飛鳥時代・・・日本がまだ倭国と呼ばれていた645年。
クーデター乙巳の変によって、時の最高権力者・蘇我入鹿が暗殺され、強大な権勢をふるっていた蘇我氏が滅亡。
古代日本を大きく変える政治改革・大化の改新が始まります。
そんな中、天皇を中心とした新たな国づくりを目指す倭国に、国家存亡の危機が訪れました。
白村江の戦です。

白村江の戦い

新品価格
¥1,900から
(2023/1/25 11:31時点)



クーデター乙巳の変ののち、大和政権は新たな政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、
都を飛鳥から難波に移します。
蘇我氏に代わり、政治の実権を握ったのは、中大兄皇子、この時まだ20歳!!
大王と呼ばれた天皇を両親に持つ有力者でした。
中大兄皇子は、天皇を中心とする中央集権体制を目指し、改革を進めていきます。

その一つが、公地公民制です。
それまで有力な皇族や豪族が私有していた人民と土地を天皇のものにすると定めました。
これによって、国家による税や兵の徴収がスムーズに、強大な軍事力を作り上げるために必要な改革でした。

しかし、既得権益を失う豪族が反発。
改革は思うようには進みませんでした。
そんな中、国を揺るがす大問題がもたらされます。

・戦乱、海の向こうより来る
海の向こうは不安定な情勢にありました。
628年、中国大陸に成立した巨大な統一王朝・唐が、東アジア諸国を支配下に治めようと目論んでいました。
狙われた朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済が並び立つ、三国時代・・・
当時、高句麗と百済は新羅への侵攻を繰り返していました。
侵略の脅威にさらされた新羅は、唐に助けを求めます。
ゆくゆくは、最大の領土を有する高句麗を倒し、朝鮮半島を手に入れたいと目論んでいた唐は、新羅の救援要請を幸いにと、660年、百済討伐を決定!!
唐・新羅の連合軍は、百済に18万の兵で侵攻。
百済の王都を陥落させ、滅亡に追い込みました。
その数か月後、倭国に百済の使者がやってきました。

「百済に援軍を送っていただきたい!!」

使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信でした。
福信ら、生き残った百済の遺臣たちは、百済再興を目指し、半島各地で抵抗を続けていました。
その軍事支援をしてほしいというのです。
さらに、倭国にいた百済の皇王子・余豊璋の召喚も求めます。
余豊璋は、百済王「義慈」の息子の一人でした。

古代史再検証2 白村江の戦い (古代史再検証 2)

新品価格
¥1,760から
(2023/1/25 11:32時点)



643年に倭国に人質として送られていました。
人質として送られてくるほどなので、百済王朝の中での地位は上位ではありませんでした。
しかし、百済が唐に攻め込まれて滅んでしまった・・・
百済にいた王族たちは、根こそぎ唐に連行されていました。
百済の遺臣たちが国を再興しようとしても、王に立てる人物がいない・・・!!
そこで、倭国に人質として送られた王子を擁立せざるを得なかったのです。

百済を助けるか、見捨てるか??
中大兄皇子は、大きな決断を迫られました。
強大な唐を敵に回し、もし負ければ国が滅びるかもしれない・・・
倭国の政権内では、百済を見捨てるべしと言う意見が強かったといいます。
ところが、倭国は百済の要請を受け入れて、出兵を決めます。

百済の要請を受け入れた理由①百済との関係
倭国と百済の外交は、4世紀まで遡ります。
当時、高句麗の支配下にあった百済は、独立するために軍事力が必要で、倭国が必要で同盟を結んだのです。
朝鮮半島の国から倭国は、軍事大国として認識されていました。
倭は百済を援護して軍事介入していました。
そして、その見返りとして百済は中国の進んだ文化を提供していました。
そうして、倭国と百済は、友好関係を保っていました。
百済より仏教・易学・医学など、様々なものが倭国にもたらされ、倭国発展の礎となりました。

時のの大王で中大兄皇子の母である第37代斉明天皇は、
「滅亡に瀕したものを助け、継承させるべきことは、恒典に記されている
 百済国が困窮して、我が国に頼ってきた 
 その気持ちを見捨てることはできない」

中大兄皇子もまた、同じ気持ちで、交流を深めてきた百済の窮地を見捨てることはできないと出兵を決意しました。

百済の要請を受け入れた理由②唐の状況
百済の使者のこんな言葉も決断に至りました。

「新羅の軍を破り、百済はその兵を奪った
 唐もあえて介入はしてきません
 各地で挙兵した百済の兵たちは団結し、新羅軍を圧倒!
 唐の軍勢も近づくことが出来ないほど戦局は有利にあります」

唐の介入がなく、百済復興軍は優勢だというのです。

唐の元々のターゲットは、高句麗でした。
唐の目的は、高句麗侵攻にあって、百済は遠征の生涯にならないように先に滅ぼされていました。
唐が百済駐留軍に割ける戦力は多くはなかったのです。
これならば戦えると判断しました。

百済の要請を受け入れた理由③倭国の思惑
さらに、中大兄皇子は野望がありました。
「百済王柵封を軍事力によって達成する!!」
柵封は、中国の皇帝がやったことで、力のある王が周辺諸国の王を自分の臣下に位置付けることです。
日本も中国の皇帝に倣って、百済王として擁立した余豊璋を、倭国王の臣下に位置づけようとしました。

斉明天皇は、みずから筑紫国に赴き、百済救援軍の陣頭に立ちました。
男性であっても陣頭に立った例はありません。
そこまでしたのは・・・斉明天皇は、東アジアの動乱の中で、倭国を軍事拡張路線へ導こうとしていたのです。
百済救援戦争を通じて倭国の領土御拡大させ、次の天皇として中大兄皇子に与えようとしたのです。

斉明天皇は、難波宮で様々な兵器を準備し、駿河国には船を作るよう命じました。

日本国の誕生?白村江の戦、壬申の乱、そして冊封の歴史と共に消えた倭国

新品価格
¥1,980から
(2023/1/25 11:32時点)



661年1月、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子・中臣鎌足らが兵を率いてなにわを出航。
本拠となる筑紫国へと向かいました。

斉明天皇と中大兄皇子らは、各地で兵を動員しながら瀬戸内海を西へと進んでいきました。
その即席が残されているのが、岡山県真備町・・・上二万・下二万という地名が残っています。
中野終えの皇子が立ち寄り、2万の兵を集めたという伝説が残っています。
3月25日、一行は現在の福岡県博多港にあたる那大津に到着しました。
5月9日に筑紫国の朝倉橘広庭宮で出兵の準備に入ります。

ところが・・・思いもかけない事態が起こります。
7月24日、斉明天皇倒れて崩御
すると、後を継ぐべき中大兄皇子は即位をせずに大王としての権力を振るうことができる称制と呼ばれる政治形態をとります。
斉明天皇が始めた戦争を完遂しなければ、周囲から斉明の後継者として認められないという状況でした。
偉大な母の後継者となるには、この戦いに勝ち、自らの実力を知らしめ、周囲を納得させなければなりません。
こうして、中大兄皇子は唐という大国と戦うことになったのです。

661年7月、中大兄皇子は長津宮に移って軍勢を指揮、出兵の準備をします。
そして倭国は、百済救済のため、3回の遠征を行い、のべ4万2000の兵を朝鮮半島に送ります。

662年1月、5千の兵による第1陣が出航。
そこには、百済復興の希望・余豊璋の姿がありました。
倭国軍に護衛され、およそ20年ぶりに百済の地を踏んだ豊璋。
百済復興軍を率いる鬼室福信と合流し、百済王として擁立されます。
この時、百済が本拠地としたのがクムガンの河口、白村江に近い天然の要害・周留城でした。
倭国・百済連合軍は、戦いを優位に進めていきます。
白村江周辺の地形、潮の流れを熟知していた鬼室福信の指揮も的確でした。
百済復興軍は、ゲリラ戦を繰り広げ、唐・新羅連合軍を翻弄・・・新羅の城を落とすなど、戦果をあげていきます。
唐の皇帝・高宗が、倭国・百済連合軍の抵抗に、百済からの撤退を指示したほどの勢いでした。

ところが・・・倭国・百済連合軍内に大事件が勃発します。
百済王となった豊璋が、将軍・福信を処刑してしまったのです。
日本書紀によると・・・
”豊璋が福信を捕らえ、その罪を明らかにした後惨殺した”とあります。
福信が、何らかの罪を犯したというのです。
それは、処刑の半年前・・・険しい地にあった周留城では、兵士たちの食糧確保が困難となったため、百済軍の豊璋と福信は、本拠地を避城に移しました。
倭国の将軍たちの反対を押し切ってのことでした。
しかし・・・平坦な地にあった避城は、敵の激しい攻撃にさらされてしまいます。
わずか2か月で周留城に戻ることになってしまうのです。
無駄な死出費と労力を使った本拠地の移動は、倭国・百済連合軍に痛手を与える大きな失敗でした。
百済王・豊璋は、軍事指揮官・福信ひとりに責任をとらせ罰したと言われています。
こうして豊璋が福信を殺したのにはそうしなければならない理由がありました。
二人の不仲です。
豊璋は、王子としての位が低かったので、福信が内心自分をさげすんでいるのでは??と思っていました。
福信は、自分こそが百済の復興を引っ張ってきたというプライドがありました。
福信は、百済王家と姻戚関係を結んでいました。
百済王にはなれないけれど、それに次ぐ家格だったのです。

避城への移住を最初に主張したのは豊璋でした。
福信は、移動することに異議を唱えませんでした。
福信は、避城への移動の失敗を豊璋のせいにするのでは??

福信は、自分罪を着せる豊璋の殺害を画策したと言われています。
本拠地移動の失敗で、豊璋と福信の仲は決裂!!
身の危険を感じた豊璋が、先んじて福信を殺害したのです。

卓越した軍事指揮官だった福信を失った百済軍は一気に弱体化し、戦況は不利となります。
唐は、新羅救援のために7000もの兵を送り込みます。
唐・新羅連合軍は、豊璋が立ても凝る周留城を水陸から包囲、戦況は一気に唐・新羅連合軍有利へと傾いていきます。

663年3月、九州・長津宮で指揮を執っていた中大兄皇子は、倭国・百済連合軍劣勢の報せを受け、第2陣の派兵を決めます。
その数2万7000!!
さらに8月、第3陣として1万の兵を送ります。
百済軍の本拠地である周留城が、唐・新羅陸上部隊に包囲されてしまったからです。
さらに唐から水軍およそ170艘が、白村江に布陣!!
周留城周辺に駆けつけるであろう倭国軍を向かえ撃つためでした。
唐の予想通り、倭国軍第3陣の1万の兵は、400艘の船で周留城に向かっていました。
そして、8月27日・・・倭国軍は、待ち構えていた唐の船団と激突!!
白村江の戦い勃発です。
唐の軍船は170艘・兵は7000あまり
倭国軍は400艘・1万人と、数の上では優勢でした。
ところが、倭国軍は、大敗を喫するのです。
日本書紀には・・・
”ときのまに官軍敗れぬ”
あっという間に勝敗が決したといいます。
どうして倭国軍が、惨敗したのでしょうか??
有能な指揮官・鬼室福信を失ったこと以外にも、様々な要因がありました。

戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書)

新品価格
¥880から
(2023/1/25 11:33時点)



敗因①無謀な敵中突破
倭国軍第3陣の目的は、周留城救援のための兵の輸送で、海上戦は想定外でした。
白村江での戦いは、2日間にわたって行われました。
1日目(8月27日)・・・倭国軍は、全ての船が戦場に到着していなかったのに、戦いを挑みあえなく敗走。
2日目(8月28日)・・・再び戦闘。倭国軍は、前日の敗戦にもかかわらず、待ち構える敵に策もなく突入!!
指揮系統も一本化されておらず、それぞれの豪族たちが手柄をあげようと、無謀な突入を繰り返したのです。
倭国は、まだ徴兵制が施行されていませんでした。
豪族の私兵の寄せ集めによる混合軍でした。
数の上では倭国軍が勝っていましたが、しかし、寄せ集めという弱点は覆せませんでした。
一方、唐軍は、見事な連携と巧みな操船により、左右から倭国軍の船を挟み撃ち!!
倭国軍の兵は、次々と唐軍の餌食となりました。
唐は、律令制が確立しており、戸籍による徴兵が行われていました。
府兵制という常備軍もすでに完備していました。
倭国の寄せ集めとは比べ物にならない質のいい兵が備わっていました。

敗因②軍船の性能
数で劣るとはいえ、楼船と呼ばれる唐の船は三層の櫓を持つ巨大な軍船でした。
鉄の甲板は、馬が走り回れるほどの広さで、乗船できる兵は数百に及びました。
対して倭国軍の船は、輸送用の小舟にすぎず、乗れる兵もわずかでした。
果敢に挑むも、火矢を浴びせかけられ海の藻屑となりました。

”戦いは四度び及び、全て唐軍の勝利
 倭国水軍の船 四百艘を焼き払い
 その煙は天を覆い海は真っ赤になった”by旧唐書

寄せ集めの倭国の兵と、常備軍の唐の兵との質の差と、強力な唐の楼船に太刀打ちできずに倭国軍は惨敗を喫したのです。

663年、倭国は白村江の戦いで大敗。
中大兄皇子は、唐と新羅の倭国侵攻に備え、北九州を中心とした軍事施設の建設に邁進していきます。
福岡県筑紫野市にある前畑遺跡・・・
ここで発見された土塁は、発掘されている部分だけでも長さ500m。
砂や粘土などを固めた「版築」という技術で、堅固に作られています。
この遺跡の土塁は、巨大な防衛網の一部ではないかと推測されています。
護ろうとしたのは、大和政権最大の出先機関・大宰府でした。
中大兄皇子は、筑紫国に大野城などの山城を築きます。
さらに、水城・・・全長1キロに及ぶ堤防で、堀に水をためた防衛施設を作りました。
コレラの防衛施設に、山や川など自然の地形を利用して、大宰府を守る全長50キロ以上もの防衛網を作ったと考えられています。
そして、九州北部沿岸の対馬・壱岐などには警備に当たる防人らを配置。
中大兄皇子は他にも、進行ルートとなりうる瀬戸内海沿岸に山城を築きました。
そこには、別の狙いもありました。
西日本の各地に朝鮮式山城という要塞を作っていきました。
専守防衛のためと考えられますが、主要な山城の近くには、太宰・惣領と呼ばれる軍事組織が置かれていました。
筑紫・周防・伊予・吉備に軍事施設を設け、徴兵を強化しました。

667年には、都を海に近い難波宮から、責められにくい内陸の近江大津宮へ遷都。
しかし、結局、唐・新羅連合軍が倭国に攻めてくることはありませんでした。
どうして、唐と新羅は攻め込んでこなかったのでしょうか?

668年、唐と新羅は高句麗を攻め、滅ぼしました。
すると、領土の配分を巡って、両国の間で諍いが起きます。
唐は、領土のほとんどを自分のものにしようとしましたが、新羅が反対し、武力衝突へ!!
朝鮮半島の戦いにおいて、倭国の軍事力はキャスティングボートを握っていました。
朝鮮半島を直接支配しようとする唐・・・新羅と戦っている唐に、倭国を攻める余裕はありません。
うまく関係改善できれば、軍事支援が期待できる・・・!!
新羅は、倭国に背後から攻められる恐れがあり、関係改善の必要がありました。
唐と新羅、それぞれの事情から、倭国と関係を改善する必要に迫られ、両国ともに攻めてくることはありませんでした。

「白村江」以後 国家危機と東アジア外交 (講談社選書メチエ)

新品価格
¥743から
(2023/1/25 11:33時点)



唐より、白村江の戦いで捕らえられた捕虜の返還が行われました。
両国は、和解への道を進んでいきます。
一歩間違えれば、国が滅んでいたかもしれない倭国・・・
古代日本が襲われた国家存亡の危機はこうして回避されたのです。

668年、中大兄皇子は即位し、第38代天智天皇となります。
そして、画期的な改革に着手します。
670年、日本初の戸籍「庚午年籍」の作成に着手。
庚午年籍は、身分、氏姓を確定するための台帳として利用され、租税収入の予測を容易にしました。
しかし、最大の目的は・・・
「白村江の戦い」での敗戦によって、徴兵軍の強さを思い知らされました。
庚午年籍は、全国規模の戸籍です。
戸籍があることで、民衆から一定の割合で兵を集めることが可能となりました。
庚午年籍は、徴兵制確立のために、なくてはならないものだったのです。

天皇になる前、中大兄皇子は自らの力を見せようと、唐・新羅連合軍との戦いに挑みましたが、白村江の戦いで大敗・・・
しかし、その敗戦が、天智天皇の目指す国づくりを進める結果となったのです。
手痛い負け戦・・・外敵からの脅威は、豪族たちに危機感を生み、国をまとめる結果となりました。
この時、倭国には、多くの百済貴族・官僚らが逃れてきていました。
最先端の知識を持った百済人・・・そのたくさんの知識を吸収したことで、倭国の文化は発展しました。
改革は一気に進んでいったのです。

「今度こそ、強い国がつくれる」

白村江の戦いによって、天皇を中心とする中央集権国家へと変わる加速度が増しました。
しかし、道半ば・・・671年、天智天皇崩御・・・46歳でした。
その志は、弟・天武天皇が引き継ぎ、新たな国の形・律令国家を目指していったのです。

白村江の戦いで大敗によって、倭国は軍事拡張路線を土台とした律令国家へと変わっていきます。
天皇を中心とした中央集権体制を、日本という国を形作っていくのです。
律令国家・日本の誕生・・・その契機となったものの一つが、白村江の戦いでした。


↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです

壬申の乱─新しい国家の誕生─