1702年12月14日、大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七士が、江戸本所にあった吉良邸に討ち入りしました。
主君の仇である高家肝煎・吉良上野介義央の首を討ち取りました。
江戸の人々の関心を集めたこの仇討事件・・・
四十七士の切腹からわずか12日後には、一連の赤穂事件を題材にした演目が江戸中村座で上演されました。
そして、事件から46年後の1748年8月に、大坂で上演された人形浄瑠璃がお馴染み「仮名手本忠臣蔵」です。
赤穂浪士たちは忠義の士として称賛され、吉良上野介は意地悪で強欲な悪者、敵役・・・アンチヒーローとなってしまいました。
しかし、地元では名君として立てられている吉良上野介・・・いったいどんな人物だったのでしょうか?

1701年3月14日午前9時30分ごろ・・・
江戸城では五代将軍・徳川綱吉が湯殿で身を清め、身支度を整えていました。
この日は、綱吉が朝廷の使者たちに返礼を述べる”勅使奉答の儀”が城内の白書院で行われる予定でした。
朝廷を重んじる綱吉は、家臣たちにも粗相のないようにときつく申し付けていました。
ところが・・・儀式が始まる直前の午前11時ごろ・・・
白書院から20mほどしか離れていない松の大廊下で前代未聞の事件が起こったのです。
「この間の遺恨 覚えたるか!!」
なんと、朝廷の使者たちをもてなす饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、その指南役である高家肝煎・吉良上野介義央に背後からいきなり斬りかかったのです。
「殿中でござるぞ!!」
内匠頭を止めたのは、直前まで上野介と儀式について話し合いをしていた旗本の梶川与惣兵衛・・・
事件の唯一の目撃者です。
梶川が必死で内匠頭を止めているうちに、騒ぎを聞きつけた者たちが松の大廊下に駆けつけ、傷を負った上野介は御医師之間に運ばれました。
上野介が負った傷の具合は・・・??
治療した医師は栗崎道有で、彼の日記によると、額の傷は3寸6分・・・13.6㎝ほどで骨にも傷がつきましたが、6針ほど縫って致命傷には至りませんでした。
背中の傷は、もっと浅く3針縫う程度で済みました。
殿中では大刀の帯刀が禁止されていたため、上野介を切りつけた刀が殺傷能力の低い小刀だったこと、切っ先が烏帽子の金具に当たったことなどが致命傷に至らなかったと思われています。
事件当時、上野介61歳、内匠頭35歳、どうして上野介は指南までしていた年下の内匠頭からいきなり斬りつけられてしまったのでしょうか?
この後、吉良は幕府の取り調べに対してこう答えています。
「なんの恨みも受けた覚えはない
全く、浅野の乱心としか言いようがない」by吉良上野介
「お上に対しては何の恨みもないが、吉良には私なりの遺恨があった
その為、前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」by浅野内匠頭
二人の供述は食い違っていましたが、将軍・綱吉が原を立てたのは内匠頭に対してでした。
「なぜ、大事な日に、しかも殿中で私怨を晴らさなければならなかったのか?」
この日、綱吉は敬愛する生母・桂昌院を従一位に昇進させるため、朝廷の使者に働きかけるつもりでいました。
これにケチがつけられたと怒りが倍増!!
そして、即日、内匠頭に切腹を言い渡すのです。
一方、上野介は一切お咎めなし!!
江戸時代は喧嘩両成敗が天下の大法になっていて、喧嘩をした者はいかなる理由があろうとも双方ともに切腹ということになっていたのに・・・!!
吉良上野介がお咎めなしとなったのは、浅野内匠頭を必死で止めた梶川与惣兵衛の証言が決め手だったと思われます。
「内匠頭殿に斬りかかられて、上野介殿は刀に手をかけなかった」by与惣兵衛
内匠頭の一方的な強硬であって喧嘩ではないと判断して、お咎めなしとしました。
さらに、将軍綱吉は上野介を、
「殿中をはばかり、手向かいしなかったこと殊勝である」by綱吉
と褒め称え、
「手傷はどうか、追々全快すれば心置きなく出勤して勤めよ
老体のことであるから十分保養するように」by綱吉
と見舞いの言葉までかけました。

どうして吉良上野介は将軍・綱吉から厚遇されたのでしょうか?
ひとつには、上野介の経歴にあります。
そもそも吉良家は、清和源氏・足利氏の庶流・・・名門です。
室町時代には、”御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ”といわれるほど高い家格を誇っていました。
そして江戸時代になると、上野介の祖父・吉良義弥が徳川幕府の儀式や祭礼を司り、朝廷との交渉・連絡役も務める高家に就任するのです。
高家は、徳川家康の時代に新設された役職で、2代将軍秀忠の時代に確立されました。
室町時代から続く由緒正しき名家だけが高家に選出されました。
今川家・上杉家・織田家・武田家・吉良家などです。
天皇とか公家に謁見することが多いので、総じて高家の官位は高く、吉良家が高家に選ばれたのは、「儀式などに関する武家の礼法」が、室町時代から伝わっていたことが大きかったのです。
原則高家は世襲制。
これを継いだ上野介の父は、吉良家代々の礼法を江戸時代に即した形にし、年中行事の際の服装や礼儀作法などを細かく規定、吉良流礼法と呼ばれ、他の大名家にも広く普及していきました。
そして、1641年吉良上野介が生まれます。
上野介もまた、高家になるための英才教育を受け、28歳で家督を相続します。
1680年に、徳川綱吉が将軍宣下を受けた際には、宣下の取次ぎを担当しました。
そして、43歳の時、高家の中でも特に礼儀作法に精通している3人のうちの一人に選ばれ、高家肝煎となるのです。
石高わずか4200石の旗本でしたが、官位は波の大名よりも高く、従四位上でした。
上野介が綱吉から厚遇されたのは、朝廷を重んじる綱吉にとって非常に大事な存在だったからだと思われます。
さらに、もうひとつの理由が血縁関係・・・
上野介は、米沢藩2代藩主・上杉定勝の娘を娶り、二男三女をもうけますが、三姫の兄で家督を継いでいた綱勝が跡継ぎを残さぬまま急死したため、上杉家が断絶の危機・・・
そこで、長男・三之助を養子に出すことになりました。
その後、4代藩主となった綱憲(三之助)は、紀州徳川家の栄姫と結婚。
栄姫の兄が綱吉の娘と結婚していたことから、遠縁ながらも親戚でした。
こうしたことから、厚遇された可能性もあります。
赤穂浪士たちを吉良邸討ち入りさせることとなった松の大廊下刃傷事件・・・
事件の原因は、内匠頭に対する恨みだったと考えられます。
その恨みとは・・・??これには二人の立場が関係していました。
事件が起こった時、内匠頭は朝廷の使者をもてなす饗応役を務めていました。
そして、その指南役だったのが、高家肝煎だった上野介だったのです。
饗応役を仰せつかった大名はみな、高家の指南を仰ぐことになっていました。
失敗を許されない大役だったので、大大名でも低頭して高家に教えを受けていました。
つまり、上野介の方が内匠頭より立場が上・・・
忠臣蔵などでは、権力をかさに着た上野介が内匠頭を理不尽な理由でとことんいじめ抜きます。
パワハラで恨みを買ったのだとされています。
そして、その理不尽な理由については、内匠頭が詳細を語らずに即日切腹してしまったので、様々な憶測が飛び交いました。
①横恋慕説
上野介が美人と評判の内匠頭の妻に横恋慕するもふられてしまったため、その腹いせにいじめたというものです。
しかし、当時の大名の奥方が、他家の男性と顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。
なので、全くの創作です。
②塩田スパイ説
昭和になってからの説で、上野介は赤穂藩の主産業である塩の制法を盗むために密偵を派遣。
しかし、見つかって殺されてしまったため、内匠頭を逆恨みして虐めた・・・??
赤穂の製塩法は特別なものではなく、秘密にもされていませんでした。
わざわざ密偵を送り込む必要はありませんでした。
そもそも、吉良家が産業として塩を作っていたという記録はありません。
なので、信ぴょう性は低いと思われます。
③賄賂説
最も広く知られているのが、賄賂説です。
内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった・・・もしくは賄賂の額が少なかったために、上野介が腹を立て、内匠頭を虐めるようになったというものです。
事件のあった元禄期に書かれた尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記」にも記述があります。
”大名たちは、上野介に賄賂を贈り、様々なことを教えてもらっていた
しかし、内匠頭は頑として賄賂を贈ろうとしなかった
上野介はこれを不快に思い、嫌がらせをするようになった”
信憑性は高そうですが・・・
官位こそ高い上野介ですが、石高はわずか4200石の旗本です。
一方、内匠頭は赤穂藩5万石の大名です。
このようなときは、教えを受けた大名が、高家に相応の謝礼を払うのは武家社会の常識でした。
それをしなかった内匠頭の方が非常識とも言えます。
上野介がもらっていたのは、今でいうところの当然支払われるべき謝礼金だったのです。
実はこの頃、吉良家の財政は相当逼迫していたといわれ、謝礼金を払おうとしない内匠頭を上野介が快く思わなかった可能性は大いにあります。
そしてさらに、上野介が内匠頭に対する心証を悪くしたと思われるのが、儀式の予算です。
饗応役に任命された者は、接待にかかる費用を自費で負担しなければなりませんでした。
内匠頭は700両を・・・今のお金で7000万円ほどあれば足りるだろうと考えていました。
しかし、上野介は高家としての長年の経験から、最低でも1200両、1億2000万円は必要だと指南しましたが、内匠頭は頑としてこれを聞き入れませんでした。
高額な費用を自腹で出費するのは大変でしたが、上野介は嫌がらせでしたのではなく・・・
高家として当然の助言をしたにすぎません。
実際に、700両では全く足りず、内匠頭の見通しは甘かったのです。
こうしたことから上野介は不快に思い、厳しい態度をとるようになったようです。
「鸚鵡籠中記」には、上野介は老中の前でこんなことを言っていました。
「内匠頭殿は万事不調法で、言うべき言葉もありません
公家衆も、御不快に思われています」by上野介
かなり辛辣で、内匠頭の面目は丸つぶれでした。
さらに、忠臣蔵では上野介は内匠頭に様々な嫌がらせをしています。
勅使たちの部屋に墨絵の屏風を置いた内匠頭に対し、何も問題はないのに
「勅使のお座敷に墨絵の屏風など失礼ではないか!」
と嘘を言い、金屏風に変えさせたり
勅使の宿坊は畳の張替えが必要なのを直前まで伝えず内匠頭を大慌てさせたり。
ウソを教える、必要な情報を教えないなど、露骨で悪質な嫌がらせを繰り返して、内匠頭を精神的に追い込んでいきます。
これが本当ならば、斬りつけられるのも仕方がない??

武家社会の常識もわきまえず、助言にも耳を貸さない内匠頭に上野介が腹を立てて辛辣な態度をとったことはあったと思われます。
しかし、儀式を失敗させるような嫌がらせをしたとは考えにくいのです。
高家肝煎の上野介が、大事な儀式を失敗させるようなことをするわけがありません。
内匠頭が失敗すれば、指南役の上野介が恥をかくのです。
厳しく接していた可能性は高いものの、儀式を失敗させるような露骨な嫌がらせはしていませんでした。
では、どうして斬りつけられてしまったのでしょうか??
その理由は今もわかっていません。
しかし、謎を解くカギになりそうなのが、内匠頭が家臣たちに残した言葉・・・
「このようなことをするつもりがあれば知らせておいたのだが、今日、やむを得ない事情があってことを起こしたので、前もって知らせることが出来なかった」
つまり、殿中で上野介に斬りかかったのは、事前に計画していたのではなく、内匠頭の突発的なことだったと思われます。
内匠頭は生来とっても短期で、感情のコントロールが苦手だったともされています。
饗応役という大役のプレッシャーに加えて、上野介との関係の悪化、事件当日の気持ちが滅入るような曇天・・・
突発的に斬りかかってしまったのではないか??
内匠頭は、ストレスなどによって、腹部や胸部などに痛みが走る自律神経失調症のような持病があったといわれています。
事件に3日前にも薬を飲んでいたと当時の記録書に残されています。
饗応役という大役を務める緊張感、大きなストレスに加えて、天気のせいで落ち込んで情緒不安定となって突発的に事件を起こしてしまったのかもしれません。
1641年、江戸・鍛治橋で生まれた吉良上野介は、生涯を江戸で過ごしました。
しかし、旗本である吉良家は、三河国と上野国に、合計11カ所、4200石の領地を持っていました。
その中のひとつが、三河国の吉良荘・・・現在の愛知県西尾市吉良町です。
現在も、殿さまとして慕われています。
忠臣蔵の敵役・吉良上野介は、地元では今も昔も領民思いのお殿様でした。
その為、忠臣蔵の上映は、戦後までご法度でした。
吉良が悪人と言われることに対して、領民が非常に不愉快に思っていました。
吉良町には、上野介が施した数々の善政が伝えられています。
黄金堤は、川の氾濫に苦しむ領民を救うために、上野介が築かせたとされています。
お蔭で水害が無くなり、稲穂が黄金色に実ったことからその名がつけられたとか。
新田開発にも力を注いだといわれ、現在その地は、上野介の妻の名にちなんで、富好新田と言われています。
吉良家の菩提寺・華蔵寺・・・上野介が50歳の時に寄進したといわれる梵鐘が今も使われています。
さらに、愛用の茶道具が残されており、住職と茶を嗜んだといわれています。
上野介は早くから茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる千宗旦に弟子入り、上野介の上という字を分解した卜一という号を名乗り、独自の流派まで開いていました。
そんな上野介にとって、華蔵寺の庭園を眺めながら、お茶を点てるのは至福のひと時だったといいます。
領民思いのお殿様で、茶の湯を愛でる風流人・・・吉良町に伝わる上野介の姿は、忠臣蔵に描かれている天下の敵役とはかけ離れたものでした。
さらに、幻の書状と呼ばれていた書状が、2020年に見つかります。
朝廷との仕事で京都にいた上野介が、江戸にいた13歳の長女・鶴姫と5歳の次女・阿久里姫に宛てたもので、子供が読みやすいように仮名文字を多用しています。
ご機嫌よくお過ごしですか?
頑張って仕事を片付けるので、帰ったら色々とお話ししましょう
鶴には御所で使われているという珍しい香包などを、阿久里にはお人形を3つ贈りました
父がいなくて寂しいでしょうが、どうか元気で待っていてください
娘たちに対する深い愛情が文面からにじみ出ています。
指南役としては厳しい面もあったかもしれませんが、仕事を離れれば上野介は子煩悩で優しい父親だったようです。

1701年3月26日、松の大廊下刃傷事件の12日後、高家肝煎の吉良上野介は幕府に退職願を提出し、幕府はこれを受理しました。
刃傷事件の責任をとったのか、それとも傷の治療に専念するつもりだったのか・・・退職の理由は今もわかっていません。
そして、同じ年の8月、上野介は呉服橋から江戸の場末の発展途上の本所へと引っ越すように幕府から命じられます。
上野介の引っ越し命令は謎が多く、どんな理由で誰が命じたのか??
ハッキリとは分かっていません。
ただ、赤穂浪士が討ち入りをしてきても、幕府は吉良を守らないという宣言にも取れます。
というのも、この頃江戸市中には、すでに「赤穂浪士たちが吉良を襲撃するのではないか」という噂が広まっていて、吉良邸の隣人が幕府に
「赤穂浪士が吉良邸を襲撃した場合、どう対処すればよろしいか」
と、たずねると幕府は、
「一切構わず、自邸内を守るように」
と答えたといいます。
また、討ち入りの日が近づき、赤穂浪士たちが市中で暗躍するようになっても、幕府は特に警戒を強めることなく傍観を続けます。
刃傷事件の際、斬りつけられても刀を抜かなかった上野介を褒め称え、無罪放免にした幕府がどうして・・・??
綱吉が内匠頭に対して行った即日切腹が、あまりにも性急で不公平なお沙汰だったとして世間の不評を買っていました。
生類憐みの令などによって、幕府への不満が高まっていました。
これ以上、幕府の評判を落さないように上野介を見捨てたのではないか??
厄介払いをしたのではないか??
上野介は、孤立無援となってしまいました。
どうして吉良上野介は討ち入りされてしまったのでしょうか??
赤穂浪士の襲撃を警戒していたという上野介・・・
常に本所の屋敷に閉じこもっていたわけではなく、わずかなお供を連れただけで、江戸市中を散策し、茶会にも度々参加していました。
討ち入り前の上野介の資料は乏しく、確かなことはわかっていません。
しかし、討ち入りがなかなか行われなかったこともあって、気のゆるみが生じたのかもしれません。
その為か、上野介は本所の屋敷でも度々茶会を開催します。
1702年12月14日、茶会を開く予定でいました。
しかし、これが大石内蔵助ら赤穂浪士たちの知る処となり、確実に上野介が在宅しているこの日を討ち入り決行日とされてしまいました。
そして迎えた運命の日・・・上野介は予定通り、本所の屋敷で茶会を開催。
客人たちに自慢の茶器で茶を振る舞い、日が沈むとそのまま酒宴に・・・
上野介が床に就いたのは夜更け過ぎのことでした。
外で討ち入りの準備が進んでいるとも知らずに。
「おのおの方、討ち入りでござる!!」
12月15日午前3時半ごろ、吉良邸討ち入り!!
赤穂浪士たちが吉良邸の表門と裏門の二手に分かれて討ち入り決行!!
裏門から侵入した赤穂浪士たちは、まず、鎹と金槌で吉良邸の家臣たちが暮らす長屋の戸口を塞いでしまいます。
こうして、100人以上いた吉良家の家臣のうち半数以上を戦わずして封じ込めたのです。
そうした状況で、吉良側はどう応戦したのでしょうか?
家臣たちは、必死に応戦!!
入念な計画を練っていた赤穂浪士は、吉良家臣たちを次々と撃退!!
襲撃の報を受けた上野介は、すぐに寝所を離れたため、赤穂浪士たちが踏み込んだ時にはすでに布団はもぬけの殻でした。
そして、赤穂浪士たちの必死の捜索によって、炭小屋に隠れていた上野介はついに見つかってしまいました。
内匠頭につけられた額と背中の傷が本人の証拠とされ、必死に命乞いをするも聞き入れられず、討ち取られてしまいました。
それが定説です。
上野介は命乞いをした・・・
ただ、上野介が刀を抜いて戦ったという説もあります。
当時の記録には、上野介は脇差を抜いて向かってきたと書かれています。
つまり、命乞いなどせず、闘死した可能性があるのです。
上野介も武士・・・赤穂浪士たちの討ち入りにおびえ、命乞いをしたのではなく、本当は最期まで武士として刀を手に戦って散っていったのかもしれません。
松の大廊下刃傷事件から1年9カ月がたった1702年12月15日未明。
吉良上野介は討ち入りを決行した大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士によって62年の生涯を終えました。
赤穂浪士たちは、上野介の首を白布で包み、槍先に掲げて、吉良邸から浅野家の菩提寺である泉岳寺まで12キロを練り歩いたといいます。
その姿を見た江戸の人々は、主君の仇を討った忠義の士と称賛します。
そして、1703年2月4日、幕府は赤穂浪士たちに切腹を言い渡しました。
世間が赤穂浪士たちを英雄と見なしていたため、幕府は批判を恐れて、打ち首という犯罪者扱いではなく、武士の対面を尊重した切腹としたのです。
これによって、赤穂浪士たちの人気が高まったのですが・・・
事件の被害者であるはずの吉良家に待っていたのは過酷な運命でした。
赤穂浪士たちが切腹して散った2月4日、上野介の嫡男・吉良義親にも、幕府からお沙汰が下りました。
それは・・・
「浅野内匠頭家来ども 上野介を討ち候
その方 仕方不届きにつき 領地召し上げられ 諏訪安芸守へお預け仰せつけられ候也」
赤穂浪士たちに討ち入りを許し、上野介を討ち取らせてしまったのは武士として不届きだとして吉良家の領地没収。
当主であった義親は、罪人として諏訪高島城に預けられました。
随行の家臣はわずか2人・・・
帯刀を許されず、失意の義親は、その3年後、21歳という若さで亡くなり、吉良家は断絶となりました。

吉良家に対する幕府の仕打ちは、あまりにもひどい・・・父を討たれて領地まで没収され、懸命に戦ったにもかかわらず、罪人にされてしまった義親は、気の毒でなりません。
幕府は、権威と人気回復のために、民衆の声に迎合し、吉良家を悪者に仕立て上げたのです。
吉良=悪者といったイメージは、その後に作られた歌舞伎や人形浄瑠璃などによって助長され、上野介は天下の嫌われ者となってしまいました。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです

にほんブログ村
主君の仇である高家肝煎・吉良上野介義央の首を討ち取りました。
江戸の人々の関心を集めたこの仇討事件・・・
四十七士の切腹からわずか12日後には、一連の赤穂事件を題材にした演目が江戸中村座で上演されました。
そして、事件から46年後の1748年8月に、大坂で上演された人形浄瑠璃がお馴染み「仮名手本忠臣蔵」です。
赤穂浪士たちは忠義の士として称賛され、吉良上野介は意地悪で強欲な悪者、敵役・・・アンチヒーローとなってしまいました。
しかし、地元では名君として立てられている吉良上野介・・・いったいどんな人物だったのでしょうか?
![]() | 【ふるさと納税】忠臣蔵 純米吟醸 47QUATRESEPT「キャトルセット」 1800ml 【お酒・日本酒・純米吟醸酒・兵庫県産】 価格:18,000円 |

1701年3月14日午前9時30分ごろ・・・
江戸城では五代将軍・徳川綱吉が湯殿で身を清め、身支度を整えていました。
この日は、綱吉が朝廷の使者たちに返礼を述べる”勅使奉答の儀”が城内の白書院で行われる予定でした。
朝廷を重んじる綱吉は、家臣たちにも粗相のないようにときつく申し付けていました。
ところが・・・儀式が始まる直前の午前11時ごろ・・・
白書院から20mほどしか離れていない松の大廊下で前代未聞の事件が起こったのです。
「この間の遺恨 覚えたるか!!」
なんと、朝廷の使者たちをもてなす饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、その指南役である高家肝煎・吉良上野介義央に背後からいきなり斬りかかったのです。
「殿中でござるぞ!!」
内匠頭を止めたのは、直前まで上野介と儀式について話し合いをしていた旗本の梶川与惣兵衛・・・
事件の唯一の目撃者です。
梶川が必死で内匠頭を止めているうちに、騒ぎを聞きつけた者たちが松の大廊下に駆けつけ、傷を負った上野介は御医師之間に運ばれました。
上野介が負った傷の具合は・・・??
治療した医師は栗崎道有で、彼の日記によると、額の傷は3寸6分・・・13.6㎝ほどで骨にも傷がつきましたが、6針ほど縫って致命傷には至りませんでした。
背中の傷は、もっと浅く3針縫う程度で済みました。
殿中では大刀の帯刀が禁止されていたため、上野介を切りつけた刀が殺傷能力の低い小刀だったこと、切っ先が烏帽子の金具に当たったことなどが致命傷に至らなかったと思われています。
事件当時、上野介61歳、内匠頭35歳、どうして上野介は指南までしていた年下の内匠頭からいきなり斬りつけられてしまったのでしょうか?
この後、吉良は幕府の取り調べに対してこう答えています。
「なんの恨みも受けた覚えはない
全く、浅野の乱心としか言いようがない」by吉良上野介
「お上に対しては何の恨みもないが、吉良には私なりの遺恨があった
その為、前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」by浅野内匠頭
二人の供述は食い違っていましたが、将軍・綱吉が原を立てたのは内匠頭に対してでした。
「なぜ、大事な日に、しかも殿中で私怨を晴らさなければならなかったのか?」
この日、綱吉は敬愛する生母・桂昌院を従一位に昇進させるため、朝廷の使者に働きかけるつもりでいました。
これにケチがつけられたと怒りが倍増!!
そして、即日、内匠頭に切腹を言い渡すのです。
一方、上野介は一切お咎めなし!!
江戸時代は喧嘩両成敗が天下の大法になっていて、喧嘩をした者はいかなる理由があろうとも双方ともに切腹ということになっていたのに・・・!!
吉良上野介がお咎めなしとなったのは、浅野内匠頭を必死で止めた梶川与惣兵衛の証言が決め手だったと思われます。
「内匠頭殿に斬りかかられて、上野介殿は刀に手をかけなかった」by与惣兵衛
内匠頭の一方的な強硬であって喧嘩ではないと判断して、お咎めなしとしました。
さらに、将軍綱吉は上野介を、
「殿中をはばかり、手向かいしなかったこと殊勝である」by綱吉
と褒め称え、
「手傷はどうか、追々全快すれば心置きなく出勤して勤めよ
老体のことであるから十分保養するように」by綱吉
と見舞いの言葉までかけました。
![]() | 価格:1,760円 |

どうして吉良上野介は将軍・綱吉から厚遇されたのでしょうか?
ひとつには、上野介の経歴にあります。
そもそも吉良家は、清和源氏・足利氏の庶流・・・名門です。
室町時代には、”御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ”といわれるほど高い家格を誇っていました。
そして江戸時代になると、上野介の祖父・吉良義弥が徳川幕府の儀式や祭礼を司り、朝廷との交渉・連絡役も務める高家に就任するのです。
高家は、徳川家康の時代に新設された役職で、2代将軍秀忠の時代に確立されました。
室町時代から続く由緒正しき名家だけが高家に選出されました。
今川家・上杉家・織田家・武田家・吉良家などです。
天皇とか公家に謁見することが多いので、総じて高家の官位は高く、吉良家が高家に選ばれたのは、「儀式などに関する武家の礼法」が、室町時代から伝わっていたことが大きかったのです。
原則高家は世襲制。
これを継いだ上野介の父は、吉良家代々の礼法を江戸時代に即した形にし、年中行事の際の服装や礼儀作法などを細かく規定、吉良流礼法と呼ばれ、他の大名家にも広く普及していきました。
そして、1641年吉良上野介が生まれます。
上野介もまた、高家になるための英才教育を受け、28歳で家督を相続します。
1680年に、徳川綱吉が将軍宣下を受けた際には、宣下の取次ぎを担当しました。
そして、43歳の時、高家の中でも特に礼儀作法に精通している3人のうちの一人に選ばれ、高家肝煎となるのです。
石高わずか4200石の旗本でしたが、官位は波の大名よりも高く、従四位上でした。
上野介が綱吉から厚遇されたのは、朝廷を重んじる綱吉にとって非常に大事な存在だったからだと思われます。
さらに、もうひとつの理由が血縁関係・・・
上野介は、米沢藩2代藩主・上杉定勝の娘を娶り、二男三女をもうけますが、三姫の兄で家督を継いでいた綱勝が跡継ぎを残さぬまま急死したため、上杉家が断絶の危機・・・
そこで、長男・三之助を養子に出すことになりました。
その後、4代藩主となった綱憲(三之助)は、紀州徳川家の栄姫と結婚。
栄姫の兄が綱吉の娘と結婚していたことから、遠縁ながらも親戚でした。
こうしたことから、厚遇された可能性もあります。
赤穂浪士たちを吉良邸討ち入りさせることとなった松の大廊下刃傷事件・・・
事件の原因は、内匠頭に対する恨みだったと考えられます。
その恨みとは・・・??これには二人の立場が関係していました。
事件が起こった時、内匠頭は朝廷の使者をもてなす饗応役を務めていました。
そして、その指南役だったのが、高家肝煎だった上野介だったのです。
饗応役を仰せつかった大名はみな、高家の指南を仰ぐことになっていました。
失敗を許されない大役だったので、大大名でも低頭して高家に教えを受けていました。
つまり、上野介の方が内匠頭より立場が上・・・
忠臣蔵などでは、権力をかさに着た上野介が内匠頭を理不尽な理由でとことんいじめ抜きます。
パワハラで恨みを買ったのだとされています。
そして、その理不尽な理由については、内匠頭が詳細を語らずに即日切腹してしまったので、様々な憶測が飛び交いました。
①横恋慕説
上野介が美人と評判の内匠頭の妻に横恋慕するもふられてしまったため、その腹いせにいじめたというものです。
しかし、当時の大名の奥方が、他家の男性と顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。
なので、全くの創作です。
②塩田スパイ説
昭和になってからの説で、上野介は赤穂藩の主産業である塩の制法を盗むために密偵を派遣。
しかし、見つかって殺されてしまったため、内匠頭を逆恨みして虐めた・・・??
赤穂の製塩法は特別なものではなく、秘密にもされていませんでした。
わざわざ密偵を送り込む必要はありませんでした。
そもそも、吉良家が産業として塩を作っていたという記録はありません。
なので、信ぴょう性は低いと思われます。
③賄賂説
最も広く知られているのが、賄賂説です。
内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった・・・もしくは賄賂の額が少なかったために、上野介が腹を立て、内匠頭を虐めるようになったというものです。
事件のあった元禄期に書かれた尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記」にも記述があります。
”大名たちは、上野介に賄賂を贈り、様々なことを教えてもらっていた
しかし、内匠頭は頑として賄賂を贈ろうとしなかった
上野介はこれを不快に思い、嫌がらせをするようになった”
信憑性は高そうですが・・・
官位こそ高い上野介ですが、石高はわずか4200石の旗本です。
一方、内匠頭は赤穂藩5万石の大名です。
このようなときは、教えを受けた大名が、高家に相応の謝礼を払うのは武家社会の常識でした。
それをしなかった内匠頭の方が非常識とも言えます。
上野介がもらっていたのは、今でいうところの当然支払われるべき謝礼金だったのです。
実はこの頃、吉良家の財政は相当逼迫していたといわれ、謝礼金を払おうとしない内匠頭を上野介が快く思わなかった可能性は大いにあります。
そしてさらに、上野介が内匠頭に対する心証を悪くしたと思われるのが、儀式の予算です。
饗応役に任命された者は、接待にかかる費用を自費で負担しなければなりませんでした。
内匠頭は700両を・・・今のお金で7000万円ほどあれば足りるだろうと考えていました。
しかし、上野介は高家としての長年の経験から、最低でも1200両、1億2000万円は必要だと指南しましたが、内匠頭は頑としてこれを聞き入れませんでした。
高額な費用を自腹で出費するのは大変でしたが、上野介は嫌がらせでしたのではなく・・・
高家として当然の助言をしたにすぎません。
実際に、700両では全く足りず、内匠頭の見通しは甘かったのです。
こうしたことから上野介は不快に思い、厳しい態度をとるようになったようです。
「鸚鵡籠中記」には、上野介は老中の前でこんなことを言っていました。
「内匠頭殿は万事不調法で、言うべき言葉もありません
公家衆も、御不快に思われています」by上野介
かなり辛辣で、内匠頭の面目は丸つぶれでした。
さらに、忠臣蔵では上野介は内匠頭に様々な嫌がらせをしています。
勅使たちの部屋に墨絵の屏風を置いた内匠頭に対し、何も問題はないのに
「勅使のお座敷に墨絵の屏風など失礼ではないか!」
と嘘を言い、金屏風に変えさせたり
勅使の宿坊は畳の張替えが必要なのを直前まで伝えず内匠頭を大慌てさせたり。
ウソを教える、必要な情報を教えないなど、露骨で悪質な嫌がらせを繰り返して、内匠頭を精神的に追い込んでいきます。
これが本当ならば、斬りつけられるのも仕方がない??
![]() | NHKその時歴史が動いた(忠臣蔵編) コミック版 (HMB) [ 日本放送協会 ] 価格:1,045円 |

武家社会の常識もわきまえず、助言にも耳を貸さない内匠頭に上野介が腹を立てて辛辣な態度をとったことはあったと思われます。
しかし、儀式を失敗させるような嫌がらせをしたとは考えにくいのです。
高家肝煎の上野介が、大事な儀式を失敗させるようなことをするわけがありません。
内匠頭が失敗すれば、指南役の上野介が恥をかくのです。
厳しく接していた可能性は高いものの、儀式を失敗させるような露骨な嫌がらせはしていませんでした。
では、どうして斬りつけられてしまったのでしょうか??
その理由は今もわかっていません。
しかし、謎を解くカギになりそうなのが、内匠頭が家臣たちに残した言葉・・・
「このようなことをするつもりがあれば知らせておいたのだが、今日、やむを得ない事情があってことを起こしたので、前もって知らせることが出来なかった」
つまり、殿中で上野介に斬りかかったのは、事前に計画していたのではなく、内匠頭の突発的なことだったと思われます。
内匠頭は生来とっても短期で、感情のコントロールが苦手だったともされています。
饗応役という大役のプレッシャーに加えて、上野介との関係の悪化、事件当日の気持ちが滅入るような曇天・・・
突発的に斬りかかってしまったのではないか??
内匠頭は、ストレスなどによって、腹部や胸部などに痛みが走る自律神経失調症のような持病があったといわれています。
事件に3日前にも薬を飲んでいたと当時の記録書に残されています。
饗応役という大役を務める緊張感、大きなストレスに加えて、天気のせいで落ち込んで情緒不安定となって突発的に事件を起こしてしまったのかもしれません。
1641年、江戸・鍛治橋で生まれた吉良上野介は、生涯を江戸で過ごしました。
しかし、旗本である吉良家は、三河国と上野国に、合計11カ所、4200石の領地を持っていました。
その中のひとつが、三河国の吉良荘・・・現在の愛知県西尾市吉良町です。
現在も、殿さまとして慕われています。
忠臣蔵の敵役・吉良上野介は、地元では今も昔も領民思いのお殿様でした。
その為、忠臣蔵の上映は、戦後までご法度でした。
吉良が悪人と言われることに対して、領民が非常に不愉快に思っていました。
吉良町には、上野介が施した数々の善政が伝えられています。
黄金堤は、川の氾濫に苦しむ領民を救うために、上野介が築かせたとされています。
お蔭で水害が無くなり、稲穂が黄金色に実ったことからその名がつけられたとか。
新田開発にも力を注いだといわれ、現在その地は、上野介の妻の名にちなんで、富好新田と言われています。
吉良家の菩提寺・華蔵寺・・・上野介が50歳の時に寄進したといわれる梵鐘が今も使われています。
さらに、愛用の茶道具が残されており、住職と茶を嗜んだといわれています。
上野介は早くから茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる千宗旦に弟子入り、上野介の上という字を分解した卜一という号を名乗り、独自の流派まで開いていました。
そんな上野介にとって、華蔵寺の庭園を眺めながら、お茶を点てるのは至福のひと時だったといいます。
領民思いのお殿様で、茶の湯を愛でる風流人・・・吉良町に伝わる上野介の姿は、忠臣蔵に描かれている天下の敵役とはかけ離れたものでした。
さらに、幻の書状と呼ばれていた書状が、2020年に見つかります。
朝廷との仕事で京都にいた上野介が、江戸にいた13歳の長女・鶴姫と5歳の次女・阿久里姫に宛てたもので、子供が読みやすいように仮名文字を多用しています。
ご機嫌よくお過ごしですか?
頑張って仕事を片付けるので、帰ったら色々とお話ししましょう
鶴には御所で使われているという珍しい香包などを、阿久里にはお人形を3つ贈りました
父がいなくて寂しいでしょうが、どうか元気で待っていてください
娘たちに対する深い愛情が文面からにじみ出ています。
指南役としては厳しい面もあったかもしれませんが、仕事を離れれば上野介は子煩悩で優しい父親だったようです。
![]() | 人形浄瑠璃文楽名演集 通し狂言 仮名手本忠臣蔵 DVD-BOX [DVD] 価格:19,936円 |

1701年3月26日、松の大廊下刃傷事件の12日後、高家肝煎の吉良上野介は幕府に退職願を提出し、幕府はこれを受理しました。
刃傷事件の責任をとったのか、それとも傷の治療に専念するつもりだったのか・・・退職の理由は今もわかっていません。
そして、同じ年の8月、上野介は呉服橋から江戸の場末の発展途上の本所へと引っ越すように幕府から命じられます。
上野介の引っ越し命令は謎が多く、どんな理由で誰が命じたのか??
ハッキリとは分かっていません。
ただ、赤穂浪士が討ち入りをしてきても、幕府は吉良を守らないという宣言にも取れます。
というのも、この頃江戸市中には、すでに「赤穂浪士たちが吉良を襲撃するのではないか」という噂が広まっていて、吉良邸の隣人が幕府に
「赤穂浪士が吉良邸を襲撃した場合、どう対処すればよろしいか」
と、たずねると幕府は、
「一切構わず、自邸内を守るように」
と答えたといいます。
また、討ち入りの日が近づき、赤穂浪士たちが市中で暗躍するようになっても、幕府は特に警戒を強めることなく傍観を続けます。
刃傷事件の際、斬りつけられても刀を抜かなかった上野介を褒め称え、無罪放免にした幕府がどうして・・・??
綱吉が内匠頭に対して行った即日切腹が、あまりにも性急で不公平なお沙汰だったとして世間の不評を買っていました。
生類憐みの令などによって、幕府への不満が高まっていました。
これ以上、幕府の評判を落さないように上野介を見捨てたのではないか??
厄介払いをしたのではないか??
上野介は、孤立無援となってしまいました。
どうして吉良上野介は討ち入りされてしまったのでしょうか??
赤穂浪士の襲撃を警戒していたという上野介・・・
常に本所の屋敷に閉じこもっていたわけではなく、わずかなお供を連れただけで、江戸市中を散策し、茶会にも度々参加していました。
討ち入り前の上野介の資料は乏しく、確かなことはわかっていません。
しかし、討ち入りがなかなか行われなかったこともあって、気のゆるみが生じたのかもしれません。
その為か、上野介は本所の屋敷でも度々茶会を開催します。
1702年12月14日、茶会を開く予定でいました。
しかし、これが大石内蔵助ら赤穂浪士たちの知る処となり、確実に上野介が在宅しているこの日を討ち入り決行日とされてしまいました。
そして迎えた運命の日・・・上野介は予定通り、本所の屋敷で茶会を開催。
客人たちに自慢の茶器で茶を振る舞い、日が沈むとそのまま酒宴に・・・
上野介が床に就いたのは夜更け過ぎのことでした。
外で討ち入りの準備が進んでいるとも知らずに。
「おのおの方、討ち入りでござる!!」
12月15日午前3時半ごろ、吉良邸討ち入り!!
赤穂浪士たちが吉良邸の表門と裏門の二手に分かれて討ち入り決行!!
裏門から侵入した赤穂浪士たちは、まず、鎹と金槌で吉良邸の家臣たちが暮らす長屋の戸口を塞いでしまいます。
こうして、100人以上いた吉良家の家臣のうち半数以上を戦わずして封じ込めたのです。
そうした状況で、吉良側はどう応戦したのでしょうか?
家臣たちは、必死に応戦!!
入念な計画を練っていた赤穂浪士は、吉良家臣たちを次々と撃退!!
襲撃の報を受けた上野介は、すぐに寝所を離れたため、赤穂浪士たちが踏み込んだ時にはすでに布団はもぬけの殻でした。
そして、赤穂浪士たちの必死の捜索によって、炭小屋に隠れていた上野介はついに見つかってしまいました。
内匠頭につけられた額と背中の傷が本人の証拠とされ、必死に命乞いをするも聞き入れられず、討ち取られてしまいました。
それが定説です。
上野介は命乞いをした・・・
ただ、上野介が刀を抜いて戦ったという説もあります。
当時の記録には、上野介は脇差を抜いて向かってきたと書かれています。
つまり、命乞いなどせず、闘死した可能性があるのです。
上野介も武士・・・赤穂浪士たちの討ち入りにおびえ、命乞いをしたのではなく、本当は最期まで武士として刀を手に戦って散っていったのかもしれません。
松の大廊下刃傷事件から1年9カ月がたった1702年12月15日未明。
吉良上野介は討ち入りを決行した大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士によって62年の生涯を終えました。
赤穂浪士たちは、上野介の首を白布で包み、槍先に掲げて、吉良邸から浅野家の菩提寺である泉岳寺まで12キロを練り歩いたといいます。
その姿を見た江戸の人々は、主君の仇を討った忠義の士と称賛します。
そして、1703年2月4日、幕府は赤穂浪士たちに切腹を言い渡しました。
世間が赤穂浪士たちを英雄と見なしていたため、幕府は批判を恐れて、打ち首という犯罪者扱いではなく、武士の対面を尊重した切腹としたのです。
これによって、赤穂浪士たちの人気が高まったのですが・・・
事件の被害者であるはずの吉良家に待っていたのは過酷な運命でした。
赤穂浪士たちが切腹して散った2月4日、上野介の嫡男・吉良義親にも、幕府からお沙汰が下りました。
それは・・・
「浅野内匠頭家来ども 上野介を討ち候
その方 仕方不届きにつき 領地召し上げられ 諏訪安芸守へお預け仰せつけられ候也」
赤穂浪士たちに討ち入りを許し、上野介を討ち取らせてしまったのは武士として不届きだとして吉良家の領地没収。
当主であった義親は、罪人として諏訪高島城に預けられました。
随行の家臣はわずか2人・・・
帯刀を許されず、失意の義親は、その3年後、21歳という若さで亡くなり、吉良家は断絶となりました。
![]() | 価格:590円 |

吉良家に対する幕府の仕打ちは、あまりにもひどい・・・父を討たれて領地まで没収され、懸命に戦ったにもかかわらず、罪人にされてしまった義親は、気の毒でなりません。
幕府は、権威と人気回復のために、民衆の声に迎合し、吉良家を悪者に仕立て上げたのです。
吉良=悪者といったイメージは、その後に作られた歌舞伎や人形浄瑠璃などによって助長され、上野介は天下の嫌われ者となってしまいました。
↓ランキングに参加しています
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村
![]() | 価格:814円 |

