イングリッド・バーグマン・・・カサブランカで世界中の映画ファンを虜にした彼女は、際立った美貌と知性の持ち主でした。
アカデミー賞を三度も受賞しています。
イングリッド・バーグマンの代表作「カサブランカ」
ファンを虜にするうるんだ瞳・・・しかし、その奥には、幼くして両親を亡くした独りぼっちの少女の姿がありました。

「私は悲しい子供で孤独だったわ
 だから、空想上の人物を作って演技することが自分を守る手段だったの」byイングリッド

演技こそ生きる術・・・19歳の時に母国スウェーデンで映画デビューすると、彼女の人気は海を越えました。
映画の都ハリウッドで大成功・・・次々と人気作品に出演するようになります。
アメリカでもっとも人気の高い女優と呼ばれたイングリッド・・・
ビバリーヒルズに豪邸を構え、医者の夫と娘と共に誰もがうらやむ暮らしを送りました。
良き妻で、良き母・・・誰もが憧れる清純派の大スターでした。




イングリッド・バーグマン・・・プロデューサーのデビット・O・セルズニックは、ハリウッドに相応しい芸名を彼女につけようとしました。
しかし、イングリッドは拒否します。 
それは前代未聞のことでした。

1915年、イングリッドはスェーデンの首都ストックホルムで生まれました。
父は写真館を経営し、若い頃は画家を目指していました。
母はドイツ人で、イングリッドが生まれると、父は愛らしい家族の撮影に夢中になります。
しかし、2歳の時に母が病で亡くなってしまいます。
その後、父はますますイングリッドの撮影にのめりこんでいきます。
11歳の時、イングリッドは初めて演技を意識します。

「父のはじめて劇場につれて行ってもらった時のことよ
 私は目玉が飛び出るほど驚いたわ
 私が家でひとりでやっていたことを、大の大人たちが舞台の上でやっていたのだから
 
 パパ、パパ、私が将来やりたいのはあれよ!!」byイングリッド

娘の真摯な思いを受け止めてくれた父・・・その父も、12歳の時にがんでこの世を去りました。
その後、イングリッドは親戚の家に預けられます。

「私は悲しい子供で孤独だったわ
 だから、空想の上の人物を作って、演技することが自分を守る手段だった
 私は学校でも極度の恥ずかしがり屋だったけど、空想の人物が相手なら、自分の思い通りに会話ができたわ」byイングリッド 

1933年、18歳で王立演劇学校に入学。
学校に通いながら、映画のオーディションを受けました。
そして、翌年・・・「ムンクブローの伯爵」でデビュー。
彼女の評判は上々でした。
その後、次々と映画に出演し、スウェーデンでは有名俳優となります。

私生活も転機が訪れます。
歯科医師のペッターと恋人同士になります。
ペッターは、8歳年上で、イングリッドの悩みを聞いてアドバイスをくれる父親のような存在でした。
彼女が21歳の時、二人は結婚。
翌年には娘のピアが生まれ、穏やかな日々が流れました。

この頃、イングリッドの人生を大きく変える出来事が起きます。
映画「間奏曲」・・・イングリッドが演じるピアニストが、妻子あるバイオリニストと恋に落ちる物語でした。
スウェーデンから遠く離れたハリウッドで、この映画に見入っていた男がいました。
デビッド・O・セルズニック・・・あの「風と共に去りぬ」を手掛けた大物プロデューサーでした。
セルズニックは、イングリッドに自らの映画に出演を持ち掛けます。
しかし、彼女には生まれたばかりの娘がいました。

「とても勇気のいる決断だったけど、どうしてもハリウッドで才能を試したかった」byイングリッド

1939年、23歳の時に娘と夫を残してハリウッドへ!!
イングリッドに初めて会ったセルズニックは、開口一番こういいました。

「バーグマンという名はいけない
 あまりにもドイツ的だ
 いずれドイツのの間でもめ事が起きるだろうから、そうなったときにわが社がドイツの女優を雇ったと思われたくない」byセルズニック

1939年、ヨーロッパ諸国とナチス・ドイツは一触即発でした。
高感度の低いドイツ系の本名ではなく、受けの良い芸名にしようというのです。
さらに、眉の形、歯並びもハリウッド風に変えるとのことでした。
ハリウッドは、俳優はいろんなタイプを演じるというよりは、”一つの決まったタイプを持つ”というのが普通でした。
当時は、かなり厚めにメークアップをするのが一般的でした。

「そんなことするなら帰るわ」byイングリッド

黙って睨み合う二人・・・
しばらくしてセルズニックが口を開きました。

「シンプルだけど、ハリウッドでは誰も試したことがないアイデアが浮かんだよ
 君には一切手を加えない
 何も変えない
 映画史上、初めての”自然のままの”女優になるんだ」byセルズニック

そして極めて異例にノーメイクでのカメラテストが行われました。
ハリウッドで初めての自然派女優イングリッド・バーグマンの誕生でした。
デビュー作は、1939年、24歳の時、スウェーデン時代の映画「間奏曲」のリメイク。。。「離別」
ハリウッドデビューは大成功でした。

24歳の時。イングリッドは仕事の軸足をアメリカに据えました。
スウェーデンから娘を連れてハリウッドに・・・次々と作品に出演します。
1942年、第2次世界大戦の戦火がますますひどくなります。
彼女の代表作となる映画が公開されました。
「カサブランカ」です。

舞台は、アフリカ大陸モロッコの都市カサブランカ・・・
第2次世界大戦中、ナチス・ドイツを逃れてアメリカに渡るため、ヨーロッパ各地からカサブランカに人々が集まっていました。
この町でバーを経営するリック・・・そこへかつての恋人イルザが現れます。
2人の出会いはナチスの手が迫る数年前のパリ・・・
実はイルザにはレジスタンスの夫がいました。
しかし、ナチス・ドイツに抵抗するレジスタンスだったため・・・夫の死を仲間から知らされ彼女の傷を癒すリックのやさしさにいつしか惹かれていきます。

「君の瞳に乾杯・・・」

パリの戦乱を逃れたリックは、ひとりカサブランカへ・・・!!
そこに現れたイルザの横には夫がいました。
夫は生きていたのです。
敵に捕らわれていた夫は、密かに脱出し生還。
イルザは夫と共にアメリカに亡命しようとリックがいることを知らずにカサブランカを訪れたのです。

「こんなところで 再開するなんて」

2人の愛は、再び燃え上がります。

ナチス・ドイツの手が迫る中、空港についた3人・・・しかし、通行証は2つだけ・・・!!
イルザは夫とアメリカに亡命するのか?
それともかつての恋人・リックと行くのか・・・??

リックは、自分の思いを抑えて2人を送り出します。
イングリッドの清らかな涙は、世界中の観客を魅了し、不朽の名作と言われました。

しかし、撮影現場は大混乱でした。

「プロデューサーと脚本家の意見が合わなくて台本は何度も変更されたわ
 この映画が、どこに向かっているのか、どんな終わり方をするのか、誰にも分らなくて、役作りはとても難しかった」byイングリッド

ところが、迷ったまま演じたことが、思わぬメリットを生みます。

「私の顔は、しばしば完全な空白だったわ
 ところが、観客は、私が何かの感情を表現していると勝手に読み取ってくれたの」byイングリッド



1944年の「ガス燈」では、夫に精神的に追い詰められる女性を熱演!!
にこやかな笑顔が、恐怖におびえ変化していきます。
きめ細かい心理描写が絶賛されました。
イングリッドは、アカデミー主演女優賞を受賞。
人気、実力ともに、ハリウッドの看板女優となりました。

しかし、仕事にのめりこむあまり、俳優としての一戦を超えることもありました。
イングリッドは、役にのめりこんでしまうのです。
撮影じゃない時間も相手役に恋をしてしまいます。
もうひとつ、恋愛対象となったのが監督でした。
それは、父親へのある種のファザーコンプレックス、思慕だったのでしょう。

1943年「誰がために鐘は鳴る」の時は、相手役のゲーリー・クーパーに。
1941年「ジギル博士とハイド氏」の撮影中は、監督のビクター・フレミングと深い仲に・・・さらに、共演者のスペンサー・トレイシーとも関係したといいます。
撮影が終わるとぱたりと恋は終わりました。
役から抜けるからです。

一方、夫・ペッターとの関係は・・・うまく行っていませんでした。
1944年、28歳の時、ビバリーヒルズに家を購入。
初めて夫と共に長い時間を過ごすようになります。
しかし、些細なことにまで口を出す夫に、イングリッドはいらだっていきます。

「ペッターが私をほめることはほとんどなかった
 彼が言ってくれるのは、せいぜい”悪くない”で、”良かった”は最大限の誉め言葉に近かったわ」byイングリッド

またある時・・・ペッターと連れ立って行ったパーティーの帰り・・・

「君はあまりしゃべらない方がいいな
 見た目は知的な顔立ちをしているのだから、周りに知的だと思わせておきなさい
 しゃべり始めると、ばかげたことしか言わないんだから」byペッター

「自分から出て行くだけの力がなかったので、この結婚生活から連れ出してくれる誰かを待っていた」byイングリッド

31歳のイングリッドは、アメリカで人気No,1の女優となりました。
映画1本あたりの出演料は、17万5000ドル・・・加えて興行利益の25%をボーナスとして得るというハリウッドでも破格の待遇でした。
にもかかわらず、3年後、彼女は戦後の貧しいイタリアに渡ります。
ロクにギャラも出ない中で、映画に出演し、さらにはその監督ロベルト・ロッセリーニと不倫・・・子供も身ごもりました。
富と家族・・・すべてを捨ててまで、彼女は何を求めたのでしょうか?

1945年、30歳の時に出演した「聖メリーの鐘」・・・修道女を演じたこの映画の大ヒットによって、イングリッドの”清純派”のイメージはさらに固まります。
翌年の世論調査で、”アメリカでもっとも人気の高い女優”に選ばれています。
この時期に制作されたのが、風と共に去りぬ上の製作費をかけた「ジャンヌ・ダーク」です。
イングリッドは、子供の頃から憧れていた役でした。
その為、どの役よりも思いを込めて演じました。
しかし・・・映画の出来には納得できませんでした。

「私はもっとリアルな映画にしたかった
 でも、髪が乱れればすぐにメークさんが飛んできて、綺麗に整えてしまう・・・
 戦闘シーンですら信じられないほど清潔だった」byイングリッド

興行は大失敗!!
製作会社が破産するほどでした。
映画をつまらなくした原因の一つが、型にはまったハリウッド流の演技でした。
彼女はこれを嫌っていました。
当時のハリウッド映画は、役ごとに演技を買えるのではなく、どの映画に出ても基本的に定まったイメージに剃って演技をしていました。
バーグマンについては、左からのアップが効果的・・・
なので、左からのアップが多用されます。

「いつもと違うことをやってみたかったわ
 なんにでも手を染めて見たかったし、あらゆるタイプの役を演じたかった」byイングリッド

そんな時、1本のイタリア映画が彼女をくぎ付けにしました。
ナチス・ドイツ占領下のローマを描いた「無防備都市」
迫害される市民の姿が生々しく切り取られていました。
監督は、ロベルト・ロッセリーニ。
アメリカでは無名でしたが、イタリアでは新進気鋭の監督として知られていました。
その特徴は、素人や経験の浅い俳優を使い、リアリティを追及するというものでした。

「”無防備都市”のリアリズムと素朴さに心が震えたわ」byイングリッド

製作費はハリウッドの1/10以下・・・
しかし、他のロッセリーニ作品を見たイングリッドは、自ら監督に手紙を書きました。

「親愛なるロッセリーニ様
 あなたの映画をとても楽しく拝見しました。
 私が居たりあごで知っているのは”Tiamo”(愛している)だけです。
 もし、スウェーデンの女優が必要でしたら、私はいつでもともに映画を作る用意が出来ています。」byイングリッド

1949年、33歳のイングリッドはイタリアに渡り、ロッセリーニの映画作りに参加しました。

「芸術的で特別な映画をヨーロッパで作るわ」byイングリッド

ここでの毎日は、ハリウッド流に慣れたイングリッドには驚きの連続でした。
当時のハリウッドでは、ほとんどがスタジオ撮影でした。
ロケよりも安く済み、計画通りに撮影ができるからです。
一方、ロッセリーニはほとんどがロケ撮影・・・
この時彼が選んだのは、イタリアの火山島でした。
イングリッドの相手は、俳優ではなく地元の漁師・・・
ロッセリーニは、出演者に演技力よりリアリティを求めたのです。
大まかな脚本はあるものの、台詞もその場で考えます。
ハリウッドでは当たり前のスターの特別待遇も一切なし!!

「私が”アップは左から”と言うと、”バカ言うな、俺の好きなように撮る”と・・・
 気が楽になったわ」byイングリッド

撮影の間、イングリッドとロッセリーニは、島で一番立派な家を借り、一緒に住みました。

「”無防備都市”を見た瞬間から、心の奥でロベルトに恋をしたのだと思うわ
 彼は無意識のうちに、私の結婚生活とハリウッドでの生活という2つの問題から逃げ道を与えてくれた」byイングリッド
  
これまでの俳優や監督との恋は、世間には知られることはありませんでしたが、今回は違いました。
ロッセリーニとの関係は、一大スキャンダルとして広まってしまいました。
アメリカには彼女の夫ペッターと娘ピアがいる・・・
実は、ロッセリーニにも妻子がいました。
その為、アメリカをはじめ、海外からもマスコミが殺到!!
さらに、妊娠が発覚すると、報道はますますヒートアップ!!
そんな中・・・1950年、34歳で男の子を出産。
これを機に、イングリッドはペッターを離婚、ロッセリーニと再婚します。
2年後には双子の女の子も生まれました。
そして、アメリカにいる元夫と13歳の娘も”イングリッドに捨てられた家族”としてマスコミの興味の対象でした。

「ママが戻らないと聞いて唖然としたわ
 自分が出て行くほどアメリカがひどいところなら、なぜ私を置いていくの?」byピア

娘の言葉を聞かされたイングリッドは・・・

「まさに地獄だった
 私は涙が枯れはてそうなほど泣いたわ
 私は夫と子供を捨てた
 私はひどい女だった
 でも、そんなつもりではなかったのよ」byイングリッド

娘ピアの親権は、元夫ペッターにありましたが、イングリッドは短い間だけでもピアをイタリアに呼び寄せる許可を裁判所に求めました。
裁判所で、お母さんを愛しているかと聞かれたピアは・・・

「それほど愛していません
 こころからママを愛せるほど、顔を合わせる機会がなかったから」byピア

結局、イングリッドは娘と再会を果たすのは、6年後のことになります。
仕事も思い通りに行きませんでした。
「ストロンボリ」をはじめ、イングリッドは6本の映画を作りました。
しかし、いずれも興行的には失敗でした。
それにもかかわらず、ロッセリーニはイングリッドに自分の作品以外は出演を許しませんでした。
愛車のフェラーリを運転し、家に戻るロッセリーニ・・・しかし、実際は、借金を重ねて別荘や高級車を買っていたため、家計は火の車でした。
そのロッセリーニの借金を肩代わりしていたのがイングリッドでした。

イングリッドをヒロインとして撮らせた何本かの作品は、当時はスキャンダルのせいで世界的にも酷評されました。
今では、映画史上の傑作として高く評価されています。
しかし、天才はどこか個性的でタガが外れている・・・
自分は遊びに外に出かけているのに、イングリッドには「家にいろ」と、「子供の面倒をちゃんとみろ」と、非常に口やかましかったロッセリーニ。
夫の浪費、独占欲、仕事の制限・・・好きで飛び込んだイタリアでしたが、いつしか大きなストレスに堪える毎日になっていました。

1956年、ロッセリーニは映画の撮影のためにインドへ・・・。
なんとそこでも現地のプロデューサーの妻と関係を持ち、子供を作ってしまいます。
ロッセリーニがインドから戻ってきたとき、イングリッドはこう切り出します。

「ロベルト、あなたは離婚を望んでいるの?」byイングリッド

「ああ、私はミスター・バーグマンであることに疲れてしまったよ」byロッセリーニ

イタリアに来て8年目、イングリッドが追い求めてきた理想の映画作りと理想の家庭は粉々に砕け散りました。
42歳の時でした。



ハリウッドに復帰したイングリッドは、2度目のアカデミー賞を受賞。
ますます演技にのめり込みます。
しかし、58歳の時に乳がんが見つかります。
そして彼女が選んだ道は、治療に専念せずに演技をすることでした。

どうして病をおして出演し続けたのでしょうか?
イタリアを出たイングリッドは、パリに拠点を移しました。
1956年、久々にハリウッド映画に出演・・・翌年にはアメリカを訪れます。
1957年、41歳の時、8年ぶりにアメリカへ・・・ファンが温かく迎えます。
アメリカを訪れたのは、出演作の「追想」が、ニューヨーク批評家賞を受賞したからでした。
ロシア革命直後のロシア・・・元将軍が、記憶を失った娘を皇女アナスタシアに仕立て上げようとする物語でした。
共演者のヘレン・ヘイズは、こんな印象を受けます。

「イングリッドがくつろげるのは演技をしている時だけ・・・」byヘレン

この映画で、イングリッドは2度目のアカデミー主演女優賞を受賞。
さらに、「無分別」「六番目の幸福」も大ヒット。
イングリッドはハリウッドに返り咲きます。

私生活でも嬉しい出来事がありました。
1957年、41歳の時に長女ピアと再会。
6年ぶりでした。
ピアは、2カ月以上ヨーロッパに滞在。
イングリッドもその間は仕事を休んでピアと過ごしました。
イングリッドはピアとイタリアで産んだ子供たちとを引き合わせます。
子供たち全員と食卓を囲むという長年の夢をかなえたのです。
この時のことを友人への手紙で書いています。

”ピアはここの生活に満足しているわ
 素直で、全てを気に入ってくれて、小さな子供たちにもとてもやさしいのよ
 私が望んだ以上に、はるかにいい子なの
 私は今、言葉で言い表せないほど幸せよ”

しかし、58歳の時、予期せぬ不幸に見舞われます。
舞台の公演中、胸にしこりを見つけます。
専門医の診療を受けたところ、乳がんと判明。
すぐに手術してもおかしくはなかったが、オリエント急行殺人事件への出演を優先しました。
この作品で、彼女は3度目のアカデミー賞(助演女優賞)を受賞。
彼女がガンの手術をしたのは胸のしこりが見つかってから半年後でした。

62歳の時に撮影された「秋のソナタ」がイングリッドの最後の映画となりました。
イングリッドが演じるのは、国際的なピアニスト・・・
多忙な時間を縫って、7年ぶりに我が娘を訪ねます。
しかし、娘の態度は期待したものではなかった・・・
演奏に明け暮れ、家庭を顧みることのなかった報いです。

映画は、イングリッドの母国語スウェーデン語で行われました。

脚本を書いたのは、映画監督のイングマール・ベルイマン。
スウェーデンを代表する巨匠でした。
撮影中、イングリッドは様々なシーンで意見を激しくぶつけてきました。

「この脚本はひどく陰気くさい
 7年間も娘たちと会わないなんて、信じられないわ」byイングリッド

しかし、ベルイマンは、あることに気が付いていました。

「イングリッドが抗議したのは、彼女自身に非常によく似ている点だった」byベルイマン

娘が、バーグマン演じる母親を責め立て続ける・・・バーグマンは、非常に精神的にきつい状況でした。
そこに見える悩みや葛藤、その背後にある精神の強さが、演技ににじみ出て、それが高く評価されました。

この映画の撮影中・・・1977年、62歳の時に2度目の手術をします。
しかし、治ることはありませんでした。
そんな体でも、イングリッドは何よりも演技を優先しました。
66歳の時、イスラエル初の女性首相「ゴルダと呼ばれた女」のテレビドラマに出演。
撮影のためにイスラエルに赴きました。
気温37度を超える酷暑の中、イングリッドは日増しに弱っていきました。
しかし、不満をこぼさず、最後までゴルダを演じ切りました。

翌年の1982年8月29日、イングリッドは誕生日を迎えました。
友人がお祝いに来ると聞いたイングリッドは

「私、ちゃんとしてるかしら ブラシと化粧品をとってちょうだい」byイングリッド

その日の遅く、イングリッドはこの世を去りました。67歳になったばかりでした。

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