1867年10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。
大政奉還です。
これにより、およそ260年続いた江戸幕府が終焉・・・
その後、新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで激突!!
朝敵とされた慶喜は、謹慎の身となります。
遠くフランスでこの報せを聞いた男がいました。
後に銀行や鉄道会社など様々な企業の設立の携わる日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一です。
渋沢にとって慶喜は、一橋家当主の頃から仕えてきた主君でした。
水戸徳川家に生まれ、最後の将軍として激動の人生を送ってきた慶喜は、その第二の人生をどう過ごしたのでしょうか?

幕末の天才 徳川慶喜の孤独?平和な「議会の時代」を目指した文治路線の挫折

新品価格
¥880から
(2021/10/3 11:47時点)



政治についての発言をしなかった慶喜が、自宅に招き入れ、やがて自らの人生を語った人物が・・・渋沢栄一です。
渋沢は、慶喜が最も信頼した人物であり、明治維新以降の慶喜の最大の理解者でした。

江戸が東京に変わり、明治へと改元された2か月後の1868年11月。
将軍慶喜の名代としてパリ万国博博覧会に派遣され、そのまま留学していた慶喜の弟・徳川昭武とこれに随行していた渋沢栄一たちが、ヨーロッパ各国を歴訪後帰国しました。
しかし、日本は混乱の中・・・
いまだ、新政府軍と旧幕府軍との内戦が、東北地方を中心に続いていました。
渋沢がすぐさま向かったのが駿府・・・主君であった徳川慶喜がいたからです。

恭順の意を示し、水戸で謹慎していた慶喜は、1868年7月、50人ほどの従者を連れて、駿府にある徳川家の菩提寺・宝台院にうつっていたのです。
その暮らしぶりに渋沢は驚きます。
6畳ほどの薄暗い部屋で・・・座布団も引かずにひどく汚れた畳の上にじかにお座りに・・・
将軍時代とは雲泥の差でした。
大政奉還後、官位を剥奪され、徳川宗家の所領は、かつての1/10ほどの駿河府中藩(のちの静岡藩)の70万石
に削られ、一大名に格下げ・・・
当主は、田安徳川家から養子に入った6歳の家達でした。
慶喜は、その家族の一員・・・養父として宗家の席に置かれることとなり、家達の家禄の中から分けてもらったお金で暮らしていました。

慶喜が、渋沢に対してこの時大政奉還をはじめとした政治的発言を拒んだ理由は・・・??
戊辰戦争のさ中、慶喜の動向次第で事態が大きく変わると考えた新政府側が、慶喜を監視していました。
自らを律し、質素な生活に身を置く慶喜。。。
そんな慶喜をそばで支えたいと、家族を連れて駿府に移り住んだ渋沢。
そして、フランスで学んだ経営学を活かし、日本初の株式会社「商法会所」を設立。
駿河府中藩の財政を任されるとともに、徳川家の金銭面のやりくりに奔走するのです。

1869年9月・・・慶喜の謹慎が突然解かれます。
そこには、新政府の思惑がありました。
1869年5月、箱館五稜郭に立てこもっていた榎本武揚率いる旧幕府軍がついに降伏・・・戊辰戦争がようやく終結します。
こうして内戦を終わらせた新政府軍でしたが、新たな問題が浮上します。
全国での政治、外国との交渉・・・新しい政府を支えるだけの人材が圧倒的に不足していました。
旧幕臣たちは、主君である慶喜への忠誠心がまだあったのです。
行政を円滑に進めるため、旧幕府側の実務に長けた人物を取り込みたいと考えていた新政府は、彼らのかつての主君である慶喜を蔑ろにしたままでは協力を得られないと考え、慶喜の謹慎を解いたのです。
この時、新政府が欲した旧幕府側の有望な人材の一人が、経済に通じていた渋沢栄一でした。

「慶喜公に対して、朝廷の政府に仕官することは、二君に仕える要で心苦しい限りでした」

しかし、渋沢が新政府への出仕を断わると、慶喜が有能な人材を隠匿していると疑われると説得されたため、民部省租税正として新政府に加わることに・・・。
一方、謹慎が解かれた慶喜は、江戸時代に代官が暮らしていた屋敷にうつり、東京から呼び寄せた正室・美賀子と、2人の側室と共に暮らし始めました。
その後、2人の側室との間に10男11女が授かりますが、慶喜の子育ては独特でした。

庶民の家に里子に出しました。
それは、里子に出す方が元気に育つと思ったからです。
どんな環境に置かれても逞しく育ってほしい・・・激動の半生から得た教訓でした。
こうして謹慎が解けた慶喜は、代わらず政治的な言動は避け、基本的には静岡でひっそりと暮らすのです。

運命の将軍 徳川慶喜 ? 敗者の明治維新

新品価格
¥1,650から
(2021/10/3 11:48時点)


そんな中、新しい時代の波が慶喜に・・・
1871年7月、これまでの藩を廃止し、新たに県を置く廃藩置県が強行されたのです。
県知事という新たな役職には、新政府から役人が派遣されることとなり、静岡藩を治めていた家達は、華族の地位と家禄を保障され、東京に住むこととなったのです。

静岡に残された慶喜の生活費は、徳川宗家・家達からの送金によって賄われました。
ただし、毎月決まって送金されたわけではなく、数カ月おきに2千円(現在の価値・4千万円)ほどが為替で送金されたといいます。
それでも相当数の従者を抱えていた慶喜家の家計は逼迫・・・これを助けたのが渋沢でした。
慶喜の持ち金を、株に投資して増やすなどしたといいます。

1872年、慶喜は従四位に叙されました。
名誉を回復しつつあった慶喜・・・
1880年、将軍時代と同じ正二位に、さらに東京徳川宗家からの送金も、毎月千円と増え、暮らしも安定していきます。
そんな中、慶喜は周囲の者たちから東京にのぼり帝に叙位のお礼に参られてはいかがか・・・と進言されます。
しかし、慶喜は
「朝敵となった私が、帝にお目にかかるなど恐れ多いこと」
そう言って、明治天皇との謁見をかたくなに拒み、静岡でひっそりと暮らし続けるのです。

そして、見つけた生きる道が・・・趣味人。
最初に没頭したのが油絵です。
西洋の絵葉書を見ながら、風景画を描いていたといいます。
その後、釣りや弓術、狩猟など、慶喜の趣味は多岐にわたりました。
好奇心が強く、新しいものに目がなかった慶喜は、当時1台300円もする自転車をわざわざ東京から取り寄せ、運動のためにと市中を走っていたとか・・・。
その姿を見た人々は、慶喜を”けいきさま”とよんで親しんだといいます。
どうして慶喜は趣味に生きる道を選んだのでしょうか??
ひとつは、趣味に没頭している方が新政府からあらぬ疑いをかけられない・・・
もうひとつは、助かった命・・・趣味に没頭できる今の状況をありがたいと実感していたのです。

命あることの喜びをかみしめながら、趣味に没頭していった慶喜・・・
将軍時代に味わうことのなかった平穏な日々が過ぎていき・・・49歳になった慶喜に、更なる嬉しい知らせが届きます。
将軍時代より上の従一位に叙せられたのです。
しかし、名誉回復が実現していく中で、度重なる不幸にも見舞われました。
1893年1月26日、母・吉子重篤・・・慶喜は、急いで上京するも、間に合いませんでした。
9月には長女鏡子が20歳の若さでこの世を去り、翌年には妻・美賀子が帰らぬ人となりました。

ビリヤード、蓄音機、珈琲・・・

家族を失った悲しみを癒してくれた趣味の中で、慶喜が最ものめりこんだのが写真でした。
慶喜は、旧幕臣で写真師だった徳田孝吉を自宅に呼び、本格的な撮影技術を学ぶのです。
当時、まだフィルムはなく、板ガラスを取りつけ30分以内に撮影・・・現像処理も30分以内に行わなければならず、度々失敗していたとか・・・
しかし、自ら薬品を買ってきて配合し、現像するほど熱中しました。

「難しいからやめられないのだ」

写真三昧の生活を送る慶喜・・・

その様子を見ていた渋沢は後にこう語っています。

「写真を研究しては、徹夜されることもしばしばで、にわかに上達され、静岡の風光明媚な場所はおおむね慶喜公のレンズに収められました。
人物の撮影も深く極められ、取られた写真を良く一族の方に分け与えておられました。
慶喜が残した写真からは、穏やかさと優しさが伝わってきます。

東京・北区にある渋沢資料館・・・ここに、渋沢栄一が25年もの歳月をかけ作り上げたものが保管されています。
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が日本のために果たした役割を克明に記した「徳川慶喜公伝」です。
渋沢は、常々こう言っていました。

「徳川慶喜公の御伝記の完全なものを、私が終生の事業として作り上げたい
 この御伝記編纂が、私に対する天の使命である」

その強い思いには理由がありました。

幕末、武蔵国の血洗村(現・深谷市)の豪農の家に生まれた渋沢は、当時の血気盛んな若者同様に尊王攘夷思想に傾倒。
江戸に出ると、幕府の腐敗をどうにかせねばという思いを強くし、1863年討幕のクーデターを企てる者の失敗。
幕府に追われることを恐れ、京都に逃げます。
そこで、縁あって渋沢を武士として救ってくれたのが当時、御所を警護する禁裏御守衛総督の慶喜でした。
その時のことを晩年こう振り返っています。

一橋徳川家の仕官したことで、私は命拾いしました
危うかった自分を救ってくれた慶喜公に対し、どうして強い恩義を感じずにいられますでしょうか

慶喜への恩を少しでも返したい・・・そう思っていた渋沢は、1893年、幕臣時代からの旧友である福地源一郎の協力を得て、慶喜の伝記編纂を企画します。
しかし・・・

「世間に知られるのは好ましくない」by慶喜

慶喜本人に拒絶されてしまいます。
それでも渋沢は、諦めずに慶喜を説得。

「慶喜公の存命中は、絶対に公表いたしません
 しかし、伝記編纂は今から始めておかないと、失われてしまう史料もあります
 ですから、直ちに作業を開始いたします
 さもないと、真相が明らかにならぬまま、後世に誤った事実が伝えられる恐れがあります」

流石の慶喜公も折れ、死後、相当期間を置いてから出版するのなら・・・と承諾してもらいました。
しかしまた問題が・・・福地が代議士となり多忙になったことで作業は滞ってしまいます。
その後、福地は病で亡くなり、編纂作業は暗礁に乗り上げてしまうのです。
しかし、その間に、慶喜の状況もまた大きく変わっていました。

1897年11月、長く中央から距離を置いていた慶喜が東京に移り住むことを決めます。
この時、60歳・・・
どうして慶喜は東京移住を決めたのでしょうか??

司馬遼太郎原作・本木雅弘主演 大河ドラマ 徳川慶喜 完全版 第壱集 DVD-BOX 全7枚セット【NHKスクエア限定商品】

新品価格
¥16,190から
(2021/10/3 11:48時点)



渋沢が残した伝記にいくつかの理由がありました。

①明治天皇の・・・朝恩に浴することの謝意を表するため参朝を実現すること
  還暦を機に、慶喜は東京に出て明治天皇に今までの感謝の気持ちを伝えたいという気持ちに変わった
②子女たちが結婚などで東京に住むようになり心寂しく思っていたこと
  この時、最後まで静岡の家に残っていた九男と十男までもが東京の学習院に編入・・・
  その為、慶喜は深い寂しさを覚え、子供たちのいる東京に行ってもいいと思うようになっていました
③60歳を迎え、病気に冒された時の医療看護の便を考えての事
  慶喜は数年前から健康面での不安を感じていたこともあって、医療や看護の整った東京に引っ越したのです。

渋沢は、慶喜が住居を移した東京巣鴨に良く訪ねて行ったとか。
慶喜を飛鳥山の自宅で開いた茶席に招いたり、自分が設立に加わった洲崎養魚場や製紙工場の見学に誘うなど、2人の関係をより深めていきました。
その一方で、慶喜に爵位が授与されるよう時の総理大臣・桂太郎に働きかけるなど、慶喜の更なる名誉回復に尽力。。。
願いが叶うまでそう長い時間はかかりませんでした。 

徳川慶喜が東京にうつってから間もなくの事・・・1898年3月2日

「朝敵となった私がお目にかかることは恐れ多い」

と言って、静岡時代、かたくなに拒んでいた明治天皇との謁見が実現します。
酒を酌み交わし語り合った時の帝とかつての将軍・・・大政奉還から30年の時が経っていました。
この謁見ののち、天皇は維新の元勲・伊藤博文にこういったといいます。

「伊藤、今日でやっと今までの罪滅ぼしが出来たよ
 慶喜の天下を取ってしまったが、今日は酒盛りをしたら、もうお互いに浮世のことで仕方がないといって帰った」

慶喜にとっても、この謁見は大きな意味を持っていました。
明治天皇に謁見したことで、慶喜の朝敵の汚名が完全に消されたのです。

1902年6月、特例として天皇から慶喜に対して爵位としては最高位の公爵が授与され、華族に列せられました。
渋沢栄一が、総理大臣の桂太郎や明治政府の元老・伊藤博文、山県有朋らを訪問し、嘆願していたことが受爵につながったのです。
しかし、その一方で、こんな見方もあります。
実はこの時、同じ特例としてもう一人爵位を授かった人物がいます。
幕末、慶喜の江戸幕府を追い詰めた討幕派のリーダー・西郷隆盛の嫡男・西郷寅太郎です。
西郷も西南戦争で朝敵とされていました。
西郷の復権は、薩摩派の人々にとって政治的な課題でした。
慶喜への公爵授与、西郷隆盛の長男への侯爵授与・・・二人の爵位の授与は、慶喜と西郷隆盛の朝敵の汚名を消し去るための政治ショーの側面がありました。

明治政府が抱えていた課題の一つが、維新の功労者でありながら政府に反旗を翻す西南戦争を起こしたことで朝敵となって死んだ西郷隆盛の名誉回復でした。
これを実現するため、西郷の嫡男へ爵位を与えたい明治政府は、慶喜にも爵位を与えることで朝敵にも爵位を授与する大義名分を作ったのです。
理由はさておき、公爵となった慶喜は、さらに貴族院の終身議員として議席を与えられるなど、完全なる名誉回復を果たしました。
慶喜は徳川宗家の家達から全面的に支援してもらっていましたが、経済的に自立できるようになりました。

その後の慶喜: 大正まで生きた将軍 (ちくま文庫)

新品価格
¥858から
(2021/10/3 11:49時点)



慶喜が、名誉を完全に回復したことで変わったことが他にもあります。
交流範囲の広がりです。
能楽、囲碁、写真という趣味を通じて、華族社会の中で新たなネットワークを構築していきます。
特に、当時華族の中で流行していた写真を通じ、強いつながりができました。
東京千代田区にある日本カメラ博物館にそのつながりを示す貴重な資料が保管されています。

1902年~1908年まで発行されていた「華影」
これには徳川慶喜の写真が掲載されています。
写真は芸術という機運が盛り上がってきた中で、華族の写真愛好家たちが結成した”華栄会”によって刊行されたものです。
慶喜も会員の一人でした。
写真集は、公にすることを目的とせず、限られた人たちの間で回覧・・・
写真家の小川一真や洋画家の黒田清輝による批評と採点が加えられることで技術向上を図り、慶喜も家族たちと優劣を競いながら、写真を楽しんだといいます。

名誉を回復したことで、頑なだった慶喜の口もほぐれていきます。
1907年、渋沢は、頓挫していた慶喜の伝記編纂を再スタートさせます。
慶喜を中心とした歴史を語る会”昔夢会”を発足。
慶喜に直接語ってもらうことにしました。
慶喜は、編纂員たちの質問に答えるだけでなく、粗稿に目を通し、修正すべき点があれば付箋に意見を付けて返すなど、積極的に伝記の編纂に協力しました。
どうして協力的になったのでしょうか?

それもまた、慶喜を取り巻く環境の変化が大きく関係しています。
この頃、旧幕府を擁護する本が次々と出されました。
慶喜は、大政奉還が近代天皇制国家の発展につながったというゆるぎない自信を持てるようになったのです。
名誉回復が叶い、世間的な慶喜への評価も変わってきたことで、自らの過去と向き合う精神的余裕と自信が生まれたのです。
そうして開かれた第1回昔夢会は、慶喜の伝記編纂場だった渋沢の歌舞伎町の事務所で行われました。
慶喜は、幼い頃の思い出から、とつとつと語り始めます。
時代を追って話は進み、やがて渋沢が知りたかった政権を返上すると決めた時の事へ・・・
慶喜は、江戸幕府を終わらせることにしたのは、幕府を守ろうとする佐幕派と、倒し、天皇を中心とする討幕派が争う国が乱れていたのをなんとか終息したかったからといいます。
そして、大政奉還を決めたことを京都・二条城で諸藩の代表者に告げた際には、

「未曽有の御英断、誠に感服に堪えず」

と、称賛する者たちがいる一方で、不満を持った者も多くいたこと。
江戸から入れ代わり立ち代わり老中たちが現れては責められたことを振り返りました。
こうして、自らが堅い口をつぐんでいたことで、偏っていた歴史の断片を慶喜は少しづつ修正していきました。

東京・文京区春日・・・かつてここに徳川慶喜の終の棲家がりました。
その敷地、およそ3000坪・・・。
巣鴨から小石川小日向第六天町邸に移った慶喜は、1910年12月10日・・・七男・慶久に家督を譲ると、74歳で二度目の隠居生活に入ります。
3年後の1913年9月9日・・・この小石川邸で、第26回昔夢会が開かれました。
その2か月後、九男の誠に男爵が授与されたお礼を述べるため、風邪気味だったにもかかわらず皇居に参上した慶喜は、無理がたたったためか、肺炎にかかってしまいます。
そしてそのまま・・・11月22日、回復することなく、波乱に満ちた77年の生涯に幕を下ろしたのです。

慶喜の電気が完成したのは、それから4年後・・・1917年「徳川慶喜公伝」
74歳になっていた渋沢は、実に25年を費やした伝記を手に、慶喜が眠る東京谷中の墓地に報告に行きました。

徳川慶喜は、その最期・・・病床で苦しい中、医師にこういったといいます。

「衰弱は覚えますが、苦しみは去りました」

この苦しみとは、鳥羽伏見の戦いで張られた”賊軍のレッテル”に対するものだったのではといわれています。
長くまとわりついていたその苦しみが、公爵や勲章の授与などによって回復され、去っていったのだと・・・。
最後まで慶喜に仕え、働いた渋沢栄一は、完成させた徳川慶喜公伝の中で、慶喜のことをこう讃えています。

”侮辱されても 国のために命をもって顧みざる 偉大なる精神の持ち主”

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

「謎の将軍 徳川慶喜」