1870年10月、日本近代化の象徴ともされる工場が操業を開始しました。
世界遺産・富岡製糸場です。
およそ5万5000㎡という強大な敷地の中に建てられた当時としては世界最大規模の製糸工場です。
その一大国家プロジェクトの建設を指揮し、初代場長となったのが尾高惇忠です。
尾高惇忠は、近代日本経済の父・渋沢栄一の従兄弟であり、学問の師でした。
その惇忠が、どうして明治になって官営の西洋式の器械製糸場建設に携わることになったのでしょうか?




江戸から明治へ・・・急速な近代化が推し進められる中、1870年2月、明治政府は官営の製糸場建設を決めます。
どうして製糸場??
それは、当時シルク製品のもととなる生糸が、日本の輸出品だったからです。

尾高惇忠は、1830年、武蔵国下手計村の名主の家に生まれました。
尾高家は、農業の他、米、塩、菜種油などの日用品と、藍の葉を発酵させて作った染料・藍玉の加工販売を手掛けていました。
幼いころから学問に秀で、商売にも熱心だった惇忠は、わずか17歳で私塾を開き、近隣の子供たちに論語をはじめ、多くの学問を授けます。
その教え子の中にいたのが、母方の従兄弟でまだ7歳だった渋沢栄一でした。
後年、栄一はこういっています。

「藍香(惇忠)ありてこそ、青淵(栄一)あり」

栄一が信頼を置く惇忠の私塾に掲げられていた言葉がありました。
知行合一・・・知識と行為は一体であり、学び得た知識は実際の行動を伴わなければならない
惇忠は、生涯、この信念を貫きます。
時代は移り・・・1870年、41歳になった惇忠は、郷里の深谷周辺で起きた揉め事を解決します。
それが、国家プロジェクトを任されるきっかけになりました。

備前堀事件・・・
尾高惇忠の近くに、備前堀という人口の用水がありました。
しかし、天明の浅間山の大噴火で埋まってしまったのです。
利根川から土砂が流れ込んだのです。

利根川の洪水がたびたび起きていたことで、備前堀に変わり、水を逃がせる新用水路を作るという役所の決定に、水が引けなくなる・・・と、備前堀を利用していた農民たちが大反対しました。
それを知った惇忠は、備前堀がいかに地域に必要かを説き、農民たちの負担で修繕すれば、以前の備前堀で問題はないと明治政府に提訴します。
用水路変更を中止させたのです。
すると、惇忠の理路整然とした訴状を読んだ民部省の役人が、
「このような人材を民間に置くのは国家の利益ではない」と考え、惇忠を民部省に登用しました。
そして、明治政府の一員となった惇忠に、早速大きな仕事を・・・とめをつけたのが、
先に民部省の役人となっていた従兄弟の渋沢栄一でした。

実は、栄一は、製糸場の建設計画を任されており、現場の責任者を誰にするか思い悩んでいました。

「そうだ!!兄者は、養蚕に詳しいじゃないか!!」by栄一

惇忠は、伯父・渋沢宗助が手掛けていた「養蚕手引抄」という蚕の育成書の手伝いをする中で、生糸に欠かせない養蚕の知識を得ていました。
製糸場建設プロジェクトを任されていた渋沢栄一が、能力に優れ、養蚕の知識があった尾高惇忠を抜擢したのです。

すぐに動き始めた惇忠・・・!!
建設用地の選定・・・惇忠は、渋沢栄一がお雇い外国人として迎え入れたフランス人技師ポール・ブリュナと共に、武蔵、上野、信濃などの養蚕の盛んな地を調査、そして選ばれたのが、上野国の冨岡だったのです。
どうして冨岡だったのでしょうか??
・冨岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できること
・工場建設に必要な広い土地が用意できたこと
 5万1500㎡の土地を、1210両で買い上げます
・製糸に必要な工業用水の確保
・機械を動かす蒸気機関の燃料となる石炭が近くの高崎、吉井でとれたこと
製糸工場のための環境が整っていたのです。

こうして、建設地が冨岡に決まると、惇忠は現地に入ります。
そして、建築資材の調達の手配をはじめます。

1870年11月、製糸場建設という国家プロジェクトの現場責任者となった尾高惇忠は、フランス人技師ポール・ブリュナと共に、上野国の冨岡に入り、検地をおこない、主要な建物の配置構想図を作成します。
それをもとに、フランス人設計士に設計図を書かせます。
しかし・・・製糸場の建物群は、長さ100メートルを超える2階建ての木骨レンガ造りでした。
木材で柱や梁を作り、壁面にレンガを積み上げていく構造になっていました。
問題は、レンガ造りでした。
当時の日本では、まだレンガやセメントの製造方法が知られていませんでした。
かつて尾高家の使用人で深谷での人脈の広い韮塚直次郎に資材調達を依頼します。
直次郎は、瓦職人を呼び寄せると、技師ブリュナからレンガの製造法を聞き、試作を重ねていきます。
そうしてついにレンガを作り上げます。
建設用に作られたレンガの数は、数十万個になったと言われています。
セメントは・・・??
古くから壁の上塗り材として使っていた漆喰を使います。
漆喰もセメントも、主原料は同じ石灰なので、代用できたのです。
しかし、巨大な柱にする木材の調達です。

柱になる大木は・・・??
富岡製糸場から西・・・
妙義山にある妙義神社が守ってきた樹齢500年の御神木・・・!!
あろうことか、惇忠はこれに目をつけます。
神主に話を持っていきますが・・・拒否!!
噂を聞きつけた氏子たちも猛反対!!
それでも惇忠は諦めませんでした。

「日本が西欧列強の植民地にされないためには、早く近代化しなければなりません
 その為には、どうしても妙義山の御神木のお力が必要なのです」

説得にすつぐ説得の末、惇忠の熱意が伝わり、神主や氏子たちは御神木の伐採を受け入れました。
こうして、建設資材が揃った1871年3月、工場の建設が始まりました。
そして・・・着工から1年4カ月・・・
1871年4月、当時、世界最大規模の器械製糸工場・富岡製糸場が完成しました。
惇忠は、初代場長に就任・・・43歳でした。



富岡製糸場は、主要建物は国宝に指定され、2014年には世界文化遺産に登録されました。
敷地の広さは5万5千㎡、現在残る建物のうち、東置繭所、西置繭所、製糸場の心臓部で繭を生糸にする繰糸所が開業当初の面影を残しています。

工場完成の2か月前・・・明治政府は製糸場の働き手となる工女を若い女性に限定して全国各地で募集します。
しかし・・・全く集まりませんでした。
原因は・・・
若い娘だけを募集するのは、その娘から生き血を取るために違いない!!
御用外国人のポール・ブリュナ一家が暮していら住居・・・ワインを飲んでいるのを見ていた近所の人が、赤ワインを生娘の血だと思い込んだのです。
そんなデマのせいで工女が集まらず、製糸場は操業をはじめられなかったのです。
国家プロジェクトを失敗させられない惇忠・・・
まずは、工女の年齢の上限を引き上げます。
募集条件が15歳から25歳までだったのを、30歳までにしました。
さらに、食事の支給、毎日の入浴、好待遇をアピールします。
ところが、それでも工女は集まりません。
惇忠は意を決して・・・まだ14歳だった長女の勇を深谷から呼び寄せ工女第1号としました。
父親が困っている姿を見て、「お国のために」と、自ら進んで工女となることを決意しました。
父を想い工女に志願した勇・・・その決断に、同郷の少女たちが刺激され、お国のためにと工女に志願!!
それが広がり、全国からの志願者が増えていきました。
こうして、工場完成から3か月たった10月4日、富岡製糸場が操業を開始しました。

全国から来た工女・・・
寄宿舎は2棟で116部屋あり、6畳一間に3人~5人で生活をしていました。
工女たちの主な仕事場は、繰糸所・・・当時、世界最大規模の工場で、多い時で500人もの工女たちが働いていました。
器械はフランスから輸入、それを体の小さい日本人女性が作業しやすいよう改良しました。
開業当初は電灯がなかったため、自然光を取り込めるガラス窓を多く設けています。
工女たちの一日は・・・
  7時・・・仕事開始
  9時・・・30分休憩
12時・・・1時間の昼食タイム
15時・・・15分の休憩
16時30分・・・仕事が終わり

基本的に7時間45分労働でした。
ただし、8月は、繰糸場が熱くなるため、過酷な労働環境に配慮し、昼休みが4時間あったといいます。

当初の富岡製糸場は、年功序列ではなく、能力給でした。
工女を能力によって等級別に分け、月給が支払われました。
1874年の資料によると、一番下の7等工女は月給75銭・・・1万5000円。
等外上等工女になると3倍以上の3円・・・6万円ほどでした。
当時、男の大工の月収が、平均9円62銭でした。
それに比べると安いですが、給与以外に夏服料2円、冬服料3円が支給され、日曜祝日は休み、夏休み、年末年始休暇、三食付きで医療費もタダ・・・
工場内に診療所があり、当初はフランス人医師が診療していました。
医療費や薬代はすべて富岡製糸場が負担していたのです。
女性の仕事としては好待遇でした。
政府が日曜日を休日と定めたのが1875年・・・時代を先取りしていました。

富岡製糸場は、機械だけでなく、新しい働き方をいち早く西洋から取り入れ、実践していました。
画期的なことでした。
惇忠は、工女たちに生糸づくりの技術を習得させるだけではなく、教育の場を設け、一般教養の向上に務めました。
習字、裁縫、礼儀作法・・・情操教育も行ったのです。
富岡製糸場で働くと、花嫁修業にもなると、噂になり工女が増えていきます。
惇忠は、製糸場でも知行合一という信念を貫いたのです。

官営の富岡製糸場は、近代化工場のモデルコース・・・工女たちは、身につけた技術を、郷里に持ち帰り、広めていくことを期待されました。
惇忠は、そうして巣立っていく工女たちにこんな言葉を残しました。

「繰婦は兵より勝る」

さらに、工女たちのモチベーションを高めるために、お暇するときは50銭ずつ下賜しています。
こうして、働くことの喜びを知った工女たちは、地元の製糸場で工女のリーダーとなり、日本の近代化に貢献していきます。
工女の教育に心を砕き、技術だけでなく教養の向上に努めた尾高惇忠・・・富岡製糸場が生み出す生糸は、1873年、ウィーン万国博覧会で進歩賞牌を受賞しました。
富岡製糸場と生糸が、世界に認められたのです。

1875年、富岡製糸場場長・尾高惇忠は、またも頭を悩ませていました。
創業から3年間、赤字が続いていたからです。
記録によると、3年間で収入は487,111円(現在97億4千万円)だったのに対し、支出は707,345円(141億4千万円)でした。
その収支は、-220,234円(44億円)でした。
大赤字だったのです。
この赤字を如何にして解消したのでしょうか?

赤字解消策①経費削減
出費がかさむ大きな原因となっていたのが、製糸場に携わる外国人技師たちに支払う給料などでした。
工場運営の予算において、工女500人分の給料や賄い量が43.8%なのに対し、9人のお雇いフランス人の給料や賄い料が34.8%でした。
丁度その時、お雇い外国人であるブリュナと政府との契約が切れました。
フランス人技師たちが帰国することになりました。
惇忠は、これは好都合と、新たな外国人を雇わずに、日本人だけで経営することで経費を大幅に削減します。

赤字解消策②大博打
1876年、惇忠は、例年の2倍もの繭を買いあさります。
繭の相場はきっと上がる・・・!!
この年、日本では繭が豊作となり、値段が下がっていました。
しかし、海外は不作・・・惇忠は、その影響でやがて繭の相場が上がると踏んだのです。
まさに、大博打でしたが、読みは的中!!
安く買った繭を、相場の高騰に合わせて売りさばきました。
繭相場で設けた利益で、損失を補填!!
見事、製糸場を赤字から黒字へとしたのです。



経費削減と、繭相場での利益によって、富岡製糸場の赤字を解消した初代場長・尾高惇忠・・・
しかし、黒字に転じた1876年11月・・・惇忠は、場長の職を辞します。
遡ること3年前、ウィーン万国博覧会で富岡製糸場の生糸が進歩賞牌を受賞。
喜んだ惇忠でしたが、大きな不安を感じていました。

「冨岡の生糸が、本場ヨーロッパで認められたということは、これから大幅な輸出が期待できるだろう・・・
 しかし、そうなったらそうなったで、必要となるのが繭・・・供給を安定させなければならない・・・」

当時の養蚕は、春蚕といって、年1回、孵化した蚕を飼育、それから繭を取っていました。
その為、不作の年には、繭の供給が不足することもあり、このままでは輸出増大に対応できないと考えたのです。
そこで、惇忠は、埼玉県の養蚕家が始めていた秋蚕に目をつけます。
秋蚕とは、涼しい土地で保管して置いた卵を、夏以降に孵化させた蚕のことです。
孵化の時期を遅らせることで、年に2回以上蚕の飼育ができるという画期的なものでした。

「秋蚕が普及すれば、繭の安定供給が見込める・・・!!」

しかし、そこには問題がありました。
高温多湿の夏に解雇を飼育すると、蚕の病気が発生しやすい・・・
明治政府が蚕の病気を理由に、「春蚕」しか認めていなかったのです。
つまり、秋蚕の普及は、政府の方針に逆らうというものでした。

「私が秋蚕の普及を奨励するなら、官職を免ぜられると・・・しかし、生糸のためなら、それもやむ終えない!!」

惇忠は、秋蚕が国益になると信じ、普及に尽力します。
繭相場で製糸場の赤字を解消したのは、そんなさ中でした。
この時、政府に呼び出され、危険極まりないと、批難されていたのです。
これが決め手となりました。
製糸場のため、国益のためと尽力するも、政府と相容れないと思い知り、場長を辞したのです。

自分の信念を貫き、富岡製糸場を去ることにした尾高惇忠・・・
その思いは、やがて報われます。
1878年、場長を辞任した2年後・・・
惇忠が奨励していた秋蚕の飼育が認められたのです。
これを機に、日本の生糸の生産量は飛躍的に伸びていきます。
こののち、惇忠は第一国立銀行仙台支店の支配人などを歴任。
養蚕に関する著書を執筆するなど、養蚕業の発展に最期まで貢献します。
そして1901年1月2日・・・70歳・・・知行合一を貫いた人生に幕を下ろしたのです。

1893年、富岡製糸場は三井家に払い下げられ、民営化されました。
150年の長きにわたり、操業は続けられました。
その土台をしっかりと築き上げた初代場長・尾高惇忠・・・
国のため、富岡製糸場のため、まさに深い知識を以て行動した人でした。
現在、世界各国が取り組んでいるSDGs・・・その中に、”産業と技術革新の基盤を作ろう”という目標があります。
富岡製糸場は、まさに西洋の新しい機械やシステムを導入し、技術革新を果たした世界最大規模のハイテク工場でした。
そこに惇忠は、働き甲斐と質の高い教育を与えるなど、SDGsの理念を体現したのです。
これは、高い志を持ち、知行合一の精神を持って生きた尾高惇忠だからこその功績・・・そういえるのではないでしょうか??

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