儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉

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江戸幕府開府からおよそ80年・・・人々を翻弄し苦しめた将軍が誕生します。
第五代将軍徳川綱吉です。

綱吉は、1646年三代将軍・徳川家光の四男として江戸城に生まれました。
母は側室の桂昌院、兄の家綱がわずか11歳で四代将軍となり、綱吉は16歳で舘林藩藩主となりました。
家綱は病弱で・・・ほかの兄弟たちも亡くなっていたので、幕閣の重臣たちは次の将軍候補に頭を悩ませていました。
1680年5月、家綱の病状が悪化・・・後継者は・・・??
時期将軍候補と上がったのは・・・唯一残っていた家光の実子・綱吉でした。
しかし・・・異議を唱えるものが・・・大老・酒井忠清です。

酒井は、「鎌倉時代にならい朝廷から宮将軍をもらうべきだ」と強硬に反対!!
そこには綱吉に対する厳しい評価がありました。
忠清は、「綱吉様は天下を治める器量なし!!」と、思っていたのです。
人々は困窮し、天下の騒動になるのでは??と思っていたのです。

当時強大な力を持っていた酒井に、多くの幕閣たちが意見できない中、老中に就任したばかりの堀田正俊が・・・
「鎌倉の先例に学ぶ意味などありませぬ。
 家康公の血を引く綱吉様が・・・将軍は綱吉様にすべきです。」
正俊は、病床の家綱に綱吉将軍継承を認める書を与えていました。
晴れて将軍となったのは35歳でした。

綱吉が将軍となって5年・・・1685年2月・・・
江戸の町に高札が・・・
「将軍御成の際に道筋に犬猫が出ても苦しからず」
それまでは将軍が出掛ける際は、必ず犬猫を繋いでいなければなえいませんでした。
しかし今後は、放しておいても構わないということです。
これが最初の生類憐みの令とされています。
その後24年間に生き物を保護する法令が130余り出され、その総称が生類憐みの令です。
最も多かったのは犬!!
「飼い主のいない犬を見つけたら餌を与えること」
「犬がケンカしているのを見たら水をかけて離すこと」
「うろつく子犬を見たら母親を見つけること」
やがて・・・
「犬を捨ててはならない」
「捨て犬を見つけた者は養育すること」
「傷ついた犬がいるときは、その町全体の過失とする」
その内容は、徐々に厳しくなっていきました。
人々は綱吉を犬公方と揶揄するようになります。

違反した者には厳罰が・・・!!
犬を切り殺したものは・・・市中引き回しの上斬首!!
告発した者には50両!?
新井白石の書「折りたく柴の記」には・・・
「このことにより罪かうぶれるもの何十万人という数を知らず」
そのため、人々は犬と関わることを恐れ、こっそり犬を放したり・・・町が野犬だらけになっていきます。

困った幕府は野犬の保護を名目に”犬屋敷”を作ります。
現在の東京・中野にあった犬屋敷は最大で、30万坪という広大なものでした。
総ヒノキの小屋が290棟・・・犬部屋・餌場・日よけ所・子犬養育所・犬医者の家・役人の家・・・10万頭も飼育され、犬一食は米二合に味噌、干物・・・年間にすると10万両・・・100億円にも上りました。
その費用は、江戸、江戸周辺の農家が負担、町ごとに野犬用の駕籠まで・・・!!

観賞用のコオロギや鈴虫の飼育も禁止、遊びとしての魚釣りや鳥の捕獲も禁止・・・
許されていたのは金魚だけだったようです。

どうして”生類憐みの令”を出したのでしょうか?
1638年、徳松という唯一の跡継ぎを失った綱吉は、世継ぎに恵まれませんでした。
その状況を綱吉以上に心配したのが母・桂昌院!!
仏教に深く帰依していた桂昌院は、真義真言宗僧侶・隆光に相談。
すると隆光は・・・
「世継ぎができないのは、綱吉様が前世に多くの殺生を行っていた報いであり、世継ぎを授かるには殺生を禁じるのがよいでしょう。
綱吉様は、戌年生まれだから特に犬を大事にするように・・・!!」と、進言したのです。
これによって桂昌院は、生類憐みの令を出させたと言われていますが・・・
これはでっち上げによるものと思われます。




江戸幕府誕生から80年余り・・・
未だに刀の試し切りで辻斬りがされるなど、戦国の気風が残っていました。
戦で名を上げることが出来なくなった旗本や御家人たちは、派手な格好をして町に出ては乱暴・狼藉を行い治安を悪化させていました。傾奇者です。
この傾奇者たちが好んで食べていたのが犬でした。
犬の保護を名目に、傾奇者の取り締まりを!!

最初の生類憐みの令が出たときに・・・
「鉄砲打を捕まえたものに銀500枚」というものも出ています。
全国に普及していた鉄砲は、当時でも鳥獣駆除に使われていました。
庶民たちが武装し、簡単に蜂起できる状況に鉄砲の取り締まりを行い・・・自衛のための各藩の武器も取り上げました。
民衆を守ることで幕府の権威を高める側面もありました。
鉄砲の抑制・・・武装しなくてもいい社会づくりの一環です。

湯島聖堂は、綱吉が学問所として整備・拡充しました。
儒学の奨励をし、自ら講義をし、幕臣のみならず町民にも開放しました。
これからの武士にふさわしい哲学、生き方のために・・・!!
儒教では、人や動物に対するやさしさ”仁”を最も尊ぶからです。
武家諸法度第一条を・・・
「文武弓馬の道 専ら相嗜むべきこと」→「文武忠孝を励まし 礼儀を正すべきこと」と、替えています。
生類憐みの令も、その一環だったのです。
人間もその対象でしたが・・・
当時は捨て子が多く、里親になれば養育費として3両もらえるという制度ができました。
これを悪用する人が出てきて詐欺が孝行します。
その状況を変えようと・・・捨て子禁止令を出し続けます。
出産したときは、大家・地主に届け、人別帳に記載する・・・ということも始めます。

とことん生きるものを大事にした・・・
生類憐みの令は、弱者に対する福祉政策の側面も持っていたのです。
世界に先駆けた先進的なものでした。
戦国時代から続く殺伐とした時代の気風を一掃し、人命を尊重する世の中を作ろうとしたのです。
24年間で処罰されたのは69件で、ほとんどが武士だったといいます。
白石は、六代将軍の家庭教師なので、綱吉時代の政策を否定しているのです。


命をいつくしむ心を大切にした綱吉・・・
服忌令・・・近親者の不幸に対しての服喪や忌引の期間を定めた法令を出しています。
もともとは朝廷や公家の習慣でしたが、武士や庶民にも強制し、新しい社会規範として死や殺生を忌み嫌う世界を作ろうとしたのです。
父母・・・忌引50日、服喪・・・13か月、続き柄によって詳細に決められていました。
しかし・・・仕事を休むわけにはいかないので人々はこっそり働いていたとか・・・。

酒運上・・・酒の値段を上げて飲みすぎを防ぐこともしました。
江戸時代になるとお酒が広く出回るようになって、アルコール中毒や酒の上での犯罪が増えてきました。
そのための対処なのです。
酒癖の悪いものへ飲ませた場合も処罰されました。

積極的に人事改革も行いました。
その一つが将軍と老中の間に側用人を創設しました。
綱吉は生まれながらの将軍ではなかったので、江戸城内に側近はおらず、将軍になる前からついていた信用できる人物を側用人としました。

なので、老中たちは、側用人を通してでしか・・・直に将軍と話せないようになってしまいました。
将軍の意志は側用人から老中へ・・・のトップダウンとなり、綱吉は煙たい幕閣の実力者を遠ざけて独裁体制を作り、将軍への権力集中を見せたのですが・・・
本当に綱吉はトップダウンだったのでしょうか?
それまで老中となるには、2万5000石以上の譜代大名でなければなりませんでした。
しかし、側用人に家柄は必要なく、将軍が認めてくれさえすれば能力に応じて出世をすることができました。
幕政の中心を担うことができるのです。
綱吉に最も重用された柳沢吉保も、530石の舘林藩士にすぎませんでした。
最終的には、22万石の甲府藩主となった柳沢吉保です。
武断政治から文治政治への転換期で・・・
有能な人材を側用人に登用し、従来の老中制度も生かした政治だったのです。


綱吉は、寺社の造営・修築に力を入れます。
その普請料は、就任から10年後には4倍以上となり、幕府財政は赤字に陥ります。
財政を悪化させてまで寺社の造営・修築をしたのは、母・桂昌院のためでした。
桂昌院は、深く仏教に帰依し、桂昌院のために将軍就任の翌年には護国寺を造営、その後も母の願いをすべて聞き入れ、寺社の造営をしていきます。
綱吉は、母に対し異常なまでに従順で、将軍になってからも度々母を訪れては助言を求めていました。
綱吉は、母・桂昌院は信頼できるアドバイザーの一人でした。
将軍を動かすためにはまず、桂昌院から・・・今のマザコンのように見えますが・・・
儒教の教えの”孝”を果たすことが人間としての義務だと思っていたようです。

時代は高度経済成長へ・・・!!
綱吉が寺社の造営、農業生産の向上、街道の整備、商業の発展・・・大衆文化をも発展させます。
このような公共事業で巨万の富を得たのが商人たちでした。
中でも幕府を相手にした商人は大儲け!!
材木問屋・紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門・・・豪商が誕生しました。
紀文は、寛永寺根本中堂の工事で50万両(約500億円)を儲けたといいます。
奈良茂は、日光東照宮の修復工事を独占し、大出世し財を成したと言われています。

豪商の誕生、商業の発展で、元禄時代は空前のバブル時代となります。
しかし、商人が儲かったのは・・・商人に対する税制が確立していなかったからです。
儒教の倫理観では「商売は卑しい行為」で、上人にはほとんど税金はかけられていませんでした。

空前のバブル景気に沸いた江戸でしたが、貨幣改鋳によりその流通量が増えて物価が高騰!!
一転して庶民の生活が困窮に・・・!!
そんな中、1703年元禄大地震、1707年富士山大噴火・・・その復興費用が、幕府の財政を圧迫していきます。
当時は、災害はお上の悪政が引き起こすと言われていました。
庶民たちは、将軍への批判を始めます。
天に見放され、人心さえも・・・晩年は、生来の好き嫌いが激しくなり、気に入らないものはすぐに遠ざけたと言われています。
そして被害妄想も・・・
やがて、唯一成人していた娘・鶴姫を27歳という若さで亡くし、その翌年、最愛の母・桂昌院も亡くすのです。
4年後・・・綱吉は、自らの跡継ぎを残せないまま・・・64歳で孤独の中この世を去りました。


ドイツ人医師ゲッペルは綱吉のことを・・・
「法律を厳格に守り、国民に対し憐み深い優れた君主である。
 日本は、生活習慣、芸術、道徳において、ほかのあらゆる国の人を凌駕している」
様々な国を見てきたゲッペルには、綱吉が名君に映ったようです。


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