「余の辞書に不可能の文字はない」byナポレオン

フランス革命の英雄と言われたナポレオン・・・
外国との戦争では、天才的な手腕で連戦連勝。
フランスの国土を史上最大に広げました。
しかし・・・ナポレオンの人生は「こんなはずではなかった」の連続でした。

「ナポレオン ─英雄の誕生─」



戦場から帰り、意気揚々とフランス議会に乗り込んだ時、ナポレオンは議員の大半から罵声を浴び追い出されてしまいました。
フランス革命の精神・・・自由・平等・博愛を謳うナポレオン法典をつくった・・・しかし、彼は奴隷制度を復活。女性の政治参加や離婚を厳しく制限しました。
王政に苦しむイタリア国民を開放するといって戦った・・・しかし、勝ったとたんに民衆に課税。さらに、数々の美術品を奪いました。
極めつけは自らを民衆が生んだ革命の子と称しながら、皇帝の座に上りつめます。
最期には、民衆の支持を失ったナポレオン・・・

「裏切られたというより、私は見捨てられた」byナポレオン

1789年、フランス・パリ。
長く続いた王政への怒りから始まったフランス革命。
4年後、フランス王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットが処刑されました。
しかしその後、王政に代わる国家体制を巡って大混乱が続きます。
そんな中、救世主として現れたのがナポレオン・ボナパルトでした。
彼はどうして革命の英雄とされたのでしょうか?

イタリア半島の西・地中海に浮かぶコルシカ島・・・世界遺産にも登録される自然豊かな島です。
1769年8月、ナポレオンはコルシカ島で8人兄弟の次男として誕生。
ところが・・・
「私は祖国が滅亡した時に生まれた」byナポレオン

ナポレオンが生まれる3か月前、コルシカ島はフランス軍に侵攻され、併合されてしまいました。
抵抗したコルシカ人は、フランス軍によって腕を砕かれ車裂きの刑にされるなど、残虐な刑罰を受けました。
住民は縞の言葉を禁じられ、フランス語を強要されました。

「瀕死の人々の叫び、虐政に苦しむ人々のうめき声、そして絶望の涙
 これらは私のゆりかごをはじめから取り囲んでいた」byナポレオン

そんな中、父・カルロはいち早くフランス国家に忠誠を誓い、下級貴族となりました。
家族を守るためです。
しかし、ナポレオンは父を嫌っていました。

「フランスのコルシカ併合に協力した父を、私は決して許すことができない」byナポレオン

一方、母レティツィアは教育熱心でナポレオンは母になついていました。
9歳の時、ナポレオンはコルシカ島を離れ、フランス本土に渡ることになります。
父が貴族となったことで、学費が支給され、フランス王立のブリエンヌ陸軍幼年学校に入ることができたのです。
しかし、周りは貴族の子ばかり・・・
コルシカ訛りの抜けないナポレオンは、田舎者とバカにされました。
休み時間は一人で図書室に籠り、勉強に打ち込みました。
応用数学と地理が得意でした。
15歳になると、ナポレオンは士官学校に進学。
母の薦めで最先端だった砲兵術を専攻します。
大砲を正確に撃つには、火薬の量や弾道の計算が欠かせません。
母は、ここなら得意の数学を活かせると考えたのです。
しかし半年後・・・ナポレオン家に暗雲が立ち込めます。
父・カルロが突然亡くなり、収入が途絶えたのです。
2歳年上の兄はまだ学生・・・15歳のナポレオンが一家の暮らしを支える柱となります。
ナポレオンは士官学校を最短記録で卒業します。
普通は4年かかるところをわずか11カ月で卒業し、職業軍人となります。
しかし、ナポレオンは故郷を併合したフランスを憎んでいたはず・・・!!
軍人としてフランスに忠誠を誓うことは矛盾ではなかったのか??

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1785年、16歳の時、ナポレオンは少尉として駐屯地に赴任。
訓練に明け暮れる中でも、読書に没頭します。
彼が好んだのは、ルソーやモンテスキューの著書。
民衆の権利や自由平等を謳う啓蒙思想に惹かれていきます。

1789年6月、19歳の時に時代が大きく動きました。
民衆に重税を課すルイ16世や王侯貴族に対し、民衆の怒りが爆発したのです。
フランス革命の始まりでした。
王政が倒され、民衆中心の立法議会が成立。
フランス各地で特権階級の財産と権利が奪われました。
ナポレオンが所属する王党派には、貴族の子弟が多かったため、彼らは次々と海外へ亡命しました。

「フランス全土で血が流れました
 しかしそれはほとんどどこでも
 自由の敵の 国民の敵の 汚らわしい血でした」byナポレオン

共和制を目指す立法議会に対し、旧体制の残党である王党派は、イギリスやスペインの支持を受けて対向。
軍人は王党派か共和派か、どちらにつくか選択に迫られました。
その頃、ナポレオンは混乱を避け、休暇を取ってコルシカ島に戻っていました。
しかし、1793年6月、23歳の時に共和国の軍人として復帰。
南フランスの港町・トゥーロン・・・当時は王党派勢力の最大の拠点でした。
復帰したナポレオンはここの攻略を任されます。
トゥーロンは、城壁と海に囲まれた難攻不落の要塞都市でした。
さらに海上には、王党派と手を組んで革命を阻止しようとするイギリス、スペインの連合艦隊がいました。
ナポレオンが目をつけたのは、港と連合艦隊を見下ろす丘でした。
得意の大砲を使って丘と砦を占領します。
すると、丘からの砲撃を恐れた外国の艦隊は沖に避難しました。
海からの援護の無くなったトゥーロンは、裸同然・・・
ナポレオンはわずか2日で、要塞を攻略したのです。
こうして共和国勢力は、フランス革命を確固たるものとします。
この時、ナポレオン24歳。
戦いの功績によって三階級特進、フランス史上最年少の将軍となりました。
ナポレオンは民衆から革命の英雄と呼ばれるようになったのです。

1794年、最年少で将軍となったナポレオンは、出世階段を上り始めます。
そんな時、革命政府の最高権力者ロベスピエール側から首都パリの司令官を要請されます。
大抜擢です。
しかし、ナポレオンはこれを断わります。
ロベスピエールの政治に疑問を抱いたナポレオンは、彼と距離をおこうとしたのです。
ロベスピエールは、わずか1年余りで政策に反対する者50万人を逮捕。
1万6000人をギロチン台に送っています。

「もしパリに引き止められれば、何が起こるかわからない」byナポレオン

ナポレオンが要請を断ってから2か月、政権内部で反ロベスピエールのクーデターが発生します。
ロベスピエールとその一派は逮捕、処刑されました。
ナポレオンの代わりにパリの司令官となっていた人物も、処刑されました。
すんでのところで命拾いをしたナポレオン・・・しかし、この混乱に乗じて王党派が武力蜂起。
パリで火の手が上がります。
王党派の民衆と軍人併せて2万5000人が宮殿に押し寄せました。
これを鎮圧に向かったナポレオンの兵は5000。
しかし、彼には勝算がありました。
この時、ナポレオンが使ったのは葡萄弾を込めた大砲でした。
葡萄弾とは、砲弾に葡萄のような散弾を詰めたものです。
殺傷能力は高いが、建物は壊さない・・・
これを、王党派に打ち込んだのです。
王党派は300人が死に、蜂起はわずか1日で鎮圧されます。
非人道的な砲弾を使ったナポレオンを王党派は虐殺者と非難しました。
この功績で、ナポレオンの名声はますます高まりです。
そんな折、パリのサロンのパーティーでひとりの女性と出会います。
ジョゼフィーヌです。
美貌の年上女性に夢中になった彼は、1796年4月に結婚。
しかし、わずか2日後、ナポレオンはパリを後にします。
総司令官としてイタリアに行かなければならなかったのです。
フランスは、オーストリア帝国に支配され、圧政に苦しむ北イタリアを開放すると、宣戦布告します。

「イタリアは、自由を獲得するのにふさわしい存在であることを、世界に知らしめなければならない」byナポレオン

ミラノなど北イタリアでは、オーストリア軍を蹴散らして圧勝。
オーストリア帝国の支配から解放された市民は歓喜したと言われています。
北イタリアに自由をもたらしたはずのナポレオン・・・
しかし彼は、貴族や僧侶から戦勝金を巻き上げ、市民からは占領税を取りました。
その金額は、現在の価値で800億円!!
さらに、200点以上の貴重な美術品を収奪、パリに送りました。
これらの美術品は、ルーブル宮殿に集められ、現在のルーブル美術館のもととなっています。
どうして権利もないのに美術品を奪ったのでしょうか?

「天才の産物は共有財産である」byナポレオン

数々の非道な行い・・・しかし、ナポレオンがパリに凱旋すると、人々は大歓迎しました。
火の車だった国家財政に、ナポレオンが北イタリアから金を持ってきてくれた・・・ナポレオンにとっては人気を高める大きなポイントとでした。
ナポレオンは、民衆に歓喜の声で迎えられるように裏工作をしていました。
ナポレオンの勝利を伝える新聞は、パリなどで無料で配られました。
イタリアで得た戦勝金を使って、ナポレオンが兄・ジョゼフと弟・ルシアンに編集させたものです。

新聞には当然、都合の悪い者は一切書かれていません。
こうして、ナポレオンの人気は急上昇。
ナポレオンの政治家への野心が生まれました。

「我が国の政治部隊で様々なことを決する役割を果たす
 そのような力が自分にあるのではないかと考えるようになった」byナポレオン

提督の艦隊



1798年、28歳の時、ナポレオン人気を不動のものにする機会が訪れます。
フランスと敵対するイギリスを叩くため、ナポレオンはイギリスの貿易拠点だったエジプトに遠征。

「兵士諸君!ピラミッドの頂から4千年の歴史が諸君を見つめている」

実際は、イギリス艦隊に大敗。
制海権を失ったナポレオンは、補給を断たれ、砂漠の中で孤立してしまいました。
大敗にもかかわらず、新聞には戦勝報告を送り続けます。
その為、民衆は熱狂しました。
一方、フランス本国も危機に陥っていました。
周辺の国々が、再び対仏大同盟を結成。
ナポレオンの不在をついて、フランスに攻め込もうとしていたのです。
不安に陥った民衆は、ナポレオンの帰還を待ち望みました。
ナポレオンは考えます。
今、フランスに自分が帰れば、権力を握るだけの地位を得るだろう。
しかし、すぐには撤退できない事情がありました。
フランス軍にペストが蔓延していたのです。
フランスに帰るか、兵士の回復を待つか??
結論は・・・??
感染した数百人の患者の枕元にアヘンをおきました。
そしてアヘンを飲んで死ぬか、捕虜になるか、本人に選ばせたのです。
戦いの英雄、将軍にもかかわらず、ペストにかかった兵士を置き去りにしたのです。
エジプトから帰ったナポレオンは、民衆から熱狂的な歓迎を受けました。

”栄光に輝く様々な勝利を、誰にも先駆けてフランス軍にもたらしてきたボナパルト将軍!!
 その将軍がオリエントの覇者となって戻ってきた” 

歓迎の熱狂に包まれたナポレオンは、そのままの勢いで政治の中枢議会に乗り込みます。
しかし、待っていたのは多くの議員からの激しい罵声でした。
あまりのショックに、議会で何もできずに退場してしまいます。
問題は、ナポレオンが兵を連れていたことでした。
軍事クーデターではないか??
軍事力で発言が抑えられてしまう危険性を思ってのことでした。
彼等の誤解を解いたのは弟ルシアンでした。

「もし兄が、共和国の自由を侵害するなら、この短刀を(兄の)胸に刺そう」byルシアン

そして行われた国民投票・・・
1799年、30歳の時に第一統領に就任します。
賛成301万票、反対は1562票でした。
ナポレオンが、事実上の最高権力者になった瞬間でした。

「共和国が危機を逃れたら、即刻権力の座を退く」byナポレオン

しかし、この後、15年間、権力の座に居座ることになります。
政権を握ったナポレオンは当初こう言っていました。

「危機を逃れたら、即刻権力の座を退く」byナポレオン

しかし、その言葉とは裏腹に、5年後、自ら皇帝の座につきました。
どうして??
1800年、イギリス、オーストリアなど周辺の王国は、第一統領のナポレオンを危険視し、同盟を組んでフランスを包囲していました。
しかし、ナポレオンは、敵の弱点を見極める達人です。
5月、ナポレオンは密かにアルプスを南に進軍、イタリア北部に駐屯していたオーストリア軍に奇襲をかけます。
わずか2日間で、オーストリア軍に勝利します。
この結果、フランスはライン川西側の領土を、オーストリアからもぎ取り、支配地域を拡大。
オーストリアが破れて、包囲網に穴が開くと、同盟は総崩れ・・・
イギリスも国内問題で戦争を断念、フランスと講和しました。
対外戦争にひとまず講和したナポレオン、次に行ったのは、フランスの改革でした。
それまでのフランスでは、地域ごとに異なる法律が使われており、その数は30もありました。
ナポレオンはこれを統一、後にナポレオン法典と呼ばれるフランスの民法典を交付しました。

”万人の方の前の平等”
”経済活動の自由”
”私有財産の不可侵”

など、自由と平等を謳うフランス革命の精神を体現しています。
しかし、ナポレオンの政策の中には、矛盾するものもありました。
1794年、フランス政府はフランス領ハイチの奴隷制度を廃止、世界に先駆けた画期的な判断でした。
ところがナポレオンは、フランス化革命の英雄にもかかわらず、奴隷制度を復活させます。
自由、平等、博愛という革命のスローガンとは真逆でした。
ハイチでの奴隷を使った農場工場での利益を優先したのです。

「文明というものを持たず、フランスの何たるかさえ知らぬアフリカ人に、どうして自由を与えることができようか」byナポレオン

フランス革命では、男女同権の考えも進展しました。
それまで離婚を求めることは男性しかできませんでした。
しかし、女性が離婚が希望しても認められるようになったのです。
しかし、ナポレオンは、フランス革命で女性が獲得した権利を剥奪しました。
彼の法典では、男性が不倫をしても、罰せられることはありませんでした。
しかし、妻が同じことをした場合は、3カ月以上2年以下の禁固刑を課しました。

「我々西洋人は、女性を手厚く扱い過ぎて、万事を台無しにしてきた
 男とほぼ同党と見なすことが、そもそもの間違いなのだ」byナポレオン

1800年12月、ナポレオンの権力への欲望をさらに搔き立てる事件が起こります。
ナポレオンに反対する一派が、命を狙い爆弾を仕掛けます。
馬車の近くで爆発!!
しかし、爆発は、ずれ、事なきを得ます。

「自分の命を狙う連中を、根絶やしにしなければ・・・!!
 それには今よりもっと絶対的な力が必要だ!!」byナポレオン

ナポレオンの答えは、自らを皇帝とすることでした。
1804年、国会の議決と国民投票で、ナポレオンは世襲の皇帝につきます。
賛成350万票、反対は2579票でした。
フランス革命で王政を否定したナポレオンが、国王以上に強力な皇帝に就任したのです。
ナポレオン、この時35歳、玉座に向かいながら、隣を歩く兄・ジョゼフにこう言ったといいます。

「ジョゼフ!父さんに見てもらいたかったな」byナポレオン

皇帝となってからも、ナポレオンは休むことなく自ら戦場に赴きました。

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ウルム戦役、トラファルガーの海戦、アウステルリッツの戦い、アウエルシュタットの戦い、フリートランとの戦い・・・周辺諸国との絶え間ない戦い・・・
ナポレオンは、イギリス、スウェーデンを除き、ヨーロッパの大半を制圧。
フランスの国土は、史上最大となりました。
このナポレオンの行動は、ますますフランス革命の精神とかけ離れていきます。
兄・ジョゼフをスペイン国王に、弟・ルイをオランダ国王にすることに成功。
これで、フランス包囲網は緩みます。

それだけではなく・・・ナポレオンは、自身も王族になろうとしました。
若き日の恋愛で結ばれた皇后ジョゼフィーヌと離婚。
1810年、政略結婚の本家本元オーストリアの皇女・マリー・ルイーズと再婚しました。
北イタリアの戦いでは、オーストリアの圧政を非難したナポレオン・・・とうとう自分がその仲間になったのです。
再婚の翌年・・・1811年、41歳の時にナポレオン2世が誕生。
国民は歓喜にわきました。

コルシカ島の貧乏貴族から、フランスの皇帝に上りつめたナポレオン・・・他国の王家との政略結婚で結ばれ、跡継ぎも生まれました。
彼にとってわが世の春でした。

しかし・・・そのわずか3年後に皇帝の座を追われることとなります。
どうして追放されたのでしょうか??
ヨーロッパ中にフランスの領土を広げたナポレオン・・・
次の標的はロシアでした。
1812年6月、ナポレオンはロシアに侵攻。
同盟国の兵も合わせて40万もの大軍でした。
負けるはずがない・・・と思っても無理はありません。
しかし、これまでとは何かが違う・・・
ある都市を占領すると、そこはすでに後退するロシア軍によって焼き払われていました。
現地で物資や食料を補給する計画が根本から崩れたのです。
補給がほとんどできずに疲れていく軍隊。
それでも9月には、モスクワに進軍!!
しかし、その夜・・・
またしても街に火を放たれ・・・モスクワ炎上。
補給が出来なくなってしまいました。
もはや、撤退するしかない!!
しかし、帰り道に待っていたのは冬将軍と呼ばれるロシアの12月の寒さでした。
ロシアから本国に帰還できた兵士は5000人・・・全体のおよそ1%でした。
戦術の天才ナポレオンが、戦術で完敗したのです。
この大敗で、ナポレオンの勢いが衰えたと見た各国は、第6次対仏大同盟を結成。
フランス領に攻め込み、領土を奪還します。
現在のドイツ・ライプチヒで、ナポレオンと対仏連合軍との戦いの火蓋が切って落とされました。
1813年、ライプチヒの戦いです。
連合軍の中には、妻・マリー・ルイーズの実家オーストリア軍もいました。
3日間の激闘の末、ナポレオンは敗走。
連合軍は追撃の手を緩めず、進軍しました。
1814年3月、パリ陥落。
パリの町では、連合軍兵士による市民への略奪や蹂躙が横行しました。

「私の人民は、苦痛と悲惨にあえぎ、見るも恐ろしい状況にある」byナポレオン

降伏を促す連合軍を前に、ナポレオンは部下たちから無条件の退位を迫られます。
ナポレオンはこれを拒否、軍人らしく、自ら毒を煽ります。
しかし・・・苦しくて吐いてしまいました。
死ねなかったナポレオンは、皇帝の座を引きずり降ろされます。

1814年、44歳の時に故郷のコルシカに近いエルバ島の小領主に身分を落とされ追放されます。

「裏切られたというより、わたしは見捨てられた」byナポレオン

一方、フランス本土では、王政が復活。
ブルボン家のルイ18世が王となりました。
この頃ナポレオンは、エルバ島から妻マリー・ルイーズに手紙を送っています。

「私は元気でいる
 だから来ておくれ
 一日千秋の思いで待っている」byナポレオン

しかし、返事はなく・・・マリー・ルイーズと息子が島に来ることはりませんでした。
しかし、失意のナポレオンに朗報がもたらされます。
この1年の間に、フランス経済は河口の一途をたどり、民衆は再び王政に不安を抱いていると・・・!!
1815年、ナポレオンは監視の目を盗み、エルバ島を脱出。
本土につくと、ナポレオンを慕う部下たちが次々と合流。
パリに帰還したナポレオンを、新聞はこう伝えます。

”我らが皇帝陛下が、パリの宮殿にお入りになった!”

身の危険を感じ、フランスから逃げ出したルイ18世に代わり、皇帝に返り咲いたナポレオンは、再び戦争へと突き進みます。
しかし、ワーテルローの戦いではイギリスやプロイセンの連合軍に完敗。
イギリスに投降します。
ナポレオンの二度目の天下はわずか95日でした。
1815年、46歳の時にセント・ヘレナ島に追放。
イギリスは、この地にナポレオンを追放します。
ここでナポレオンは、一挙手一投足を監視されながら生きなければなりませんでした。

「私の生涯は、なんという小説だろう」byナポレオン

1821年5月5日、ナポレオン・ボナパルト死去。
51歳の生涯でした。

「私の遺体はセーヌ川の河畔に葬ってほしい
 私が深く愛するフランス国民の中にありたいからである」byナポレオン

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