今も多くの映画や書籍で取り上げられる凄惨な歴史があります。
戦後75年を過ぎた今、繰返し語り継がれるナチスの大量虐殺ホロコースト・・・
アウシュビッツをはじめとする強制収容所で日々殺戮が行われました。
犠牲者の数は500万人以上とされ、おびただしい数の遺体の処理を可能にしたものは何だったのか??
1989年に発表された論文「アウシュビッツ ガス室の技術と操作」がその謎を初めて明らかにしました。
それは・・・効率よく遺体を灰にすることだけを追求した人間焼却炉でした。
処理能力は、アウシュビッツだけで1日8000人を焼却できたとされています。
設計したのは工場設備メーカーのエンジニア、クルト・プリューファー。
その焼却炉は、公立だけを求めたものです。
処理しなければならない遺体の数が、激増していましたから!!
棺はなく、何人もが同じ炉でまとめて焼かれ、完全に灰になる前に次の遺体が入れられました。
そこに、死の尊厳はかけらもありませんでした。
「私が設計した焼却炉は、未来への道を切り開くものですから、私の仕事に対してボーナスを支払うべきでしょう」byクルト・プリューファー
収容所内に虐殺のためのガス室と、遺体処理のための焼却炉を併せ持った市の工場が完成します。
プリューファーは、焼却炉の熱を利用して殺害を効率化することまで提案しました。
ナチスの大量虐殺を支えた知られざる科学者の物語です。
火葬を究めた男
クルト・プリューファーは、1891年、ドイツ中央部の町エアフルトに生れました。
兄弟13人の大家族、父は機関車の運転手という労働者階級の家でした。
中等教育を終えると、すぐに建築現場で働きだしました。
3年後、技術を身につけようと、専門学校に入り直し、1年間建築を学びます。
プリューファーのあらゆる行いに上昇志向の強さがにじみ出ています。
覚えておかなくてはいけないのは、当時のドイツが非常に厳格な階級社会だったということです。
一生自分の階級から抜け出すことはできませんでした。
プリューファーは、まぎれもない労働者階級の人間で、しかも大家族でしたから、野心溢れる彼はどう生きていくか考え続けたのでしょう。
どんなものでも最大限活用していったのです。
教育の機会も含めて。
18歳で改めて就職を目指します。
志望したのは創業40年を超える工場設備メーカー・トプフ&ゼーネ社でした。
従業員500人、世界30カ国以上と取引のある地元でも有数の大企業でした。
結果は不採用・・・
しかし、プリューファーは諦めず、別の職場で働きながら入社の機会を伺っていました。
志願書にはこう綴りました。
”今の職場ではなく、トプフ&ゼーネ社で働くことが私の希望なのです”byプリューファー
1年半後、3度目の応募でようやく入社が叶います。
プリューファーは、功名心に溢れ、勤勉でした。
トプフ社は、本当に名のある成長企業でした。
自分の功名心にぴったりだと感じたようです。
彼のモチベーションは、人生を通して常に2つのことでした。
ひとつは仕事で成功し、収入を増やして経済的に豊かになること
もうひとつは、人から認められ、社内での地位を獲得することでした。
何かの分野で第一人者としての名声を求めていたのです。
23歳で第1次世界大戦に従軍、除隊後、29歳・・・トプフ社に戻ると焼却技術部門に配属されました。
主に工場のボイラーなどを扱う部署だが、プリューファーの担当は亡くなった人の火葬設備の係でした。
もともとヨーロッパでは、キリスト教の教えより土葬が一般的でした。
火葬は火が異端者や魔女裁判の受刑者を焼き殺すために使われてきたこともあって、拒否感が強かったのです。
しかし、19世紀後半に入り、産業革命による人口爆発によって墓地が不足・・・
火葬で位牌にすれば、埋葬できる数が増やせると、徐々に増えてきていました。
今後、火葬の市場は成長するはずだと考えたプリューファーは、火葬の制度や技術を徹底的に研究しました。
ところが・・・第1次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を抱えたドイツは、1929年に始まった世界恐慌により空前の不況に陥っていました。
40代を迎えたプリューファーにもその影響は及んでいました。
会社から解雇をほのめかされたのです。
プリューファーは、望んで有名企業での生活を手にして大いに満足していました。
ですから、解雇されるという不安は、彼にとって重くのしかかったのです。
プリューファーの危機を救ったのは、ヒトラー率いるナチス政権でした。
ヒトラーが打ち出した失業対策・・・大規模公共事業などで経済は劇的に回復!!
プリューファーの解雇も撤回されました。
この経験は、プリューファーに会社での自分の立場の危うさを痛感させます。
この仕事を失ってしまったら、中年の自分が就けるような職がいくらでも転がっているわけではない・・・そんなプリューファーにとって、会社に対して強く出られる切り札を見つけることがとても重要だったのです。
プリューファーしか持っていない切り札・・・社内での立場が、盤石になる切り札です。
1934年5月、ドイツ全土で火葬が合法化します。
火葬を土葬と同等のものと認め、火葬の普及をさらに推し進めることになりました。
死の尊厳を守るための規定として、火葬のやり方が法律で細かく定められました。
・ひとりずつ棺に入れて行う
・煙やにおいを発生させない
・遺体を直接炎に触れさせてはならない
自分の切り札を探していたプリューファー・・・早速、火葬法を守るための新たな火葬設備を設計します。
最も難しかったのは、遺体を直接炎に触れさせてはいけないという規定です。
炎だけでなく、燃焼によって発生するガスが遺体に触れてもいけませんでした。
その為には、棺を入れるスペース炉室の空気を1000度にして遺体を自然発火させなければなりません。
まず、炉室を空の状態で加熱!!
1000度に達したところで、熱源と炉室の間を遮断!!
炎が炉室に入らないようにします。
ここで棺が入れられます。
高温のガスは、炉室の周囲に作られた空間に送り込まれ、外側から炉室を加熱する・・・
こうして1000度という高温を維持する仕組みです。
彼は、この分野において、大変革新的で尊厳ある火葬炉を作りました。
遺体が炎に直接触れないという基準を、厳格に守ったのです。
さらに、プリューファーは、火葬普及のために何度も講演を行い、こう謳いあげます。
「火葬は死体処理のレベルに落ちてはならない
畏敬の念を考慮しなければならない」byプリューファー
法の規定をすべて満たした火葬炉は、当時増え始めていた火葬場の多くで採用されます。
プリューファーは、会社を火葬設備のトップメーカーに押し上げました。
尊厳ある「火葬」から尊厳なき「焼却」へ
1939年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻。
第2次世界大戦が勃発します。
火葬業界で一目置かれるようになっていたプリューファーに、その年、思わぬ依頼が舞い込みます。
依頼主は、ナチス親衛隊・・・!!
捕虜を収容する施設のひとつ、ブーヘンバルト強制収容所で使用する火葬設備の依頼でした。
この収容所には、もともと政治犯を中心に3000人が収容されていました。
ユダヤ人の弾圧が激しくなり、大量のユダヤ人が収容されるようになります。
衛生状態が悪かったため、疫病が発生し、1カ月で800人の死者が出ていました。
大量の遺体を一刻も早く処理できる火葬設備を、収容所内に設置するよう求められたのです。
プリューファーは、きっとうれしかった・・・
権力のあるナチス親衛隊という重要なパートナーとビジネスができるのですから。
彼は”顧客”の要望に応えました。
ナチスは遺体を迅速に跡形もなく処理したかった・・・大量の遺体を!!
この条件に応えるため、プリューファーはこれまでにない火葬設備を考案します。
通常の火葬設備では、棺を入れる炉室は一つの炉に一つ・・・火葬場ではこういう炉を複数並べて対応していました。
プリューファーは、2つの炉を一つにまとめます。
遺体を燃やす際、どうしても熱エネルギーの一部が炉の外に逃げてしまい無駄になる・・・
二つの炉室をまとめることで、これまで無駄にしていた熱エネルギーを隣の炉で利用できるようにしたのです。
そして、火葬法で定められた規定を無視することにも踏み切ります。
遺体は棺に入れられることも無く、炎で直接償却・・・
完全に灰になる前に、次々遺体を炉室に入れました。
炉室内は、酸素不足で不完全燃焼になり、黒煙と悪臭を発生させました。
効率性でいえば焼却時間は2時間から15分に短縮されました。
遺体の9割近くが水分です。焼却開始から15分足らずで体積は大幅に減ります。
棺を用いずに遺体をそのまま入れた場合、論理的には15分後に2体目の遺体を入れることが可能です。
既に十分なスペースがあるので・・・。
さらに15分後には3体目の遺体を入れることができます。
ある意味、プリューファーは革新的でした。
まったく新しい優秀な技術という意味ではなく、彼は法律を破る意欲という意味で革新的だったのです。
これまで、死の尊厳を守ることを謳ってきたプリューファーは、あっさり都市の尊厳を捨てました。
ナチス親衛隊と契約を結ぶためです。
彼は、ナチスが死の尊厳を守ることに興味がないと知っていました。
死の尊厳を捨て、効率だけに絞ったのです。
ナチス親衛隊というすごい権力を持ったビジネスパートナーを取り込むことができれば、売り上げが上がり、社内のステータスをさらに高めることができるのです。
プリューファーは、火葬法を破るにあたり、図面上である修正を行っています。
一般の火葬設備では、火葬室と表示した場所を収容所の設備では”焼却室”と表示しました。
それは、ゴミや動物の死体を燃やす設備に使われる用語・・・!!
動物の死体を処理する焼却炉のようなものを開発しました。
そして「火葬室」とは異なる名称をつけたのです。
自分の行動を正当化していたのです。
一般市民に提供する「死の尊厳を守る」仕事とは性質が異なる仕事なのだと。
収容所の仕事では、感情のスイッチを切る必要があると言っています。
修養された人たちが、どんな苦しみを味わうことになるのかを、意図的に意識の外に追いやったのです。
プリューファーの設計した設備は、まさしくナチスが求めていたものでした。
同じ時期、プリューファーは一般の火葬場の仕事も続けていました。
入札では無煙・無臭の実現など火葬法を守っていることを強調して受注を獲得しました。
彼は突然、良心の咎めもなく人間を二つに分けたのです。
ある人たちは火葬場で尊厳ある死を迎え荼毘に付されました。
別の人たちは、強制収容所で亡くなったり、殺されたりして家畜のように焼かれました。
プリューファーの良心がとがめたとは思えませんでした。
プリューファーの焼却炉に満足したナチスは、その後、ほかの収容所の焼却炉も注文するようになります。
その中に、ナチスドイツ最大規模を誇るアウシュビッツ強制収容所も含まれていました。
改良した新しい焼却炉は性能も向上・・・しかし、価格は据え置きで、ナチスをますます喜ばせました。
一方で、プリューファーは、自分の会社に対して、度々、昇給、昇進を求めました。
しかし、火葬の市場はまだ小さく、業界トップとはいえその売り上げは、会社全体の3%でした。
会社は、プリューファーをあまり評価していませんでした。
プリューファーは、ずっと同じぐらいの技量の社員よりも冷遇され続けていました。
だからこそ、自分の価値を認めてほしいと本当に必死だったのです。
1941年、フリューファーが自分の価値を示すチャンスが訪れます。
会社の社長が、ドイツ軍に徴兵されたのです。
兵役義務から逃れたい社長は、プリューファーを頼りました。
プリューファーはすぐさま懇意にしている収容所のナチス将校に手紙を出します。
アウシュビッツには新たな焼却炉の設置が早急であり、焼却炉の建設を進めるためには社長が欠かせない人物だと誇張して書き記しました。
プリューファーの手紙によって、社長は難なく兵役から解放されました。
プリューファーは、会社の中で尊敬され、優位な立場に立つことをずっと切望していました。
ナチスとの橋渡しとなることで、ついに影響力を持つ人間になれたのです。
満たされた気持ちで有頂天になっていました。
ナチスとの関係は、会社から認めてもらうための最強の切り札となりました。
プリューファーはその後、ナチスとの関係を深めていきます。
「死の工場」完成
反ユダヤ主義を掲げてきたナチス・ドイツ・・・
第2次世界大戦さ中の1941年、ユダヤ人問題の最終的解決についての検討を始めます。
結論は・・・ヨーロッパに住むユダヤ人の根絶でした。
計画的な大量虐殺のスタートでした。
6つの収容所がユダヤ人殺害に使われました。
その一つがアウシュビッツです。
アウシュビッツには、続々とユダヤ人が連行されました。
その場で労働力になるかどうか選別されました。
7割以上のユダヤ人が不適格とされ、即刻ガス室で殺害されました。
アウシュビッツに納品されていた焼却炉は、24時間フル稼働となりました。
これまで病死や餓死した人を焼いていた焼却炉は、虐殺された遺体を焼くものへとその役割を大きく変えました。
これは非常に大きな違いです。
殺された人々を大規模な焼却炉で処分することに関わったのです。
これで彼は、共犯者になりました。
大量虐殺者の共犯者です。
プリューファーは、増え続ける遺体を処理するため、新たな焼却炉を提案します。
これまで一つの炉に2つの炉室であったものを、3つに増やし、より一層遺体を効率的に償却しようというのです。
3つの炉室に対して熱源は2つ・・・無駄になっていたエネルギーは、3つ目の炉室に回ることで、熱源が無くても焼却が可能にしました。
彼が描いた図面や、ナチス親衛隊とのやり取りを見ると、「遺体を処分する最高に残酷で効率的な方法」を設計する最前線にいたことがわかります。
犠牲者に、彼が憐みの感情を寄せたことを示す記録は、何一つ存在していません。
同時に、彼が反ユダヤ的な思想を持っていたという記録も一つも残っていません。
プリューファーにとっては、ただの「仕事」であり、「身を立てるための手段」だったのです。
3つの炉室を持つこの焼却炉を5基設置すれば、炉室は15!!
プリューファーの計算によると、1つの炉室で1時間に4体を焼却できる15の炉室なら、1時間で60体・・・これを24時間稼働させれば、1日で1440体!!
90日で12万9600体!!
アウシュビッツ収容することを想定していた12万5000人を3か月で焼却できる計算です。
さらもにプリューファーは、新しい焼却炉の性能を誇示するため、体脂肪の多い遺体をそろえるように収容所のユダヤ人たちに指導しました。
体脂肪の多い遺体は燃えやすく、ナチスにより良い結果を見せることができるからです。
ユダヤ人たちは、プリューファーの指示に従い、ガス室で殺害された遺体の中から、栄養状態のいい男性の遺体50体を揃えました。
これまで以上に焼却時間が短縮されることを示そうとしたのです。
この頃、プリューファーが会社の上司と交わした会話・・・
「何故、収容所にはあれほど多くの遺体があるのだ?」by上司
「収容所では、ガス室で大量に人を殺し、その遺体を焼却しているのです」byプリューファー
その後も、アウシュビッツでは大量虐殺のための設備が整えられていきました。
地下にガス室、地上に焼却炉が設置された建物も・・・!!
ガス室で殺害したあと、遺体を焼却炉まで運搬する手間を少しでも省くため、一つの建物で完結できるようにしたのです。
1943年までに殺害と焼却機能を併せ持った大量虐殺のための施設は、アウシュビッツ内に5つ作られました。
プリューファーはこの施設で、ガス室での殺害を効率化する方法まで提案しています。
毒ガスとして使われていたチクロンBは、青酸化合物などをしみ込ませた粉末・・・過熱することで、青酸ガスの気化が促進されます。
プリューファーが考えたのは、焼却炉の余熱をガス室に送って、部屋を暖めようというものです。
毒ガスの気化にかかる時間を短縮しようというのです。
提案はナチスに採用され、焼却炉からガス室へ熱を送り込む配管が設置されました。
例えば、戦闘機や戦車の設計に関わった場合・・・
戦車は敵の戦車と戦うために作られます。
基本的な目的は、同じような武器を使う敵軍を負かすことです。
しかし、ガス室での殺害行為は、まったく一線を画します。
ガス室と、焼却炉は、身を守るすべを一切持たない無防備な人々を殺すために作られました。
プリューファーがやってしまったことは、どんな論理の域も軽く越えて、正当化しようのないものだったのです。
殺害と焼却を担う施設は、収容所のユダヤ人たちから死の工場と呼ばれました。
アウシュビッツだけで、1日8000人を焼却したとされます。
この頃、プリューファーは、会社に対し、更なるボーナスを要求していました。
「新しい焼却炉は、既に稼働中で、設計通りの性能を発揮しています
お約束の報酬を、一刻も早くお支払いくださいますようお願い申し上げます」byプリューファー
仕事で成果を出せば出すほど、評価が上がっていくことに駆り立てられました。
車内で尊敬を集めるようになっていくと、人間ならではの泥臭い部分が彼を突き動かしていました。
人間焼却炉の終わり
1943年、ドイツ軍はスターリングラードの戦いに大敗・・・
これをきっかけに、ドイツは劣勢に立たされていきます。
1945年1月、ソビエト軍がアウシュビッツの間近に迫っていました。
ナチスは大量虐殺を隠蔽するため、プリューファーの焼却炉の入った施設を爆破!!
解体しました。
1945年5月7日・・・ドイツ降伏!!
プリューファーは、ナチスに協力したとして、アメリカ軍に逮捕されました。
その翌日・・・会社の社長が自殺します。
プリューファーにとって、特権に守られていた世界が一瞬にして消えてしまいました。
アメリカ軍からは証拠不十分で釈放されたものの、その後、プリューファーはソビエト軍に連行されます。
尋問で、焼却炉が大量虐殺に使われていたことを認識していたかどうかを追及されました。
プリューファーは、罪を軽くしようと嘘を並べ立てます。
「1943年まで私は強制収容所の火葬場の本当の目的について何も知りませんでした
ガス室の存在も、目的も、何も知りませんでした」byプリューファー
「それでは、1943年からは、自分の焼却炉が罪もない人々の遺体を処理するためのものだと認識していたのか」
「・・・はい、知っていました」byプリューファー
わかっていながら焼却炉の建設をやめなかったのはなぜかと問われると、プリューファーは、自殺した社長に責任をなすりつけました。
「本当の目的を知った私は、これ以上関与すべきではないと社長に伝えました
すると、社長から、ここで手を引けばお前が逮捕され、強制収容所に送られると言われたのです
仕事を失うこと、ナチスの報復が怖かったのです」byプリューファー
プリューファーは、自分の命を救うために、臆面もなくうその証言をかさねました。
彼は、常により良い人生を求めて必死だったのです。
最終的には、おぞましい犯罪に加担して罰せられ、”恥知らず”な人間として語られる人生しか残りませんでした。
彼は、決して満たされることのなかった不幸な人間だったのです。
フリューファーは、裁判なしで有罪が確定。
25年の強制労働が課せられました。
この時、57歳。。。
4年後の1952年、拘禁期間中に脳卒中を起こし、61歳でこの世を去りました。
プリューファーがナチスに心酔していたとは思いませんが、あらゆる人を等しく扱う必要はないという思想をそのまま受け入れていました。
その人間が、生きている間はもちろん、死の場面においてさえも、そういった価値観がドイツの一般的な人々の中で当たり前のものとして受け入れられていたのです。
プリューファーは、あの古代のドイツを生きた人々を象徴するような典型的な人間でした。
どこにでもいるような普通の人間でした。
仕事での出世を夢見て、お金を稼ぎたいと願い、人から尊敬されたいと願う・・・普通の会社員でした。
果たして私たちは、彼と同じ状況で同じような行動をとらないと言えるでしょうか??
エアフルト・・・戦後長らくプリューファーとその会社トプフ&ゼーネ社について語られることはありませんでした。
1970年代に入り、研究者たちが眠っていた資料を掘り起こし、少しずつ事実が明らかになっていきました。
プリューファーの死から60年近くたった2011年・・・
会社の跡地を利用して、二度と過ちを繰り返さないよう市民たちによって博物館が設立されました。
館長の就任したのは、この会社とナチスの関係を20年にわたって調査してきた歴史研究家アネグレート・シューレ・・・博物館の壁には、トプフ&ゼーネ社の当時のセールス・コピーが掲げられました。
”あなたのためにいつでも喜んで取り組みます”
この日常的な言葉が、いかに責任のある言葉か・・・!!
人間が、日常的なごく普通の仕事を行う中で、犯罪に加担し、どこまでいってしまったかを・・・!!
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戦後75年を過ぎた今、繰返し語り継がれるナチスの大量虐殺ホロコースト・・・
アウシュビッツをはじめとする強制収容所で日々殺戮が行われました。
犠牲者の数は500万人以上とされ、おびただしい数の遺体の処理を可能にしたものは何だったのか??
1989年に発表された論文「アウシュビッツ ガス室の技術と操作」がその謎を初めて明らかにしました。
それは・・・効率よく遺体を灰にすることだけを追求した人間焼却炉でした。
処理能力は、アウシュビッツだけで1日8000人を焼却できたとされています。
設計したのは工場設備メーカーのエンジニア、クルト・プリューファー。
その焼却炉は、公立だけを求めたものです。
処理しなければならない遺体の数が、激増していましたから!!
棺はなく、何人もが同じ炉でまとめて焼かれ、完全に灰になる前に次の遺体が入れられました。
そこに、死の尊厳はかけらもありませんでした。
「私が設計した焼却炉は、未来への道を切り開くものですから、私の仕事に対してボーナスを支払うべきでしょう」byクルト・プリューファー
収容所内に虐殺のためのガス室と、遺体処理のための焼却炉を併せ持った市の工場が完成します。
プリューファーは、焼却炉の熱を利用して殺害を効率化することまで提案しました。
ナチスの大量虐殺を支えた知られざる科学者の物語です。
火葬を究めた男
クルト・プリューファーは、1891年、ドイツ中央部の町エアフルトに生れました。
兄弟13人の大家族、父は機関車の運転手という労働者階級の家でした。
中等教育を終えると、すぐに建築現場で働きだしました。
3年後、技術を身につけようと、専門学校に入り直し、1年間建築を学びます。
プリューファーのあらゆる行いに上昇志向の強さがにじみ出ています。
覚えておかなくてはいけないのは、当時のドイツが非常に厳格な階級社会だったということです。
一生自分の階級から抜け出すことはできませんでした。
プリューファーは、まぎれもない労働者階級の人間で、しかも大家族でしたから、野心溢れる彼はどう生きていくか考え続けたのでしょう。
どんなものでも最大限活用していったのです。
教育の機会も含めて。
18歳で改めて就職を目指します。
志望したのは創業40年を超える工場設備メーカー・トプフ&ゼーネ社でした。
従業員500人、世界30カ国以上と取引のある地元でも有数の大企業でした。
結果は不採用・・・
しかし、プリューファーは諦めず、別の職場で働きながら入社の機会を伺っていました。
志願書にはこう綴りました。
”今の職場ではなく、トプフ&ゼーネ社で働くことが私の希望なのです”byプリューファー
1年半後、3度目の応募でようやく入社が叶います。
プリューファーは、功名心に溢れ、勤勉でした。
トプフ社は、本当に名のある成長企業でした。
自分の功名心にぴったりだと感じたようです。
彼のモチベーションは、人生を通して常に2つのことでした。
ひとつは仕事で成功し、収入を増やして経済的に豊かになること
もうひとつは、人から認められ、社内での地位を獲得することでした。
何かの分野で第一人者としての名声を求めていたのです。
23歳で第1次世界大戦に従軍、除隊後、29歳・・・トプフ社に戻ると焼却技術部門に配属されました。
主に工場のボイラーなどを扱う部署だが、プリューファーの担当は亡くなった人の火葬設備の係でした。
もともとヨーロッパでは、キリスト教の教えより土葬が一般的でした。
火葬は火が異端者や魔女裁判の受刑者を焼き殺すために使われてきたこともあって、拒否感が強かったのです。
しかし、19世紀後半に入り、産業革命による人口爆発によって墓地が不足・・・
火葬で位牌にすれば、埋葬できる数が増やせると、徐々に増えてきていました。
今後、火葬の市場は成長するはずだと考えたプリューファーは、火葬の制度や技術を徹底的に研究しました。
ところが・・・第1次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を抱えたドイツは、1929年に始まった世界恐慌により空前の不況に陥っていました。
40代を迎えたプリューファーにもその影響は及んでいました。
会社から解雇をほのめかされたのです。
プリューファーは、望んで有名企業での生活を手にして大いに満足していました。
ですから、解雇されるという不安は、彼にとって重くのしかかったのです。
プリューファーの危機を救ったのは、ヒトラー率いるナチス政権でした。
ヒトラーが打ち出した失業対策・・・大規模公共事業などで経済は劇的に回復!!
プリューファーの解雇も撤回されました。
この経験は、プリューファーに会社での自分の立場の危うさを痛感させます。
この仕事を失ってしまったら、中年の自分が就けるような職がいくらでも転がっているわけではない・・・そんなプリューファーにとって、会社に対して強く出られる切り札を見つけることがとても重要だったのです。
プリューファーしか持っていない切り札・・・社内での立場が、盤石になる切り札です。
1934年5月、ドイツ全土で火葬が合法化します。
火葬を土葬と同等のものと認め、火葬の普及をさらに推し進めることになりました。
死の尊厳を守るための規定として、火葬のやり方が法律で細かく定められました。
・ひとりずつ棺に入れて行う
・煙やにおいを発生させない
・遺体を直接炎に触れさせてはならない
自分の切り札を探していたプリューファー・・・早速、火葬法を守るための新たな火葬設備を設計します。
最も難しかったのは、遺体を直接炎に触れさせてはいけないという規定です。
炎だけでなく、燃焼によって発生するガスが遺体に触れてもいけませんでした。
その為には、棺を入れるスペース炉室の空気を1000度にして遺体を自然発火させなければなりません。
まず、炉室を空の状態で加熱!!
1000度に達したところで、熱源と炉室の間を遮断!!
炎が炉室に入らないようにします。
ここで棺が入れられます。
高温のガスは、炉室の周囲に作られた空間に送り込まれ、外側から炉室を加熱する・・・
こうして1000度という高温を維持する仕組みです。
彼は、この分野において、大変革新的で尊厳ある火葬炉を作りました。
遺体が炎に直接触れないという基準を、厳格に守ったのです。
さらに、プリューファーは、火葬普及のために何度も講演を行い、こう謳いあげます。
「火葬は死体処理のレベルに落ちてはならない
畏敬の念を考慮しなければならない」byプリューファー
法の規定をすべて満たした火葬炉は、当時増え始めていた火葬場の多くで採用されます。
プリューファーは、会社を火葬設備のトップメーカーに押し上げました。
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尊厳ある「火葬」から尊厳なき「焼却」へ
1939年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻。
第2次世界大戦が勃発します。
火葬業界で一目置かれるようになっていたプリューファーに、その年、思わぬ依頼が舞い込みます。
依頼主は、ナチス親衛隊・・・!!
捕虜を収容する施設のひとつ、ブーヘンバルト強制収容所で使用する火葬設備の依頼でした。
この収容所には、もともと政治犯を中心に3000人が収容されていました。
ユダヤ人の弾圧が激しくなり、大量のユダヤ人が収容されるようになります。
衛生状態が悪かったため、疫病が発生し、1カ月で800人の死者が出ていました。
大量の遺体を一刻も早く処理できる火葬設備を、収容所内に設置するよう求められたのです。
プリューファーは、きっとうれしかった・・・
権力のあるナチス親衛隊という重要なパートナーとビジネスができるのですから。
彼は”顧客”の要望に応えました。
ナチスは遺体を迅速に跡形もなく処理したかった・・・大量の遺体を!!
この条件に応えるため、プリューファーはこれまでにない火葬設備を考案します。
通常の火葬設備では、棺を入れる炉室は一つの炉に一つ・・・火葬場ではこういう炉を複数並べて対応していました。
プリューファーは、2つの炉を一つにまとめます。
遺体を燃やす際、どうしても熱エネルギーの一部が炉の外に逃げてしまい無駄になる・・・
二つの炉室をまとめることで、これまで無駄にしていた熱エネルギーを隣の炉で利用できるようにしたのです。
そして、火葬法で定められた規定を無視することにも踏み切ります。
遺体は棺に入れられることも無く、炎で直接償却・・・
完全に灰になる前に、次々遺体を炉室に入れました。
炉室内は、酸素不足で不完全燃焼になり、黒煙と悪臭を発生させました。
効率性でいえば焼却時間は2時間から15分に短縮されました。
遺体の9割近くが水分です。焼却開始から15分足らずで体積は大幅に減ります。
棺を用いずに遺体をそのまま入れた場合、論理的には15分後に2体目の遺体を入れることが可能です。
既に十分なスペースがあるので・・・。
さらに15分後には3体目の遺体を入れることができます。
ある意味、プリューファーは革新的でした。
まったく新しい優秀な技術という意味ではなく、彼は法律を破る意欲という意味で革新的だったのです。
これまで、死の尊厳を守ることを謳ってきたプリューファーは、あっさり都市の尊厳を捨てました。
ナチス親衛隊と契約を結ぶためです。
彼は、ナチスが死の尊厳を守ることに興味がないと知っていました。
死の尊厳を捨て、効率だけに絞ったのです。
ナチス親衛隊というすごい権力を持ったビジネスパートナーを取り込むことができれば、売り上げが上がり、社内のステータスをさらに高めることができるのです。
プリューファーは、火葬法を破るにあたり、図面上である修正を行っています。
一般の火葬設備では、火葬室と表示した場所を収容所の設備では”焼却室”と表示しました。
それは、ゴミや動物の死体を燃やす設備に使われる用語・・・!!
動物の死体を処理する焼却炉のようなものを開発しました。
そして「火葬室」とは異なる名称をつけたのです。
自分の行動を正当化していたのです。
一般市民に提供する「死の尊厳を守る」仕事とは性質が異なる仕事なのだと。
収容所の仕事では、感情のスイッチを切る必要があると言っています。
修養された人たちが、どんな苦しみを味わうことになるのかを、意図的に意識の外に追いやったのです。
プリューファーの設計した設備は、まさしくナチスが求めていたものでした。
同じ時期、プリューファーは一般の火葬場の仕事も続けていました。
入札では無煙・無臭の実現など火葬法を守っていることを強調して受注を獲得しました。
彼は突然、良心の咎めもなく人間を二つに分けたのです。
ある人たちは火葬場で尊厳ある死を迎え荼毘に付されました。
別の人たちは、強制収容所で亡くなったり、殺されたりして家畜のように焼かれました。
プリューファーの良心がとがめたとは思えませんでした。
プリューファーの焼却炉に満足したナチスは、その後、ほかの収容所の焼却炉も注文するようになります。
その中に、ナチスドイツ最大規模を誇るアウシュビッツ強制収容所も含まれていました。
改良した新しい焼却炉は性能も向上・・・しかし、価格は据え置きで、ナチスをますます喜ばせました。
一方で、プリューファーは、自分の会社に対して、度々、昇給、昇進を求めました。
しかし、火葬の市場はまだ小さく、業界トップとはいえその売り上げは、会社全体の3%でした。
会社は、プリューファーをあまり評価していませんでした。
プリューファーは、ずっと同じぐらいの技量の社員よりも冷遇され続けていました。
だからこそ、自分の価値を認めてほしいと本当に必死だったのです。
1941年、フリューファーが自分の価値を示すチャンスが訪れます。
会社の社長が、ドイツ軍に徴兵されたのです。
兵役義務から逃れたい社長は、プリューファーを頼りました。
プリューファーはすぐさま懇意にしている収容所のナチス将校に手紙を出します。
アウシュビッツには新たな焼却炉の設置が早急であり、焼却炉の建設を進めるためには社長が欠かせない人物だと誇張して書き記しました。
プリューファーの手紙によって、社長は難なく兵役から解放されました。
プリューファーは、会社の中で尊敬され、優位な立場に立つことをずっと切望していました。
ナチスとの橋渡しとなることで、ついに影響力を持つ人間になれたのです。
満たされた気持ちで有頂天になっていました。
ナチスとの関係は、会社から認めてもらうための最強の切り札となりました。
プリューファーはその後、ナチスとの関係を深めていきます。
「死の工場」完成
反ユダヤ主義を掲げてきたナチス・ドイツ・・・
第2次世界大戦さ中の1941年、ユダヤ人問題の最終的解決についての検討を始めます。
結論は・・・ヨーロッパに住むユダヤ人の根絶でした。
計画的な大量虐殺のスタートでした。
6つの収容所がユダヤ人殺害に使われました。
その一つがアウシュビッツです。
アウシュビッツには、続々とユダヤ人が連行されました。
その場で労働力になるかどうか選別されました。
7割以上のユダヤ人が不適格とされ、即刻ガス室で殺害されました。
アウシュビッツに納品されていた焼却炉は、24時間フル稼働となりました。
これまで病死や餓死した人を焼いていた焼却炉は、虐殺された遺体を焼くものへとその役割を大きく変えました。
これは非常に大きな違いです。
殺された人々を大規模な焼却炉で処分することに関わったのです。
これで彼は、共犯者になりました。
大量虐殺者の共犯者です。
プリューファーは、増え続ける遺体を処理するため、新たな焼却炉を提案します。
これまで一つの炉に2つの炉室であったものを、3つに増やし、より一層遺体を効率的に償却しようというのです。
3つの炉室に対して熱源は2つ・・・無駄になっていたエネルギーは、3つ目の炉室に回ることで、熱源が無くても焼却が可能にしました。
彼が描いた図面や、ナチス親衛隊とのやり取りを見ると、「遺体を処分する最高に残酷で効率的な方法」を設計する最前線にいたことがわかります。
犠牲者に、彼が憐みの感情を寄せたことを示す記録は、何一つ存在していません。
同時に、彼が反ユダヤ的な思想を持っていたという記録も一つも残っていません。
プリューファーにとっては、ただの「仕事」であり、「身を立てるための手段」だったのです。
3つの炉室を持つこの焼却炉を5基設置すれば、炉室は15!!
プリューファーの計算によると、1つの炉室で1時間に4体を焼却できる15の炉室なら、1時間で60体・・・これを24時間稼働させれば、1日で1440体!!
90日で12万9600体!!
アウシュビッツ収容することを想定していた12万5000人を3か月で焼却できる計算です。
さらもにプリューファーは、新しい焼却炉の性能を誇示するため、体脂肪の多い遺体をそろえるように収容所のユダヤ人たちに指導しました。
体脂肪の多い遺体は燃えやすく、ナチスにより良い結果を見せることができるからです。
ユダヤ人たちは、プリューファーの指示に従い、ガス室で殺害された遺体の中から、栄養状態のいい男性の遺体50体を揃えました。
これまで以上に焼却時間が短縮されることを示そうとしたのです。
この頃、プリューファーが会社の上司と交わした会話・・・
「何故、収容所にはあれほど多くの遺体があるのだ?」by上司
「収容所では、ガス室で大量に人を殺し、その遺体を焼却しているのです」byプリューファー
その後も、アウシュビッツでは大量虐殺のための設備が整えられていきました。
地下にガス室、地上に焼却炉が設置された建物も・・・!!
ガス室で殺害したあと、遺体を焼却炉まで運搬する手間を少しでも省くため、一つの建物で完結できるようにしたのです。
1943年までに殺害と焼却機能を併せ持った大量虐殺のための施設は、アウシュビッツ内に5つ作られました。
プリューファーはこの施設で、ガス室での殺害を効率化する方法まで提案しています。
毒ガスとして使われていたチクロンBは、青酸化合物などをしみ込ませた粉末・・・過熱することで、青酸ガスの気化が促進されます。
プリューファーが考えたのは、焼却炉の余熱をガス室に送って、部屋を暖めようというものです。
毒ガスの気化にかかる時間を短縮しようというのです。
提案はナチスに採用され、焼却炉からガス室へ熱を送り込む配管が設置されました。
例えば、戦闘機や戦車の設計に関わった場合・・・
戦車は敵の戦車と戦うために作られます。
基本的な目的は、同じような武器を使う敵軍を負かすことです。
しかし、ガス室での殺害行為は、まったく一線を画します。
ガス室と、焼却炉は、身を守るすべを一切持たない無防備な人々を殺すために作られました。
プリューファーがやってしまったことは、どんな論理の域も軽く越えて、正当化しようのないものだったのです。
殺害と焼却を担う施設は、収容所のユダヤ人たちから死の工場と呼ばれました。
アウシュビッツだけで、1日8000人を焼却したとされます。
この頃、プリューファーは、会社に対し、更なるボーナスを要求していました。
「新しい焼却炉は、既に稼働中で、設計通りの性能を発揮しています
お約束の報酬を、一刻も早くお支払いくださいますようお願い申し上げます」byプリューファー
仕事で成果を出せば出すほど、評価が上がっていくことに駆り立てられました。
車内で尊敬を集めるようになっていくと、人間ならではの泥臭い部分が彼を突き動かしていました。
人間焼却炉の終わり
1943年、ドイツ軍はスターリングラードの戦いに大敗・・・
これをきっかけに、ドイツは劣勢に立たされていきます。
1945年1月、ソビエト軍がアウシュビッツの間近に迫っていました。
ナチスは大量虐殺を隠蔽するため、プリューファーの焼却炉の入った施設を爆破!!
解体しました。
1945年5月7日・・・ドイツ降伏!!
プリューファーは、ナチスに協力したとして、アメリカ軍に逮捕されました。
その翌日・・・会社の社長が自殺します。
プリューファーにとって、特権に守られていた世界が一瞬にして消えてしまいました。
アメリカ軍からは証拠不十分で釈放されたものの、その後、プリューファーはソビエト軍に連行されます。
尋問で、焼却炉が大量虐殺に使われていたことを認識していたかどうかを追及されました。
プリューファーは、罪を軽くしようと嘘を並べ立てます。
「1943年まで私は強制収容所の火葬場の本当の目的について何も知りませんでした
ガス室の存在も、目的も、何も知りませんでした」byプリューファー
「それでは、1943年からは、自分の焼却炉が罪もない人々の遺体を処理するためのものだと認識していたのか」
「・・・はい、知っていました」byプリューファー
わかっていながら焼却炉の建設をやめなかったのはなぜかと問われると、プリューファーは、自殺した社長に責任をなすりつけました。
「本当の目的を知った私は、これ以上関与すべきではないと社長に伝えました
すると、社長から、ここで手を引けばお前が逮捕され、強制収容所に送られると言われたのです
仕事を失うこと、ナチスの報復が怖かったのです」byプリューファー
プリューファーは、自分の命を救うために、臆面もなくうその証言をかさねました。
彼は、常により良い人生を求めて必死だったのです。
最終的には、おぞましい犯罪に加担して罰せられ、”恥知らず”な人間として語られる人生しか残りませんでした。
彼は、決して満たされることのなかった不幸な人間だったのです。
フリューファーは、裁判なしで有罪が確定。
25年の強制労働が課せられました。
この時、57歳。。。
4年後の1952年、拘禁期間中に脳卒中を起こし、61歳でこの世を去りました。
プリューファーがナチスに心酔していたとは思いませんが、あらゆる人を等しく扱う必要はないという思想をそのまま受け入れていました。
その人間が、生きている間はもちろん、死の場面においてさえも、そういった価値観がドイツの一般的な人々の中で当たり前のものとして受け入れられていたのです。
プリューファーは、あの古代のドイツを生きた人々を象徴するような典型的な人間でした。
どこにでもいるような普通の人間でした。
仕事での出世を夢見て、お金を稼ぎたいと願い、人から尊敬されたいと願う・・・普通の会社員でした。
果たして私たちは、彼と同じ状況で同じような行動をとらないと言えるでしょうか??
エアフルト・・・戦後長らくプリューファーとその会社トプフ&ゼーネ社について語られることはありませんでした。
1970年代に入り、研究者たちが眠っていた資料を掘り起こし、少しずつ事実が明らかになっていきました。
プリューファーの死から60年近くたった2011年・・・
会社の跡地を利用して、二度と過ちを繰り返さないよう市民たちによって博物館が設立されました。
館長の就任したのは、この会社とナチスの関係を20年にわたって調査してきた歴史研究家アネグレート・シューレ・・・博物館の壁には、トプフ&ゼーネ社の当時のセールス・コピーが掲げられました。
”あなたのためにいつでも喜んで取り組みます”
この日常的な言葉が、いかに責任のある言葉か・・・!!
人間が、日常的なごく普通の仕事を行う中で、犯罪に加担し、どこまでいってしまったかを・・・!!
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