相模湾を望む城下町・・・
神奈川県小田原市・・・この町のランドマークと言えば、今も昔も中心部にそびえたつ小田原城です。
遡ること430年ほど前の戦国時代、この地を5代100年にわたって治めたのが相模国戦国大名・北条氏でした。
小田原城を居城として、周辺諸国に勢力を拡大し、やがて関東の覇者となりました。
ところが・・・その北条氏が、突如歴史の表舞台から姿を消すことになるのです。

5代にわたり小田原の地を治めた北条氏・・・鎌倉時代の北条氏と区別するため、後北条氏ともよばれています。
その歴史は、伊豆国を本拠地としていた後北条氏初代・北条早雲が小田原の地を攻略したことに始まり、徐々に勢力を拡大し、4代氏政と、5代氏直の時代には伊豆・相模・駿河・武蔵・上総・下総・上野・・・まで領地を広げ、まさに関東の覇者として絶頂にありました。
しかし、1582年、戦国の革命児・織田信長が本能寺の変で死去・・・
状況は一変します。
信長の家臣・羽柴秀吉が急速に勢力を伸ばし、天下統一を進めていきました。

本能寺の変の後、秀吉は中国地方、紀州、四国地方を平定し、さらに、朝廷から関白に任命されると、天皇や朝廷の威光を借りて、自らが天下人となることを目指します。
当然、北条氏がしはいする関東を配下に置くことも狙っていましたが・・・北条氏は、断固として秀吉の部下になることを拒否・・・それには北条氏に十分な勝算があったからです。

この時、北条氏は三河・徳川家康と同盟関係にありました。
織田信長の死後、旧武田領を巡って北条と徳川は対立しましたが、和睦し、同盟関係となりました。
その証として、家康の娘・督姫が、北条氏直の正室として迎えられています。
おまけに、家康と氏政の弟・北条氏規は昵懇の仲でした。
家康が幼少の頃今川に捕らえられていた時、氏規もまた人質として・・・同じ境遇でした。
北条氏政、氏直親子は、家康と組めば秀吉に対抗できると考えていました。

しかし、そこはしたたかな秀吉・・・
そんな両家の固い絆を切り崩しにかかります。
徳川を自分の臣下にしたかった秀吉は、妹・旭姫を家康の正室に差し出しただけでなく、母親の大政所を人質として家康の元に送ります。
その代わりとして家康に上洛を求めます。
関白の秀吉にそこまでされ、もはや拒否できなくなった秀吉は、しぶしぶ上洛し、大坂城で多くの諸大名がいる中、秀吉への臣従を誓ったのです。

これを聞き、大きな衝撃を受けたのが、北条氏政・氏直でした。
同盟を結んでいた家康が、秀吉の臣下となった事で、北条氏は徐々に追い詰められていくことになります。
秀吉はその後、薩摩の島津義久を討ち、九州を平定し、天下統一まで関東と東北を残すのみとなりました。
そこで秀吉は、北条氏の説得を北条ど同盟関係にあった家康に任せるのですが・・・北条氏はなかなか首を縦に振りません。
北条氏では、重要な事柄は重臣たちを集め小田原評定という軍議を開いていました。
この時、秀吉に服従するか否かで意見が分かれていました。
氏直は、時局を冷静に分析できる人物で、
「家康殿が秀吉の臣下となった今、秀吉への服従も致し方あるまい・・・
しかし、その氏直に、当主の座を譲った後も実権を握っていた父・氏政や、氏政の弟・氏照らは反対・・・!!
関東の覇者としての誇りが許さなかったのかもしれません。
なかなか意見がまとまらない北条氏・・・
しびれを切らした秀吉は、最後通告をします。

「この月中に、氏政殿の兄弟衆を大坂城に遣わしてほしい
 もし、秀吉殿に臣従できないというのなら、娘をすぐさま返していただきたい」by家康

北条氏と同盟を結んださい、家康は娘の督姫を北条氏直の正室として差し出していました。
その娘を返せというには、北条と徳川の同盟破棄を通告しているようなもの・・・
そうなれば、さらに孤立してしまう・・・!!
北条氏は、氏政の弟で外交担当の氏規を、秀吉のいる京都の聚楽第に派遣しましたが・・・

1588年、当主・北条氏直の名代として、父・氏政の弟である氏規が豊臣秀吉と謁見したことで、遂に北条氏は豊臣政権に臣従する姿勢を見せます。
しかし・・・そのあと、秀吉は宣戦布告することとなります。

秀吉は、はるばるやってきた氏規に対し、”北条氏政が上洛すること”を要求・・・
北条家の実権を握る氏政の口から豊臣家への臣従を誓わせたかったのです。
すると氏規は、大胆にも秀吉に条件を出します。

「兄・氏政の上洛の前に、沼田領の問題を解決していただきたい」by氏規

話は遡ること6年前・・・
信長の死後、徳川氏と北条氏が旧武田領を巡って抗争・・・
その後、和睦・・・甲斐と信濃を徳川が、上野を北条の領地として同盟に合意します。
しかし、問題が・・・
上野の沼田領を支配していた徳川家臣・真田昌幸がその領地を北条に差し出すことを拒んだのです。
昌幸は、主君である家康の再三の説得にも応じず、やがて徳川を離れ、越後の上杉景勝を通して秀吉の家臣となってしまいます。
その為氏規は、昌幸の新たな主君・秀吉に直訴したのです。
そこで秀吉は、ひとまず家康や正幸から事情を聞くことに・・・
真田昌幸は、老獪で知られています。
最後までごねましたが、秀吉は、関東の北条を服従させれば天下統一も間近となると考え、北条氏に有利な裁定を下します。

秀吉が下した裁定は、沼田領のうち、沼田城を含む2/3を北条の領地とし、名胡桃城の1/3を真田領とするというものでした。

北条も真田も、秀吉のこの裁定を渋々受け入れたのですが・・・
北条氏の家臣・猪俣邦憲が沼田城の城代として入ります。
が・・・ほどなくして事件を起こします。
利根川を挟み、目と鼻の先にあった真田領の名胡桃城に奇襲をかけ、城を奪い取ってしまったのです。
一説に猪俣は、
「真田方に残った領地が手に入れば、上野国はすべて北条のものになる・・・
 対岸の小さな城ひとつのっとっても、さして問題になるまい」と、軽い気持ちで事を起こしたというのです。
北条氏の家臣の中には、秀吉への服従に反対する者も多くいました。
秀吉が下した裁定を軽く見て軽率な行動を起こしてしまったのです。

真田昌幸から報告を受けた秀吉は、大激怒~~!!
自ら下した裁定を、北条が反故にしただけではなく、約束していた氏政が上洛する件についても北条側からの連絡が全くありませんでした。
臣従を誓う筈の北条氏が、自分の命令を軽んじたため、怒った秀吉は北条氏に宣戦布告しました!!
秀吉が北条に突き付けた書状にはこう書かれていました。

””明くる年 必ず小田原へ攻め寄せて 氏直の首をはねる””

慌てた北条氏直は、すぐに秀吉へ弁明書を送りますが・・・

”名胡桃城は奪い取ったものではなく、もともと北条のものである”

さらに・・・なかなか氏政が上洛しない理由に関しても、

”家康殿に上洛を求めた際、関白殿下は妹君を家康殿の正妻としただけでなく、母君まで人質として送っている
 しかし、父・氏政に対しては、そうした配慮が全くなされていない”

関東の覇者として君臨してきた北条一族のプライド・・・
この時点で、秀吉と戦う覚悟を決めていました。
この時、領民を総動員し、秀吉との戦いに備え小田原城の大普請に着手していたのです。

相模国の戦国大名北条氏政・氏直親子が居城としていた小田原城は、南に相模湾を望み南西に箱根連山が連なる要害堅固な城として知られていました。
そんな北条の本拠地を攻めるべく、1590年3月1日・・・
豊臣秀吉は京都を出発し、小田原へと向かいます。
既に三河の徳川家康や尾張の織田信勝、加賀の前田利家、越後の上杉景勝ら有力大名たちが兵を進め、さらに海からは、安芸の毛利輝元や土佐の長曾我部元親、志摩の九鬼嘉隆らの水軍が小田原を目指していました。
総勢20万を超える戦国オールスターの軍勢を率いた秀吉は、徹底的に北条氏を叩きのめすつもりでした。

3月29日、北条の領内に入った豊臣軍は、箱根山の中腹に立つ山中城へと攻め入ります。
堅牢な山城として知られていた山中城でしたが、豊臣軍7万に対し、北条軍はわずか4000・・・たった半日で落とされてしまいます。
その後、豊臣軍は鷹野素性、足柄城、根府川城など次々に攻略すると・・・
4月3日、遂に小田原に入ります。
20万を超す大軍が、小田原城の周囲に・・・やがて駿河湾にも1万4000もの豊臣水軍が到着し、海と陸の両方から小田原城を完全に包囲したのです。

北条氏は、如何にして豊臣軍と戦うつもりだったのでしょうか??
この状況は、北条氏に散っては想定内のことでした。
豊臣軍には数では勝てないと考え、小田原城に籠城して戦うことを決めていました。
上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めたとき、北条は籠城して軍勢を撤退させた経験があったからです。
この時の北条側は、籠城している間に、同盟関係にあった伊達政宗を期待していたのです。
籠城による徹底抗戦で伊達政宗と、豊臣軍を挟み撃ちにするつもりだったのです。

20万を超す豊臣の大軍勢に対し、居城である小田原城を楯に籠城戦をすることを決めた北条親子・・・
2人は早くから籠城の準備を進め、城を大改修します。
対秀吉に際し惣構え・・・城下町の外側に堀や土塁を作ることで町全体を防備しました。
深く広い堀が、周囲9㎞にわたって造られ、小田原の街は一つの城塞都市になっていました。
さらに、堀の随所に障子堀という仕掛けが施されていました。
山中城にはその遺構が今も残されています。
障子堀を見た軍は入ることを躊躇し、容易に小田原城には近づけなかったといいます。

その鉄壁な様子に、秀吉は小田原城を力攻めで落とすことをあきらめます。
そして、小田原攻めの後、秀吉は大坂城に”惣構”や”障子堀”を取り入れています。
それほど堅固だったのです。
しかし、敵が堀を越えてきた場合、領民もたたかわなければなりませんでした。
秀吉が攻めてくる直前に、北条氏直は、町人、商人、職人たちに対し、弓や槍、鉄砲を準備して命令が下り次第忠節を尽くせというお触れを出しています。
領民も重要な戦闘要員だったのです。
北条軍は、街をあげて秀吉軍と戦う覚悟だったのです。
城内には、北条軍と町人らを含めて6,7万人が籠城していたといわれています。
北条はそれだけの人が1,2年食べられるだけの上臈を備蓄していたのです。

しかし、信玄や謙信と籠城戦をした時と、秀吉と戦った時ではかなり状況が違います。
謙信や信玄の兵は農民でした。
その為、戦いの差有為中でも農繁期で国に帰さなければならず、小田原攻めを中断したのです。
秀吉は、信長の影響を受けて早くから兵農分離策を取っていました。
農繁期などを気にせずに戦いに専念できたのです。
北条氏は、ある程度の期間籠城すれば、豊臣軍も撤退していくと考えていました。

長期戦で不可欠なのは、兵糧の確保です。
その重要な任務を任されたのが、豊臣家家臣・長塚長束正家でした。
算術が得意な長束は、秀吉から年貢の管理や太閤検地の実施を任され、後に豊臣政権の五奉行の一人に抜擢される人物です。
長束は、すぐに20万石の米を集め、数千隻の船を使って駿河・清水港に送ります。
そこから陸路で、北条の国境にある沼津まで運び、小田原へ向け進軍してきた諸大名に配給しました。
さらに、長束は黄金1万枚を使って伊勢、尾張、三河、駿河で戦場での荷物運びや工事を担う人手や馬を調達し、小田原近くに送り込みます。
長束の見事な段取りと、秀吉の莫大な資金力により豊臣軍は万全の準備を整えていました。
また秀吉は、長期戦に備え、小田原城下に豪華な屋敷を建設・・・
そこに側室の淀の方や松の丸殿を呼び寄せたり、茶人の千利休まで同行させ度々茶会などを開いたりしていました。
従軍していた諸大名にも屋敷を建てることを許可・・・
中には兵糧の足しにと畑を作るものまでいたといいます。
こうして余裕をもって小田原攻めに臨んだ秀吉でしたが・・・
その後、焦りを見せ始めることになります。

秀吉は、小田原城を完全に包囲する一方で、さらに北条氏を追い詰めるべく関東に点在する北条氏の支城を攻略するよう別動隊に命じていました。
その主力となったのが、加賀・前田利家を総大将とする北国軍です。
利家は、上杉景勝、真田昌幸らを従え北条領へ向け進軍・・・
4月のはじめ・・・上野国に入ると松井田城を包囲します。
しかし、思いのほかてこずり、落城させるのに半月もかかってしまいます。
その後、上野国の城を次々に落としていきましたが、武蔵国で再び立ち往生・・・
鉢形城を落とすのに、またもや半月以上費やしてしまいました。
それを聞いた秀吉はいら立ちます。

「北条の枝城如きさっさと片づけんか!!」by秀吉

しかし、それを受けその後八王子城攻めに臨んだ利家は、味方に1000人以上の犠牲者を出してしまいます。
秀吉が焦っていると漢字っと史家が、強引な力攻めを仕掛けたからです。
小田原城を奉仕てから秀吉の心の中である変化が生まれていました。

この時小田原城攻めに従軍していた大名は、もともと秀吉の家臣ではありませんでした。
大名たちにとって莫大な費用が掛かる小田原城攻めは迷惑だったのです。
秀吉も、このまま長引けば諸大名の戦意が喪失し、そこを北条に狙われたら豊臣軍は瓦解してしまう・・・!!
さらには、北条と同盟関係にある徳川家康が、秀吉殿に反旗を翻すらしい・・・とうわさが流れます。
秀吉軍に不穏な空気が流れ始めていました。
その為秀吉は、これ以上長引くと更なる憶測が流れ、諸大名の士気が低下し、豊臣軍の結束が崩れると焦ったのです。

北条軍は小田原評定を開き、今後の戦略が話し合われていました。
しかし・・・ここでも全く意見がまとまりませんでした。

1590年6月・・・
豊臣秀吉に対し、徹底抗戦を続ける北条氏・・・
籠城する小田原城内では次なる一手をどうするか??軍議が開かれますが、なかなか意見がまとまりません。
一方の秀吉も、小田原城を包囲し2か月が経とうというのに有効な手立てを見いだせず焦り始めていました。

双方手詰まりの中、ある人物が動き出します。
長年北条氏と同盟関係にあった伊達政宗です。
政宗は、秀吉からも味方につくように再三促されていましたが、態度を決めかねていました。
北条に援軍を出すのか??
それとも豊臣につくのか・・・??
まだ24歳の若き当主は悩みに悩みます。
6月5に、小田原にやってきた政宗が向かった先は・・・
秀吉のもとでした。
白装束をまとい、斬られる覚悟で参上した政宗は、秀吉への臣従を誓ったのです。
この政宗の寝返りにより、伊達軍と協力して挟み撃ちにするという北条も目論見は崩れます。
完全に孤立した北条氏は、いよいよ追い込まれていきます。
そんな中、北条氏の支城の中でも堅牢とされていた八王子城に続き韮山城が陥落・・・
氏政の弟で城主・氏規が投降しました。
すかさず秀吉は、降伏した氏規を小田原城内にいた氏直のもとに送ります。
講和に応じるよう説得させ、北条氏にゆさぶりをかけたのです。
すると・・・紛糾していた軍議の空気が変わり始めました。

当初、徹底抗戦を強く主張していた氏政と弟・氏照でしたが、氏照が城主を務めていた八王子城が陥落・・・
氏政と氏照の発言力が弱まり、代わって氏直を中心とする穏健派が優勢となっていきました。
そして6月26日の早朝・・・北条氏に大きな衝撃が走ります。

なんと、小田原城を見下ろす笠懸山に豊臣軍の城が現れたのです。
秀吉は、小田原に到着早々密かに城づくりを進めていました。
しかもそれは、関東にほとんどなかった総石垣づくりの本格的な城でした。
数千人を動員して城を作らせています。
莫大な費用を使い、短期間で城を作り上げたことで、秀吉の圧倒的な力を北条氏に見せつけたのです。

一説には、この城は完成直前まで隠され、一晩で作られたような印象を与えたため、後世「一夜城」と呼ばれました。
豊臣家の絶対的な力を見せつけられた北条氏直は、再三の秀吉の降伏要求に次第になびいていきます。
父・氏政は、未だ戦う姿勢を崩しませんでしたが、家臣たちの士気は明らかに下がっていました。
そして、7月5日、北条氏直・・・投降・・・
ついに小田原城を出るのです。
3か月にわたる籠城もむなしく、関東の覇者北条氏は敗北しました。

こののち、奥羽地方を平定した秀吉は、天下統一を果たします。
これは、かつての主君・織田信長もなしえなかったものです。
北条氏は・・・主戦派だった氏政とその弟・氏規は切腹、投降した氏直は、高野山へと追放されます。
誇り高き北条は、歴史の表舞台から消え去ることとなりました。
そして、天下人となった秀吉は、更なる野望を抱き、朝鮮出兵へと突き進んでいくことになるのです。

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