息子が出てくることで心理作戦をとろうとしたのです。

合戦間近の9月、三成は輝元に出陣を要請します。
しかし、本人は大坂城にとどまったまま・・・
代わりにやってきたのは、輝元の養子の毛利秀元率いる1万5000の軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原にやってこなかったのでしょうか??
その理由は様々言われています。

①秀頼の母・淀の方が幼い我が子の参戦を拒んだため、補佐役の輝元も出陣出来なかった
②大阪城内に、家康と内通していると噂される増田長盛の軍がおり、その動向を見守っていたから

これらの説に従えば、輝元は秀頼を守るために大坂城にとどまったということになります。
しかし、「家康を気にして関ケ原で戦う気がなかった」ようなのです。
それは、家康に宛ててこんな手紙を送っていたからです。

”三成殿の謀 当方とは関係ない”

と伝え、自身は戦わないという姿勢を見せた輝元・・・その真意とは??
どっちが勝ったとしても毛利家が生き残る可能性を持っておきたかったのです。

この時、輝元は自国の領土拡大のために動いていました。
家康方について関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちの領地に攻め入っていたのです。
東西両軍との関係を保ちながら、自らの野望を叶える・・・毛利輝元、戦略家でした。

岐阜県関ケ原町にある標高104mの桃配山。
東軍の大将・徳川家康が、最初に陣を敷いた場所です。
家康は、この周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは、標高420mの南宮山です。
西軍の多くの武将達が、ここに陣を構えていました。
長曾我部守親・安国寺恵瓊・長束正家・・・そして大将毛利輝元の養子・毛利秀元です。
兵の数を併せると、およそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、最初に戦を仕掛ける先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長宗我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って背後から家康に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の、吉川広家の軍が動こうとしません。
後ろにいた武将が、その理由を問いただすと・・・

「霧が立ち込めて敵の姿が見えない・・・!!」

確かに、前日の雨で周囲は深い霧に包まれていました。
しかし、それから数時間経ち、スッキリと霧が晴れた後も吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、毛利軍のすぐ後ろにいた長曾我部守親です。

「何故早く出陣せんのじゃ!!」

苛立つのも当然のこと・・・吉川が動かないのは大問題でした。
先駆けは吉川家だったのです。
つまり、吉川が動かなければ、後ろの毛利や長宗我部たちも動くことが出来なかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのは、毛利秀元でした。
家臣である吉川の為、言い訳をします。

「今ちょうど兵に弁当を食べさせているところじゃ」

毛利秀元の役職が宰相だったことから、”宰相殿の空弁当”と呼ばれるエピソードです。

吉川広家が動かなかったことで出陣出来なかった兵・・・およそ3万!!
西軍にとってはかなりの痛手でした。
吉川広家の裏切りの理由とは・・・??
吉川広家は、西軍大将・毛利輝元と同じく毛利元就の孫に当たります。
二人はいとこ同士でした。
吉川家は、父の時代から家臣として本家の毛利家を献身的に支えてきました。
その一方で、吉川は家康に近い黒田長政とも通じており、2人が交わした書状には

「行動を共にしていこう」とあります。

早々に東軍有利と見た吉川は、
輝元に東軍につくように進言しようとしていました。
ところがその矢先、輝元は三成らによって西軍大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍についた吉川でしたが、決戦を前に黒田長政の父・官兵衛からこんな書状を受け取ります。

「上方の大名もみな家康公に味方します
 あなたの判断が第一」

東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決意します。
家康に約束します。
この密約が、すでに戦の前にかわされていたことは、家康が構えていた陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは、南宮山の頂上付近です。
家康の陣がある桃配山とは峰続きなので、背後から3万の兵で攻められたらひとたまりもありません。
そんな無防備な布陣が出来たのも、背後を気にせず動けた吉川の寝返りがあったのです。

吉川広家は、家康との間にで、もし東軍が勝った場合、毛利手元への寛大な処遇を取り付けていました。
西軍を裏切ったのは、毛利本家を思ってのことでした。
輝元に大坂城に留まることを強く進言したのは広家・・・全ては毛利を守るためでした。
小早川が昼時迄動かなかったのは、吉川が南宮山の西軍を足止めしているという情報を手に入れていました。
東軍の勝利が確定したので動かなかったのです。

・毛利輝元を大坂城に留まらせる
・西軍3万の軍勢を足止め
・小早川秀秋に寝返りの決断をさせる

裏切り者の中では、最も西軍にダメージを与えたと言っても過言ではありません。

真の裏切り者は吉川広家でした。
こうして関ケ原の戦いはわずか半日で終結。
東軍が勝利を収めました。

西軍を裏切った4人の武将達・・・その後は・・・??

天下分け目の決戦を制し、大坂城に入った徳川家康・・・
東軍の武将達に褒賞を与えるとともに西軍方の処遇も決定します。
戦況を大きく変えた小早川秀秋は筑前30万石から岡山55万石に加増。
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さで亡くなります。西軍の武将の呪いだと噂されました。
戦は傍観していたものの、家康軍に突っ込み逃げて行った島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲のとりなしによって中止。
義弘の隠居を条件に、領地を安堵しました。
西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもあってお咎めなしと思われていましたが、家康が下した処分は・・・身分・所領全てを没収する改易。
家康は、その領地の一部を吉川広家に与えようと考えていました。
これを聞いた吉川は、家康に毛利家の存続を直談判。
自分への褒賞も辞退しました。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石と大きく減封されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川広家には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも勝っていた西軍でしたが、最後は多くの裏切りによって負けてしまいました。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは大名たちにとって裁量が試されるときでもありました。

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「徳川家康 ─決戦!関ヶ原─」



1221年、日本の歴史を大きく変えた争いが起こりました。
承久の乱です。
相対したのは、京の朝廷と、東国武士を束ねる鎌倉幕府でした。
後鳥羽上皇が、幕府執権である北条義時追討の院宣を発したことで、その火ぶたが切って落とされました。
この時、後鳥羽上皇は治天の君・・・日本の頂点に立つ存在でした。
その後鳥羽上皇が、どうして武士に戦いを挑んだのでしょうか??
結果は、鎌倉幕府の圧勝に終わります。
その勝敗を分けたものは一体何だったのでしょうか??

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1203年、源頼朝が築いた鎌倉幕府の新たな将軍として、頼朝と北条政子との間に出来た次男・実朝が就任します。
この時、まだ12歳でした。
その若き3代将軍を支えたのが、政子の弟・北条義時でした。
北条氏は、血で血を洗う争いで幕府内での抗争を繰り返し、政敵を次々と排除。
幕府の政務を担う政所別当に加え、軍事を司る侍所別当にも就き、義時は将軍を補佐する執権として幕府No,2の地位を築きます。
当初、将軍実朝は、義時らに政務を任せていましたが、成長するにつれて自らで政を行おうと、為政者の手本を求めました。
それが、実朝の名づけ親でもある後鳥羽上皇だったのです。
わずか4歳で将軍となった後鳥羽は、19歳で長男の土御門天皇に譲位、上皇による政治・・・院政を敷き、絶大な権勢を誇っていました。

後鳥羽上皇とは・・・??
資質として歴代の天皇で最も有能な傑出した人物でした。
しかし、自信がありすぎました。
そんな後鳥羽上皇から、政を学ぼうと、実朝は上皇に近づき、蹴鞠や和歌を通じて信頼関係を築いていきます。
上皇側にも、実朝に近づきたい思いが・・・
幕府を実朝を通じて遠隔操作しようと考えていました。
後鳥羽上皇は、将軍・実朝を、自分の私的グループに引き入れたかったのです。
後鳥羽上皇は、実朝を取り込むため、自分のいとこを実朝の正室に迎えさせ、姻戚関係を結ぶなどの手を打ちます。
その思惑通り、実朝は上皇に心酔・・・

”山がさけ 海はあせなむ 世なりとも
         君にふた心 わがあらめらも”   by実朝

後鳥羽上皇は、このまま実朝を思いのままに操り、幕府とうまくやっていけるとそう考えていました。

後鳥羽上皇33歳の時・・・

”人もをし 人も恨めし あぢきなく
     世を思ふるゑに もの思う身は”

上皇の抱く不満とは・・・??

朝廷と幕府・・・不協和音
当時、諸国を統治する守護と、朝廷の公領・荘園の管理をする地頭の任命権は、幕府が握っていました。
それは、初代将軍・源頼朝が武士の世を築く根幹として強引に朝廷に認めさせた権利でした。
これが後鳥羽上皇が抱く不満の火種でした。
熊野三山を参詣する熊野詣に熱心だった後鳥羽上皇は、その費用を調達するため沿道の地域への課税を考えます。
その為には、京から熊野三山までの道が通る和泉国と紀伊国の守護が邪魔になると・・・その罷免を幕府に要求しました。
しかし、幕府はこれを拒否。
さらに、「朝廷への実入りが少なくなるから、備後の公領の地頭を罷免せよ」
地頭は、公領や荘園を管理することで、年貢の一部を管理費として得ていました。
その地頭がいなくなれば、朝廷の取り分が増えると上皇は罷免を命じたのです。
この要求に対しても、幕府は受け入れませんでした。
どうして頑なに幕府が拒んだのか・・・??
頼朝が幕府を造った時から、鎌倉殿の幕府は武士たちを守る組織でした。
それが存在意義でした。
それがゆえに、多くの武士が御家人となったのです。
守護や地頭は御家人が任命されます。
幕府は、御家人である地頭を守るために、罷免要求には従えなかったのです。
幕府成立以前には、武士が朝廷の言うことを聞かないということはあり得ませんでした。
命令に逆らい、朝廷の権威を傷つけるようになった幕府に、後鳥羽上皇は強い不満を抱くようになったのです。

「後鳥羽上皇と承久の乱」



後鳥羽上皇の幕府への不満が募る中、事件が起こります。
1219年1月27日、実朝の昇進を祝う儀式が鶴岡八幡宮で執り行われました。
ところが、そのハレの席で・・・鶴岡八幡宮を管理する別当・公暁によって、実朝が暗殺されたのです。
公暁は、実朝の甥にあたりました。
源頼朝亡き後、嫡男・頼家が2代将軍となっていましたが、北条氏が幕府幹部と対立し、将軍職を追われてしまいます。
この時、頼家の嫡男・一幡がすでに亡くなっていたので、頼家の次男・公暁と、頼家の弟・実朝。
結果、将軍となったのは、北条氏に都合のいい実朝でした。
公暁は、将軍になれなかったことを恨み、実朝を殺したと言われていますが・・・黒幕がいたという噂も・・・。
それは義時・・・??幕府の実権を握るため将軍・実朝を排除したともいわれています。
それとも後鳥羽上皇??表面上は昵懇にしていたものの、邪魔な幕府TOPを消そうとしたとも言われています。
しかし、双方とも、実朝が亡くなってのメリットはありません。
そうなると、やはり公暁の単独犯行ではないのか・・・??
幕府と朝廷をつないでいた実朝を失ったことで、両者の関係は急速に冷え込んでいきます。
後鳥羽上皇は、実朝暗殺を嘆き、警護を怠った幕府に不信感を抱くようになります。
そして、執権・北条義時に、こんな要求を突き付けました。

「亀菊に与えた所領、摂津国の荘園の地頭を罷免すべし」

亀菊とは、上皇が寵愛した女性です。
その亀菊が、自分の荘園の地頭を辞めさせてほしいとおねだりし、上皇がそれを受けて幕府に命じたのです。
どうしてこの時に・・・??
それは、踏み絵でした。
義時や政子が自分の言うことを聞くかどうかを試そうとしたのです。
対応に苦慮した義時ら幕府幹部は、協議を重ねます。
そして、義時の弟・時房が一千騎を率いて上洛します。
上皇に、幕府の返答を伝えます。

「頼朝公が、恩賞として任命された地頭を、大した罪もないのに罷免することができませぬ」

意のままにならない幕府に対して、後鳥羽上皇は反幕感情を強めて行きました。
一方、幕府は、1219年、摂家の九条家から、源氏の血をわずかにひく三寅(のちの4代将軍・藤原頼家)を招聘します。
ところが、朝廷の内裏を警護する大内守護を務めていた源頼茂が、源氏の血を引く我こそが将軍になるべきと謀反を起こします。
謀反は鎮圧されたものの、内裏の一部が消失、その修理費用捻出のために増税を行いますが、御家人や寺社などから強い抵抗を受けてしまいます。
その状況を幕府は静観・・・
もともと、将軍の後継をめぐる諍いが原因にもかかわらず、それらの抵抗を押さえない幕府に対して、後鳥羽上皇の不満はついに限界に達しました。
そして、その怒りの矛先は、幕府を束ねる執権・北条義時に向けられたのです。

決戦・・・朝廷VS.幕府
1221年6月5日、鎌倉幕府の大軍が、尾張一宮に到着します。
承久の乱合戦①美濃・尾張の戦い
敵方に後鳥羽上皇がいないことを確認した幕府軍総大将・北条泰時は、躊躇することなく上皇軍に攻めかかりました。
その攻撃に耐え切れず、上皇軍は敗走・・・

承久の乱合戦②砺波山の戦い
6月8日、北陸方面を進む幕府軍4万・・・
越中加賀の境に位置する砺波山で上皇軍と対峙します。
圧倒的な兵力差を前にして、上皇軍は相次ぎ投降・・・
ここでも敗走を余儀なくされたのです。
後がない上皇軍は、京の都に近い宇治川を最後の防衛線として決戦に挑みました。
承久の乱・・・最大の激戦の始まりです。

承久の乱合戦③宇治川の戦い
6月13日、幕府軍総大将・北条泰時は、全軍を宇治川に集中させ、防衛線突破を図ります。
しかし、上皇軍は橋を落とし、必死の抵抗を見せます。
攻めあぐね、立ち往生する幕府軍の兵たちに、上皇軍の屋の雨が降り注ぎました。
苦戦を強いられた幕府軍は、一旦兵を引きます。
6月14日、泰時は、川を渡って攻めることを指示します。
しかし、宇治川は、折からの豪雨で激流と化していました。
重い具足を身につけていた武将たちは、増水した川に次々と沈んでいきました。

「もはや・・・これまでか・・・!!」

泰時は、自ら川の中へ進もうとします。
しかし、周囲にいた武将たちに止められ、冷静さを取り戻すと・・・
近隣の家を壊して筏を作り、川を渡ることに成功します。
こうなれば、数に劣る上皇軍は敵ではありません。
その日のうちに、京になだれ込み、上皇軍を制圧します。
後鳥羽上皇は、泰時に使いを送り、執権北条義時追討の宣旨を撤回し、降伏しました。
幕府は承久の乱に勝利したのです。
後鳥羽上皇が宣旨を下してから、わずか1月での決着でした。

執権義時に消された13人 闘争と粛清で読む「承久の乱」前史

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どうして上皇軍は完敗を喫したのでしょうか?
敗因は、後鳥羽上皇の誤算でした。
誤算①己の権力への過信
自分が出した宣旨に逆らえるものなどいない・・・
朝廷が敵に回るとなれば、北条義時は孤立し滅びるだろうと、たかをくくっていました。
しかし、東国武士のほとんどは、北条氏につき、京周辺にも幕府に味方する者がいました。
御家人たちは、朝廷の意向よりも、幕府への恩義を選んだのです。

誤算②三浦市の篭絡の失敗
上皇は、北条氏の幕府内最大のライバル・三浦氏を味方に引き入れ、強力な援軍にしようと考えていました。
そこで、京にいた三浦一族の三浦胤義を味方につけますが・・・鎌倉にいた当主・三浦義村をどう取り込むのか??
義村の弟である胤義は、上皇にこう進言します。

「兄は恩賞を与えれば、必ずやこちらにつくでしょう」by胤義

「であれば”恩賞は思いのままに”と書いた密書を送ることにしよう」by後鳥羽上皇

しかし、幕府側が有利と見ていた義村は、その誘いに乗りませんでした。
それどころか、執権・義時に上皇からの密書を渡しました。
鎌倉で、三浦義村が蜂起してくれると信じていた上皇にとって、痛すぎる誤算でした。

後鳥羽上皇の独断専行が過ぎたこと、恩義のために幕府方につくという御家人たちの心情が読み切れなかったことで、上皇軍は完敗を喫したのです。

乱の後・・・公武逆転
後鳥羽上皇は、上皇軍敗北の報せを受けると、幕府軍の陣営に使いを送ります。
「此度の合戦は、謀臣等が申し行ふところなり」
と、責任を臣下に押しつけます。
しかし、執権・北条義時の裁断は苛烈なものでした。
上皇方に加わった公家、御家人はすべて処刑。
さらに、「西面の武士」は廃止、「北面の武士」は縮小・・・朝廷から武力を剥奪しました。
軍事力を失わせて幕府に逆らわせない・・・
7月6日、後鳥羽上皇は鳥羽離宮に移されます。
7月8日には出家・・・
そして、死罪の次に重い配流の沙汰が下されます。
後鳥羽上皇の息子たち・・・土御門上皇は土佐へ配流、順徳上皇は佐渡へ配流となりました。
さらに、幕府は上皇の孫・仲恭天皇を廃位させ、新たに御堀河天皇を擁立。
以後、幕府は皇位継承に関与し、朝廷は幕府の意向なしに天皇を決めることができなくなりました。
京からおよそ300キロ・・・日本海に浮かぶ絶海の孤島・隠岐・・・罪人用の輿に乗せられた後鳥羽上皇は、二週間ほどかけてこの島に流されてきました。
これまでとは違う粗末な屋敷で、謹慎生活を送りました。
楽しみは和歌を詠むことぐらいでした。

”我こそは 新島守よ 隠岐の海の
         荒き波風 心して吹け”

隠岐に来て19年後・・・1239年後鳥羽上皇崩御。

一方、幕府の支配は全国へと広がっていきます。
公家政権は没落し、武士による新しい世が始まったのです。
朝廷はこの後、600年以上、形式的な存在となり、長き武家政権が続くことになります。
承久の乱は、まさに日本の歴史の大きな転換点だったのです。

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「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」



1806年、蝦夷地と呼ばれていた北海道周辺の島々に、突然異国の船が姿を現しました。
ロシアの軍艦です。
ロシア船は、樺太や択捉島にあった幕府の出先を次々と襲撃、略奪や放火を続けました。
いわゆる露寇事件です。
ことの発端は、通商を求めてきたロシアの申し出を、幕府が無下に拒絶したことでした。

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時は11代将軍・徳川家斉の御代・・・江戸では華やかな文化が花開いていました。
ところが、1807年6月、はるか北方から江戸幕府を揺るがす知らせが届きました。
ロシアの軍艦が、蝦夷地にある幕府の出先を襲撃したのです。
外国船による日本への襲撃・・・蒙古襲来をおもわせる大事件でした。

舞台となったのは、蝦夷地の北東に位置する択捉島・・・
報告によると、この年の4月29日、ロシア船2隻が択捉島のシャナに姿を現したのです。
シャナには、幕府の施設が置かれ、函館奉行所の役人と弘前、盛岡の藩兵が駐屯、警備していました。
この時、幕府役人は戦う意思がないことを示す白旗を掲げ、穏便に交渉を行おうとします。
しかし、ロシア兵は上陸するとすぐさま銃撃を仕掛けてきました。
弘前、盛岡藩兵も、銃で応戦!!
しかし、艦砲射撃まで繰り出してくるロシア側の圧倒的な火力を前に防戦一方となり、戦意を失った指揮官はついに撤退を命令します。
ロシア兵は、倉庫にあった食糧や武器、金屏風などを奪い施設を焼き払って去っていきました。
この時、捕虜になった盛岡藩兵・大村治五平の手記が残されています。
大村は、襲撃のさ中に捕虜になり、ロシア船に連行されます。
その際に見聞きしたことを絵を交えて詳細に記録していました。
ロシア船は、大型の大砲を4門装備、水兵たちは砲径の大きい鉄砲を装備していました。
さらに大村は手記で日本が敗走する様子を記しています。

”ロシア人が上陸すると、警備の者どもは鉄砲を担いでみな山中に逃げ、姿を消してしまった”

7月、幕府に新たな知らせが届きます。
6月初め、ロシアの攻撃に対抗するため武器を積んで蝦夷地北部の宗谷に向かっていた幕府御用船が、利尻島沖でロシア船に襲われたのです。
大砲や鉄砲、食料などが奪われ、船は焼かれてしまいました。

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6月5日、利尻島で日本人捕虜が解放されます。
彼らはロシア側からの手紙を持たされていました。

”先だってお願いしたロシアとの通商の件、承知しなければ大軍を以て北国筋を占領する”

一連のロシア船の襲撃は、単なる海賊行為ではなく、ロシアが国家として行ったことが分かったのです。
武力で脅かして通商を求める・・・あからさまな脅迫でした。

択捉島襲撃から15年前・・・1792年9月に、蝦夷地・根室の沖合に一隻のロシア船が来航しました。
ロシア船エカチェリーナ号です。
乗っていたのは、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の使節で陸軍中尉のアダム・ラクスマンです。
ラクスマンは、松前藩を通じて幕府に書状を提出します。

”ロシア領に漂流してきた日本人を江戸の役人に引き渡したい
 返答がなければ、我々の船は直接江戸に向かう”

日本人漂流民の返還を理由に、直接江戸に赴きたいという要求でした。
この時、対ロシア外交に臨んだのが、老中首座・松平定信でした。
1793年6月、定信は松前に回るように求め、そこで返答書を渡しました。

”国交なき異国の船は、打ち払うのが古よりの国法”

まず、国の定めとしてロシア船の江戸行きを拒否、一方で譲歩も行います。

”通商を望むならば長崎へ行き、現地の沙汰に任せよ”

定信はラクスマンに長崎の入港許可証を与えました。
長崎に行けば通商の可能性があると示したのです。
その背景には、定信のロシアへの強い恐れがありました。
定信がロシアを知った書物・・・仙台藩の医師が書いた「カムサスカ国風説考」です。
それにはアフリカからアジアまでが描かれた世界地図が収められています。
その中でひときわ目を引くのがロシアでした。
ヨーロッパからシベリアを経て、オホーツク海沿岸まで広大な領地を持つロシア・・・
さらにロシアは勢力を拡大、千島列島を南下し始めており、日本は蝦夷地を挟んで大国ロシアと向き合っていたのです。

「鎖国」と呼ばれる日本の通航管理の体制は九州シフトでした。
17世紀「鎖国」が完成した段階では、ヨーロッパは東南アジアや南中国の方面から来て・・・長崎屋平戸に来ていたからです。
そこをしっかりとしておけば、対外関係は管理出来ました。
しかし、想定されていなかった北のロシアが東進して、カムチャッカ半島から千島列島・ウルップ島まで進出してきました。
今度は九州ではなく、日本の北方のどこまでが日本なのか??
どこまでを鎖国の範囲にするのか??
課題を迫られたのが、松平定信の幕閣でした。

定信は、ラクスマン来航に際してこう記しています。

「数百艘の蛮船 もし江戸海へ入り来たり候はゞ いかで勝ん
 御武器なんとも 俄にはそろひがたし
 この処は誠に必敗の道なり」

戦いになれば勝てない・・・定信はラクスマンに通商を望むならば長崎に回るようにとすることで、紛争を回避したのです。
「将軍のお恵みによってロシアが願ってきた交易や貿易を許してあげる」との形式が整えば、交易は許す余地をロシアとの関係においては、定信は交易を実現させる余地は残したのです。
しかし、ラクスマンが長崎に現れることはありませんでした。
ところが、ラクスマン来航から12年後、長崎にロシア船が姿を現します。

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長崎湾を警備する福岡藩、佐賀藩、大村藩の船の前に現れたのは、巨大なロシア船・ナデジタ号でした。
目的は、通商の要求・・・彼らは、定信がラクスマンに渡した長崎入港許可証を持参していました。
代表者は、ロシア使節ニコライ・レザノフ。
ロシア皇帝アレクサンドル1世の侍従長という貴族で・・・もうひとつの顔がありました。
当時ロシアは、アジアからさらに北米まで勢力を拡大し、交易をおこなう露米会社を設立。
レザノフはその総支配人でもありました。
露米会社は、上質なラッコの毛皮を求めて東へ東へと進み、アラスカまで進出していました。
しかし、入植地のカムチャッカ・アラスカは寒冷地の為、食料不足に苦しんでいました。
後に入植地の現状を、レザノフはこう記しています。

「現地は飢餓に悩まされており、冬は特に苦しい
 全域で悲惨な状況にある」
 
入植地の問題を解決するには、最も近い日本で食料を手に入れる以外にない!!
レザノフは、日本との通商を強く願って自ら赴いたのです。
レザノフは、ラクスマンが長崎の入港許可証を与えられたからには通商は許可されると信じていました。
しかし・・・知らせを受けた幕府上層部は、レザノフの上陸を拒否、24時間の監視体制を敷きます。
2カ月半後・・・レザノフはようやく上陸を許されますが、陸の上でも軟禁状態に置かれます。
住まいの周りは壁で厳重に囲われ、周囲との交流も許されないまま半年が過ぎます。
ようやく江戸から来た役人と対面したのは翌年・・・1805年の3月でした。
レザノフは駕籠に乗せられ長崎奉行所に向かい、日露会談が行われました。
しかし、幕府の役人はレザノフが持参した国書も贈り物も受け取りを拒否、けんもほろろの対応でした。

”我が国が国交を結んでいるのは、朝鮮と琉球、通商を行っているのはオランダ、中国のみ
 貴国の希望には、議論の余地がない
 速やかに日本から去れ”

これが半年の軟禁の末の答えでした。
レザノフは、日記にこう記しました。

”これは私にとって、屈辱以外の何物でもない”

なぜ日本はラクスマンの時とは全く違う対応を行ったのでしょうか?
ラクスマンに長崎入港許可証を与えた松平定信は1793年に老中を辞職、対ロシア外交には関与していませんでした。
当時の幕閣は、老中首座が戸田氏教、レザノフ担当は老中・土井利厚。
レザノフは滞在期に親しくなった通訳から、この対応は老中首座の戸田氏教が反対しているからで、戸田が政権を去れば通商交渉は可能になると告げられたと記しています。
一方、老中・土井利厚から対応について諮問を受けた大学守・林述斎の記述によれば・・・

”丁寧に対応して交易をお断りするのがよかろうと申し上げたが、老中は粗略に扱えば腹を立てて二度と来ないだろうと、無礼な対応をとることにした”といいます。

1805年4月、通商を拒否されたレザノフはカムチャッカに帰国。
しかし、怒りは治まりません。
露米会社の入植地の苦境も深まっていました。
レザノフは、武力で日本を脅そうと決断し、部下にこう命じました。

「日本はかつて一度通商に同意しながら、我々を拒絶するという背信行為を犯した
 カラフトに入港し、日本船を見つけてそれを焼き討ちすること

 日本人はこれを阻止する難の能力もないことに気づき、我々と通商関係を結ばざるを得なくなるだろう」

こうして露寇事件が始まりました。

蝦夷地襲撃の報せを受けた幕府は、直ちに東国諸藩に蝦夷地に兵を出すように命令します。
弘前・盛岡・秋田・庄内、4藩の3000人の兵が蝦夷地に赴きました。
兵は、函館や宗谷・斜里など海岸線の要所に配置され、ロシア船の攻撃に備えました。
この危機にあって、幕府が意見を求めた人物がいます。
松平定信・・・かつてラクスマンに対応した定信です。
この頃、老中首座が、定信の腹心である松平信明に代わっていました。
その為、定信に意見を求めたと考えられます。

定信が3回にわたって提出した意見書・・・蝦夷地一件 意見書草案が残っています。
最初の意見書の日付は6月15日、エトロフ襲撃の報せが幕府に届いてまもなくです。

”択捉島にロシア人がいれば厳しく打ち潰し、海辺へロシア船が来たら激しく攻撃して焼き捨てにし、幕府の武威を示したうえで、蝦夷地への狼藉の理由をただしその回答次第で対応を決める
 通商を求めてのことなら、後々の問題にならないように議論をつくせ”

第2の意見書は、7月2日。
解放された日本人捕虜がもたされた書簡から、通商を承知しないとさらに攻撃を加えるとロシアが強迫してきたことが判明した直後です。

”武威を示したうえで、通商に応じ、実力行使は択捉より先の島々二三島に行う”

第1の意見書では武威を示す場所が日本の勢力圏のエトロフだったのを、ロシアの支配下である島々への攻撃に改めています。
ロシア領にまで踏み込んで攻撃しない限り武威を示したことにならないと考えたのです。
その理由を定信はこう記しています。

”長崎で丁寧に頼んできたときには断わり、侵略すれば願いが叶うでは、ロシアだけでなく他の外国からも日本の武威が軽蔑されてしまう”

侵略されたので通商に応じるとなれば、日本の国威が揺らぎ、ロシア以外の国からも軽蔑されてしまうと考え、ロシア領への攻撃を提案したのです。
武威さえ示せば、通商を認めても良いと考えていました。
しかし、事態は急変します。

蝦夷地でロシアに惨敗・・・!!
幕府が隠していた事実が、世間に知られてしまいました。
余りに不甲斐ない負けっぷりに憤慨した函館奉行所の役人が、その様子を手紙で江戸に知らせたからです。

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”日本は開闢以来他国に負けたことのない国である
 然るに この度のエトロフの大敗は、日本国の大恥
 誠に残念至極である
 江戸中に知らせて見せしめにいたし候”

さらに、利尻島沖で幕府御用船がロシア船に襲われた時、幕府の役人たちが戦うことなく船を捨てて逃げたことが明らかになりました。
幕府の兵が戦わずして逃げた・・・江戸市中では、こんな狂歌が詠まれました。

”蝦夷の浦に打出でて見ればうろたへの
    武士のたわけの わけもしれつつ”

ロシアにいかに対抗するか、幕府の権威をいかに回復するのか??
二つの問題に直面した定信は、3つ目の意見書を書き始めます。

武威を示して通商を認める??
それとも通商不可、外国徹底排除??

松平定信に洗濯の危機が迫っていました。

8月3日、第3の意見書の草案を書きあげました。

”最初は武威が立って、ロシアが謝罪すれば通商を求めようとも考えていた
 色々風説を聞くと、御用船が襲われた時の逃亡などまるで武威が立たない
 これでは異国だけでなく、国内の取り締まりさえ危うくなる
 通商を許すことは決してあってはならない”

定信は、通商不可・外国徹底排除を選択しました。

1807年12月に、ロシア船打ち払い令を出し、徹底対決の方針を示します。

”おろしや船と見請候は 厳重に打ち払い おろしや人不埒之次第に付 取計方きびしくいたし候”

幕府は新たに秋田・庄内・仙台・会津藩に出兵命令を出します。
兵は、クナシリ、エトロフ、宗谷、樺太を中心に配置され、ロシアの攻撃に備えました。
4年後の1811年、クナシリ島にロシア軍監の館長・ゴローウニン上陸。
ゴローウニンは捕らえられ、松前に送られて取り調べを受けます。
そこで、ロシア側の襲撃は、皇帝の許可なく行われたこと、さらにレザノフは命令を撤回したが部下が暴走していたことが判明します。
ロシア側の謝罪文が届けられたことで、ゴローウニンは釈放されました。

かくして江戸幕府を震撼させた露寇事件は一応決着を見ます。
決着から4年後の1817年、松平定信は、この経験からこう記しています。

”ヲロシアのみ蛮国にあらず
 とるこ いたりあ ぽるとがる イギリスなどの大国もまた多し
 されば不慮に備えるのが防御の寛容なり”

露寇事件をきっかけに、鎖国は幕府始まって以来の決まり事として強く意識されるようになります。
この後、ペリーの黒船が力でこじ開けるまで、日本は外国との新たな通商を始めることはありませんでした。

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戦国最強の武将は誰か??
歴史通の間で評価が高いのは、浪人まで身を落としながらも大名に返り咲いた復活の名将・立花宗茂です。

・二人の父
復活の名将・立花宗茂に大きな影響を与えたと言われているのが、高橋紹運と、戸次鑑連(立花道雪)です。
共に、北九州の大部分を支配していた戦国大名・大友宗麟を支えた重臣でした。
どうして宗茂は二人の父を持つことになったのでしょうか?

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1567年、立花宗茂は、豊後国に生れます。
幼名は千熊丸・・・そこから何度も名を改め、宗茂と名乗るようになったのは40歳を超えてからのことでした。
その宗茂の実の父が高橋紹運です。
高橋紹運は、知略を以て知られた人物で、大友宗麟からも信任の厚い人でした。
そして、最後まで主家である大友家を支えた忠義の人物として知られています。

1581年、15歳になった宗茂は、大友氏に反旗を翻した秋月勢の討伐戦に参加します。
敵将のひとりを討ち取るなど、勝利に貢献したといいます。
これが宗茂の初陣ともいわれ、益荒男ぶりを遺憾なく発揮していました。

高橋紹運と双璧をなす大友家の重臣・立花道雪が、紹運に・・・
「そなたの子をわしにくれぬか」と、申し出ます。
男子がおらず、既に還暦を過ぎてきた道雪は、武勇に優れた宗茂に家督を継がせたい・・・そして、それによって両家の結びつきを強くして主君である大友宗麟をいっそう盛り立てていこうと考えたのです。
しかし、宗茂は大事な跡取り・・・
道雪が、熱心に頼んでくるとその思いに心が動かされた紹運は、宗茂を養子に出すことにしました。
高橋家の家督は、宗茂の弟に継がせることにしたのです。

宗茂が道雪のもとに行く前日・・・紹運は、宗茂に言葉をかけます。

「これからは、わしを夢にも親と思ってはならぬ
 敵味方に分かれることがあれば、お前は先鋒になってわしを討て
 少しでも迷いを見せたら、道雪さまはそれを許しはしない
 道雪さまから親子の縁を切られるようなことになっても、おめおめと帰ってきたりせず、潔く自害するが良い」

そして、自分と戦う時や自害する際にはこれを使えと、「長光の剣」を与えました。
宗茂はこの剣を、終生大切にしていたといいます。
一方、宗茂を譲り受けた道雪は、この時69歳。
35歳の時に落雷を受けた影響で歩行が困難でしたが、輿で戦場に乗り込み負け知らず!!
大友家臣団きっての猛将で、ついたあだ名は「鬼道雪」。
しかし、男子に恵まれなかったため、筑前国にある居城と家督は一人娘の誾千代に譲っていました。
誾千代の誾という字には、慎ましやかという意味が込められています。
非常に男勝りでプライドの高い性格でした。

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1581年、宗茂(15歳)は誾千代(13歳)と結婚、道雪の婿養子となりました。
厳しい道雪に鍛えられた宗茂は、その期待に応えていきます。
1582年、反大友勢の鎮圧に道雪と共に参戦。
敵軍に囲まれて苦戦していた道雪を助け、敵方の城を攻め落とすという活躍を見せました。
その甲冑から、宗茂の身長は180㎝という大柄で屈強だということが想像されます。
心身ともにひとかどの武将に成長した宗茂でしたが、全てが順調というわけではありませんでした。
この頃、主家である大友氏は、島津氏や竜造寺氏に押され、筑後国を失うなどかつての勢いはなく、宗茂の2人の父の奮闘によって、なんとか持ちこたえているような状況でした。

1584年、筑後国の奪回戦に、立花道雪と高橋紹運が参戦。
宗茂は1000の兵で立花城の守備を任されました。
道雪の不在を狙って押し寄せてきたおよそ8000の反大友勢を紀州などを用いて撃退しました。
しかし、翌年、筑後国の戦いを優勢に進めていた道雪が病に倒れそのまま亡くなってしまいました。
それを好機と見た大友氏最大のライバル島津氏が、5万ともいわれる軍を率いて筑前国に侵攻。
もはや、自分のみでは島津軍の侵攻を止められないと悟った大友宗麟は、天下人に大きく近づいていた豊臣秀吉に臣従を誓い、援軍を要請しました。
そして、宗茂の実父・高橋紹運は援軍が到着するまでの時間を稼ぐため、筑前国にある居城・岩屋城で島津軍を迎え撃ちました。

とはいえ・・・紹運の兵はわずか700・・・到底勝ち目はありませんでしたが、紹運は一歩も引かずに徹底抗戦を貫きました。
結果は、紹運を含む全員が討死!!
それでも島津軍に死傷者およそ4500人という甚大なダメージを与えたのです。
まさに武士の鑑だった高橋紹運・・・しかし、秀吉の援軍はまだ到着していません。
島津軍の矛先は、岩屋城からわずか4里・・・およそ16キロ離れた宗茂の守る立花城に向けられました。

二人の父を失った宗茂・・・しかし、悲しみに暮れる暇もなく、
1586年8月、宗茂の居城である立花城が島津軍に包囲されてしまいました。
宗茂軍が籠った立花城は、標高376mの立花山の山頂に築かれた堅固な山城でした。
その城で、宗茂は徹底抗戦の構えを崩さず、島津軍が降伏を迫っても応じませんでした。
すると島津軍は、豊臣秀吉の援軍が迫る中、立花城の攻略に時間を割くのは得策ではないと撤退を開始しました。
これを見た宗茂は、
「今が勝機!打って出る!!」
と、島津軍を追撃します。
怒涛の勢いで討ち取り、その数は一説に1000人以上。
さらに、島津方の城となっていた高鳥居城を攻め落とし、父・紹運が最後まで戦いぬいた岩屋城を奪回しました。
時を前後して、秀吉が送った援軍が続々と九州に上陸。
1587年3月には、秀吉自身も豊前国に入りました。

宗茂の奮闘を伝え聞いた秀吉は、いたく感心したと言われ・・・
その武勇を讃えた文書にはこう記されています。

”宗茂は九州の一物である”

秀吉は、総勢25万ともいわれる大軍を二つに分け、東西それぞれのルートで島津の本拠地である薩摩を目指すことに・・・。
秀吉は、西側ルートの指揮を執りその先鋒を任されたのが宗茂でした。
すると宗茂は、竹迫城、宇土城、出水城、大口城といった島津方の重要拠点を次々と攻略。
追い詰められた島津氏は、もはや勝ち目はないと降伏し、九州は秀吉の手によって平定されたのです。

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そして、1587年6月、宗茂は秀吉から
「その忠義鎮西一 その剛勇また鎮西一」
と、讃えられ、筑後国柳川13万2000石を拝領します。
21歳にして大友氏から独立し、豊臣家の直臣大名に取り立てられたのです。

13万2000石の大名となった宗茂は、立花城から柳川城に居城を移します。
宗茂はこの地で領国経営に力をつくしたと言われ、宗茂が農業用水の確保のために作った運河は、今も残り、立花宗茂の名をとって花宗川と呼ばれています。

家臣や農民からも慕われる良き殿様・宗茂・・・しかし、一つ問題がありました。
誾千代と別居・・・
誾千代が移り住んだ館は、柳川城から500mほどの位置にあり、別居の理由は今もはっきりとわかっていません。
子供がいなかったこともあって、2人は不仲だったともいわれていますが・・・
当時は、誾千代を当主と仰ぐ勢力もあったようです。
立花家内の勢力争いを解消するために城を出たのではないか?と言われています。
夫婦といううよりも、立花家を守る同志!!
二人はそんな関係だったのかもしれません。

立花宗茂 天下無双
豊臣秀吉から武勇を絶賛され、13万2000石の大名に取り立てられた立花宗茂。
主君となった秀吉のために、次々と武功をあげていきます。
宗茂が大名となった1587年の7月、肥後国で大規模な一揆が起きました。
秀吉はすぐに鎮圧隊を送りましたが、必死に抗戦する一揆勢は手ごわく、苦戦を強いられます。
すると宗茂は、1200あまりの兵を率いて肥後に入り、鉄砲隊を駆使して戦況を打破、時には1日に13度も戦い一揆勢が戦勝していた城を次々と落とし、およそ650の首を討ち取ったといいます。
一揆勢が降伏したのは、それから間もなくのことでした。

比類なき強さを再び見せつけた宗茂は、一揆鎮圧の翌年、従五位下侍従を授かり、豊臣姓を下賜されます。
そして1590年、宗茂は小田原攻めで集められた諸大名の前で秀吉からこう称賛されます。
「東の本多忠勝 西の立花宗茂 天下無双」
徳川四天王の一人である本多忠勝は、勇猛果敢で知られた猛将でした。
その忠勝と並び称されたのは、宗茂にとってこの上ない名誉でした。

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1592年、文禄の役・・・
3000あまりの兵を率いる宗茂は、明の軍と激突した碧蹄館の戦いで先鋒を務めます。
多くの将兵を討ち取って、日本軍の勝利に貢献します。
主将を務めていた小早川隆景から「立花の三千は他家の一万の軍勢に匹敵する」と、称賛されました。
二度目の朝鮮出兵・・・慶長の役でも、宗茂は落城寸前だった日本勢の城・蔚山城に駆けつけ、籠城していた加藤清正を救うなど活躍を見せました。

ところが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなると、朝鮮出兵は中止。
宗茂の運命も大きく揺さぶられることになります。
帰国した宗茂たち諸大名を待っていたのは、五奉行筆頭の石田三成と、五大老筆頭の徳川家康の対立でした。
秀吉の嫡男・秀頼を支え豊臣家を守ろうとする三成に対し、家康は天下取りの野心をたぎらせ勢力拡大していました。
1600年、石田三成は、五大老のひとり・毛利輝元を総大将に担いで家康を討つべく挙兵!!
すると、家康は、秀吉から天下無双と称賛された宗茂を東軍に勧誘します。
一説には、東軍勝利の暁には宗茂の所領を50万石に加増するという破格の条件を出したと言われています。
しかし、宗茂は、西軍に着きました。
柳川家臣団から東軍につくべきという声が上がり、三成との確執があった加藤清正からも西軍への参加を思いとどまるように言われますが・・・宗茂の決意が揺らぐことはありませんでした。
自分を大名に取り立ててくれた秀吉への恩顧に報いるため、西軍についたと考えられます。
また、毛利やその一族である小早川家は、朝鮮出兵で宗茂と同じ隊で戦っていました。
近しい関係だったので、行動を共にしたとも考えられます。

しかし・・・天下分け目の関ケ原に宗茂の姿はありませんでした。
1600年9月7日(関ケ原の戦いの8日前)
宗茂は、西軍から東軍に寝返った大名大津城主・京極高次を討つため、その居城である近江国の大津状を包囲。
大津は琵琶湖に面した交通の要衝だったため、寝返りに早急に対処する必要があり、その任を宗茂が任されたのです。
戦いは、鉄砲隊を使った宗茂が終始優勢・・・しかし、京極の軍勢を粘りを見せなかなか降伏せず、ようやく9月15日に城を明け渡しました。
9月15日・・・その日こそ、関ケ原の戦いが始まった日でした。
しかも、戦いはわずか半日で西軍の大敗に終わったのです。

納得できない宗茂は、大坂城に向かい西軍の総大将・毛利輝元に訴えます。

「大坂城に籠って徹底抗戦すべし!!」by宗茂

しかし、すでに家康と和睦交渉を始めていた輝元はそれを認めませんでした。
止む無く宗茂は領国・柳川に向けて撤退を開始。
するとその道中で西軍として戦った島津軍に遭遇します。
島津軍は、九州の覇権をかけて闘ったかつての敵で、宗茂の実父の仇でした。
家臣たちは、仇を討つ機会だと息を巻きます。

「敗軍を討つのは武門の恥」by宗茂

逆に、島津軍の護衛を申し出て、共に九州に帰りました。
宗茂の男気に島津義弘が感服したのは言うまでもありません。

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10月、柳川城に帰還。
すでに、この時家康の命を受けた鍋島直茂・加藤清正・黒田官兵衛たちが、柳川侵攻の気配を見せていました。
一説に、誾千代は、女官たちと共に武装し敵襲に備えていたといいます。
まもなく、鍋島軍3万が、柳川の領内に進攻。
立花軍の兵力はその1/10ほどしかなく、死力を尽くして戦うも、宗茂は将兵たちを失って行きました。
戦況を見守っていた加藤清正と黒田官兵衛は、これ以上の戦いは無益だと、宗茂を説得。
宗茂はそれを受け入れて、柳川城を明け渡しました。
宗茂を慕う領民たちは、「柳川を見捨てないでほしい」と懇願しますが、宗茂は、
「皆を戦に巻き込みたくない故降伏したのじゃ」・・・領民を巻き添えにしたくない宗茂の苦渋の決断でした。

関ケ原の戦いの後、改易された大名は88家・・・立花家もその一つで、所領も城も失った宗茂は、34歳にして浪人となってしまいました。
加藤清正や前田利長は、その器量を惜しみ仕官話を持ち掛けます。
しかし、宗茂はそれに応じることはありませんでした。
大名への復帰・・・立花家の再興を諦めていなかったからです。
その為宗茂は、加藤清正が治める肥後国に妻や家臣たちを預けます。
20人ほどの側近と京にのぼり、浪人生活を開始します。
当時の家康は、伏見城で政務を行うことが多かったので、近くにいてお家再興の機会をうかがっていたのです。
しかし、貧しい生活が続き・・・1602年10月、誾千代が死去。

立花宗茂 大名復帰
1606年9月・・・千載一遇のチャンスが・・・!!
家臣に宛てた手紙には・・・
”将軍様に召し出され候 まずもって当分 心安くこれあり”
これ以上家臣たちに苦労をかけずに済むという安堵の言葉でした。
そして宗茂は、2代将軍・秀忠と謁見、陸奥国棚倉に1万石を拝領・家臣として取り立てられます。
1万石は、大名と呼ばれる最低限の所領で、しかも柳川から遠く離れた東北の地でしたが、宗茂は6年ぶりの大名復帰を果たしました。

どうして将軍・秀忠は宗茂を召し抱えたのでしょうか?
「徳川実記」には、秀忠は武勇の誉れ高い宗茂を、将軍になった暁には召し抱えたいとかねてから考えていたと書かれています。
家康も健在だったことから、家康の意向を抜きには考えられません。
一説によると、家康は宗茂を高く評価しており、若い秀忠の相談役にしようと考えていたようです。
当時は大坂城に豊臣秀頼が健在でした。
宗茂を豊臣方に取られると大きな痛手となるので、先んじて召し抱えたのです。

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関ケ原の戦いで西軍についたため、改易されて浪人になるも徳川秀忠のもとで大名に復帰した立花宗茂・・・
大名復帰の4年後には、江戸御留守番に就任しました。
将軍の警護が主な仕事だったと考えられています。
それに伴い、宗茂の所領は3万石に加増、幕府内での地位も高まっていきました。
そして、大名復帰から8年がたった1614年・・・徳川が豊臣との最後の戦い・大坂の陣に臨むことになります。

立花宗茂 柳川に戻る
大坂の陣で、かつての主君・豊臣家を敵に回すことになった宗茂・・・

「秀吉さまへの恩は、関ケ原で返した」by宗茂

徳川家に仕えて8年・・・もはや、迷いはありませんでした。
この時、48歳。宗茂は、大坂の陣で重要な役を担います。
秀忠のそばにあって、軍事の指南役を担っていました。
2度に渡った大坂の陣・・・それは最終決戦・夏の陣の時のこと。
秀忠が宗茂に尋ねます。

「本陣をもっと前方に置くべきではないか」by秀忠
「敵は必死に攻めてくるため、本陣は後方にひくべきです」by宗茂

これには多くの者が異を唱え、結局本陣は動かしませんでした。
いざ戦いが始まると、豊臣軍の圧力に押され、本陣を1キロほど後方に下げることになりました。
重臣たちは、宗茂殿が正しかったと、自分たちの見通しの甘さを認め、さらに本陣を下げようとします。
ところが宗茂は、
「先ほどの戦闘で敵は力を使い果たし、動きが緩慢になっております
 もはや、本陣を下げる必要はなく、このまま戦うべきです」by宗茂

すると、またしても宗茂の読みが的中・・・
敵はそれ以上攻め込むことが出来ず、至近距離から徳川軍の攻撃を受けた豊臣軍は、総崩れとなりました。

あまたの激戦を制し、勝ち方をよく知っていた宗茂は、軍師としてもまた天下無双!!
これを聞いた家康は、
「今後も宗茂とは懇意にすべし」と、秀忠に命じました。
その家康が、大坂夏の陣の翌年、駿府城で病に伏すと、秀忠は見舞いのために江戸城を留守にしましたが、その間、江戸城大手門の警備を任されたのは宗茂でした。
通常は譜代大名が務める任務で、家康の言葉通り、秀忠が宗茂を重用していたことが伺えます。

そして、1620年、54歳になっていた宗茂は・・・宿願を果たします。
立花家が改易されたのち、柳川には田中家が入っていましたが、跡継ぎがいなかったことで取り潰しに・・・
代わって宗茂が20年の時を超えて旧領に復帰したのです。
柳川藩10万9000石の大名に返り咲いた宗茂は、肥後国の加藤清正のもとに預けていたかつての家臣たちを柳川に呼び戻しました。
歓喜の再会・・・
関ケ原の戦いで失った旧領を回復したのは、立花宗茂ただひとりでした。

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立花宗茂が最後の勇士を見せたのは、1637年の島原の乱。
宗茂はすでに70歳を超えていたといいます。
3代将軍・家光の命を受けて参戦!!
幕府軍の総大将・松平信綱の補佐役を務め、敵の夜襲を的確に予想し、兵糧攻めを指示したり、往年の実力を見せつけ、一揆勢が立てこもる原城での戦いに一番乗りを果たした際には、武神が再来したと称賛されたといいます。
そして、76歳・・・波乱の生涯に幕を閉じました。
宗茂のかつての領地・福岡県柳川市に鎮座する三柱神社・・・
ここには、天下無双の名将・宗茂と、義理の父・立花道雪、妻・誾千代が御祭神として祀られています。
その為、復活の社とされ、現在も宗茂にあやかろうとする人々の厚い崇敬を集めています。

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