日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: ダークサイドミステリー

青い海、美しい砂浜・・・お金持ちのリゾート客が楽しむカリブ海・・・
2022年6月・・・海底を調査していたコロンビア海軍が1708年に沈没したスペイン財宝船2隻を発見しました。
積み込まれた金銀や美術品・・・政府が発表したその価値は、2兆2000億円!!
当時カリブ海では、中南米で取れた宝石や貴金属をヨーロッパに運び込む船が盛んに行き交っていました。
その財宝船を狙う奴らが・・・カリブ海の海賊です。

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かつてハリウッドで盛んに作られた海賊映画・・・
一攫千金を狙って生きるか死ぬかの一発勝負!!
硬い絆の仲間たち・・・自由を愛する陽気なヒーロー・・・それが映画や物語に登場する海賊のイメージです。
しかし、カリブの海賊の時代にその実態を描いた本があります。
1678年「アメリカの海賊」(ジョン・エスケメリング)・1824年「もっとも悪名高い海賊の強奪と殺人の歴史」(チャールズ・ジョンソン)です。

そこに記された海賊の残虐さは・・・
捕虜を的にして射撃の腕を競い合う
甲板に捕虜を集めて大砲を放つ・・・何人死ぬのかかけをする
極めつけは頭を縄で縛り、棒を差し込み、目玉が飛び出るまでねじる!!「ねじりあげ」という拷問です。

残虐であればあるほど一目を置かれるのが海賊の世界・・・!!
なかにはあまりに残虐で、「奴に捕まるくらいなら死んだ方がまし」と噂された海賊が、フランシス・ロロノア・・・フランス人でした。
ロロノアが内陸の町に向け森の中を進んでいると、スペイン兵の待ち伏せに遭います。
反撃して何人か捕虜にすると、怒り狂ったロロノアは、にわかに短刀を抜いて捕虜の胸を切り裂き心臓を手づかみで取り出すと・・・
「安全な道を正直に教えろ!!さもないとお前たちもこうしてやるぞ!!」
見せしめのため、別の捕虜の口に心臓を突っ込んで食べさせました。

海賊は、楽しい時にも、腹を立てた時にも、同じようによく人を殺しました。
彼らの笑顔の中には、危険が潜んでいました。

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カリブの海賊のきっかけは・・・
1492年コロンブスの「新大陸」再発見以来、カリブ海はスペインが支配していました。
1655年、新大陸への進出に出遅れていたイギリスは、カリブ海に貿易拠点を築こうとジャマイカ島を攻略。
イギリスは国の財源となる大規模なサトウキビ畑を開拓します。
そこで強制的に働かされた人がいました。
年季奉公人・・・植民地の地主に雇われた期間限定の白人奴隷です。
本国で多額の借金を抱えた貧民や失業者、犯罪者でした。
そんな食い詰め者たちが、カリブ海に送り込まれたのです。

ムチで打たれながら、劣悪で、過酷な環境で働かされる日々・・・
ここで死ぬくらいなら犯罪者の方がましだと逃げ出した人々が、無法者、海賊となりました。
生きるということが全て・・・力の強い者、暴力を持つ者が君臨して行く場所・・・それが、カリブ海の海賊の世界でした。
しかし、いくら無法地帯とはいえ、海賊行為はもちろん犯罪でした。
イギリスやスペインなど国家の役人に捕まれば縛り首でした。

ところが、海賊の中には、国の制度を利用して英雄になりあがる海賊も・・・!!
ヘンリー・モーガン・・・イギリス生まれの策略家です。
15歳の時、年季奉公人としてカリブ海に送られたモーガンは、一発逆転の野望を抱いて海賊となりました。
欲望まみれの海賊たちは、奪ったお金は酒場や娼館で使い果たします。
しかし、モーガンは金を節約し、貯金を続けました。
30歳の時、ためたお金でジャマイカ島で小さな農園を買います。
「身分が違うのはわかっている
 でも、結婚してほしい」
農園の地主として貴族であるジャマイカ総督一族の娘と結婚。
堅実な人生設計でしたが・・・築いた地位をもとに、モーガンは33歳で私掠免許を手に入れます。
海賊らしくない生活は、全てこのためでした。
私掠免許とは・・・イギリス国王から貴族や商人など金持ちの船主に発行される略奪許可証です。
つまり、国家後任の海賊免許でした。
これがあれば、イギリスの宿敵スペイン相手にいくら略奪、殺人を起こしても罪には問われません。
モーガン最悪の略奪は、パナマ北部のポルトベロ。
当時はスペイン領で、財宝輸送拠点のひとつであり、難攻不落の砦を備えていました。
その砦に、海賊460人を率いたモーガンが襲い掛かります。
しかし、砦に近づくことができません。
するとモーガンは、神をも恐れぬ作戦に・・・!!
町の教会や修道院から神父や修道士、修道女を無理やりかき集め・・・彼らに梯子を背負わせ砦の城壁に架けさせたのです。

「こいつらを人間の盾にして攻め込め!!」

敬虔なカトリック信者のスペイン兵士たちは、聖職者を撃つことが出来ず、砦は陥落。
スペインの拠点の地を手に入れたモーガンは、1カ月に渡り拷問・強奪・殺戮・凌辱・・・莫大な財宝迄ふんだくりました。

「私掠免許があれば、なにも恐れることはない
 やりたい放題だ」

そんなモーガンに、イギリス王室はナイトの称号を授与、さらに、ジャマイカ副総督に任命しました。
若き頃からの野望を果たしたのです。
一方、イギリスも私掠品の略奪で、植民地が潤うのだからぼろ儲け!!
国が過酷な労働に送り込んだ年季奉公人が海賊となり、国も海賊を利用して豊かになる・・・!!
そんな無法地帯の悪循環がカリブ海の海賊を生んだのです。

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1692年、時代は大転換!!
敵対していたイギリスとスペインが和平を結び同盟国となります。
私掠免許は無効となり、海賊は縛り首!!海賊の取り締まりが強化されることになりました。
そんな逆風に逆らって、ずる賢さで生き残ろうとした男がいました。
真夜中の裏切り者ヘンリー・エヴリーです。
その海賊人生も、裏切りから始まりました。
エヴリーは、元は海賊を取り締まるイギリス艦隊の兵士でした。
ある真夜中、エヴリーの乗る船が静かに動き出します。
船長が眠るのを見計らい、エヴリーが勝手に出航させたのです。

「これからは俺様がこの船の船長だ!!
 海賊を取り締まるより、海賊になった方が大儲けができるぜ!!」byエヴリー

一夜にして船長の座と85人の手下を手に入れました。
取り締まりが厳しいカリブ海を避け、インド洋へ略奪三昧・・・!!
エヴリーは、440人と6隻を従える大海賊となりました。
エヴリーは手下に命じます。

「奪った財宝を6隻の船にバラバラに積んでいると、誰かがちょろまかすかもしれねえ
 そこで、親分であるオレの船にまとめて積み俺がしっかり守ってやる!!」byエヴリー

ところが・・・
「この船には一生安楽に暮らせるだけの財宝がある
 他の奴らのことなど知ったこっちゃねえ!!」byエヴリー

真夜中、眠ってしまった5隻の手下を置き去りにして、財宝を持ち逃げしました。
エヴリーは余生を過ごすために故郷のイギリスへ・・・!!
ところが、財宝を現金に換えるため町の商人に預けたが・・・

「いいんですか・・・??
 あんたがお宝をどうやって手に入れたのか、役人にばらしたら縛り首ですよ」by商人

悪徳商人の方が一枚上手・・・まるで陸の海賊でした。
あわれ・・・ほぼすべての財産を奪い取られたエヴリーは貧乏暮らしの末に病気となり、37歳で死亡。
自分の棺の代金さえ、残っていませんでした。
海賊としては策士でも、陸では子ども扱い・・・
それが追い詰められた海賊の現状でした。

こうして数を減らしていったカリブの海賊・・・
しかし、その後、またもや国家の都合が海賊の運命を変えます。

きっかけは、1702年、イギリスとスペインの関係が再び悪化。
スペイン継承戦争が始まります。
この戦争で、海軍力に劣るイギリスは、「私掠免許」を乱発します。
1600隻以上が「私掠船」となりました。
スペインの輸送船を相手に大暴れ・・・!!
略奪で大儲けのチャンスです。
何万人もが、私掠船の船員になったのですが・・・以前とは大きく条件が変わっていました。
私掠船が奪った略奪品は、10%をイギリス政府が徴収、残りの90%を、船主・船長・船員たちで30%ずつ分配・・・つまり、乗組員が50人ならば船員1人の取り分は0.6%となります。
船長の1/50でした。
うまい汁を吸ったのは、船主や船長だけ・・・一攫千金の夢などありませんでした。
海賊も組織の中に組み入れられたサラリーマン海賊となってしまっていました。
大きな夢は見られずに、ある程度の収入を確保していく・・・
それが私掠免許のもとで行われていました。

さらにこの後も、国の都合が変わり、海賊たちは振り回されます。
1713年、スペイン継承戦争終結。
「私掠免許」が無効となり、私掠船は廃止、多くの船乗りが失業します。
すると今度は、船主であるイギリス貴族や商人が悪徳業者と化しました。
船乗りが運よく働き口を見つけても、人余りに付け込む船主から船員は凄まじい搾取に合うのです。
強欲な船主に買いたたかれ賃金は50%カット、航海の最中、船長は出来るだけ少ない予算で積み荷を運ぼうと船員の食費を切り詰め、そのうえ、長い航海の気晴らしに船員をムチで虐待するなど繰り返す者もいました。
まるで、「年季奉公人」に逆戻りしたような状況でした。
船乗りは・・・
「理不尽な支配に対する憎しみが、その後の俺の人生を決めた
 国家が俺たちを使い捨てにせず、法的な支援をしてくれたなら、これほど多くの船乗りが海賊になることはなかっただろう」

かたぎの船には絶望しかない・・・!!
船乗りの5人にひとり、2000人ほどが海賊となりました。
ところが、そうした海賊の中から、国家や商人の不条理な支配に立ち向かう男がいました。
人呼んで海賊の先生ベンジャミン・ホーニゴールドです。
有名な海賊黒ひげなど、多くの船長を育てた親分肌のイギリス人です。
ほーにゴールドは、輸送船を襲うと、いつも船員に奇妙な質問をしました。

「お前の船の船長は、いい奴か?それとも悪い奴か?」

船員がいい船長だと答えると、その船長にボートを与え、食料を渡して解放しました。
しかし、船員が船長に虐待され悪い奴と答えると・・・鼻を削ぎ落し、耳を切り取りました。
権力を嫌い、船乗りの気持ちを大事にするホーニゴールドの元には、海賊たちが続々と集まりました。
また、いくら海賊が集まっても、財宝を監禁するとき悪徳商人に騙されたら元も子もない・・・
そこで、ホーニゴールドが始めたのが、新たな拠点づくりでした。

目をつけたのがバハマ諸島のひとつ・・・ニュープロヴィデンス島です。
イギリス領でしたが、戦争でスペインの攻撃を受け、荒れ果てたまま放置されていました。

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1715年、ホーニゴールドはこの島に拠点を定め、他の海賊団も誘ったため2000人の海賊が集まる町として復興します。
すると、金の匂いにつられ商人たちも集まってきました。

「海賊の金を当てにするほど欲に目が眩んだ悪徳商人なら、役人に密告しないだろう」byホーニゴールド

しかし、つられてきたのは商人たちだけではありませんでした。
復興した島を支配下に治め、利権を手にしようとイギリス政府が行政官を送りこんできました。
すぐさまホーニゴールドは、行政官の屋敷を訪ね言い放ちます。

「もしも海賊に手を出してみろ、家を焼き尽くしてお前を殺す!!
 家族はムチで打ち据えてやる!」byホーニゴールド

怯えた行政官は、島から逃げ出しました。
ホーニゴールドは、島の人々を集めて宣言します。

「この島は、イギリスに見捨てられた
 これからは俺たち海賊が守る!!」byホーニゴールド

イギリスの支配を離れ、海賊の自治区となったニュープロヴィデンス島。
人々は、この不思議な共同体をこう呼びました。
その名も”海賊共和国”と!!

1715年、バハマ諸島ニュープロヴィデンス島に海賊共和国が誕生。
およそ2000人の海賊たちの拠点には、商人や娼婦なども集まり、中南米有数の町として繁栄します。
ここではならず者もみんな仲間・・・共同体の秩序を守るために驚くべきルールがありました。

この「海賊の掟」を守ることが仲間の絆を維持し1人ひとりの利益になる!!
・各人は重大事項の決定に際し、1票の権利を有する
海賊船では、次の略奪目的や船長を選ぶなど大事なことは投票で決めます。
身分や立場に関係なく、1票の権利があります。
船長が信頼できなければ、投票で辞めさせることもできます。

・船長は戦利品の2人分、そのほかは1人分を取得
戦利品は、乗組員みんなで公平に山分けです。
船長さんは、責任があるので多めですが、2人分に抑えています。
私掠船の場合は、乗組員は船長の何十分の一で下から、格段の待遇のよさ!!
乗組員も”やりがい”をもって「略奪」できます。

・敵と交戦中に四肢のいずれかを失った者には150ポンドを支払い、 船に残ることは自由とする
ケガをした時の補償も充実
5年間は遊んで暮らせるだけのお金が支払われます。
職場に残ることもできるとは、至れり尽くせりの労災補償です。

危険を伴う仕事なので、雇用規約が生まれました。

自分達はルールに縛られながら、外に向かってはルールを逸脱した行為をする・・・
非常に矛盾した世界の中で生きていました。

1718年、カリブの海賊は5000人に増え、400隻が海を荒らしまわりました。
海賊黄金時代の最盛期を迎えていました。
しかし、イギリスやスペインが黙っているわけもなく・・・
海賊の被害は前輸送船のおよそ半分・・・2500隻が襲われる甚大なものになっていたからです。
海賊は、スペイン帝国、大英帝国、デンマーク、オランダ、フランスなど、ヨーロッパ経済の生命線となっていました。
「新大陸」との貿易にとって、脅威になりつつありました。
全ての帝国は、海賊共和国を憎み、海賊の排除を目論んでいたのです。
それぞれの国が、海賊討伐のため軍艦を急造、カリブ海に派遣!!
世界が海賊共和国の壊滅に向け動き出していました。

1718年、海賊共和国は誕生から3年がたち、最盛期を迎えていました。
この壊滅を狙うイギリス政府は、イギリス最強の切り札を投入します。
ウッズ・ロジャーズ・・・世界一周の偉業を成し遂げたイギリスの英雄です。
元私掠船員・・・海賊としてその強さも弱点も知り尽くした男でした。
1718年7月24日、ロジャーは7隻の軍監で海賊共和国に乗り込みました。
ところが、ロジャーズが海賊たちに示したのは温情策でした。
恩赦令でした。

「武装を解除して投降すれば、国王はお前たちのこれまでの罪を許して下さる
 略奪で稼いだ金を持ったまま余生を過ごすことができる
 もし、恩赦に逆らえば、取り締まりによって縛り首だ
 どちらか好きな方を選ぶがよい」

海賊たちは直ちに対応を話し合います。
しかし、意見は大きく割れました。
恩赦賛成派・・・「海賊の先生」ホーニゴールド
海賊共和国を作った男がなぜ・・・??
「俺たちはこれまで100年暮らせるほどの財宝を略奪してきた
 恩赦を受ければ、何の心配もなく、生まれ故郷に戻って余生を過ごすことができる
 こんなにおいしい取引を断わる奴は間抜けだぜ」byホーニゴールド

恩赦拒否派・・・「ホーニゴールドの弟子」黒ひげ
「国王や議会なんぞくそ食らえだ
 俺たちが敗れるときは船の火薬庫にピストルをぶち込んで木っ端微塵
 そろって陽気に地獄へ行くのさ!!」

翌日夜・・・イギリス艦隊が大爆発!!
恩赦を拒否する海賊が、火薬を積んだ船をイギリス艦隊にぶつけたのです。
しかし、全てはロジャーズの狙いのうちでした。
直ちに、恩赦派のホーニゴールドに拒否派の討伐を命じました。

「国家に歯向かうならず者を捕まえたら、ひとりに付き30ポンドの報奨金を出そう!!
船長なら100ポンドだ!!生死は問わない!!」

仲間をひとり捕らえれば1年から3年暮らせる高額賞金!!
同士討ちをそそのかされたホーニゴールドは、3週間後・・・
10人の海賊と3人の死体をロジャーズに差し出しました。
莫大な賞金を得たホーニゴールドは、海賊ハンターとして元の仲間を捕らえ続けました。

一方、恩赦令を拒否した黒ひげは、カリブ海を離れ、北アメリカで海賊行為を続けていました。

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1718年11月22日・・・
黒ひげは、自らイギリスの軍艦を攻撃!!
酒を煽りながらイギリス軍艦に吠えます。

「オレは、貴様を見逃そうとは思わねえし、命乞いしようとも思わねえ!!」

これが最後の言葉となりました。
 
絶命した黒ひげの体には、20カ所の刀傷と5発の銃弾が残されていたといいます。
黒ひげの片腕ブラック・シーザーは、遺言を託されていました。

「俺が死んだら火薬庫に火をつけて、船を爆破しろ」

しかし、寸前で逮捕。
シーザーら手下たちはみな、縛り首となりました。
処刑の直前、ひとりが海賊の魂を叫びました。

「もっと悪事を働かなかったことが心残りだぜ!!」

恩赦令を拒否した海賊たちは、毎月数十人処刑され続け、海賊共和国はわずか3年で崩壊しました。
一方、恩赦令を受け入れたホーニゴールドは、莫大な財産をもとに余生を丘で過ごすはずでしたが・・・
イギリス政府に従い「海賊狩りを」続ける中、逮捕、処刑されます。
捕まえたのはホーニゴールドに恨みを持つスペイン海軍でした。

その後、カリブ海は国力を増したイギリスが制圧。
輸送船を守る数多くの軍艦の武力によって、海賊は消え去っていきます。

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白いローヴの三角頭巾・・・アメリカの闇・白人至上主義の秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)。
殺害、爆弾テロ、秘密を破る者には制裁を!!
三角頭巾に謎めいた儀式を行う・・・白人至上主義を訴え、時に黒人をリンチ、殺害に及ぶ・・・日本人の知らない彼らの頭巾の下の素顔とは??

「秘密結社KKK 白い闇の正体~人はなぜ差別と暴力に走るのか?~」



アメリカ南部ミシシッピ州ネショバ郡フィラデルフィア・・・
人口7000人余りの小さい町・・・50%が黒人で、40%が白人です。
58年前、KKKによる全米が恐怖に震える事件が起こりました。

”ミシシッピ・バーニング事件”です。

1964年6月21日夜・・・町を訪れていた3人の公民権運動家が突然行方不明となりました。
原因は不明・・・3人とも20代前半の若者でした。
地元ミシシッピ州出身の黒人と、北部ニューヨークから訪れた白人二人です。
彼らは人種差別に反対し、黒人の公民権、政治参加の権利を確立する活動のため、ミシシッピを訪問。
車ごと、ぷっつりと姿を消しました。
失踪から2日後の6月23日、激しく燃やされた車が郊外の沼地で発見されました。
3人の姿はなく・・・何者かが証拠隠滅を図ったのです。

首都ワシントンD.C.の公民権団体からの要請で、サリバン捜査官を中心とするFBI150人が派遣されました。
FBIは、海軍にも協力を要請。
500人以上が、3人を見つけるべく車の発見現場の近くの森や川を捜索しました。
すると・・・遺体発見!!
黒人でした。
ところが、行方不明の若者ではありませんでした。
捜索を始めると、町のあちこちで8人もの遺体を発見します。
その多くは、激しい暴行を受けていました。
リンチ殺人が多発しているのに、表向きは平穏・・・異常事態の町で一体何が起きているのでしょうか??

1960年代当時、アメリカ南部の11全ての州では、独自の人種差別政策が100年近く施行されていました。
黒人は、専用の場所にしか出入りが許されず、学校や電車、バス、待合室、さらにはホテルやレストランまで・・・特に選挙は、連邦法で黒人にも投票権がありましたが、南部では州独自の法律を作り、脅し、暴力で黒人が占拠に行けないように仕向けていました。

行方不明の3人は、この状況を変えようと、北部の公民権団体の支援を受け、ミシシッピ州で黒人のための活動を行おうとしていました。
それを、何者かが阻止しようとしている・・・
さらに、州知事までもが・・・
「私には3人が殺されたとは思えない
 そのような憶測を正当化する州警察の情報も何もない」

誰もが同じように、事件は起きていないという態度・・・
FBIによる聞き込みも難航します。
白人も黒人も、怯えるように協力を拒否・・・
「話すな・・・沈黙しろ!!」
何者かが、恐怖で町を支配していました。

3人の失踪から40日後・・・郊外のダム建設予定地で、事態は動きました。
3人の遺体が発見されたのです。
激しい暴行を受け、射殺されていました。
3年後、FBIはようやく容疑者を確定、逮捕・起訴しました。
その数は18人に及びました。
ガソリンスタンド勤務、トラック運転手、牧師、セールスマンなど職業はバラバラでした。
共通していたのは、みな、ミシシッピの秘密結社に属していたことです。
KKK組織・・・「ミシシッピの白い騎士団」です。
それは、南部各地にある白人至上主義の秘密結社・クー・クラックス・クランのうち5000人もの団員がいる有力組織でした。
設立者は、逮捕された一人サミュエル・バウワーズでした。
日常での表の顔は、自動販売機の業者・・・しかし、秘密の裏の顔は、”グランド・ウィザード偉大なる魔法使い”と呼ばれるリーダーでした。

潜入捜査!米国にはびこる白人至上主義



1960年代のミシシッピでは、クランは秘密裏に襲撃し、爆破し、人を殴り、人が中にいようとかまわず家や職場に銃を撃ち放火する・・・こういったことが日常茶飯事だったのです。

事件が発生した1964年6月2日、夜10時半・・・
運動家の若者3人が車で走行中、後ろから3台の車がついてくる・・・
1台は保安官のパトロール・カー、なんと、保安官と副保安官がKKKのメンバーだったのです。
集団でリンチ、射殺・・・この時、主犯格の副保安官プライスが語った言葉を研究者が記録していました。

「君たちはいい仕事をした
 ミシシッピは君たちを誇りに思うだろう
 この州の立場を外の奴らに知らしめたんだ
 だが、その前に、お前たちひとりひとりの目を見て言いたい
 最初にしゃべった奴が死ぬんだ
 しゃべる奴は死ぬ、死ぬ、死ぬ」

彼らはテロリスト集団です。
「そんなことをするな」とか、「あなたの組織に反対している」という白人がいれば、今度は彼らが標的となってしまいます。

1967年10月、裁判開廷
地元で開かれた裁判に、逮捕された副保安官、保安官、を含む18人が現れました。
陪審員は、全員、地元から選ばれた白人です。
判決は・・・18人中7人が有罪。
いずれも殺人罪ではなく、公民権活動侵害の共同謀議という軽い罪に終わりました。
表向きは善良な一市民として過ごし、裏では白人優位の社会を守るため、差別と暴力、恐怖による支配をいとわない・・・それが、クー・クラックス・クランの正体でした。

1860年代、最も初期のKKKの衣装・・・白装束ではなく全身が赤と白でした。
三角帽子にマスク、どうしてこんな格好をしたのでしょうか??
アメリカ南部・音楽の町として知られるテネシー州ナッシュビル。
車で2時間ほど南に、人口8000人ほどの町プラスキがあります。
町の中心部・かつての判事事務所の入り口に、奇妙なものが飾られています。
裏返された銘板、かつて表向きになっていた時代はこう読まれました。

”クー・クラックス・クラン ここに結成される
      1865年12月24日        ”  

結成したのは、20代の若者6人でした。
弁護士や地元新聞の編集者など、町のインテリ層で、全員が南北戦争での元南軍兵士でした。
南北戦争・・・それは、1861年~65年、アメリカ史上最悪の70万人以上の死者を出した内戦です。
北部23州と、南部11州の戦いでした。
おびただしい犠牲を出しながら、1865年、南軍が敗北します。
南部各地に北軍の連邦勢力が進駐し、各州が合衆国に復帰し、国家再建に向け戦後処理が行われました。
その中にあったのが、南部にあった黒人奴隷の開放でした。
そもそも南部は、黒人奴隷を使い、綿花を中心とした農業で繁栄していました。
その400万人に及ぶ奴隷に、アメリカ国民の権利を与える奴隷解放が始まったのです。
選挙権が認められ、これまで白人が独占していた南部の政治の世界に黒人が入ってくることになりました。
戦争に敗北した上、これまでの白人独占の社会を強制的に変えられることは、南部の白人たちには耐えられない屈辱でした。
そんな中、札付きの6人の南軍兵士がうっぷん晴らしの秘密のいたずらを始めました。
すると、白人たちの間で話題となり、広がっていきます。
それが、奇抜な衣装で人々を驚かすイタズラでした。
赤と白のストライプ、胸には月と星・・・これは、南軍の軍旗などに良く使われたモチーフです。
マスクは流行が広がるにつれ、バリエーション豊富となります。
いずれも昼間の素顔を隠し、グロテスクな見た目で威嚇します。
やがて、こうしたうっぷん晴らしは、不満を抱えた何ぐ¥部の人たちに広まって、過激なものになっていきます。
彼らが敵とする人々は、南部の社会を変えようとする白人や、奴隷から解放された黒人への組織的な暴力へと発展していきました。

KKKを語るうえで、当時の一般的な白人の黒人に対する暴力行為について考える必要があります。
この時代は、暴力的な時代で、白人が黒人に暴力を振るうのは当たり前でした。
プラスキでKKKが結成されたころ、一般白人も黒人への暴力を盛んに行っていたのです。
この二つにはおそらく関係があり、一部の人たちはその両方に関係していました。
たった6人によるKKK発足からわずか1年半後の1867年5月。
参加者が55万人に達したKKKを一つにまとめる男が現れました。
元南軍将校のネイサン・ベッドフォード・フォレストです。
南軍の英雄で人気が高い人物がリーダーとなり、巨大組織に作り替えたのです。

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KKKの規約書・・・タイトルは、***の規約。
あくまで秘密結社なので、KKKとは一切書かれていません。
入会の儀式では、思想がクランに相応しいかどうか、質問を受けます。

「あなたは黒人の平等に反対しますか?」
「あなたは南部の権利を維持することに賛成しますか?」

そして、もし組織の秘密を外に漏らすようなことがあれば、”裏切った会員は、法に基づく究極の罰を受ける”
その組織と肩書は、かなりファンタジーです。
南部14州の帝国で騎士団を統括するのは、帝国の偉大なる魔法使いと10人の精霊・・・
各地方の王国を担当するグランドドラゴンと8人のヒドラ。
その下の位も、巨大人、ゴブリン、一つ目巨人、大修道士・・・と、ファンタジーのような肩書が続きます。
会員は、現実社会とは異なる秘密帝国の一員の気分となります。

フォレストは豪語します。

「もし有事となれば、5日以内に4万人の男たちを派遣することができる」

フォレストは元軍人で戦前は奴隷商人、暴力的な人で彼の哲学は暴力と白人至上主義でした。
彼にとってKKKは、戦争に負けて失った南部の名誉や尊厳を取り戻す一つの手段だったのです。
しかし、KKKメンバーの暴力は止まりません。
1898年、ジョージア州では3か月で39人がKKKによって殺害されました。
アラバマ州では109件の殺害事件、3カ所の黒人学校が襲撃され、裁判所も放火されました。
KKKは、それぞれの地方で過激化の一途をたどり、フォレストの権威でも抑えられなくなっていました。
第1期のKKKで重要なことは、中央集権ではなかったということです。
KKKで起きた人の命を奪うリンチや殺人は、特定の誰かが指揮して行われたわけではありません。
暴力を振るう相手も、その振る舞い方も違うため、上から統制することはできませんでした。
1869年、フォレストはKKK解散。
バラバラになったメンバーたちは、個別に北の連邦軍勢力に制圧されるなど、勢いを失い消滅しました。

1877年、南部全ての州から連邦軍が撤退。
南部で黒人の参政権などが認められ、奴隷解放が完了するのを見届けてのことでした。
ところが、連邦軍の重しが取れたとたん、南部の各州は黒人の隔離制度(ジム・クロウ法)成立。
後の、1960年代まで続く公共施設の分離や、黒人が選挙権を行使できない状態はここから始まりました。
過激な暴力による差別集団・KKKが消滅したそのあとにこそ、その後90年に及ぶアメリカの黒人差別社会は固定されていくのです。

KKKの会員数が最も多かった1920年代、やっていたのはパレードとフォークダンス。
500万人が暴れるどころか、家族で集まる楽しいイベントでした。
1920年代、アメリカに大衆文化が花開きます。
KKKが突如復活!!
その行動とは・・・??
観覧車を楽しむKKK、飛行機の前で記念撮影、”絶対秘密で裏切り者には罰を!!”の決まりはどこに??
笑顔で復活したKKK。
1910年代、アメリカはそれまでの価値観が大きく変わる時代を迎えていました。
ニューヨークには、超高層ビルが立ち並ぶようになり、北部アメリカの工業化は目覚ましく発展しつつありました。
一方、南部を中心とした農村地帯は、経済的に立ち遅れる地域が多く、保守的な農民層の間で不満は募る一方でした。
南北戦争で発生した分断の傷は、いまだ癒されてはいませんでした。
そんな中、KKKをメインに描いた大作映画が公開されます。

それでもあなたを「赦す」と言う――黒人差別が引き起こした教会銃乱射事件 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズIII-11)

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1915年公開の「國民の創生」・D.W.グリフィスです。
物語の舞台は、南北戦争とその後の南部社会。
奴隷から解放され、平等な権利を与えられた黒人たちは、日に日に勢力を増し、白人女性に結婚を迫ったり、選挙の際白人の投票を拒否したりと、やりたい放題・・・。
そこに突如、馬に乗って表れた救世主がKKKでした。
眼だけ出した真っ白な衣装、秘密どころか白昼堂々「正義の騎士団」として、横暴な黒人たちを打ち負かします。
物語は、南部と北部の白人男女が結ばれハッピーエンド・・・分断された南部と北部が統合されたのです。
この映画は、黒人を極端に悪者として描いたことで、激しい抗議や上映禁止運動に晒されましたが、興行はロングランとなり、当時の白人層の気持ちに応えたものでした。
そして、映画公開中の1915年11月・・・ジョージア州ストーンマウンテンで。
この山の頂上で、炎で光り輝く十字架が掲げられました。
KKKの復活でした。
第2期KKKを創設したのは、おどろおどろしい仮面の男・・・教会の牧師ウィリアム・シモンズでした。
シモンズは、後におなじみとなる白装束など、映画國民の創生でのイメージに影響を受け、復活させたと言われています。
第1期KKKの理念を受け継いで作られた第2期の規約「クロラン」
この内容には、第1期と決定的に異なる部分があります。
入会時の質問の重要ポイントは、
「あなたはキリスト教の教義を信じますか?」
「あなたはこの国で生まれた生粋の白人ですか?」でした。

第1期への重点である
「南部の権利を維持することに賛成しますか?」
「黒人の平等に反対しますか?」
ではなく・・・白人のキリスト教徒であることを最も重視しているのです。

「私たちは創造主によって定められた人類の人種間の区別を認め、白人至上主義を忠実に維持し、いかなる妥協にも断固として反対します」byクロラン

彼らが嫌悪感を示したのは、当時急増していたイタリア、ポーランド、ロシアなどからやってくる「新移民」でした。
これまでアメリカに渡ってきた白人の多くがキリスト教プロテスタントであったのに対し、「新移民」はカトリック、正教、ユダヤ教・・・しかも、Sん移民たちは、自分たちの文化をそのまま持ち込み、コミュニティーを作り、アメリカ社会に同化しようとしませんでした。
シモンズ達第2次KKKは、これを警戒したのです。
彼らは、自分達開拓時代からの白人が、とても大きな力を持っていて豊かなのは、生物としての進化の最上位にいることを生まれながらに運命づけられていると信じていました。
従って、新移民さえいなければ、あらゆる面で秩序正しく純粋で、清潔になるはずだと空想しました。

シモンズは、第1期のように暴力で他社を排除するのではなく、みずからが古き良き時代の道徳を取り戻すよう訴えます。

「我々の祖先の古きアメリカは、至る所で消え去りつつある
 我々アメリカ人は、進むべき道を改めなければならない
 我々に必要なのは、良識と健全なる精神の復興である
 我々は前進するのではない
 我々は逆戻りするのである」byシモンズ

KKKは、病院や学校建設のための寄付を募るなど、慈善活動を盛んに行います。
そして、新たな会員を集めるために、家族連れで楽しめる娯楽イベントを開催します。
遊園地でのイベント、アクロバット飛行ショー、ドラゴンに立ち向かう騎士のパレード・・・
そして、KKK復活から10年が経った1925年8月、首都ワシントンD.C.で、大規模なパレードを開催します。
この頃、KKKは全米で200支部、会員数は500万人の政治勢力にまでなっていました。
自分達の社会が変わる不安を抱えた人たちが、娯楽の楽しさに導かれ、白人至上主義という差別意識に取り込まれていきました。
この会員たちは、過激な思想を持っていたわけではありません。
白人至上主義は、規範的なことでした。
誰もが大きな社会集団であるKKKに加わったかもしれません。

1924年、アメリカ連邦政府は、移民の年間受け入れ数を大幅に制限する移民法を施行します。
KKKは大きな目標を達成したことで、勢いを失います。
会員数を急速に減らしたKKKは、古き良きアメリカの実現が出来ないまま衰退していきました。

1960年代、アメリカ国民の価値観が、大きく揺らいだ時代・・・
KKKは、三度よみがえります。
この間、KKKが起こしたとされる爆弾・爆破のテロの数は、100件以上。
第2期と打って変わって暴力の恐怖と秘密を絶対とする集団としてよみがえったのです。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・・・
1950年代半ばから始まった公民権運動。
人種差別の解消を目指す運動は、社会全体を大きく揺さぶりました。
ところが、1957年、白人が通う公立高校(アーカンソー州リトルロック・セントラル高校)で、黒人生徒の受け入れをめぐり軍隊が出動する騒ぎとなりました。
騒ぎの中、白人の生徒たちは、
「授業は一緒でも構わないけど、ダンスパーティーはイヤです」
「黒人と一緒の授業は無理です」
「学校が閉鎖された方がましです」
社会が変わることを、保守的な白人層は拒絶し続けました。
権利を求める黒人への暴力・・・こうした社会の分裂に応えるように復活したのがKKKでした。

「神のご意思のもと 死ぬまで一歩も譲らない」

この時のKKKは、全国組織ではなく、南部の各州でその名称を名乗りました。
特に、アラバマ州のKKKは、最悪の活動を活発に行っていました。
1950年代を通じて、白人の居住区に住もうとした黒人の家などが襲撃されました。
ダイナマイトによる爆弾事件はおよそ50件。

1961年、アラバマ州アニストンでは、公民権運動家のバスに火炎瓶を投げ入れ、脱出した運動家たちに暴行!!
しかも、公民権運動に反対する警察署長は、KKKのメンバーと秘密の連携をもち、見て見ぬふりをしました。
容疑者は逮捕されても無罪か、軽い罪で終わりました。
何物かが、権力者と秘密の結託、見えない恐怖が町を覆いました。
それがこの時代のKKKでした。
彼らがやろうとしていることの一部には、恐怖を広げ、その為にうまく秘密主義を押し通すということがあります。
秘密主義でありながら、秘密主義であることをマスコミに確実に知らせる・・・
これは、恐怖を広めるうえでは非常に有効な作戦でした。

しかし、この教会で起きた事件は、アメリカを変えます。
アラバマ州バーミング・ハム16番街バプテスト教会・・・
1963年9月15日日曜日10時22分のこと、KKKが地下室に仕掛けた19本のダイナマイトが爆発しました。
日曜礼拝に集まっていた人びと、20人前後が負傷、4人が死亡しました。
死亡したのは、11歳から14歳までの少女・・・市民運動への参加すらない子供でした。
世間では、残虐な暴力に対する嫌悪感が高まっていきます。
1964年以降、公民権法(1964)、投票権法成立(1965)などが成立すると、南部の人種差別政策は撤廃。
選挙で黒人有権者に対する威嚇は無くなり、投票率は飛躍的に上昇しました。

その後、連邦政府による捜査や、世論の反発を受け、KKKを名乗る各地の組織は徐々に消滅していきました。
2005年、KKKの時代が終わったことを象徴する出来事が起きました。
公民権運動家の青年3人が殺害されたミシシッピ・バーニング事件の容疑者が、改めて地元の裁判所で裁かれることになりました。
被告は、元牧師のエドガー・レイ・キリン(80)
地元のKKKの中心的な役割でしたが、1967年の裁判では陪審員が彼をかばい無罪でした。
40年ぶりの裁判・・・今回の陪審員の判断は全員一致。

「陪審員はあなたが有罪だという判決を下しました」

過失致死罪で懲役60年・・・

そして今、KKKを名乗る団体に代わり新たな白人至上主義のグループが現れています。
2021年1月、こうしたグループは、連邦議会襲撃事件にも参加。
インターネット空間で、全米のあらゆる階層が白人至上主義で繋がっていて、全体像は見えません。
KKKを生み出した人間の負の感情は、今も生き続けています。

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クー・クラックス・クラン 革命とロマンス

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今から20年ほど前、イギリスで裁判が開かれました。
争われたのは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺!!ホロコーストについてです。
これまで定説とされたものが、もしや覆されるのではないかと、世界中の話題となりました。
果たして歴史は、裁判で決められるのでしょうか??

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2000年1月11日、ロンドンの王立裁判所・・・
この日から始まる法廷の取材に世界中のマスコミが駆けつけました。
この裁判は、原告・歴史作家のデイヴッド・アーヴィングと被告・歴史学者デボラ・E・リップシュタットが争うものでした。
世界中から注目を浴びることになった理由とは・・・??

「私が見た歴史資料によるとガス室はなかった」byアーヴィング

アーヴィングは、
「ユダヤ人大量虐殺・ホロコーストについて、世間が信じているガス室などの常識は間違っている」
という・・・そんなアーヴィングを批判したのが、アメリカ在住の歴史学者リップシュタット。彼女は自らの著書で痛烈に書き記しました。
「彼の研究は、歴史というより神話に近い」

アーヴィングが主張するホロコースト否定論は事実ではない!!というのです。
歴史が裁判によって争われることになりました。

ホロコースト・・・それは、第2次世界大戦中、ナチ政権による組織的なユダヤ人虐殺のことです。
総統アドルフ・ヒトラーのもと、強制収容所のガス室などでユダヤ人を絶滅させる計画が進められました。
終戦前後、連合国が強制収容所の資料や残された毒物、生存者たちの証言をもとに調査を開始したことで、実態が明らかになりました。
その後も、世界中の人々が研究をすすめ、銃殺やガス室などで殺されたユダヤ人の数は推定600万人とされています。
ところが、1970年代、歴史の常識と考えられて来た説に異論を唱える人が現れます。

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1974年イギリスで発行されました
「本当に600万人が死んだのか?」
「当時のヨーロッパにユダヤ人は600万人もいなかった」と主張。
1975年、アメリカでは
「20世紀の大ペテン・殺されたはずのユダヤ人がアメリカの大都市で生きている」

こうしたホロコースト否定論で有名になったのが、イギリス人で作家デイビッド・アーヴィングです。
アーヴィングのデビューは、1963年「ドレスデンの破壊」でした。
ドイツ側の爆撃被害から第2次世界大戦を調査した本です。
イギリス人でありながら、ドイツ側の視点で戦争の実態を明らかにする著作は、一定の評価を得ていました。
ところが、1977年に出版した「ヒトラーの戦争」以降、彼はホロコーストの常識を覆そうとします。

「ヒトラーはユダヤ人虐殺を命令していない」
「大量虐殺のためのガス室などない」
「収容所のユダヤ人の死因は病気か連合軍の攻撃」

アーヴィングの主張の前提には、世間の人々が知らない重大な事実がありました。
それは「世界中のどこにもヒトラーによるユダヤ人抹殺を命令した文書は見つかっていない」ということでした。
そもそも、ヒトラーがホロコーストを命じた証拠がない以上、ホロコーストの常識も怪しいというのです。

確かにユダヤ人虐殺の命令文書は見つかっていません。
しかし、ヒトラーの関与を示す資料は、一個人が一生をかけても読み切れないほど大量にあります。
歴史学者は、ヒトラーが口頭で命令したと考えています。
歴史学者たちは、「アーヴィングとは議論にならない」と判断し、彼を無視していました。
ところが、歴史学者が誰も止めようとしない中、アーヴィングはテレビなど多数のメディアに登場!!
「ホロコーストの常識はあやしい」と語り続けました。

1993年アメリカでは、「ホロコーストは起きていなかったという説はあり得るか?」というインタビューに、ありえない65%、ありえる22%も回答しました。
着実に世間の意識を変えていきました。
この状況に立ち向かったのは、アメリカ・エモリ―大学でアメリカユダヤ史の教鞭をとっていた歴史学者リップシュタット教授でした。
リップシュタットは、1993年「ホロコーストの否定」で、アービングの「ヒトラーの戦争」を批判しました。

「アーヴィングは、総統ヒトラーの熱烈な崇拝者」
「彼は自分の信条に合わせるため、事実を歪曲し、資料を加工する」

つまり、アービングはヒトラーを擁護するために、歴史資料加工を行ってホロコーストの事実を歪曲したと批判したのです。
これにアービングは反撃します。
リップシュタットと出版社を名誉棄損で訴えたのです。

「私はあくまで資料を基に事実を書いている
 思想信条をもとに事実を捻じ曲げたという記述は誹謗中傷だ」

一方、訴えられたリップシュタットは、和解などを選ばず法廷で受けて立つと決断しました。
しかしこれはリップシュタットにとって大きなリスクを伴うものでした。
当時のイギリスの名誉棄損裁判では、訴えられた側が非難内容の正当性を証明しなければなりませんでした。
つまり、訴えられたリップシュタットは、アーヴィングが「ヒトラーの熱烈な崇拝者」「資料の捻じ曲げ・事実を歪曲」と証明しなければなりませんでした。
つまり、アーヴィングが本や講演内容のもとになる資料を調べ上げ、捻じ曲げているかを精査しなければなりませんでした。
その為には、人も時間も必要で、裁判費用は億単位!!
しかし、彼女はあえて法廷で戦うことを選びました。

「過去に起きたことは何も変えられない
 しかし、過去に起きたことに対する人々の認識は変わる
 アーヴィングが変えようとしたのは人々の認識です
 私はそれを許すことはできなかったのです」

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2000年1月11日、ホロコースト否定論をめぐる裁判が始まりました。
名誉棄損を訴えた原告アービングは弁護士を使わず、自分自身で弁論します。
一方、訴えられた被告リップシュタットは、3人の弁護士をはじめチームで立ち向かいます。
リップシュタット側の弁護士リチャード・ランプトンは、冒頭陳述で裁判の争点を語ります。

「裁判官、我々はアービングの主張には欺瞞と意図的な資料の捻じ曲げを明らかにします
 さらに、その動機は、ヒトラーの熱狂的な辛抱に由来する反ユダヤ主義にあることを証明します」byランプトン

裁判の争点は3つ・・・
①ヒトラーはユダヤ人虐殺を命じず虐殺を止めようとした?
②ガス室で大量虐殺は行われていない?
③資料の捻じ曲げは反ユダヤ主義思想によるものか?

「アーヴィングが反ユダヤ主義思想を持っているかは問題の核心
 ホロコースト否定は単なる歴史の曲解ではない
 彼らは”戦後のユダヤ人がドイツから補償金をもらうためホロコーストをでっち上げた”と考えている
 ホロコースト否定は、反ユダヤ主義のひとつの形なのです」byリップシュタット
 
第1の争点・・・ヒトラーはユダヤ人虐殺を止めた?
焦点となったのは、アービングの資料の”イギリス軍の盗聴記録”です。
1945年4月、イギリス軍の捕虜収容所にて・・・
イギリス軍は、捕虜にしたドイツ人兵士の会話を盗聴していました。
その中に、あるドイツ軍将校ヴァルター・ブルンスの盗聴記録があります。 

「今後は大量銃殺を禁止するという命令が下された」

アーヴィングはこの命令を、「総統本部からの発令・・・ヒトラーがユダヤ人虐殺を止める命令を敷く出した」と主張していました。

二つ目の根拠は、ドイツの公文書館にあったナチス親衛隊のヒムラーの電話のメモです。
1941年11月30日のもので、重要な記述がありました。
そのメモには・・・
”ベルリンからのユダヤ人の移送 抹殺なし”
このメモをもとに、アーヴィングは新たな説を打ち立てます。

「ヒトラーとヒムラーが、ベルリンのユダヤ人の処遇を議論した結果、今後すべてのユダヤ人を抹殺しないというヒトラーの命令が下った」byアーヴィング

ヒムラーのメモと、イギリス軍の盗聴記録・・・
アーヴィングはこうした記録から、”ヒトラーはユダヤ人を守っていた”という結論を導き出しました。
2000年1月13日、裁判3日目・・・ヒトラーがユダヤ人を守っていたというアーヴィングの主張に対し、被告人の弁護士ランプトンは反論します。
イギリス軍の盗聴記録・・・
「アーヴィングさんは、記録の元の意味を歪曲している」
リップシュタット側は、アーヴィングが根拠としているイギリス軍の盗聴記録を見つけ出し、法廷に提出。
そこには、”今後は大量銃殺を禁止するという命令が下された”・・・確かに、アーヴィングの主張通り、大量銃殺を禁止する命令について記されています。
ところが「アーヴィングさんが何をしたかというと、記録の前半部分を取り上げ、公判を省略していたのです」
大量銃殺の記述・・・そのすぐ隣には、”実施する場合は秘密裏に進めること”とありました。

大量銃殺は禁止だが、実施するなら秘密裏に進めよ・・・!!

ランプトンはこれを読み解きます。

「この命令は、ユダヤ人の命を守るために出されたのではない
 ”大量銃殺を連合軍に知られてはいけない”という命令です」

さらにランプトンは、アーヴィングがこの”秘密裏に進めよ”という部分を不当に省略し、ヒトラーが大量銃殺禁止を命じたとアーヴィングが歪曲したとします。
これに対しアーヴィングは、
「不当な省略ではなくようやくです
 この記録の重要部分は大量虐殺が禁止されたこと」
アーヴィングは、不当な省略ではなく要約だと主張することで、あくまでヒトラーが銃殺を止めようとした自説が正しいと語ります。

ヒムラーのメモ・・・
これをもとに、アーヴィングがユダヤ人は抹殺しないというヒトラーの命令が下ったと主張する資料です。
ランプトンはこのメモについてアーヴィングが重大な間違いをしていると指摘します。

「あなたはメモの中の”ユダヤ人の移送”という言葉から、”ユダヤ人全体の抹殺がなくなった”と捉えている
 しかし、メモの単語が示しているのは、列車1台分の話に過ぎない」

移送されるユダヤ人をユダヤ人全体と捉えるには、その単語は複数形のハズ・・・しかし、このメモの単語は単数形でした。列車一台分では・・・!!
これをアーヴィングがわざと複数形に歪曲し、移送されるユダヤ人全体の話として捻じ曲げたというのです。
これを指摘されたアーヴィングは、
「私がメモのこの部分を読み間違えたのでしょう 
 文章の読み間違えは、学者にもよくあることです」
するとリップシュタット側は、アービングの著書には資料の捻じ曲げが19カ所もあることを指摘します。
相次ぐ指摘にアービングは、「要約です、推測です、読み間違えました」と答え続けていましたが、最終的には
「一部の資料については、そちらの主張が正しいと思います」

アーヴィングはリップシュタットの批判が一部正当であると認めざるを得なかったのです。
こうしたアーヴィングの歴史資料の扱い方について、リップシュタット側の関係者エヴァンズ教授は・・・

「どんな歴史学者でも間違いは犯します
 しかし、アーヴィングが書いたものは、全てヒトラーが無罪になる方向に向かっています
 つまり、アーヴィングの間違いは、単なるミスではなく、意図的に資料を捻じ曲げたと言えるのです」

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第2の争点・・・ガス室で大量虐殺は行われていない??
ポーランド南部・・・アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所・・・
1942年の春からナチス・ドイツはユダヤ人の絶滅計画を実行に移していくさ中、大量にさらに効率的に殺戮するための施設が次々と作られます。
それが猛毒ガスを使ったガス室でした。
現在、姿をとどめるガス室は、一部再現されたひとつだけ・・・
当時、アウシュビッツ全体には、5つのガス室があったが、そのうちのひとつは囚人による反乱で破壊、3つは敗戦間際、証拠隠滅のためナチ親衛隊が解体・爆破しました。
このように、当時の建物が残っていないことが、ガス室についての否定論を呼び起こすことになります。
その代表的な動きが、1988年2月。
破壊されたガス室のがれきを無許可で削り持ち帰る人物が現れました。
自称死刑の専門家フレッド・ロイヒターです。
ロイヒターが削り取ったのは、破壊されたすべてのガス室のがれき・・・
さらに、ガス室と同じ毒ガスで衣服についたシラミを除去する消毒室の壁も、持ち帰りました。
ロイヒターは、ガス室のがれき、消毒室の壁の毒ガスの残留濃度を検査します。
その結果、猛毒シアン化合物は、消毒室で高濃度、ガス室ではごくわずかでした。
そこでロイヒターは、シラミを殺すよりも濃度の低い毒ガスでは人間を殺すことはできないと、結論。
ロイヒターは、この内容を1988年に出版します。
アーヴィングは、この本に影響を受けたというのです。

「ロイヒターの報告書を読み、ホロコーストの全てが疑惑に代わりました」

2000年1月24日、ロイヒター報告をもとに、ガス室での大量虐殺はなかったと主張するアーヴィング。
被告弁護士ランプトンはアーヴィングを追求します。

「処刑用のガス室が存在しなかったなら、がれきの中のシアン化合物の痕跡をどう説明しますか??」

「その部屋は、病気などで死んだ遺体の消毒に使われていたのです」

「死体を消毒??なぜそのようなことを??」

「シラミがたかっているから消毒する必要があります」

「死体は火葬するので消毒の必要はないのではないですか?」

次々に畳みかけるランプトンに対し、アーヴィングは主張を変えていきます。

「あの部屋は実は防空壕だったのです」

「もし、防空壕だったとしたら、囚人たちが逃げ込むのには狭すぎます」

「ナチ親衛隊院の防空壕だったのです」

「親衛隊員の弊社からこの部屋まで4キロか5キロ・・・
 遠すぎませんか?」

問題の部屋が何に使われたか??次々に見解が変わるアーヴィング。
そもそも、その部屋が何か検証していないようでした。
現在、アーヴィングのガス室否定に影響を与えたロイヒター報告も、サンプル採取・分析方法のずさんさが指摘され、様々な点で批判されています。

2000年1月25日、アーヴィングが明確に答えられない問題の部屋について、リップシュタット側はこれがガス室であるという証言を開示します。
証言は建築史が専門の歴史学者ロベルト・ヤン・ファン・ペルト。
証拠としたのは設計図面です。
1942年、地下にある問題の部屋で大きな改築工事が行われています。
建築前には、死体安置所として使われていた場所  
図面を比べると・・・新たに直接外から降りてくる階段が造られていることが分かります。
そこから奥に進むと大きな部屋に入るドアが一つだけ・・・内開きから外開きに変わっていました。
これは、ドアを内開きにしておくと悪い事情があったからです。
例えば、扉の向こう側に人々が集まってそのまま命を落とした場合、死体の山で扉は開けられなくなります。
外から人々が地下におり、奥の部屋に入り、向こう側で扉に殺到して命を落とす・・・
つまり、この部屋がガス室です。

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ファン・ぺルトは、これ以外にも750ページ、27万文字の膨大なレポートを裁判所に提出しています。
ファン・ぺルトレポート・・・現在、インターネットで公開され、誰でも読むことができます。
アウシュビッツの生存者から元司令官まで、問題の部屋にまつわる多くの証言、ナチによる廃棄を逃れた葉ちゅう関連の資料など、世界中の研究者による長年の調査による膨大な記録・・・
その一つ一つがガス室の存在と大量虐殺を示唆するものでした。

「私は裁判で”収束する証拠”という言葉を使いました
 あらゆる角度からの証拠が、同じ結論へと収束するのです」byファン・ぺルト
 
1月25日、閉廷間際・・・
アーヴィングはファン・ぺルトに対して反撃を開始します。

「ファン・ぺルトさんの推測には、矛盾が生じています
 つまり、あるはずのものがないのです
 それは、毒物の投入孔です」

現在唯一残されているガス室・・・
その屋上には、再現された煙突のようなものがいくつもついています。
これは毒ガス発生剤「チクロンB」の投入孔だといいます。
しかし、アーヴィングは現在がれきになっている部屋の残骸からは、その痕跡が見つかっていないというのです。
リップシュタット側は反論します。

「ガス室が爆破された時、投入孔もがれきになったのです
 しかし、穴があったことは、生存者たちの証言でも一致しています」

「これまた多くの歴史学者が投入孔の跡を探したが見つかっていません
 つまり、生存者の証言は、ウソということになります」

午後4時・・・この日は時間切れで終了。
投入孔に関する議論は、翌日に持ち越されることになりました。
その後、裁判所を出たアーヴィングは、取り囲むマスコミに対しパフォーマンスを行います。

「ノーホール・ノーホロコースト」

すると、翌日の新聞には、
”歴史家が証言・アウシュビッツにガス室はなかった”
”アーヴィング、忌まわしき残虐行為説に異議を唱える”
”被告側証人たちの証言は全面的に打ち砕かれた
 なぜなら屋根に穴の痕跡も認められないのだから”

ガス室をめぐる議論で、リップシュタット側の膨大な証拠を前に、アーヴィングは研究不足を露呈し、追い詰められたはずでした。
実際に、翌日以降、ガス室の投入孔についてリップシュタット側も資料を提示し反論しましたが、世間にはアーヴィングのたった一つの言葉の印象が残ったのです。

ガス室がどこにあるのかわかっていたので、この議論がバカげていることはわかっていました。
実際投入孔は存在しています。
今は、発掘されたものを見ることができます。
しかし、アーヴィングの言葉はキャッチ―で、新聞も派手な見出しをつけることが大好きです。
派手でシンプルな新聞に、読者はうまく興味をそそられてしまいます。


第3の争点
アーヴィングによる資料の捻じ曲げは、反ユダヤ主義思想が原因か?

リップシュタット側は、裁判が始まるまでアーヴィングの思想信条を調べるため、講演ビデオを大量に調査します。
その映像は、裁判中何度も法廷で流されていました。
それは、ホロコーストの生存者に対して侮蔑的な言葉の連続でした。

「(ユダヤ人にとって)ホロコーストはビッグビジネスです
 だから、ホロコーストという神話が生き続けて行けるのです」

またある講演では、アウシュビッツ生存者が囚人番号を見せたと話題にし、
「そこで私は言うのです 確かにあなたは苦しんでこられた
 でもその入れ墨で終戦以降どれだけ稼いだんですか?」

アーヴィングが反ユダヤ主義であることは誰の目にも明らかでした。

彼のヒトラーへの称賛は、彼の人格に深く根差していました。
ヒトラーは、怪物という説を否定することは正当だと考えられます。

顔のないヒトラーたち(字幕版)



2000年1月31日・・・これまでとは違う議論に導いていきます。
進化心理学者のケヴィン・マクドナルド・・・ユダヤ人は陰謀をめぐらす民族だと主張し、批判されている人物です。
「1996年に、アーヴィングさんの本の出版が取りやめになりました
 その理由は、リップシュタットさんが圧力をかけたからです」

1996年、アーヴィングは、ナチ政権の宣伝大臣ゲッペルスの伝記を執筆。
ところが、ナチス擁護を行うアーヴィングに批判が殺到します。
出版社が契約解除を申し出たため、出版が取りやめになったのです。
この時、批判が殺到した原因は、3年前にリップシュタットがアーヴィングを批判したためと主張しました。

「被告リップシュタットは、言論の自由を奪おうとする試みをしているようです」

言論の自由・・・アーヴィングは、たとえ自分自身に反ユダヤ主義思想があったとしても、発言・出版する権利はあると主張したのです。
このアーヴィングの問題的に対し、リップシュタット側も意見が分かれています。

ホロコーストの否定は、反ユダヤ主義の一形態です。
それは容易にヘイトクライムに波及します。
しかし、歴史を扱う場合、それが完全に間違っていても、人が自分の考えを言うのを許されることが重要です。

「私も言論の自由を強く信奉している
 私たちが気に入らないことでさえ、許さなければならないのです
 しかし、言論の自由は、憎むべきウソを言う人が演説する権利を持つことではない
 ウソは言論の自由に含まれないのです」byリップシュタット

2000年3月15日(裁判32日目)
最終弁論が行われます。
まずはリップシュタット側・・・
「アーヴィング氏は、言論の自由を守ろうとしているように見えます
 しかし、事実はそうではありません
 アーヴィング氏はウソつきです
 被告側は、この点につき証明を済ませたと申し上げます」
  
対してアーヴィングは・・・
「被告は歴史家としての私を抹殺しようとした
 今回の裁判は、言論の自由をめぐるものです
 もし私が敗訴したなら、今後誰も何も言えなくなるでしょう」

判決を前にしたこの時の心境について、リップシュタットは自著で振り返っています。

「小競り合いには勝っているけど、戦争には結局負けそうな気がする」

2000年4月11日、判決の日。
法廷に入るリップシュタット。
一方、やってきたアーヴィングに対しては、ナチズムに反対する人々が集まっていました。
その中には、過剰な攻撃をする人たちで現場は騒然としました。

やがて法廷では、裁判官が判決文を読み上げます。


「アーヴィングさんの著作に対しては、人々が気付かなかった多くの文書を発見したことで、軍事史家として称賛する部分も多い
 しかし、リップシュタットさん側が提示した歴史資料の蓄積は、お互いを補強試合関連づいています
 その膨大な証拠書類は、アーヴィングさんの史実の扱いが歪曲と間違いがひどすぎることを表している 
 彼は、反ユダヤ主義という信念に合致する形で、自分好みの歴史を伝えようとしてきたと私は考える
 したがって、被告側に正当性があると判断する」

リップシュタットの批判は、名誉棄損に当たらないという判決でした。

「この勝利は、私個人ではなく、歴史に埋もれた悲劇や偏見に苦しむすべての人に捧げます」byリップシュタット

アーヴィングは裁判ののち、しばらくはホロコースト否定論を訴えました。
しかし現在は、公の場で語ることは無くなっています。

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ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 (字幕版)

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やさしさの裏に隠された最悪の恐怖・・・
史上空前、アメリカ社会を混乱に陥れた連続殺人事件・・・その残虐さはまさに野獣。
30人以上を殺害した手口は、”羊たちの沈黙”のモデルとなりました。
目撃多数、手掛かりは多いのに捕まらない・・・一般市民に隠れる姿なき殺人鬼・・・その名はテッド・バンディ!!
誰もが「善人」と語る優秀な大学院生でした。
しかし、なぜか脱獄をかさねる一方、裁判では議論で圧倒、本当に野蛮な殺人鬼なのか??
笑顔に隠された理解不能の恐怖、怯える社会が突き進む負の熱狂とは・・・??

消えた女性たち



アメリカ北西部ワシントン州・シアトル郊外のサマミッシュ湖は、都会の人々が自然を楽しむことができる行楽地です。
1974年7月14日日曜日、地元フィルム会社のイベントもあって4万人もの人出でにぎわっていました。
昼12時30分・・・一人で遊びに来ていた23歳のジャニス・オットが、若い男に声をかけられました。

「やあ、僕はテッド、車に荷物を運ぶのを手伝ってくれないか?」

ジャニスは、ギプスの腕をつり、困っていそうな若者について行きました。
そして・・・ジャニスは消えました。
4時間後の16時30分、18歳のデニーズ・ナスランドもトイレに立ったまま帰ってきませんでした。
ギプスのテッドは、大勢に目撃されていましたが、よくあるナンパだと思い、誰も気に留めませんでした。
通報によって、捜索が行われました。
女性が連れていかれた先には、特徴的な車が・・・フォルクスワーゲン・ビートル!!
目撃者も多く、誘拐犯はすぐに特定されると思われました。
しかし・・・そもそも、単独犯なのか?複数犯なのか?それさえわかりませんでした。

当時、ワシントン州内のフォルクスワーゲンビートルの登録数は、4万2000台。
テッドと呼ばれる名前は、2400人。
数が多すぎるうえ、テッドは偽名かもしれない・・・。
湖から消えた2人が見つかったのは、1974年9月6日。
サマミッシュ湖からおよそ3キロ離れたテイラーマウンテン。
鳥を撃つため山の中の狩場にやってきたハンターたちが、白骨化した遺体を複数発見!!
その中に、2人と特定される遺骨があったのです。
直ちに警察が、現地で大規模な捜索をします。
すると、事件の異常さは予想をはるかに超えていました。

「毎日骨が発見される
 森の中に何があるのかわからない」

1週間の捜索で、発見された遺体は8人分。
死因は不明、しかし、犯人の異常性は伺えました。
遺体は離れた場所に3人、4人とまとめて放置。
埋めた形跡もなく、隠す意思も感じられません。
しかも、8人中、頭蓋骨だけの遺体が4人。
この4人の体は、いくら探しても見つかりませんでした。

やがて、さらに忌まわしい事態が明らかになります。
遺体は全員、8カ月前からシアトル周辺で行方不明になった女性たちでした。
共通する特徴は、全員センター出羽癒えたロングヘアの白人女性・・・
そして多くは、成績優秀な大学生でした。

連続誘拐殺人事件・・・
当時、ワシントン州警察に協力した心理学者ドナ・シュラム博士によると・・・

「警察は、カルト宗教による犯行を疑っていました。
 しかし、私は単独犯による事件だと推測しました。
 彼は腕を吊り、無力に見えるように装って、女性に手助けを求めました。 
 それが手口です。
 彼は、隣に住む少年のような姿をしているでしょう。
 外見も魅力的かもしれません。」

姿の見えない殺人鬼・・・町は怯えます。
警察は、若い女性に要注意を呼びかけ、犯人の似顔絵を公開。
身長170センチ、長めの金髪、または茶髪。
少し、イギリス風の訛りで話す。
 
アメリカ社会によくいるタイプの優しそうな男なのに、裏の顔は殺人鬼!!
この発表が広まると、通報がひっきりなしに3500件!!
しかも、電話口の女性たちは怯えていました。
「私の恋人が犯人かもしれない」という人、夫や友達を通報する人もたくさんいました。
ワシントン州の女性はみな、とても疑い深くなっていたのです。
あの時期、女性たちは、「知り合いや身近な誰かが殺人鬼かもしれない」大きな不安を感じていました。
地元のコミュニティーに危険が迫ったことで、警察も焦っていました。

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さらに、通称テッドの恐怖は、突然ワシントン州の外に飛び火します。
1974年10月以降、約1000キロ以上離れたユタ州で・・・5人が・・・
その東、コロラド州では4人が失踪。
後日、遺体で見つかりました。
一般市民の顔をした野獣が、恐怖を広くばらまいて行きました。
アメリカは、かつて経験したことのない不安に・・・!!

今までは、自分とは異なった人種が殺人をする・・・殺人犯は、自分とは違う人間だと思っていたのが、今や、誰が犯人であるか、誰が凶悪犯人であるか、わからない社会に突入したのです。
彼の存在によって、時代が変わりました。
人々の信頼性を違った次元に突入させたのです。

連続誘拐殺人事件が始まって1年半・・・事件は突然転機を迎えます。
ユタ州ソルトレイクシティ・・・1975年8月16日深夜。
パトロールの警官が、不審なフォルクスワーゲンを止めました。
車内を調べると・・・手錠、アイスピック、目出し帽、パンティストッキングで作ったマスク・・・
あやしすぎる!!
男は、セオドア・ロバート・バンディ。
セオドアという名の愛称はテッド!!
ユタ大学で弁護士を目指す27歳の大学院生でした。
1年前の1974年9月に、ワシントン州の大学から転学していました。
引っ越してきたタイミングは、連続殺人の移動と同じでした。
あのテッドなのか・・・??
ユタ州警察は、「不審物所持」容疑で逮捕。
そこから捜査を続けるうちに、「誘拐未遂」の疑いが浮上します。
その事件とは・・・??

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1974年11月8日、バンディ逮捕の9か月前。
私服警官を語る男が、フォルクスワーゲンで18歳の女性を連れ去ろうとしました。
抵抗した上に、なんとか車から逃げ出した・・・この時の、被害者の毛髪が、押収した車から採取されたのです。
ユタ州警察は、「誘拐未遂」でバンディを再逮捕。
連続殺人につながる証拠を見つけ出します。
殺人事件当日の晩ディの動きを、クレジットカードの明細から追跡。
すると・・・コロラド州での殺害現場付近でガソリンを給油していることが判明したのです。
この証拠をもとに、コロラド州の警察も、バンディの捜査を開始。
さらに・・・最初の事件が相次いだワシントン州の警察も・・・!!
事件が起こった3つの州全てで、バンディは連続殺人の容疑者になったのです。

1976年2月23日、ユタ州ソルトレイク郡地方裁判所で裁判が始まります。
法廷に出たバンディは、関係者を驚かせます。
隣にいるのは、高報酬の有能な弁護士だったのです。
「無実」を信じる家族や友人が支援金を集めたのです。
友人たちが、弁護士費用のための”バンディ友だち基金”を設立。

バンディは、1946年生まれ、4歳からワシントン州で育ちます。
5人弟妹の長男で、家族の中は良く、母親も自慢の息子として愛情を注いできました。
大学時代は政治活動も熱心で、「将来は州知事になれるかも??」とまで期待されました。
また、「自殺救済電話相談所」で悩める人の命を救う働きも・・・

ところが、ユタ州の裁判と並行して進めた警察の捜査では、バンディの他人に見せない一面が・・・!!
連続殺人事件が始まったワシントン州・・・
警察は、バンディが6年前から付き合っていた恋人エリザベスに事情聴取。
そこで、バンディの異様な一面を語る貴重な音声が残っています。

「日々の関係の中では”凶暴な人”と感じる点はなかった
 でも”女学生をつけた”と話してた
 夜遅くに出かけて、ひとをつけたと
 やめようとしたけど、やってしまったみたい」byエリザベス

さらに、ワシントン州警察は、バンディがエリザベスに隠れて付き合っていた元恋人ステファニーにも話を聞きました。
彼女に対してバンディは、献身的で自ら結婚を申し込みました。
ところが、婚約を交わした途端、バンディからの連絡が途絶えたのです。
腹を立てたステファニーは、バンディに電話をかけます。
ところが、バンディの対応は、別人のようでした。

「やあ、ステファニー
 何を言っているのかさっぱりわからないなあ」byバンディ

テッドを知るどの女性も、彼を暴力的だとは決して思っていません。
しかし、ガールフレンドたちは、彼の「普通でない行動」を指摘したのです。
テッドは、少し影があるどころか、非常に深い闇を抱えていたのです。

1976年3月1日、ユタ州柄誘拐未遂事件の判決が下されました。
物的証拠のさらわれた女性の毛髪と「バンディの顔が犯人と同じ」という証言が決め手となり”有罪”。
最長15年の懲役刑となりました。
次は、コロラド州での裁判の為、バンディは現地の刑務所へ移送。
有罪判決など気にせぬかのような余裕の態度。
獄中でのインタビューでは、さらに意外な姿が・・・
ユーモアを交えながら、余裕のある受け答えをします。
柔らかく、理知的に無実を主張・・・とても、粗暴で残虐な犯人には見えません。

ところが2年後・・・コロラド州の刑務所から逃亡・・・
バンディは、2回も逃亡を繰り返します。
どちらもバンディは、模範囚として過ごし、看守を信用させておいたのです。
まるで、警察をあざ笑うかのように・・・
「無実」を訴えているのに、脱獄したら罪を認める様なもの・・・!!

「姿なき連続殺人鬼テッド・バンディ~笑顔に隠された恐怖~」



バンディの理解不能な行動に、支援者たちは離れていきます。
バンディは、最重要指名手配犯となり、その捜索には全米を捜査範囲とするFBIも参加。
しかし、バンディは見つかりません。
再び人々の中に身を隠し、姿を消したのです。
アメリカ社会全体が、姿なき連続殺人期の恐怖に覆われたのです。

バンディが、コロラド州の刑務所脱獄から15日後・・・
1978年1月15日、アメリカ南東部フロリダ州タラハシー。
深夜、フロリダ州立大学の女子寮が何者かに襲われました。
当時、女子寮には40人が暮していましたが、犯人は誰にも気づかれずに侵入。

女子寮襲撃事件!!
暖炉用の薪で4人が何度も殴打、パンティストッキングで首を絞められました。
2人が重症、2人が死亡、遺体は犯人にもてあそばれ激しく損壊していました。
残虐極まりない犯行でした。

1978年2月15日、パトロール警官が、盗難届の出ていたフォルクスワーゲンを発見!!
すると、乗っていたのは、テッド・バンディ。
コロラド州の刑務所を脱獄後、大陸の反対側・・・南東部のフロリダ州まで逃走。
偽名を使い再び世間に潜んでいました。
しかも、住んでいたのは襲われた女子寮の近く!!
まず、偶然ではありえません。

1978年7月27日、逮捕から5か月、フロリダ州の地方裁判所に報道陣が集められました。
バンディを女子寮襲撃事件で起訴するにあたり、保安官が直接本人に伝えるというのです。
これにバンディは、マスコミの前で堂々と無罪を主張します。
裁判は、アメリカ初の全米テレビ中継となりました。

フロリダ州マイアミ市・・・1979年6月1日、大学女子寮襲撃事件裁判開廷。
バンディは、いきなり全米の視聴者を驚かせます。

「私の弁護士は有罪を信じています
 有罪を回避することはできないと
 これは弁護士の無能に他なりません」byバンディ

死刑を回避するため、司法取引で罪を認めるようすすめた弁護士を批判。
しかも、バンディ自らが弁護団に加わることを宣言します。
殺人事件の被告でありながら、弁護人も兼ねるという異例の対応!!
弁護士の勉強中とはいえ、何を企んでいるのか??
アメリカ中がバンディに注目しました。
この裁判は、陪審員制・・・一般市民から選ばれた12人の陪審員による評決です。
全員が有罪の場合は有罪、全員が無罪の場合は無罪。
もし一人でも意見が割れれば、評決不能とされ裁判は別の陪審員によって一からやり直しとなります。
誰かひとりでも陪審員がバンディの言い分に納得すれば有罪にはならないのです。
そのうえ、全米の放送されたバンディの態度は、法廷でピースサイン、カメラに向けてサムズアップ、傍聴席の女性に手を振ったり、人々の反応を確かめるように何度も振り返って笑顔を向けます。
残虐、凶悪とは正反対・・・余裕のさわやかアピールに、陪審員の意見は割れました。
閉廷後の法廷で、度々取材陣のインタビューに応じます。
和やかな会見で、プロの人たちをも手玉に取ってしまいます。

バンディは冤罪なのか??空気が変わり始めていました。
実際の裁判も、予想外の展開を見せ始めます。
女子寮襲撃事件では、被害者たちは殴られた後、パンストで首をしめられています。 
現場に残されたパンストには、頭からかぶるマスクのように穴が開いていました。
検察側が、4年前にバンディの車から見つかったものに似ている点に着目。
物的証拠だと主張しました。
しかし、ところがこれにバンディが異議を申したてます。

「この裁判は、フロリダ州で起きた犯罪についての審議です
 法の精神に基づいてフロリダ州の犯罪のみが争われるべきです」byバンディ

判事はバンディの主張を認め、パンストは証拠として不採用となりました。

さらに、検察側が証人として呼んだ女子寮襲撃の目撃者・・・
逃げ去る犯人を見たという彼女が指示したのは、バンディ。
彼女に弁護団が反対尋問をします。

「全身を見る時間はありませんでした」

物的証拠に続き、目撃者の証言も被告バンディ側に崩されます。
バンディの疑いを示すのは、状況証拠だけ・・・??
検察の不利が明らかになります。
万が一でも無罪になれば、バンディは社会に放たれる・・・
それはアメリカの恐怖!!
裁判をゲームのように楽しむバンディに、社会が翻弄されたのです。

「裁判には深い充足感を感じていました
 僕は本来の自分に戻り、言葉と論理で戦いました
 僕は弁護士になる夢を味わっていたのです」

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裁判が始まって1か月・・・後半に入った7月9日。
裁判の行方を大きく変える意外な出来事が起きます。
この日、検察側が証人として呼んだのは、女子寮襲撃の通報を受け最初に現場に駆け付けた警察官、検察も事実確認だけで終わる予定でした。
しかし、バンディは、予想外の反対尋問を申し入れたのです。

「女子寮に到着したのは午前3時26分
 部屋に入ると若い女性がうつぶせでシーツをかぶっていた
 最初に見たのは、右胸の嚙み切られた乳首」by警察官

目的も明らかにしないままバンディは、遺体の状況について質問を重ねます。

「シーツを外した時に見えたことを詳細に述べてください」byバンディ

「シーツを外すと遺体が転げ落ち、右臀部には噛まれた痕がありました」by警察官

4つの犯行現場を一部屋ごとに事細かに語らせたのです。
むごたらしい証言が1時間・・・

「最初に部屋に入った時の死体の位置を正確に説明してください」byバンディ

「どうやら首の周りにナイロンのストッキングがあった
 頭は腫れあがって変色していて、片目が開いていたが正規のない目だった」by警察官

陪審員は、裁判の議論とは関係ない、むごたらしい尋問に不快な表情・・・
これまでのバンディの周囲を意識した態度とは大違い・・・理解不能な行動に、陪審員はバンディの”深い闇”を感じました。

1週間後、バンディ有利を覆す決定的証拠が検察側から提出されます。
遺体に残された歯形・・・これまでないと思われていた物的証拠でした。
歯型鑑定の専門家が証言します。
全ての歯の跡が、バンディと一致する!!と!!

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1979年7月24日。
2か月にわたる裁判が、結審の日を迎えました。
陪審員の代表者が評決を読み上げます。

「フロリダ州の陪審員は被告テッド・バンディを2件の第1級殺人で有罪、全員一致の意見です」

全員一致の有罪・・・バンディに死刑が宣告されました。
判決後、それぞれの立場がバンディを語ります。

「彼がやっていないのはわかっている
 テッドはそんな人間じゃない」by母ルイーズ

「彼に二度と反抗させないためには、刑務所から出さないようにするしかありません」by陪審員

そして判事はバンディに対し・・・

「君は聡明な若者だ
 いい弁護士になれただろう
 しかし、君は別の道を歩んでしまった
 人命に対して全く無慈悲であったという点で、まさに凶悪、残虐な事件だったと認めざるを得ない」by判事

しかし、死刑囚となってもバンディは予想外の行動を繰り返します。
無実を訴え、上告を重ねること18回、死刑は10年延期されました。
そしてついに、死刑執行日が決まると、バンディは突然、ワシントン州の事件の詳細を自供します。
謎のままだった連続殺人の真相が、解明されるかと世間は期待します。
しかし、バンディは、全てを告白するにはあと3年必要だと、死刑の延期を要求します。
自らの延命のため、真相を知りたい遺族と世間の感情を取引材料にしたのです。

彼が死の直前になって告白したことは、被害者遺族に対してさらに残酷な仕打ちとなりました。
この行動によって、事件の全貌は解明されないまま終わりました。
彼は人生の最期まですべてを巧みに操ったのです。

1989年1月24日、死刑執行の朝・・・1000人を超える群衆が、刑務所の前に集まりました。
午前7時16分、死刑が執行!!
アメリカ社会は、理解不能な恐怖に対し、ただ葬り去ることを願ったのです。

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名画「俺たちに明日はない」の鮮烈な青春・・・恋人たちのギャング・ボニー&クライド
実在した二人は、1930年代のアメリカで、非難と憧れの中を駆け抜けました。
オシャレで巧妙な犯行で銀行を襲撃、すさまじい武力と最新技術、最速の車、新感覚ギャングの正体は・・・??
ボニー&クライドは、1930年代のアメリカで銀行強盗と殺人を繰り返した凶悪な犯罪者です。
100年経った今も、人気ミュージシャンの歌詞に登場し、若者たちの憧れとなっています。
日本人がほとんど知らないボニー&クライドの真実とは??

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ボニー・エリザベス・パーカー・・・1910年生・21歳
どうして全米を騒然とさせるギャングとなったのでしょうか?
ボニーが育ったのは、アメリカ南部テキサス州ダラスの郊外。
そこはスラム街で、電気も水道もない、治安が悪く、ボニーの家も貧しかったのです。
幼いころから真面目で明るい性格・・・4歳で父親を亡くし、母親を大事にしたといいます。
成績は学校でトップクラス、詩を書くことが大好きな少女でした。
ところが・・・16歳の時、目覚めてしまいました。

巻き毛につけまつげに濃いリップ・・・
ボニーが理想としたのは、短い髪で肌を露出してタバコを吸う・・・
1920年代、ニューヨークなど大都会で流行した新時代の自由な女・フラッパーでした。
世間が求める従順な女なんて冗談じゃない!!
自分のライフスタイルは自分で選ぶ・・・
ボニーがフラッパーの先に見た夢は、

「私、ハリウッド女優か歌手になる」

でも、現実は、高校中退、仕事は地元のカフェのウェイトレスでした。
これが運命なのか・・・彼女の日記には

”いつものように憂鬱・・・なぜ何も起こらない?”

同級生と結婚するも、3年で別離・・・19歳に小さな変化が起きます。

1930年1月、ボニーは姉の家に・・・
姉が腕を骨折したので、家事を手伝っていました。
そこで、小柄でちょっとハンサム・・・クライド・チャンピオン・バロウ・・・一つ年上の20歳の少年と出会いました。
十代半ばから高価なスーツをまとい、ちょっと背伸びをしたオシャレ・・・
若くして高価な車を乗りこなす・・・いったいどんな人??
ボニーはクライドに、今までの人生にないものを感じました。

家に帰るや興奮して母・エマにまくしたてます。

「もう、本当、カッコ良かったの
 一目ぼれしちゃった!!
 この人なら、きっと間違いないと思うの」

エマは、娘に起きたことを後に語っています。

「人生を変える様な出来事の多くがそうであるようにあっけないもの それが運命の出会い」

恋に落ちたボニーは、まっしぐら!!
2人は毎日のようにデートをかさね、藍を深め・・・ところが、わずか1か月後、残酷な運命が・・・!!
1930年2月、クライド・バロウ、窃盗容疑で逮捕。
ボニーの目の前で、クライド逮捕!!
実は、クライドも、ダラス近郊のスラムで盗みを重ねる悪ガキでした。
得意なのは自動車泥棒・・・
仕立てのスーツも、車を売って買ったもの。
貧しくつらい現実を、犯罪で誤魔化していました。
懲役2年・・・クライドは刑務所行き・・・!!
それでもボニーは、何度も刑務所を訪れ面会します。
クライドを信じようとします。

「あなたがもともと善良なのはわかっている
 全部のケリがついたら、舞い戻るようなことは絶対にしないで
 あなたは一旗あげられる男なんだから」

クライドの更生を願っていました。
一方のクライドは、ボニーにこっそりメモを渡します。
そこには・・・

「脱走したい
 仲間の家の出窓の下
 ピストルがある
 持ってきてほしい」

驚くボニー・・・そのうえメモの最後には、”君は世界で一番カワイイベイビー”

数日後、ボニーは・・・持ってきてしまいました。

ボニーは極端な運命論者でした。
一旦恋に落ちると限りなく一途!!
彼女にとって愛と忠誠は同じものなので、クライドに忠実になったのです。
彼女は、クライドと同じくらい危なっかしい人物でした。

クライドは脱走・・・しかし、捕まり・・・懲役は14年になってしまいました。
でも、これはボニーが危ない道を思いとどまるチャンスでもありました。
新しい恋人・・・帰る当てのないクライドに見切りをつけたのです。
しかし2年後・・・クライドは、恩赦を受けて景気が短縮、2年で仮釈放となって帰ってきました。
ボニーは自分自身で選んでしまいました。
現実から連れ出してくれる人を・・・!!

クライド&ボニーは、盗んだ車で走りだします。
刑務所仲間二人を加え、クライド・バロウと仲間たち・・・その名もバロウギャングを結成。

ボニー&クライド

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1932年4月17日、彼らはダラスの南東50キロの町カウフマンへ。
4月18日深夜2時・・・ボニーの初犯罪は、誰もいない雑貨屋から強力な銃を盗むことでした。
全ては順調・・・と思ったら、警察に撃たれた!!
店には警備員がいて、こっそり警察に通報していました。
ドジを踏んで逃げだしました。
クライドとボニー・・・初めての共同作業は散々でした。
2人の運命は・・・??

最速の芸術品・1932年型フォードV8・・・時代を超え、今も愛される名車です。
そんな最新の車を盗み、クライドとボニーは強盗をかさねます。
最初は経験不足で失敗していた者の、小さい商店などで小銭稼ぎの強盗を半年も続けるうちに、次第に手口も巧妙に・・・
ついには、警戒厳重な銀行から大金を奪うように!!
お客さんのふりをして静かに入店。
店員が気付いたときにはクライドは目の前!!
息の合ったコンビネーションでお客は傷つけずにお金を奪う!!
電話線も切断していました。
駆けつけた警察官が撃ってきても、車で待っていた仲間が強力な機関銃で反撃。
昔のようにビビるどころか警察を圧倒!!
その隙に逃亡しました。
しかし、警察が最新の無線で先回り・・・ところがクライドたちはあらかじめ盗んだパトカーの無線機を使い、警察の作戦を察知、抜け道を通りまんまと逃げるのでした。

追いかける警察・・・世界最速120km/hオーバーでぶっ飛ばします。
最新型八気筒エンジンがうなりを上げます。
一方、警察の車は最高時速80キロ・・・勝負になりませんでした。
隣の州に逃げ込めば、管轄外で警察は追跡不可能!!
最新技術とスピード重視の新感覚ギャング・・・クライドとボニーは自由な道を走っていきました。

しかし、クライド・・・性格はかなり危険でした。
ある日、隠れ家に警官が近づくと、クライドはいきなりぶち切れ先制攻撃!!
しかも、とどめを刺すまで止まらない暴走タイプでした。
そんなクライドをボニーはどう思っていたのでしょうか・・・?
間近で見ていたものの被害者に全く同情していません。
彼女も狂っていると言えますが、撃ち合いで死ぬのはクライドか相手なので、仕方なかったのでしょう。
クライドを深く愛する反面、他の人はどうでもいい・・・その極端さがボニーの奇妙なところです。

1933年1月7日、やがて、地元新聞の一面にはクライドの顔と名前が大きく出るようになります。
・男はまず至近距離でショットガンを発砲
・被害者の警官は、心臓に9発の弾丸を受け死亡
・完全に危険な人物で、殺人に躊躇しない

警官殺しのクライド・・・その悪名は、南部の各地に知れ渡りました。
その一方で、風刺画も・・・
逃げ回るバロウギャングのフォードV8!!
翻弄される警察は笑いもの!!
クライドたちを隠れ家に提供する人が登場すれば、彼らの留守中警察が隠れ家で待ち伏せてしていると赤いライトで逃がす17歳の家政婦も!!
バロウギャングを密かに応援し、協力する庶民が次々と現れたのです。

さらに、16歳のウィリアムは、事件の報道でクライドに憧れギャングに参加。
スラム育ちで靴さえ持っていない若者が高級スーツを身にまとうように・・・。
こうしたギャング志願者が、次々とやってきたのです。
どうして人気があったのでしょうか??

4年前・・・1929年10月、ニューヨーク・ウォール街。世界恐慌が発生。
その影響は農村にも及び、多くの農民が苦しむことに・・・
抗議のデモを行えば警察に追い払われる・・・!!
理不尽な仕打ちに泣く人々の前に現れたのが、警察をあざ笑い自由気ままに逃げ回る女連れの若いギャング!!
誰かが行動し、政府や警察に反抗してほしいというスリリングな欲望が大衆にはありました。
しかも、当時の新聞やラジオにおいて犯罪はエンターテインメントとして重要な要素でした。
大衆もマスコミも、アンチヒーローを欲していたのです。
スラム育ちの運命を振り切ったクライドとボニーは、いつしか庶民の密かな憧れを背負うことになっていきます。

1933年4月1日、クライドとボニーたちは新たな隠れ家を手に入れます。
ミズーリ州の大都市ジョプリン・・・人目につく住宅街の2階建ての借家でした。
そこに合流したクラウドの実の兄・バック、その妻・ブランチ、そしてクライドに憧れる16歳のウィリアムの5人で共同生活を始めます。

ところが、理想の暮らしは儚く終わります。
入居から12日後の4月13日午後4時ごろ・・・
隠れ家を警官5人が包囲・・・全員が銃を持っていました。
気付いたクライドがぶっぱなしました。
わが家は一瞬で戦場となります。
また警官2名を射殺、傷つきながらも命からがら脱出します。
その後、警察が隠れ家を家宅捜索する映像が残っています。
ボニーたちが実際に使っていたもの・・・強力な軍用ライフル4丁など大量の銃器でした。
こうした遺留品が、2人の運命を大きく狂わせます。
2日後、地元新聞に遺留品の一部、クライドたちのプライベート写真が掲載されます。
自慢のフォードV8の前で銃を束にしてポーズを決めるクライド。
クライドと肩を組んでいるボニー・・・初めてボニーの姿が人々の目に公となりました。
この時点では、ガンマンと一緒に飛び出してきた女性とされ、名前は出されていません。
ところが、わずか2日後の4月17日。突然ボニーの名前と姿が全米に知れ渡ります。

「ボニー&クライド その生と死~自由で危険な恋人たち~」



事件現場から2000キロも離れた大都会ニューヨークのタブロイド紙が写真を掲載・・・
ボニーの新バージョンの写真が大特集されました。

・警察発表によると彼女の名はボニー・パーカー

さらに話題となったのは、口に葉巻、手には拳銃、車に足をかけた勇ましいボニーの姿でした。
かつてボニーが憧れていたフラッパーでさえ煙草でした。
女性が葉巻なんてありえない時代でした。
そしてオシャレなボニー・・・
話題の写真を各地の新聞が競うように掲載しました。
わずか4日で、カリフォルニアまで拡散されました。

当時のアメリカでは、葉巻も銃も男性がもつものでした。
ボニーは性別を超えた人間として人々に見られたのです。
保守的な社会から抜け出した「新しい女性」の代表。
ボニーのようなタイプも女性から絶賛されました。
かつて南部の町で、フラッパーや女優に憧れた女の子が、偶然決めたポーズによって全米女性の憧れとなったのです。

しかし、皮肉なことに、ボニーとクライドは突然有名人になり、顔と名前が世間にバレてしまいました。
顔を見られると通報されるため、食料を買うことも宿をとることもままなりません。
クライドたちは町から離れた場所でキャンプを張って夜を過ごし、缶詰などを食べて飢えをしのぎました。
いつも走り続け、時に1日1000キロ走りアメリカ各地を逃げ回ります。
放浪生活の野宿に耐え切れず、モーテルに2泊すると・・・銃撃。
仕方なく同じ場所で野宿を3日すると・・・警察に包囲!!
ブランチ逮捕!!夫のバックは銃撃戦で重症を負い6日後死亡しました。
求めていた自由が、幸せが消えていく・・・

1933年9月、テキサス州ダラス。
ボニーの母・エマにメモが届きます。
「ママに会いたい」
郊外で密かにボニーに会ったエマは、娘の変わりように驚きます。

「かわいそうなほどやせ細り、以前よりずっと年を取ってしまったように見えました 
 体中傷だらけでした」

自首してほしい・・・母の願いに答えます。

「私は彼を愛してるから、最期までそばを離れないわ
 どちらにしても、彼が死んだら私も死ぬわ」

1934年5月・・・アメリカ南部で新たな手配書が作られました。
クライドに加え、ボニーまで・・・遂に彼女もお尋ね者となったのです。
仲間のウィリアムも、逃亡生活に疲れ、離脱・・・逮捕。
かつて憧れていたクライドについて、蚊たる映像が残っています。

「私はクライドから殺すと脅され銃撃戦に参加させられました
 クライドは、人を殺すことに無慈悲で、自分勝手な人間です」

兄の死・・・自分を慕ってくれた若者からは見放され、そのうえ、ボニーとクライドを密かに応援する庶民が手のひらを反す出来事が起きます。

”テキサスの無法者が2人の警察官を殺害
  
 パトロール中の警察官2人は、道路に停車中の車にいた男女を発見
 尋問のため近づいたところ、予告なしで発砲された
 悪名高きクライドと仲間のボニーが容疑者として浮かび上がった”

この事件の再現映像が、ニュース映画として全米で公開されます。

ボニーが無抵抗の警官をひっくり返し、至近距離からトドメの一撃!!
あのボニーが・・・世間は失望します。

警官2名を殺したニュース映画によって、人々のボニーへの感情は「憧れ」から「大衆の敵」になりました。
ボニーは、非道徳な人間であり、ロマンチックな対象ではなく冷酷な人殺しだと!!
世間は2人を悪魔のように扱い始めました。
ボニーの詩が残っています。

「新聞や雑誌はウソばっかり
 2人はそれほど冷酷じゃない
 ガサツな性分は生まれつき
 警察だけは大嫌い
 それと密告者 監視人 裏切り者も」

この再現映像をきっかけに、世間の目はさらに厳しくなっていきます。

・カンザスシティーにて、バロウ一味の目撃情報
・異常な殺人鬼とその愛人を目撃

自由な道が閉ざされていきます。

2人の笑顔・・・その時間はもう長くないとボニーは感じていました。

「彼らは自分達が賢いとも絶望的だとも思わない
 法が常に勝つことを知っていた
 いつか2人はともに倒れ並んで葬られる
 一握りの者には悲しみ 法律にとっては安堵
 それがボニーとクライドにとっての死」

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1934年5月21日、ルイジアナ州警察に電話が入ります。

「ボニーとクライドの隠れ家は、ルイジアナ州北部の松林の中にある」

密告でした。
受けたのは、特殊捜査チームでした。
すでに犠牲者13人、そのうち警察官が8人も殺されていました。
目指すは、凶悪なギャングの殲滅!!

5月23日、ルイジアナ州ギブスランド。
ボニーとクライドのフォードV8は、人里から10キロ離れた森の中を進んでいました。
行き先は隠れ家!!

銃撃直後の映像が残っています。
発砲された銃弾167発。
ボニー・エリザベス・パーカー23歳。
クライド・チャンピオン・バロウ24歳。

フォードV8で街に運ばれてきました。
遺体に群がる人々、記念品にしようと髪の毛や衣服を切り取る人、クライドの指を切り持ち去ろうとする人・・・
現代で言えばスマホで写真に収めるのと同じ感覚です。
私は「ボニー&クライドの時代に生きていた」という証が欲しかったのです。

5月25日、クライドの葬儀・・・
ダラスの葬儀場には、多くの若い人が集まり、クライド・バロウの棺を取り囲みました。
多くの死と破壊をもたらした男の最期を一目見るために・・・。

2日に分かれた葬儀では、クライドに1万人、ボニーには1万5千人が集まったと言われています。
その後二人は故郷ダラス近郊で別々の墓所に葬られました。
並んで葬られたいというボニーの想いは、母親によって反対されたのです。
犯罪を犯すことによってしか得られることのできなかった恋人たちの自由は、永遠に封印されたのです。

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