冒険に人生をかけた日本人がいました。
その人物は、世界五大陸の最高峰を人類史上初めて制覇するという偉業を成し遂げました。
モンブラン、キリマンジャロ、マッキンリー、アコンカグア・・・そして、エベレスト!!
冒険家・植村直己。
身長162センチと体は小さかったが、夢はとにかく大きかった!!
29歳の時、五大陸の最高峰制覇という誰も成し遂げたことのない偉業を達成しました。
しかも、そのほとんどが単独行!!
それは、あまりにも無謀な冒険でした。

植村は、冒険は生きて帰ることが大前提だと語っていました。
それなのに、どうして単独行にこだわったのでしょうか?
そして、次なる冒険は・・・北極でした。
ここでもたった独り・・・!!

標高8848m、世界の最高峰エベレスト・・・今から45年前、日本山岳会がエベレストに挑戦しました。
29歳の植村直己もメンバーに加わっていました。
ベースキャンプまでおよそ300km、当時は1カ月かけて歩かなければなりませんでした。
さらに1カ月をかけ、地道に登山ルートを築いていきます。
しかし、厳しい自然が立ちはだかります。
コンクリートのように固い氷河、そして雪崩、巻き込まれ命を落とした者・・・
山頂直下の狭い稜線を進むときに怖いのは風です。
強風にあおられれば、ひとたまりもない・・・
さらに、標高8000mを超えると、酸素が平地の1/3というデスゾーン・・・
命を落とす登山家が一番多い危険地帯です。
植村たちは、酸素ボンベを背負ってはいたものの、無くならないよう少しずつしか吸えない・・・
酸素が足らず、5、6歩進んでは立ち止まりました。
しかし・・・1970年、日本人初のエベレスト登頂!!

1960年、19歳の時、明治大学に入学。
多摩には緑に囲まれたい・・・と、山岳部を訪れました。
しかし、いきなり合宿に・・・荷物を入れたザックは30kg!!
少しでも遅れると、ピッケルや足で叩かれました。
身長162cmと小柄な植村・・・ふらつき、よく転げる姿からついたあだ名は「どんぐり」
その植村が、どうして冒険家になったのでしょうか?



植村は、トレーニングに励みます。
毎朝6時に起き、9キロの山道をランニング!!
ひとり、富士山にも登ります。
のめりこみ、1年の1/3を山で過ごすようになります。
印象とは異なり、非常に意地っ張りで途中でやめるということは、彼自身の気持ちが許さなかったのでしょう。

”しぶとい、しつこい、粘り強い人”

この頃、植村は、1冊の本と出会います。
フランスの登山家が、アルプスの山々への挑戦を綴った「星と嵐」です。

「自分の足で氷河を踏み、そして白く輝くアルプスの最高峰モンブランの頂に立ちたい気持ちを抑えられなかった」by植村直己

しかし、この夢を実現するにはお金が要ります。
植村は、ヨーロッパとは逆方向・・・1964年、23歳の時にアメリカに渡ります。
目的は、不法就労・・・日本よりも賃金が高いアメリカで、稼ぐと決めたのです。
見つけた仕事は葡萄の収穫・・・
賃金は、かごに何杯積んだかで決まります。
植村は必死に働きましたが、収入は1日6ドル・・・
しかし、一緒に働くメキシコ人の中には20ドル以上稼ぐ者もいました。

「汗だくだ区になっているのに、6ドルでは合わない
 同じようにもいでいるのに、どうして違うのか」by植村直己

植村は、メキシコ人たちのやり方を観察します。
すると・・・植村が駕籠を山盛りにしているのに対し、メキシコ人たちはそれほど入れていませんでした。
生真面目さが仇となっていました。
観察の結果、植村は、稼げるようになりました。
しかし・・・渡米して4カ月、植村は突然逮捕されました。
不法就労がバレたのです。
日本への強制送還は免れない・・・

「英語はわかりません
 私は日本語しかできません」

英語が話せないふりをして、通訳を呼ばせ、日本語でアルプスへの思いを語ります。
熱意は通じました。
強制送還を免れた植村は、意気揚々とヨーロッパに向かったのです。

ヨーロッパに渡った植村が目指したのは、憧れのモンブラン・・・!!
標高4810m・・・ヨーロッパの当時の最高峰です。

1964年、23歳の時、植村はたった一人で登り始めます。
既に11月・・・あたりに人影はありません。
それでも、不安を感じることはなく、全てが自分だけのものという感覚を楽しんでいました。
しかし・・・植村は、氷河の裂け目・・・クレバスに落ちてしまいました。
雪がクレバスを覆い隠していたため、気付かなかったのです。
クレバスでは、経験豊富な登山家の死亡事故も多い・・・!!

「俺は遭難したんだ!!
 これが遭難というやつなんだ!!」by植村直己

幸いクレバスは狭く、ザックを背負った植村は、氷に挟まれる形で一命をとりとめました。

「もしこれが、2人以上のパーティーなら、ザイルで結ばれているからそれほどの危険はないだろう
 助かったという奇跡に驚き、膝がガタガタ震えて止まらなかった」by植村直己

単独行の怖さを体験した植村・・・しかし、その後も単独行にこだわり続けます。



4か月後、植村はヒマラヤにいました。
1965年、24差の時・・・それまでに誰も登ったことのなかったゴジュンバ・カン遠征隊に参加。
途中参加の植村は、誰よりも懸命に荷物を担ぎ、遠征隊をサポートします。
ところが・・・第1次アタック隊が登頂に失敗、荷物を運ぶため、最終キャンプに来ていた植村に、突如山頂にアタックするよう指令が出ました。
植村は戸惑います。

「遠征隊を編成する資金も出していない、準備も手伝っていない・・・
 そんな自分がアタック隊に選ばれてはならないのだ」by植村直己

だが、隊長の「山岳部の名誉のために登れ!!」という言葉に、逆らうことはできませんでした。
12時間にわたる悪戦苦闘の末、植村は、前人未到の山の頂に立ちました。
この快挙は、大々的に報じられました。
紙面を大きく飾る植村・・・!!
それに比べ、仲間の写真は小さかった・・・。

「デカデカと紙面を埋めている自分の写真を見て、穴があったら入りたかった
 これではみんなに申し訳ない」by植村直己

この苦い体験が、植村を単独行へと駆り立てていきました。

1966年、25歳の時にモンブランに再挑戦!!
そして、単独登頂に成功します。

「エーデルワイスの花を見つけたときには嬉しかった
 このエーデルワイスのように誰にも気づかれず自然の冒険を自分のものとして登山する
 これこそ、単独で登山する自分が憧れていたものではないか」by植村直己

その後、植村は五大陸の最高峰に次々と挑んでいきます。
この年に、アフリカの最高峰キリマンジャロに単独登頂。
2年後、南アメリカの最高峰・アコンカグアを単独で制覇。
その翌年には世界最高峰のエベレスト登頂に挑みます。
しかし、8000mを超えるエベレストに単独で登ることはできない・・・!!

植村は、日本人としての初登頂を目指す日本山岳会の一大プロジェクトに参加しました。
しかし、植村は、ある疑問を感じます。
遠征隊の荷物の総重量は33t・・・それを運ぶために、現地のポーター1000人が雇われました。
ポーターたちは、ひとり30kgの荷物を360円ほどの日当で1カ月運び続けます。
食事は麦やとうきびを練った団子と野菜のスープでした。
さらに、登頂を果たすまでに、数人が事故で命を落としました。

「他の国の人の”登山という遊び”のために、奉仕しなければならぬネパール人を、私はひどく気の毒に思った」by植村直己

このエベレストでの経験を踏まえ、改めて単独行への思いを強めた植村・・・
3か月後、北アメリカの最高峰マッキンリーに一人で向かいます。

1970年・・・29歳の時・・・
そのマッキンリーがあるのは、北極に近いアラスカ。
万年雪がクレバスを覆い隠し、転落事故の危険性が高い!!
植村は、かつてクレバスに転落した苦い経験から、竹の旗竿を担ぐことにしました。
こうしておけば、クレバスに落ちても引っかかってくれるかもしれない・・・!!

そして、植村はマッキンリーの登頂に成功!!
五大陸の最高峰を制覇するという人類初の偉業を達成したのです。
植村、29歳の時でした。

五大陸の最高峰を制覇して2年・・・植村は、アザラシの生肉をかじっていました。
新たな大冒険に乗り出すためでした。
その大冒険への決意は、あのマッキンリーの山頂ですでに固まっていました。

「私は登頂した感激よりも、南極大陸単独横断の夢が強く高鳴り、自分の本当の人生はこれから始まるのだと出発点に立った感じであった」by植村直己

南極大陸の単独横断・・・
誰も成し遂げたことのない大冒険こそが、植村の次の目標でした。
アメリカの観測基地を出発、南極点を通過し、アルゼンチンの観測基地へ・・・
全行程は3000kmに及びます。
この大冒険を実現するために、植村がとった最初の行動は・・・
1971年、30歳の時に日本横断3000kmを歩き始めます。
植村は、朝5時から夜9時まで、野宿をしながら52日間にわたって歩き続けます。



1972年、31歳の時にグリーンランドへ。
南極横断には欠かせない、犬ぞりの技術を身につけるため、イヌイットと生活を共にします。
しかし、思わぬ光景に愕然とします。
イヌイットたちがムチや棒でひたすら犬を叩き続けていました。
絶対的な主従関係を築かなければ、犬ぞりなど扱えない・・・
植村は心を鬼にして、板切れで犬たちを叩きました。

「骨が折れてしまうのではないかと心配になった
 しかし、甘い扱い方は、かえって自分の命さえも脅かしかねない」by植村直己

食事もきつく・・・主食はアザラシやセイウチの生肉でした。
匂いは強烈!!

「生肉を食べると、胃液が逆流した
 しかし、ママット(おいしい)と言わなければならない
 どこまで自分がイヌイットになり切れるかが、冒険の成否を分けるのだ」by植村直己

それでも、イヌイットのもとで、1年近く暮らすうち、生肉をうまいと感じるまでになりました。
そして犬ぞりに慣れた植村は、南極横断という夢に近づくため、最初の冒険に乗り出します。

1974年、グリーンランドからアラスカへ・・・北極圏1万2000kmの単独行へ!!
最大の難所は、100kmに渡り人が住まない無人地帯です。
植村は、食料を確保するため、事前にイヌイットに頼んでセイウチを埋めてもらっていました。
ところが、そのセイウチが、野生動物に食い荒らされていました。
恐ろしい事態です。
犬たちが飢えると、絶対的な主従関係が崩壊する・・・!!

「強い犬が弱い犬をかみ殺して、共食いする状況・・・
 自分が犬を支配する力が無くなったとき、反対に食い殺されるんじゃないかと、感じた」by植村直己

この危機を脱するには、アザラシを仕留めるしかない!!
しかし、植村は、それまで1度もアザラシを仕留めたことはありませんでした。

「失敗して戻ってくると、犬たちは”なんだ、またダメだった”という顔で見上げる・・・
 私は思わず”許せ”と手を合わせるのだった」by植村直己

限界が迫っていたその時・・・

「おもわず、”やった、やった”と飛び上がり、ライフルを氷の上に投げ出し、走り寄った」by植村直己

犬たちと一緒に、アザラシの肉を食いちぎりました。

旅を初めて1年半・・・植村は、ついに北極圏1万2000kmをひとりで走破しました。

南極横断という夢の実現に向け、次に植村が挑んだのは世界初の北極点への単独行でした。
そして50日以上かけて、この偉業を達成します。
しかし・・・その直前、植村はひとり、悔し涙を流していました。



北極点への単独行を実現するためには、前回の旅とは異なる難題がありました。
北極点付近には、人も動物もいないため、食料を空輸で補充しなければなりません。
しかし、それには莫大な費用が掛かります。
北極圏での費用が600万円だったのに対し、北極点への旅には1億円以上が必要でした。

その資金を稼ぐため、口数が少なく人前が苦手だったにもかかわらず、講演会やテレビの仕事を必死にこなします。
そして、植村を支援するキャンペーンが始まります。
全国に募金を呼び掛ける1口1000円募金です。
募金と共に、手紙を寄せる人もいました。
しかし、次第に植村は、ある思いにとらわれるようになります。

「俺は、”成功しますから”と相手を騙して金をとる詐欺師ではないのか?」by植村直己

1978年3月5日、37歳・・・
プレッシャーに押しつぶされそうな中、植村は北極点へと旅立ちます。
同じ頃、日本大学のチーム・北極点遠征隊が出発。
日本人とイヌイットの23人のチームでした。
するとマスコミは、どちらが先に北極点に到達するかと煽り立てます。

「一部の新聞が、これを競争かのように掻き立てたのは、全くの心外だった
 しかし、日大隊が自分と同緯度を進んでいると、無線で聞いてから無意識に気持ちがはやっていた」by植村直己

多くの国民から募金を受けた植村・・・負けるわけには行かないと感じていました。
しかし・・・その植村の前に、氷が連なる丘・・・乱氷帯が立ちはだかります。
鉄の棒で氷を壊し、少しづつそりを進めるしかありませんでした。
焦りを感じ始めていた植村に、食糧補給のパイロットからある情報がもたらされます。

「北西に行けばなだらかな氷原に出る」

植村は、この情報に賭けました。
しかし・・・待っていたのは割れた氷原・・・
引き返すしかありませんでした。

「自分の目しか頼りにならない世界で、他人の好意に甘えたことがいけなかった」by植村直己

先に北極点に到達したのは、日大隊でした。
植村は、ひとりテントで泣きました。

3日後・・・植村は北極点に到達しました。

南極横断という夢を抱き始めて10年余り・・・植村はついに・・・
1982年、41歳の時に南極に降り立ちます。

「もう、俺の心は宙に浮いたように顔のしまりがなくなってしまった
 マッキンリー登頂以来、この南極にかけてきたのだ
 何一つ疑う心なくして」by植村直己 

これまでの業績が評価され、アルゼンチンの南極基地の協力を得ることに成功します。
最大の課題である食糧の運搬は、アルゼンチンの軍用機が担当!!
ついに、夢が実現しようとしていました。
しかし・・・予期せぬ事態が・・・
アルゼンチンの沖合にあるフォークランド諸島の領有権を巡って、アルゼンチンとイギリスの間で紛争が勃発!!
その影響は、植村がいた南極基地にも及びます。
軍用機が使えなくなり、出発が見送り・・・
それでも植村は、犬ぞりの訓練をしながら許可が出るのを待ち続けました。
南極に降り立って10カ月・・・計画中止。

それから2年・・・植村はアラスカにいました。
かつて南極の思いを馳せたマッキンリー・・・誰も成し遂げたことのない冬期単独登頂に挑みます。
1984年2月1日、42歳の時にマッキンリーへの登頂開始。
しかし、悪天候が続き、なかなか山頂にアタックできません。

ようやく晴れ間が・・・2月12日、植村43歳の誕生日にマッキンリー山頂にアタック!!
この日、植村は、マッキンリーの冬期単独登頂を成し遂げます。
しかし・・・その後、天候が悪化・・・連絡が途絶えました。

”植村さん、姿なし”・・・衝撃のニュースが、世界を駆け巡りました。
すぐに捜索が始まります。
見つかったのは、植村が頂上に結んだ日本の国旗と、キャンプの所持品でした。
発見された日記の最後に、植村はこう記していました。

「何が何でも、マッキンリー登るぞ」by植村直己

植村の妻・公子さんは、後にこう語っています。

「南極を断念したことを、自分の中にずっと貯めて深くしていったから、絶対に無理して登頂していたと思う
 登らずに帰ってくることはできなかったから」by植村公子

南極への夢を抱き続けた植村直己・・・
植村は、今も見つかっていません。

植村には、もうひとつ夢がありました。
それは、冒険学校を作ることでした。
植村の遭難後、その遺志を引き継ぐ施設が誕生しました。

”植村直己 帯広野外学校”

自然の中で生きる術を学ぶ、体験型の学習施設です。
冒険の楽しさを子供達にも伝えたい・・・

「なんでも金で買えるという社会から一度離れて、遊びでいいから楽しみでいいから、生きることの基本に返った生活をしてみよう
 自然の中で原点に返ることが、人間にとってどうしても必要だと思う」by植村直己

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