1998年、衝撃の映像が全米を揺るがせました。
末期患者の命を奪っているのは元医師・・・男の名は、ジャック・キボキアン。
苦しまず、確実に死ねる自殺装置を自ら作り、130人を死に至らしめました。
人呼んで死を処方する医師!!
医師であったにもかかわらず、患者を救うことより死そのものに興味がありました。
誰よりも死に精通し、誰よりも死を愛した男。
ドクター・デス!!
科学の闇が生んだ怪物の物語です。



1987年、アメリカ・ミシガン州デトロイト。
デトロイトの新聞に掲載された奇妙な広告・・・

”デス・カウンセリング
 あなたの家族に死を望む末期患者はいませんか?
 私に電話してください”

広告主は、医師ジャック・キボキアン、59歳。
病院勤務をやめ、缶詰と生活保護で暮らしていました。
この広告から11年で130人もの命を奪うことになります。

キボキアンが生まれたのは、ミシガン州の田舎町ポンティアック。
1928年、アルメニア移民だった長男、姉と妹に挟まれたキボキアン家ただ一人の男の子でした。
学校の成績は極めて優秀、しかし、人付き合いは苦手でした。

1948年ミシガン大学医学部に入学したキボキアンが専攻に選んだのは病理学でした。
死者の体を開き、その死をもたらした原因を探る・・・!!
生きた患者と接することはほとんどありませんでした。
卒業し、大学の研修医となったキボキアンは、ある研究に熱中するようになります。
勤務時間を削って訪れるのは、末期患者の病室でした。
死期の迫った患者にそっと近寄り心電図を取り付けます。
そして、患者の瞼をこじ開けます。
その研究成果は、彼の初めての論文として残されています。

1956年に発表された「眼底による死の確定」
28歳の病理医師が提唱したのは、患者の角膜を観察し、死の瞬間を見極める方法でした。
人間が死ぬときには、網膜の血管が徐々に消えていく・・・!!
その変化をつぶさに観察すると、人がいつ死ぬか、正確に予測できるというのです。
キボキアンは、進んで夜勤を希望しました。
患者が亡くなるのは、夜だったからです。
彼は、死ぬ瞬間の目の写真を撮ることで、肉体的変化と死の関係を分析しようとしました。
本人は、とても有益な研究だと考えていたようです。
その3年後、キボキアンはさらに死についての論文を発表します。

1959年「死刑か資本利得か」
この論文でキボキアンは、電気椅子の代わりに薬物による処刑方法を提案します。
安らかな死を施す引き換えに、死刑囚に生体実験をすべきだと主張しました。
キボキアンが死刑囚への生体実験を主張した理由は、
”どうせ死刑になるなら医学の役に立つべきだ”
というものでした。
彼は、第2次大戦中、ナチスが行った人体実験について、
”実験自体は正しいことであり、同意を得ていなかった事だけが誤りだった”
と言っています。
彼が目指していたのは”死”というものに、科学的な価値を見出すことだったのです。
いつしか、ドクター・デスと呼ばれるようになったキボキアン・・・務めていた地元の病院を転々とし始めます。
その研究は、死んだ直後の人体から直接輸血しようというものです。
1962年・・・「死体からの輸血方法」
生体実験を重視していたキボキアンは、実験台となってくれと、協力者・医療検査技師のニール・二コルに頼みます。

「最初の実験は、心臓発作で亡くなった人でした
 死体の血液検査を行い、その隣に私が横になり、直接輸血したのです
 実験中は、気を失うことがあったので、冗談で”今俺は輸血ハイだ!”などと言っていましたね
 でも、実はかなり怖い思いをしていたものです」byニコル

医療関係者は誰一人、その論文の目を向けようとはしませんでした。
キボキアンが”死”に関してたくさんの論文を書いたことは、勤務先だった病院で大きな問題になりました。
論文名が書かれた彼の履歴書を見ると、ほとんどの人が大きな恐怖にかられるのです。
医学界は、キボキアンを敬遠するようになりました。
彼は、異質な存在だったのです。
キボキアンは「彼らは愚かだ」「知識がない」と、批判しました。
やがて、彼は、自分だけが正しくて、他の医師は全員間違っていると考えるようになったのです。

1985年、ある女性の死が世間をにぎわせます。
アメリカ・ニュージャージー州で、昏睡状態だったカレン・クィンランが、肺炎で死亡・・・
21歳で植物状態になったカレンは、回復する見込みもないまま延命治療で生き続けていました。
両親はその姿を見るに忍びず、生命維持装置が外されることになりました。
しかし、カレンは、自力で呼吸をはじめ、死にませんでした。
植物状態のまま生き続け、9年後に亡くなったのです。
その死に方をキボキアンは批判しました。

「患者には死ぬ時を、自分で判断する選択肢が与えられるべきだ」

病院にいれば、もちろん病院は延命措置を懸命に行います。
でも、治る見込みのない患者もいます。
患者はそのことを病院側から知らされることも無く、ただ入院しているだけ・・・
ジャックは、解決策を見つけないといけないと思っていました。



キボキアンは、新たな論文を発表します。
そのタイトルは「計画的な死」

「「計画的な死」とは、人間の生命を意図的に終了させる行為である。
 それには死刑執行、自殺、堕胎が含まれるが、注目すべきなのは安楽死である
 今こそ、勇気をもって死に新しい定義を与える時である
 単なる「よい死」では十分ではない
 もっとも安らかな死・・・つまり、「最良の死」を達成しなければならない」byキボキアン

キボキアンは、法の目をかいくぐる最良の死について考え始めます。

「まず第一にどんな方法を用いるかを決めなければならない
 即効性という点では、シアン化合物の方が上だが、その死に方は窒息と同じくらい苦しい
 バルビツール剤による昏睡の方が、間違いなく人道的であり、ゆえに好ましい」byキボキアン

しかし、致死量のバルビツール剤の丸薬は量が多く、もし患者が呑み込めないと昏睡に陥り、長期に及ぶ植物状態に至ることもある・・・
キボキアンは、安らかで確実な方法は静脈注射以外にないという結論に達しました。

「だが、現行法においては、注射によって患者を殺した者は殺人の罪に問われる
 なんとかして、患者自身が打つようにしなくてはならない
 私は、それを実現する方法を思いついた」byキボキアン
 
キボキアンが考え出したのが、自殺装置「タナトロン」
ギリシャ語で”死の機械”を意味します。
この装置こそ、長年にわたっての死の研究が生かされたものです。
まず、患者に生理食塩水を点滴します。
患者は、自分の好きな時間にスイッチを入れる・・・
すると、生理食塩水が止まり、大量の麻酔薬チオペンタールが注入され、同時に装置内のタイマーが作動します。
60秒後、濃縮した塩化カリウム溶液が注射針から体内に流れ込む・・・
患者は、麻酔薬によって睡眠状態に陥ったまま、苦しむことなく心臓発作を起こす!!
確実に死に至るまでおよそ5分・・・!!

キボキアンが作ったタナトロンは、患者が自分の意思でスイッチを押さないと起動しません。
このシステムにより、「殺人ではなく自殺なのだ」と言い逃れられるようになっていたのです。
キボキアンは、法の目をかいくぐるという自ら死のルールを作りました。

①自殺を助けるのは、耐えがたい苦痛を抱えた末期症状の患者に限る
②患者に死にたいという意思を自らハッキリと表明させる
③患者の自殺後は、現場にとどまって検視に立ち会い最後の様子を証言する

1989年、キボキアンのもとに電話が・・・
オレゴン州に住むジャネット・アドキンズ54歳(1人目の患者)
進行性アルツハイマーと診断された彼女は、病により判断が鈍る前に、自ら命を絶つことを決意していました。
キボキアンは、自ら決めた死のルールに従い、自殺の意思を表明させます。

1990年6月4日・・・朝8時30分。
キボキアンは自宅から30分離れた郊外のキャンプ場に向かいます。
ジャネットの自殺は、キボキアンの所有するワゴン車で行われることになりました。
午前9時。。。キボキアンは、車の中にタナトロンを設置、念入りにテストを繰り返します。
午後2時。。。到着したジャネットは、車内のベッドに横たわります。
準備を終えたキボキアンは、ジャネットにこうささやきました。

「よい旅を・・・」
「ありがとう」

ジャネットは、自らタナトロンのスイッチを押しました。
わずか6分で、息を引き取りました。

キボキアンは後にこう記しています。

「午後2時30分・・・
 その寒いじめじめした日に、はじめて暖かい日の光がパークに差し始めた」byキボキアン

そして、警察に電話をかけ、自ら定めた死のルール通りに検視に立ち会いました。
完璧な死の処方・・・それは、怪物が誕生した瞬間でした。

「死の医師」を支えた女性
初めての死の処方から半年後・・・1990年12月3日。
キボキアンはミシガン州から殺人の罪で告発されます。
しかし、わずか10日後にその告発は取り下げられました。
決め手は、ジャネット自身が自殺の意思を表明するビデオ。
そしてジャネットが自分でスイッチを押したことでした。
ミシガン州には、自殺ほう助を禁止する法律がなく、キボキアンは罰せられることがありませんでした。

1991年10月23日、同時に二人の女性に死を処方しました。
腫瘍による骨盤の激しい痛みに苦しむ58歳の女性と、多発性硬化症の43歳の女性です。
この二人の死についても、キボキアンは殺人罪で告発されますが、証拠不十分で再び無罪となりました。
その陰には、協力者の存在がありました。
キボキアンの2歳年上の姉マーガレット。
デトロイトの自動車会社クライスラーで秘書として働いていました。
実務に詳しく、その経験を活かして弟が始めた死の処方を全面的に支えました
患者が自殺の意思を表明するビデオはマーガレットが撮影。
同意書の作成など細かい作業もすべて行いました。

マーガレットは、弟の裁判に向けて、敏腕弁護士を雇いました。
自分のルールにのっとり、死を処方するキボキアン・・・
そして、彼を守るという役割に徹した姉・・・。
幼いころから大の仲良しだった姉弟。
彼等の両親は、20世紀初めオスマントルコによるアルメニア人の虐殺を逃れ、アメリカに渡ってきた移民でした。
家族の絆は深く、頭がよく医師となったジャックをマーガレットは誇りに思っていました。

アルメニア人社会では、男子がとても大事にされます。
キボキアン家の唯一の男の子だったジャックは、家族のヒーローだったのです。
長女だったマーガレットは、いつもジャックを守ろうとしました。
ジャックが犯罪を犯さないようにブレーキをかけ、つなぎとめる役割を果たしていたのです。



1991年11月20日、裁判が続いていた時・・・予期せぬことが起こりました。
ミシガン州医師会が、突然キボキアンの医師免許をはく奪したのです。
医師免許がなければ医師でしか使えない薬物を入手することができない・・・!!
自殺装置タナトロンは、もう使えない!!
医師免許がなくても扱えるものはないか・・・??
それも確実に、患者に死を与えられるものを・・・!!

ニコルは、キボキアンの代わりに一酸化炭素を購入しました。
新たに手にした自殺の道具。。。一酸化炭素。
一酸化炭素は、無色、無味、無臭・・・その威力は比較的低濃度でも速やかに命を奪うほど強い・・・!!
キボキアンは、ボンベからマスクにつながるチューブに、紐のついたクリップを取り付けます。
そして、その紐を、患者の手に握らせます。
ボンベのバルブを開き、患者に自分の意思で紐を引っ張らせる・・・
一酸化炭素の濃度は、5分ほどで死ねるよう調整して置く。
新しい自殺装置マーシトロン・・・ギリシャ語で「慈悲の機械」を意味しました。
そして、キボキアンは、患者が一酸化炭素を吸って死んでいくのをじっと観察するのです。

「このガスは、しばしばその顔をバラ色に染め、死体になった後の見栄えも良いのだ」byキボキアン

キボキアンはこの方法で、確認されているだけでも92年に5人、93年には12人に確実な死を処方しました。
姉マーガレットは、キボキアンの手にかかって自殺した患者の遺族会を主催。
遺族たちの連帯を演出しました。
キボキアンは、ヒーローとなりました。

姉の死・・・加速する暴走。
1994年9月11日・・・姉マーガレットが心臓発作で急死・・・68歳でした。
ここからキボキアンの歯車が狂っていきます。
葬式で、牧師は「ジャックは自分の体の良い方を失った」といいました。
その後、多くの女性がマーガレットの後を継ごうとしましたが、だれも代わりになることはできませんでした。
キボキアンは、この頃から自らに課した死のルールを蔑ろにし始めます。
それは、裁判で勝ち続けていたことから来る過信だったのか・・・??
必ず立ち会っていた検視の現場から姿を消すようになります。
キボキアンは、次第に自殺ほう助を隠すようになっていきます。
大っぴらにではなく、こっそりやるようになったのです。

1994年・・・ミシガン州自殺ほう助禁止法を施行
キボキアンは、過去4件の事件で再び起訴されます。
強い味方で代弁者でもあった姉はもういない・・・!!

キボキアンは追い詰められていきます。

「私は囚人と同じ扱いを受けている」

キボキアンは、自分が迫害されていると主張しました。
マーガレットが死んだ後のジャックは、突拍子もないことを言いだしたり、人と諍いを起こすようになります。
だれもマーガレットの代わりは務められなかったのです。

1993年3月、地元新聞が驚愕の事実を明らかにします。
キボキアンが自殺させたとされる46人のうち、少なくとも30人近くは末期症状ではなく、13人は耐えがたい苦痛を訴えてはいなかったのです。
キボキアンは、患者の病状に関わらず、頼まれるまま手を下していたのです。

翌年9月・・・130人目の患者トマス・ヨウク
キボキアンは、筋萎縮性側索硬化症の男性と出会います。
全身まひに苦しむトマスを前にしたキボキアンは、遂に、最後のルールを破ります。

「私の手で注射してあげよう
 その方がより確実で人道的だ」byキボキアン

1998年11月22日、衝撃の映像が全米を揺るがせました。
全米ネットの人気番組の中で映し出されたのは、2カ月前に撮られたトマス・ヨウクの映像でした。
後姿のキボキアンが手にいているのは麻酔薬です。
キボキアンは、自らとトマスに注射打ちました。

もはや、自殺ほう助ではなく殺人でした。

「私は”ジャック、君は間違っている、これは殺人だ、刑務所に行くことになる”と、忠告しましたが、彼は”いや、そんなことはない。計画通りで証言者もいるから大丈夫だ”と、譲りませんでした」byニコル

常に死がそばにあり、死を追い続けてきた男・・・
行きついた先は、自らの手で死を生むことだったのか・・・??
自ら撮影したビデオを解説するキボキアン・・・!!

死に魅せられた男、その最期
1998年11月25日、キボキアンは、トマス・ヨウクを殺害した容疑で逮捕されました。
証拠として提出されたのは、前米ネットワークで流されたあの映像・・・
キボキアンが自ら薬物を注射して、患者を殺した決定的瞬間でした。
公判でキボキアンは、自ら自分の弁護に立ちました。
そして、安楽死という概念を持ち出し、自分に罪はないと主張!!
判決は有罪。
禁固10年から25年・・・キボキアン初めての有罪判決でした。

2007年6月1日、出所したキボキアンは、79歳になっていました。
仮釈放の条件として言い渡されたのは、”二度と自殺ほう助をしないこと”。
死の処方を禁じられたキボキアンは、全米を回り安楽死の有効性を説き始めます。
その相手は、大学の若者たちでした。

2008年には下院選挙に立候補。
安楽死が全米各州で認められるよう法律改正を迫りました。
結果は、候補者中最低で落選。

キボキアンは、とにかく自分の頭の中で生きて行動しているような人でした。
自分の考えだけが正義で、他人の意見から影響を受けることはありませんでした。
おそらく彼は、自分を人類の歴史の中の先駆者として見ていたのでしょう。

2011年3月18日、キボキアンは腎臓がんで入院しますが、病院は嫌だとすぐに退院をしました。
その翌日・・・病状が急激に悪化、再び強制入院させられます。
病院は耐えられない・・・自分の命は人の手に委ねられないと言い続けました。

何故、ジャックは同じ方法(自殺ほう助・安楽死)を取らなかったのか??
懸命に啓蒙活動をし、自分でもやっていた安楽死を選ばなかったのか??

ジャックは、状況が許せば喜んで安楽死の道を選択しただろう。
でも、病院に戻ったときには、彼には何かを決断する体力はもう残っていなかった。

2011年6月3日、ジャック・キボキアンは手厚い治療を受けた末、医師に見守られ83歳で死亡。
130人の死を見つめたドクター・デスは、姉・マーガレットの横に眠っています。
死の間際、病院のベッドで残した最期の言葉は、

「こんな死に方をするなんて」

安楽死をめぐる議論は、今も世界中で続いています。
2021年、ニュージーランドは安楽死法を施行します。
その一方、フランスでは安楽死法案の審議が時間切れとなり、ポルトガルでは議会が可決した安楽死法を憲法裁判所が差し止めました。
日本では法律で認められていません。

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