東京・日本橋・・・その中で、350年以上もの歴史を持つ老舗が日本橋三越本店です。
平成28年5月には、我が国の歴史を象徴する百貨店として、国の重要文化財に指定されました。
その前身こそが、三井越後屋です。

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日本橋は、徳川家康が江戸に入府後、最初に区画整理を行った場所です。
1604年には、五街道の拠点と定められ、道路が整備されました。
交通網が発達したことで、江戸の町には多く人が集まってくるようになりました。
天下普請によって、江戸城築城などの公共事業で職人たちがたくさん江戸に入ってきました。
そして、参勤交代によって全国の大名とその家臣たちが暮らすようになり、江戸の人口は急激に増加しました。
しかし、江戸は新興都市だったため、食料、衣類も生産力が低く、人口増加に対して供給が追い付きません。
その為、人々の暮らしを支える日用品は、それまで経済の中心だった大坂や京都などの上方からの下りものが頼りでした。
上方商人が、続々と江戸へ進出し、活躍します。
彼らは上方を本拠地とし、江戸に支店を持っていたことから「江戸店持ちの上方商人」と言われました。

三井越後屋の創業者・三井高利もそのひとりでした。
伊勢国松坂で商いを営む家に生まれた高利は、たぐいまれな商才を発揮し、家業を拡張していきます。
そして、1673年、新規開拓を目指し江戸に進出。
江戸随一の呉服街だった日本橋本町に小さな呉服棚「三井越後屋」を開きます。
この時、高利52歳!!

伊勢を本拠にし、江戸に新たな店舗を開いた三井高利でしたが、なじみの客もおらず悩んでいました。
そんな三井越後屋が江戸で始めた画期的な商法とは・・・??

①店先売り・・・店頭販売です。
当時の商いは、訪問販売が普通でした。
商人が客の屋敷まで商品を持参して販売する”屋敷売り”や、注文を取った後で商品を届ける”見世物商い”を行っていました。
江戸に得意先がなかった越後屋は、お客さんの方から店に来てもらいそこで買い物をしてもらおうと考えたのです。
この斬新さが目を引き、通りがかりの人を次々と引き込んでいきました。

暮れの押し迫った江戸の町・・・忙しく走り回る商人の姿が・・・??
江戸時代は一般的につけ払いでした。
商人たちはその代金を回収するため、家々を回っていました。
支払いは盆と正月の二節季払いか、年末のみの極月払いでした。
場合によっては貸し倒れになったり、資金の回転も悪くなっていました。
当時は掛け値で、実際の販売価格よりも値段を高くつけておいて、客が値引き交渉で値を下げていくのが習わしでした。
しかし、越後屋はその常識をも覆します。

②現金掛け値なし
定価制にして現金で払います。
その代わり、安く買えるというものでした。
当時では、呉服の知識、交渉力がなければ、呉服を買いづらかったのです。
それを決めることで、誰でも呉服が帰るようになりました。
掛け値なしの定価売りは、当時の世界の商業市場からしても画期的なことでした。
定価をつけて売ったことで、越後屋はお客に正直、越後屋で買うとお得という噂が広まり、時には順番待ちになるほど客が押し寄せました。

「新法を工夫すること」by高利

その言葉通り、越後屋はさらに確信的な新商法を生み出していきます。

③切り売り
当時、高級な呉服を買うのは、中流以上の武士がほとんどでした。
呉服棚では、呉服一反売りをするのが当たり前でした。
そんな中、越後屋は客の求めに応じて、どんな長さでも切って売る切り売り販売を始めます。
切り売りは、手間がかかるうえに儲けが少ないと、呉服棚は及び腰・・・
それを敢えて行ったのです。
良い生地を好きな分だけ買えるとあって、今まで手が出せなかった庶民にまで客層を広めることに成功しました。
さらに越後屋は、オーダーメイドシステムを導入。
当時、呉服棚は生地を販売するだけで、仕立ては客自身が仕立て屋に発注しなければなりませんでした。
そこで越後屋は、胆物を買ってもらえれば仕立てまで責任を持ち、出来上がったものを客に納めたのです。
まさに、現代の呉服店の走りでした。
こうして従来のやり方を廃した斬新な商法で、三井越後屋は大繁盛となりました。

常識にとらわれない新商法で、江戸の人々を取り込んでいく三井越後屋。
当然、その成功を妬む商人たちも少なくありませんでした。
三井の「商売記」によると、わざと厠を越後屋の台所に向けて作ったり、新商法を差し止めるべく幕府に訴訟を起こしたりする者までいました。
さらには、浪人を雇って夜中に火薬を仕掛けて店を奉公人もろとも全滅させるという脅迫状がまかれたとも伝えられています。
こうした様々な嫌がらせを受けても、着実に業績を伸ばしていった越後屋・・・
江戸に店を開いて10年目・・・同じ日本橋の駿河町に移転し、店を拡大します。
客はますます増えて行きました。
その4年後には、幕府の御用商人となります。
幕府という絶大な後ろ盾が就いたことで、エスカレートしていた嫌がらせは治まりました。

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やがて、他の呉服棚も、こぞって現金掛け値なし、店先売り商法を真似し始めます。

「まねされることは利益」by高利

対従者が増えることが、越後屋の名が高まるので返って利益になるというものでした。
これによって、同業者同士の競争は激化!!
宝永年間には、ライバルだった大黒屋との安売り競争に突入します。
越後屋は薄利多売に徹し、大黒屋を圧倒しました。
それまでの商人は、毎年同じように仕入れるのが当たり前でした。
高利は、それに対して安く仕入れられるものがあれば大量に仕入れて、その値段に合わせて定価を細かく調整しました。
それによって薄利多売を進めることができたのです。
その後、恵比寿屋と亀屋が新装開店、この時は客をとられないようにとすぐにその近くに支店を設け、安売りで対応しました。
越後屋は、見事ピンチをチャンスに変えたのです。

「一に富士 二には三井を ほめてゆき」

江戸の中心地・日本橋を訪れた人々は、まず正面に見える雄大なふじの姿を褒め、その後三井越後屋を讃えました。
こんな川柳が詠まれるほど、越後屋は大きくなりました。
しかし、繁盛の秘密は、現金掛け値なし、店先売りといった斬新な商法だけでなく、働く人にもありました。
そこには巧みな人材育成がありました。
江戸時代のはじめ、商店の多くは家族経営による小規模なものでした。
しかし、呉服棚は仕入れから販売までを手掛けるため、多くの働き手が必要でした。
越後屋も、奉公人を多く雇い入れ、住み込みで働かせていました。
奉公人の大半は、上方の出身で、江戸本店だけで最大1000人以上!!
その修行の道は大変で・・・13歳ぐらいで奉公に上がり、お仕着せと呼ばれる揃いの着物が与えられます。
子供と称される彼らは、住み込みで様々な雑務をこなしながら、ソロバンや符牒を学んでいきます。
符牒家茂とは、その店だけで使える暗号のようなものです。
17歳になると元服、手代になり、営業職の第一線で働くようになります。
手代といっても多くの階級に分かれていて、その後、20代後半で名目役手代という役付きになります。
支配になるとようやく住み込みではなく、家持ちで結婚できるようになります。
ここまで来るのに25,6年・・・40歳ごろまでかかりました。
しかし、この長い住み込みの修行に絶えられず、5人に2人は手代になる前に辞めてしまいました。

そこで、三井越後屋は少しでも離職者を減らそうと、様々な福利厚生を用意しました。

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奉公人対策①福利厚生
人を大事にした越後屋は、奉公人の健康管理にも配慮。
健康診断はもちろん、針や灸、温泉での湯治まで・・・
伊勢参りや芝居見物など、四季折々の慰労を実施します。

さらに、奉公人を引き止めるため・・・
奉公人対策②ボーナス
住み込みの時には、着るものも食事も支給されるので、給料は存在しません。
そこで越後屋は、褒美・・・ボーナスを配りました。
さらに、元手金と呼ばれる退職金も支給しました。
元手金は、長く勤めれば長く勤めるほど多くもらえるようになっていました。
優秀な奉公人が越後屋を辞めて自分の商売に専念しようとするのを出来るだけ防ごうとしたのです。
越後屋は、独立後も彼らを重役として経営に参加させました。
今でいう取地小屋締役の地位に当たる元締めです。
これが出世クラスの頂点で、長年経験を積んだ手代から選ばれました。
この頃には奉公人は60歳・・・
なんとも長い道のりですが、努力と才覚次第で誰でも経営の実権を握ることができました。

越後屋には査定表もあり、販売成績などを記録していました。
これによって褒美の額も決まったといいます。
今と全く変わりませんでした。

三井越後屋では、客へのサービスを徹底させるため、様々な規則を設けていました。

・子供はすぐに煙草を出し、火入れや茶を用意すること
・客の目の前には立たないこと
・手隙の際は売り場で行儀よく待機すること

こうした接客サービスには、創業者・三井高利の母の影響があったといわれています。

高利の父は松坂に居を構え、酒や味噌を扱う商いをしていました。
しかし、あまり商売熱心ではなく、もっぱら連歌や俳句などの趣味に没頭していました。
その為、店を切り盛りし、実質的に支えていたのは商才に長けていた母の殊法でした。
酒や味噌を買いに来た客には、自らお茶や煙草を出し、時には食事まで振る舞うなどサービス精神にあふれていました。
30両もの大金が入った財布を見つけた際には、すぐに人を走らせて届けさせたといいます。
客を大事にし、真摯に接する・・・そんな母の商いを高利は小さい頃からずっと見てきたのです。

高利は商人についてこう言っています。

「成功すると勤勉を忘れつぶれてしまう」by高利

高利は気配りのできる真面目な男でした。
珍味があれば、わずかでも奉公人全員に分け与えたのです。
商売以外の道楽は不要と、事業に打ち込み、人を知ることを好みました。
この人を知るという精神こそが、越後屋のモットー。
奉公人たちもみな、客がやってきて腰掛けるまでに、その出身地、性格までわかったといいます。

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三井高利と同時代に生きた井原西鶴・・・
実在の商人たちをモデルにした世界初の経済小説「日本永代蔵」の中で、高利を”大商人の手本””世の重宝”と絶賛!!
倹約と勤勉、そして、人を大事にした高利は、一代でその資産をおよそ7万2000両(720億円)にまで増やしました。
それは、幕府の1年分の歳入の6%の当たる大金でした。

看板は、商いの顔でした。
江戸で看板が商いの顔として大きく発展したのは、町の大半を焼き尽くした明暦の大火の後のことでした。
消失した店舗を再建する際に、今に続く様々な看板が登場しました。
通行人にすぐに気付いてもらえるように店先に突き出た建看板、四方に文字の書ける箱看板、夜間でも目立つように提灯看板、立掛看板・・・看板を終うとお店は終わりでした。
どの店もこぞって看板を出すようになると、少しでも目立つようにと個性が出てきます。
その代表が、判じ物看板・・・絵解きなぞなぞです。
こうした看板は、ダジャレ好きな江戸っ子に大人気でした。

江戸随一の大店となった三井越後屋。
その宣伝方法とは??
引き札です。
客を引き込むというのがその名の由来です。
今でいうところのチラシでした。
最大の利点は、様々な情報を文字にして書けることでした。

・呉服はすべて掛け値なしの正札で販売いたします
・安い価格の為、値引きできません
・現金でお支払いいただき、掛け売りも配達も致しません

これを江戸中の長屋に配りました。
効果は絶大!!
元手はかかりましたが、大儲けに寄与しました。
やがて芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両と言われるほどの活気を見せました。

さらに越後屋は、ビジュアルメディアも活用します。
錦絵です。
版元に金を払って人気の美人画を描かせます。
艶やかさを競う美女たちの後ろには越後屋が・・・
身にまとう着物はもちろん越後屋のもの・・・店だけでなく、商品も宣伝します。
ライバル店からも同様の錦絵が出されるほど大きな宣伝効果を生みました。

客に貸し出す傘・・・店の名前入りの傘でした。
暖簾印の入った番傘をお客さんに貸し出していました。
お客にとっても三井の傘は、今でいう高級ブランドの紙袋のようなものでした。

「よく節約をしなさい」
「堅実な商売をしなさい」

大店になってからも、常に自分たちを律する高利。
幕府御用を務めていると、幕府よりになってしまうが、三井はあくまでも商人であり、奢らずに商売の道を勉強しなければならない!!

1742年、江戸が大水害に見舞われました。
その際、越後屋は100両ほどの資金を出し、難民救済のために1000人分の握り飯を配ったといいます。
世のため人のため、その精神で越後屋は大きな信用を得て行ったのです。

「商いのもとは養生にあり」

高利はその言葉通り、73歳まで生き、11男5女をもうけました。
そして、高利の教えを受け継いだ子孫たちによって、三井越後屋は江戸時代を通し、大きな発展を遂げていったのです。

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