今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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