1575年5月21日、その後の戦国の世を左右する合戦が起きました。
織田信長・羽柴秀吉・徳川家康・・・後の天下人3人がそろって甲斐の虎・武田信玄の跡取りの勝頼と相対した長篠の戦いです。

愛知県新城市にある設楽原・・・今から440年前、長篠の戦いが繰り広げられた場所です。
これを長篠の戦いと呼ぶのは、4キロほど離れた長篠城でも戦いが行われたためです。
3000丁もの鉄砲を有する織田・徳川軍が、当時最強だった武田騎馬軍団を撃破したことから、最新戦法が旧式戦法を打ち破ったとして教科書にも書かれています。
しかし、この戦いには、多くの謎が残されています。
果たして長篠の戦いとは、どのようなものだったのでしょうか?

当時、甲斐国を中心に強大な力を誇っていた武田・・・
これに脅威を感じていた徳川家康と織田信長は同盟を結んでいました。
勝頼は、父・信玄の死後、大きな戦いを控えていましたが・・・3回忌を済ませた1575年4月・・・満を持して隣国・三河を攻めます。
この時、勝頼には勝算がありました。
信長が、強力な勢力で敵対する石山本願寺を攻撃する為に大坂に進軍すると情報が入ったのです。
それならば、三河に援軍を送ることはできないだろうと考えたのです。
勝頼は、三河の本拠地である岡崎城に狙いを定めます。
綿密な計画で、岡崎場内に裏切り者を作り内部から崩そうとしましたが・・・情報が洩れ、失敗!!
次に、家康が入城していた吉田城に狙いを変えます。
勝頼は、場外での野戦を望んでいましたが、家康本体に籠城されてしまいます。
戦が長期化し、兵力の消耗が予想されたため、吉田城攻略も断念!!

そこで、兵を向けたのが、三河国の東の守りの要・長篠城です。
城主は、武田方から徳川方に寝返った奥平信昌でした。
長篠城を守る兵の数は、わずか500でしたが、城は二本の川の合流地点にあり、50mもある断崖にある天然の要害で、攻めるには難しく確実に落とせるか??勝頼は考えます。
5月1日、1万5000の兵で長篠城を包囲!!
城攻めは、攻撃側にとってはリスクの大きな戦法で、孫子の兵法にも城兵の5倍の兵力が必要と書かれています。
勝頼は、それを上回る30倍の兵を集め、圧倒的に有利な状況で長篠城攻略に挑みました。

武田軍は、長篠城を見下ろす医王寺山に本陣を置き、敵の周囲に軍勢を展開させました。
さらに、長篠城への援軍を食い止めるべく、小さな城・付城を築きます。
武田の兵たちは、この付城を拠点にし、竹束や大楯などで敵の攻撃から身を守りながら攻め寄せていきました。
5月13日、武田軍は長篠城の一部である瓢丸に強襲を仕掛けて占拠し、城攻め用の井楼を組み上げ、堀や兵を越えて城内に突撃しようとします。
しかし、城から放たれた大鉄砲により、井楼は大破し、完成を阻止されてしまいます。
そこで武田軍は、狙いを食糧を保管する兵糧村のある二の丸に変えました。

長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権” (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 金子拓 ]
長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権” (シリーズ〈実像に迫る〉) [ 金子拓 ]

長篠城の必死の抵抗は、2週間以上に及び、その間、城の兵たちは陣太鼓を打ち鳴らして士気を鼓舞し続けたといいます。
しかし・・・5月14日、武田軍の猛攻に耐え切れず、二の丸・弾正曲輪を放棄し、本丸のみを残すまでに追い詰められてしまいます。
陥落寸前!!
本当に後詰は来るのか・・・??
不安に駆られた奥平信昌は、城の外に使者を出すことにします。
しかし、城は武田軍に完全に包囲されて、一歩でも外に出れば命がない!!
使者になろうというものはいません。
そんな中、名乗りを上げたのは、奥平家に仕えていた下級武士・鳥居強右衛門でした。
長篠城から50キロ離れた岡崎城へ行き、織田・徳川軍の後詰が来るかどうかを確かめること!!

5月14日深夜・・・夜の闇に紛れて下水溝から長篠城を脱出!!
そのまま、川を泳いでくだり、4キロほど下流で陸にあがりました。
そして、そこから一気に雁峰山を駆け上がると、のろしを上げ、まずは長篠城に脱出成功を知らせました。
強右衛門は、険しい山道を敵に見つからないように、西へ西へとひたすら走りました。
半日経って、ようやく目的地の岡崎城にたどり着きます。
強右衛門が到着した時、岡崎城には、家康だけでなく信長もいました。
長期に及ぶと予想された石山本願寺との戦いを終えていて、家康の要請に応じて入城していたのです。
強右衛門は、早速状況を報告しました。
すると、信長と家康は、長篠城を救援するために出陣することを快諾します。
そして、強右衛門にしばらく休息をするように勧めたのですが・・・
一刻も早く知らせるために、岡崎城を後にし、来た道を急ぎ引き返していきました。
再び50キロの山道を駆け抜け、長篠城の近くまでたどり着いた強右衛門でしたが、城は武田軍に包囲されていて、忍び込むことなど到底出来そうにありません。
周囲で様子をうかがっていた時、武田軍に見張りにつかまってしまいました。

勝頼は、強右衛門を尋問し、織田・徳川軍が長篠にやってくるのを知ります。
そこで、武田家の家臣として降伏することを条件に、援軍は来ないとウソの情報を城に向かって叫ぶように命じます。
強右衛門は、従わざるを得ませんでした。
しかし、援軍が来ないと聞けば、長篠城は抵抗をやめ、武田軍に城を明け渡すことになり、自分のせいで城が落ちてしまう・・・!!
本丸のすぐそばまで連れてこられた強右衛門は、覚悟を決めました。

「信長公・家康公はすでに御出馬された!!
 あと3日、城を持ちこたえよ!!」

この声を聞いた長篠城内の兵からは、歓声が上がったといいます。
これを知った勝頼は激怒し、強右衛門を長篠城から見える場所に磔にして処刑させました。

まさに、命がけで城を救った下級武士・鳥居強右衛門・・・その激走と覚悟によって、長篠城の士気は上がり、援軍到着まで無事に城を守ることができました。


1575年5月15日、信長と家康は、三河・岡崎城を出発し、長篠城へと向かいます。
そして、長篠城の手前4キロのところにある設楽原に布陣しました。
どうして、設楽原だったのでしょうか?
そこには、戦に長けた信長と家康の巧妙な戦術が隠されていました。
この先は、一騎打ちの節所と呼ばれた細い道になっていて、さらに、城に近づいても川を渡る橋が一カ所しかなく、このまま進めば武田軍から狙い撃ちされることは目に見えていました。
もう一つの理由は・・・「信長公記」に書かれています。

”志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候
 敵方へみえざる様に段々に 御人数三万ばかり立て置かる”

信長は、岡と岡との間に大軍を隠したかったのです。
実際に織田徳川軍が布陣した場所を、勝頼軍から見て見れば弾正山という丘が邪魔になって、その背後を見通すことはできません。
信長は、山の後ろに大軍を隠して、武田軍をおびき寄せ、急襲をかけようと設楽原に布陣したとされていますが・・・
雁峰山からは見通せます。
雁峰山の裏に、武田軍の見張りが登ったのは、容易に考えられるので、大軍を隠す以外の目的があったのでは??
それは、武田軍に対して自分たちの兵力が倍以上あるということを見せつけて、戦わずに勝利しようと考えたかもしれません。
この時、織田・徳川連合軍は3万8000・・・
これに対し、武田軍は1万5000で、その兵力の差は、武田軍を動揺させるには十分でした。

設楽原に布陣した織田・徳川軍は、着々と戦の準備をしていきます。
先端をとがらせた木の枝を打ち込んだ逆茂木や土塁を作り、戦国最強と呼ばれた武田騎馬隊の突撃から守るために長さ2キロにわたる馬防柵を設置しました。
これは、3000ともいわれる織田・徳川軍の鉄砲隊の攻撃を活かす狙いがあったためです。

布陣にも、信長の周到な作戦がありました。
連合軍最大の兵力を有していた徳川軍が武田軍を迎え撃ちます。
さらに、信長は、徳川軍の右側には徳川家とゆかりの深い佐久間・水野隊で援護をさせ、左に織田軍鉄砲隊を配置することで鉄壁の布陣を敷いたのです。
長篠城から北に800mほどの場所にある医王寺山に本陣を置いていた武田勝頼は・・・3万8000もの織田・徳川軍の接近を知り、軍議を開いて対応を検討していました。
甲陽軍鑑には、この時、家臣の中から3つの案が出たといいます。

①一時撤退・・・山県昌景
②長篠城攻略の続行・・・馬場信春
③決戦・・・長坂光堅

まさに、三者三様・・・勝頼はどのように考えていたのでしょうか?
手紙には・・・
「敵、手立てのすべを失い、一段逼迫の体に候の条」・・・
織田・徳川軍が設楽原に布陣したのは、手立てを失い行き詰っているからだと考えていたようです。
さらに・・・
「無二に彼の陣へ乗り懸り、信長・家康両敵共、この度本意を達すべき儀、案の内に候」・・・
勝頼が、織田・徳川軍を積極的に攻める意思を持っていたことが分かります。

しかし、長篠城を攻め落とさずに設楽原に向かえば、前後から挟まれる形となって戦況はますます不利となります。
勝頼は決断します。

「設楽原に討って出て、決戦に挑む!!」

どうして戦いに挑んだのでしょうか??
そこには、勝頼の出自が関係していました。
勝頼は、信玄の4男として生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
母が、諏訪頼重の娘で、生まれた勝頼は、諏訪家の当主として育てられていました。
もともと武田家の正当な跡取りではなかったのです。
自分が信玄の正統な後継者であることを示すために・・・認めてもらいたいという願望があったのです。
戦での実績を、家中や周辺大名に誇示するため・・・
勝頼にとって、倒すべき敵は、信長・家康以外に家中にも会ったのです。

1575年5月20日・・・勝頼は、長篠城包囲の軍勢を残して、1万2000の兵を率いて設楽原へと向かいました。
連吾川を挟んで、織田・徳川軍と対峙した武田軍は、信玄台地と呼ばれる丘の上に、13カ所に分かれ陣を敷きました。
翌日・・・21日、午前6時過ぎ・・・
けたたましい太鼓の音を合図に、武田軍は攻撃を仕掛けます。
設楽原を横切って、織田・徳川軍の築いた馬防柵に突撃!!
甲陽軍鑑には、城攻めの如くにして・・・とあり、織田・徳川軍の築いた野戦陣地の堅固さに苦しめられたようです。
鉄壁の守りで挑む織田・徳川軍でしたが、合戦前日にもこの合戦を有利にするための作戦を遂行していました。
徳川家の重臣・酒井忠次に命じて、別動隊を戦場の南から迂回させ、長篠城を囲む武田方の付城を襲撃させていたのです。
これによって、開戦から2時間たった午前8時ごろには、長篠城の包囲網を崩すことに成功!!
退路を断たれた武田軍は、正面の織田・徳川軍への攻撃を強めました。
これを待ち構えていたのが、一説に3000丁ともいわれる鉄砲三段撃ちです。
強力な殺傷能力を持つ鉄砲ですが、当時の火縄銃は、弾込めに時間がかかり連射できませんでした。
弾込めには30秒ほどかかり、その30秒ほどは、騎馬なら時速40キロで340m走ることができました。
弾を込めている間に攻め込まれてしまいます。
そこで、弾込めのロスタイムを無くすために行ったのが三段撃ちです。
そして、鉄砲以外にも弓矢で応戦します。
織田・徳川軍が防御態勢を固める中、武田軍が5回波状攻撃を仕掛けていきますが・・・
そのほとんどが馬防柵を越えることができず、多くの死者が出たといいます。
優勢に立った徳川軍は、時には策の外に出て攻撃を仕掛け、戦は6時間以上に及びました。
次第に、死傷者が増えていく様子を見た勝頼は、遂に撤退を決めます。

朝6時に始まった設楽原の戦いは、8時間後の午後2時、武田軍の敗走により幕を閉じました。
武田軍の敗因は、騎馬による突撃にこだわり、当時最強兵器だった鉄砲を軽視したからだといわれていましたが・・・
信玄の存命中から、武田軍も鉄砲の配備には熱心で、決して軽視していたわけではありませんでした。
さらに、設楽原から発見された弾から、武田軍も織田・徳川軍も性能に差はありませんでした。
では、勝敗を分けたものは・・・??

織田・徳川軍は、鉄砲の弾に使う鉛、火薬を大量に準備することができました。
しかし、武田軍にはそれができなかったのです。
当時、鉄砲の弾の原料となる鉛、塩硝は貴重品で、山国・武田ではなかなか手に入れることができませんでした。
常々、慢性的な不足に悩まされていたのです。
織田信長は、瀬戸内海交易、南蛮貿易の拠点となっている堺を自分の領土にしていました。
堺の商人を通じて、豊富に入手することができました。

通常、戦国の合戦では、鉄砲の撃ち合いから始まり、そこに弓矢が加わってお互いに射撃の展開が行われます。
弾を打ち尽くしたので、騎馬や足軽などを早くに投入しなければならなかったと推測されます。

日本の歴史 長篠の戦い  織田信長と武田騎馬軍団 戦国の合戦 ペーパークラフト ジオラマ 紙模型 家康、秀吉、光秀、風林火山 城郭模型
日本の歴史 長篠の戦い  織田信長と武田騎馬軍団 戦国の合戦 ペーパークラフト ジオラマ 紙模型 家康、秀吉、光秀、風林火山 城郭模型

武田軍が撤退しなかった理由・・・それは、合戦での手柄の戦功基準にあったといわれています。
戦国時代の合戦では、戦場での働きによって褒美や恩賞が定められていました。
一般的には、敵陣に最初に突撃し手柄をあげる一番槍が最も評価が高いのですが・・・
武田家では、”場中の高名”というものが高く評価される習わしがありました。
場中とは、合戦中、敵味方が接近し、激しい矢玉が飛びかう危険な場所のことで、長篠の戦いでは馬防柵のあたりがそうです。
勇猛果敢な武士・・・だからこそ価値があると思われていました。
その結果、武田軍は戦功基準ゆえに前に前に出るものが多くなり、退却することせず、それが、皮肉にも武田軍の戦闘能力を奪うこととなりました。
兵力の消耗が早い戦い方・・・兵の数が相手より多い場合は効果がありますが、設楽原の戦いは、織田・徳川軍3万8000に対し、武田軍は1万2000・・・
三倍以上の開きがあり、場中に飛び込むことは無謀でした。
それでも、手柄を立てるために武将たちは飛び込み、彼等が討ち死にすると戦力は弱まり、武田軍は退却せざるを得なかったのです。

信長・家康軍に果敢に攻め込んだ勝頼軍・・・
そこには、引くに引けない甲州武士としてのプライドがしっかりとありました。
この長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗した武田軍は、多くの重臣たちを失いました。
そして、この戦から7年後・・・勝頼は、再び織田・徳川連合軍に敗れ、自害・・・
武田家は滅亡・・・
そして、天下は信長・家康の手に・・・!!

一説には、長篠の戦いで数千の兵を失ったといわれている武田軍・・・
戦ののち、避難先から帰った村人たちが目にしたのは、そこかしこに横たわる無数の亡骸でした。
勇猛果敢に戦い、散った、遠く甲州の武将たちを、村人たちは丁重に葬ったといいます。
そして、その勇壮な戦いぶりは、時を経て今に至るまで語り継がれています。

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