それは、歴史的な倒産劇でした。
巨大証券会社の突然の破たん・・・負債総額は、戦後最大となる3兆5000億円!!
グループ社員1万人以上が職を失いました。
全ての責任を負った社長・・・涙の裏に、一体何があったのでしょうか??



1997年11月24日・・・山一証券が自主廃業を決定した日です。
創業100年の大企業が迎えた突然の破たん劇は、どうして起きたのでしょうか??

①山一破たんを招くスクープを書いた雑誌記者。
山一を廃業に追い込んだ男は、この記者会見の現場で複雑な思いを抱えていました。
図らずも、破たんの引き金を引いてしまった男・・・!!

東京・茅場町・・・旧山一証券本社ビルがりました。
100年の歴史があり、業界トップを誇ったこともある名門・山一証券。
1980年代後半、空前の好景気・バブルが到来します。
日本中で、株などを運用する財テクがはやり、証券業界は沸きに沸きました。
4大証券会社の一角だった山一證券も、5735億円・・・けた外れの収益を記録します。
しかし、バブルが崩壊・・・その時、山一の経営陣は、損失を隠すという不正に手を染めます。
それがやがて、会社を破たんへと導きます。
しかし、この破たん劇には、知られざる事実がありました。

全ての責任を負った社長は、3か月前に社長に就任したばかりでした。
しかも、肝心の不正をまったく知らされてはいませんでした。
破たん劇の引き金を引いたのは、たった一つの雑誌記事でした。

山一に不正の重大疑惑あり!!

このスクープからわずか7カ月で、100年の歴史を誇った山一は廃業に追い込まれます。
記事を書いたのは、経済記者の木村秀哉です。

「最初から潰したくて書いた記事じゃない!!」by木村

木村が所属する東洋経済新報社・・・
ビジネス関連の書籍を主に扱う老舗です。
当時、木村は36歳、木村を指名してかかってきた1本の電話が全ての始まりでした。

1996年12月・・・破綻11カ月前。
その相手は、こう告げました。

「とにかく見せたいものがある」

呼び出されたのは、都内のホテルにある喫茶店でした。
その男が現れました。
聞けばかつて、投資顧問会社を経営していたという・・・
男は金融業界からつまはじきにされたことを恨んでいるという・・・
そして封筒から、30枚ほどの資料を取り出しました。

帳簿のコピーらしきもの・・・
山一証券社長の印が押された契約書の写し、そして生々しい会話のやり取りが記録されたメモがありました。

”いっぺんに返せんから、2~3百はやる、とあんた、言いはったでしょ”
”詐欺で訴えなきゃ”

山一証券の社長に向けて発せられたとされる赤裸々なやり取りが並んでいました。



怪文書・・・??
本当なのか??

一連の資料は、山一が法律違反に当たる損失補填を行っているという疑惑をにおわせていました。
株価がぐんぐんと上がっていた80年代後半、日本中の投資ブームに火をつけたのが証券会社でした。

「儲かりますよ」

そう言って、投資家に株の売買を薦め、その手数料で莫大な収益を誇りました。
しかし、バブル崩壊・・・
株価は一気に下落しました。
この時、収益が急落することを恐れた山一が行ったのが損失補填でした。
そしてその代わりに、引き続き株を買ってもらえるように頼んでいました。
しかし、それをするのは、大口の顧客だけ。
一部の取引先だけを不当に優遇していたのです。

”いっぺんに返せんから、2~3百はやる、とあんた、言いはったでしょ”

損失補填をにおわせる部分でした。
しかし、木村は慎重です。
本当に本物なのか・・・??
すると、二度目の接触で、男はさらに衝撃的なものを持ち出してきました。
会話のやり取りを一部始終録音したというカセットテープでした。

「さすがにテープまで用意しているというか、あるということ自体、内部に協力者がいるということ
 でも、これ、本当に本人の声か??
 社長とか、よくテレビに出ていたんで、社長の声とかを確認できるわけよ
 だから、これはほぼ間違いない、との感触は持ちましたよね」by木村

木村は決めました。
記事を出す!!
テープの内容は、確かに本物だという確信が木村にはありました。

1997年4月21日・・・破たん7か月前
木村による山一不正疑惑追及の幕が上がりました。
山一に運用を委託していた企業の実名を挙げ、いつ、どのくらい損を被ったか・・・
その企業に山一がいくら補填したか・・・金額入りで報じました。
山一の反応は早く、内容を否定するとともに東洋経済を名誉棄損で告訴する構えを見せました。
真っ向から対立する攻防は、世間の注目を集め始めます。
このまま追撃できなければ、相手の言い分が通ってしまう・・・
証拠が欲しい!!
しかし、どうすればいいのか??
焦る木村にチャンスが訪れたのは、2週間後でした。
木村の記事を読んだ人物が、新たな情報を持ち込んできました。
ある会社で、経理部長を務めていた男・・・山一との間で不正な取引を長年担当していたが、突然その責任を取らされ会社を首になったという・・・。
男が持参した資料は、山一がさらに重大な不正を行っていたということを示唆していました。
損失補填を重ねた結果、山一は巨額の赤字に陥っている可能性があるというのです。

「これ大きいよね
 ここはもうやった!と思いますよ
 来た!!って感じ
 ついに追加で協力者が出てきた」by木村

最初の記事から2か月後、木村は第2弾の記事を出します。
山一が、決算には現れないよう巨額の損失を方々で隠しているという疑惑です。
これはまだ氷山の一角・・・以後、木村の狙いは、損失の全貌を明かすことに絞られていきます。
まもなく、木村に一本の電話が入ります。
相手は、山一証券の幹部・・・どうしても、直接会いたいという。
呼び出されたのは、江東区にある雑居ビルでした。
指定された時刻は、深夜零時を回ることでした。



シーンとした普通の会議室・・・
そこで、山市の幹部はある取引を持ち掛けてきました。

「まさに今、山一證券は外資系と資本の提携を結ぼうとしている
 もうちょっと待ってくれ
 決まったら、東洋経済にスクープをとらせてあげる」

木村は答えをはぐらかしました。
そして、逆に本丸の疑惑についてカマをかけました。

「帳簿外の損失5000億円はあるでしょう?」by木村

男は答えました。

「そんなにはない、せいぜい2000億円だ」

簿外の損失を、認めてしまいました。
木村は、さらに確信を突きます。

「今、提携を進めている提携相手に損失を明かしているのか?」

「それは言ってない」

「それじゃ、詐欺みたいなもんじゃないですか!!」

そんなことでは、交渉はまとまらないし、まとまった後でも大問題になります。
何でここまで腐りきってしまったのだろうか・・・!!

11月17日・・・破たん7日前
木村は書くなという要求をはねのけ、渾身の第3弾を発表します。
山一が存続を危うくするほどの損失を抱えていることを、隠蔽の方法と共に詳しく報じました。
そして記事をこう結びました。

”再生への道の第一歩は、過去の懺悔から始まらなければならない
 後は本当に「自然死」を待つのみである”

山一に警鐘を鳴らすはずの木村・・・
しかし、事態は予想を超えるスピードで動き始めました。

11月19日、一時3000円以上もあった山一証券の株価は、100円を一気に割り込みます。
株価最終値65円・・・再上場以来最安値でした。
信用不安が広がります。
さらに2日後、アメリカの格付け会社が山一の社債を投資不適格まで格下げします。
ショックが走ります。
直近の山一の株価・・・その根の下げ方は、もはや会社の息の根を止めるに等しいものでした。
そして、損失隠しのスクープから7日後・・・
1997年11月24日、自主廃業決定!!
100年の歴史を誇った山一証券は、呆気なく破綻しました。
会見場で、この様子を見ていた木村・・・複雑な思いでした。

「最初から潰したくて書いた記事じゃない
 これだけは間違いないです
 だって、あんな大会社、一記者がどんなにつぶしたくたって、潰れるわけないんだから、普通は
 だけど変な話、ものすごい大巨人、大企業が弱ってると、ちょこっと押しただけでぶっ倒れたっていうようなそういう時だってある
 それは、タイミングっていうだけの話であって」by木村

最初の記事が出てからわずか7カ月での破綻・・・

「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから・・・!!」

そう言って、記者会見で人目をはばからず号泣した社長。。。
実は、彼が就任したのはこの会見のわずか3か月前でした。
しかも、会社の命運を握る重大な情報を知らされないままでした。

②社長の最も近くにいた男
社長の最も近くにいた男・・・最後まで会社を立て直せると信じていました。
元山一証券常務取締役・藤橋忍

「まさか、破たんするなんて思ってないですから・・・
 最後の最後まで思ってないんですから、当事者である私がね
 私の暦は11月24日の破たんから、全部戻るんですよ
 あの時こうすればよかった・・・その思いばっかりですよ」

山一廃業以来、ずっと口を閉ざして来た藤橋・・・事実を伝えたい!!

木村によるスクープ記事が出てから3か月後・・・
山一は、経営人の刷新を図りました。
後に粉飾決算の容疑で逮捕される会長・行平次雄、社長・三木淳夫が辞任。
この二人を含めて会社の膨大な損失の存在を知る者は、ごくわずかでした。
辞任した二人の指示で、突然社長になったのが、野澤正平・・・営業畑一筋で、社長レースに名前が挙がったことはなく、意外な人選と噂されました。
藤橋は、山一の中枢といわれる企画室長でした。
早い段階で、損失の存在を知らされていました。
新体制になって数日後、藤橋は同僚から耳を疑う情報を聞かされます。

「社長は損失隠しを知らされていないらしい」


「そんなことあるかなあ
 エッという感じしかなかったですから、それはだって言わないわけにはいかないでしょう」by藤橋

藤橋は野澤に、洗いざらい事実をぶちまけました。
会社は損失を帳簿上隠していること、その額はもはや会社の存続が危ういほどにまで膨れ上がっていること・・・
その時の野澤の表情が忘れられないという・・・

「野澤さんは、話しを聞いていくたびに、だんだん、だんだん、頭が下がってね
 青い顔をして・・・
 全部説明を聞き終えた後はね、何にも発言しなかったと思う」by藤橋

なぜ、前任の社長が野澤に損失を教えなかったのか・・・理由は謎です。
だが、野澤には、落胆している時間はありませんでした。
会社が倒れれば、グループ社員1万人が路頭に迷います。
その2日後・・・野澤は藤橋を呼びました。

”社員を守るための極秘プロジェクトを立ち上げたい”

「会社の規模が小さくなってもいいからという話が冒頭にあったんですよ
 リストラもやると・・・
 会社のTOPというのは、リストラが一番いやなんですよね
 社員の首を切るというのは、一番悩むところ
 もし、そこまでトップが腹を決めるんならね
 役員の半減、その代わり人もこれだけ切る
 店舗もこれだけ切る、全部具体的に出てきましたからね
 だから、もしかしたら、実行できる案になるかなという感じを私は持ちました」by藤橋

”社員の半分を、私の責任でリストラする
 非難は、自分が辞めることで受け止める”by野澤

野澤たちは、ギリギリの生き残り策を練り始めます。
まずは、誰かに暴露される前に、隠してきた2600億円の損失を公表すること。
記者会見で謝罪し、併せて抜本的な改革を発表することでギリギリの信用を守る・・・
しかし、9月、あと数日で公表すると決めた矢先・・・
総会屋への利益供与で、取り調べを受けていた前社長が逮捕されます。
山一は、非難の的となります。
謝罪に追われた野澤たち・・・
この逆風の中で、新たな火種となる損失隠しを公表できなくなりました。



野澤たちは、メインバンクに救済を申し込みます。
しかし、返答は厳しいものでした。
正直に損失を公表したものの、既に信用は失われており、救済は断られました。
止む無くヨーロッパに向かい、外資系金融機関と提携を交渉するも、進まず、自主再建の道は経たれました。
11月14日、野澤たちが向かったのは、最後の砦・・・大蔵省。

”社員を半分にする、自分も辞める
 だから、助けてほしい”

全てを証券局長に報告した時、こういわれました。

「バックアップをしましょう!!」by大蔵省

野澤たちは、その言葉を救済だと受け取りました。
しかし、その3日後、思いがけない事態が・・・!!

木村記者のスクープ第3弾!!
損失を隠していたことを大々的に報じられ、世間の空気が一変します。
2日後・・・再び大蔵省を訪れた時、告げられたのは前回と全く逆の言葉でした。

「感情を交えず、淡々と申し上げます
 社長にはつらい決断だけれども、自主廃業を選択してもらいたい」by大蔵省

「なんとかなりませんか」by野澤

「いや、これは内閣の判断です」by大蔵省

会社の存続を許さない自主廃業・・・
バブル期以降、不祥事が多かった金融業界への見せしめだったともいわれています。

「一瞬、本当に頭が全然回らない
 そんなことを話しに来たわけじゃなくて、こちらの状況報告と、もし、大蔵省さんで何かあるならばアドバイスをしてもらおうと思って・・・
 ちょっとクラっときたくらいでしたね
 わずか、あのとき、5分か10分ですから」by藤橋

奇しくもこの年、創業100年を迎えた山一證券、その歴史はほんの5分で幕が引かれました。
自主廃業の発表は、5日後と決まりました。

11月23日、会見前夜・・・
野澤と藤橋は、本社18階にある部屋に泊まり込み、カップ麺をすすりながら会見の準備を進めました。
明日からどうなるのか・・・不安感がありました。

「野澤さんは、そこから飛び降りてしまいたいと・・・
 ”今ここを開けて飛び降りてしまいたいよ”と言っていたから、もう、ずっと張りつめていたんですよ」by藤橋

突然社長に指名されてから3か月・・・
何も知らない社員だけは守りたいと奔走してきた野澤が、初めて吐いた弱音でした。
藤橋が床に就くと、会見に備え、一生懸命練習する野澤の声が聞こえました。

「間違わないように、間違わないようにって、夜中まで練習しているわけですよ
 ほとんど、一睡もしていないんじゃないかな・・・彼は」by藤橋

1997年11月14日午前11時30分。

「当社誠に残念ながら、この度、自主廃業に向けて営業を中止することを決定いたしました
 図らずも、当社100周年を迎えて、このような事態になりましたことは、まことに断腸の思いであります」

経営責任を追及する厳しい問いにも、淡々と答え続けた野澤・・・
2時間がたった頃、記者から社員についてどう思うか、との質問が出た時でした。

「これだけは言いたいのは、私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから!!
 どうか、社員の皆さんに応援してやってください
 お願いします!!」

「あれ見た瞬間、涙が出ましたね
 最後に涙を流したのは野澤さんの無念さが、全部つまったものが最後にきて吐き出したんですよ
 あれは気持ちですから
 自分でつめてつめてつめてきたんですよ
 つめてきて最後に、だから、あれが彼の本音なんですよね
 ”お客さんと社員には申し訳ない”と」by藤橋

無念さを押し殺して頭を下げた社長の思いは計り知れません。
そしてその破綻は、何も知らされていなかった1万人の社員から、突然生活の糧を奪いました。

③どん底からの復活戦
突然転落した人生・・・千葉駅から10分ほどの繁華街にその男の職場がありました。
永野修身・・・元山一証券のトップセールスマンでした。
破綻した後・・・最初にこのビルに出勤した日の光景は、今も脳裏に焼き付いています。

「ザ~っとね、人がね、取り付けで・・・
 ものすごい数百人ですね 行列していて・・・
 会社がつぶれるってこういうこと
 昔は、お客さんを呼ぶのに一生懸命だったんだけど、会社が潰れたら、こんないっぱい 
 お客さんが向こうから来てくれるってね・・・」by永野



永野はあの日をばねに、復活の人生を歩んできました。
永野が入社したのは、バブル前夜の1982年。 
バリバリ働く証券の仕事に憧れました。
持ち前のバイタリティーで、全国トップのセールスを記録した永野・・・
39歳の休日、突然あの時を迎えます。

「本当に、みなさんとタイミング的には一緒のことです
 まるっきり知らなかったです 潰れるということは
 この会社で60歳までやっていくんだろうな・・・
 っていうふうに思ってたのが、いきなり潰れたわけですね
 住宅ローンとかさ、いっぱいあるわけですよ」by永野

4人家族・・・下の子供はまだ小学3年生でした。
この先、家族をどう食わせていくか、呆然とするばかりで何も考えられませんでした。

野澤社長の会見後、初めての出社日・・・
支店に近づくと、解約を求める客が殺到していました。
「早く資産を返してほしい」
全国の支店で、同様の光景が繰り返されました。
永野には、その時の屈辱的な記憶があります。
解約を待つ客に、ライバル社の営業マンが
「うちへどうぞ」と、声をかけていました。

「ある証券会社・・・いわゆる大手4社といわれるところなんだけど、行列に名刺を配ってました
 火事場泥棒だよな
 ”ぜひ当社に資産を持ってきてください”とかね
 やられたってさ・・・ちょっとカチンとくるわね
 そういうのは、正しい営業のやり方ではないね
 と、俺は思います」by永野

怒った客に殴られもしました。
しかし、永野がしなければならないのは、客の対応だけではありませんでした。
この時、部下82人、それぞれに生活がある・・・
永野が向かったのは、地元の証券会社でした。
自分達の支店を丸ごと買ってくれないかと、頼み込みました。

「そこの社長に資料を持って行って、”千葉支店を全部買ってくれ”と言って・・・
 そうしたら社長が”千葉支店の資産がいわゆるトゥマッチだ”と、
 非常に大きすぎると言われて諦めた」by永野

金融関係に限るず、メーカー、鉄道、業種は度外視して、社員を雇ってくれそうな会社を当たり続けました。
永野は破たん後4カ月をかけて、社員の再就職を支援。
希望者全員の就職を見届けた後、会社を辞めました。

「山一って100年の歴史があってね
 最後は綺麗に終わりたいという気持ちがあったからね
 従業員のためにも、最後は一生懸命にやってそれが生き様っていうかね
 そういうことなんだと思います」by永野

しかし、その後、転職を世話した部下たちの様々な噂を耳にします。
転職先で理不尽な仕打ちを受けたり、心をやんだり・・・自分はすべてをやり切ったのかと葛藤しました。
外資系証券会社などを転々とした後、永野は2003年、自ら会社を立ち上げます。
声をかけたのは、旧山一の仲間たちでした。
永野の会社は、金融分野の転職を助ける紹介業。
元山一の社員をはじめ、不運にも職を失った人々のサポートを続けています。
いまだ納得できない突然の廃業。
永野はもう一度、山一證券という会社を復活させることを夢見ています。

「会社潰れちゃったからさ
 会社があれば、OBになっても来れるじゃない
 でも、会社がないんで、そういうふうな意味で、日々いろんな人が元山一の人が来てくれて、プラットホームですね
 止まり木的な存在になれたらこの上ない幸せ」by永野

会社は消えても、抱いていた誇りは消えない・・・!!

みんな、自分なりにあの自主廃業と決着をつけながら生きている・・・
今、あの場所にはビルだけが建っています。

↓ランキングに参加しています
↓共感してくれたらポチッとお願いします
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村