毎年、4月15日はメジャーリーグの全選手、そして監督やコーチも背番号は42!!
それは、この日にデビューしたある選手をリスペクトしているからです。
その選手の名は、ジャッキー・ロビンソン。
近代ベースボール初の黒人メジャーリーガーです。

20世紀の半ば近くまで、およそ400名のメジャーリーガーはすべて白人でした。
その人種の壁を打ち破り、ブルックリン・ドジャーズで黒人メジャーリーガーとなったのが、ジャッキー・ロビンソンです。
「出来るかどうかわからないが、黒人たちのためにやらなければならないことだけはわかった」byジャッキー・ロビンソン
内野手だったジャッキーは、打っては3割、盗塁も決める俊足、将来を期待されたプレイヤーでした。
ところがグラウンドに出ると・・・浴びせられたのは黒人を差別する罵声でした。
さらに、強迫の手紙まで送りつけられました。
しかし、ジャッキーは感情を出さずにプレイ、どんなに差別を受けても反抗せずに堪えました。
それが彼に課せられた試練・・・”やり返さない勇気”でした。
ジャッキーのひたむきな姿は、選手だけでなく、観客の心も徐々に変えていきます。
「黒人選手がチームに勝利をもたらすならば、ファンにとって肌の色は関係がない」byジャッキー・ロビンソン
好成績を残すジャッキーは、やがて人種を問わず、メジャーリーガーとして憧れの存在になっていきます。
しかし・・・引退後にも差別の壁が待っていました。
希望していたコーチや監督になれずに球界を去ることになります。
それでもジャッキーは歩みを止めず、黒人の地位向上のために奔走します。
球界、アメリカ社会をも変えていきます。
20世紀、奴隷制度は無くなっていましたが、人種隔離政策という形で差別意識が渦巻くアメリカ・・・
その意識は、プロスポーツでも根強く、黒人が白人と同じ舞台でプレイすることは制限こそされていないが、ありえないとされていました。
アメリカを代表とするスポーツ・ベースボール・・・
最高峰とされていたメジャーリーグは、その最たるものでした。
矛盾に満ちた世界で育ったジャッキーは、どうしてプロ野球選手となったのでしょうか??
1919年、アメリカ南部ジョージア州で、5人兄弟の末っ子として生まれました。
祖父は、アフリカから連れてこられた奴隷・・・
南部の綿花畑に送り込まれ、長時間労働や暴力は当たり前、家畜のような扱いでした。
ジャッキーが生まれた頃、奴隷制度は廃止されていましたが、南部11の州では人種隔離政策という形で、交通機関など様々なところが白人専用と有色人種専用に分けられていました。
ジャッキーが生まれたジョージア州もそうした黒人差別が根強いところでした。
南北戦争が終わって、奴隷制度が廃止され、人種に対する流れが変わりました。
しかし、いつの間にか消え、黒人は法的な保護から外されてしまったのです。
そこから隔離が始まったのです。
差別は20世紀以降も変わることはなく、黒人たちは危険と隣り合わせの生活でした。
父は、祖父と同様綿花畑で働き、月給はわずか12ドル(現在の27,000円)家族6人を養うため、長時間の農作業に勤しみました。
しかし・・・過酷な農作業に疲れ果て・・・1920年、1歳の時に父が消息不明に。
母マリーは、自身の兄を頼り、子供達と共にカリフォルニア州に向かいます。
ひとりで5人の子供を育てるため、母は家政婦として早朝から働きづめでした。
それでも月給はわずか8ドル(現在の18,000円)・・・
水とパンだけという日も多かったのです。
1927年、ジャッキー8歳の時、生涯忘れられない体験をします。
家の外を掃除しているときのこと・・・ジャッキーの姿を見た隣の家の白人少女が・・・
「ニガー!ニガー!」
と、黒人を差別する言葉で罵ってきました。
それに対してジャッキーは、
「クラッカー!!」
と応戦します。
クラッカーとは、貧乏で無学という白人を侮辱する言葉でした。
それを聞いた少女の父親が激怒!!
二人は激しく石をぶつけあったといいます。
その後も、隣人は、物音がうるさいなど、ことあるごとに難癖をつけてきました。
しかし、母は・・・
「白人に対して卑屈にならず、誇りを持ちなさい
家族に恥をかかせることで、自分の人種に恥をかかせることになる」by母
ジャッキーを諭し続けました。
しかし、10代になると、地元の少年たちとつるんでいたずらを・・・
そんなジャッキーが出会ったのが、町の若い牧師・ダウンズ。
ダウンズは、子供達のためにダンスパーティーや、スポーツ大会を開催していました。
そこへの参加をきっかけに、スポーツの世界へ導かれていきます。

「私は、競争することが好きだったし、人一倍負けん気が強かった」byジャッキー・ロビンソン
スポーツで秀でていたジャッキーは、黒人でありながら多くの大学でスカウト・・・
中でもスポーツの名門UCLAに進学を決めます。
大学でも、陸上や野球など、4競技で活躍していたジャッキー・・・
しかし、2年で大学を中退します。
このまま大学を卒業しても、プロの世界では黒人は白人と一緒にプレイできず、活動の舞台は制限されていました。
差別感情は、北部、南部問わず根強く残っていました。
将来のことを考えたジャッキーは、大学を去ることを決め、コーチになりたいという夢を叶えるために、政府の青少年局で子供たちにスポーツを教える職に就きました。
1942年、23歳の時・・・第2次世界大戦勃発で事業が停止。
23歳のジャッキーは陸軍に召集され、アメリカ国民としての使命を喜んで果たすつもりでいました。
しかし、そこでもあからさまな差別が横行していました。
アメリカ軍は、基地内に差別はないというのが建前です。
しかし、人々の習慣に対して、法と尊厳で挑戦しました。
黒人に対して差別をしてはいけないという基本の知識を持っていたからです。
1944年、25歳の時に軍隊に嫌気がさして除隊。
スポーツでも軍隊でも差別される現実をまざまざと見せつけられたジャッキー・・・
しかし、ある黒人との出会いがその後の人生を変えることになります。
彼は二グロリーグの球団・カンザスシティーモナークスの投手でした。
二グロリーグとは、1920年に黒人の、黒人による、黒人のためのリーグとして確立。
14球団で競い合っていました。
メジャーリーグほどの待遇ではないものの、プロとして給料をもらうことができました。
「野球はすごくお金を稼げるし、戦争で選手が足りず、新しい選手を探しているんだ」byモナークスの投手
ジャッキーは、二グロリーグの存在は知っていたものの、入り方も待遇も知りませんでした。
誘いを受け、すぐに球団に手紙を書き、カンザスシティーモナークスのテストを受けました。
そして、1945年春、結果は合格!!
なんと、月給400ドル(現在の価値約90万円)で契約することとなりました。
父が農園で貰っていた月給は12ドル、母が家政婦としてもらっていたのが8ドル・・・それを考えると、破格の給料でした。
こうして黒人チームのプロ選手としての人生が始まりました。
この時、ジャッキー26歳!!
二グロリーグに身を投じたジャッキーは、ショートレギュラーとして開幕戦から大活躍!!
順調なスタートを切りました。
そんなある日、白人しかいないメジャーリーグのチームから球団の誘いが来ました。
後に偉大なる実験と称される黒人メジャーリーガー誕生の挑戦です。
しかし、黒人がメジャーリーグで活躍することは誰も考えられないことでした。
そんな困難が予想されるような状況に、どうして挑戦したのでしょうか??
1945年、26歳、二グロリーグでプレイできることに胸を弾ませていました。
何故なら、二グロリーグにも、年間100勝以上を上げた伝説の投手サチェル・ぺイジや、通算900本以上のホームランを打ったジョシュ・ギブソンなど、スター選手が大勢いたのです。
しかし、すぐに過酷な労働環境を知ることになります。
二グロリーグは、黒人による黒人のための娯楽・・・
収入が低い観客が多く、高い入場料は取れません。
それを補うため、各地を転戦し、膨大な数の試合をこなすしかありませんでした。
移動はすべて古びたボロボロのバス・・・
人種隔離政策のない地域さえ、黒人だという理由でレストランもホテルも断られ、食べるのも寝るのもバスの中でした。
「金を稼ぐ方法としては、随分みじめなことのように思えた」byジャッキー・ロビンソン
二グロリーグの対応はひどく、メジャーリーグとは大きな差があったのです。
メジャーリーグは、野球選手憧れの舞台・・・
下部組織にはマイナー組織があり、そのすべての球団に黒人はひとりもいませんでした。
そんな中、運命を変える人物が現れました。
それが、メジャーリーグ球団ブルックリンドジャースの会長リッキーでした。
リッキーは、当時悩んでいました。
アメリカは、第二次世界大戦のさ中、若い男性を大勢戦争にとられ、白人選手が不足していました。
リッキーはその解決策に、黒人選手に注目したのです。
二グロリーグにも、スター選手は大勢いました。
チームに黒人選手が加われば、黒人の観客も呼び込むことができ、経営的にも潤うのではないか??という思惑がありました。
さらに、リッキーが黒人選手を必要としたのは・・・
リッキーはかつて、学生時代のコーチ時代に、遠征先で黒人選手の宿泊を拒否されたことがありました。
懸命に説得し、なんとか自分の部屋に泣かせることを許可を得ました。
するとその夜、若き黒人選手が、ベッドの上で泣きながら手をかきむしり始めました。
「この黒い手です
手が白ければ私だってみんなと同じようにやれるんです
そうでしょう、リッキーさん、白くさえあったら・・・」
経営者としてだけでなく、ひとりの人間としてメジャーリーグへの黒人選手参加を望んでいました。
後に、”偉大なる実験”と呼ばれるリッキーの提案でしたが、当時、球団は大反対でした。
それでも、リッキーは説得しました。
「メジャーリーグに黒人を入れてはならないというルールなどない
観客が増え、球団が潤うだろう」byリッキー
そして、リッキーは候補者の中からリッキーに声をかけました。
「メジャーリーグでプレーしてみないか?」byリッキー
ジャッキーは感激し、驚き、言葉が出ませんでした。
「メジャーリーグでプレーすることができるかね?」byリッキー
頷くのがやっとでした。
突然リッキーは、
「君はどんな事態が起きようとも、怒りを抑えてプレーする勇気があるかね?」byリッキー
「やり返す勇気のない選手になれということですか?」byジャッキー・ロビンソン
「そではない
やり返さない勇気を持った選手になるんだ!!」byリッキー
さらには、予想される差別行為を敢えて演じて見せました。
挑発に乗れば敵の思うつぼだと、力説しました。
それは、負けん気の強いジャッキーにとっては耐えがたいものでした。
「出来るかどうかわからないが、黒人たちのためにやらなければならないことだけはわかった
実験に失敗すれば、私に続く黒人たちのチャンスをつぶしてしまう」byジャッキー・ロビンソン

ジャッキーは、黒人の未来のために全てを飲み込みました。
そして、戦争が終わった直後・・・
1945年10月23日、ドジャースの下部組織モントリオール・ロイヤルズに入団。
瞬く間に、全米を揺るがす大ニュースとなりました。
しかし、そのほとんどが否定的なものでした。
「私は何があっても必死で闘うしかない!!」byジャッキー・ロビンソン
26歳のジャッキー・・・決意は固まっていました。
偉大なる実験に挑んだジャッキー・ロビンソンは、闘志あふれるプレーで観客を魅了します。
一流選手の証であるオールスター戦出場を6年連続果たします。
1946年2月、27歳の時・・・
野球シーズンが始まる年に結婚式をあげました。
伴侶となるレイチェルとは大学時代に親友の紹介で出会いました。
その時のたがいの印象は・・・
「肌の色が分かるように白いシャツを着ていて、黒人であることに誇りを持っているジャッキーに魅力を感じたわ」byレイチェル
「見た目とチャーミングさにすぐに惹かれたよ
理解力のある彼女に、なんでも話すことができたの嬉しかった」byジャッキー・ロビンソン
それ以来、互いに理解し合い、愛を育んできたふたり・・・ふたりはこれから待ち受ける厳しい試練を一緒に乗り越えていこうと誓いあいました。
第1段階・・・マイナーリーグ・・・
ここで、打率3割4分9厘で首位打者に輝き、リーグ優勝に貢献します。
しかも、チームの観客動員数は最多記録を樹立しました。
文句のない成績を残したジャッキー・・・リッキーは、メジャーリーグ昇格へGoサインを出しました。
実験はいよいよ本番に入りました。
1947年4月15日、メジャーリーグ開幕!!
全米中が注目する中、ブルックリンドジャース・背番号42をつけた黒人初のメジャーリーガーとしてグラウンドに立ちました。
スタンドは超満員!!その半数以上が黒人でした。
2番ファーストで先発出場!!
しかし、いいところなく途中降板・・・その後、20打席連続ノーヒット!!
黒人たちが落胆する一方で、白人たちのジャッキーへの侮辱は勢いを増します。
国民的娯楽である野球・・・その最高峰メジャーリーグで黒人がプレイすることは所詮無理なのか??
脅迫めいた手紙まで届きます。
デビュー5戦目でやっとヒット。
しかし、相手チームはジャッキーを選手として認めませんでした。
あからさまな差別の罵声・・・しかも、チームメイトは知らん顔!!
グラウンドに味方は誰一人いませんでした。
「拷問にかけられた気持ちになった
こんな実験はうまくいくはずがないと思った」byジャッキー・ロビンソン
だが、ジャッキーはやけを起こしてはすべてが台無しになると、必死に踏みとどまります。
そんな夫の姿をスタンドから見守るレイチェル・・・
ヤジを飛ばす白人の中で、祈り続けました。
「お願い・・・耐えて!!」
そして家では、疲れ果てて帰ってくるジャッキーを優しく包み込みました。
「黒人だからと不当な扱いをしてくる毒薬に対して、彼女は強力な解毒剤だった」byジャッキー・ロビンソン
ジャッキーは、次第に実力を発揮し始めます。
俊足を生かして塁上を駆け回り、何度もチームを勝利に導きました。
しかし、その俊敏な動きを白人たちは・・・黒い猫だ・・・と、差別的な表現をしました。
チームメイトとの距離が縮まることもありませんでした。
不快にさせることを恐れて、試合後のシャワーは誰もいなくなってから一人で浴びました。
相手チームからはますます目の敵にされました。
頭めがけて投げられる・・・激しくスパイクされる・・・それでもジャッキーは、リッキーの言葉を守って、只ひたむきにプレーしました。
打って、走って、チームの勝利に貢献する・・・
そんなジャッキーの姿に、ドジャースのファンが声援を送り始めます。
自分に向けられた白人たちの歓声を聞きながら、ジャッキーは感じていました。
「黒人選手がチームに勝利をもたらすならば、ファンにとって肌の色は関係がない!!」byジャッキー・ロビンソン
しかし、直接ジャッキーと向き合う選手たちにとって肌の色こそが嫌悪するものでした。
怒りを必死にこらえるジャッキー・・・すると、キャプテンのピー・ウィー・リースが、ジャッキーを抱き寄せました。
それを見た相手チームが言いました。
「貴様、ニガーの味方かよ!!恥を知れ!!」
リースは胸を張って言いました。
「ヤジりたけばヤジればいい
だけど、俺たちはここに野球をしに来てるんだ!!」byリース
チームは変わり始めていました。
シーズンも後半の8月・・・
ジャッキーが一塁を守っていると、ゴロを打った打者がジャッキーめがけて突進!!
右足をわざと踏みつけました。
倒れ込んだジャッキーのもとへ、チームメイト全員が駆け寄りそして叫びました。
「俺たちの仲間に何をしやがる!!」
ジャッキー・・・1年目は打率2割9分7厘、本塁打12本、29盗塁で盗塁王・・・!!
ドジャースリーグ優勝に貢献しました。
この年から設けられた第1回新人王に選出!!
それはメジャーリーグが黒人選手を認めた証でした。
すると、ジャッキーの後を追うように、他の球団でも次々と黒人選手が誕生しました。

メジャーでの活躍が2年を超えた1949年春、30歳の時・・・
リッキーはジャッキーに告げました。
「今や君は一本立ちした
あとは、君自身でやれば大丈夫だ」byリッキー
いつまでも黒人選手が卑屈な態度でプレーすることを常態化させてはならない・・・
ひとりの大リーガーとして、黒人選手のことをみんなが見られるように仕向けて行く・・・!!
そういう道のりを考えたときに、どこかである種のモデルチェンジを想定していました。
ジャッキーは、必要以上に我慢することを止めました。
判定に不服があれば抗議し、ヤジにはヤジで返す!!選手なら当たり前の行為でした。
こうした行為に反抗的だとの批判的な記事を書く記者もいました。
しかし、ジャッキーはその姿勢を変えませんでした。
崩れ始めた人種の壁が元に戻ることはないということを、ジャッキーは計算できました。
自分はひとりの大リーガーだということを、観客からも、周りの選手からも、認められることを望んでいました。
今やジャッキーは、肌の色ではなく、プレーそのものに注目が集まる存在となっていました。
ひとりの誇り高きメジャーリーガーとしてMVPにも輝き、6年連続で3割を超える打率を残しました。
そして、1955年秋・・・
「私の野球における最も素晴らしい経験のひとつ、ドジャースが最強のチームニューヨーク・ヤンキースを破って念願のワールドシリーズを制覇したのだ」
第一戦で見せたジャッキーのプレイ・・・ホームスチール!!
劣勢の中で試みたこの走塁が、チーム全体を活気づけたことを称賛されました。
この時、ジャッキー36歳!!
1956年秋、37歳の時に日米親善野球のために、ブルックリン・ドジャースが来日。
ジャッキーも4番打者として試合に出場します。
観客はもちろん、日本人選手は初の黒人メジャーリーガーに興味津々でした。
帰国後、ジャッキーに他球団へのトレード話が持ち上がります。
体力の衰えを自覚していたジャッキーは、それを拒否。
翌年1月には引退を表明・・・日本でのプレーが、現役最後となりました。
引退後、監督やコーチになることを夢見ていたジャッキー・・・
しかし、メジャーリーグは、黒人を選手としては認めても、指導者には向かないとみなしていました。
ジャッキーは、球界から去るしかありませんでした。
「白人は黒人の命令を受けないというバカげた見方がまかり通っている」byジャッキー・ロビンソン
ジャッキーは失望していました。
メジャーリーグには、人種統合を進める責任があると考えていましたが、黒人に監督をするチャンスさえ与えない・・・人種統合を拡大する姿勢が全く見えないと!!
この頃のアメリカは、差別撤廃を主張する黒人と、押さえつける白人との対立が激化。
非暴力を唱えるキング牧師が法の下の平等を求める公民権運動を率いていました。
引退後、ジャッキーは食品会社に勤務する傍ら、公民権運動の資金作りのために募金活動に積極的に参加します。
ジャッキーが現れると、黒人たちは列をなして寄付をしました。
黒人たちは訴え続けました。
アメリカは、能力のある特別な人間にだけ活躍の場を与えるようになったに過ぎない・・・
黒人全員には門戸が開かれていない・・・と。
1963年、44歳の時、公民権運動に参加する中で痛感していました。
「白人は昔に比べたら良くなったからと、お決まりの文句を口にして黒人を黙らせようとする」byジャッキー・ロビンソン

ジャッキーは、白人の力を借りずに黒人自身の手で扉を開くことが必要だと行動に移します。
1964年、黒人のための銀行・フリーダムナショナル銀行を創設。
家を建てようとしても、事業を起こそうとしても、黒人にお金を貸す銀行が少なかった時代・・・
黒人たちは、”私たちの銀行”と呼び、ジャッキーに感謝しました。
ジャッキーにはドジャースでプレイして土台を築いた自分のような恵まれた人間が、恵まれない黒人たちの地位向上のチャンスを作り出さないといけないという強い思いがありました。
そして、まだまだやるべきことはたくさんあると考えていました。
1972年10月、53歳の時・・・
銀行の役員として多忙な毎日を繰る中、ジャッキーは黒人メジャーリーガー誕生25周年を祝う試合に家族とともに招かれました。
ジャッキーの引退後、この時はまだ黒人メジャーリーグ監督は誕生していませんでした。
式典の最後にジャッキーはスピーチしました。
「いつの日か、黒人が監督として三塁コーチャーズボックスに立ち、陣頭指揮を執る姿を見られたら、無上の喜びを感じると思う」byジャッキー・ロビンソン
しかし、その光景を見ることはありませんでした。
わずか9日後の1972年10月24日、ジャッキーは心臓発作で帰らぬ人となりました。
53歳の若さでした。
ジャッキーの墓石には、彼がいつも口にしていた言葉が刻まれました。
「人生というのは他の人の人生に少し絵も影響を与えない限り意義あるものではなくなる」byジャッキー・ロビンソン
1997年4月15日・・・ジャッキーのデビュー50周年記念式典に・・・メジャーリーグは、彼の背番号42を全球団の永久欠番にすると発表しました。
そして、2004年、ジャッキーが初めて試合に出た4月15日を「ジャッキー・ロビンソンデー」に制定。
今では、全球団の全選手、監督コーチが42番をつけてプレーする人なっています。
妻のレイチェルは・・・
「最初の黒人メジャーリーガーとして、過剰に取り上げられることをジャッキーは喜ばない
こんないい選手がいたとだけ記憶してもらえるようになることを望んでいると思います」
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その人種の壁を打ち破り、ブルックリン・ドジャーズで黒人メジャーリーガーとなったのが、ジャッキー・ロビンソンです。
「出来るかどうかわからないが、黒人たちのためにやらなければならないことだけはわかった」byジャッキー・ロビンソン
内野手だったジャッキーは、打っては3割、盗塁も決める俊足、将来を期待されたプレイヤーでした。
ところがグラウンドに出ると・・・浴びせられたのは黒人を差別する罵声でした。
さらに、強迫の手紙まで送りつけられました。
しかし、ジャッキーは感情を出さずにプレイ、どんなに差別を受けても反抗せずに堪えました。
それが彼に課せられた試練・・・”やり返さない勇気”でした。
ジャッキーのひたむきな姿は、選手だけでなく、観客の心も徐々に変えていきます。
「黒人選手がチームに勝利をもたらすならば、ファンにとって肌の色は関係がない」byジャッキー・ロビンソン
好成績を残すジャッキーは、やがて人種を問わず、メジャーリーガーとして憧れの存在になっていきます。
しかし・・・引退後にも差別の壁が待っていました。
希望していたコーチや監督になれずに球界を去ることになります。
それでもジャッキーは歩みを止めず、黒人の地位向上のために奔走します。
球界、アメリカ社会をも変えていきます。
20世紀、奴隷制度は無くなっていましたが、人種隔離政策という形で差別意識が渦巻くアメリカ・・・
その意識は、プロスポーツでも根強く、黒人が白人と同じ舞台でプレイすることは制限こそされていないが、ありえないとされていました。
アメリカを代表とするスポーツ・ベースボール・・・
最高峰とされていたメジャーリーグは、その最たるものでした。
矛盾に満ちた世界で育ったジャッキーは、どうしてプロ野球選手となったのでしょうか??
1919年、アメリカ南部ジョージア州で、5人兄弟の末っ子として生まれました。
祖父は、アフリカから連れてこられた奴隷・・・
南部の綿花畑に送り込まれ、長時間労働や暴力は当たり前、家畜のような扱いでした。
ジャッキーが生まれた頃、奴隷制度は廃止されていましたが、南部11の州では人種隔離政策という形で、交通機関など様々なところが白人専用と有色人種専用に分けられていました。
ジャッキーが生まれたジョージア州もそうした黒人差別が根強いところでした。
南北戦争が終わって、奴隷制度が廃止され、人種に対する流れが変わりました。
しかし、いつの間にか消え、黒人は法的な保護から外されてしまったのです。
そこから隔離が始まったのです。
差別は20世紀以降も変わることはなく、黒人たちは危険と隣り合わせの生活でした。
父は、祖父と同様綿花畑で働き、月給はわずか12ドル(現在の27,000円)家族6人を養うため、長時間の農作業に勤しみました。
しかし・・・過酷な農作業に疲れ果て・・・1920年、1歳の時に父が消息不明に。
母マリーは、自身の兄を頼り、子供達と共にカリフォルニア州に向かいます。
ひとりで5人の子供を育てるため、母は家政婦として早朝から働きづめでした。
それでも月給はわずか8ドル(現在の18,000円)・・・
水とパンだけという日も多かったのです。
1927年、ジャッキー8歳の時、生涯忘れられない体験をします。
家の外を掃除しているときのこと・・・ジャッキーの姿を見た隣の家の白人少女が・・・
「ニガー!ニガー!」
と、黒人を差別する言葉で罵ってきました。
それに対してジャッキーは、
「クラッカー!!」
と応戦します。
クラッカーとは、貧乏で無学という白人を侮辱する言葉でした。
それを聞いた少女の父親が激怒!!
二人は激しく石をぶつけあったといいます。
その後も、隣人は、物音がうるさいなど、ことあるごとに難癖をつけてきました。
しかし、母は・・・
「白人に対して卑屈にならず、誇りを持ちなさい
家族に恥をかかせることで、自分の人種に恥をかかせることになる」by母
ジャッキーを諭し続けました。
しかし、10代になると、地元の少年たちとつるんでいたずらを・・・
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スポーツで秀でていたジャッキーは、黒人でありながら多くの大学でスカウト・・・
中でもスポーツの名門UCLAに進学を決めます。
大学でも、陸上や野球など、4競技で活躍していたジャッキー・・・
しかし、2年で大学を中退します。
このまま大学を卒業しても、プロの世界では黒人は白人と一緒にプレイできず、活動の舞台は制限されていました。
差別感情は、北部、南部問わず根強く残っていました。
将来のことを考えたジャッキーは、大学を去ることを決め、コーチになりたいという夢を叶えるために、政府の青少年局で子供たちにスポーツを教える職に就きました。
1942年、23歳の時・・・第2次世界大戦勃発で事業が停止。
23歳のジャッキーは陸軍に召集され、アメリカ国民としての使命を喜んで果たすつもりでいました。
しかし、そこでもあからさまな差別が横行していました。
アメリカ軍は、基地内に差別はないというのが建前です。
しかし、人々の習慣に対して、法と尊厳で挑戦しました。
黒人に対して差別をしてはいけないという基本の知識を持っていたからです。
1944年、25歳の時に軍隊に嫌気がさして除隊。
スポーツでも軍隊でも差別される現実をまざまざと見せつけられたジャッキー・・・
しかし、ある黒人との出会いがその後の人生を変えることになります。
彼は二グロリーグの球団・カンザスシティーモナークスの投手でした。
二グロリーグとは、1920年に黒人の、黒人による、黒人のためのリーグとして確立。
14球団で競い合っていました。
メジャーリーグほどの待遇ではないものの、プロとして給料をもらうことができました。
「野球はすごくお金を稼げるし、戦争で選手が足りず、新しい選手を探しているんだ」byモナークスの投手
ジャッキーは、二グロリーグの存在は知っていたものの、入り方も待遇も知りませんでした。
誘いを受け、すぐに球団に手紙を書き、カンザスシティーモナークスのテストを受けました。
そして、1945年春、結果は合格!!
なんと、月給400ドル(現在の価値約90万円)で契約することとなりました。
父が農園で貰っていた月給は12ドル、母が家政婦としてもらっていたのが8ドル・・・それを考えると、破格の給料でした。
こうして黒人チームのプロ選手としての人生が始まりました。
この時、ジャッキー26歳!!
二グロリーグに身を投じたジャッキーは、ショートレギュラーとして開幕戦から大活躍!!
順調なスタートを切りました。
そんなある日、白人しかいないメジャーリーグのチームから球団の誘いが来ました。
後に偉大なる実験と称される黒人メジャーリーガー誕生の挑戦です。
しかし、黒人がメジャーリーグで活躍することは誰も考えられないことでした。
そんな困難が予想されるような状況に、どうして挑戦したのでしょうか??
1945年、26歳、二グロリーグでプレイできることに胸を弾ませていました。
何故なら、二グロリーグにも、年間100勝以上を上げた伝説の投手サチェル・ぺイジや、通算900本以上のホームランを打ったジョシュ・ギブソンなど、スター選手が大勢いたのです。
しかし、すぐに過酷な労働環境を知ることになります。
二グロリーグは、黒人による黒人のための娯楽・・・
収入が低い観客が多く、高い入場料は取れません。
それを補うため、各地を転戦し、膨大な数の試合をこなすしかありませんでした。
移動はすべて古びたボロボロのバス・・・
人種隔離政策のない地域さえ、黒人だという理由でレストランもホテルも断られ、食べるのも寝るのもバスの中でした。
「金を稼ぐ方法としては、随分みじめなことのように思えた」byジャッキー・ロビンソン
二グロリーグの対応はひどく、メジャーリーグとは大きな差があったのです。
メジャーリーグは、野球選手憧れの舞台・・・
下部組織にはマイナー組織があり、そのすべての球団に黒人はひとりもいませんでした。
そんな中、運命を変える人物が現れました。
それが、メジャーリーグ球団ブルックリンドジャースの会長リッキーでした。
リッキーは、当時悩んでいました。
アメリカは、第二次世界大戦のさ中、若い男性を大勢戦争にとられ、白人選手が不足していました。
リッキーはその解決策に、黒人選手に注目したのです。
二グロリーグにも、スター選手は大勢いました。
チームに黒人選手が加われば、黒人の観客も呼び込むことができ、経営的にも潤うのではないか??という思惑がありました。
さらに、リッキーが黒人選手を必要としたのは・・・
リッキーはかつて、学生時代のコーチ時代に、遠征先で黒人選手の宿泊を拒否されたことがありました。
懸命に説得し、なんとか自分の部屋に泣かせることを許可を得ました。
するとその夜、若き黒人選手が、ベッドの上で泣きながら手をかきむしり始めました。
「この黒い手です
手が白ければ私だってみんなと同じようにやれるんです
そうでしょう、リッキーさん、白くさえあったら・・・」
経営者としてだけでなく、ひとりの人間としてメジャーリーグへの黒人選手参加を望んでいました。
後に、”偉大なる実験”と呼ばれるリッキーの提案でしたが、当時、球団は大反対でした。
それでも、リッキーは説得しました。
「メジャーリーグに黒人を入れてはならないというルールなどない
観客が増え、球団が潤うだろう」byリッキー
そして、リッキーは候補者の中からリッキーに声をかけました。
「メジャーリーグでプレーしてみないか?」byリッキー
ジャッキーは感激し、驚き、言葉が出ませんでした。
「メジャーリーグでプレーすることができるかね?」byリッキー
頷くのがやっとでした。
突然リッキーは、
「君はどんな事態が起きようとも、怒りを抑えてプレーする勇気があるかね?」byリッキー
「やり返す勇気のない選手になれということですか?」byジャッキー・ロビンソン
「そではない
やり返さない勇気を持った選手になるんだ!!」byリッキー
さらには、予想される差別行為を敢えて演じて見せました。
挑発に乗れば敵の思うつぼだと、力説しました。
それは、負けん気の強いジャッキーにとっては耐えがたいものでした。
「出来るかどうかわからないが、黒人たちのためにやらなければならないことだけはわかった
実験に失敗すれば、私に続く黒人たちのチャンスをつぶしてしまう」byジャッキー・ロビンソン
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ジャッキーは、黒人の未来のために全てを飲み込みました。
そして、戦争が終わった直後・・・
1945年10月23日、ドジャースの下部組織モントリオール・ロイヤルズに入団。
瞬く間に、全米を揺るがす大ニュースとなりました。
しかし、そのほとんどが否定的なものでした。
「私は何があっても必死で闘うしかない!!」byジャッキー・ロビンソン
26歳のジャッキー・・・決意は固まっていました。
偉大なる実験に挑んだジャッキー・ロビンソンは、闘志あふれるプレーで観客を魅了します。
一流選手の証であるオールスター戦出場を6年連続果たします。
1946年2月、27歳の時・・・
野球シーズンが始まる年に結婚式をあげました。
伴侶となるレイチェルとは大学時代に親友の紹介で出会いました。
その時のたがいの印象は・・・
「肌の色が分かるように白いシャツを着ていて、黒人であることに誇りを持っているジャッキーに魅力を感じたわ」byレイチェル
「見た目とチャーミングさにすぐに惹かれたよ
理解力のある彼女に、なんでも話すことができたの嬉しかった」byジャッキー・ロビンソン
それ以来、互いに理解し合い、愛を育んできたふたり・・・ふたりはこれから待ち受ける厳しい試練を一緒に乗り越えていこうと誓いあいました。
第1段階・・・マイナーリーグ・・・
ここで、打率3割4分9厘で首位打者に輝き、リーグ優勝に貢献します。
しかも、チームの観客動員数は最多記録を樹立しました。
文句のない成績を残したジャッキー・・・リッキーは、メジャーリーグ昇格へGoサインを出しました。
実験はいよいよ本番に入りました。
1947年4月15日、メジャーリーグ開幕!!
全米中が注目する中、ブルックリンドジャース・背番号42をつけた黒人初のメジャーリーガーとしてグラウンドに立ちました。
スタンドは超満員!!その半数以上が黒人でした。
2番ファーストで先発出場!!
しかし、いいところなく途中降板・・・その後、20打席連続ノーヒット!!
黒人たちが落胆する一方で、白人たちのジャッキーへの侮辱は勢いを増します。
国民的娯楽である野球・・・その最高峰メジャーリーグで黒人がプレイすることは所詮無理なのか??
脅迫めいた手紙まで届きます。
デビュー5戦目でやっとヒット。
しかし、相手チームはジャッキーを選手として認めませんでした。
あからさまな差別の罵声・・・しかも、チームメイトは知らん顔!!
グラウンドに味方は誰一人いませんでした。
「拷問にかけられた気持ちになった
こんな実験はうまくいくはずがないと思った」byジャッキー・ロビンソン
だが、ジャッキーはやけを起こしてはすべてが台無しになると、必死に踏みとどまります。
そんな夫の姿をスタンドから見守るレイチェル・・・
ヤジを飛ばす白人の中で、祈り続けました。
「お願い・・・耐えて!!」
そして家では、疲れ果てて帰ってくるジャッキーを優しく包み込みました。
「黒人だからと不当な扱いをしてくる毒薬に対して、彼女は強力な解毒剤だった」byジャッキー・ロビンソン
ジャッキーは、次第に実力を発揮し始めます。
俊足を生かして塁上を駆け回り、何度もチームを勝利に導きました。
しかし、その俊敏な動きを白人たちは・・・黒い猫だ・・・と、差別的な表現をしました。
チームメイトとの距離が縮まることもありませんでした。
不快にさせることを恐れて、試合後のシャワーは誰もいなくなってから一人で浴びました。
相手チームからはますます目の敵にされました。
頭めがけて投げられる・・・激しくスパイクされる・・・それでもジャッキーは、リッキーの言葉を守って、只ひたむきにプレーしました。
打って、走って、チームの勝利に貢献する・・・
そんなジャッキーの姿に、ドジャースのファンが声援を送り始めます。
自分に向けられた白人たちの歓声を聞きながら、ジャッキーは感じていました。
「黒人選手がチームに勝利をもたらすならば、ファンにとって肌の色は関係がない!!」byジャッキー・ロビンソン
しかし、直接ジャッキーと向き合う選手たちにとって肌の色こそが嫌悪するものでした。
怒りを必死にこらえるジャッキー・・・すると、キャプテンのピー・ウィー・リースが、ジャッキーを抱き寄せました。
それを見た相手チームが言いました。
「貴様、ニガーの味方かよ!!恥を知れ!!」
リースは胸を張って言いました。
「ヤジりたけばヤジればいい
だけど、俺たちはここに野球をしに来てるんだ!!」byリース
チームは変わり始めていました。
シーズンも後半の8月・・・
ジャッキーが一塁を守っていると、ゴロを打った打者がジャッキーめがけて突進!!
右足をわざと踏みつけました。
倒れ込んだジャッキーのもとへ、チームメイト全員が駆け寄りそして叫びました。
「俺たちの仲間に何をしやがる!!」
ジャッキー・・・1年目は打率2割9分7厘、本塁打12本、29盗塁で盗塁王・・・!!
ドジャースリーグ優勝に貢献しました。
この年から設けられた第1回新人王に選出!!
それはメジャーリーグが黒人選手を認めた証でした。
すると、ジャッキーの後を追うように、他の球団でも次々と黒人選手が誕生しました。
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メジャーでの活躍が2年を超えた1949年春、30歳の時・・・
リッキーはジャッキーに告げました。
「今や君は一本立ちした
あとは、君自身でやれば大丈夫だ」byリッキー
いつまでも黒人選手が卑屈な態度でプレーすることを常態化させてはならない・・・
ひとりの大リーガーとして、黒人選手のことをみんなが見られるように仕向けて行く・・・!!
そういう道のりを考えたときに、どこかである種のモデルチェンジを想定していました。
ジャッキーは、必要以上に我慢することを止めました。
判定に不服があれば抗議し、ヤジにはヤジで返す!!選手なら当たり前の行為でした。
こうした行為に反抗的だとの批判的な記事を書く記者もいました。
しかし、ジャッキーはその姿勢を変えませんでした。
崩れ始めた人種の壁が元に戻ることはないということを、ジャッキーは計算できました。
自分はひとりの大リーガーだということを、観客からも、周りの選手からも、認められることを望んでいました。
今やジャッキーは、肌の色ではなく、プレーそのものに注目が集まる存在となっていました。
ひとりの誇り高きメジャーリーガーとしてMVPにも輝き、6年連続で3割を超える打率を残しました。
そして、1955年秋・・・
「私の野球における最も素晴らしい経験のひとつ、ドジャースが最強のチームニューヨーク・ヤンキースを破って念願のワールドシリーズを制覇したのだ」
第一戦で見せたジャッキーのプレイ・・・ホームスチール!!
劣勢の中で試みたこの走塁が、チーム全体を活気づけたことを称賛されました。
この時、ジャッキー36歳!!
1956年秋、37歳の時に日米親善野球のために、ブルックリン・ドジャースが来日。
ジャッキーも4番打者として試合に出場します。
観客はもちろん、日本人選手は初の黒人メジャーリーガーに興味津々でした。
帰国後、ジャッキーに他球団へのトレード話が持ち上がります。
体力の衰えを自覚していたジャッキーは、それを拒否。
翌年1月には引退を表明・・・日本でのプレーが、現役最後となりました。
引退後、監督やコーチになることを夢見ていたジャッキー・・・
しかし、メジャーリーグは、黒人を選手としては認めても、指導者には向かないとみなしていました。
ジャッキーは、球界から去るしかありませんでした。
「白人は黒人の命令を受けないというバカげた見方がまかり通っている」byジャッキー・ロビンソン
ジャッキーは失望していました。
メジャーリーグには、人種統合を進める責任があると考えていましたが、黒人に監督をするチャンスさえ与えない・・・人種統合を拡大する姿勢が全く見えないと!!
この頃のアメリカは、差別撤廃を主張する黒人と、押さえつける白人との対立が激化。
非暴力を唱えるキング牧師が法の下の平等を求める公民権運動を率いていました。
引退後、ジャッキーは食品会社に勤務する傍ら、公民権運動の資金作りのために募金活動に積極的に参加します。
ジャッキーが現れると、黒人たちは列をなして寄付をしました。
黒人たちは訴え続けました。
アメリカは、能力のある特別な人間にだけ活躍の場を与えるようになったに過ぎない・・・
黒人全員には門戸が開かれていない・・・と。
1963年、44歳の時、公民権運動に参加する中で痛感していました。
「白人は昔に比べたら良くなったからと、お決まりの文句を口にして黒人を黙らせようとする」byジャッキー・ロビンソン
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ジャッキーは、白人の力を借りずに黒人自身の手で扉を開くことが必要だと行動に移します。
1964年、黒人のための銀行・フリーダムナショナル銀行を創設。
家を建てようとしても、事業を起こそうとしても、黒人にお金を貸す銀行が少なかった時代・・・
黒人たちは、”私たちの銀行”と呼び、ジャッキーに感謝しました。
ジャッキーにはドジャースでプレイして土台を築いた自分のような恵まれた人間が、恵まれない黒人たちの地位向上のチャンスを作り出さないといけないという強い思いがありました。
そして、まだまだやるべきことはたくさんあると考えていました。
1972年10月、53歳の時・・・
銀行の役員として多忙な毎日を繰る中、ジャッキーは黒人メジャーリーガー誕生25周年を祝う試合に家族とともに招かれました。
ジャッキーの引退後、この時はまだ黒人メジャーリーグ監督は誕生していませんでした。
式典の最後にジャッキーはスピーチしました。
「いつの日か、黒人が監督として三塁コーチャーズボックスに立ち、陣頭指揮を執る姿を見られたら、無上の喜びを感じると思う」byジャッキー・ロビンソン
しかし、その光景を見ることはありませんでした。
わずか9日後の1972年10月24日、ジャッキーは心臓発作で帰らぬ人となりました。
53歳の若さでした。
ジャッキーの墓石には、彼がいつも口にしていた言葉が刻まれました。
「人生というのは他の人の人生に少し絵も影響を与えない限り意義あるものではなくなる」byジャッキー・ロビンソン
1997年4月15日・・・ジャッキーのデビュー50周年記念式典に・・・メジャーリーグは、彼の背番号42を全球団の永久欠番にすると発表しました。
そして、2004年、ジャッキーが初めて試合に出た4月15日を「ジャッキー・ロビンソンデー」に制定。
今では、全球団の全選手、監督コーチが42番をつけてプレーする人なっています。
妻のレイチェルは・・・
「最初の黒人メジャーリーガーとして、過剰に取り上げられることをジャッキーは喜ばない
こんないい選手がいたとだけ記憶してもらえるようになることを望んでいると思います」
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