今から70年以上前、京都・国宝金閣寺が放火によって焼け落ちました。
犯人は、驚くべきことに、金閣寺で修行する一人の青年僧でした。
犯人は、林養賢。
事件は、文学者の創作意欲を触発します。
三島由紀夫は、養賢が語った動機”美に対する嫉妬”という言葉を主題に名作「金閣寺」を執筆しました。
近年、その創作ノートが公開され、三島が事件をどう見ていたのかが明らかになりました。

一方、自らも禅寺の修行そうだった・水上勉・・・20年の歳月をかけて事件の背景を調べ上げ、ノンフィクション「金閣炎上」を発表しました。

事件のあと、再建を果たした金閣・・・その先頭に立ったのは、金閣寺の住職・村上慈海でした。
弟子に金閣を燃やされたその胸の内とは・・・??
戦後間もない日本を揺るがせた金閣寺炎上事件・・・その真相とは・・・??
金色に輝く名刹・・・金閣寺。
京都を訪れる人にとっては、必ず参拝したい場所の一つです。
世界遺産にも登録された美しい金閣は、かつて全焼した・・・という過去をどれだけの人が知っているのでしょうか?
1950年7月2日。
金閣寺が放火された日です。
私たちが目にする金閣寺は、事件のあと再建されたものです。
修行僧・・・林養賢。
養賢は、自分の持ち物を集めたトランクや布団、わらなどを金閣の一層部分に運び入れると、菌核と一緒に死のうとマッチで火をつけます。
木造三層の金閣は、雨の中、火柱を挙げて瞬く間に燃え落ちていきました。
林養賢は、どうして金閣と共に死のうとしたのか・・・??
歴史ある国の宝を一夜にして灰にした男・・・!!
事件後は、狂気の犯行だと新聞に掻き立てられました。
内気で優しい青年僧は、どうして日本中を揺るがす放火事件を起こしたのでしょうか?
若木松一は当時、西陣署の見習い警部でした。
火事の一報を聞くと、自転車で現場に駆けつけ、犯行に及んだ養賢を逮捕しました。
後に、若木メモと呼ばれるファイルには、若木が記した逮捕状の控えや、供述調書の下書きが丹念に残されています。
現場の遺留品リストには、放課後、養賢が自殺に使った薬物・カルモチンの空き箱も・・・!!
「私が放火した犯人に相違ありません
私の主観では、悪いことをしたとは思ひません」by養賢
罪を認めた養賢でしたが、わかりやすい犯行理由を話すことはありませんでした。
3回目の供述ではこう述べています。
「私が金閣を焼いたことは、私の行ひを見ると見にくい(醜い)ので、美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持ちは表現しにくいのであります」by養賢
林養賢とは、どんな生い立ちだったのでしょうか?
京都府北部舞鶴市成生・・・若狭湾に面した20戸ほどの小さな漁村で生まれました。
林養賢は、昭和4年、この村唯一の寺の息子として生まれました。
住職の父と、母と3人で暮らしていました。
父は病弱で、しっかり者の母が寺を切り盛りしていました。
友達と遊ぶことも無く、家で勉強させられていた養賢。
母・志満子は、教育ママでした。
息子を大きな寺へ入れて、僧侶として大成させたいと野望を抱いていました。
村で、唯一中学に進学した養賢。
翌年、父が死去。
父は亡くなる直前に、つてのあった金閣寺の住職に息子を僧侶として指導してほしいと書き送っていました。
父親は、「金閣ほど美しいものはない」と、養賢を育てていました。
期待を一身に背負って旅立った養賢は、こうして憧れの金閣寺へと向かいました。

京都の名刹・金閣寺・・・室町時代に、将軍・足利義満が構えた別荘で、一時は政治、文化の中心でもありました。
なかでも金閣こと舎利殿は、技巧の粋を凝らし、二層、三層部分には金が塗られていました。
義満の死後、遺言で禅寺・鹿苑寺となり、明治以降は観光名所として全国に知られるようになりました。
そんな金閣寺で、師匠となる住職・村上慈海のもとで得度した養賢。
慈海の計らいで、昭和22年、大谷大学予科入学。
友人となる鈴木と出会いました。
養賢は鈴木を招き、泊まり込みで好きな文学や夢を語り合いました。
養賢は、まるで金閣に聞かせるかのように尺八を吹いたといいます。
しかし、夢と現実は違っていました。
当時の寺は、食べ物も十分になく、養賢は、おなかをすかせていました。
「私は寺の使役をやり乍ら大谷大学へ通って居りますが、毎月寺から七百円くらいもらっておりますが、小使には不足して居ります」by養賢
やがて、養賢は、大学を休みがちとなり、寺のものとも上手くいかなくなってきます。
「私は寺の中で狂人扱いされている様な、主観的考を持ったこともありました
私は自分はつまらぬ人間だといふ事を感じ乍らも、亦英雄だといふ
人よりは偉い自分だといふことも、時々考へが起こるのであります」by養賢
当時、養賢が母への愚痴をこぼしていました。
母とはそりが合わず嫌っていたのです。
「和尚になるまで帰ってくるな!!
住職になったら開けてやる
なんでも食べさせてやるから」
と、追い返しました。
母から突き放され、買えるべき家も失った養賢。
唯一の家族の母からの拒絶は、養賢に大きな影響を与えました。
養賢は、欠席が増えるにつれ、2年、3年と席次が下がっていきます。
留年確定・・・どうする??
和尚は、説教をします。
金閣寺を追い出されるかもしれない・・・追い詰められた養賢でしたが、それでも町をぶらつき、映画を見て過ごしていました。
師匠の慈海は、後の取り調べで、当時の養賢を、青年によくある憂鬱症の一種だと思っていたと述べています。
事件の1か月前、養賢は、学校に来るように説得に来た友人の鈴木に・・・
三階の究竟頂の屋根も、鳳凰も、全部真っ白な冬劇詩の金閣の写真・・・
「これ、俺の一番好きな金閣や」by養賢
これが、2人であった最後の時となりました。
「金閣を支配できないなら、金閣と共に死のう」by養賢
それからの養賢は、周到な死への準備に入りました。
6月18日・・・書籍を売ったお金で遊郭に・・・
「新聞になるようになるがよいか・・・」と語っています。
小刀と睡眠薬100錠を購入。
6月30日・・・折しも寺の火災報知器が故障。。。
決行は明日の夜しかない!!
7月1日の晩・・・養賢は、和尚の世話を終えると夜10時ごろから客人に誘われて碁を打ち、12時ごろに終えました。
金閣にもの周りのものとわら束を持ち込み、火をつけたのは翌2日・・・午前3時ごろのことでした。
「最上階の究竟頂で、金閣と共に死のうという考えが起き、二階に上がろうとしたが鍵が開かず、火が勢いよく吹き上がってくると恐ろしくなり、金閣を飛び出し、大文字山に走りあがった」by養賢
山の中腹で、カルモチンを飲み、切腹を図るが、死にきれなかったといいます。
消防車の放水が始まった頃には、金閣はすでに躯のような状態でした。
この放火で、足利義満の木像・運慶作の菩薩像など、貴重な国宝がすべて焼失し、灰となりました。
夜が明けると、寺に養賢の姿だけが見当たらず、付近の捜索が始まりました。
夕方、養賢は、左大文字山の中腹で、腹から血を流しているところを発見されました。
逮捕の翌日、郷里から母・志満子が駆けつけました。
西陣署に収監された息子に面会するためでした。
息子から面会を拒絶された志満子は、帰りの列車から投身自殺しました。
「死んでお詫びを・・・」
という母の死は、大きく報じられましたが、警察の配慮で養賢には伏せられました。
養賢は、最後まで自分の罪を悪いとは認めず、ただ断頭台に登らせてほしいと訴え、供述は終わっています。
その年の暮れ、裁判で懲役7年の判決が下されました。
明確な真相を語らぬまま、出所後程なく病死しています。

事件は、国民に衝撃を与え、新聞、ラジオで大きく報じられます。
一方、創作意欲に掻き立てられた2人の作家がいました。
それが、三島由紀夫と水上勉です。
事件当時25歳、新進気鋭の作家だった三島由紀夫は、美に対する嫉妬という犯人・林養賢の言葉に触発され、あの名作「金閣寺」を執筆します。
一方、作家を目指しながらも、職を転々としていた水上勉は、自分と驚くほど境遇の似ている林養賢に強い興味を抱きます。
1冊の本があります。
三島由紀夫と水上勉の作品を徹底的に読み比べた酒井順子著「金閣寺の燃やし方」です。
2人は同じ事件に惹かれ乍ら、全く違う視点で事件を見ていました。
水上勉は、敢えて意識的に「裏日本」という言葉を使っています。
裏日本・・・今ではあまり使ってはいけない言葉になっています。
三島は表日本の視線、水上は裏日本の視線から書いています。
表との格差、違い・・・それを水上は意識的に表に出しています。
三島由紀夫は、表側の視線、中央の視線・・・”日の当たる部分”から”影の側”を見るという書き方をしています。
対照的な作家が見た金閣炎上とは・・・??
東大を出て、大蔵省に就職、エリートコースを歩んだ三島由紀夫。
三島は林養賢が供述で動機として語った「美に対する嫉妬」という言葉に惹かれ、事件に興味を持っていきます。
小説「金閣寺」は、主人公が自分の醜さが理由で金閣の美に惹かれる物語です。
やがてその美が、自分の人生を阻んでいると感じ、決意します。
「金閣を焼かなければならぬ!!」と。
三島の金閣寺執筆時のノートが公開されました。
そこには、美への嫉妬と共に、新たなキーワードが書かれていました。
”絶対的なものへの嫉妬
相対性の波にうづもれた男
絶対性を滅ぼすこと”
絶対者=人生を困難にならしむるもの
だからそれを滅ぼす・・・
金閣の美が、いつしか三島の中で”滅ぼすべき絶対性”と置き換わったのです。
主人公の溝口が、戦争によって金閣寺や京都が焼けてしまえばいいのにと、強く思いながらもそうならない・・・
そうならなかったことに対する失望が描かれています。
そんな中で、敢えて溝口が自分が求めている”美”に接する為に金閣寺を燃やすというのは、どこかで三島由紀夫の感覚とつながっています。
戦争で、全てのものが滅びるはずでした。
しかし、敗戦後の世界で、人々は何も変わっていないかのように生きている・・・
退屈な、戦後社会への三島の失望が、この小説には込められているのです。
金閣寺のラスト・・・火を放った主人公は、突如、生きようと決意します。
「私は煙草を喫んだ。
一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」by溝口
それは、戦後社会と折り合いをつけ、生きようとする三島の決意の表れでもありました。

もう一人・・・放火事件に強い影響を受けた作家が水上勉です。
水上は、20年かけて事件を取材し、1979年にノンフィクション「金閣炎上」を世に問いました。
放火事件当時、駆け出しの作家だった水上・・・新聞の号外で事件を知り、むさぼるように読みました。
「新聞の一字一字は、私を極度に興奮させ、緊張させ、考えさせた・・・
浦和にいるのがもどかしかった。
京都にいたら、野次馬に加わって、焼け跡へ飛んでいただろう・」by水上勉
驚きはそれだけではありませんでした。
犯人は若き修行僧・・・!!
郷里も自分とごく近かったのです。
福井県の貧しい家に生まれ、口減らしのために10歳から京都の禅寺で小僧生活を送った水上・・・
辛さに耐えかねて、逃げ出し、還俗・・・犯人は水上とあまりにも境遇が似ていました。
水上勉が直木賞を取った「雁の寺」は、自分がお寺で務めているときのことを書いています。
辛い思いをして、最終的に住職を殺めてしまうというお話です。
そんな体験があったからこそ、林養賢の気持ちがよくわかったのです。
水上は養賢の故郷を何度も訪ね、60歳近くになってようやく執筆をはじめました。
「金閣炎上」の冒頭には、水上と犯人・養賢が戦時中、青葉山の峠で出会ったという印象的なエピソードがあります。
”私は絶句した。
六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。
帽子をあみだにかぶった額際のせまい男。
私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音少年だ。
あの男が火をつけたか。”
水上が晩年を過ごした長野の山荘に、大量の草稿が残されていました。
近年、この草稿から、作中のふたりの出会いについて新たな発見がありました。
偶然一度であったことがあったと書かれています。
当初は、金閣寺を舞台にした客観小説として書き始められ、やがてタイトルも変わり、作者自身が語り手となる一人称のノンフィクションとなりました。
その時、養賢と作者が出会うというエピソードが付け加えられたのです。
水上は、ノンフィクションという形式なのに、敢えて、一点の虚構を入れて書いたことになります。
林養賢と、水上勉本人の”つながり”・・・
運命的なものを、フィクションの形で作り上げることによって、真実を語ることができる・・・!!
水上が、そこまでして書こうとしたものとは何だったのでしょうか?
”私が先に、養賢に金閣放火を決意させたものは、金閣寺内の事情をおいて考えられない、と再々言ってきたのはこの消息である。”
平等であってしかるべき仏教の世界の中にも、いろいろな区別や差別があったり、下の者につらい体験が強いられる・・・そんな部分を水上が知っていて、林養賢は、仏教の世界に対する思いが募って、内側から問題提起をしたいという意味もあって放火をしたのでは??
水上は、先に発表された三島の「金閣寺」についてこうのべています。
「お寺の長い廊下をふくぞうきんの冷たさだけだと思った
ぞうきんにはにおいもある
そのにおいを私は書きたかった」by水上
真相はわからない・・・だからこそ、金閣放火は作家たちによって人々の記憶に残るものとなりました。
”美に対する嫉妬”という言葉だけを残し、ハッキリとした動機がわからないまま幕を閉じた金閣寺放火事件・・・

金閣再建に尽力したのは、村上慈海・・・金閣寺の僧侶が金閣寺に火を放つ・・・事件は、慈海の人生に、終生大きな影を残しました。
弟子の教育もできていない・・・批判にさらされました。
その後、慈海は、金閣再建のために奔走します。
三島の金閣寺でも、水上の金閣炎上でも、慈海をモデルにした住職は、金と女遊びに溺れる俗物と批判的に書かれてきました。
しかし、その実像はほとんど語られてきませんでした。
事件当日、消失した金閣の前にたたずむ慈海の姿がありました。
この日、NHKの取材に応じた音声が残っています。
「こういう時期に、国の大事なお宝をお預かりしておって、住職としては国民の皆さんには本当に申し訳ないことした」
弟子の放火で国宝を失ったことを、詫びる慈海・・・
金閣寺に少年の時代から暮していて、それを引き継いできて、次の世代に渡す役割を持っていました。
それが途切れたのです。
そのことの責任感・・・それはすごく重いものでした。
焼失を背負った男・・・
金閣寺・・・歴史を独り占めできる贅沢さは、弟子の誰もが持っていました。
魅力のとりこにさせる部分は、金閣は持っていたのです。
放火事件について慈海はどう語っていたのでしょうか。
”慈しみの海”という道号の如く、大きくて広い人・・・
あの事件については、一言も口にはしませんでした。
師匠の育て方がまずかったと・・・誤解されている部分は大きくありました。
禅宗の僧侶でありながら、金の力で愛人を囲う小説「金閣寺」の和尚。
醜悪な戦後社会を体現する存在として描かれていました。
おかげで慈海のイメージは地に落ちていました。
「私の不徳の致すところです」by慈海
さらに、水上もこう書きました。
”徒弟教育には、性癖ともいえる吝嗇心が作用していたけはいがある。”
吝嗇・・・ケチということです。
水上は、慈海を吝嗇家と描いています。
しかし、弟子の養成、学費に使う・・・小僧を育てるのはお金がかかります。
慈海と養賢の間には、もっと根源的な何かがあったのではないか??
養賢が取り調べ中に書きなぐったわら半紙が・・・
「生とは如何? 死とは如何?
生死なんて全く無意味だ」
養賢は、どうしてそのような境地に至ったのでしょうか?
公判史料によると、事件前の養賢は、慈海に生きることの意味について問うたことがありました。
その記録から・・・??
われわれはなんで生きているのか?
そこに色々な意味が欲しい・・・
しかし、本来は意味なんてない・・・!!
何のために生きているのか?
ただ生きるために生きている
事件のあと、焼け跡で慈海は何を思ったのか・・・一言も話すことはありませんでした。
すぐに再建に向かって動き出しました。
当初、周囲の反応は冷ややかでした。
戦争が終わってまだ5年・・・日本の国自体がどうやって再建するかという時代でした。
そんな中、慈海は毎朝、たった一人で托鉢に出るようになりました。
住職自ら街角に立つ姿に、市民の気持ちも変化していきます。
地元の人で、慈海を悪く言う人はいませんでした。
一方、刑務所の養賢からは、慈海におびただしい手紙が送られてくるようになっていました。
「あの夜のことが、いまひしひしと悔いられ、土に伏したい気持ちであります。
おゆるし下さい。おゆるし下さい。
何とぞ、おゆるし下さい。」by養賢
慈海の気持ちはどのようなものだったのでしょうか?
寺から衣類や書籍などの差し入れがあったという記録だけが残っています。
事件から2年後、全国5万人の寄付によって、金閣再建に向けて工事が始まります。
その頃、養賢は結核が進行し、精神状態も急激に悪化、意思疎通もできなくなっていました。
昭和30年10月、新しい金閣の落慶式が行われました。
焼失前より、さらに輝きを増した舎利殿を一目見ようと多くの人が殺到しました。
奇しくも同じ月、養賢は釈放され、そのまま病院に入院、半年後、結核でこの世を去りました。
慈海はその後30年にわたって住職として弟子を育て、その朴訥な人柄で皆から慕われました。
金閣の仏間には、林養賢、そして養賢の母親も祀られています。
放火犯である養賢と母・志満子の位牌が金閣寺の中に祀られているというのです。
戒名は誰がつけたのか、わかっていません。
しかし・・・その戒名”正法院鳳林養賢居士”
林養賢の俗名の上に、鳳林・・・金閣の上の鳳・・・金閣を象徴した戒名です。
それは、慈海の養賢への思い・・・慈しみを感じます。
放火事件から35年後、村上慈海は、83歳で亡くなりました。
金閣に捧げた生涯でした。
前代未聞の放火事件から、70年以上が立ちました。
仏教界への批判、境遇への不満、自己嫌悪・・・様々な読み説きがなされてきましたが、本当の犯行理由は今もわかりません。
一方、あの時燃えた金閣は、多くの人の尽力で不死鳥のようによみがえり、さらにまばゆい光を放っています。
建物は一度滅んでも、人々の思いは滅びることはありません。
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三島由紀夫は、養賢が語った動機”美に対する嫉妬”という言葉を主題に名作「金閣寺」を執筆しました。
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弟子に金閣を燃やされたその胸の内とは・・・??
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金色に輝く名刹・・・金閣寺。
京都を訪れる人にとっては、必ず参拝したい場所の一つです。
世界遺産にも登録された美しい金閣は、かつて全焼した・・・という過去をどれだけの人が知っているのでしょうか?
1950年7月2日。
金閣寺が放火された日です。
私たちが目にする金閣寺は、事件のあと再建されたものです。
修行僧・・・林養賢。
養賢は、自分の持ち物を集めたトランクや布団、わらなどを金閣の一層部分に運び入れると、菌核と一緒に死のうとマッチで火をつけます。
木造三層の金閣は、雨の中、火柱を挙げて瞬く間に燃え落ちていきました。
林養賢は、どうして金閣と共に死のうとしたのか・・・??
歴史ある国の宝を一夜にして灰にした男・・・!!
事件後は、狂気の犯行だと新聞に掻き立てられました。
内気で優しい青年僧は、どうして日本中を揺るがす放火事件を起こしたのでしょうか?
若木松一は当時、西陣署の見習い警部でした。
火事の一報を聞くと、自転車で現場に駆けつけ、犯行に及んだ養賢を逮捕しました。
後に、若木メモと呼ばれるファイルには、若木が記した逮捕状の控えや、供述調書の下書きが丹念に残されています。
現場の遺留品リストには、放課後、養賢が自殺に使った薬物・カルモチンの空き箱も・・・!!
「私が放火した犯人に相違ありません
私の主観では、悪いことをしたとは思ひません」by養賢
罪を認めた養賢でしたが、わかりやすい犯行理由を話すことはありませんでした。
3回目の供述ではこう述べています。
「私が金閣を焼いたことは、私の行ひを見ると見にくい(醜い)ので、美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持ちは表現しにくいのであります」by養賢
林養賢とは、どんな生い立ちだったのでしょうか?
京都府北部舞鶴市成生・・・若狭湾に面した20戸ほどの小さな漁村で生まれました。
林養賢は、昭和4年、この村唯一の寺の息子として生まれました。
住職の父と、母と3人で暮らしていました。
父は病弱で、しっかり者の母が寺を切り盛りしていました。
友達と遊ぶことも無く、家で勉強させられていた養賢。
母・志満子は、教育ママでした。
息子を大きな寺へ入れて、僧侶として大成させたいと野望を抱いていました。
村で、唯一中学に進学した養賢。
翌年、父が死去。
父は亡くなる直前に、つてのあった金閣寺の住職に息子を僧侶として指導してほしいと書き送っていました。
父親は、「金閣ほど美しいものはない」と、養賢を育てていました。
期待を一身に背負って旅立った養賢は、こうして憧れの金閣寺へと向かいました。
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京都の名刹・金閣寺・・・室町時代に、将軍・足利義満が構えた別荘で、一時は政治、文化の中心でもありました。
なかでも金閣こと舎利殿は、技巧の粋を凝らし、二層、三層部分には金が塗られていました。
義満の死後、遺言で禅寺・鹿苑寺となり、明治以降は観光名所として全国に知られるようになりました。
そんな金閣寺で、師匠となる住職・村上慈海のもとで得度した養賢。
慈海の計らいで、昭和22年、大谷大学予科入学。
友人となる鈴木と出会いました。
養賢は鈴木を招き、泊まり込みで好きな文学や夢を語り合いました。
養賢は、まるで金閣に聞かせるかのように尺八を吹いたといいます。
しかし、夢と現実は違っていました。
当時の寺は、食べ物も十分になく、養賢は、おなかをすかせていました。
「私は寺の使役をやり乍ら大谷大学へ通って居りますが、毎月寺から七百円くらいもらっておりますが、小使には不足して居ります」by養賢
やがて、養賢は、大学を休みがちとなり、寺のものとも上手くいかなくなってきます。
「私は寺の中で狂人扱いされている様な、主観的考を持ったこともありました
私は自分はつまらぬ人間だといふ事を感じ乍らも、亦英雄だといふ
人よりは偉い自分だといふことも、時々考へが起こるのであります」by養賢
当時、養賢が母への愚痴をこぼしていました。
母とはそりが合わず嫌っていたのです。
「和尚になるまで帰ってくるな!!
住職になったら開けてやる
なんでも食べさせてやるから」
と、追い返しました。
母から突き放され、買えるべき家も失った養賢。
唯一の家族の母からの拒絶は、養賢に大きな影響を与えました。
養賢は、欠席が増えるにつれ、2年、3年と席次が下がっていきます。
留年確定・・・どうする??
和尚は、説教をします。
金閣寺を追い出されるかもしれない・・・追い詰められた養賢でしたが、それでも町をぶらつき、映画を見て過ごしていました。
師匠の慈海は、後の取り調べで、当時の養賢を、青年によくある憂鬱症の一種だと思っていたと述べています。
事件の1か月前、養賢は、学校に来るように説得に来た友人の鈴木に・・・
三階の究竟頂の屋根も、鳳凰も、全部真っ白な冬劇詩の金閣の写真・・・
「これ、俺の一番好きな金閣や」by養賢
これが、2人であった最後の時となりました。
「金閣を支配できないなら、金閣と共に死のう」by養賢
それからの養賢は、周到な死への準備に入りました。
6月18日・・・書籍を売ったお金で遊郭に・・・
「新聞になるようになるがよいか・・・」と語っています。
小刀と睡眠薬100錠を購入。
6月30日・・・折しも寺の火災報知器が故障。。。
決行は明日の夜しかない!!
7月1日の晩・・・養賢は、和尚の世話を終えると夜10時ごろから客人に誘われて碁を打ち、12時ごろに終えました。
金閣にもの周りのものとわら束を持ち込み、火をつけたのは翌2日・・・午前3時ごろのことでした。
「最上階の究竟頂で、金閣と共に死のうという考えが起き、二階に上がろうとしたが鍵が開かず、火が勢いよく吹き上がってくると恐ろしくなり、金閣を飛び出し、大文字山に走りあがった」by養賢
山の中腹で、カルモチンを飲み、切腹を図るが、死にきれなかったといいます。
消防車の放水が始まった頃には、金閣はすでに躯のような状態でした。
この放火で、足利義満の木像・運慶作の菩薩像など、貴重な国宝がすべて焼失し、灰となりました。
夜が明けると、寺に養賢の姿だけが見当たらず、付近の捜索が始まりました。
夕方、養賢は、左大文字山の中腹で、腹から血を流しているところを発見されました。
逮捕の翌日、郷里から母・志満子が駆けつけました。
西陣署に収監された息子に面会するためでした。
息子から面会を拒絶された志満子は、帰りの列車から投身自殺しました。
「死んでお詫びを・・・」
という母の死は、大きく報じられましたが、警察の配慮で養賢には伏せられました。
養賢は、最後まで自分の罪を悪いとは認めず、ただ断頭台に登らせてほしいと訴え、供述は終わっています。
その年の暮れ、裁判で懲役7年の判決が下されました。
明確な真相を語らぬまま、出所後程なく病死しています。
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事件は、国民に衝撃を与え、新聞、ラジオで大きく報じられます。
一方、創作意欲に掻き立てられた2人の作家がいました。
それが、三島由紀夫と水上勉です。
事件当時25歳、新進気鋭の作家だった三島由紀夫は、美に対する嫉妬という犯人・林養賢の言葉に触発され、あの名作「金閣寺」を執筆します。
一方、作家を目指しながらも、職を転々としていた水上勉は、自分と驚くほど境遇の似ている林養賢に強い興味を抱きます。
1冊の本があります。
三島由紀夫と水上勉の作品を徹底的に読み比べた酒井順子著「金閣寺の燃やし方」です。
2人は同じ事件に惹かれ乍ら、全く違う視点で事件を見ていました。
水上勉は、敢えて意識的に「裏日本」という言葉を使っています。
裏日本・・・今ではあまり使ってはいけない言葉になっています。
三島は表日本の視線、水上は裏日本の視線から書いています。
表との格差、違い・・・それを水上は意識的に表に出しています。
三島由紀夫は、表側の視線、中央の視線・・・”日の当たる部分”から”影の側”を見るという書き方をしています。
対照的な作家が見た金閣炎上とは・・・??
東大を出て、大蔵省に就職、エリートコースを歩んだ三島由紀夫。
三島は林養賢が供述で動機として語った「美に対する嫉妬」という言葉に惹かれ、事件に興味を持っていきます。
小説「金閣寺」は、主人公が自分の醜さが理由で金閣の美に惹かれる物語です。
やがてその美が、自分の人生を阻んでいると感じ、決意します。
「金閣を焼かなければならぬ!!」と。
三島の金閣寺執筆時のノートが公開されました。
そこには、美への嫉妬と共に、新たなキーワードが書かれていました。
”絶対的なものへの嫉妬
相対性の波にうづもれた男
絶対性を滅ぼすこと”
絶対者=人生を困難にならしむるもの
だからそれを滅ぼす・・・
金閣の美が、いつしか三島の中で”滅ぼすべき絶対性”と置き換わったのです。
主人公の溝口が、戦争によって金閣寺や京都が焼けてしまえばいいのにと、強く思いながらもそうならない・・・
そうならなかったことに対する失望が描かれています。
そんな中で、敢えて溝口が自分が求めている”美”に接する為に金閣寺を燃やすというのは、どこかで三島由紀夫の感覚とつながっています。
戦争で、全てのものが滅びるはずでした。
しかし、敗戦後の世界で、人々は何も変わっていないかのように生きている・・・
退屈な、戦後社会への三島の失望が、この小説には込められているのです。
金閣寺のラスト・・・火を放った主人公は、突如、生きようと決意します。
「私は煙草を喫んだ。
一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」by溝口
それは、戦後社会と折り合いをつけ、生きようとする三島の決意の表れでもありました。
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もう一人・・・放火事件に強い影響を受けた作家が水上勉です。
水上は、20年かけて事件を取材し、1979年にノンフィクション「金閣炎上」を世に問いました。
放火事件当時、駆け出しの作家だった水上・・・新聞の号外で事件を知り、むさぼるように読みました。
「新聞の一字一字は、私を極度に興奮させ、緊張させ、考えさせた・・・
浦和にいるのがもどかしかった。
京都にいたら、野次馬に加わって、焼け跡へ飛んでいただろう・」by水上勉
驚きはそれだけではありませんでした。
犯人は若き修行僧・・・!!
郷里も自分とごく近かったのです。
福井県の貧しい家に生まれ、口減らしのために10歳から京都の禅寺で小僧生活を送った水上・・・
辛さに耐えかねて、逃げ出し、還俗・・・犯人は水上とあまりにも境遇が似ていました。
水上勉が直木賞を取った「雁の寺」は、自分がお寺で務めているときのことを書いています。
辛い思いをして、最終的に住職を殺めてしまうというお話です。
そんな体験があったからこそ、林養賢の気持ちがよくわかったのです。
水上は養賢の故郷を何度も訪ね、60歳近くになってようやく執筆をはじめました。
「金閣炎上」の冒頭には、水上と犯人・養賢が戦時中、青葉山の峠で出会ったという印象的なエピソードがあります。
”私は絶句した。
六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。
帽子をあみだにかぶった額際のせまい男。
私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音少年だ。
あの男が火をつけたか。”
水上が晩年を過ごした長野の山荘に、大量の草稿が残されていました。
近年、この草稿から、作中のふたりの出会いについて新たな発見がありました。
偶然一度であったことがあったと書かれています。
当初は、金閣寺を舞台にした客観小説として書き始められ、やがてタイトルも変わり、作者自身が語り手となる一人称のノンフィクションとなりました。
その時、養賢と作者が出会うというエピソードが付け加えられたのです。
水上は、ノンフィクションという形式なのに、敢えて、一点の虚構を入れて書いたことになります。
林養賢と、水上勉本人の”つながり”・・・
運命的なものを、フィクションの形で作り上げることによって、真実を語ることができる・・・!!
水上が、そこまでして書こうとしたものとは何だったのでしょうか?
”私が先に、養賢に金閣放火を決意させたものは、金閣寺内の事情をおいて考えられない、と再々言ってきたのはこの消息である。”
平等であってしかるべき仏教の世界の中にも、いろいろな区別や差別があったり、下の者につらい体験が強いられる・・・そんな部分を水上が知っていて、林養賢は、仏教の世界に対する思いが募って、内側から問題提起をしたいという意味もあって放火をしたのでは??
水上は、先に発表された三島の「金閣寺」についてこうのべています。
「お寺の長い廊下をふくぞうきんの冷たさだけだと思った
ぞうきんにはにおいもある
そのにおいを私は書きたかった」by水上
真相はわからない・・・だからこそ、金閣放火は作家たちによって人々の記憶に残るものとなりました。
”美に対する嫉妬”という言葉だけを残し、ハッキリとした動機がわからないまま幕を閉じた金閣寺放火事件・・・
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金閣再建に尽力したのは、村上慈海・・・金閣寺の僧侶が金閣寺に火を放つ・・・事件は、慈海の人生に、終生大きな影を残しました。
弟子の教育もできていない・・・批判にさらされました。
その後、慈海は、金閣再建のために奔走します。
三島の金閣寺でも、水上の金閣炎上でも、慈海をモデルにした住職は、金と女遊びに溺れる俗物と批判的に書かれてきました。
しかし、その実像はほとんど語られてきませんでした。
事件当日、消失した金閣の前にたたずむ慈海の姿がありました。
この日、NHKの取材に応じた音声が残っています。
「こういう時期に、国の大事なお宝をお預かりしておって、住職としては国民の皆さんには本当に申し訳ないことした」
弟子の放火で国宝を失ったことを、詫びる慈海・・・
金閣寺に少年の時代から暮していて、それを引き継いできて、次の世代に渡す役割を持っていました。
それが途切れたのです。
そのことの責任感・・・それはすごく重いものでした。
焼失を背負った男・・・
金閣寺・・・歴史を独り占めできる贅沢さは、弟子の誰もが持っていました。
魅力のとりこにさせる部分は、金閣は持っていたのです。
放火事件について慈海はどう語っていたのでしょうか。
”慈しみの海”という道号の如く、大きくて広い人・・・
あの事件については、一言も口にはしませんでした。
師匠の育て方がまずかったと・・・誤解されている部分は大きくありました。
禅宗の僧侶でありながら、金の力で愛人を囲う小説「金閣寺」の和尚。
醜悪な戦後社会を体現する存在として描かれていました。
おかげで慈海のイメージは地に落ちていました。
「私の不徳の致すところです」by慈海
さらに、水上もこう書きました。
”徒弟教育には、性癖ともいえる吝嗇心が作用していたけはいがある。”
吝嗇・・・ケチということです。
水上は、慈海を吝嗇家と描いています。
しかし、弟子の養成、学費に使う・・・小僧を育てるのはお金がかかります。
慈海と養賢の間には、もっと根源的な何かがあったのではないか??
養賢が取り調べ中に書きなぐったわら半紙が・・・
「生とは如何? 死とは如何?
生死なんて全く無意味だ」
養賢は、どうしてそのような境地に至ったのでしょうか?
公判史料によると、事件前の養賢は、慈海に生きることの意味について問うたことがありました。
その記録から・・・??
われわれはなんで生きているのか?
そこに色々な意味が欲しい・・・
しかし、本来は意味なんてない・・・!!
何のために生きているのか?
ただ生きるために生きている
事件のあと、焼け跡で慈海は何を思ったのか・・・一言も話すことはありませんでした。
すぐに再建に向かって動き出しました。
当初、周囲の反応は冷ややかでした。
戦争が終わってまだ5年・・・日本の国自体がどうやって再建するかという時代でした。
そんな中、慈海は毎朝、たった一人で托鉢に出るようになりました。
住職自ら街角に立つ姿に、市民の気持ちも変化していきます。
地元の人で、慈海を悪く言う人はいませんでした。
一方、刑務所の養賢からは、慈海におびただしい手紙が送られてくるようになっていました。
「あの夜のことが、いまひしひしと悔いられ、土に伏したい気持ちであります。
おゆるし下さい。おゆるし下さい。
何とぞ、おゆるし下さい。」by養賢
慈海の気持ちはどのようなものだったのでしょうか?
寺から衣類や書籍などの差し入れがあったという記録だけが残っています。
事件から2年後、全国5万人の寄付によって、金閣再建に向けて工事が始まります。
その頃、養賢は結核が進行し、精神状態も急激に悪化、意思疎通もできなくなっていました。
昭和30年10月、新しい金閣の落慶式が行われました。
焼失前より、さらに輝きを増した舎利殿を一目見ようと多くの人が殺到しました。
奇しくも同じ月、養賢は釈放され、そのまま病院に入院、半年後、結核でこの世を去りました。
慈海はその後30年にわたって住職として弟子を育て、その朴訥な人柄で皆から慕われました。
金閣の仏間には、林養賢、そして養賢の母親も祀られています。
放火犯である養賢と母・志満子の位牌が金閣寺の中に祀られているというのです。
戒名は誰がつけたのか、わかっていません。
しかし・・・その戒名”正法院鳳林養賢居士”
林養賢の俗名の上に、鳳林・・・金閣の上の鳳・・・金閣を象徴した戒名です。
それは、慈海の養賢への思い・・・慈しみを感じます。
放火事件から35年後、村上慈海は、83歳で亡くなりました。
金閣に捧げた生涯でした。
前代未聞の放火事件から、70年以上が立ちました。
仏教界への批判、境遇への不満、自己嫌悪・・・様々な読み説きがなされてきましたが、本当の犯行理由は今もわかりません。
一方、あの時燃えた金閣は、多くの人の尽力で不死鳥のようによみがえり、さらにまばゆい光を放っています。
建物は一度滅んでも、人々の思いは滅びることはありません。
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