今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

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