奈良・正倉院・・・ここに、天平の世を治めた聖武天皇の遺愛の品々が収められています。
これらを献納したのが、聖武天皇の后・光明皇后でした。
絶大な勢力を持つ藤原氏の娘として生まれ、天皇の后となることを宿命づけられていた光明皇后・・・
何よりも期待されたのが、男子を生み、次の天皇とすることでした。
しかし、その願いはかないませんでした。
代わりに自らの娘に皇位継承の重荷を背負わさざるを得なくなります。
生まれながらの宿命を背負い、厳しい選択を、次々と迫られた光明皇后・・・その実像とは・・・??

光明皇后の発願で建てられた法華寺・・・
ここに、光明皇后の姿をモデルにしたと伝わっている仏像があります。
十一面観音菩薩立像・・・
風格ある立ち姿、慈悲を讃えたまなざし、よく見ると右足の親指が跳ね上げられています。
人々の救済に向かおうと、まさに今、一歩踏み出す瞬間をあらわしたと言われています。
この法華寺は、もとは光明皇后の父の邸宅のあった場所に建てられました。
その父とは、藤原不比等・・・
日本初の体系的な法律を作り、天皇を中心とする国の原型を築いた稀代の政治家です。
この不比等の娘として、701年に生まれたのが、藤原光明子(安宿媛)です。
光明子の母・県犬養三千代は、天皇の近くに仕える宮中の実力者でした。
父・不比等には、藤原氏の繁栄を未来永劫つなぐための壮大な計画がありました。
それは、光明子の母親違いの姉と文武天皇の間に生まれた首皇子を天皇にすえることでした。
そして、光明子を嫁がせ、藤原氏の血筋の天皇、皇后を誕生させ、やがて二人の間に生まれる男子が次の天皇となり皇統を継いでいく・・・
天皇家と藤原氏の一体化を図る構想でした。
光明子は、藤原の娘としての重い宿命を背負っていました。
藤原不比等は自らの邸宅で、同い年の光明子と首皇子を育てたと言われています。
首皇子が皇太子となり、正式な後継商社となった2年後の716年6月、光明子は、16歳で首皇子の妻となりました。
全ては父の計画通り、順調に進みました。
その2年後には、2人の間に第一子が誕生します。
阿部内親王・・・女の子でした。
そして724年、首皇子は晴れて即位し、聖武天皇となります。
不比等はすでにこの世を去り、孫の即位を見届けることはできませんでしたが、ここに藤原氏の念願が一つ叶ったのでした。
それから3年、藤原一族と光明子にとって、最も待ち望んだ瞬間が・・・男の子が生まれたのです。
名は基王。
光明子、27歳の時でした。
聖武天皇と光明子の喜びはひとしおで・・・同じ日に生れた全国の子供たちに布一端、綿二屯、稲ニ十束を祝いとして与えたことが記録に残されています。
さらに、生後33日目には、基王を早くも皇太子として立てています。
それは、前代未聞のことでした。
皇位継承の問題の安定化・・・
この継承こそが正当だ、と公表する天下に示すために、直ちに皇太子に建てる必要があったのです。
天皇家と藤原家を結ぶ皇太子を産み、期待された勤めを果たすことができた光明子・・・
ところが、思いもよらない事態が光明氏を襲いました。
728年9月、皇太子・基王死去・・・
悲嘆にくれる光明子をさらに動揺させる知らせが・・・
夫・聖武天皇には、藤原氏の血をひかない別の夫人がいました。
その二人の間に男の子・安積親王が生まれたというのです。

そして・・・729年2月、政権を担う左大臣・長屋王が謀反を企てているという密告が、聖武天皇に届きます。
これに対し天皇は、怒りをあらわにします。
長屋王の屋敷はすぐさま包囲されました。
光明子の兄である藤原武智麻呂らが屋敷に赴き、長屋王に詰め寄りました。
そして、密告からわずか2日後に、長屋王は自害!!
この事件で、長屋王の妻と4人の息子も命を落としました。
世にいう”長屋王の変”です。
記録には残っていませんが、安積親王の誕生に焦った藤原一族が、敵対勢力になりかねない長屋王を排除した事件と考えられています。
事件の後、藤原武智麻呂は大納言に昇格、長屋王にとって代わるように光明氏の兄たちが政治の実権を握ることとなりました。
それから半年・・・光明氏自身にとって大きな転機が訪れます。
皇后にたてられたのです。
皇后とは、政治に参加し、時として天皇の位を継ぐ地位です。
皇族以外ではなれないとされていました。
それは、安積親王が生まれたことが一つのきっかけでした。
光明子はまだ29歳・・・男の子が生まれる可能性がありました。
もし生まれたら、安積親王をおさえて確実に皇太子にする・・・!!
それには、母親が皇后であることが大前提でした。
729年8月、光明子、光明皇后となります。
聖武天皇と、藤原一族の期待を一身に背負い、後は、男子の誕生をひたすら待つこととなりました。
光明子が皇后となった天平の世では、災害や飢饉が相次ぎ、多くの民が苦しみ、喘いでいました。
そこで、光明皇后と聖武天皇が、国家安寧のよりどころとしたのが仏教でした。
この時代、いくつもの寺院や仏像がつくられました。
その一つが興福寺です。
聖武天皇が建立した東金堂・・・その東金堂と回廊で繋がれていたとされているのが五重塔です。
高さは約50m、皇后となった翌年に、光明子の発願で建てられました。
棟の1階には、柱を囲む仏像が東西南北の浄土をむくように配置されています。
これは、光明皇后が人々の幸福や成仏への願いを込めて行ったことを起源としているとしています。
伝承によれば、この五重塔の造営には、光明皇后が女官たちと共に自ら土を運ぶなど、心を尽くしたと言われています。
光明皇后は、尼寺の建立にも力を注ぎました。
その中核をなすのが、法華寺です。
後々、国を治めていくためには国分寺制度となります。
東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となりました。
光明皇后は、法華寺がある場所に、様々な施設を作ったと伝わっています。
施薬院、悲田院・・・いまの社会福祉事業です。
そして、法華寺の境内には、光明皇后の発願により設置されたとする公衆浴場・浴室(からふろ)があります。
浴室の床の下で、薬草を入れた湯を沸かし、その蒸気で病人を癒したと言われています。

積極的に政治に携わった光明皇后・・・
一方で、待ち焦がれていた男子はいまだ授かることが出来ずにいました。
この頃、全国で疫病・天然痘が大流行します。
737年には、猛威を振るい、藤原4兄弟が病死。
4年前に母を亡くしていた光明皇后は、後ろ盾となる身内の大半を失ってしまいました。
こうした中、天皇と皇后は一つの決断を下します。
それは、21歳となっていた阿部内親王を皇太子としたのです。
これまで女性が皇太子となったことは一度もありませんでした。
前例のない決断に踏み切った背景には、何があったのでしょうか??
政治的空白に乗じて、謀反を起こさないとも限らない・・・
すでに、安積親王は11歳となっていました。
皇太子に阿部内親王が据えられたことは、女性でありながらも女性ではない、男の天皇に仕立てるということでした。
男帝という正統な天皇に匹敵する立場を与える証でした。
一方で、この選択に、光明皇后も大きな葛藤を抱えていました。
それを示す事柄が、正倉院の記録に残っています。
正倉院に治められた聖武天皇の遺品の目録・・・国家珍宝帳・・・
ここに書かれているのは”黒作懸佩刀”とは、天武天皇の子・草壁皇子が愛用した刀です。
その後、草壁皇子の後継者に受け継がれていた幻の刀です。
黒作懸佩刀は、若くして亡くなった草壁皇子が、藤原不比等に託し、彼を仲介者として文武天皇、聖武天皇へと受け継がれました。
正統な皇位継承のシンボルともいうべき刀でした。
ところが、娘・阿部内親王を皇太子としたときに、本来引き渡すはずだった刀を聖武天皇と光明皇后はあえて渡しませんでした。
夫をとらなかった阿部内親王には子供がいません。
このままでは正統な皇位継承は娘の代で途切れてしまう・・・!!
そして、光明皇后は、この時すでに38歳になっていました。
こうした厳しい状況が、皇位継承の刀を娘に渡さなかった背景にありました。
娘に対して犠牲を強いる・・・!!
娘・阿部内親王が皇太子になっても、皇位継承問題は先送りにされただけでした。
光明皇后の苦悩は続きます。

744年、光明皇后のもとに突然知らせが届きます。
皇位継承の有力候補であった安積親王が急死したのです。
ついに、皇位に近い聖武天皇の子は阿部内親王一人となりました。
この頃から、聖武天皇は体調がすぐれなくなり・・・
そして、娘に天皇の位を譲ることを決断します。
749年7月、阿部内親王が即位・・・孝謙天皇となります。
時を同じくして、光明皇后は皇太后となります。
新たな政権運営の中心人物として起用したのが、甥である藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は、卓越した政治手腕の持ち主で、測量や暦法に長け、中国・唐の政治、文化にも精通していました。
大仏建立などの大事業で力を発揮した仲麻呂に、光明皇后は厚い信頼を寄せていました。
仲麻呂は、新しく設置された紫微中台の長官に就任します。
紫微中台は、唐の制度に倣って名付けられた政治と軍事を司る実質的な最高権力機関でした。
こうして、孝謙天皇を仲麻呂と皇太后が支える態勢が整えられました。
しかし・・・孝謙天皇が主導する政治に対して不満を持つ貴族たちが少なくなく・・・
水面下で謀反をたくらみ、クーデターの動きまで見え始めていました。
こうした政治不安を抱える中・・・756年5月2日、聖武天皇崩御。
聖武天皇は、将来皇位継承の争いが生まれな用に次の皇太子について遺言していました。
聖武太政天皇の遺詔として、道祖王(ふなどおう)を皇太子とする
道祖王は、聖武天皇の曽祖父である天武天皇の孫にあたる人物です。
藤原氏の血を濃く引いていたことも、選ばれた要因のひとつでした。
聖武天皇が亡くなると、道祖王は、早速皇太子にたてられました。
ところが、道祖王については、こんな記述が残されています。
”道祖王は、喪服中にもかかわらず、密かに淫らな行いをして、先帝に対する恭敬の念がない
しかも、機密事項を民間に漏らした”
皇太子には相応しくないというのです。
そこで孝謙天皇は、道祖王に変わる者を皇太子とすることを求めました。
それが、大炊王でした。
大炊王もまた、天武天皇の孫にあたる人物です。
藤原仲麻呂と近い間柄であったことから、この人選には仲麻呂が関わっていたと考えられています。
聖武天皇の遺言に従い、皇太子を道祖王のままにするのか??
それとも、孝謙天皇が推す大炊王に挿げ替えるべきか・・・??
光明皇后どうする・・・??

誰が皇太子となったのか・・・??
続日本紀には、
”道祖王の皇太子を廃位とする”
とあります。
道祖王に代わり、大炊王が皇太子に選ばれたのです。
孝謙天皇は譲位し、758年8月、大炊王が即位し、淳仁天皇となります。
この淳仁天皇を、正当な皇位継承者として光明皇太后が後押ししたことを示唆するものがあります。
正倉院の国家珍宝帳に記載された皇位継承のシンボルとされた”黒作懸佩刀”・・・そこには、効果きたされています。
”除物”・・・後に正倉院から持ち出されたことを示しています。
光明皇后が、淳仁天皇に与えたのではないのか・・・??
そこには、正統という意思表示がありました。
孝謙を、皇位継承の呪縛から解き放してやりたい・・・
そう思ったのかもしれません。
皇位継承の行方を見届けた光明皇太后・・・760年6月7日、60歳で静かにこの世を去りました。
生まれながらに背負った宿命や、政治の重圧からようやく解放されたのでした。
ところが、その死後、事態は思わぬ展開を見せます。
淳仁天皇と藤原仲麻呂が、孝謙太上天皇と激しく対立します。
遂には、仲麻呂が挙兵し、戦いが勃発。
その後、皇位をめぐる混乱が生じ、奈良時代は終焉へと向かっていくのでした。
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これらを献納したのが、聖武天皇の后・光明皇后でした。
絶大な勢力を持つ藤原氏の娘として生まれ、天皇の后となることを宿命づけられていた光明皇后・・・
何よりも期待されたのが、男子を生み、次の天皇とすることでした。
しかし、その願いはかないませんでした。
代わりに自らの娘に皇位継承の重荷を背負わさざるを得なくなります。
生まれながらの宿命を背負い、厳しい選択を、次々と迫られた光明皇后・・・その実像とは・・・??
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光明皇后の発願で建てられた法華寺・・・
ここに、光明皇后の姿をモデルにしたと伝わっている仏像があります。
十一面観音菩薩立像・・・
風格ある立ち姿、慈悲を讃えたまなざし、よく見ると右足の親指が跳ね上げられています。
人々の救済に向かおうと、まさに今、一歩踏み出す瞬間をあらわしたと言われています。
この法華寺は、もとは光明皇后の父の邸宅のあった場所に建てられました。
その父とは、藤原不比等・・・
日本初の体系的な法律を作り、天皇を中心とする国の原型を築いた稀代の政治家です。
この不比等の娘として、701年に生まれたのが、藤原光明子(安宿媛)です。
光明子の母・県犬養三千代は、天皇の近くに仕える宮中の実力者でした。
父・不比等には、藤原氏の繁栄を未来永劫つなぐための壮大な計画がありました。
それは、光明子の母親違いの姉と文武天皇の間に生まれた首皇子を天皇にすえることでした。
そして、光明子を嫁がせ、藤原氏の血筋の天皇、皇后を誕生させ、やがて二人の間に生まれる男子が次の天皇となり皇統を継いでいく・・・
天皇家と藤原氏の一体化を図る構想でした。
光明子は、藤原の娘としての重い宿命を背負っていました。
藤原不比等は自らの邸宅で、同い年の光明子と首皇子を育てたと言われています。
首皇子が皇太子となり、正式な後継商社となった2年後の716年6月、光明子は、16歳で首皇子の妻となりました。
全ては父の計画通り、順調に進みました。
その2年後には、2人の間に第一子が誕生します。
阿部内親王・・・女の子でした。
そして724年、首皇子は晴れて即位し、聖武天皇となります。
不比等はすでにこの世を去り、孫の即位を見届けることはできませんでしたが、ここに藤原氏の念願が一つ叶ったのでした。
それから3年、藤原一族と光明子にとって、最も待ち望んだ瞬間が・・・男の子が生まれたのです。
名は基王。
光明子、27歳の時でした。
聖武天皇と光明子の喜びはひとしおで・・・同じ日に生れた全国の子供たちに布一端、綿二屯、稲ニ十束を祝いとして与えたことが記録に残されています。
さらに、生後33日目には、基王を早くも皇太子として立てています。
それは、前代未聞のことでした。
皇位継承の問題の安定化・・・
この継承こそが正当だ、と公表する天下に示すために、直ちに皇太子に建てる必要があったのです。
天皇家と藤原家を結ぶ皇太子を産み、期待された勤めを果たすことができた光明子・・・
ところが、思いもよらない事態が光明氏を襲いました。
728年9月、皇太子・基王死去・・・
悲嘆にくれる光明子をさらに動揺させる知らせが・・・
夫・聖武天皇には、藤原氏の血をひかない別の夫人がいました。
その二人の間に男の子・安積親王が生まれたというのです。
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そして・・・729年2月、政権を担う左大臣・長屋王が謀反を企てているという密告が、聖武天皇に届きます。
これに対し天皇は、怒りをあらわにします。
長屋王の屋敷はすぐさま包囲されました。
光明子の兄である藤原武智麻呂らが屋敷に赴き、長屋王に詰め寄りました。
そして、密告からわずか2日後に、長屋王は自害!!
この事件で、長屋王の妻と4人の息子も命を落としました。
世にいう”長屋王の変”です。
記録には残っていませんが、安積親王の誕生に焦った藤原一族が、敵対勢力になりかねない長屋王を排除した事件と考えられています。
事件の後、藤原武智麻呂は大納言に昇格、長屋王にとって代わるように光明氏の兄たちが政治の実権を握ることとなりました。
それから半年・・・光明氏自身にとって大きな転機が訪れます。
皇后にたてられたのです。
皇后とは、政治に参加し、時として天皇の位を継ぐ地位です。
皇族以外ではなれないとされていました。
それは、安積親王が生まれたことが一つのきっかけでした。
光明子はまだ29歳・・・男の子が生まれる可能性がありました。
もし生まれたら、安積親王をおさえて確実に皇太子にする・・・!!
それには、母親が皇后であることが大前提でした。
729年8月、光明子、光明皇后となります。
聖武天皇と、藤原一族の期待を一身に背負い、後は、男子の誕生をひたすら待つこととなりました。
光明子が皇后となった天平の世では、災害や飢饉が相次ぎ、多くの民が苦しみ、喘いでいました。
そこで、光明皇后と聖武天皇が、国家安寧のよりどころとしたのが仏教でした。
この時代、いくつもの寺院や仏像がつくられました。
その一つが興福寺です。
聖武天皇が建立した東金堂・・・その東金堂と回廊で繋がれていたとされているのが五重塔です。
高さは約50m、皇后となった翌年に、光明子の発願で建てられました。
棟の1階には、柱を囲む仏像が東西南北の浄土をむくように配置されています。
これは、光明皇后が人々の幸福や成仏への願いを込めて行ったことを起源としているとしています。
伝承によれば、この五重塔の造営には、光明皇后が女官たちと共に自ら土を運ぶなど、心を尽くしたと言われています。
光明皇后は、尼寺の建立にも力を注ぎました。
その中核をなすのが、法華寺です。
後々、国を治めていくためには国分寺制度となります。
東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となりました。
光明皇后は、法華寺がある場所に、様々な施設を作ったと伝わっています。
施薬院、悲田院・・・いまの社会福祉事業です。
そして、法華寺の境内には、光明皇后の発願により設置されたとする公衆浴場・浴室(からふろ)があります。
浴室の床の下で、薬草を入れた湯を沸かし、その蒸気で病人を癒したと言われています。
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積極的に政治に携わった光明皇后・・・
一方で、待ち焦がれていた男子はいまだ授かることが出来ずにいました。
この頃、全国で疫病・天然痘が大流行します。
737年には、猛威を振るい、藤原4兄弟が病死。
4年前に母を亡くしていた光明皇后は、後ろ盾となる身内の大半を失ってしまいました。
こうした中、天皇と皇后は一つの決断を下します。
それは、21歳となっていた阿部内親王を皇太子としたのです。
これまで女性が皇太子となったことは一度もありませんでした。
前例のない決断に踏み切った背景には、何があったのでしょうか??
政治的空白に乗じて、謀反を起こさないとも限らない・・・
すでに、安積親王は11歳となっていました。
皇太子に阿部内親王が据えられたことは、女性でありながらも女性ではない、男の天皇に仕立てるということでした。
男帝という正統な天皇に匹敵する立場を与える証でした。
一方で、この選択に、光明皇后も大きな葛藤を抱えていました。
それを示す事柄が、正倉院の記録に残っています。
正倉院に治められた聖武天皇の遺品の目録・・・国家珍宝帳・・・
ここに書かれているのは”黒作懸佩刀”とは、天武天皇の子・草壁皇子が愛用した刀です。
その後、草壁皇子の後継者に受け継がれていた幻の刀です。
黒作懸佩刀は、若くして亡くなった草壁皇子が、藤原不比等に託し、彼を仲介者として文武天皇、聖武天皇へと受け継がれました。
正統な皇位継承のシンボルともいうべき刀でした。
ところが、娘・阿部内親王を皇太子としたときに、本来引き渡すはずだった刀を聖武天皇と光明皇后はあえて渡しませんでした。
夫をとらなかった阿部内親王には子供がいません。
このままでは正統な皇位継承は娘の代で途切れてしまう・・・!!
そして、光明皇后は、この時すでに38歳になっていました。
こうした厳しい状況が、皇位継承の刀を娘に渡さなかった背景にありました。
娘に対して犠牲を強いる・・・!!
娘・阿部内親王が皇太子になっても、皇位継承問題は先送りにされただけでした。
光明皇后の苦悩は続きます。
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744年、光明皇后のもとに突然知らせが届きます。
皇位継承の有力候補であった安積親王が急死したのです。
ついに、皇位に近い聖武天皇の子は阿部内親王一人となりました。
この頃から、聖武天皇は体調がすぐれなくなり・・・
そして、娘に天皇の位を譲ることを決断します。
749年7月、阿部内親王が即位・・・孝謙天皇となります。
時を同じくして、光明皇后は皇太后となります。
新たな政権運営の中心人物として起用したのが、甥である藤原仲麻呂でした。
仲麻呂は、卓越した政治手腕の持ち主で、測量や暦法に長け、中国・唐の政治、文化にも精通していました。
大仏建立などの大事業で力を発揮した仲麻呂に、光明皇后は厚い信頼を寄せていました。
仲麻呂は、新しく設置された紫微中台の長官に就任します。
紫微中台は、唐の制度に倣って名付けられた政治と軍事を司る実質的な最高権力機関でした。
こうして、孝謙天皇を仲麻呂と皇太后が支える態勢が整えられました。
しかし・・・孝謙天皇が主導する政治に対して不満を持つ貴族たちが少なくなく・・・
水面下で謀反をたくらみ、クーデターの動きまで見え始めていました。
こうした政治不安を抱える中・・・756年5月2日、聖武天皇崩御。
聖武天皇は、将来皇位継承の争いが生まれな用に次の皇太子について遺言していました。
聖武太政天皇の遺詔として、道祖王(ふなどおう)を皇太子とする
道祖王は、聖武天皇の曽祖父である天武天皇の孫にあたる人物です。
藤原氏の血を濃く引いていたことも、選ばれた要因のひとつでした。
聖武天皇が亡くなると、道祖王は、早速皇太子にたてられました。
ところが、道祖王については、こんな記述が残されています。
”道祖王は、喪服中にもかかわらず、密かに淫らな行いをして、先帝に対する恭敬の念がない
しかも、機密事項を民間に漏らした”
皇太子には相応しくないというのです。
そこで孝謙天皇は、道祖王に変わる者を皇太子とすることを求めました。
それが、大炊王でした。
大炊王もまた、天武天皇の孫にあたる人物です。
藤原仲麻呂と近い間柄であったことから、この人選には仲麻呂が関わっていたと考えられています。
聖武天皇の遺言に従い、皇太子を道祖王のままにするのか??
それとも、孝謙天皇が推す大炊王に挿げ替えるべきか・・・??
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誰が皇太子となったのか・・・??
続日本紀には、
”道祖王の皇太子を廃位とする”
とあります。
道祖王に代わり、大炊王が皇太子に選ばれたのです。
孝謙天皇は譲位し、758年8月、大炊王が即位し、淳仁天皇となります。
この淳仁天皇を、正当な皇位継承者として光明皇太后が後押ししたことを示唆するものがあります。
正倉院の国家珍宝帳に記載された皇位継承のシンボルとされた”黒作懸佩刀”・・・そこには、効果きたされています。
”除物”・・・後に正倉院から持ち出されたことを示しています。
光明皇后が、淳仁天皇に与えたのではないのか・・・??
そこには、正統という意思表示がありました。
孝謙を、皇位継承の呪縛から解き放してやりたい・・・
そう思ったのかもしれません。
皇位継承の行方を見届けた光明皇太后・・・760年6月7日、60歳で静かにこの世を去りました。
生まれながらに背負った宿命や、政治の重圧からようやく解放されたのでした。
ところが、その死後、事態は思わぬ展開を見せます。
淳仁天皇と藤原仲麻呂が、孝謙太上天皇と激しく対立します。
遂には、仲麻呂が挙兵し、戦いが勃発。
その後、皇位をめぐる混乱が生じ、奈良時代は終焉へと向かっていくのでした。
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