日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

東京・日本橋・・・その中で、350年以上もの歴史を持つ老舗が日本橋三越本店です。
平成28年5月には、我が国の歴史を象徴する百貨店として、国の重要文化財に指定されました。
その前身こそが、三井越後屋です。

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日本橋は、徳川家康が江戸に入府後、最初に区画整理を行った場所です。
1604年には、五街道の拠点と定められ、道路が整備されました。
交通網が発達したことで、江戸の町には多く人が集まってくるようになりました。
天下普請によって、江戸城築城などの公共事業で職人たちがたくさん江戸に入ってきました。
そして、参勤交代によって全国の大名とその家臣たちが暮らすようになり、江戸の人口は急激に増加しました。
しかし、江戸は新興都市だったため、食料、衣類も生産力が低く、人口増加に対して供給が追い付きません。
その為、人々の暮らしを支える日用品は、それまで経済の中心だった大坂や京都などの上方からの下りものが頼りでした。
上方商人が、続々と江戸へ進出し、活躍します。
彼らは上方を本拠地とし、江戸に支店を持っていたことから「江戸店持ちの上方商人」と言われました。

三井越後屋の創業者・三井高利もそのひとりでした。
伊勢国松坂で商いを営む家に生まれた高利は、たぐいまれな商才を発揮し、家業を拡張していきます。
そして、1673年、新規開拓を目指し江戸に進出。
江戸随一の呉服街だった日本橋本町に小さな呉服棚「三井越後屋」を開きます。
この時、高利52歳!!

伊勢を本拠にし、江戸に新たな店舗を開いた三井高利でしたが、なじみの客もおらず悩んでいました。
そんな三井越後屋が江戸で始めた画期的な商法とは・・・??

①店先売り・・・店頭販売です。
当時の商いは、訪問販売が普通でした。
商人が客の屋敷まで商品を持参して販売する”屋敷売り”や、注文を取った後で商品を届ける”見世物商い”を行っていました。
江戸に得意先がなかった越後屋は、お客さんの方から店に来てもらいそこで買い物をしてもらおうと考えたのです。
この斬新さが目を引き、通りがかりの人を次々と引き込んでいきました。

暮れの押し迫った江戸の町・・・忙しく走り回る商人の姿が・・・??
江戸時代は一般的につけ払いでした。
商人たちはその代金を回収するため、家々を回っていました。
支払いは盆と正月の二節季払いか、年末のみの極月払いでした。
場合によっては貸し倒れになったり、資金の回転も悪くなっていました。
当時は掛け値で、実際の販売価格よりも値段を高くつけておいて、客が値引き交渉で値を下げていくのが習わしでした。
しかし、越後屋はその常識をも覆します。

②現金掛け値なし
定価制にして現金で払います。
その代わり、安く買えるというものでした。
当時では、呉服の知識、交渉力がなければ、呉服を買いづらかったのです。
それを決めることで、誰でも呉服が帰るようになりました。
掛け値なしの定価売りは、当時の世界の商業市場からしても画期的なことでした。
定価をつけて売ったことで、越後屋はお客に正直、越後屋で買うとお得という噂が広まり、時には順番待ちになるほど客が押し寄せました。

「新法を工夫すること」by高利

その言葉通り、越後屋はさらに確信的な新商法を生み出していきます。

③切り売り
当時、高級な呉服を買うのは、中流以上の武士がほとんどでした。
呉服棚では、呉服一反売りをするのが当たり前でした。
そんな中、越後屋は客の求めに応じて、どんな長さでも切って売る切り売り販売を始めます。
切り売りは、手間がかかるうえに儲けが少ないと、呉服棚は及び腰・・・
それを敢えて行ったのです。
良い生地を好きな分だけ買えるとあって、今まで手が出せなかった庶民にまで客層を広めることに成功しました。
さらに越後屋は、オーダーメイドシステムを導入。
当時、呉服棚は生地を販売するだけで、仕立ては客自身が仕立て屋に発注しなければなりませんでした。
そこで越後屋は、胆物を買ってもらえれば仕立てまで責任を持ち、出来上がったものを客に納めたのです。
まさに、現代の呉服店の走りでした。
こうして従来のやり方を廃した斬新な商法で、三井越後屋は大繁盛となりました。

常識にとらわれない新商法で、江戸の人々を取り込んでいく三井越後屋。
当然、その成功を妬む商人たちも少なくありませんでした。
三井の「商売記」によると、わざと厠を越後屋の台所に向けて作ったり、新商法を差し止めるべく幕府に訴訟を起こしたりする者までいました。
さらには、浪人を雇って夜中に火薬を仕掛けて店を奉公人もろとも全滅させるという脅迫状がまかれたとも伝えられています。
こうした様々な嫌がらせを受けても、着実に業績を伸ばしていった越後屋・・・
江戸に店を開いて10年目・・・同じ日本橋の駿河町に移転し、店を拡大します。
客はますます増えて行きました。
その4年後には、幕府の御用商人となります。
幕府という絶大な後ろ盾が就いたことで、エスカレートしていた嫌がらせは治まりました。

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やがて、他の呉服棚も、こぞって現金掛け値なし、店先売り商法を真似し始めます。

「まねされることは利益」by高利

対従者が増えることが、越後屋の名が高まるので返って利益になるというものでした。
これによって、同業者同士の競争は激化!!
宝永年間には、ライバルだった大黒屋との安売り競争に突入します。
越後屋は薄利多売に徹し、大黒屋を圧倒しました。
それまでの商人は、毎年同じように仕入れるのが当たり前でした。
高利は、それに対して安く仕入れられるものがあれば大量に仕入れて、その値段に合わせて定価を細かく調整しました。
それによって薄利多売を進めることができたのです。
その後、恵比寿屋と亀屋が新装開店、この時は客をとられないようにとすぐにその近くに支店を設け、安売りで対応しました。
越後屋は、見事ピンチをチャンスに変えたのです。

「一に富士 二には三井を ほめてゆき」

江戸の中心地・日本橋を訪れた人々は、まず正面に見える雄大なふじの姿を褒め、その後三井越後屋を讃えました。
こんな川柳が詠まれるほど、越後屋は大きくなりました。
しかし、繁盛の秘密は、現金掛け値なし、店先売りといった斬新な商法だけでなく、働く人にもありました。
そこには巧みな人材育成がありました。
江戸時代のはじめ、商店の多くは家族経営による小規模なものでした。
しかし、呉服棚は仕入れから販売までを手掛けるため、多くの働き手が必要でした。
越後屋も、奉公人を多く雇い入れ、住み込みで働かせていました。
奉公人の大半は、上方の出身で、江戸本店だけで最大1000人以上!!
その修行の道は大変で・・・13歳ぐらいで奉公に上がり、お仕着せと呼ばれる揃いの着物が与えられます。
子供と称される彼らは、住み込みで様々な雑務をこなしながら、ソロバンや符牒を学んでいきます。
符牒家茂とは、その店だけで使える暗号のようなものです。
17歳になると元服、手代になり、営業職の第一線で働くようになります。
手代といっても多くの階級に分かれていて、その後、20代後半で名目役手代という役付きになります。
支配になるとようやく住み込みではなく、家持ちで結婚できるようになります。
ここまで来るのに25,6年・・・40歳ごろまでかかりました。
しかし、この長い住み込みの修行に絶えられず、5人に2人は手代になる前に辞めてしまいました。

そこで、三井越後屋は少しでも離職者を減らそうと、様々な福利厚生を用意しました。

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奉公人対策①福利厚生
人を大事にした越後屋は、奉公人の健康管理にも配慮。
健康診断はもちろん、針や灸、温泉での湯治まで・・・
伊勢参りや芝居見物など、四季折々の慰労を実施します。

さらに、奉公人を引き止めるため・・・
奉公人対策②ボーナス
住み込みの時には、着るものも食事も支給されるので、給料は存在しません。
そこで越後屋は、褒美・・・ボーナスを配りました。
さらに、元手金と呼ばれる退職金も支給しました。
元手金は、長く勤めれば長く勤めるほど多くもらえるようになっていました。
優秀な奉公人が越後屋を辞めて自分の商売に専念しようとするのを出来るだけ防ごうとしたのです。
越後屋は、独立後も彼らを重役として経営に参加させました。
今でいう取地小屋締役の地位に当たる元締めです。
これが出世クラスの頂点で、長年経験を積んだ手代から選ばれました。
この頃には奉公人は60歳・・・
なんとも長い道のりですが、努力と才覚次第で誰でも経営の実権を握ることができました。

越後屋には査定表もあり、販売成績などを記録していました。
これによって褒美の額も決まったといいます。
今と全く変わりませんでした。

三井越後屋では、客へのサービスを徹底させるため、様々な規則を設けていました。

・子供はすぐに煙草を出し、火入れや茶を用意すること
・客の目の前には立たないこと
・手隙の際は売り場で行儀よく待機すること

こうした接客サービスには、創業者・三井高利の母の影響があったといわれています。

高利の父は松坂に居を構え、酒や味噌を扱う商いをしていました。
しかし、あまり商売熱心ではなく、もっぱら連歌や俳句などの趣味に没頭していました。
その為、店を切り盛りし、実質的に支えていたのは商才に長けていた母の殊法でした。
酒や味噌を買いに来た客には、自らお茶や煙草を出し、時には食事まで振る舞うなどサービス精神にあふれていました。
30両もの大金が入った財布を見つけた際には、すぐに人を走らせて届けさせたといいます。
客を大事にし、真摯に接する・・・そんな母の商いを高利は小さい頃からずっと見てきたのです。

高利は商人についてこう言っています。

「成功すると勤勉を忘れつぶれてしまう」by高利

高利は気配りのできる真面目な男でした。
珍味があれば、わずかでも奉公人全員に分け与えたのです。
商売以外の道楽は不要と、事業に打ち込み、人を知ることを好みました。
この人を知るという精神こそが、越後屋のモットー。
奉公人たちもみな、客がやってきて腰掛けるまでに、その出身地、性格までわかったといいます。

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三井高利と同時代に生きた井原西鶴・・・
実在の商人たちをモデルにした世界初の経済小説「日本永代蔵」の中で、高利を”大商人の手本””世の重宝”と絶賛!!
倹約と勤勉、そして、人を大事にした高利は、一代でその資産をおよそ7万2000両(720億円)にまで増やしました。
それは、幕府の1年分の歳入の6%の当たる大金でした。

看板は、商いの顔でした。
江戸で看板が商いの顔として大きく発展したのは、町の大半を焼き尽くした明暦の大火の後のことでした。
消失した店舗を再建する際に、今に続く様々な看板が登場しました。
通行人にすぐに気付いてもらえるように店先に突き出た建看板、四方に文字の書ける箱看板、夜間でも目立つように提灯看板、立掛看板・・・看板を終うとお店は終わりでした。
どの店もこぞって看板を出すようになると、少しでも目立つようにと個性が出てきます。
その代表が、判じ物看板・・・絵解きなぞなぞです。
こうした看板は、ダジャレ好きな江戸っ子に大人気でした。

江戸随一の大店となった三井越後屋。
その宣伝方法とは??
引き札です。
客を引き込むというのがその名の由来です。
今でいうところのチラシでした。
最大の利点は、様々な情報を文字にして書けることでした。

・呉服はすべて掛け値なしの正札で販売いたします
・安い価格の為、値引きできません
・現金でお支払いいただき、掛け売りも配達も致しません

これを江戸中の長屋に配りました。
効果は絶大!!
元手はかかりましたが、大儲けに寄与しました。
やがて芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両と言われるほどの活気を見せました。

さらに越後屋は、ビジュアルメディアも活用します。
錦絵です。
版元に金を払って人気の美人画を描かせます。
艶やかさを競う美女たちの後ろには越後屋が・・・
身にまとう着物はもちろん越後屋のもの・・・店だけでなく、商品も宣伝します。
ライバル店からも同様の錦絵が出されるほど大きな宣伝効果を生みました。

客に貸し出す傘・・・店の名前入りの傘でした。
暖簾印の入った番傘をお客さんに貸し出していました。
お客にとっても三井の傘は、今でいう高級ブランドの紙袋のようなものでした。

「よく節約をしなさい」
「堅実な商売をしなさい」

大店になってからも、常に自分たちを律する高利。
幕府御用を務めていると、幕府よりになってしまうが、三井はあくまでも商人であり、奢らずに商売の道を勉強しなければならない!!

1742年、江戸が大水害に見舞われました。
その際、越後屋は100両ほどの資金を出し、難民救済のために1000人分の握り飯を配ったといいます。
世のため人のため、その精神で越後屋は大きな信用を得て行ったのです。

「商いのもとは養生にあり」

高利はその言葉通り、73歳まで生き、11男5女をもうけました。
そして、高利の教えを受け継いだ子孫たちによって、三井越後屋は江戸時代を通し、大きな発展を遂げていったのです。

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1702年12月14日、大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七士が、江戸本所にあった吉良邸に討ち入りしました。
主君の仇である高家肝煎・吉良上野介義央の首を討ち取りました。
江戸の人々の関心を集めたこの仇討事件・・・
四十七士の切腹からわずか12日後には、一連の赤穂事件を題材にした演目が江戸中村座で上演されました。
そして、事件から46年後の1748年8月に、大坂で上演された人形浄瑠璃がお馴染み「仮名手本忠臣蔵」です。

赤穂浪士たちは忠義の士として称賛され、吉良上野介は意地悪で強欲な悪者、敵役・・・アンチヒーローとなってしまいました。
しかし、地元では名君として立てられている吉良上野介・・・いったいどんな人物だったのでしょうか?

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1701年3月14日午前9時30分ごろ・・・
江戸城では五代将軍・徳川綱吉が湯殿で身を清め、身支度を整えていました。
この日は、綱吉が朝廷の使者たちに返礼を述べる”勅使奉答の儀”が城内の白書院で行われる予定でした。
朝廷を重んじる綱吉は、家臣たちにも粗相のないようにときつく申し付けていました。
ところが・・・儀式が始まる直前の午前11時ごろ・・・
白書院から20mほどしか離れていない松の大廊下で前代未聞の事件が起こったのです。

「この間の遺恨 覚えたるか!!」

なんと、朝廷の使者たちをもてなす饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、その指南役である高家肝煎・吉良上野介義央に背後からいきなり斬りかかったのです。

「殿中でござるぞ!!」

内匠頭を止めたのは、直前まで上野介と儀式について話し合いをしていた旗本の梶川与惣兵衛・・・
事件の唯一の目撃者です。
梶川が必死で内匠頭を止めているうちに、騒ぎを聞きつけた者たちが松の大廊下に駆けつけ、傷を負った上野介は御医師之間に運ばれました。
上野介が負った傷の具合は・・・??
治療した医師は栗崎道有で、彼の日記によると、額の傷は3寸6分・・・13.6㎝ほどで骨にも傷がつきましたが、6針ほど縫って致命傷には至りませんでした。
背中の傷は、もっと浅く3針縫う程度で済みました。
殿中では大刀の帯刀が禁止されていたため、上野介を切りつけた刀が殺傷能力の低い小刀だったこと、切っ先が烏帽子の金具に当たったことなどが致命傷に至らなかったと思われています。
事件当時、上野介61歳、内匠頭35歳、どうして上野介は指南までしていた年下の内匠頭からいきなり斬りつけられてしまったのでしょうか?
この後、吉良は幕府の取り調べに対してこう答えています。

「なんの恨みも受けた覚えはない
 全く、浅野の乱心としか言いようがない」by吉良上野介

「お上に対しては何の恨みもないが、吉良には私なりの遺恨があった
 その為、前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」by浅野内匠頭

二人の供述は食い違っていましたが、将軍・綱吉が原を立てたのは内匠頭に対してでした。

「なぜ、大事な日に、しかも殿中で私怨を晴らさなければならなかったのか?」

この日、綱吉は敬愛する生母・桂昌院を従一位に昇進させるため、朝廷の使者に働きかけるつもりでいました。
これにケチがつけられたと怒りが倍増!!
そして、即日、内匠頭に切腹を言い渡すのです。
一方、上野介は一切お咎めなし!!
江戸時代は喧嘩両成敗が天下の大法になっていて、喧嘩をした者はいかなる理由があろうとも双方ともに切腹ということになっていたのに・・・!!

吉良上野介がお咎めなしとなったのは、浅野内匠頭を必死で止めた梶川与惣兵衛の証言が決め手だったと思われます。

「内匠頭殿に斬りかかられて、上野介殿は刀に手をかけなかった」by与惣兵衛

内匠頭の一方的な強硬であって喧嘩ではないと判断して、お咎めなしとしました。
さらに、将軍綱吉は上野介を、

「殿中をはばかり、手向かいしなかったこと殊勝である」by綱吉

と褒め称え、

「手傷はどうか、追々全快すれば心置きなく出勤して勤めよ
 老体のことであるから十分保養するように」by綱吉

と見舞いの言葉までかけました。

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どうして吉良上野介は将軍・綱吉から厚遇されたのでしょうか?
ひとつには、上野介の経歴にあります。
そもそも吉良家は、清和源氏・足利氏の庶流・・・名門です。
室町時代には、”御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ”といわれるほど高い家格を誇っていました。
そして江戸時代になると、上野介の祖父・吉良義弥が徳川幕府の儀式や祭礼を司り、朝廷との交渉・連絡役も務める高家に就任するのです。
高家は、徳川家康の時代に新設された役職で、2代将軍秀忠の時代に確立されました。
室町時代から続く由緒正しき名家だけが高家に選出されました。
今川家・上杉家・織田家・武田家・吉良家などです。
天皇とか公家に謁見することが多いので、総じて高家の官位は高く、吉良家が高家に選ばれたのは、「儀式などに関する武家の礼法」が、室町時代から伝わっていたことが大きかったのです。

原則高家は世襲制。
これを継いだ上野介の父は、吉良家代々の礼法を江戸時代に即した形にし、年中行事の際の服装や礼儀作法などを細かく規定、吉良流礼法と呼ばれ、他の大名家にも広く普及していきました。
そして、1641年吉良上野介が生まれます。
上野介もまた、高家になるための英才教育を受け、28歳で家督を相続します。
1680年に、徳川綱吉が将軍宣下を受けた際には、宣下の取次ぎを担当しました。
そして、43歳の時、高家の中でも特に礼儀作法に精通している3人のうちの一人に選ばれ、高家肝煎となるのです。
石高わずか4200石の旗本でしたが、官位は波の大名よりも高く、従四位上でした。
上野介が綱吉から厚遇されたのは、朝廷を重んじる綱吉にとって非常に大事な存在だったからだと思われます。

さらに、もうひとつの理由が血縁関係・・・
上野介は、米沢藩2代藩主・上杉定勝の娘を娶り、二男三女をもうけますが、三姫の兄で家督を継いでいた綱勝が跡継ぎを残さぬまま急死したため、上杉家が断絶の危機・・・
そこで、長男・三之助を養子に出すことになりました。
その後、4代藩主となった綱憲(三之助)は、紀州徳川家の栄姫と結婚。
栄姫の兄が綱吉の娘と結婚していたことから、遠縁ながらも親戚でした。
こうしたことから、厚遇された可能性もあります。

赤穂浪士たちを吉良邸討ち入りさせることとなった松の大廊下刃傷事件・・・
事件の原因は、内匠頭に対する恨みだったと考えられます。
その恨みとは・・・??これには二人の立場が関係していました。

事件が起こった時、内匠頭は朝廷の使者をもてなす饗応役を務めていました。
そして、その指南役だったのが、高家肝煎だった上野介だったのです。
饗応役を仰せつかった大名はみな、高家の指南を仰ぐことになっていました。
失敗を許されない大役だったので、大大名でも低頭して高家に教えを受けていました。
つまり、上野介の方が内匠頭より立場が上・・・
忠臣蔵などでは、権力をかさに着た上野介が内匠頭を理不尽な理由でとことんいじめ抜きます。
パワハラで恨みを買ったのだとされています。
そして、その理不尽な理由については、内匠頭が詳細を語らずに即日切腹してしまったので、様々な憶測が飛び交いました。

①横恋慕説
上野介が美人と評判の内匠頭の妻に横恋慕するもふられてしまったため、その腹いせにいじめたというものです。
しかし、当時の大名の奥方が、他家の男性と顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。
なので、全くの創作です。

②塩田スパイ説
昭和になってからの説で、上野介は赤穂藩の主産業である塩の制法を盗むために密偵を派遣。
しかし、見つかって殺されてしまったため、内匠頭を逆恨みして虐めた・・・??
赤穂の製塩法は特別なものではなく、秘密にもされていませんでした。
わざわざ密偵を送り込む必要はありませんでした。
そもそも、吉良家が産業として塩を作っていたという記録はありません。
なので、信ぴょう性は低いと思われます。

③賄賂説
最も広く知られているのが、賄賂説です。
内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった・・・もしくは賄賂の額が少なかったために、上野介が腹を立て、内匠頭を虐めるようになったというものです。
事件のあった元禄期に書かれた尾張藩士の日記「鸚鵡籠中記」にも記述があります。

”大名たちは、上野介に賄賂を贈り、様々なことを教えてもらっていた
 しかし、内匠頭は頑として賄賂を贈ろうとしなかった
 上野介はこれを不快に思い、嫌がらせをするようになった”

信憑性は高そうですが・・・
官位こそ高い上野介ですが、石高はわずか4200石の旗本です。
一方、内匠頭は赤穂藩5万石の大名です。
このようなときは、教えを受けた大名が、高家に相応の謝礼を払うのは武家社会の常識でした。
それをしなかった内匠頭の方が非常識とも言えます。
上野介がもらっていたのは、今でいうところの当然支払われるべき謝礼金だったのです。
実はこの頃、吉良家の財政は相当逼迫していたといわれ、謝礼金を払おうとしない内匠頭を上野介が快く思わなかった可能性は大いにあります。
そしてさらに、上野介が内匠頭に対する心証を悪くしたと思われるのが、儀式の予算です。
饗応役に任命された者は、接待にかかる費用を自費で負担しなければなりませんでした。
内匠頭は700両を・・・今のお金で7000万円ほどあれば足りるだろうと考えていました。
しかし、上野介は高家としての長年の経験から、最低でも1200両、1億2000万円は必要だと指南しましたが、内匠頭は頑としてこれを聞き入れませんでした。

高額な費用を自腹で出費するのは大変でしたが、上野介は嫌がらせでしたのではなく・・・
高家として当然の助言をしたにすぎません。
実際に、700両では全く足りず、内匠頭の見通しは甘かったのです。
こうしたことから上野介は不快に思い、厳しい態度をとるようになったようです。
「鸚鵡籠中記」には、上野介は老中の前でこんなことを言っていました。

「内匠頭殿は万事不調法で、言うべき言葉もありません
 公家衆も、御不快に思われています」by上野介

かなり辛辣で、内匠頭の面目は丸つぶれでした。

さらに、忠臣蔵では上野介は内匠頭に様々な嫌がらせをしています。
勅使たちの部屋に墨絵の屏風を置いた内匠頭に対し、何も問題はないのに
「勅使のお座敷に墨絵の屏風など失礼ではないか!」
と嘘を言い、金屏風に変えさせたり
勅使の宿坊は畳の張替えが必要なのを直前まで伝えず内匠頭を大慌てさせたり。
ウソを教える、必要な情報を教えないなど、露骨で悪質な嫌がらせを繰り返して、内匠頭を精神的に追い込んでいきます。
これが本当ならば、斬りつけられるのも仕方がない??

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武家社会の常識もわきまえず、助言にも耳を貸さない内匠頭に上野介が腹を立てて辛辣な態度をとったことはあったと思われます。
しかし、儀式を失敗させるような嫌がらせをしたとは考えにくいのです。

高家肝煎の上野介が、大事な儀式を失敗させるようなことをするわけがありません。
内匠頭が失敗すれば、指南役の上野介が恥をかくのです。
厳しく接していた可能性は高いものの、儀式を失敗させるような露骨な嫌がらせはしていませんでした。

では、どうして斬りつけられてしまったのでしょうか??
その理由は今もわかっていません。
しかし、謎を解くカギになりそうなのが、内匠頭が家臣たちに残した言葉・・・

「このようなことをするつもりがあれば知らせておいたのだが、今日、やむを得ない事情があってことを起こしたので、前もって知らせることが出来なかった」

つまり、殿中で上野介に斬りかかったのは、事前に計画していたのではなく、内匠頭の突発的なことだったと思われます。
内匠頭は生来とっても短期で、感情のコントロールが苦手だったともされています。
饗応役という大役のプレッシャーに加えて、上野介との関係の悪化、事件当日の気持ちが滅入るような曇天・・・
突発的に斬りかかってしまったのではないか??

内匠頭は、ストレスなどによって、腹部や胸部などに痛みが走る自律神経失調症のような持病があったといわれています。
事件に3日前にも薬を飲んでいたと当時の記録書に残されています。
饗応役という大役を務める緊張感、大きなストレスに加えて、天気のせいで落ち込んで情緒不安定となって突発的に事件を起こしてしまったのかもしれません。

1641年、江戸・鍛治橋で生まれた吉良上野介は、生涯を江戸で過ごしました。
しかし、旗本である吉良家は、三河国と上野国に、合計11カ所、4200石の領地を持っていました。
その中のひとつが、三河国の吉良荘・・・現在の愛知県西尾市吉良町です。
現在も、殿さまとして慕われています。

忠臣蔵の敵役・吉良上野介は、地元では今も昔も領民思いのお殿様でした。
その為、忠臣蔵の上映は、戦後までご法度でした。
吉良が悪人と言われることに対して、領民が非常に不愉快に思っていました。
吉良町には、上野介が施した数々の善政が伝えられています。

黄金堤は、川の氾濫に苦しむ領民を救うために、上野介が築かせたとされています。
お蔭で水害が無くなり、稲穂が黄金色に実ったことからその名がつけられたとか。
新田開発にも力を注いだといわれ、現在その地は、上野介の妻の名にちなんで、富好新田と言われています。
吉良家の菩提寺・華蔵寺・・・上野介が50歳の時に寄進したといわれる梵鐘が今も使われています。
さらに、愛用の茶道具が残されており、住職と茶を嗜んだといわれています。
上野介は早くから茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる千宗旦に弟子入り、上野介の上という字を分解した卜一という号を名乗り、独自の流派まで開いていました。
そんな上野介にとって、華蔵寺の庭園を眺めながら、お茶を点てるのは至福のひと時だったといいます。
領民思いのお殿様で、茶の湯を愛でる風流人・・・吉良町に伝わる上野介の姿は、忠臣蔵に描かれている天下の敵役とはかけ離れたものでした。
さらに、幻の書状と呼ばれていた書状が、2020年に見つかります。
朝廷との仕事で京都にいた上野介が、江戸にいた13歳の長女・鶴姫と5歳の次女・阿久里姫に宛てたもので、子供が読みやすいように仮名文字を多用しています。

ご機嫌よくお過ごしですか?
頑張って仕事を片付けるので、帰ったら色々とお話ししましょう
鶴には御所で使われているという珍しい香包などを、阿久里にはお人形を3つ贈りました
父がいなくて寂しいでしょうが、どうか元気で待っていてください

娘たちに対する深い愛情が文面からにじみ出ています。
指南役としては厳しい面もあったかもしれませんが、仕事を離れれば上野介は子煩悩で優しい父親だったようです。

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1701年3月26日、松の大廊下刃傷事件の12日後、高家肝煎の吉良上野介は幕府に退職願を提出し、幕府はこれを受理しました。
刃傷事件の責任をとったのか、それとも傷の治療に専念するつもりだったのか・・・退職の理由は今もわかっていません。
そして、同じ年の8月、上野介は呉服橋から江戸の場末の発展途上の本所へと引っ越すように幕府から命じられます。
上野介の引っ越し命令は謎が多く、どんな理由で誰が命じたのか??
ハッキリとは分かっていません。
ただ、赤穂浪士が討ち入りをしてきても、幕府は吉良を守らないという宣言にも取れます。
というのも、この頃江戸市中には、すでに「赤穂浪士たちが吉良を襲撃するのではないか」という噂が広まっていて、吉良邸の隣人が幕府に

「赤穂浪士が吉良邸を襲撃した場合、どう対処すればよろしいか」

と、たずねると幕府は、

「一切構わず、自邸内を守るように」

と答えたといいます。
また、討ち入りの日が近づき、赤穂浪士たちが市中で暗躍するようになっても、幕府は特に警戒を強めることなく傍観を続けます。
刃傷事件の際、斬りつけられても刀を抜かなかった上野介を褒め称え、無罪放免にした幕府がどうして・・・??
綱吉が内匠頭に対して行った即日切腹が、あまりにも性急で不公平なお沙汰だったとして世間の不評を買っていました。
生類憐みの令などによって、幕府への不満が高まっていました。
これ以上、幕府の評判を落さないように上野介を見捨てたのではないか??
厄介払いをしたのではないか??
上野介は、孤立無援となってしまいました。

どうして吉良上野介は討ち入りされてしまったのでしょうか??
赤穂浪士の襲撃を警戒していたという上野介・・・
常に本所の屋敷に閉じこもっていたわけではなく、わずかなお供を連れただけで、江戸市中を散策し、茶会にも度々参加していました。

討ち入り前の上野介の資料は乏しく、確かなことはわかっていません。
しかし、討ち入りがなかなか行われなかったこともあって、気のゆるみが生じたのかもしれません。
その為か、上野介は本所の屋敷でも度々茶会を開催します。
1702年12月14日、茶会を開く予定でいました。
しかし、これが大石内蔵助ら赤穂浪士たちの知る処となり、確実に上野介が在宅しているこの日を討ち入り決行日とされてしまいました。

そして迎えた運命の日・・・上野介は予定通り、本所の屋敷で茶会を開催。
客人たちに自慢の茶器で茶を振る舞い、日が沈むとそのまま酒宴に・・・
上野介が床に就いたのは夜更け過ぎのことでした。
外で討ち入りの準備が進んでいるとも知らずに。

「おのおの方、討ち入りでござる!!」

12月15日午前3時半ごろ、吉良邸討ち入り!!
赤穂浪士たちが吉良邸の表門と裏門の二手に分かれて討ち入り決行!!
裏門から侵入した赤穂浪士たちは、まず、鎹と金槌で吉良邸の家臣たちが暮らす長屋の戸口を塞いでしまいます。
こうして、100人以上いた吉良家の家臣のうち半数以上を戦わずして封じ込めたのです。
そうした状況で、吉良側はどう応戦したのでしょうか?

家臣たちは、必死に応戦!!
入念な計画を練っていた赤穂浪士は、吉良家臣たちを次々と撃退!!
襲撃の報を受けた上野介は、すぐに寝所を離れたため、赤穂浪士たちが踏み込んだ時にはすでに布団はもぬけの殻でした。
そして、赤穂浪士たちの必死の捜索によって、炭小屋に隠れていた上野介はついに見つかってしまいました。
内匠頭につけられた額と背中の傷が本人の証拠とされ、必死に命乞いをするも聞き入れられず、討ち取られてしまいました。

それが定説です。
上野介は命乞いをした・・・
ただ、上野介が刀を抜いて戦ったという説もあります。
当時の記録には、上野介は脇差を抜いて向かってきたと書かれています。
つまり、命乞いなどせず、闘死した可能性があるのです。
上野介も武士・・・赤穂浪士たちの討ち入りにおびえ、命乞いをしたのではなく、本当は最期まで武士として刀を手に戦って散っていったのかもしれません。

松の大廊下刃傷事件から1年9カ月がたった1702年12月15日未明。
吉良上野介は討ち入りを決行した大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士によって62年の生涯を終えました。
赤穂浪士たちは、上野介の首を白布で包み、槍先に掲げて、吉良邸から浅野家の菩提寺である泉岳寺まで12キロを練り歩いたといいます。
その姿を見た江戸の人々は、主君の仇を討った忠義の士と称賛します。
そして、1703年2月4日、幕府は赤穂浪士たちに切腹を言い渡しました。
世間が赤穂浪士たちを英雄と見なしていたため、幕府は批判を恐れて、打ち首という犯罪者扱いではなく、武士の対面を尊重した切腹としたのです。
これによって、赤穂浪士たちの人気が高まったのですが・・・
事件の被害者であるはずの吉良家に待っていたのは過酷な運命でした。
赤穂浪士たちが切腹して散った2月4日、上野介の嫡男・吉良義親にも、幕府からお沙汰が下りました。
それは・・・

「浅野内匠頭家来ども 上野介を討ち候
 その方 仕方不届きにつき 領地召し上げられ 諏訪安芸守へお預け仰せつけられ候也」

赤穂浪士たちに討ち入りを許し、上野介を討ち取らせてしまったのは武士として不届きだとして吉良家の領地没収。
当主であった義親は、罪人として諏訪高島城に預けられました。
随行の家臣はわずか2人・・・
帯刀を許されず、失意の義親は、その3年後、21歳という若さで亡くなり、吉良家は断絶となりました。

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吉良家に対する幕府の仕打ちは、あまりにもひどい・・・父を討たれて領地まで没収され、懸命に戦ったにもかかわらず、罪人にされてしまった義親は、気の毒でなりません。
幕府は、権威と人気回復のために、民衆の声に迎合し、吉良家を悪者に仕立て上げたのです。
吉良=悪者といったイメージは、その後に作られた歌舞伎や人形浄瑠璃などによって助長され、上野介は天下の嫌われ者となってしまいました。

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1949年1月25日、ひとりの若者が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったことが、世間に大きな衝撃を与えました。
その若者が、エリートが集う東京大学の学生にして金融会社光クラブの社長だったからです。
若者の名は、山崎晃嗣・・・山崎が経営していた光クラブは、高い金利でお金を貸す闇金融でした。
投資家から莫大なお金を集め、それを法外な金利で貸し出すことで大きな利益を得ていました。
しかし、光クラブ設立からおよそ1年後、突如逮捕され、ほどなくして自ら命を絶ちました。
遺書には・・・

「高利貸 冷たいものと 聞きしかど
     死体さわれば 氷カシ(高利貸)」

エリートと呼ばれる東大生が、どうして闇金という世界に足を踏み入れ、26歳という若さで人生を終えなければならなかったのでしょうか?

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山崎晃嗣は、1923年、千葉県木更津に生れます。
父親は医師で、後に木更津市長を務めることになる地元の名士でした。
裕福な家庭で育った山崎は、幼い頃から成績優秀で、旧制第一高等学校に進んだのち、東京帝国大学法学部に進学しました。
東大に入ったとも、2年間で20科目中17科目で優を取得。
東大出身の総理大臣・若槻禮次郎以来の秀才と大学でもてはやされました。

太平洋戦争が収束して間もないこの頃、多くの学生は困窮し、その日暮らしの生活を送っていました。
彼らは身元がばれないようにゲートル姿で闇市へ行き、そこで仕入れた者を他の場所で高く売ることで食いつないでいました。
しかし、当時、食料品や日用品の多くは配給制・・・
学生たちが行っていた商売は、闇行為に当たり違法とされていました。
そんな闇行為に、やがて山崎も手を染めて行きました。
山崎は、一時期、ヤミ米の売買に従事していましたが、お金に困っていたわけではありませんでした。
大学そのものの在り方に嫌気がさしていたのです。
当時、山崎は東大で全教科での「優」の取得を目指していました。
しかし、教授の好みに合わず、「優」を取得できなかった科目があり、自尊心を木津つけられ、勉学に嫌気がさしていたのです。
そこで、勉学以外で実力を試したいと始めたのが、ヤミ米の売買でした。
しかし、農家を回って頭を下げなければ米を仕入れることはできません。
そのうえ、それを背負って帰るだけでも一苦労なのに、途中警官に見つかればすべて没収されてしまう危険さえありました。
運よく持ち帰り、東京で売ることができても、その儲けは・・・200円ほど。
今の価値で2万円ほどでした。
実家が裕福で、月に2000円の仕送りを受けていた山崎にとって、ヤミ米で得られるお金など、たいした額ではありませんでした。

「もっと楽に、大きく儲けられないか」

そんな時、一つの新聞広告が目を引きます。
元金に対し、毎月2割もの配当を約束し、元大学教授が管理するから安心とうたった投資を募る広告でした。
山崎は早速その広告主「財務協会」の事務所を訪ねました。
大学教授だったという財務協会の理事長の男と面会した山崎は、実家から用立ててもらった10万円(現在の1000万円)を増やしたいと相談します。
すると、理事長は自分が関係するアメリカ向け玩具を製造する会社への投資を勧めてきました。

「クリスマス用だから、8月中に作らねばなりません
 投資する運転資金はかなりいりますが、その分短期間でもうけられますよ」

そして、10万円を預けてくれれば、担保にアメリカ向けの商品をつけ、2割の利子をのせた12万円(現在の1200万円)の手形を渡すというのです。
山崎は、その話を聞いたとき・・・

「手で働くことしか能のない下職たちのピンをはねて利殖できることと、担保がアメリカ向けの商品であるということが嬉しかった」by山崎

これなら楽に儲けられると、翌日、10万円を財務協会に託しました。
ところが、翌月訪ねてみると・・・
配当をもらえないばかりか、元金さえ返してくれませんでした。
理事長は、山崎の出資金と配当は、別の事業に投資したと言い張るばかり・・・
その後も理事長は、のらりくらりと言い逃れ、お金を払う気配がありません。
不審に思った山崎は、理事量がかつて教授をしていたという大学に行ってみると・・・

「そんな名前の教授、聞いたことがない
 そういえば、前にも同じことを聞きに来た人がいたなあ」by大学職員

そう、全ては理事長の作り話でした。
ここでようやく山崎は、お金をだまし取られたことに気づきます。
光クラブ設立の1か月前のことでした。

「資本金なしで金融業を営む財務協会の方式を知り、自分の能力ならもっとスマートにできる自信を持った」by山崎

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学徒動員・・・軍隊の中での出来事が、闇金融に足を踏み入れたことに大きく影響していました。
山崎は、東大に入学後、程なくして陸軍の経理見習士官に志願します。
その後、主計少尉として北海道・旭川の北部第178部隊に所属します。
そこで、兵士の食料などを管理する任務についていました。
敗戦を迎えると、上官たちが、運送業者と結託して軍需品の食料などを横領・・・
山崎も、分け前をやると誘われ、その片棒を担いでいました。
やがて、もうけを巡って仲間割れすると、運送業者が警察に密告して横領が明るみに・・・!!
ところが、既に舞台は解散し、上官たちは帰郷・・・残っていた山崎一人が逮捕されました。
山崎は、警察で激しい尋問を受けますが、決して主犯格の上官の名を口に出さなかったといいます。
3カ月もの間拘留された山崎は、結局、懲役1年6カ月、執行猶予3年の有罪判決。
要約釈放された山崎は、約束していた分け前をもらうために上官を訪ねます。
ところが・・・上官は、山崎にびた一文渡さなかったのです。
この時の経験が、その後の山崎の人生に影を落としました。

国家を裏切り私腹を肥やす強欲な上官・・・
罪をかぶるも約束を反故にされた不条理・・・
なにが正義なのか、何が悪なのか??
この世に信じられるものなどない・・・??
そんな山崎が目をつけたのが、許可を得ないで営業し、収益を得ていた闇金融でした。
山崎は、軍で受けた理不尽な扱いと、詐欺被害に遭ったことで、地道に生きることがバカらしくなり、楽して儲けたいと闇金融の世界でのし上がっていこうと考えたのです。

光クラブ誕生・・・
丸の内線・新中野駅近くにある鍋屋横丁・・・
この町に、東大に復学した山崎晃嗣が闇金融「光クラブ」を設立したのは、1948年10月のことでした。
光クラブという名は、闇市「新宿マーケット」のスローガン”光は新宿より”からつけたと山崎は語っています。

「私が陰気で神経質なので、逆手に出て、明るくのびのびした「光」という字をつけた」by山崎

山崎は、共同経営者として2人の人物を迎えました。
一人は日本医科大学の学生・三木仙也、三木は、山崎が10万円をだまし取られた財務協会で秘書をしていた人物で・・・それが縁で知り合いました。
もう1人が、当時、山崎が交際していた10歳年上の恋人・A子です。

山崎は、洋服や洋書などを売って1万5000円(現在で150万円)を用立てます。
これを全部、新聞広告費に当てました。
掲載料の安い三行広告に、光クラブの広告を掲載。

”遊金利殖 月1割5分
 堅実第一 光クラブ ”

山崎は、新聞広告を使って、闇金で貸し出すための資金を集めようと考えたのですが・・・

「果たして、こんな新聞広告で、本当に金が集まるだろうか??」by山崎

すると、共同経営者の三木は・・・

「君だって、10万円を広告ひとつで投げ出したじゃないか
 君みたいなカモはまだいるさ」by三木

広告を出して2日目のこと・・・
山崎が、朝出勤すると、三木が中年男性の相手をしていました。

「来たよ、来たよ、初めての客が
 3万円(現在の300万円)持っているそうだ
 カモだよ」by三木

山崎は、客に、如何にして月1割5分もの高い利子を支払うかを丁寧に説明します。
そのからくりは単純なものでした。

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まず、客から数かったお金を別の客・・・つまり、債務者に月3割4分の金利で貸し出します。
債務者が支払う3割4分の利息のうち1割9分を光クラブが手数料としてとり、残りの1割5分が出資者の取り分に。
つまり、投資家から預かった金を、3割4分という高金利で債務者に貸し出すことで、投資家への高配当と光クラブの利益を確保したのです。
これは投資家にとって、かなり魅力的な話でした。
当時、銀行に100万円預金しても、利子は月に1,500円。
光クラブに預ければ、15万円もの利子がついたからです。
山崎の明快な説明もあってか、客は、山崎に3万円を託して帰っていきました。
この日を境に、投資したいという客が、次々とやってきて、何万円ものお金を光クラブに投資していきました。

しかし、資金が順調に集まっても、それを貸し出して利息をとらなければ投資家への配当を支払えません。
この頃、お金を貸す際の法定利息は最も高くて9分/月・・・
それに対して、光クラブは4倍近い3割4分・・・
普通に考えれば法外な金利で借りる人はいないはず・・・
ところが、連日光クラブにお金を貸してほしいという問い合わせが殺到し、多くの客が押し寄せてきたのです。
高金利にもかかわらず・・・!!

この頃、日本を占領していたGHQは、経済顧問であるジョゼフ・ドッジを中心に、インフレが続く日本経済を立て直そうと、緊縮財政を進めていました。
いわゆる、ドッジ・ラインです。
GHQは、日本の復興を支援していた融資などを停止、すると、日本の銀行も融資に消極的になっていきました。
これに困ったのが、中小企業などの経営者たちでした。
銀行から貸し渋りを受けていた中小企業の経営者などは、運転資金を調達するために、高金利の闇金に頼らざるを得なかったのです。
そうした需要に応えるように、この頃、数多くの闇金業者が生まれていました。
そして、山崎が設立した光クラブにも、運転資金の調達に困っていた多くの人がお金を借りにやってきたのです。
しかし、山崎はやみくもにお金を貸しませんでした。
大学で学んだ法律の知識を生かし、債務者からはキッチリ担保を取り、公正証書を作成し、契約内容を書類に残したうえで、客にお金を貸したのです。
また、期日を守らない債務者に対しては、厳しく接しました。

「人間と人間の関係は”合意は必ず守られなければならない”という国際法の基本原則で割り切れる」by山崎

債務者に契約を守らせるため、暴力団を雇い入れ取り立て専門会社「光不動産」を設立。
時に、強迫まがいの荒っぽい取り立てを行い容赦なく担保を取り入れました。
その一方で、投資家たちには毎月利子を支払い、信頼を得て行きました。
こうして、光クラブの借入金総額は、わずか3か月で1000万円(現在の10億円)にも達しました。

3か月で1000万円の資金を集めた山崎は、1年間で15倍の1億5000万円にまで増やしたいと考えていました。
今まで以上に合理的、かつスピーディーに光クラブの業務を拡大させるには、どうしたらいいのか??
そこで打った新たな一手が、繁華街・銀座への進出でした。
中野にあった事務所を銀座の裏通りに移転させたのです。
それを機に、光クラブを株式会社化し、自らが社長に就任しました。
社員も30人ほどに増やして、女性社員には制服を用意しました。
さらに、宣伝活動にも力を入れます。
銀座の街中に派手なポスターを張り出したのです。
キャッチフレーズは”堅実と近代性を誇る日本唯一の金融株式会社”でした。

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銀座への移転と宣伝効果に、大口の投資話が舞い込んでくるようになります。
大企業の経営者のような人物が、200万、300万もの大金を投資したいと訪ねてきたのです。
そんな上客に対し、あらかじめ改ざんしておいた帳簿を見せます。
それで資金が順調に回転していると思わせ、こう説明します。

「我々学生のアルバイトは、口が下手でいわゆる舌先三寸の芸当はできません
 そこで、何も言わずに数字を信用してくれと、洗いざらい帳簿をお見せし、一緒に協力して資金の回転を研究していただくのです」by山崎

そして最後に事務員に金庫の扉をあけさせて、金庫の中の溢れんばかりの札束を見せました。

「今日回収した貸付金の一部です」by山崎

と、うそぶいたのです。
実はその札束、一番上と下だけが本物で、間に挟まれたお札はざら紙を100円札の大きさに切りそろえた偽物でした。
本物の札束だと思い込んでいる客たちは、山崎の言葉を信用し、大金を託して帰っていきました。
お金を集めるためには、もはや手段は選ばない・・・
それは、詐欺同然の手口でした。
その一方で、山崎は闇金融界の風雲児・東大生社長としてメディアに取り上げられ、注目を浴びるようになっていきました。
果たして山崎は、良心の呵責に苛まれることはなかったのでしょうか?

「人生は劇場である
 僕はそこで脚本を書き、演出し、主役を演じる」by山崎
 
東大生社長という役を演じ切っていたため、罪悪感は全く感じなかったようです。
むしろ、学生である自分が投資家から莫大な金を集め、それを平身低頭になって借りにくる人たちに貸すことに満足していました。

成功すると、山崎は決まって不敵な笑みを浮かべたといいます。
彼らを騙すことで、自尊心を満たしていたのかもしれません。
貸出金額も順調に伸びて行きました。
老舗機械メーカーの経理部長や、銀座の貴金属商の番頭などが、運転資金を借りに光クラブへやってきました。

こうして、山崎の光クラブは、1日の取扱額100万円(現在の1億円)もの金を動かす一大金融会社となりました。

破滅への序章・・・
世間から大きな注目を集めることとなった闇金融・光クラブは、順調に業務を拡大していきました。
しかし・・・その陰で、徐々にほころびを見せていきます。
あるとき、光クラブの営業部長Bによる66万円(現在の6600万円)もの使い込みが発覚。
Bは、もともと新聞記者で、広い人脈を持っていたことから営業部長に抜擢されていました。
山崎はすぐにBを解雇、使い込んだお金を返済することを条件に、警察沙汰にはしなかったのですが、Bは一向にお金を返しません。
そこで山崎は、暴力団で構成する「光不動産」を使って脅迫します。
Bはそれに動じないどころか、別の暴力団を使って山崎を恐喝!!
山崎は、20万円(現在で2000万円)ものお金をゆすり取られてしまいました。
さらに山崎は、光不動産の暴力団ともトラブルに・・・
山崎が知らないところで、勝手に債務者から金品をゆすり取っていたことが判明します。
光不動産の連中を告訴しました。
こうして、光クラブに大きなひずみが生じ始める中、さらに衝撃的なことが起こります。

会社の機密情報が外部に漏れてしまったのです。
それは、山崎の女性秘書C子の仕業でした。
もともとC子は、秘書募集の広告に応募してきました。
山崎は容姿端麗でよく気が利くC子に惚れ込み、強引に言い寄り恋人にしてしまいました。
ところがある日・・・山崎はC子の不審な行動に気付きます。
C子が頻繁に会社からどこかに電話をかけていたからです。
どこに電話をしているのか??かけてみると・・・

「はい、こちら、京橋税務署です」

C子が頻繁に電話をしていたのは、税務署だったのです。
興信所を使って、彼女の身辺を調査してみると・・・C子は税務署に勤務する男性と婚約していて、子供まで身ごもっていることが判明します。
C子は光クラブに送り込まれたスパイだったのです。
山崎は、銀座に店舗を構えたり、派手な広告を打って、メディアにも取り上げられていました。
目立っていた光クラブの存在は、大蔵省などの当局にとって面白くなかったのです。
光クラブを野放しにすることは、闇金融そのものを認めることになります。
大蔵省や国税庁には、東大法学部出身の職員が大勢いました。
「東大法学部」ブランドを使って人を集めていることが許せなかったのです。

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人生劇場の閉幕・・・
1949年7月4日、突如、京橋署の刑事が銀座の光クラブにやってきて言いました。

「山崎晃嗣だな
 逮捕状だ
 書類を押収する」

物価統制法違反などの容疑で逮捕!!
警察が、流出した光クラブの機密情報をもとに動いたのは明らかでした。
山崎は、警察署から検察庁・国税庁などを引き回され、事情聴衆を受けました。
どこでも、光クラブの3割を超す金利が高すぎると責め立てられました。
それに対し山崎は、金利が高いことは認めながらも、そのことで罪に問われるいわれはないと、豊富な法律の知識を駆使しながら力説します。
結局、1か月後、山崎は不起訴処分となり釈放されました。

一説に、大蔵省が、これから闇金融業者の取り締まりを強化していくことを知らしめるために、山崎は見せしめとして逮捕されたともいわれています。
山崎が銀座の光クラブへと戻ると、半数以上の社員が辞め、事務所には投資家たちが押し寄せていました。
山崎の逮捕を聞いた投資家たちは、元金の返還を迫ります。
山崎が逮捕されたことで、すっかり信用を失ったのです。
この時、山崎が背負った債務は3600万円・・・現在の36億円でした。
ひとまず山崎は、3か月後の11月25日までに、1割の360万円を支払うことを約束します。
山崎は、新たに金融会社「銀座証券」などをを設立し、心機一転、再起を図ります。
運に見放されたのか、何をやっても上手くいきませんでした。

約束のお金を用意できないことを悟った山崎は・・・11月24日深夜・・・青酸カリを飲んで返済期日だった25日未明、息を引き取ったのです。

「高利貸 冷たいものと
 聞きしかど
 死体さわれば 氷カシ(高利貸)」

他人や世の中を信じられないと闇金融の世界に足を踏み入れた山崎晃嗣が信じられたのは、己の力とお金だけでした。
山崎は、機密情報を持ち出した女性秘書との結婚を考えていました。
人を信じられなかった山崎・・・
結局、人に裏切られ、破滅してしまいました。
絶望した山崎は、死を選ぶしかなかったのかもしれません。
現役東大生が起こした光クラブ事件・・・それは、今にも通じる問題を私たちに教えてくれています。
人生に一番大切なものとは一体何なのかを!!

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東京の玄関口・・・東京駅。
その丸の内南口券売機前の床面に、六角形の小さなタイルが埋め込まれています。
まさに、この場所で・・・1921年11月4日・・・

「この国賊・・・!!」

現職の総理大臣であった原敬が暗殺されました。
犯人は、鉄道職員の中岡艮一・・・18歳の青年でした。
中岡の凶行で命を落とした原敬は、憲政史上、初めて爵位を持たない平民宰相として総理大臣の地位に付き、初の本格的政党内閣を樹立した人物です。
明治維新から続く藩閥政治から、国民に基盤を置いた政党政治へと基盤を動かしました。
平民のために尽力した原敬がなぜ暗殺されなければならなかったのでしょうか??

原敬 「平民宰相」の虚像と実像 (中公新書)

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1856年2月9日、原敬は、陸奥国岩手郡本宮村(現:岩手県盛岡市本宮)に生れました。
生家は、盛岡藩の家老を輩出するほどの名門の武家でしたが、1868年、盛岡藩が戊辰戦争で旧幕府側に付き敗戦すると、朝敵として新政府軍に賠償金を支払うことに。
それをねん出するために、原家の家禄は1/10までに減少し、家や土地を売却しなければならなくなりました。
生活が苦しくなる中、1871年、原は、学問で身を立てるために15歳で上京。
英語の私塾に入ったものの、すぐに授業料が払えなくなり私塾を退学。
しかし、原は
「自分は餓死したとしても、人から金銭の援助は受けたくない!
 働いて自活しながら、学問を続ける方法があると思うから、それを考えようではないか!!」
苦境に立たされてもそれにくじけない強い心を持っていました。
選んだ学校は、神学校でした。
教会の運営で食費や宿泊費が無料だったからです。
原は、フランス人神父の家に身を寄せ、布教活動を手伝いながら、そこでフランス語を習得します。
7人兄弟の2男だった原敬が、実家から分家し、士族から平民となったのはこの頃です。
原は、ここからたゆまぬ努力を重ね、総理大臣にまで上り詰めていくのです。

その足掛かりとなったのが、23歳で郵便報知新聞社(元:報知新聞社)に入社したことです。
習得したフランス語を活かし、翻訳の仕事に従事します。
やがて記者として、自ら記事を書くようになった原は、ある人物の同行取材を任されます。
長州出身で明治維新の元勲のひとり・・・井上馨です。
井上は、原の語学力の高さを認め、外務省にヘッドハンティングします。
その後、原は、農商務省参事官などを務めるなど、官僚として評価を得ていきます。
そんな原に、大きな影響を与えたのが、初代内閣総理大臣となった伊藤博文です。
その政治手腕に感銘を受ける中で、伊藤が抱く政党政治への思いを知ります。

当時の伊藤の考えとは・・・??
伊藤博文は、長州出身で藩閥ですが、立憲政治を定着させる方法を考えていました。
1885年、44歳の時に初代内閣総理大臣に就任します。
総理大臣になってからは、政府ー議会ー国民がどうつながっていくか??考えていました。
まとまれるものとして、政党の必要性を考えていくのです。
政党政治を目指す伊藤は、1900年、立憲政友会を結党。
才能を買っていた原を、その中心メンバーに据えました。
政治家の道を進むことになった原は、44歳で立憲政友会の初代幹事長、第4次伊藤内閣では逓信大臣として初入閣を果たしました。
その後、内務大臣を歴任するなど、政界でもその高い能力を発揮していった原に、大命が下ったのは1918年のことでした。
米の価格が急騰したことで、米の取引所などが襲撃される米騒動が日本各地で発生しました。
その責任をとり、寺内正毅内閣が総辞職。
この難局に、立憲政友会総裁となっていた原が、次期総理大臣に指名されたのです。

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9月27日、第19代内閣総理大臣に就任。
憲政史上初の平民宰相の誕生でした。
この時、原敬62歳。
原は、政党政治を目指すべく、外務と陸海軍以外の閣僚全てを立憲政友会から選出し、藩閥組を一掃、本格的な政党内閣を組織しました。
公家でも、薩長出身でもない平民宰相を、世間は歓迎しました。

原は、賊軍の地・盛岡に生れながらも総理大臣にまでなった人物です。
戊辰戦争の敗者が、明治維新の勝者になった・・・そんな原の存在は、人々を勇気づけました。
藩閥政治側としても、徳川の世に変わる新しい政府を創るためには正当性を持たなければならないと思っていました。
その為、”五箇条の御誓文”には、「すべての人々が夢をもち、それを実現できる社会を創造する」と書かれています。
この明治維新の精神を体現して成功した一番最初の人物が原敬でした。
実際、「平民」という言葉が流行語になるほど国民は強い期待を原に寄せていました。
同じく岩手出身の新渡戸稲造も、
「階級的道徳の時代は終わりをつげ、国民的道徳を行う時代が到来した」とエールを送っています。

総理大臣となった原が最初に行ったのは、
①米騒動の発端となった米の価格の安定でした。
外国米の輸入を拡大することでこれを実現させます。
②教育改革
公立・私立大学の設置を容認し専門学校だった、慶応義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、同志社大学など・・・大学に昇格しました。
高等学校の創設を推進し、5万人以上の若者たちが進学します。
③衆議院議員選挙法の改正
1919年、選挙権の刺客を直接税の納税額10円から3円に引き下げました。
より多くの国民が政治に参加できるようにしました。

国民のために尽力する平民宰相・・・
1921年11月4日金曜日。
東京は気温10度を少し下回る肌寒い日でした。
午前8時ごろ・・・東京・芝公園にあった自宅で目を覚ました原敬は、寝室の布団に腹ばいになって各紙の朝刊を隅々まで読んだのち、応接間でお茶を飲みながら、妻・浅と何気ない会話をして過ごしていました。
普段と変わらない1日の始まりでした。

しかし、この日、原を暗殺することになる中岡艮一の朝は・・・??
東京巣鴨にあった自宅で、仕事が休みなのに早く起き、最期になるかもしれない家族との朝食を済ませました。
そして、カバンの中に刃渡り5寸の担当を忍ばせました。
中岡は、前日の新聞で原がこの日、東京駅から夜7時30分発の急行列車で京都に向かうことを知り、そこで原を襲うつもりでいました。
大塚駅の鉄道職員だった中岡は、家を出る際に母親に告げました。

「今日の休みは、友達と遊ぶ」by中岡

「今夜のおかずは鮭よ」by母

母から電車賃として14銭をもらった中岡・・・

午前10時ごろ、芝公園の自宅を出た原は、立憲政友会本部へ。
翌日京都で開かれる党の近畿大会に出席するためスピーチ原稿を確認します。
党本部にいたのもつかの間、原は皇居に向かいます。
大正天皇に拝謁し、毎月恒例の政務報告をすることになっていたからです。

一方、浅草にやってきた中岡は、街をブラブラ・・・昼食に肉飯を食べ、甘味処ではあんみつを味わいました。

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仕事を済ませた原は、京都に向かう支度をするため一旦自宅に戻ると、あわただしく夕食を済ませて支度をしました。
「今夜は冷えそうですのでこれを」by浅
「必要ない、京は随分と温かいからな」by原
この時、妻・浅の言うとおりに厚手のオーバーコートを着て行ったなら命を落とすことはなかったのでは??と言われています。

同じ頃、中岡はすでに東京駅の待合にいました。
原が乗るのは夜7時30分発の列車です。
中岡が2時間以上も前に東京駅に来たのには理由がありました。
中岡は、これまでに3度、原の暗殺を計画。
①10月2日上野駅
②10月9日立川駅
③10月24日東京駅

しかし、原の到着時刻が予定よりずれたりしたことで、失敗に終わっていました。

「これだけの余裕があれば大丈夫だろう」by中岡

午後7時ごろ・・・自宅を出た原が東京駅に到着します。
待合室から切符売り場の前を通過する原の姿を中岡は見ていました。

「原はきっと駅長室に行くはずだ
 そのあとを狙おう・・・」by中岡

中岡の予測通り、原は駅長室へ。
応接で列車の発車時刻まで待ちます。
その間、中岡は駅長室後方の太い柱の後ろに身を潜め、機を伺います。
そして・・・午後7時25分。
原は、駅長らと談笑しながら列車が出るホームに向かいました。

「東京駅には一日どれくらいの人が乗り降りするのですか?
 一日の収益はどのくらいでしょう?」by原

これが、原の最期の言葉となりました。

「この国賊!!」by中岡

一瞬の出来事でした。
中岡は、東京駅で原の警護に当たっていた日比谷警察署の警察官によって取り押さえられました。
警察が警護していたにもかかわらず、防げなかったのでしょうか??
要因①東京駅
当時の東京駅は、まだ開業したばかりで、通勤客だけでなく見物人もたくさんいました。
丸の内南口で、1日約2万人の乗降客がありました。
この日は金曜日の夜・・・人混みが多かったと考えられます。
東京駅の人ごみに紛れてしまい、警察が犯行に気付くのが遅れたのです。
要因②警護体制
総理大臣には多くの警察官が警護につくことが慣例となっていたため、原も警察官の警護がついたのですが・・・
「平民宰相なはずなのに、今までのように警察官を警護につけるのか!」
そう、新聞が批判!!
以来、原は警護嫌いとなり、警察もその意をくんだのか、事件当日の警護はわずか7人。
しかも、彼らは原から離れてついていました。
犯行現場となった東京駅が混雑していたうえに、警護の人数が少なく原から離れていたことで犯行を未然に防げなかったのです。
駅長室に担ぎ込まれた原は、テーブルの上に寝かされ応急手当てがなされました。
その際、着付けにと赤ワインを口に含ませますが、反応はありません。
刺し傷は右肺から心臓にまで達していました。
襲撃されていた際に着用していた衣服が、岩手県盛岡市にある原敬記念館に残されています。
ワイシャツについた血痕、衿には着付け具するの代わりに使われた赤ワインのシミが・・・
生々しく、事件の凄惨さが伝わってきます。

午後7時40分・・・
事件発生からおよそ20分。
原のかかりつけ医が到着し、手当に当たりますが・・・当時はまだ救急車がなく、現場で出来ることは知れていました。
事件の報せを受け、妻・浅も駆け付けます。
気丈にも涙をこらえ、傷口を洗うなど看護に務めたといいます。
しかし・・・午後7時50分。
第19代内閣総理大臣・原敬・死去。

原敬・・・65歳でした。

突然命を奪われた平民宰相・原敬。
現職総理大臣の命を奪った犯人は、18歳の青年でした。
大塚駅に勤務していた中岡艮一・・・どうして凶行に及んだのでしょうか??
中岡艮一は、抵抗することなく東京駅前の派出所に連行されます。

「名前は??」
「土佐の士族・中岡だ!!」by中岡

1903年、中岡艮一は栃木県で生まれました。
父親は、旧土佐藩士。
土佐藩は、坂本龍馬を輩出するなど、大政奉還や明治維新で重要な働きをした藩です。
その誇りを父親から強く受け継いだ中岡は、学問を学び、優秀な成績を治めますが、父親が病気になったことで高等小学校を中退し、やむなく印刷会社で住み込みで働きます。
その後、父親が亡くなり、東京巣鴨の小さな家で、母親・妹・弟の4人暮らしでした。
レールのポイントを変える職人である転轍手となり、大塚駅で勤務することになったのは、事件を起こす年の春のことでした。
担当の日は、朝8時から翌朝8時までの24時間勤務でした。
この間、眠れるのは3時間だけという激務でした。
日給は、50銭の本給と徹夜手当を併せて95銭5厘・・・月収にして現在の15万円ほどでした。
楽しみと言えば、映画の脚本を書き、応募することぐらいでした。
そんな中岡が、どうして原を暗殺したのでしょうか??
事件現場となった東京駅の銘板には、こう書かれています。

”犯人は原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行に及んだと供述”

中岡が、原の政治に対して不満を抱いていたというのです。
実は原は、平民宰相として米価の安定・高等教育の推進・選挙権の拡大など、国民の側に立った政治を行ってきましたが・・・次第に国民から不信を買う用になっていました。
きっかけは、野党が人気取りのため25歳以上の男子なら誰でも選挙できる男子普通選挙の実現を訴えたことでした。
これを受け、男子普通選挙運動が過熱します。
日比谷公園で行われた国民大会の参加者は、1万人に上りました。
しかし原は・・・「男子普通選挙はまだ時期尚早だ、もう少し機が熟してからでいい」
選挙権の拡大には賛成だった原でしたが、政治について知識のない人たちが急に選挙権を持ってもかえって政治の混乱を招くと考えていたのです。
宗とは知らない民衆は、望んでいた男子普通選挙を認めない原に、
「平民宰相に裏切られた!!」
と、大きな反感を抱くようになります。
さらに、第1次世界大戦後の恐慌で株式市場が暴落。
経済不況は深刻さを増し、庶民は厳しい暮らしを強いられました。
そんな中、1920年2月5日、原は、警察と憲兵を出動させます。
官営の八幡製鉄所の職工1万3000人が職場の改善を求めストライキを挙行、数千の職工が溶鉱炉を襲撃しようと騒乱状態となったためでした。
騒動は、250人近い職工が解雇、労働組合が壊滅状態となったことで終息したのですが・・・原の強硬な姿勢に批判が高まりました。
マスコミからは「官僚以上の傍若無人の態度」と批判されます。
原はリアリストで、ストイックな性格でした。
それは、国民からすれば厳しいという印象がありました。
しかし、それは政治家としては非常に誠実な態度でした。
原の行動は理解されず、国の舵取りが出来ないのは総理大臣の責任だとして新聞や雑誌から叩かれたのです。
そうした偏った報道を、中岡も目にしていました。
そして、いつしか原を、民衆の敵、悪の権化、国賊と考えるようになったのです。
世間の原への不満も高まります。
男子普通選挙の実現を求める人々が、原の自宅へ押しかけ、抗議の声をあげます。
立憲政友会本部が放火によって全焼。
外相官邸で行われた夜会では爆発騒ぎが起きました。
原の身にも危険が及びます。
殺害予告などの脅迫文が次々と来るようになります。

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そんな中、原内閣への不信感を増幅させることが起きます。
立憲政友会に南満州鉄道からの不正な選挙資金提供疑惑がかけられたのです。
”満鉄疑獄事件”・・・これによる政治家の逮捕者は出ませんでしたが、格好のネタとして新聞などで連日取り上げられました。
さらに、禁止されていたアヘンの密売がよりによって日本の植民地行政を担当する拓殖局長官の指図で行われているという疑惑まで浮上します。
長官の古賀廉造は、原が重用してきた旧友でした。
古賀は無実を主張・・・辞職するも、様々な憶測が報じられました。
満鉄疑獄事件に、アヘン密売疑惑・・・政治腐敗に対する行き過ぎた報道が土佐士族の生まれという中岡の誇りに火をつけます。
中岡は、坂本龍馬などの維新の志士に憧れ、自分も世を正したいという思いを日頃から抱いていたのです。

「多くの国民が怒りを爆発させているのに、誰もが口だけで行動を起こさない!!
 ならば、この土佐の士族中岡が、国賊の原を討つ!!」

新聞などの報道の影響で、平民宰相・原への不満を募らせた中岡は、土佐の士族という誇りが使命感へと変わり、凶行に及んだと言われています。

原敬暗殺事件の黒幕・・・
中岡の動機は、平民宰相・原の政治に対する不満でした。
しかし、その背後には黒幕がいたのではないかという説もあります。
事件の黒幕の一人と言われたのが、中岡が務める大塚駅の助役・橋本栄五郎です。
橋本は、日頃から原政権に対する不満をあらわにしていました。
それを中岡は聞いていました。
暗殺に及んだきっかけとなったのが、事件の1か月前の会話でした。

「何が平民宰相だ!ちっとも俺たちのためになってねえじゃねえか!
 今の日本には、武士道精神が失われた!
 腹を切るというが、実際に腹を切った例なんかねえんだ!」by橋本

「橋本助役、私が原を斬って見せます!」by中岡

腹と原の間違い??
橋本は殺人をけしかけた容疑で逮捕され、裁判にかけられますが、証拠がなく早々に釈放されます。

事件の黒幕ではないかと言われた人物はもう1人・・・
国粋主義を掲げる「玄洋社」の総帥・頭山満です。
玄洋社は、1881年に旧福岡藩士を中心とする政治結社です。
アジア諸国の独立を支援し、それらの国と同盟を結ぶことで、西洋列強に対抗しようという大アジア主義を掲げていました。
どうして黒幕として頭山の名が挙がったのでしょうか?
ひとつには、頭山たちにとって原が邪魔な存在だったからです。
第1次世界大戦後、世界に軍縮の機運が高まります。
原もこれを受け、軍備予算の削減を決めるなど、軍部の力を弱める軍縮を進めて行きました。
さらに・・・日本は東アジア最大の軍事国家であり、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦後と、10年に一度大きな戦争をしていました。
そして、原以前の総理大臣の過半数は軍人でした。
日本は世界の国際協調からすると、最も警戒すべき相手でした。
そこに、平民宰相が出てきた・・・そこには大きな意味がありました。
そして、それに原も乗っていく形で国際協調をして世界と手を組み、中国やシベリアに対して領土的な野心がないということを明確に宣言します。
様々なメディアに対して日本の国際協調の方針を発信していました。
そうした原の政策が、日本の軍事力によって大アジア主義の実現を目指す頭山たちの考えとそぐわなかったと言われています。
もうひとつの理由は・・・頭山と中岡の関係です。
事件後に中岡が頭山を頼ったことから、2人は以前から関係があったのではないかと推測され、原の存在が邪魔だった頭山たちが中岡に事件を起こさせたのではないかという黒幕説が浮上したのです。
事件から1年後、検察側が中岡の死刑を求刑。
下された判決は・・・
「中岡艮一を無期懲役に処す」

黒幕説については、様々な憶測が当時からありました。
ただ、公判の結果は中岡の単独犯と結論が出ました。
この時の公判の資料が法務省大審院の火災によって現在まで残っていません。

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無期懲役が下された中岡でしたが、3度の恩赦によって11年3カ月に減刑。
刑期を終えた中岡は、陸軍に身を置くなどして太平洋戦争の終戦を迎え、77歳まで生きたのです。

原敬の死の波紋
原敬は、脅迫状が多く届いていたこともあって、遺言状を認めていました。
そこには・・・
「葬儀は生まれ故郷の盛岡で質素に行うこと」
遺言通り、事件から3日後の1921年11月7日、原の棺は上野発の急行列車に乗せられ、盛岡へと向かいます。
盛岡駅から原の別邸迄の沿道には、当時の盛岡市民の人口とほぼ同じ、およそ3万人が見送ろうと集まりました。
多くの人々が、平民宰相の死を悼む中、葬儀はしめやかに営まれました。
原の死後、立憲政友会が分裂するなど、政党政治の勢いも弱まっていきます。
そして、事件から15年・・・青年将校たちによる2.26事件が発生。
日本は、軍事色を強めていったのです。

原敬が生きていれば、軍事主義的な時代に進むことはなかったのではないかと当時から言われていました。
ただ実際には、国際政治の中で変わっていきます。
なにより原自身が、自分の後継者を育てずに命を失ったことは、日本の政党政治、近代の歴史にとって大きな悲劇でした。

大きな波紋を呼んだ現職総理大臣の暗殺事件・・・平民宰相と呼ばれた原敬は、遺言状にこうも書いていました。

「死後、位階勲等の陞叙を受けないようにしてほしい」

最期まで平民でいたいのだと・・・。

岩手県盛岡市にある大慈寺・・・原敬は、今、妻の浅と共にここに眠っています。
墓碑に刻まれたのは名前だけ・・・これもまた原敬の遺言でした。

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感想(1件)

1859年10月27日、江戸時代末期の江戸・伝馬町・・・

「ご苦労様」

近代日本の夜明けのために、命を捧げた男が露と消えました。
男の名は、吉田松陰。
その辞世の句・・・

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
          留め置かまし 大和魂

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吉田松陰の素顔①遊ばない子供
山口県萩市・・・かつての長州藩の城下町です。
1830年、吉田松陰はこの町で、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
幼名は虎之介・・・兄弟は6人で、2歳下の妹・千代は、後年、松陰についてこう語っています。

「兄・松陰は、幼い頃から遊びということを知らないような子供でした
 いつも、机に向かって書物を読んでいるか、筆をとっているか、それ以外の姿はあまり思い浮かびません」by千代

遊ばずに学問ばかりしていたという松陰・・・その理由は、父にありました。
父・百合之介は、半士半農の質素な生活を送る下級武士でしたが、大の学問好きでした。
野良仕事の際には、手伝いをする松陰たちと一緒に「孟子」や「論語」を読誦。
夜は、米つきなどをしながら親子で読書。
そうした父の影響で、松陰は学問の面白さに目覚め、遊びよりも学問に夢中になっていきました。
さらに、松陰が学問にはげむようになったきっかけが、5歳の時のこと。

父の弟で、吉田家の養子に入っていた吉田大助が、男子を残さないまま大病を患ったため、松陰が吉田家の跡継ぎとなるべく、大助の養子となりました。
吉田家は、江戸時代前期の兵学者・山鹿素行が開いた山鹿流の兵学師範の家でした。
代々長州藩主・毛利家に仕えてきました。
兵学とは、敵に打ち勝つ方法を考える学問です。
間もなくして、義理の父が亡くなり、6歳にして吉田家の当主となった松陰は、兵学師範としては約独り立ちしなくてはなりませんでした。
そこで、大助の弟子だったもう一人の叔父・玉木文之進が、松陰の教育係を務めることになりました。
その教え方は尋常ではありませんでした。
文之進はスパルタ教育で、体罰も日常茶飯事でした。
それは、松陰を早く一人前の兵学者に育て上げるためでした。
松陰も、根をあげることなく学問に精進しました。
しかし、松陰は、大助がなくなると同時に、杉家で兄弟たちと共に過ごしています。

1840年、松陰は猛勉強の甲斐あって、11歳で聴衆藩主・毛利敬親の御前で兵法の講義を行う機会が訪れます。
松陰は、藩主や多くの家臣が居並ぶ中、一つも物おじせず、抗議をやり遂げました。
毛利敬親は松陰を絶賛し、その後もしばしば講義を行わせ、耳を傾けていたといいます。
こうして松陰は、若き天才兵学者としてその名を馳せるようになりました。

1848年、19歳になった松陰は、山鹿流の兵学師範として独り立ちをします。
長州藩の藩校・明倫館で教壇に立つことになります。
しかし、松陰の教壇デビューはほろ苦いものでした。
長州藩には、四流派の先生がいて、明倫館の学生たちは、好きなものを選ぶことができました。
松陰の講義は一番不人気で、ひとりしかいないこともありました。

しかし、講義そのものの評判は悪くなかったようで・・・

「大人も子供も兄を慕うようになりました」by千代

松陰の素顔②あふれる家族愛

明倫館の師範となった翌年の1849年、松陰は兵学者としての意見書を長州藩に提出します。
「西洋諸国を研究し、その長所を柔軟に受け入れながら、既存の兵法を時勢に合うよう政変すべし」と訴えました。
そして1850年8月、松陰は藩の許可を得て、九州遊歴へ出発します。
建前上は、平戸にある山鹿流兵学の宗家を訪ねるというものでした。
本当の目的は、長崎や平戸というところは海外の窓口が近いということで、海外情勢、動向・・・アヘン戦争などの最新の世界の情報を得るためでした。

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1840年に勃発したアヘン戦争は、イギリスがアジアの大国・清に圧勝した侵略戦争でした。
松陰はその詳細を知ることで、海外列強の強さを推し量ろうとしたのです。
萩を発った松陰は、まず鎖国中唯一外国との門戸が開かれていた長崎へ!!
そこで、出島のオランダ商館などを見学。
長崎奉行の計らいで、オランダ船に乗せてもらった際には、様式を細かく記録しています。
その後松陰は、平戸に向かい、山鹿流の兵学者・葉山左内を訪ね、その蔵書を完読します。
アヘン戦争んついて書かれた「阿芙蓉彙聞」、西洋砲術書「百幾撤私(ぺキサンス)」など、50日ほどの滞在で、80冊を読破しました。
世界の情勢をおぼろげながら掴むとともに、西洋列強に対する危機感をいっそう強めたのでした。
こうして九州遊歴を終えた松陰は帰路に付き、年明けには実家に着く予定でしたが・・・急遽急ぎ足で大晦日の夜に実家に着きました。
家族と一緒に正月を迎えたい!!という理由でした。

吉田松陰の素顔③不器用な生き方
1851年、家族と正月を過ごした吉田松陰でしたが、西洋列強に対する危機感は高まっていました。
さらなる知識と情報が必要だと考え、藩主の参勤交代に同行して江戸へ・・・
そして、4月に江戸につくと、儒学・兵学・洋学など様々な学者に弟子入りします。
なかでも浸水したのが、松代藩士・洋学者の佐久間象山でした。
象山は、アヘン戦争の衝撃を受けて、江戸で西洋砲術塾を開いていました。

「開国して西洋の科学技術を学び富国強兵に務めるべし」と提唱していたのです。

松陰は、学者たちに学ぶとともに、長州藩江戸藩邸にて勉強会を開催します。
多い月では1か月に30回もありました。
勉強のし過ぎでフラフラになっても、酒もたばこも、大食することも戒めていました。
仲間たちがつけたあだ名は仙人でした。
学用品を買うので、食事のおかずは金山寺味噌か梅干しで・・・ガリガリにやせ細っていました。
しかし、研究心は劣らず、江戸に兵学修行に来ていた旧知の友・熊本藩士・宮部鼎藏らと共に、東北視察の旅を計画します。
当時の東北地方は、ロシア船が我が物顔で津軽海峡を頻繁に往来していました。
宮部らと共に決めた出発予定日は、12月15日。
ところが、出発直前に問題が起こります。
長州藩が、松陰の手形の発行に手間取ったのです。
「出発を延期せよ」と通告してきました。
手形を持たずに出発すれば、それは脱藩!!重罪です。
長州藩士であれば、出発を延期する以外道はありませんでしたが・・・
松陰は手形のないまま予定通りに出発してしまいました。

松陰は、東北視察の旅日記に記しています。
”藩に背いた罪は、私の一身に留まる
 藩を辱めるより余程良い”
友との約束をたがえる方が長州の名折れとなると思ったのです。
余りにも不器用な生き方・・・しかし、松陰は、元来そういう性分でした。

厳罰覚悟で江戸を発った松陰は、水戸や佐渡を経由して、東北各地をくまなく偵察します。
江戸にもどったのは、翌年の4月で、すぐに長州藩の江戸藩邸に出頭しました。
すると、「萩に帰って謹慎し、処分を待つように」と命じられました。
そして、およそ7か月後、萩の実家に戻っていた松陰に下されたお沙汰は、”御家人召放し”・・・藩士の籍を剥奪し、家禄を没収するという厳しいものでした。
これで松陰は、一介の浪人となってしまいました。
しかし、その能力を高く買っていた毛利敬親は、松陰を見捨てませんでした。
実父・百合之介の育の立場となりました。
育とは、身分を剥奪された藩士を、親族の保護課に置き、後に復帰できるようにした長州藩独自の制度のことです。
そして、実父に、松陰の諸国遊歴の願書を提出させました。
藩が10年間の諸国遊歴を認めたことで、松陰は自由に他国修業が出来るようになりました。
毛利敬親が、天祐ともいえる諸国遊歴を許したのは、見識を広げた松陰を、いずれ藩士に復帰させるつもりだったからと言われています。
ところが・・・

吉田松陰の素顔④猪突猛進
脱藩の罪で浪人となるも、長州藩主・毛利敬親の温情で諸国遊歴を許された吉田松陰。
再び江戸の地を踏んだのは、1853年5月24日でした。
日本の眠りを覚ます大事件が起こったのは、その9日後のことです。
アメリカ船隊・・・黒船来航です。
マシュー・ペリー率いる黒船が、浦賀に来航しました。
黒船の来航を知った松陰は、江戸を飛び出し5日の深夜に浦賀につくと、先に到着していた佐久間象山たちと合流。
高台に登って4隻の黒船をつぶさに観察しました。
驚くのも当然、当時の和船は150tでしたが、黒船は4000t近くもあったのです。
さらに9日には、日本に開国を求める第13代大統領フィルモアの親書が浦賀奉行に手渡されました。
アメリカに抗えない日本の姿に、松陰は落胆しました。
松陰と同じように黒船を見た佐久間象山も欧米の技術力の高さを改めて痛感します。

「留学生を欧米に派遣して、その技術を学ばせるべきだ」by象山

と、幕府に建白書を提出しましたが、幕府はこれを却下しました。

「ならば、講義に頼らず渡航するしかない」by象山

とはいえ、国禁を破る渡航は死罪にもなり得る重罪でした。
誰がその役を担うのか・・・??

「私が行きましょう」by松陰

この時、松陰24歳でした。
1854年1月16日、ペリーが再び来航しました。
幕府と数回の交渉の末、3月3日に日米和親条約が締結します。
日本は開国への一歩を踏み出しました。
江戸で密航の機会を伺っていた松陰は、ようやく締結後、下田に移動した黒船に狙いを定め、ともにアメリカに渡りたいと申し出た足軽・金子重之助を連れて下田へ向かいます。
3月27日、下田についた松陰は、午前2時ごろ・・・盗んだ小舟で黒船に向けて漕ぎ出しました。
ところが、盗んだ小舟には、櫓を固定する杭がついていなかったので、なかなか前に進みません。
松陰は、櫓をふんどしで縛り、やっとのことでミシシッピー号にたどり着いたのですが・・・
ミシシッピ号には、日本語の分かる船員がいなかったため、再びポーハタン号に移ります。
そこで、ようやく日本語の話せる通訳のウィリアムスと対面します。
ウィリアムスは、松陰たちの勇気を讃えます。
しかし、「アメリカに連れてはいけない」と、きっぱりと拒否しました。
失意の中、引き返そうとした松陰たちでしたが、乗ってきた小舟が流されてしまいます。
暗闇で、船の行方も分からず・・・止むなく、ウィリアムスが用意してくれたボートで陸地まで送ってもらいました。

翌朝「公儀も放っては置かないであろう」と、金子重之助をつれて奉行所に出頭しました。
潔く自首することで、自分たちの行動の意味を幕府に問おうとしたのです。

「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」by孟子

誠の心で接すれば、必ず人の心を動かすことができる・・・

松陰はこれを実行したと言われています。
しかし、国禁を破る重罪・・・未遂だったとはいえ、死罪を覚悟していました。
幕府が下したお沙汰は・・・
”父・百合之介に引き渡し、在所において蟄居を申し付ける”
実家での謹慎でした。

金子に対しても、”長州藩に身柄を引き渡し、萩で蟄居させよ”という寛大なものでした。

実は、2人に対するお沙汰が寛大だったのは、外国に渡ろうとした松陰たちの勇気をペリーが讃え、厳しい処罰は避けてほしいと幕府に通告したからでした。

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罪人用の駕籠に乗せられた松陰たちが萩についたのは、1854年10月でした。
生きて再び家族の顔を見ることができた松陰は、感激していたといいます。
しかし、長州藩は、松陰たちの蟄居を許さず、萩城下の牢獄に入れました。
長州藩は、海外密航の罪を甘くは見ていないという幕府へのアピールでした。
こうして松陰は、武士階級の罪人用の牢獄・野山獄に・・・
元々染物屋の息子だった金子は、庶民の罪人用の岩倉獄に入れられました。
岩倉獄は劣悪で、1855年1月に、金子は岩倉獄で死去。
同志を失った松陰は、深く悲しみ、野山獄で使う日用品を節約して蓄えた金を、金子重之助の遺族に送りました。

吉田松陰の素顔⑤根っからの指導者
獄中で松陰は、読書漬けの日々を送っていました。
記録によれば、約2カ月間で106冊を読破。
ジャンルは歴史・地理・兵学・医学など幅広く、みな、兄・梅太郎が差し入れしたものでした。
また妹の千代も、食料品などを松陰に差し入れていました。
松陰は、女性に対して非常に潔癖で、30歳までは結婚しないと宣言していました。
結婚すれば、学問に費やせる時間が減り、志が揺らぐ恐れがあると考えていたからです。
まさに、学問一筋!!
そんな松陰が、野山獄に改革をもたらします。

野山獄は、一般的な牢獄と違い罪人だけでなく身内から厄介払いされた者も収容していました。
その為、出獄の見込みがなく、自暴自棄になっている囚人が多かったのです。
そこを松陰は、ひとりひとりの才能を磨くように、「孟子」や「論語」など、儒学の知識を提供します。               
囚人たちで知識を共有します。
松陰が始めた獄中勉強会・・・やがて牢番も参加するようになり、消灯時間を延長するという便宜も図ってくれるようになりました。
松陰は、野山獄に学問をする環境を作ることで、囚人たちに希望を与えたのです。
そして、1855年12月、松陰は病気・保養を名目として野山獄から釈放されます。
しかし、罪を許されたわけではなく、実家での幽閉を命じられました。
与えられた部屋は3畳半・・・外出は許されず、公に他人と接触するのも禁止。
そんな松陰を父は不憫に思い、気晴らしになればと身内を相手に「孟子」の講義を行わせました。
すると、近所の下級武士の子弟なども受講するようになります。
その評判が広がると、さらに受講生も増え、ついには私塾のような形になりました。
松陰の松下村塾の始まりです。
塾生は、90~100人ほどだったと言われ、入塾には身分の制限がなかったため、武士だけでなく、町人や僧侶、医者の子弟などがいました。
松陰は、どの塾生も対等に扱い、自身も決して選ぶらず、塾生たちを一緒に学ぶ友と呼び、塾生たちの間を歩き回りながら授業を行ったといいます。
決まったテキストがなく、塾生それぞれに合わせたテキストを与えていました。
24時間体制・・・講義の時間割も、月謝もありません。
塾生への食事の提供もありました。

「あなたは何をするためにここに来たのか}by松陰

その答えの最後は、”実行に移すことが大事、実行を以て世の中の役に立ちなさい”と言っていました。
塾生のことを第一に考えた松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋などが在籍し、その力を育んでいきました。

吉田松陰の素顔⑥誠を貫く

吉田松陰が、主催する松下村塾で塾生たちの教育に心血を注いでいた1858年6月19日、幕府の大老・井伊直弼が朝廷の同意を得ないまま日米修好通商条約を締結。
その勝手な行為に、外国嫌いの孝明天皇が激怒!!
これを知った松陰は、”大義を議す”と題した意見書を長州藩に提出。
そこにはこう記されていました。

「公儀は、帝を無視して亜米利加にへつらった
 これは将軍の罪であり、攻め滅ぼしてよく
 少しも許す必要はない」

幕府への不満が限界を超えた松陰は、ついに討幕を視野に入れるようになります。
一方幕府は、大老・井伊直弼のもと、幕府の政策に反対する者たちを次々と弾圧!!
世にいう安政の大獄です。
そんな中、松陰は、気になる情報を手に入れます。
尾張・水戸・越前・薩摩の四藩で井伊直弼を暗殺する動きが起こっていて、長州藩にも協力が求められているというのです。

「今から長州が加わっても、天誅の手柄は四藩に奪われてしまう」

焦った松陰は、別の幕閣の暗殺を画策します。
目をつけたのが、井伊直弼のもとで安政の大獄の指揮を執る老中・間部詮勝でした。
松陰は、松下村塾の塾生たちに、暗殺計画への参加を呼びかけ、藩には暗殺に使用する武器弾薬の借用したいと申し入れます。
しかし、幕府・老中の暗殺計画に、藩が手を貸すはずもなく・・・勝因を危険人物とみなし、松下村塾は閉鎖。
松陰は再び野山獄に投じられました。

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1859年4月19日、安政の大獄を進める幕府は、危険人物である松陰の身柄を差し出すように長州藩に命じます。
そして、江戸に送られる前日の5月24日。
松陰は野山獄の役人の計らいで、1日だけ実家に帰ることを許されました。
風呂に入っていた松陰に、母の滝が、
「江戸から無事にもどり、もう一度その顔を見せておくれ」というと、
「見せましょうとも、必ず元気で帰りますよ」
翌朝、護送用の駕籠に乗せられた松陰は、家族に見送られて出発。
その顔に涙はありませんでした。
しかし、萩郊外の高台で駕籠を止めてもらうと、故郷の風景をしばらく眺めていたといいます。

7月9日、江戸についた松陰の取り調べが始まりました。
しかし・・・松陰は、老中の暗殺計画について追及されると思っていましたが、問われるのは身に覚えのない罪状ばかり・・・
実は、幕府は松陰の老中暗殺計画を知りませんでした。
他の過激派との関係を取り調べていたのです。
このままでいけば命は助かるはずでした。

「僕は国をよくしたいだけだ
 その為なら、ご老中・間部殿の天誅も辞さなかった」

老中の暗殺計画を自白してしまいました。

そして下されたお沙汰は、”死罪”

松陰の至誠はむなしくも通じませんでした。

1859年10月27日、刑場に連れてこられた松陰は、処刑に立ち会う役人たちに毅然と声をかけました。

「ご苦労様」

そして、誠を貫いた30年の人生に幕を閉じました。

松陰が処刑前日に書き上げた「留魂録」
”もし、私の真心に共感し、志を受け継いでくれるものがいれば、それは撒かれた種に絶えることなく実を結ばせるも同じである”
その遺言とも取れる松陰の厚き思いは、松下村塾の塾生たちに受け継がれ、時代を動かすことになったのです。

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