1787年江戸・・・激しい物価高に悩んでいました。
原因は凶作と商人たちによる買い占め・・・米の値段は例年の4倍にまで跳ね上がりました。
生活に行き詰まり、橋や船から川に身投げする人が後を絶ちませんでした。
ところが幕府は助けてくれない・・・!!

「昔、飢饉の時には犬を食べた、今回も犬を喰え」

人々の我慢は限界を超え、米屋を狙った一斉蜂起が起きました。
江戸時代最大規模の打ちこわし「天明の打ちこわし」です。
将軍のおひざ元での大暴動は、幕府に強い衝撃を与えました。
打ちこわしは、政権交代のきっかけとなり、後に寛政の改革を行う松平定信の登場をもたらします。

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1787年5月20日、江戸。
どこからともなく集まった町人たちが米屋を狙い、打ちこわしを行いました。

”店にある米俵はもちろん、店に置いていた米俵も担ぎ出して切り裂き、路上にぶちまけた”

打ちこわしの原因は例年の4倍以上となった米価の高騰でした。
打ちこわしは20日に深川と赤坂で始まり、21日には江戸一帯へと広がりました。
米屋を中心に、油屋、乾物屋、薬屋などが襲われました。
男たちは身の回りにあった木槌や鍬などを持って参加しましたが、とりわけ多くのものが手にしたのが鳶口でした。
火事の際、延焼を防ぐために周囲の家を引き倒したり、解体した木材を運ぶための道具です。
町々には、火事に備えて数多くの鳶口が保管されていました。
しかし、打ちこわしといっても家そのものを壊したり、暴れまわったりするものではなく・・・
記録によるとそれは・・・

打ちこわしを始まめる前に数人で店に入りきちんと火の元を消す・・・
火事を起こして周囲に迷惑をかけることを避ける気配りからです。
打ちこわしは、リーダーがうつ拍子木で始まります。
さらに、再び合図が鳴ると打ちこわしを止め、みんなが一斉に休憩をとりました。
次の合図でまた打ちかかる・・・規律のある行動でした。

店の商売道具は滅茶苦茶にしたが、店の人には手出しせず危害を加えることはありませんでした。
混乱に乗じて物を盗むことも禁じ、万が一盗みを働く者がいたときは、仲間内で即座に打ち殺すという申し送りまでありました。
こうした打ちこわしの様子を見た水戸藩士の証言は・・・

「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉に御座候」

狼藉には違いないが、秩序と統制を重んじた一風変わった暴動だったのです。
打ちこわしに参加した町人たちは目に余るほどの大勢と記録され、打ちこわしの被害に遭った商店は1000軒と言われています。
参加者は日増しに増え、広がっていきました。
事態収拾のため、江戸の治安を守る与力・同心が出動します。
この時彼らを指揮したのが、鬼平でお馴染みの長谷川平蔵でした。
しかし、蜂起した町人たちのあまりの規模に、与力と同心たちだけでは多勢に無勢・・・
騒ぎを収めることはできませんでした。
こうして江戸の大混乱は5日間にわたって続いたのでした。

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18世紀、江戸の人口は100万を超え、その半分を町人が占めていました。
町人の大半は、家を借りて長屋で暮らす店子でした。
長屋では3坪か4坪の部屋にそれぞれの家族がひしめき合って暮らしていました。
仕事は異なれど、長屋で暮らす者は稼ぎで食料を買って暮らすその日暮らし・・・
食事は白米にみそ汁と漬物が基本の一汁一菜。
おかずは質素でも江戸っ子は白米を好んで食べました。
そんな江戸の庶民を直撃したのが、急激な物価高でした。
大豆や麦、そばなど穀物全般が値上がりしましたが、激しく値上がったのが米でした。
例年ならば100文で1升1合買えましたが、打ちこわしの正月には値上がりによって100文で6合~7合しか買えなくなりました。
米の値上がりは、留まることを知らずに、4月下旬には100文で5合~4合半、その10日後には4合半~4合・・・さらに1週間後には3合・・・その2日後には2合半にまで高騰しました。
例年の4倍以上、米価高騰が庶民を襲いました。
棒手振の稼ぎが1日300文・・・当時の人は、ひとり1日3合の米を食べたと言われています。
日銭暮らしの町人が一家を養うことは不可能となりました。

米価高騰の裏には・・・1783年浅間山の大噴火と異常気象がもたらした天明の大飢饉がありました。
降り続く火山灰と冷夏が、東日本で農作物に深刻な被害を及ぼしました。
さらに追い打ちをかけたのが、大洪水!!
関東一帯が大洪水に見舞われました。
打ちこわしの前年、全国の米の収穫量は例年の1/3にまで減少していました。

幕府も手をこまねいていたわけではなく、品不足による米価高騰を防ぐ対策を打っていました。
それが通称”米穀売買勝手令”です。
当時、決められた業者のみが米の販売や流通を行うことを許されていましたが、それを撤廃。
素人・・・それまで米取引を行っていなかった商人も自由に売買してもいいというものでした。
新たな商人の参入によって、米の流通量を増やして米価の引き下げを狙った緊急時の時限立法です。

しかし、この政策は、幕府の意図とは逆の方向に・・・
新たに参入した商人たちの中に、投機目的で米を買い占めて価格のつり上げを狙うものが現れました。
買占めによって米価は一層高騰します。
幕府は、米価高騰を収めるため、商人による米の買い占めを禁止します。
しかし、これが出されても、米の買い占めは治まることはなくあがる一方でした。
どうして買占めは止まなかったのでしょうか?
それは、商人たちが法の目をかいくぐったからです。
米価高騰の背景には、商人が旗本と結託して、賄賂などを贈って旗本の屋敷に預けて米を隠す・・・
市中に出回る米が少なくなるので米の値段が上がります。
これは、将軍直属の隠密であるお庭番が、町で広がる噂の実情を探っています。

米の値上がりと不正への怒りが、人々を打ちこわしに向かわせました。

打ちこわしがあった町の辻には、木綿の旗が掲げられていました。
その旗には、打ちこわしに及んだ理由と幕府への要求がびっしりと書かれていました。

”老中をはじめ町奉行や諸役人が、結託して悪事を働いたため、その罪により打ちこわしを行った
 もし、幕府が徒党の者をひとりでも逮捕し、罪を科すならば老中や町奉行、諸役人を行かしてはおけない
 その為の人数は、何人でも動員するし、このことを厭うことはない 生活の成立を保障する政策を実施すべし”

木綿の旗に記された言葉には、打ちこわしは正義の行いという強い思いが書かれていました。
怒りの矛先は、直接的には不正を行う商人に向かいます。
しかし、為政者たちにも向いていきます。
為政者は、全ての人の生活を成り立たせる大きな役割があるからです。
今、自分たちの生活が成り立たなくなっている・・・
これは正義の行いだと、自分たちは思っているのです。
自分達の正義の行いを取り締まるような為政者がいたならば、本来の正義に反するという思いがありました。

打ちこわしを目撃した人は・・・

「誰一人打ちこわしを憎むものなし」

打ちこわしは江戸に暮らす人々に強く支持されていました。

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1787年5月・・・江戸では米の値上がりの影響で家賃が払えなくなり、長屋を追い出される町人が続出し、飢えに苦しんでいました。
そして、思わぬ社会現象が起きました。
隅田川にかかる永代橋や両国橋から多くの人が身を投げ、溺死する人が続出しました。
その為、見張りが増やされ、橋の上での行動が監視されるようになりました。
橋からの身投げが難しくなると、隅田川の渡し船から身を投げるようになり・・・渡し船が停止されました。

米の値上がりで最も苦境に立たされたのが、長屋に住むその日暮らしの店子でした。
かつて享保の大飢饉の時、幕府は多くのためにお救い米を出しました。
今回も、店子たちの間でその期待が高まりました。
身分の低い店子が、町奉行に直接願い出ることなど許されません。
そこで、店子たちは自分の暮らし町の責任者である町名主にすがりました。
町名主にお救い米嘆願を訴えたのです。
ところが、町名主たちは、町奉行から、店子たちが騒動を起こさないように監視するように言われていました。
町名主たちは板挟み状態・・・苦しい立場にありました。
そうした町名主たちの代表が、商業の中心地・日本橋界隈を取り仕切っていた3人の年番名主でした。
上からの命令と、下からの訴えに挟まれた彼らは・・・??

お救い米を願い出る・・・??
町の者たちをなだめて騒ぎを防ぐ・・・??

5月18日、年番名主たちは決断を下します。
それは、店子たちに寄り添い、お救い米を願い出ることでした。
嘆願書は、江戸の行政と司法の責任者である町奉行宛に出されました。

”町の者たちはみな、困窮しています
 お救い米をいただけないと、餓死者が出続けます”

その文末には、

”お慈悲が全ての者たちに行き届くよう、甚だ恐れ入りつつお願い奉ります
 町中すべてが嘆いているため、やむを得ず申し上げた次第です”

必死の思いで町人たちが出した嘆願書・・・果たしてその願いは・・・??

江戸の年番名主の訴えから遡る事1年・・・
幕府を大きく揺るがす事態が起きていました。
1786年8月25日、10代将軍徳川家治死去。
これによって、およそ20年間にわたって老中として幕政を取り仕切ってきた田沼意次が失脚。
以後、田沼派と、白川藩主の松平定信を老中にしようとする反田沼派が反目する事態となります。
城内は緊張状態にありました。
そうした中、年番名主によるあのお救い米の嘆願書が提出されました。

5月19日、町奉行所からその回答が出ます。
しかし、それは驚くような内容でした。

男性は米2合、女性と子供は米1合を時価で売り渡すというものでした。

さらに、米の代わりに大豆を食べることを推奨するおふれが出されました。
しかし、大豆もまた高騰!!
無償のお救い米を待ち望んでいた江戸の町民たち・・・
その期待は、すっかり裏切られたのです。
おふれが出された日、米価が20%上昇。
さらに、北町奉行・曲淵景漸が暴言を吐いたという噂が・・・

「昔、飢饉のときに犬を食べたことがある
 今回も犬を食え」

町人たちの怒りは頂点に達しました。
そして翌日の5月20日、打ちこわしが始まりました。
5日間に渡り江戸の町は大混乱に陥ります。
事態を収拾すべく、幕府は遅ればせながら動き出しました。
お救いの実施を決定!!
まず、奉公人を除くすべての町人に米と大豆を3合ずつ支給されました。
さらに幕府は、20万両を支出し、商人から買い集めた米を安価で販売。

町人たちは、水を得た魚の如く喜び安堵したといいます。
町人たちの願いに向き合おうとしなかった着た町奉行曲淵景漸が打ちこわしの責任を取らされ解任。
さらに、田沼派の重鎮で御側御用取次の横田準松が将軍に打ちこわしを隠したとして失脚。
これをきっかけに、政治の主導権を反田沼派が掌握。
翌月には、松平定信が老中に就任しました。
民衆の蜂起によって政権が交代したということは、江戸時代始まって以来、初めての出来事でした。

田沼派に変わって政治の実権を握った松平定信は、米価引き下げのための政策を次々と打ち出します。
幕臣と商人との癒着や賄賂を厳しく取り締まります。
米を大量に必要とする酒の製造を1/3に制限。
さらに、地区ごとに町会所と呼ばれる米蔵を設置。
50万人が1か月食べられる米を備蓄しました。

これらの政策が功を奏して、天保の飢饉の際には江戸で打ちこわしが起きることはありませんでした。
町人たちの怒りの抗議が世を変えたのです。

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