戦国の常識を変えると熱い注目を集める巨大山城があります。
それが、福島県の桑折西山城です。
近年の発掘調査で、先取りした革新的な山城であることが明らかになってきました。
戦国後期に多用された畝堀が時代に先駆けて施されていました。
さらに、この山城の先進性を伺えるのが、城下の家臣を集めて住まわせたことです。
後の城下町のようにしていました。
あの織田信長が始めたと言われてきたことが、その30年も前に東北の地で行われていたのです。
戦国史を揺るがす巨大山城・桑折西山城!!
この革新的な城を築いたのは、伊達氏14代当主・伊達稙宗です。
後に東北を席巻する独眼竜・・・伊達政宗の曽祖父です。
都から遠く離れた東北の地で、画期的な巨大山城を築いた稙宗。
この城に、いかなる野望を秘めていたのでしょうか?



福島県伊達郡桑折町・・・ここに、東北地方屈指の巨大山城・桑折西山城があります。
標高190メートルの山全体に築かれた桑折西山城・・・
山の上に、曲輪と呼ばれる平地の区画をいくつも備える巨大城郭でした。
戦国時代の姿が残る全国でも貴重な山城です。

この城が築かれたのは、鉄砲が伝来する前の1532年頃・・・。
当時としては極めて高度な防御施設が、各所に設けられていました。
本丸と二の丸の間に空堀が・・・!!
人工的に掘られた空堀と、掘った土を積み上げた土塁、さらにここにはある仕掛けが・・・堀底に土塁を作って畝堀という形式の空堀となっています。
この畝堀は、戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めに対抗するために北条氏が築いた山中城で知られています。
しかし、桑折西山城では、その50年以上も前に畝堀が城の守りに使われていました。
桑折西山城の本丸は・・・??
伊達郡一帯が一望できます。
桑折西山城がある場所は、奥州街道と羽刕街道の分岐点・・・まさに交通の要衝でした。
そこにあった山を利用して城を築いたのが、伊達氏14代当主・伊達稙宗です。
山頂には、本丸、二の丸、中館、西館と、4つの大きな曲輪があり、それぞれが一つの山城の大きさを持っていました。
本丸には、城主・伊達稙宗の館があり、そこで生活すると同時に政治運営も行われていました。
それは、当時の山城の機能としては、画期的な使われ方でした。
これまでは戦いのための山城・・・日頃は平地の館にいました。
それが、鎌倉以来・・・室町時代の武士の館とお城の使い方でした。
しかし、軍事を基本にして、生活と政治、3つの機能をすべて山城が果たしていきます。
戦国期の拠点城郭に大きく変わっていった新しい時代のお城に踏み出したものでした。
実際、発掘された遺物からは、山城で政治や生活が行われていたことがわかります。
京都などとの交易によってもたらされた高級品の数々・・・伊達氏が、中央と密接なつながりを持っていたことがわかります。
すり鉢や、石臼なども多く出土しています。
文化的な山城でした。

さらに、桑折西山城の特色は、伊達の一族や有力家臣が暮していた中館、西館といった曲輪・・・。
そこにも、本丸に劣らない防御が施されていました。
高さ5メートルほどの大きな空堀です。
この強力な防御を施した曲輪に、一族や有力家臣を住まわせていた伊達稙宗・・・
もともと、それぞれの領地に館を構えていた彼等を、自らの城に集めることで、権力を一元化させる狙いがあったと考えられます。
桑折西山城の城下にも、それを推し進めようとしていました。
有力な家臣が稙宗の本拠地に常駐して、武士としての権力を作っていく・・・!!
こうした城下に家臣を集める城づくりは、織田信長が、1563年に居城とした小牧山城で家臣を城下に集めるようになったことといわれてきました。
しかし、それより30年も前に、信長と同じ城づくりを行っていたのです。

伊達稙宗は、1488年に生まれ、20代前半で伊達氏の家督を継ぎました。
もともと、伊達郡を治める一領主に過ぎなかった伊達氏・・・稙宗の時代には、現在の福島県北部から宮城県南部、山形県南部にまで領土を広げていました。
稙宗の勢力拡大を支えたのは、政略結婚でした。
彼には男女合わせて21人の子供がいました。
その子供たちを、次から次へと周辺と縁組させていきます。
縁組を拒んだ、最上氏や岩城氏は、軍事行動で制圧。
硬軟を織り交ぜた手段で、版図を拡大させたのです。
その結果、周辺のほとんどの大名と縁戚関係が結ばれ、伊達氏は奥羽地方屈指の勢力と成長しました。
さらに、稙宗が重視したのが室町幕府とのつながりでした。
伊達氏は、代々室町幕府と密接な関係にありました。
将軍から名前の一字を与えられることも多かったのです。
稙宗の名も、十代将軍・足利義稙から一字を拝領したものです。
そして、稙宗は、1522年、35歳の時、幕府からある役職に任命されます。
それが、陸奥国守護職でした。
それまで守護が置かれていなかった奥羽において、異例の地位を得たのです。
名実ともに奥羽の盟主となった稙宗は、次なる行動に出ます。
それが、桑折西山城の築城でした。
1532年、稙宗は45歳にしてこの城に拠点を移します。
独自の支配体制を構築していきます。
その象徴となったのが、矢継ぎ早に制定した新しい法制度です。
居城を移した翌年からわずか6年で、4つもの法令集を発布。
伊達氏による新たな支配体制を世に示しました。
稙宗が政治を行った場所が、桑折西山城の本丸です。

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1536年制定の「塵芥集」
訴訟に関わる法令で、なんと171の条文があります。
その内容は、殺人や窃盗といった刑事犯罪をはじめ、土地の売買、質入れでの揉め事など、多岐にわたりました。
なかには離婚、犬、落とし物にあたる条文まであります。
塵芥集の特徴は・・・その制定の必要性は??
道理にかなった納得してもらえる判決を下すためです。
第一義的には、家臣たちのために出した条文です。
家臣たちが支配している領地の領民たちの問題にも対応しています。
実際、塵芥集の中には、稙宗が家臣だけでなく、全ての領民に目を向けていたことをうかがわせる条文があります。

”万民を育むために、用水路を通すようにせよ
 農業用水は、万民の助けである
 誰か一人の損得で用水路をつぶすことは民を育む道理に反するものである”

民が生きていくうえで必要なものなので、用水路は引くべきだ
民衆たちを養うこと、民衆たちの生活を維持することが、領主としての役割だという認識が伺えます。
家臣だけでなく、領民のための政治を掲げることで、稙宗は新しい国づくりをしようとしたのです。

奥羽地方、現在の東北で勢力を拡大させ、法による支配体制を強化していった伊達稙宗・・・
しかし、その理想を追った急進的な改革は、次第に家臣たちとの間で軋轢を生んでいきます。
桑折西山城の城下に集められたことで、家臣たちはもともと持っていた所領から離れざるを得なくなります。
さらに、稙宗が行う民衆の政治は、家臣の既得権益を奪う者でもありました。
後に伊達政宗は、曽祖父である稙宗についてこう評しています。

「稙宗は、家臣の扱いが悪く、家中では皆恐怖心を持ち、恨みを抱くものが多かった」

そんな中、拡大路線を推し進める稙宗は、新たな外交政策に打って出ます。
越後の守護である上杉氏に跡継ぎの男子がいないため、我が子を養子に送り込もうと目論んだのです。
もし、上杉と関係を結ぶことができれば、伊達の影響力は日本海まで及ぶことになります。
これに対し、越後では賛否両論が起こり、反対派の上杉家臣が、反乱を起こすに至りました。
この時、稙宗が周辺大名に送った書状にはこう書かれています。

「越後では意見が分かれ、内乱が起こっているが、反対するものは退治する」

武力を行使しても、あくまで上杉との関係を結ぼうとしていた稙宗・・・
1542年、事態は思わぬ展開に・・・
鷹狩りに出かけた稙宗が、帰り道につら得られ、桑折西山城に幽閉されたのです。
謀反を起こしたのは、稙宗の嫡男・当時24歳の伊達晴宗でした。
稙宗の支配体制に不満を抱いた家臣たちが、晴宗を担いで稙宗を失脚させたのです。
まもなく、稙宗は腹心の家臣に救出され、桑折西山城を脱出。
これからいかに行動すべきか、選択の時が・・・!!
戦ってでも当主の座を守る??
それとも、当主の座を譲っておとなしく隠居??

桑折西山城から家臣の城に逃げ延びた稙宗は、姻戚関係を結んでいた大名たちに書状を送り、出兵を求めました。
息子の晴宗と戦ってでも当主の座を守ることを決断したのです。
これによって、伊達の家臣だけでなく、奥羽一帯の大名が稙宗派と晴宗派に二分!!
6年も続く戦乱が幕を開けました。
天文の乱です。
乱の勃発当初は、近隣の大名の多くを味方につけた稙宗が優勢に戦いを進めます。
晴宗から桑折西山城を奪い返すことに成功。
城に戻った稙宗はこう語りました。

「東西南北、ようやく静謐となるであろう」

しかし、予想に反し、戦いがおさまることはありませんでした。
伊達家の対立が飛び火し、周辺大名の家中でも稙宗派と晴宗派に分かれた戦いが始まったのです。
援軍の減った稙宗は、劣勢になっていきます。
さらに、娘を嫁がせていた有力大名・会津の芦名氏が、晴宗派に寝返ったことで、稙宗は窮地に陥ります。
そして、この奥羽一円を巻き込んだ戦乱は、将軍・足利義輝の停戦命令によって、1548年に幕を下ろす・・・稙宗は晴宗に破れたのです。
戦乱が終わると、稙宗は現在の宮城県にある丸森城に隠居。
以後、伊達の政治運営に関わることなく1565年この世を去ります。
享年78歳でした。

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一方、伊達氏15代当主となった晴宗は、居城を米沢城にうつします。
稙宗が新たな国づくりを行わんとした桑折西山城は、築城からわずか16年で廃城となりました。
しかし、この城には、稙宗の死後、再び使われた痕跡があります。
敵の侵入を阻むために、門の西側の道をL字型にする外枡形・・・
さらに、西館では門の内側にも桝形が築かれ、二重に守りを固めていたのです。
こうした出入り口が作られるようになったのは、戦国末期の頃です。
伊達家でいうと、ひ孫の政宗の時代・・・!!
もう一度、臨時の軍事拠点として、桑折西山城が瞬時的に使われていたことを証明しています。

実際に誰がこの城に桝形を築いたかは解明されていません。
しかし、一説にはひ孫の伊達政宗だったのではないかと考えられています。
稙宗の死から2年後に生まれ、奥羽の覇者へと上り詰めて行った政宗・・・
稙宗が、この桑折西山城で抱いた野望は、政宗へと引き継がれていったのかもしれません。

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