愛知県北西部にある長久手市・・・リニアモーターカーが走るベッドタウンとしても人気のこの町で、今からおよそ440年前の1584年3月、戦後最大の頭脳戦と言われる戦いが繰り広げられました。
後の天下人秀吉と、徳川家康が激突した小牧・長久手の戦いです。
最初で最後直接対決でした。

織田信長亡き後、天下をわがものにしようとする羽柴秀吉と、信長の次男・信孝とタッグを組んだ徳川家康!!
果たして小牧・長久手の戦いとはどんな戦だったのでしょうか?

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1582年6月、天下統一まであと一歩と迫っていた織田信長と、その長男で織田家の家督を継いでいた信忠が、家臣である明智光秀の謀反によりこの世を去りました。
その後、頭角を現したのが主君の敵・明智光秀を山崎の戦で破った羽柴秀吉でした。
秀吉は、天下統一への野心をたぎらせ、障害となる武将たちを次々と排除していきます。
まず、信長の次男・信雄を味方につけると、信長の三男・信孝と組んだ柴田勝家と激突!!
賤ケ岳の戦いで、勝家を自害に追い込みます。
さらに、敗走した信孝に対し、兄である信勝に切腹を命じさせたのです。
これで、信長の子の中で、秀吉に対抗できる武将は次男・信雄だけでした。

「信雄殿の役目は終わったのう」by秀吉

秀吉は、一転、態度を変え、安土城にいた信勝を追い出すと、信勝の有力家臣であった岡田重孝・浅井長時・津川義冬の三家老を懐柔し、寝返らせます。

信雄は激怒し、遂には秀吉に宣戦布告します。
しかし・・・相手は、明智光秀や柴田勝家を倒した強者・・・しかも、この時秀吉は大坂城を拠点に四方に版図を広げ、すでに20か国を支配下に置いていました。
援軍が必要だと考えた信雄は、ひとりの武将に接近します。
それが、徳川家康でした。
亡き父・信長の盟友であり、同盟者だったからです。

秀吉・家康 たった一度の直接対決・・天下取りの知恵くらべ・・



家康はこの時、新たな領地である信濃と甲斐を加えた5か国130万石の経営に専念。
中央と距離を取り、天下取り争いを静観し続けていました。
それにもかかわらず・・・信勝からの要請を受けたのです。
どうして信勝と組んで秀吉と戦うことにしたのでしょうか??

①自領を守るため

信勝の領地である尾張と接していた家康は、信勝が秀吉に飲み込まれれば常に侵攻の脅威にさらされると恐れました。
その為、家康は領国の支配を盤石なものにしておくために、信雄と手を組んで秀吉と戦うことにしたのです。

②天下取りのため

賤ケ岳の戦いまでは、秀吉と友好関係にあった家康は、自身もまた天下を手に入れようともくろんでいました。
そこで、信雄を立て、織田家を守るという大義名分を手に入れることで、秀吉に対峙し、急速に拡大する勢力に歯止めをかけようとしたのです。

③北条氏との同盟関係

さらに、家康が秀吉と戦う決意をしたのには、北条氏が関係していました。
家康は、小牧・長久手の前年、自分の娘・督姫を北条氏政の嫡男・氏直と政略結婚させていました。
その証として北条氏と同盟を結んでいます。
この北条氏は、伊達政宗とも同盟を結んでいるので、三国同盟が樹立されていました。
強気だったのです。
家康は兵の上では秀吉に圧倒的に劣っていましたが、北条と伊達が味方に付けば秀吉とも対峙できると思っていました。
家康から、北条に援軍を要請していますが、北条氏も他の戦いが忙しくて援軍を送るに至りませんでした。

1584年2月、家康は信雄と同盟を結びます。
そしてすぐに援軍を養成して秀吉包囲網を確立します。
3月になると、信雄は、秀吉と内通した三家老を誅殺しています。
この時、家康は信雄にこう言いました。

「戦は先手を取る必要がある」by家康

3月7日、秀吉と内通していた三家老を信勝に殺害させた翌日、家康は1万3000の主力部隊を率いて浜松城を出発します。
3月13日には、信雄のいる尾張の清州城に入り、秀吉との直接対決に入ります。
そんな中、信雄のもとに驚きの報せが・・・

「池田殿が寝返り、我が方の犬山城を奪いました!!」

寝返った池田恒興は、幼いころから小姓として織田家に仕え、厚い信頼を置いていた重臣でした。
当然、自分につくであろうと思っていたのです。
池田恒興は、秀吉が力をもってきていると判断していました。
得意の懐柔策によって、池田恒興という即戦力を得た秀吉の動きも早く、家康が清州城に入る前、3月8日には恒興とその娘婿である森長可に犬山城と小牧山城を奪うように大坂から命じていました。
これを受け、恒興は犬山城を、長可は小牧山城を攻めることにすると、先に恒興の軍勢が犬山城を攻撃・奪取します。
まさに、家康が清州城に入った3月13日のことでした。
この池田恒興の裏切り行為による犬山城の占拠こそが、小牧・長久手の戦いの始まりでした。
犬山城を奪取されたと知った家康は、

「これで小牧山まで取られては後手に回る」

家康は、小牧山城を狙っていた秀吉の策を見抜いていました。
そこで、すぐさま重臣の酒井忠次を小牧山城に向かわせ守りを固めると、3月15日信勝と共に小牧山城に入り秀吉軍を待ち受けることにしたのです。

対して秀吉方では・・・
恒興が先に犬山城を奪取したことで、森長可が焦っていました。

「急ぎ、小牧山城を落とさねば・・・!!」

功を急いだ長可は、3月16日、小牧山城を奪取する為に援軍となる恒興の軍勢を待たずに単独で出陣してしまいます。
この動きはすぐに家康の知るところとなりました。
家康は、その夜長可の軍勢を討つため、松平家忠、酒井忠次ら5000あまりの兵を向かわせます。
そして、翌3月17日早朝・・・
酒井の軍勢の先鋒が、小牧山城に向かう途中の長可の軍勢に奇襲をかけるのです。
横から松平家忠の鉄砲隊の攻撃を受け、長可は後退・・・しかし、背後にはすでに酒井の別動隊が待ち構えていました。

勝機なしと判断した長可は敗走・・・羽黒での戦いは、信雄・家康連合軍が勝利しました。
そこで家康は、小牧山城周辺に土塁や砦を築かせ、秀吉軍への備えを盤石のものとします。

一方、羽黒での敗北を知った秀吉は、大激怒!!
すぐに大坂を発ち、3月27日、犬山城に入りました。
信雄・家康連合軍1万6000に対して、秀吉軍は10万の大軍勢でした。
数の上では圧倒的に優位だったのです。
さらに秀吉は、家康連合軍同様周囲に土塁や砦を作り、戦に備えます。
その為、両軍攻めあぐね、睨み合い・・・膠着状態が続きました。
総勢11万6000の兵が待機する中、この状況を打破するべく動いた人物がいました。
池田恒興です。
娘婿の失態を取り戻したい一心でした。

「我らに中入りをお許しいただきたい」

これを聞いた秀吉は、ほくそ笑んでいました。

犬山城は、室町時代、織田信長の叔父・信康によって築城された、現存する日本最古の天守です。

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1584年3月13日、天下を狙う羽柴秀吉軍に、信長の次男・信雄と徳川家康の連合軍が対峙した小牧・長久手の戦いは、信雄がたからこの犬山城を奪取したことで秀吉軍優位で始まりました。
しかし、羽黒での戦いで、信雄・家康連合軍が勝利しました。
敗戦の報せに自ら動いた秀吉は、犬山城から信雄・家康連合軍が陣を構える小牧山城に5キロと迫る楽田城日本人を移します。
両軍周囲の守りを固めたため、互いが見える位置に陣を構えたまま膠着状態に・・・。
そんな中、犬山城を奪取した池田恒興が、秀吉にある秘策を持ち掛けます。

「羽黒戦の屈辱を晴らすため、我らに中入りをお許しいただきたい」by恒興

この中入りは、空になった相手の領国を攻撃することです。
この場合は、三河の徳川家康が尾張まで出てきているので、三河・岡崎城を攻めるということです。
この時、恒興は自分の娘婿・森長可の小牧山城奪取の失敗を挽回するため、中入りを願い出たと思われます。

「良いであろう、貴殿らの志、この秀吉しかと受け取った」by秀吉

秀吉は、池田恒興と森長可をおとりにしようと考えたのではないかと思われます。
当然、城を出てくるであろう家康を討ちに行こうと考えたのです。
この策を聞きつけて、大将にしてほしいとはせ参じたのは、三好信吉・・・後の豊臣秀次でした。
秀吉は、軍略に長けた堀秀政を軍師にたてるということを条件に、参陣を許します。
秀吉が池田恒興の策に乗ったのは、甥の信吉が武功をあげるチャンスだと考えたのです。
中入りを許したのは、恒興と長可をおとりにして、家康をおびき出す狙いと、甥の信吉に 武功をあげるチャンスを与えたいといいう思いからだったのです。

1584年4月6日深夜・・・
三好信吉、池田恒興、森長可らは、三河に向け2万ほどの兵を率いて、本陣である楽田城を出発したのです。
秀吉の思惑通り、秀吉の動きは伊賀衆を通じてすぐに家康の耳に入ってきました。

「2万の兵とな!!
 秀吉め、何を考えておる・・・!!
 城攻めか・・・ならば、どこだ??」by家康

おとりとは知らず城から出てしまうのか・・・罠だと気づき残るのか・・・??
別の策があるのか・・・??

8日夜、家康は、榊原康政ら5000の兵を、城から10キロほど南東の小幡城に向かわせます。
さらに家康は、酒井忠次、石川教正、本田忠勝らに城を任せると、およそ9000の兵を率いて出発します。
秀吉の思うつぼ・・・??

1584年4月6日、膠着状態を脱するため、羽柴秀吉は甥の三好信吉を大将に、池田恒興、森長可ら2万ほどの兵を三河中入り隊として出陣させます。
家康はこの動きを伊賀衆から知らされます。
すると、5000の兵を先発隊として、自らも9000の兵を率いて小牧山城から出陣、小幡城に向かいます。

秀吉が思うより早く情報を得た家康は、秀吉が動く前に小幡城に。
そこで、家康は恒興らがここから2キロ北東のところを進んでいると情報を得ると逆に仕掛けます。

「明朝背後から忍び寄る 仕度いたせ」by家康

情報網に長け、敵の動きを素早く知ることのできた家康は、先に奇襲をかけようと考えます。
4月9日午前2時・・・家康軍は小幡城を出発。
この頃秀吉方は・・・第1陣として戦闘を進んでいた池田恒興の軍勢が、進路にある信雄方の岩崎城を襲撃、夜が明けるころ攻略していました。

殿をつとめる総大将・信吉は、その岩崎城から5キロ離れた林の中にいて知らせを聞きます。
すると・・・安堵したのか、兵を休めて悠長に昼食を取り始めたのです。
これが戦の流れを大きく変えることとなりました。

家康はすかさず奇襲をかけます。
油断していた信吉の軍勢は壊滅状態に・・・!!
大将の危機を知った軍師・堀秀政が向かうも、これも家康に読まれていました。
家康は引き返してくる残りの秀吉軍を一網打尽にしようと、長久手・御旗山に有利な陣形を作り待ち構えていたのです。
軍略に長けた秀政も、敗走するしかありませんでした。
そして、同じく引き返して来た恒興と長可は9000の軍勢も、家康軍に取り囲まれてしまったのです。
大きな動きがあったのは、午前10時ごろ、長可の正面突破で長久手の戦いの火蓋が着られました。

両軍、槍や刀を手に駆け回り、大乱戦です。
2万を超える軍勢が、鎬を削る中、先陣を切った森長可が、鉄砲で眉間をうたれ即死。
恒興も、家康に背後から狙われ首を取られてしまいます。

秀吉軍の敗北は、決定的となりました。
そして、午後2時ごろ・・・家康軍は高らかに勝鬨を挙げるのです。

どうして秀吉軍が負けたのでしょうか??
まずは、家康の情報網のすごさです。
敵の動きを十分に察知していました。
そして、秀吉側の軍師・黒田官兵衛が、現場にいなかったことも理由の一つです。
この時、官兵衛は毛利氏との国境画定協議に行き、戦場にいなかったのです。
官兵衛がいれば違ったかもしれません。

さらに、大将を秀吉の甥・三好信吉にしたことも敗因だったのかもしれません。
信吉はこれが初陣でした。
戦経験のない信吉は、岩崎城陥落の報せに油断、家康軍に不意を突かれ、秀吉軍が総崩れとなるきっかけを作ってしまったからです。
長久手の戦いで、秀吉軍が負けてしまったのは、
①家康軍の方が情報量がまさっていたこと
②頼れる軍師・黒田官兵衛がいなかったこと
③初陣の三好信吉を大将にしたこと
が要因だったのです。

本陣である楽田城で苦戦の報せを受けた秀吉は、怒りに震えます。
すぐに出陣するも、時すでに遅し・・・
勝敗は決し、家康の姿もそこにはありませんでした。
長久手の戦いでの敗戦は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀吉に汚点を残したのです。
復讐に燃えた秀吉は、美濃にある信雄方の支城を攻め落とし、尾張の蟹江城も占拠します。
しかし、一進一退の攻防が続き、長期戦の様相が呈してくると・・・

長久手の戦いで黒星を喫した秀吉は、もはや力で徳川家康をねじ伏せるのは難しいと判断、そこで、家康と共に戦う織田信雄に狙いを定めます。

そもそも、小牧・長久手の戦いの発端は、秀吉に圧迫された信雄が、家康に泣きついたからです。
秀吉が事の発端である信雄と和議を結べば、家康が戦う大義名分がなくなるのです。
秀吉は、信雄に単独の講和を申し入れています。
このまま戦が長引いて秀吉軍が苦戦したとなれば、全国の大名に秀吉おそるるに足らずと思われかねません。
そうなれば、秀吉に歯向かうものが現れ、天下統一の妨げになると思ったのです。

1584年9月、秀吉軍は信雄が治める北伊勢に侵攻・・・信雄方の重要な市場である戸木城を攻略しました。
すると信雄は精神的に追い詰められ・・・
11月11日、秀吉を恐れた信雄は、家康に黙って和議の申し入れを受け単独講和を結ぶのです。

秀吉の目論見通り、信雄という大義名分を失った家康は、浜松へと帰っていきました。
こうして、9か月に及んだ小牧・長久手の戦いは局地戦では家康が勝利したものの最終的には秀吉が信雄と講和を結ぶことに成功したことで引き分けに終わりました。

こののち秀吉は、紀州や四国などを平定。
1585年には関白に就任して絶大な権力を握ります。
すると秀吉は、家康に自分のもとに上洛して和議を結ぶように要求します。
しかし、家康はこれを拒否、何度交渉しても首を縦に振りませんでした。
再び家康を攻めると決めた秀吉は、前線基地となる大垣城に新たに兵糧蔵を築くとそこに、5,000俵あまりの兵糧を運ぶなど戦の準備を開始。
さらに、家康の右腕で豊臣家との交渉を担当していた石川教正に近づくと10万石の所領を餌に寝返らせたのです。
実質N0,2だった石川教正が秀吉側に転じたことで、徳川家滅亡の可能性がありました。
上洛して秀吉と和議を結び傘下に入るか、再び一戦交えるか・・・
徳川家の存亡をかけた決断が迫られた家康の元に、秀吉の使者が岡崎城にやってきます。
すすと家康は・・・

「わしは秀吉殿の家来ではない
 何故、指図を受けねばならぬのだ
 よって、秀吉殿のもとへ上洛する気など毛頭ない!」

「上洛せねば、関白殿下は大軍をもって攻めますぞ!!」

家康はひるむことなく・・・

「わしが、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国の兵力を集めれば、三万、四万は集まる
 潔く一戦交えようではないか!!」by家康

しかし本心は・・・

「わしが小牧・長久手で、多くの羽柴方の武将を討ち、秀吉殿は怒っていることだろうよ
 上洛?
 何をバカな、上洛して殺されでもしたらたまらぬではないか」by家康

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1585年11月、徳川家康を討つべく盤石の準備を整えていた羽柴秀吉は、こう宣言します。

「明くる年、正月十五日までには出陣し、家康を討つ!!」

対して家康は・・・??
右腕だった石川教正が秀吉に寝返ったことで、徳川家の情報が敵方に筒抜けとなり、このまま戦えば負けるのは必至・・・徳川家存続は今や風前の灯火でした。

ところが・・・11月29日夜・・・
中部・東海・北陸と、広範囲に及びM8、最大震度6の天正大地震が起こります。
この時、近江国大津に滞在していた秀吉は、最も安全とみられた大坂城に避難します。
事なきを得るも衝撃的な・・・大垣城全壊!!
大垣城は、家康討伐のための前線基地として兵糧蔵を置いていた城です。
前線基地が崩壊した秀吉は、家康討伐どころではなくなってしまったのです。

この天正大地震が起きたのは、家康が岡崎で秀吉の使者と交渉した翌日のことでした。
家康は、秀吉と一戦交えると腹をくくり、援軍を要請する書状を北条氏らに書き送るなど戦の準備に追われていました。
そんな中、大地震が起きたのです。
この地震がなければ、家康は秀吉の軍の総攻撃を受けていたと思われます。
家康は、天正大地震によって徳川家滅亡の窮地を逃れたのです。

風前の灯火だった家康・・・なんという強運の持ち主!!
こののち秀吉は、家康討伐を中止し、双方若い路線に転じます。

「もはやわしは五畿内・中国・北国まで支配下に置いた
 家康とて、わしに本気で勝てるとは思ってはおるまい
 妹の旭姫を家康の妻にやり、婿入りの挨拶にことよせて上洛させよう」by秀吉

家康も、旭姫を娶り、秀吉と講和をします。
しかし、秀吉は長久手の戦いで敗戦したこともあり、家康を厚遇せざるをえなくなります。
これが豊臣家崩壊へとつながるとは夢にも思わず・・・

江戸時代後期の歴史家・頼山陽の「日本外史」にはこう書かれています。

”家康が天下を取るは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にある”

まさに、この言葉通り、2人の唯一の直接対決となった小牧・長久手の戦いこそが天下分け目の戦いと言えるのかもしれません。

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