地中海に面した港町チュニジア・チュニス・・・
海を見下ろす丘には古代カルタゴの遺跡が・・・紀元前カルタゴは、海運と貿易の国家として地中海に一大勢力を築いていました。
対岸のローマは、地中海の派遣をめぐり100年戦い続けた宿敵です。
総数100万と言われるローマ軍を少ない兵力でことごとく破ったハンニバル・バルカ。
ハンニバルのもとには、カルタゴ以外から様々な地方や民族の傭兵が参加していた寄せ集めの軍隊でした。
そんな彼らをハンニバルは結束を固めて最強の軍団にしていきます。

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紀元前218年、カルタゴはローマに戦いを挑みました。
将軍ハンニバルは、ローマに進軍を開始、しかし、それは前代未聞のルートでした。
10万の兵と、アフリカで調達した象を従えてアルプス山脈を越える道です。
ハンニバルは、どうしてアルプスを越えることができたのでしょうか?

スペイン南部の町・カルタヘラ・・・今から2300年前は、カルタゴの植民地カルタゴ・ノヴァでした。
ハンニバルは、ここから宿敵ローマのあるイタリア半島へ進軍します。
ローマの歴史書によると、この時ハンニバルは兵士を前にこう叫びました。

「今や目指すのは、世界の首都ローマである!!」byハンニバル

紀元前218年5月、ハンニバルは10万2000の兵士と北アフリカから調達した37頭の象を率いて、カルタゴ・ノヴァを出陣しました。
考えられるルートは2つ・・・海のルートと陸のルートです。
大軍と象を運ぶには、船で海を行くのが一番だ・・・しかし、イタリア半島にたどり着くにはローマと同盟を結ぶ島々を攻略しなくてはならない・・・!!
陸路はもっと大変で・・・ローマの同盟年を避けるため、標高2000メートル級のピレネー山脈と、3000メートルを超すアルプス山脈を通らなければならなかったのです。
そこでローマは、陸路は非現実的と判断し、カルタゴ軍は海から来るとして大軍を増強し待ち構えていました。

しかし、ハンニバルが選んだのは、陸上ルートでした。
紀元前218年8月、ピレネー山脈に到着。
ここまでの間に、すでに脱落し、故郷に帰ってしまう兵士が大勢いました。
しかし、ハンニバルは、彼等に罰を与えたり非難することなく戻るのを許しました。
8月、ピレネーを越えた一行は、ガリア地方・・・現在のフランスに入りました。
兵数は、5万9000!!出発時の半分になっていました。
こうしたハンニバルの動きは、ローマに報告されていました。
しかし、まさかローマまでは来ないだろうと誰もが思っていたのです。
9月、ハンニバルたちの前に立ちはだかったのは、フランスを代表する大河・・・ローヌ川です。
流れが速く、川幅は最大500mにもなります。
象もいる大軍・・・どうやって渡ったのでしょうか??
ハンニバルは、部下に巨大ないかだを作らせます。
出来たいかだに象と兵士を乗せて渡ったといいます。
全軍が渡り終えたとき、全軍は4万6000人になっていました。
1万人以上が川に流されたのです。
このことを知ったローマ執政官スキピオは、さすがに危機感を抱きます。
彼は、ローマ軍を率いて現地に到着するとすでにハンニバルは去った後でした。

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一方、ハンニバル軍は、ガリア地方の縄張りを進んでいました。
ガリア人とは森で暮らす民です。
部落ごとにまとまって狩りなどを行い、ローマも手を焼いていました。
ハンニバルは、ガリア人との戦いは、極力避けました。
出会った部族の長に、こう説明したといいます。

「ガリアに来たのは敵としてではない
 私たちに危害を加えない限り、剣を抜くことはないだろう」byハンニバル

ハンニバルは、ガリア人に目的はローマであるといって金品を渡し、協定を結びました。
ハンニバルは、軍に加わりたいというガリア人は歓迎し、あくまで抵抗するものは武力で屈服させました。

紀元前218年9月、遂にアルプスのふもとに到着。
すでに山には寒風が吹き荒れ、冬を迎えようとしていました。
こんな季節に3000mの山越えなどできるのか??誰もが怖気づきました。
この時ハンニバルはこう叫びました。

「諸君にとってアルプスは、高い山以外の何だというのだ?
 地上のどこにも天まで達する場所はない
 人類が越えられないところなどない!!」byハンニバル

ハンニバルの自信満々の口ぶりには、裏付けがありました。
行軍をする数か月前、先遣隊を派遣して、アルプス越えのルートを調べさせていました。
この時ハンニバルはどこを通ったのでしょうか??
2000年以上分からなかったこの謎に迫る事実が2016年に発見されました。

フランスとイタリアの国境に位置するトラベルセッテ峠・・・
2016年、標高3000m近い近峠付近で、軍馬のふんと思われるものが見つかりました。
分析の結果、紀元前2世紀の頃のものだと判明します。
歴史書を裏付ける発見として注目されています。

3000m級の山を越える過酷な行軍・・・寒さや疲れが兵士を襲います。
狭い山道や崖では、象や兵士が転落しました。
そうした中で、ハンニバルは兵士と共に凍ったパンを食べました。
時には、自ら見張りに立つこともあったといいます。

「諸君が乗り越えようとしているのは、イタリアだけでなく、ローマの壁なのだ
 一度、あるいは二度も戦えば、諸君はイタリアの首都を手にするだろう」byハンニバル

ハンニバル軍は、ハンニバルの部下に加え、同盟国や征服地から調達した寄せ集めの傭兵集団でした。
彼等とハンニバルは、厳しい行軍をおこなうことで、強い絆で結ばれ、精鋭部隊になっていくのです。

15日後、ハンニバルはついにアルプスを越えました。
この山越えで30頭いた象はわずか3頭に・・・4万6000の兵士は、2万6000人に減っていました。
出発した時の1/4の兵力でした。
イタリア半島の付け根・ティキヌス川のほとり・・・現在のとりののあたりに到着したハンニバル軍・・・。
ここでハンニバルは、意外なことを命じました。
2人の捕虜を決闘させ、勝った方には自由と馬と武器を与えるとしたのです。
決着がついたとき、見ていた兵を前にハンニバルは、

「兵士たちよ、諸君は勝か、さもなければ死なねばならない
 イタリアであれ、アフリカであれ、ヒスパニアであれ、各人の望むところに土地を与えよう
 しかも土地を得た者とその子は、税を免除しよう
 土地よりも、金銭を望む者には満足ゆくまで与えよう
 カルタゴ市民になりたいと願うなら、その機会を作ろう」byハンニバル

ハンニバル29歳・・・ローマとの戦いは目前に迫っていました。

ハンニバルが戦いを挑んだ共和制ローマ・・・
紀元前3世紀にイタリア半島を統一すると、各地の都市を次々とローマ同盟に組み込んで、地中海に勢力拡大し、君臨していました。
ローマが動員できる兵力は実に100万を越えていたといいます。
カルタゴは、商人や貴族からなる議会が国を動かし、将軍もその統制下でした。
しかし、ハンニバルは、独断で戦争をはじめてしまいました。
ハンニバルは、どうしてローマに挑んだのでしょうか??

”この戦いを主導したのは、憎悪であった”

ハンニバルのローマへの憎悪は、子供の頃に植え付けられました。
カルタゴは、現在のチュニジア沿岸に存在した海洋貿易国家でした。
造船技術や航海術で他国を圧倒し、地中海をわがものとしていました。

紀元前247年、ハンニバル=バルカは、カルタゴで生まれます。
バルカ家は、代々エリート軍人で、父・ハミルカル・バルカはカルタゴ軍を率いる将軍の一人で、ハンニバルは長男でした。
ハンニバルには2人の弟と姉妹もいたようですが、詳細は不明・・・
幼いころから気性が激しかったといわれています。
幼いころから帝王学を学んだハンニバル・・・ギリシャ人の家庭教師がつき、母国のポエニ語だけでなく、ギリシャ語やローマのラテン語も話せたといいます。
しかし・・・紀元前240年、6歳の時・・・第1次ポエニ戦争・・・地中海の覇権をローマと争った戦争で、敗北し、カルタゴはシチリアと東地中海を奪われてしまいました。
カルタゴの将軍として敗戦の責任を負ったのが、父・ハミルカルでした。
ハミルカルは、ローマに奪われた領地の代わりに、今のスペインのあるイベリア半島の征服を命じられます。
この時、9歳のハンニバルは父に同行することを願い出ます。
父は、神殿の祭壇にハンニバルをつれていき、生贄に手を置いてこう誓わせます。

「私はローマ国民の敵になる」byハンニバル

父と共にイベリア半島に渡ったハンニバル・・・父は、植民都市カルタゴ・ノヴァを建設。
イベリア半島征服を着々と進めました。
しかし、ハンニバルが18歳の時、戦いのさ中ハンニバルたちをかばって父・ハミルカル戦死。
その8年後の紀元前221年、26歳の時、ハンニバルは、バルカ家の長男としてイベリア遠征軍の司令官を継ぐことになります。
ところが、ハンニバルが行ったのは、イベリア征服ではなく・・・今のバルセロナの近くにあったローマの同盟都市サグントゥムを包囲、実質的にローマに宣戦布告しました。
怒ったローマは、カルタゴ本国にハンニバルを戦争犯罪人として引き渡しを要求します。
しかし、カルタゴ政府はこれを拒否、ハンニバルの行動を市民たちが熱狂的に支持したからです。
ハンニバルは強引な攻撃を避け、8か月をかけてじわじわと敵を降伏に追い込んでいきます。
ローマの宣戦布告を引き出すという以上に、自分の兵力を温存させないと次の戦いに向かえない・・・!!

紀元前218年、第2次ポエニ戦争開戦!!
ローマがカルタゴに宣戦布告!!
ハンニバルこの時28歳!!

苦しい行軍の末、2万6000の精鋭を率いてイタリアに到着したハンニバル・・・
両軍が総力を挙げてぶつかったカンナエの戦いでは、ハンニバルはローマ軍をせん滅!!
歴史的な名戦術として、今なお世界中の軍で称賛されています。
ハンニバルは、どうやってローマ軍を破ったのでしょうか??

紀元前218年10月、ハンニバルがアルプスを越えたというニュースはローマに衝撃を与えました。
しかし、ローマ軍の指揮官コルネリウス・スキピオは、恐るるに足らずといいました。

「敵の手足は凍傷にかかり、寒さで体は動かない
 武器は使い物にならず、馬は足を引きずり死にかけている!!」byスキピオ

コルネリウス・スキピオは、アルプスを越えたばかりのハンニバル軍と激突!!
しかし、あっという間に撃破され、コルネリウスは深手を負いました。
コルネリウスは、ハンニバル軍に取り囲まれるものの、17歳の息子に救出され九死に一生を得て敗走!!
これを見て周辺に住むガリア人が次々とハンニバル軍に加わります。
その数6000以上!!
彼等は、土地をめぐり長年ローマと抗争していた人たちでした。
その後も、ハンニバルが勝つたびに現地の人々が加わり、軍勢は膨れ上がっていきました。
12月、ガリア人が加わったハンニバル軍は現在のジェノバ近くまで進軍。
一方、数に勝るローマ軍は川を挟んだ対岸に強固な陣地を作り、進軍を阻もうとしました。
そこでハンニバルは、ローマ軍を陣からおびき寄せるため一計を案じます。

早朝に奇襲をかけます。
ローマ軍の陣地の前で、指揮官を大声で嘲り笑ったのです。
ローマ軍の指揮官は激怒、

「敵を追撃しろ!!」

たたき起こされた兵士たち・・・戦う準備もできていないまま無理やり出陣します。
その時、ハンニバルが潜ませていた1万1000の兵が、背後から襲い掛かったのです。
ローマ軍は2万人が戦死・・・ハンニバル軍の戦士のほとんどは、ガリア人だったといいます。
勝利したハンニバルは、捕らえた兵を尋問し、ローマ市民と同盟市民に分けます。
ローマ市民兵の捕虜は食事も与えず重労働・・・そして処刑。
ローマと同盟国の市民兵は、食事と贈り物を与えて解放しました。
故郷の人々にローマに反旗を翻すよう説得しろと命じたのです。

「多くの支援者と有力市民を連れて戻ってこい」byハンニバル

大きな戦略は、同盟国家、同盟都市をローマから離反させるということでした。
ローマそのものは、同盟都市をあわせて100万近い兵力を持っていました。
同盟都市を解体していけば、ローマが持つ兵力は少なくなる・・・!!
同盟都市が親カルタゴになれば、ローマはハンニバルの軍門に下るのです。

2度の大敗を喫したローマ・・・
元老院は、新たな指揮官を選出し、現在のフィレンツェの近くに布陣!!
ハンニバル軍は南下を続け、紀元前217年6月、ローマ軍のそばまでくるとローマの同盟都市を次々と襲い、これ見よがしに略奪しました。
これを見たローマ軍は、同盟都市を救おうと進軍!!
いつしか大きな湖のほとりまで誘い出されます。
早朝・・・ローマ軍は湖のほとりの霧がかかった細い道に進んでいきました。
すると・・・ハンニバルの伏兵が現れ、三方からローマ軍に襲い掛かります。
ローマ兵戦死者17,000人・・・一方、ハンニバル軍は精鋭はほとんど無傷でガリア人1500人でした。
またしてもハンニバルの完勝でした。
その後、ローマはハンニバルと正面から戦うことを避け、大軍で囲って封じ込める作戦に出ました。
しかし、ここでもハンニバルの作戦が冴えわたります。
作戦の要は2000頭の牛!!
夜・・・牛の角に松明をつけ、暗闇の中ローマ軍に突進させます。
ローマ軍はハンニバルが大軍で襲ってきたと驚き、パニックに陥りました。
その間に、ハンニバル軍は悠々と包囲を突破しました。
紀元前216年、ハンニバルはイタリア南部に進軍・・・首都ローマを射程圏内に・・・!!

ところが、ハンニバルはなぜかローマを攻めずに南へ・・・!!
兵糧の確保・・・??
補給線確保のために、港を狙い南下するハンニバル軍!!
一方、ローマの元老院は、非常事態としてファビウス・マクシムスにローマ軍の全権を与えました。
ファビウスがハンニバルを討つために選んだ場所は、平原が広がるカンナエでした。
紀州の恐れがなく、全軍がぶつかる会戦は、ローマ軍が得意としていました。
ローマ軍8万7000人、ハンニバル軍、ガリア人傭兵をあわせて5万!!
数の上では、ローマ軍圧倒手優位!!
紀元前216年8月・・・戦いが始まります。
すると・・・ハンニバルは自ら前線の中央に出陣、ローマ軍はハンニバルを倒せば勝てると踏んで中央に殺到しました。
ローマ軍がハンニバル軍を押します。
すでに味方の戦死は1700人!!
しかし、それはハンニバルが自らをおとりに使った罠だったのです。
こうして敵を中央に引き寄せたところで、左右に配置した騎兵が背後に回り、ローマ軍を包囲します。
いつの間にかローマの大軍はハンニバル軍に包囲され、退路を断たれてしまったのです。
闘いはわずか1日で終わりました。
ローマ軍の戦死者・捕虜は、5万~7万人!!
ハンニバル軍の戦死者は、5000人とされています。
この決戦を制して、ローマを壊滅一歩手前まで追い詰めたハンニバル!!
この時、31歳でした。

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ローマ軍に連戦連勝したハンニバル・・・
ところが、その14年後、ハンニバルはローマに屈服することになります。
どうしてローマに負けたのか??
カンナエの戦いでローマに勝利したハンニバル・・・この勢いのままローマに進軍するべきだという者がいました。
しかし、ハンニバルはなぜかそうしませんでした。

今、ローマを攻めても負ける可能性が高い・・・??
早急にローマを攻めてしまっては、自分たちの犠牲も大きい・・・!!
自分が連れてきた信頼できる兵力を減らさないことが一番大事でした。
イタリア半島の踵のあたりに位置するタレントゥム・・・ハンニバルはこの港町を標的にします。
本国カルタゴから物資の補給を受けるために港が必要だったからです。
しかし、敵の抵抗は思いのほか強く、ハンニバルは6年以上足止めされてしまいます。
その間、ローマでは打倒ハンニバルを胸に、着々と準備を進めている男がいました。
ローマ将軍スキピオ・アフリカヌス・25歳です。
8年前、イタリア北部でハンニバルと戦ったコルネリウス・スキピオの息子でした。
負傷した父を救いだした勇敢な青年は、復讐に燃えていました。
これまでの戦いを徹底的に研究したスキピオは、ハンニバルが率いていないカルタゴ軍は弱いことに気付きます。
そこで、紀元前204年、イタリアにいたハンニバル軍ではなく、カルタゴ本国のある北アフリカに進軍!!
ハンニバルのいない首都の守りは弱く、スキピオは難なく落としてしまいました。
壊滅的な打撃を受けたカルタゴ本国は、ローマの休戦交渉の為ハンニバルをイタリアから呼び戻します。
この時、ハンニバル44歳、スキピオ32歳!!
歴史書にはこんなやり取りが・・・

「最も幸福な選択は、ローマがイタリアより外へは手を伸ばさず、カルタゴがアフリカの外に出て行かないことだったろう」byハンニバル

「この戦争を始めたのは、ローマではなくカルタゴだったことは、ハンニバルよ、あなたが誰より知っている事実だ」byスキピオ

交渉は決裂しました。
紀元前202年、北アフリカのザマ・・・ハンニバル率いるカルタゴと、スキピオ率いるローマ軍は激突します。
兵の数ではハンニバル軍は1万ほど多い・・・しかもハンニバルは、得意の象を80頭配置していました。
戦いが始まると、ハンニバル軍は早速象を先頭にローマ軍に突進!!
ところが・・・ローマ軍は一斉によけて象の通り道を開けました。
象はそのまま突進を続け、ローマ兵を倒すことなく反対に走り去ります。
当てが外れて戸惑うハンニバル軍・・・そのすきをついてスキピオは騎兵隊を動かし、包囲!!
この陣形は、かつてカンナエの戦いでハンニバルが使った戦術でした。
14年越しの倍返しでした。
ハンニバル軍は壊滅!!
ハンニバルは逃亡!!
第2次ポエニ戦争は、こうして集結しました。
ローマは敗れたカルタゴを、同盟国として傘下におさめ、巨額の賠償金を課しました。
その後、カルタゴに戻ったハンニバルは、国民の支持で行政長官となり、カルタゴの再建を任されました。
ローマに制海権を奪われたため、ハンニバルは貿易以外を柱として農地改革を勧めます。
様々な改革の結果、8年足らずでローマへの賠償金を支払います。
しかし、ハンニバルの独裁的で急激な改革は、大衆には支持されましたが、カルタゴの貴族には恨みを買ってしまったのです。

紀元前195年、暗殺の危険を感じたハンニバルは、祖国カルタゴからシリアに亡命。
クレタ島や、黒海沿岸を転々とするハンニバル・・・ローマは危険人物として執拗に追いかけました。
小アジアのビテュニアに匿われていた時、ビテュニアを破ったローマがハンニバルの引き渡しを要求しました。

「ローマ人の苦悩を取り除いてやろうではないか
 このにっくき老人の死が、待てないようだから」byハンニバル

紀元前183年、ハンニバルは毒を煽り、自ら命を絶ちました。
カルタゴを離れて12年、63歳でした。
その死から37年後の紀元前146年、地中海の宝石と言われたカルタゴは、17日間で首都を焼き尽くされ・・・滅亡しました。

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