鎌倉殿・源実朝暗殺!!それは歴史をどう動かしたのでしょうか?



鎌倉幕府三代将軍・源実朝・・・その治世は、初めから血にまみれたものでした。
1203年、二代鎌倉殿・源頼家、危篤に陥る・・・
後継者に指名されたのは、頼家の子・一幡。
母親は、頼家の後見役を務める有力御家人・比企能員の娘です。
比企氏の思いのままの時代が来ようとしていました。
この時動いたのは、実朝の祖父で貢献を務める北条時政でした。
時政は、比企能員を呼び出して謀殺!!
さらに、御家人たちを動かして、比企の館を攻め、一族を皆殺しにしました。
脱出した一幡も、探させて殺しました。
いわゆる比企の乱です。

1203年9月、クーデターを成功させた時政は、自らの屋敷で実朝に鎌倉殿を継承させました。
この時、実朝は12歳。
政治の実権は時政が掌握し、御家人たちの命令書には時政一人が署名しました。
その後、時政は病から奇跡的に回復した頼家を、伊豆・修善寺に追放。
翌年には、刺客を送って殺させています。
その殺害の手口がひもで首を絞めることだったことは、都にまで伝わりました。
頼家殺害の翌年・・・1205年、時政は更なる暴挙を企てます。
鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」には・・・

”将軍・実朝を廃し平賀朝雅を将軍に擁立する”

実の孫を将軍から引きずりおろし、妻が寵愛する娘婿をその座につかせようとしました(牧氏事件)。
この企てに断固として反対したのが、実朝の母・北条政子と叔父の義時でした。
政子の命を受けた御家人たちは、時政の屋敷を襲撃し、実朝の身柄を確保・・・義時の屋敷に移しました。
実朝を奪われ、御家人たちの支持も失った時政は出家し、伊豆に隠遁しました。

ようやく平穏を取り戻した鎌倉・・・
とはいえ、実朝はいまだ14歳。
政治の実権は政子と義時の手中にありました。
そんな中で、実朝が始めたことがあります。
和歌の修行でした。
和歌を始めたのは、ある人物との関係からでした。
その人物とは、朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇です。
上皇は、宮廷文化に秀で、勅撰和歌集「新古今和歌集」を完成させた歌道の達人です。
実朝が元服する際には名づけ親となり、自分のいとこに当たる女性を実朝の御台所に選び、鎌倉に下向させました。
御台所から都での上皇を中心とした和歌の盛り上がりを聞いた実朝は、新古今和歌集を取り寄せ、和歌を修行に励みました。



当時の国家は、朝廷と幕府・・・朝廷があくまで上でした。
朝廷とうまくつながるツールとして、和歌や蹴鞠をトップの鎌倉殿が重視するというのは、幕府を率いて朝廷と渡り合う公の存在・・・それが将軍なんだと自覚しつつ成長していたのです。

1209年、18歳となり、朝廷から従三位の位を与えられた実朝は、自ら政治を行う将軍家政所を開設します。
新たな政策を打ち出していきます。
各地の土地の面積や所有関係を記した太田文を作成・・・土地からあがる収益を把握し、御家人支配の基礎を固めます。
東海道に新たに宿場をもうけ、都と鎌倉をつなぐ交通の大動脈の安全と利便性を高めます。
都で、内裏や上皇御所の警護などに当たる大番役を御家人たちが確実に務めるよう罰則を設けます。
幕府が御家人たちを束ねて朝廷を守り、全国の治安維持に当たる!!
実朝は、朝廷と幕府が力を併せて国を治める新たな統治の形を目指したのです。

やがて実朝は、最大の実力者・北条義時にも自分の意見をはっきりと主張するようになっていきます。
吾妻鏡は、義時と実朝のある日のやり取りを記録しています。

「私の年来の家来のうち、功労のあった者を御家人に準ずる身分として扱うよう鎌倉殿に命じてもらえないでしょうか?」

特別扱いを要求する義時に、実朝はこう応じました。

「そんなことをしては、幕府内の身分秩序が乱れてしまう
 何度言われても、今後も許す気はない」

実朝は、鎌倉殿として、着実に独り立ちしつつありました。

1213年、実朝が将軍となって10年・・・鎌倉に激震が走ります。
北条義時に不満を持つ御家人たちが、前将軍・頼家の遺児を擁立して義時を討とうとする謀反の計画が発覚したのです。
謀反を企んだものの中には、北条氏と並ぶ有力御家人・和田義盛の一族が名を連ねていました。
義盛は、軍事を取り仕切る侍所の長官。
頼朝と同年代で武勇に優れ、実朝の信頼も厚かったのです。
義盛は、実朝に一族の赦免を願い出ます。
実朝は、義盛のこれまでの功績に免じて義盛の息子2人の罪を許します。
しかし、義時は、謀反の首謀者である甥の胤長の赦免を拒否!!
そればかりか、胤長を縄で縛り上げ、嘆願に来た和田一族の前を引き回し、義盛を辱めました。
実朝は、なんとか両者の間を取りなそうと義盛に使者を送ります。
しかし、もはや手遅れでした。

「鎌倉殿には恨みはございませんが、義時の傍若無人に一族の若者は暴発しようとしています
 もはや、抑えることはできません」

義盛は兵を挙げ、義時の館と将軍御所へ攻めかかります。
和田合戦の勃発です。
中心になっているのは、北条義時と侍所別当・和田義盛の戦いです。
しかし、比企氏の残党、三浦氏、千葉氏、いろんな御家人たちも加わっていて、かなり大規模な鎌倉市内で起こった合戦となりました。

義盛の作戦は・・・??
まず、御所の東西南北の門を押さえたうえで、主力部隊が南門から攻め込み、実朝の身柄を押さえ、将軍を和田方で確保することで自分達の正当性を他の御家人たちにアピールする作戦でした。
この作戦で、義盛が最も注視していた場所は・・・北門!!
北門は、一門の三浦義村に託しており、実朝が北門から逃げることがあれば身柄を確保してほしいと、頼んでいました。
義盛は、いとこでもある有力御家人・三浦義村に起請文まで出させて北門の封鎖を任せました。
ところが・・・ここに最大の誤算がありました。
なんと、その義村が、北条義時と内通していたのです。
義村は、義時に和田側の作戦を通報した上で、実朝を脱出させたうえ、身柄を北条方に渡してしまいます。
義盛のシナリオは、完全に崩れました。
しかし、巻き返しの可能性は残されていました。
戦いが2日目に入ると、近郊各地の御家人の軍勢が続々と集まってきたのです。
彼らがどちらにつくかで戦況が大きく変わります。
勝敗を決したのは、御所の真北にある頼朝の墓所・法華堂に避難していた実朝の行動でした。
実朝は、鎌倉に到着した御家人たちに北条方に立って参戦するように命令書を送ります。
戦いは、北条方の圧勝に終わりました。
和田方は、義盛以下主だった武将がことごとく討ち死に・・・晒された首は、234に及びました。

しかし、事件はそれで終わりませんでした。
戦の終結から20日後、鎌倉に驚くべき報告が届きます。
都では和田の残党が京を襲うという流言飛語が飛び交っている・・・
後鳥羽上皇は、御所警護の武士が鎌倉に帰るのを急遽差し止め、不測の事態に備えさせました。
御家人の分裂と反乱を阻止できなかった実朝の手腕に、上皇の信頼が大きく揺らいだのです。
時を同じくして、更なる試練が・・・!!
1213年5月21日、鎌倉を大地震が襲います。
家々は倒れ、山は崩れ、地は避けました。
天才は、為政者の不徳を天が責めると考えられていた時代・・・
将軍失格の烙印を押されたと感じた実朝は、一首の和歌を上皇に送ります。

”山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも
       君にふた心 わがあらめやも”

山が裂け、海が干上がるような世であっても、決して上皇様に背く心はありません。
実朝の悲痛な弁明でした。
どうしたら、鎌倉を安定させ、上皇を信頼を取り戻せるのか??
たどり着いた答えは、善政でした。



1216年、実朝は、御家人の陳情を直接聴取
再び和田合戦の悲劇が起こらないように、不満が大きくならないうちに解消するように努めます。
朝廷に対しても手を打ちます。
実朝が下した幕府の命令書・・・責任者として記名する別当が、5人から9人に増員されています。
新たに加わった源仲章・源頼茂・大内維信の3人は、都で後鳥羽上皇に仕える側近でした。
実朝は、彼らの名を命令書に加えることで、朝廷の権威が幕府政治に反映されていると示したのです。

実朝の思いは、上皇にも確実に届いていました。
和田合戦から3年後、実朝は権中納言に、2月後には左中将になっています。
上皇は、実朝への信頼回復を、官職の上昇という形で示したのです。

1216年11月、新たな大事業に乗り出します。
唐船の建造です。
最先端の造船技術を持つ中国の技術者に命じて、外洋航海にたえる頑丈な船を作ろうというのです。
鎌倉では誰も見たことのない船を作ることは、人も、資金もたくさんかかります。
執権の義時と、文官の大江広元は反対しましたが、実朝は強行します。
鎌倉の海の玄関口・由比ヶ浜に、唐船はあらわになっていきました。

1217年4月・・・由比ヶ浜に巨大な唐船が姿を現しました。
鎌倉殿・実朝の権力は、わずか5か月で唐船建造を実現しました。
しかし、完成した船が海に浮かぶことはありませんでした。
由比ヶ浜の地形が、遠浅であることを計算に入れていなかったのです。
数百人の人夫にひかせても、船を進水させることはできませんでした。
唐船は、砂浜でむなしく朽ち果てて行きました。

反対を押し切って行った計画の失敗・・・
ようやく取り戻した御家人たちの信頼を失いかねない・・・!!
一体どうすればいいのか??
そこで浮かんできたのは、後継者問題の解決でした。
実朝はこの時26歳、都から御台所を迎えて13年経っても、子供には恵まれませんでした。
跡継ぎ不在のまま権威が失墜すれば、謀反を起こされる可能性が・・・??
ここで後継者を決めることは、幕府を安定させ、御家人の信頼回復の切り札となる・・・!!
では、誰を後継者にすべきだろうか・・・??

従来通り頼朝の血をひく公暁がいいのか??
血筋では源氏の中の源氏!!
政子も公暁への支援を行っていました。
頼家暗殺の2年後、政子は公暁を実朝の子供として扱うことを決定。
1217年10月、公暁は鶴岡八幡別当に就任させています。

御家人の誰もが納得する選択でした。
しかし、そこには大きな壁がありました。
北条義時!!
公暁の父・頼家とその子・一幡を手にかけたのは北条氏!!
自らの地位を危うくする公暁の鎌倉殿には猛反対するだろう。
反乱すら起こしかねない・・・!!

それとも都から候補者を下向させてもらう??
後鳥羽上皇の皇子??
果たして誰を後継者にすれば鎌倉を安定させることができるのでしょうか??



1218年、鎌倉から都に向かう行列がありました。
実朝の母・北条政子です。
表向きの目的は、熊野三山への参詣。
しかし、政子には脳ひとつの使命が・・・!!
後鳥羽上皇の妻・卿二位との会見です。

「院の宮の中で然るべきものを鎌倉に下向させ将軍とする」

実朝の選択は、後鳥羽上皇の息子を将軍として迎えることでした。
この案は、上皇にとっても歓迎すべきものでした。
朝廷の最高権力者と言っても、自前の軍事力間は持っていません。
息子を鎌倉殿として送り込み、信頼する実朝が後見・・・
強大な武力を持つ幕府が思いのままに・・・!!
上皇の承諾の証と言えるのが、実朝の官位の上昇です。
実朝は、左近衛大将→内大臣→右大臣・・・に昇進しています。

武家には想像できない地位には、上皇の実朝に我が子の後見人に相応しい官位を与えるという思いが込められていました。
しかし、この決定に心をざわつかせる人がいました。
頼家の遺児・公暁です。

吾妻鏡によれば、鶴岡八幡宮別当に就任したその日から、公暁はすべての仕事を投げ出し、千日に及ぶ祈祷を開始していました。
一説には、将軍・実朝を呪い殺し、とってかわる腹つもりでした。
しかし、上皇の皇子が鎌倉殿となった後ではその可能性は無くなる・・・!!
公暁は決断します。
1219年1月27日、鎌倉・鶴岡八幡宮・・・
実朝の右大臣就任を寿ぐ式典が行われました。
実朝が神仏への拝礼を終え、公家たちが立ち並ぶ中を会釈して通り過ぎようとしたこの時・・・!!
医師団に身を隠していた公暁が「親の仇はかく討つぞ!!」と叫びながら、実朝の首を打ち落としました。
享年28・・・あまりにも突然の死でした。

公暁は実朝の首を手に、三浦義村の元に走ったものの、義村の手の者に殺害されたのです。
鎌倉は、将軍不在の異常事態となりました。
このままでは幕府の存続が危うくなる・・・!!
北条政子と執権義時は、皇子を鎌倉に下向させてくれるように使者を送ります。
しかし、実朝を死なせた鎌倉幕府に対する上皇の信頼は失われていました。
上皇は皇子の下向を拒絶!!
これを機に、関係は悪化していきます。

1221年、両者はついに激突しました。承久の乱です。
実朝が目指した幕府と朝廷の融和は、ここに潰えたのです。

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