日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: アナザーストーリーズ

それは、歴史的な倒産劇でした。
巨大証券会社の突然の破たん・・・負債総額は、戦後最大となる3兆5000億円!!
グループ社員1万人以上が職を失いました。
全ての責任を負った社長・・・涙の裏に、一体何があったのでしょうか??



1997年11月24日・・・山一証券が自主廃業を決定した日です。
創業100年の大企業が迎えた突然の破たん劇は、どうして起きたのでしょうか??

①山一破たんを招くスクープを書いた雑誌記者。
山一を廃業に追い込んだ男は、この記者会見の現場で複雑な思いを抱えていました。
図らずも、破たんの引き金を引いてしまった男・・・!!

東京・茅場町・・・旧山一証券本社ビルがりました。
100年の歴史があり、業界トップを誇ったこともある名門・山一証券。
1980年代後半、空前の好景気・バブルが到来します。
日本中で、株などを運用する財テクがはやり、証券業界は沸きに沸きました。
4大証券会社の一角だった山一證券も、5735億円・・・けた外れの収益を記録します。
しかし、バブルが崩壊・・・その時、山一の経営陣は、損失を隠すという不正に手を染めます。
それがやがて、会社を破たんへと導きます。
しかし、この破たん劇には、知られざる事実がありました。

全ての責任を負った社長は、3か月前に社長に就任したばかりでした。
しかも、肝心の不正をまったく知らされてはいませんでした。
破たん劇の引き金を引いたのは、たった一つの雑誌記事でした。

山一に不正の重大疑惑あり!!

このスクープからわずか7カ月で、100年の歴史を誇った山一は廃業に追い込まれます。
記事を書いたのは、経済記者の木村秀哉です。

「最初から潰したくて書いた記事じゃない!!」by木村

木村が所属する東洋経済新報社・・・
ビジネス関連の書籍を主に扱う老舗です。
当時、木村は36歳、木村を指名してかかってきた1本の電話が全ての始まりでした。

1996年12月・・・破綻11カ月前。
その相手は、こう告げました。

「とにかく見せたいものがある」

呼び出されたのは、都内のホテルにある喫茶店でした。
その男が現れました。
聞けばかつて、投資顧問会社を経営していたという・・・
男は金融業界からつまはじきにされたことを恨んでいるという・・・
そして封筒から、30枚ほどの資料を取り出しました。

帳簿のコピーらしきもの・・・
山一証券社長の印が押された契約書の写し、そして生々しい会話のやり取りが記録されたメモがありました。

”いっぺんに返せんから、2~3百はやる、とあんた、言いはったでしょ”
”詐欺で訴えなきゃ”

山一証券の社長に向けて発せられたとされる赤裸々なやり取りが並んでいました。



怪文書・・・??
本当なのか??

一連の資料は、山一が法律違反に当たる損失補填を行っているという疑惑をにおわせていました。
株価がぐんぐんと上がっていた80年代後半、日本中の投資ブームに火をつけたのが証券会社でした。

「儲かりますよ」

そう言って、投資家に株の売買を薦め、その手数料で莫大な収益を誇りました。
しかし、バブル崩壊・・・
株価は一気に下落しました。
この時、収益が急落することを恐れた山一が行ったのが損失補填でした。
そしてその代わりに、引き続き株を買ってもらえるように頼んでいました。
しかし、それをするのは、大口の顧客だけ。
一部の取引先だけを不当に優遇していたのです。

”いっぺんに返せんから、2~3百はやる、とあんた、言いはったでしょ”

損失補填をにおわせる部分でした。
しかし、木村は慎重です。
本当に本物なのか・・・??
すると、二度目の接触で、男はさらに衝撃的なものを持ち出してきました。
会話のやり取りを一部始終録音したというカセットテープでした。

「さすがにテープまで用意しているというか、あるということ自体、内部に協力者がいるということ
 でも、これ、本当に本人の声か??
 社長とか、よくテレビに出ていたんで、社長の声とかを確認できるわけよ
 だから、これはほぼ間違いない、との感触は持ちましたよね」by木村

木村は決めました。
記事を出す!!
テープの内容は、確かに本物だという確信が木村にはありました。

1997年4月21日・・・破たん7か月前
木村による山一不正疑惑追及の幕が上がりました。
山一に運用を委託していた企業の実名を挙げ、いつ、どのくらい損を被ったか・・・
その企業に山一がいくら補填したか・・・金額入りで報じました。
山一の反応は早く、内容を否定するとともに東洋経済を名誉棄損で告訴する構えを見せました。
真っ向から対立する攻防は、世間の注目を集め始めます。
このまま追撃できなければ、相手の言い分が通ってしまう・・・
証拠が欲しい!!
しかし、どうすればいいのか??
焦る木村にチャンスが訪れたのは、2週間後でした。
木村の記事を読んだ人物が、新たな情報を持ち込んできました。
ある会社で、経理部長を務めていた男・・・山一との間で不正な取引を長年担当していたが、突然その責任を取らされ会社を首になったという・・・。
男が持参した資料は、山一がさらに重大な不正を行っていたということを示唆していました。
損失補填を重ねた結果、山一は巨額の赤字に陥っている可能性があるというのです。

「これ大きいよね
 ここはもうやった!と思いますよ
 来た!!って感じ
 ついに追加で協力者が出てきた」by木村

最初の記事から2か月後、木村は第2弾の記事を出します。
山一が、決算には現れないよう巨額の損失を方々で隠しているという疑惑です。
これはまだ氷山の一角・・・以後、木村の狙いは、損失の全貌を明かすことに絞られていきます。
まもなく、木村に一本の電話が入ります。
相手は、山一証券の幹部・・・どうしても、直接会いたいという。
呼び出されたのは、江東区にある雑居ビルでした。
指定された時刻は、深夜零時を回ることでした。



シーンとした普通の会議室・・・
そこで、山市の幹部はある取引を持ち掛けてきました。

「まさに今、山一證券は外資系と資本の提携を結ぼうとしている
 もうちょっと待ってくれ
 決まったら、東洋経済にスクープをとらせてあげる」

木村は答えをはぐらかしました。
そして、逆に本丸の疑惑についてカマをかけました。

「帳簿外の損失5000億円はあるでしょう?」by木村

男は答えました。

「そんなにはない、せいぜい2000億円だ」

簿外の損失を、認めてしまいました。
木村は、さらに確信を突きます。

「今、提携を進めている提携相手に損失を明かしているのか?」

「それは言ってない」

「それじゃ、詐欺みたいなもんじゃないですか!!」

そんなことでは、交渉はまとまらないし、まとまった後でも大問題になります。
何でここまで腐りきってしまったのだろうか・・・!!

11月17日・・・破たん7日前
木村は書くなという要求をはねのけ、渾身の第3弾を発表します。
山一が存続を危うくするほどの損失を抱えていることを、隠蔽の方法と共に詳しく報じました。
そして記事をこう結びました。

”再生への道の第一歩は、過去の懺悔から始まらなければならない
 後は本当に「自然死」を待つのみである”

山一に警鐘を鳴らすはずの木村・・・
しかし、事態は予想を超えるスピードで動き始めました。

11月19日、一時3000円以上もあった山一証券の株価は、100円を一気に割り込みます。
株価最終値65円・・・再上場以来最安値でした。
信用不安が広がります。
さらに2日後、アメリカの格付け会社が山一の社債を投資不適格まで格下げします。
ショックが走ります。
直近の山一の株価・・・その根の下げ方は、もはや会社の息の根を止めるに等しいものでした。
そして、損失隠しのスクープから7日後・・・
1997年11月24日、自主廃業決定!!
100年の歴史を誇った山一証券は、呆気なく破綻しました。
会見場で、この様子を見ていた木村・・・複雑な思いでした。

「最初から潰したくて書いた記事じゃない
 これだけは間違いないです
 だって、あんな大会社、一記者がどんなにつぶしたくたって、潰れるわけないんだから、普通は
 だけど変な話、ものすごい大巨人、大企業が弱ってると、ちょこっと押しただけでぶっ倒れたっていうようなそういう時だってある
 それは、タイミングっていうだけの話であって」by木村

最初の記事が出てからわずか7カ月での破綻・・・

「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから・・・!!」

そう言って、記者会見で人目をはばからず号泣した社長。。。
実は、彼が就任したのはこの会見のわずか3か月前でした。
しかも、会社の命運を握る重大な情報を知らされないままでした。

②社長の最も近くにいた男
社長の最も近くにいた男・・・最後まで会社を立て直せると信じていました。
元山一証券常務取締役・藤橋忍

「まさか、破たんするなんて思ってないですから・・・
 最後の最後まで思ってないんですから、当事者である私がね
 私の暦は11月24日の破たんから、全部戻るんですよ
 あの時こうすればよかった・・・その思いばっかりですよ」

山一廃業以来、ずっと口を閉ざして来た藤橋・・・事実を伝えたい!!

木村によるスクープ記事が出てから3か月後・・・
山一は、経営人の刷新を図りました。
後に粉飾決算の容疑で逮捕される会長・行平次雄、社長・三木淳夫が辞任。
この二人を含めて会社の膨大な損失の存在を知る者は、ごくわずかでした。
辞任した二人の指示で、突然社長になったのが、野澤正平・・・営業畑一筋で、社長レースに名前が挙がったことはなく、意外な人選と噂されました。
藤橋は、山一の中枢といわれる企画室長でした。
早い段階で、損失の存在を知らされていました。
新体制になって数日後、藤橋は同僚から耳を疑う情報を聞かされます。

「社長は損失隠しを知らされていないらしい」


「そんなことあるかなあ
 エッという感じしかなかったですから、それはだって言わないわけにはいかないでしょう」by藤橋

藤橋は野澤に、洗いざらい事実をぶちまけました。
会社は損失を帳簿上隠していること、その額はもはや会社の存続が危ういほどにまで膨れ上がっていること・・・
その時の野澤の表情が忘れられないという・・・

「野澤さんは、話しを聞いていくたびに、だんだん、だんだん、頭が下がってね
 青い顔をして・・・
 全部説明を聞き終えた後はね、何にも発言しなかったと思う」by藤橋

なぜ、前任の社長が野澤に損失を教えなかったのか・・・理由は謎です。
だが、野澤には、落胆している時間はありませんでした。
会社が倒れれば、グループ社員1万人が路頭に迷います。
その2日後・・・野澤は藤橋を呼びました。

”社員を守るための極秘プロジェクトを立ち上げたい”

「会社の規模が小さくなってもいいからという話が冒頭にあったんですよ
 リストラもやると・・・
 会社のTOPというのは、リストラが一番いやなんですよね
 社員の首を切るというのは、一番悩むところ
 もし、そこまでトップが腹を決めるんならね
 役員の半減、その代わり人もこれだけ切る
 店舗もこれだけ切る、全部具体的に出てきましたからね
 だから、もしかしたら、実行できる案になるかなという感じを私は持ちました」by藤橋

”社員の半分を、私の責任でリストラする
 非難は、自分が辞めることで受け止める”by野澤

野澤たちは、ギリギリの生き残り策を練り始めます。
まずは、誰かに暴露される前に、隠してきた2600億円の損失を公表すること。
記者会見で謝罪し、併せて抜本的な改革を発表することでギリギリの信用を守る・・・
しかし、9月、あと数日で公表すると決めた矢先・・・
総会屋への利益供与で、取り調べを受けていた前社長が逮捕されます。
山一は、非難の的となります。
謝罪に追われた野澤たち・・・
この逆風の中で、新たな火種となる損失隠しを公表できなくなりました。



野澤たちは、メインバンクに救済を申し込みます。
しかし、返答は厳しいものでした。
正直に損失を公表したものの、既に信用は失われており、救済は断られました。
止む無くヨーロッパに向かい、外資系金融機関と提携を交渉するも、進まず、自主再建の道は経たれました。
11月14日、野澤たちが向かったのは、最後の砦・・・大蔵省。

”社員を半分にする、自分も辞める
 だから、助けてほしい”

全てを証券局長に報告した時、こういわれました。

「バックアップをしましょう!!」by大蔵省

野澤たちは、その言葉を救済だと受け取りました。
しかし、その3日後、思いがけない事態が・・・!!

木村記者のスクープ第3弾!!
損失を隠していたことを大々的に報じられ、世間の空気が一変します。
2日後・・・再び大蔵省を訪れた時、告げられたのは前回と全く逆の言葉でした。

「感情を交えず、淡々と申し上げます
 社長にはつらい決断だけれども、自主廃業を選択してもらいたい」by大蔵省

「なんとかなりませんか」by野澤

「いや、これは内閣の判断です」by大蔵省

会社の存続を許さない自主廃業・・・
バブル期以降、不祥事が多かった金融業界への見せしめだったともいわれています。

「一瞬、本当に頭が全然回らない
 そんなことを話しに来たわけじゃなくて、こちらの状況報告と、もし、大蔵省さんで何かあるならばアドバイスをしてもらおうと思って・・・
 ちょっとクラっときたくらいでしたね
 わずか、あのとき、5分か10分ですから」by藤橋

奇しくもこの年、創業100年を迎えた山一證券、その歴史はほんの5分で幕が引かれました。
自主廃業の発表は、5日後と決まりました。

11月23日、会見前夜・・・
野澤と藤橋は、本社18階にある部屋に泊まり込み、カップ麺をすすりながら会見の準備を進めました。
明日からどうなるのか・・・不安感がありました。

「野澤さんは、そこから飛び降りてしまいたいと・・・
 ”今ここを開けて飛び降りてしまいたいよ”と言っていたから、もう、ずっと張りつめていたんですよ」by藤橋

突然社長に指名されてから3か月・・・
何も知らない社員だけは守りたいと奔走してきた野澤が、初めて吐いた弱音でした。
藤橋が床に就くと、会見に備え、一生懸命練習する野澤の声が聞こえました。

「間違わないように、間違わないようにって、夜中まで練習しているわけですよ
 ほとんど、一睡もしていないんじゃないかな・・・彼は」by藤橋

1997年11月14日午前11時30分。

「当社誠に残念ながら、この度、自主廃業に向けて営業を中止することを決定いたしました
 図らずも、当社100周年を迎えて、このような事態になりましたことは、まことに断腸の思いであります」

経営責任を追及する厳しい問いにも、淡々と答え続けた野澤・・・
2時間がたった頃、記者から社員についてどう思うか、との質問が出た時でした。

「これだけは言いたいのは、私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから!!
 どうか、社員の皆さんに応援してやってください
 お願いします!!」

「あれ見た瞬間、涙が出ましたね
 最後に涙を流したのは野澤さんの無念さが、全部つまったものが最後にきて吐き出したんですよ
 あれは気持ちですから
 自分でつめてつめてつめてきたんですよ
 つめてきて最後に、だから、あれが彼の本音なんですよね
 ”お客さんと社員には申し訳ない”と」by藤橋

無念さを押し殺して頭を下げた社長の思いは計り知れません。
そしてその破綻は、何も知らされていなかった1万人の社員から、突然生活の糧を奪いました。

③どん底からの復活戦
突然転落した人生・・・千葉駅から10分ほどの繁華街にその男の職場がありました。
永野修身・・・元山一証券のトップセールスマンでした。
破綻した後・・・最初にこのビルに出勤した日の光景は、今も脳裏に焼き付いています。

「ザ~っとね、人がね、取り付けで・・・
 ものすごい数百人ですね 行列していて・・・
 会社がつぶれるってこういうこと
 昔は、お客さんを呼ぶのに一生懸命だったんだけど、会社が潰れたら、こんないっぱい 
 お客さんが向こうから来てくれるってね・・・」by永野



永野はあの日をばねに、復活の人生を歩んできました。
永野が入社したのは、バブル前夜の1982年。 
バリバリ働く証券の仕事に憧れました。
持ち前のバイタリティーで、全国トップのセールスを記録した永野・・・
39歳の休日、突然あの時を迎えます。

「本当に、みなさんとタイミング的には一緒のことです
 まるっきり知らなかったです 潰れるということは
 この会社で60歳までやっていくんだろうな・・・
 っていうふうに思ってたのが、いきなり潰れたわけですね
 住宅ローンとかさ、いっぱいあるわけですよ」by永野

4人家族・・・下の子供はまだ小学3年生でした。
この先、家族をどう食わせていくか、呆然とするばかりで何も考えられませんでした。

野澤社長の会見後、初めての出社日・・・
支店に近づくと、解約を求める客が殺到していました。
「早く資産を返してほしい」
全国の支店で、同様の光景が繰り返されました。
永野には、その時の屈辱的な記憶があります。
解約を待つ客に、ライバル社の営業マンが
「うちへどうぞ」と、声をかけていました。

「ある証券会社・・・いわゆる大手4社といわれるところなんだけど、行列に名刺を配ってました
 火事場泥棒だよな
 ”ぜひ当社に資産を持ってきてください”とかね
 やられたってさ・・・ちょっとカチンとくるわね
 そういうのは、正しい営業のやり方ではないね
 と、俺は思います」by永野

怒った客に殴られもしました。
しかし、永野がしなければならないのは、客の対応だけではありませんでした。
この時、部下82人、それぞれに生活がある・・・
永野が向かったのは、地元の証券会社でした。
自分達の支店を丸ごと買ってくれないかと、頼み込みました。

「そこの社長に資料を持って行って、”千葉支店を全部買ってくれ”と言って・・・
 そうしたら社長が”千葉支店の資産がいわゆるトゥマッチだ”と、
 非常に大きすぎると言われて諦めた」by永野

金融関係に限るず、メーカー、鉄道、業種は度外視して、社員を雇ってくれそうな会社を当たり続けました。
永野は破たん後4カ月をかけて、社員の再就職を支援。
希望者全員の就職を見届けた後、会社を辞めました。

「山一って100年の歴史があってね
 最後は綺麗に終わりたいという気持ちがあったからね
 従業員のためにも、最後は一生懸命にやってそれが生き様っていうかね
 そういうことなんだと思います」by永野

しかし、その後、転職を世話した部下たちの様々な噂を耳にします。
転職先で理不尽な仕打ちを受けたり、心をやんだり・・・自分はすべてをやり切ったのかと葛藤しました。
外資系証券会社などを転々とした後、永野は2003年、自ら会社を立ち上げます。
声をかけたのは、旧山一の仲間たちでした。
永野の会社は、金融分野の転職を助ける紹介業。
元山一の社員をはじめ、不運にも職を失った人々のサポートを続けています。
いまだ納得できない突然の廃業。
永野はもう一度、山一證券という会社を復活させることを夢見ています。

「会社潰れちゃったからさ
 会社があれば、OBになっても来れるじゃない
 でも、会社がないんで、そういうふうな意味で、日々いろんな人が元山一の人が来てくれて、プラットホームですね
 止まり木的な存在になれたらこの上ない幸せ」by永野

会社は消えても、抱いていた誇りは消えない・・・!!

みんな、自分なりにあの自主廃業と決着をつけながら生きている・・・
今、あの場所にはビルだけが建っています。

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1972年、奈良県明日香村が突然人でごった返しました。
お目当てのものとは、古墳の石室の中から発見された1300年前の壁画でした。
国宝「高松塚古墳壁画」
鮮やかな極彩色豊かな壁画の登場は、日本考古学史上最大の発見とも言われました。
特に注目を集めたのが、4人の女性像・・・描かれた時代から”飛鳥美人”と呼ばれました。
日本中で古代史ブームが生まれました。
寄付金切手は爆発的に売れ、寄付金は6億円以上!!

しかし、30年後、飛鳥美人は思わぬ展開を迎えます。
貴重な壁画は文化庁が厳重に管理しているはずでした。
ところが・・・管理ミスが発覚、カビが大量に発生し、無残な姿に変わり果てていたのです。
壁画は、石室をあけた瞬間から劣化のスピードを速めていました。
今のままでは貴重な文化財が失われてしまう・・・
壁画の保存を巡って、暴くべきではなかった、壁画をすぐに修復すべき、永久に密封すべき・・・大論争が起きました。



運命の分岐点は、1972年3月21日・・・壁画が発見された日でした。
当時高松塚古墳は、考古学者から見向きもされない古墳でした。
世紀の発見のきっかけをつくったのは、故郷の歴史を愛する名もなき男たちでした。

①発見のきっかけをつくった村民・関武
”飛鳥美人”発見に秘められた村民の悲願
1970年代初め、日本は高度経済成長の真っただ中にありました。
いたるところで山は削られ、ニュータウンが次々と生まれました。
都市化の波は、静かな農村だった明日香村にも迫っていました。
この地は1300年以上前、日本の都があった歴史的な場所・・・ロマンあふれる遺跡が存在し、掘れば何か出てくるとまで言われていました。
当時、関は気が気ではありませんでした。

「開発されたらみな、パー
 まだ、(遺跡が)眠っている、至る所にある
 ユンボ来てバーっとやったら、甲斐アhつは無鉄砲に行くから・・・」

丁度この頃、関は村のある場所で飛鳥時代の遺物を見つけたばかりでした。
”三尊仏のかけら”でした。
当時、関は会社の経営者でしたが、遺跡保存のために仲間と飛鳥古京顕彰会を結成。
文化財を見つけ出し、自分たちで守ると声をあげ始めました。
関には、真っ先に調査したい場所がありました。
それが高松塚古墳でした。
生い茂る竹やぶに分け入ると、小さな穴があり、中に不思議なものがあったのです。
凝灰石の切石です。
石室??
誰も調査していない石室があるかもしれない・・・
しかし、関の直感だけでは前へ進めませんでした。
一方、村民の中には、遺跡の保存よりも開発を望む者もいました。
当時政府は、ことの保存のため、開発を規制。
このままでは村は不便なまま取り残されてしまう・・・
保存か、開発か・・・村も揺れていました。

関同様立ち上がったのが、福井清康です。
明日香村村民が、村の将来とか、史跡保存に対して無関心過ぎました。
関心を持ってほしかったのです。
会社員で青年団のリーダーで・・・開発を望む村民と話し合います。
解決案を探し続けます。
その福井の話を熱心に聞いていたのが、大阪で鍼灸を生業としていた御井敬三です。
それが、思わぬ男を引き寄せます。
御井に針を打ってもらっていた松下幸之助です。
飛鳥を守りたいという御井の思いに共感します。
経営の神様とまで言われた松下でしたが、経済的に豊かになることだけが復興ではないと考えていました。
松下は、政府に働きかける行動をはじめます。
その相手は、時の内閣総理大臣・佐藤栄作でした。
窮状を訴える村民の声は、ついに国のTOPにまで届けられました。
このまま放置すれば、近代化の浸食を受け、価値が消滅してしまう・・・
日本の故郷を守るためには、村民の生活保障を含めた建設的処置が必要だ・・・
村の発展を望む開発派の意見も含まれていました。

1970年6月29日、明日香村甘樫丘に現れたのは、佐藤栄作でした。
「地域住民の方々が、せっかくこいうふうに維持してこられた
 このお気持にも沿うためにも、民族の心、これを保存して後世に伝える」by佐藤栄作

そこで政府が、打ち出したのが、史跡を生かした観光開発でした。
文化財を守りつつ、村が活気づくように支援することでした。
松下が理事長となり「飛鳥保存財団」を設立。
経済的に支えることになりました。
観光客を呼び込むために飛鳥駅周辺の整備が始まります。
この絶好の機会に動き出したのが、関でした。
駅の近くには、あの高松塚古墳がありました。
関は、新たな石室が見つかれば話題となり、観光資源になると村役場を説得します。



1972年3月2日、発掘調査開始。
関が村を説得し、なんとか50万円の発掘費用を捻出しました。
調査は、関の中学時代の恩師に依頼・・・関西大学の考古学者・網干善教でした。
網干は50万年では足りないと、人手として教え子たちを招集。
学生たちは、春休み返上で1カ月間タダ働きをすることになります。
その学生たちを助けたのは、村民でした。

既に見つかっていた切石を頼りに掘り進めること2週間・・・
3月19日、ついに石室が見つかりました。
3月21日・・・村役場に男が駆け込んでいました。
発掘現場にいた網干です。
関たちが石室にとうゃくすると、そこには盗掘者が明けたという穴がありました。
中をのぞき込んだ関の目に飛び込んできたのは・・・驚きの後継でした。
それは、飛鳥時代に描かれたと思われる壁画でした。
白虎、青龍といった方位を司る神獣・・・
そしてなにより、色鮮やかな人物画・・・誰一人想像していないものでした。
天井までの高さ1.13m、幅1.03m、奥行き2.65m。
この空間から、被葬者の骨や銅鏡などが見つかりました。
ただ・・・誰の墓なのかは特定されていません。
まさか・・・日本で人物像の壁画が発見されるとは・・・極彩色のお宝を、一目見ようと全国から人が殺到しました。
松下の財団は、駅前に飛鳥総合案内所を解説。
飛鳥美人をを目玉に観光客を呼び込むことにしました。
さらに、遺跡としては初となる寄付金付き記念切手が発売。
爆発的な人気を博し、6億円以上の寄付金を集めました。
その資金をもとに、古墳周辺の土地を買収。
史跡公園が整備されることに・・・
明日香村には、全国から観光客が訪れるようになり、村は活気に溢れました。
ついには、新しい法律ができました。

1980年明日香法・・・明日香村の貴重な歴史的風土を保存するとともに、地域振興も目指す

日本の文化財保護の在り方に、大きな影響を与えました。
1300年の眠りから覚めた飛鳥美人・・・発見した時の興奮は、生涯の宝物となりました。

高松塚古墳壁画模写・・・原寸大の作品があります。
日本画家たちの手で、汚れや壁の剥落までもが正確に描かれました。
発見直後の壁画の様子が、忠実に再現されています。
画家たちを取り仕切ったのが、日本画家・平山郁夫です。
後に、シルクロードを舞台に多くの傑作を残した日本画家の巨匠です。
当時は新進気鋭の画家で大抜擢でした。

「写真は形は写りますけど、質感その他が違いますので
 芸術性という意味では書かないといけない」

平山は、写真では表現できない芸術性を追い求め、格闘することとなります。



②芸術性を追い求めた画家の奮闘
そもそも、本物があるのにどうして模写することになったのか??
高松塚古墳の石室は、発見後まもなく壁画の劣化を防ぐために封印されました。
国が厳重に管理し非公開。
誰も実物が見られなくなっていたのです。

1973年10月・・・8人の画家がやってきました。
模写の総監修は、画壇の頂点に立つ前田青邨・・・平山の師匠でした。
画家たちは、防護服に着替え、封印が解かれた石室へ・・・
しかし、壁画を保存するには、95%の湿度と、14℃の低温の維持が欠かせませんでした。
細心の注意が払われましたが・・・すべて手探りでした。
平山たちは、交代で狭い入り口から中に入り、自分が模写する部分を必死に見つめます。
ひとりに許された時間は、およそ30分・・・
本物の飛鳥美人を見た平山は・・・

「1300年間ほとんど人目に触れないで、描かれたまま、うぶな状態では行っている・・・
 目垢がついていない、新しい」

興奮していました。

平山は、この出会いに運命のようなものを感じていました。
平山が4年前に書いた作品「卑弥呼壙壁幻想」
平山は、ヤマトの古墳には壁画はないという当時の定説を疑い、卑弥呼の墓になら美しい壁画があるのでは??と想像しました。
そんな矢先に、予想していたような壁画が発見されたのです。

「1300年の眠りから覚め、まるで私に見つけてくれと言っているようだ」by平山郁夫

そんな運命的な絵の模写に、力が入ります。
前田青邨監修のもと、7人の画家たちが手分けして行いました。
飛鳥美人を担当したのは平山でした。
大切にしたのは、本物を見たとき湧き上がってきた思いでした。

「繊細に・・・日本人の感性で描いた
 顔の表情とか、髪の・・・襟元・・・線画は慎ましやか・・・」

飛鳥時代の絵師の技に向き合い、平山たちは日本の美の源流ともいえる芸術性を余すところなく伝えようと格闘します。
まず、苦労したのは、石室の壁の質感や凹凸、傷の具合までも表現することでした。
そこでとられた方法が、粘土状の絵具・胡粉で小さな点を置き、少しずつ厚みをつけていくことでした。
苦労したのは、画家本人の個性を出さないこと、そして、色彩でした。
色彩は単純でしたが、1300年の間に時代色がついて、非常に複雑な色になっていました。
壁画は、日本画と同じ岩絵具などで描かれていましたが、1300年という時の流れと共に、微妙に変色していました。
平山たちは、丹念に描き分け、時の経過までをも絵の美しさとして表現しようとしました。
7か月後・・・ようやく完成しました。
壁画と同じような質感と迫真性・・・悠久の時を感じさせる深みのある色でした。
発見直後の美しい姿がそこにはありました。
絵は全国各地を回り、国宝の美しさを本物さながらに伝え、大好評を博しました。

このことは、平山の人生に大きな影響を与えました。
文化財全体の保存ということに関わっていくのです。
実際その後の平山は、世界各国で危機に瀕する文化財の保護に深くかかわることになります。
内戦が続くアフガニスタンで貴重な石仏が破壊された時にも、抗議の思いを込めた絵を発表し、世論に大きな影響を与えました。
平山たちが古墳の中で実物の飛鳥美人を見た後、石室は再び封印されました。



1976年10月、高松塚壁画館オープン。
そこには、平山たちが手掛けたもう一つの模写が飾られています。
古墳が訪れた人が、いつでも見られるようにと、平山と今井が新たに制作したものです。
飛鳥美人の美しさを今に伝えています。

誰もが飛鳥美人は古墳の中で静かな眠りについていると思っていました。
ところが、封印から30年後、衝撃的な事実が判明します。
壁画にはカビが生えるなど発見当時の美しさは衰えるばかり・・・
早急に手を打たなければなりませんでした。
消失の危機に立たされた飛鳥美人の命運を託されたのは、意外な人物でした。

③国宝を救え!人生をかけて挑んだ石室解体
飛鳥美人の命運を託された石工・・・左野勝司
石室を解体し、特別な修復室に壁画を移すことになったのです。
劣化が著しい壁画をどのように破損することなく運び出したのか・・・??
古代の石造物に詳しい異色の石工・・・左野勝司。
左野は古の人々がどうやって巨大な石を運んだのかを検証。
石造文化財の修理、復元に携わってきた第一人者でした。
飛鳥美人のピンチに一肌脱ぐことになりました。

「石というのがどれほど大事であり、どれほど愛着を持っているか、我々が一番よく知っている」by左野

2002年、文化庁は、発見から30年を機に高精細なカメラで改めて壁画を撮影しました。
そして、今も残る美しい姿として公表しました。
しかし・・・この写真を見た発見当時の関係者から、声が上がったのです。

「壁画が劣化している」

よく見ると、表面にカビが増殖していました。
白虎は黒ずみほとんど見えなくなっていました。
さらに、2006年、作業員がカビの除去中に壁画に傷をつけたにもかかわらず、公表しなかったことが発覚しました。
国民の非難にさらされました。
批判の矛先は、古墳の発掘に関わった人にも向けられました。
「そもそも石室を開けるべきではなかった」と。
早急な対応が求められました。
しかし、石室はあまりにせまく、修復しようにも極めて困難な状況でした。
文化庁は、保存対策検討会を設置。
解決策が議論される中で、人が2度とは要らぬよう永久に密封すべきだという極端な意見まで出ました。

議論の果てに、検討会は驚きの作を決断しました。
壁画が描かれた石室を解体、16個の石を取り出して修復するというものでした。
失敗すれば、国宝を破損しかねない・・・!!
もうひとつ大きな問題がありました。
壁のしっくいはボロボロで、今にもはがれそうな状態で、亀裂も入っていました。
命運を託されたのが、石工の左野でした。
左野には藤ノ木古墳で石棺のふたを無傷で開けたという実績がありました。
石造文化財に精通する人物として白羽の矢が立ったのです。
しかし、熟練の左野でも躊躇した高松塚の石室は凝灰岩で出来ている故の弱点があったのです。
もろい・・・一歩間違えば国宝は木っ端みじんでした。
しかし、無下に断ることはできない・・・!!
背中を押したのは、石工としての矜持でした。

「僕が一番腹が立ったのは・・・絵だけ国宝で石は関係ないですとなったので、頭に来ました」

挑戦しないと仕方がない・・・!!
左野は、石を運び出す驚きのアイデアを伝えます。
左野はクレーン会社と共同で、特殊な道具を開発します。
その名もオクトパス!!
タコの吸盤のような丸いゴムで、挟む力は一つ一つ微妙に調整できるように設計しました。
しかし、石室を形作る石の大きさはバラバラで、重いものは1.5tもありました。
どうしたら、安全に持ち上げられるのか??
左野は石室と同じ凝灰岩でレプリカを作りました。
そして、本物通りの亀裂まで作って実証実験を繰り返しました。
オクトパスは見事に機能し、持ち上げられることを証明しました。
さらに、16個の石の形に応じた専門のオクトパスを開発、1年間テストが続けられました。
加減はそれまで培ってきた職人の感がたよりでした。

2007年4月5日・・・ついに本番の日。
現場にはマスコミが殺到。
当時、文化庁が作業員の負担になると考え、公開は限定的にする予定でした。
しかし、佐野が反対・・・どんなことがあっても作業は隠さず見せるべきだ・・・!!

「みられているからこそしっかりできる」

日本中が注目する中、一つ目の石の解体が始まります。
石は、見事に積み上げられ、無傷で修理施設にはこばれました。
ひとつの石ごとに1週間の準備期間をかけ、慎重に解体していきます。
5月10日・・・遂に、飛鳥美人が描かれた石に取り掛かります。
しかし、隣の石と密着しているため両側から挟むことはできない・・・
当初左野は、石の隙間に鉄の爪を差し込み持ち上げるつもりでした。
その時・・・貴重な絵がはがれないよう特殊な紙で上から押さえます。
ところが・・・問題発覚!!

掴むところがない!!
なんと、コロで動かす!!

40㎝、隣の石と離すことができました。
見事に飛鳥美人を持ち上げることに成功します。
その直後、最大のトラブルが襲います。
ワイヤーがずれたのです。
幸い、飛鳥美人は無事でした。
4カ月半がかりで、16個の石すべてが修理施設にはこばれました。
研究者の手によって、慎重にカビの除去が進められることになりました。
2020年3月、10年以上の歳月をかけ、壁画の修理がようやく完了しました。
発見から長い間封印されてきた飛鳥美人・・・
今では本物を間近で見られるようになりました。

今は元に戻すことができない・・・壁画が崩れる恐れがあるからです。
保存をめぐる戦いは、終わっていません。

失敗が許されない大プロジェクトを、成功に導いたものは何だったのでしょうか??

日本の国宝を守るんだという責任感と、物の重要さを認識し、一丸となってやること・・・

半世紀前、人々に驚きと感動を与えた飛鳥美人。
時に騒動を巻き起こし、人を翻弄してきました。
しかし、その美しさを目の当りにできたからこそ、人々は情熱を掻き立てられ、壁画を守るために必死に奮闘してきたのです。
貴重な文化財を、私たちの未来や世界に、どうつないでいくのか・・・飛鳥美人をめぐる問いに終わりはありません。

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今から70年以上前、京都・国宝金閣寺が放火によって焼け落ちました。
犯人は、驚くべきことに、金閣寺で修行する一人の青年僧でした。
犯人は、林養賢。
事件は、文学者の創作意欲を触発します。
三島由紀夫は、養賢が語った動機”美に対する嫉妬”という言葉を主題に名作「金閣寺」を執筆しました。
近年、その創作ノートが公開され、三島が事件をどう見ていたのかが明らかになりました。

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一方、自らも禅寺の修行そうだった・水上勉・・・20年の歳月をかけて事件の背景を調べ上げ、ノンフィクション「金閣炎上」を発表しました。

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事件のあと、再建を果たした金閣・・・その先頭に立ったのは、金閣寺の住職・村上慈海でした。
弟子に金閣を燃やされたその胸の内とは・・・??

戦後間もない日本を揺るがせた金閣寺炎上事件・・・その真相とは・・・??

金色に輝く名刹・・・金閣寺。
京都を訪れる人にとっては、必ず参拝したい場所の一つです。
世界遺産にも登録された美しい金閣は、かつて全焼した・・・という過去をどれだけの人が知っているのでしょうか?

1950年7月2日。
金閣寺が放火された日です。
私たちが目にする金閣寺は、事件のあと再建されたものです。
修行僧・・・林養賢。
養賢は、自分の持ち物を集めたトランクや布団、わらなどを金閣の一層部分に運び入れると、菌核と一緒に死のうとマッチで火をつけます。
木造三層の金閣は、雨の中、火柱を挙げて瞬く間に燃え落ちていきました。
林養賢は、どうして金閣と共に死のうとしたのか・・・??

歴史ある国の宝を一夜にして灰にした男・・・!!
事件後は、狂気の犯行だと新聞に掻き立てられました。
内気で優しい青年僧は、どうして日本中を揺るがす放火事件を起こしたのでしょうか?
若木松一は当時、西陣署の見習い警部でした。
火事の一報を聞くと、自転車で現場に駆けつけ、犯行に及んだ養賢を逮捕しました。
後に、若木メモと呼ばれるファイルには、若木が記した逮捕状の控えや、供述調書の下書きが丹念に残されています。
現場の遺留品リストには、放課後、養賢が自殺に使った薬物・カルモチンの空き箱も・・・!!

「私が放火した犯人に相違ありません
 私の主観では、悪いことをしたとは思ひません」by養賢

罪を認めた養賢でしたが、わかりやすい犯行理由を話すことはありませんでした。
3回目の供述ではこう述べています。

「私が金閣を焼いたことは、私の行ひを見ると見にくい(醜い)ので、美に対する嫉妬の考へから焼いたのですが、真の気持ちは表現しにくいのであります」by養賢

林養賢とは、どんな生い立ちだったのでしょうか?

京都府北部舞鶴市成生・・・若狭湾に面した20戸ほどの小さな漁村で生まれました。
林養賢は、昭和4年、この村唯一の寺の息子として生まれました。
住職の父と、母と3人で暮らしていました。
父は病弱で、しっかり者の母が寺を切り盛りしていました。

友達と遊ぶことも無く、家で勉強させられていた養賢。
母・志満子は、教育ママでした。
息子を大きな寺へ入れて、僧侶として大成させたいと野望を抱いていました。
村で、唯一中学に進学した養賢。
翌年、父が死去。
父は亡くなる直前に、つてのあった金閣寺の住職に息子を僧侶として指導してほしいと書き送っていました。
父親は、「金閣ほど美しいものはない」と、養賢を育てていました。
期待を一身に背負って旅立った養賢は、こうして憧れの金閣寺へと向かいました。

「金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか」



京都の名刹・金閣寺・・・室町時代に、将軍・足利義満が構えた別荘で、一時は政治、文化の中心でもありました。
なかでも金閣こと舎利殿は、技巧の粋を凝らし、二層、三層部分には金が塗られていました。
義満の死後、遺言で禅寺・鹿苑寺となり、明治以降は観光名所として全国に知られるようになりました。
そんな金閣寺で、師匠となる住職・村上慈海のもとで得度した養賢。
慈海の計らいで、昭和22年、大谷大学予科入学。
友人となる鈴木と出会いました。
養賢は鈴木を招き、泊まり込みで好きな文学や夢を語り合いました。
養賢は、まるで金閣に聞かせるかのように尺八を吹いたといいます。
しかし、夢と現実は違っていました。
当時の寺は、食べ物も十分になく、養賢は、おなかをすかせていました。

「私は寺の使役をやり乍ら大谷大学へ通って居りますが、毎月寺から七百円くらいもらっておりますが、小使には不足して居ります」by養賢

やがて、養賢は、大学を休みがちとなり、寺のものとも上手くいかなくなってきます。

「私は寺の中で狂人扱いされている様な、主観的考を持ったこともありました
 私は自分はつまらぬ人間だといふ事を感じ乍らも、亦英雄だといふ
 人よりは偉い自分だといふことも、時々考へが起こるのであります」by養賢

当時、養賢が母への愚痴をこぼしていました。
母とはそりが合わず嫌っていたのです。

「和尚になるまで帰ってくるな!!
 住職になったら開けてやる
 なんでも食べさせてやるから」

と、追い返しました。

母から突き放され、買えるべき家も失った養賢。
唯一の家族の母からの拒絶は、養賢に大きな影響を与えました。

養賢は、欠席が増えるにつれ、2年、3年と席次が下がっていきます。
留年確定・・・どうする??
和尚は、説教をします。
金閣寺を追い出されるかもしれない・・・追い詰められた養賢でしたが、それでも町をぶらつき、映画を見て過ごしていました。
師匠の慈海は、後の取り調べで、当時の養賢を、青年によくある憂鬱症の一種だと思っていたと述べています。
事件の1か月前、養賢は、学校に来るように説得に来た友人の鈴木に・・・
三階の究竟頂の屋根も、鳳凰も、全部真っ白な冬劇詩の金閣の写真・・・

「これ、俺の一番好きな金閣や」by養賢

これが、2人であった最後の時となりました。

「金閣を支配できないなら、金閣と共に死のう」by養賢

それからの養賢は、周到な死への準備に入りました。

6月18日・・・書籍を売ったお金で遊郭に・・・

「新聞になるようになるがよいか・・・」と語っています。

小刀と睡眠薬100錠を購入。

6月30日・・・折しも寺の火災報知器が故障。。。
決行は明日の夜しかない!!

7月1日の晩・・・養賢は、和尚の世話を終えると夜10時ごろから客人に誘われて碁を打ち、12時ごろに終えました。
金閣にもの周りのものとわら束を持ち込み、火をつけたのは翌2日・・・午前3時ごろのことでした。

「最上階の究竟頂で、金閣と共に死のうという考えが起き、二階に上がろうとしたが鍵が開かず、火が勢いよく吹き上がってくると恐ろしくなり、金閣を飛び出し、大文字山に走りあがった」by養賢

山の中腹で、カルモチンを飲み、切腹を図るが、死にきれなかったといいます。

消防車の放水が始まった頃には、金閣はすでに躯のような状態でした。
この放火で、足利義満の木像・運慶作の菩薩像など、貴重な国宝がすべて焼失し、灰となりました。
夜が明けると、寺に養賢の姿だけが見当たらず、付近の捜索が始まりました。
夕方、養賢は、左大文字山の中腹で、腹から血を流しているところを発見されました。

逮捕の翌日、郷里から母・志満子が駆けつけました。
西陣署に収監された息子に面会するためでした。
息子から面会を拒絶された志満子は、帰りの列車から投身自殺しました。

「死んでお詫びを・・・」

という母の死は、大きく報じられましたが、警察の配慮で養賢には伏せられました。
養賢は、最後まで自分の罪を悪いとは認めず、ただ断頭台に登らせてほしいと訴え、供述は終わっています。
その年の暮れ、裁判で懲役7年の判決が下されました。
明確な真相を語らぬまま、出所後程なく病死しています。

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事件は、国民に衝撃を与え、新聞、ラジオで大きく報じられます。
一方、創作意欲に掻き立てられた2人の作家がいました。
それが、三島由紀夫と水上勉です。
事件当時25歳、新進気鋭の作家だった三島由紀夫は、美に対する嫉妬という犯人・林養賢の言葉に触発され、あの名作「金閣寺」を執筆します。
一方、作家を目指しながらも、職を転々としていた水上勉は、自分と驚くほど境遇の似ている林養賢に強い興味を抱きます。

1冊の本があります。
三島由紀夫と水上勉の作品を徹底的に読み比べた酒井順子著「金閣寺の燃やし方」です。
2人は同じ事件に惹かれ乍ら、全く違う視点で事件を見ていました。
水上勉は、敢えて意識的に「裏日本」という言葉を使っています。
裏日本・・・今ではあまり使ってはいけない言葉になっています。
三島は表日本の視線、水上は裏日本の視線から書いています。
表との格差、違い・・・それを水上は意識的に表に出しています。
三島由紀夫は、表側の視線、中央の視線・・・”日の当たる部分”から”影の側”を見るという書き方をしています。

対照的な作家が見た金閣炎上とは・・・??

東大を出て、大蔵省に就職、エリートコースを歩んだ三島由紀夫。
三島は林養賢が供述で動機として語った「美に対する嫉妬」という言葉に惹かれ、事件に興味を持っていきます。
小説「金閣寺」は、主人公が自分の醜さが理由で金閣の美に惹かれる物語です。
やがてその美が、自分の人生を阻んでいると感じ、決意します。

「金閣を焼かなければならぬ!!」と。

三島の金閣寺執筆時のノートが公開されました。
そこには、美への嫉妬と共に、新たなキーワードが書かれていました。

”絶対的なものへの嫉妬
 相対性の波にうづもれた男
 絶対性を滅ぼすこと”

絶対者=人生を困難にならしむるもの
だからそれを滅ぼす・・・

金閣の美が、いつしか三島の中で”滅ぼすべき絶対性”と置き換わったのです。
主人公の溝口が、戦争によって金閣寺や京都が焼けてしまえばいいのにと、強く思いながらもそうならない・・・
そうならなかったことに対する失望が描かれています。
そんな中で、敢えて溝口が自分が求めている”美”に接する為に金閣寺を燃やすというのは、どこかで三島由紀夫の感覚とつながっています。
戦争で、全てのものが滅びるはずでした。
しかし、敗戦後の世界で、人々は何も変わっていないかのように生きている・・・
退屈な、戦後社会への三島の失望が、この小説には込められているのです。

金閣寺のラスト・・・火を放った主人公は、突如、生きようと決意します。

「私は煙草を喫んだ。
 一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」by溝口

それは、戦後社会と折り合いをつけ、生きようとする三島の決意の表れでもありました。

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もう一人・・・放火事件に強い影響を受けた作家が水上勉です。
水上は、20年かけて事件を取材し、1979年にノンフィクション「金閣炎上」を世に問いました。
放火事件当時、駆け出しの作家だった水上・・・新聞の号外で事件を知り、むさぼるように読みました。

「新聞の一字一字は、私を極度に興奮させ、緊張させ、考えさせた・・・
 浦和にいるのがもどかしかった。
 京都にいたら、野次馬に加わって、焼け跡へ飛んでいただろう・」by水上勉

驚きはそれだけではありませんでした。
犯人は若き修行僧・・・!!
郷里も自分とごく近かったのです。

福井県の貧しい家に生まれ、口減らしのために10歳から京都の禅寺で小僧生活を送った水上・・・
辛さに耐えかねて、逃げ出し、還俗・・・犯人は水上とあまりにも境遇が似ていました。
水上勉が直木賞を取った「雁の寺」は、自分がお寺で務めているときのことを書いています。
辛い思いをして、最終的に住職を殺めてしまうというお話です。
そんな体験があったからこそ、林養賢の気持ちがよくわかったのです。
水上は養賢の故郷を何度も訪ね、60歳近くになってようやく執筆をはじめました。

「金閣炎上」の冒頭には、水上と犯人・養賢が戦時中、青葉山の峠で出会ったという印象的なエピソードがあります。

”私は絶句した。
 六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。
 帽子をあみだにかぶった額際のせまい男。
 私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音少年だ。
 あの男が火をつけたか。”

水上が晩年を過ごした長野の山荘に、大量の草稿が残されていました。
近年、この草稿から、作中のふたりの出会いについて新たな発見がありました。

偶然一度であったことがあったと書かれています。
当初は、金閣寺を舞台にした客観小説として書き始められ、やがてタイトルも変わり、作者自身が語り手となる一人称のノンフィクションとなりました。
その時、養賢と作者が出会うというエピソードが付け加えられたのです。
水上は、ノンフィクションという形式なのに、敢えて、一点の虚構を入れて書いたことになります。
林養賢と、水上勉本人の”つながり”・・・
運命的なものを、フィクションの形で作り上げることによって、真実を語ることができる・・・!!

水上が、そこまでして書こうとしたものとは何だったのでしょうか?

”私が先に、養賢に金閣放火を決意させたものは、金閣寺内の事情をおいて考えられない、と再々言ってきたのはこの消息である。”

平等であってしかるべき仏教の世界の中にも、いろいろな区別や差別があったり、下の者につらい体験が強いられる・・・そんな部分を水上が知っていて、林養賢は、仏教の世界に対する思いが募って、内側から問題提起をしたいという意味もあって放火をしたのでは??

水上は、先に発表された三島の「金閣寺」についてこうのべています。

「お寺の長い廊下をふくぞうきんの冷たさだけだと思った
 ぞうきんにはにおいもある
 そのにおいを私は書きたかった」by水上

真相はわからない・・・だからこそ、金閣放火は作家たちによって人々の記憶に残るものとなりました。

”美に対する嫉妬”という言葉だけを残し、ハッキリとした動機がわからないまま幕を閉じた金閣寺放火事件・・・

三島由紀夫“金閣寺” (1)「美と劣等感のはざまで」



金閣再建に尽力したのは、村上慈海・・・金閣寺の僧侶が金閣寺に火を放つ・・・事件は、慈海の人生に、終生大きな影を残しました。
弟子の教育もできていない・・・批判にさらされました。
その後、慈海は、金閣再建のために奔走します。
三島の金閣寺でも、水上の金閣炎上でも、慈海をモデルにした住職は、金と女遊びに溺れる俗物と批判的に書かれてきました。
しかし、その実像はほとんど語られてきませんでした。

事件当日、消失した金閣の前にたたずむ慈海の姿がありました。
この日、NHKの取材に応じた音声が残っています。

「こういう時期に、国の大事なお宝をお預かりしておって、住職としては国民の皆さんには本当に申し訳ないことした」

弟子の放火で国宝を失ったことを、詫びる慈海・・・
金閣寺に少年の時代から暮していて、それを引き継いできて、次の世代に渡す役割を持っていました。
それが途切れたのです。
そのことの責任感・・・それはすごく重いものでした。

焼失を背負った男・・・
金閣寺・・・歴史を独り占めできる贅沢さは、弟子の誰もが持っていました。
魅力のとりこにさせる部分は、金閣は持っていたのです。

放火事件について慈海はどう語っていたのでしょうか。
”慈しみの海”という道号の如く、大きくて広い人・・・
あの事件については、一言も口にはしませんでした。
師匠の育て方がまずかったと・・・誤解されている部分は大きくありました。

禅宗の僧侶でありながら、金の力で愛人を囲う小説「金閣寺」の和尚。
醜悪な戦後社会を体現する存在として描かれていました。
おかげで慈海のイメージは地に落ちていました。

「私の不徳の致すところです」by慈海

さらに、水上もこう書きました。

”徒弟教育には、性癖ともいえる吝嗇心が作用していたけはいがある。”

吝嗇・・・ケチということです。
水上は、慈海を吝嗇家と描いています。
しかし、弟子の養成、学費に使う・・・小僧を育てるのはお金がかかります。
慈海と養賢の間には、もっと根源的な何かがあったのではないか??

養賢が取り調べ中に書きなぐったわら半紙が・・・

「生とは如何? 死とは如何?
 生死なんて全く無意味だ」

養賢は、どうしてそのような境地に至ったのでしょうか?
公判史料によると、事件前の養賢は、慈海に生きることの意味について問うたことがありました。
その記録から・・・??
われわれはなんで生きているのか?
そこに色々な意味が欲しい・・・
しかし、本来は意味なんてない・・・!!

何のために生きているのか?
ただ生きるために生きている

事件のあと、焼け跡で慈海は何を思ったのか・・・一言も話すことはありませんでした。
すぐに再建に向かって動き出しました。
当初、周囲の反応は冷ややかでした。
戦争が終わってまだ5年・・・日本の国自体がどうやって再建するかという時代でした。
そんな中、慈海は毎朝、たった一人で托鉢に出るようになりました。
住職自ら街角に立つ姿に、市民の気持ちも変化していきます。
地元の人で、慈海を悪く言う人はいませんでした。
一方、刑務所の養賢からは、慈海におびただしい手紙が送られてくるようになっていました。

「あの夜のことが、いまひしひしと悔いられ、土に伏したい気持ちであります。
 おゆるし下さい。おゆるし下さい。
 何とぞ、おゆるし下さい。」by養賢

慈海の気持ちはどのようなものだったのでしょうか?
寺から衣類や書籍などの差し入れがあったという記録だけが残っています。

事件から2年後、全国5万人の寄付によって、金閣再建に向けて工事が始まります。
その頃、養賢は結核が進行し、精神状態も急激に悪化、意思疎通もできなくなっていました。
昭和30年10月、新しい金閣の落慶式が行われました。
焼失前より、さらに輝きを増した舎利殿を一目見ようと多くの人が殺到しました。
奇しくも同じ月、養賢は釈放され、そのまま病院に入院、半年後、結核でこの世を去りました。
慈海はその後30年にわたって住職として弟子を育て、その朴訥な人柄で皆から慕われました。

金閣の仏間には、林養賢、そして養賢の母親も祀られています。
放火犯である養賢と母・志満子の位牌が金閣寺の中に祀られているというのです。
戒名は誰がつけたのか、わかっていません。

しかし・・・その戒名”正法院鳳林養賢居士”
林養賢の俗名の上に、鳳林・・・金閣の上の鳳・・・金閣を象徴した戒名です。
それは、慈海の養賢への思い・・・慈しみを感じます。

放火事件から35年後、村上慈海は、83歳で亡くなりました。
金閣に捧げた生涯でした。

前代未聞の放火事件から、70年以上が立ちました。
仏教界への批判、境遇への不満、自己嫌悪・・・様々な読み説きがなされてきましたが、本当の犯行理由は今もわかりません。
一方、あの時燃えた金閣は、多くの人の尽力で不死鳥のようによみがえり、さらにまばゆい光を放っています。
建物は一度滅んでも、人々の思いは滅びることはありません。

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8月・・・武装勢力タリバンが政権を掌握したアフガニスタン・・・多くの人々が脱出を試み、空港に殺到しました。
そんな中、敢えてとどまる人々がいました。
国境なき医師団・・・紛争や災害で苦しむ人たちに無料で医療を提供するNGOです。
その名の通り、国境を越え、満足な設備のない辺境にまで素早く駆けつけます。
しかし、その道のりは平たんなものではありませんでした。
発足当初のメンバーは、わずか13人・・・
理想と現実の狭間で、葛藤しながらも戦い続ける国境なき医師団・・・!!

世界各地で、絶えることのない戦争や紛争・・・
国境なき医師団は、世界のおよそ90の国と地域で4万人のスタッフが、医療を無料で提供しています。

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1999年10月15日・・・国境なき医師団がノーベル平和賞を受賞しました。
そこでは医療だけでなく、もうひとつの取り組みが評価されました。
それは、声をあげる・・・!!
授賞式の会場で、代表者はこうスピーチしました。

「言葉で常に命が救えるわけではありませんが、沈黙は確かに人を殺すことがあります」

戦争や災害の現場で見た現実を、世界に訴えるという信念を持っています。
しかし、その告発が時には攻撃や非難の対象になります。
それでも声をやめることをやめない・・・!!

・創設に携わった若きフランス人医師たち。
彼等の中には、アフリカの紛争地を訪れて知った悲惨な状況を告発しようとするもそれを止められた苦い経験がありました。

フランス・パリ・・・1971年、国境なき医師団はこの地で生まれました。
医師ベルナール・クシュネール・・・
「当時、医師が自分の国を離れて活動することには大きな壁がありました
 私たちは、野心をもってその困難に立ち向かったのです」
クシュネールたちに賛同し、反骨精神にあふれた若者が集まってきました。
ロニー・ブローマンもその一人です。

「私は、人道支援は見せかけの幻想だと思っていました
 それで入団を申し込んだ時、一度落とされたんです」byロニー

ロマンチストからリアリストまで、若き医師たちが目指したものとは・・・??

1968年5月、パリは揺れていました。
教育改革を訴えた学生たちが、街頭で声をあげ、やがて資本主義体制そのものを批判する大規模なデモとなりました(五月革命)。
この運動の中に、当時29歳の若き医師ベルナール・クシュネールがいました。

「先進国に生れた私たちは、世界の大多数の人たちよりいい環境で暮らせています
 これは公平じゃない、是正する必要がある
 私は世界を平等にしたかったんです」byクシュネール

1970年、理想に燃えたクシュネールが活動の場として選んだのが、国際赤十字でした。
しかし、派遣されたアフリカで、すぐに現実を思い知らされます。
ナイジェリアでは当時、分離独立を主張する東部のビアフラと、政府との間で紛争が起きていました。(ビアフラ紛争1967~70)
政府は、ビアフラへの食糧の供給を遮断・・・人々は、想像を絶するような飢餓に襲われます。
子供たち全員が、飢餓状態に苦しんでいました。
栄養失調で次々と死んでいく姿を見守ることしかできなかったのです。
クシュネールは、この事実を世界に発信すべきと考えました。
しかし・・・中立な立場をとる赤十字は、現地の政治に一切干渉しないことを医師たちに求めていました。
クシュネールは、見たことを口外しないよう、誓約書まで描かされていました。
それを破り捨てれば、赤十字を追放されるかもしれない・・・!!

「私は誓いに背き、ビアフラの惨状を告発しました
 子供たちが死んでいくのを黙っていられませんでした
 現地に食料が入るよう封鎖を解くためには、国際社会への働きかけが必要だと思ったのです」byクシュネール

結局、赤十字をやめざるを得なくなりました。
医療で国際支援をするという夢を断たれ、先を見失った頃、パリで大学時代の友人と再会しました。

グザビエ・エマニュエリ・・・
医師としての地位や名誉を望まず、もっぱら厳しい環境で働く労働者の治療にあたっていました。

「私たちは、アウトサイダーとしてお互いを認め合い、政治についてもよく話し合ったものでした
 若かったので、意見がぶつかったが、殴り合って解決しましたよ」byエマニュエリ

2人は医師やジャーナリストの仲間を集め、13人で国境なき医師団を立ち上げました。
ひとつだけ、譲れないルールを決めていました。

「現地の様子を告発しなければ、改善されません
 私たちは、医療を行うだけでなく、”声をあげる”ことも誓ったのです」byクシュネール

しかし、活動をはじめたくても先立つ者がありませんでした。
当時、国際赤十字をはじめ、世界で活動する人道支援団体がいくつか既にありました。
しかし、その資金は、政府や国連から提供されるものがほとんどでした。
声をあげるためには、国連や政府に支援を頼るわけにはいかない・・・!!
エマニュエリたちは、一般から寄付金を集めることにしました。
しかし、そのノウハウがありませんでした。

「私たちはまるで物乞いのようでした
 100フランをもらうため、フランス中を講演して回りました
 本を書いたり、広告を出したり、あらゆる手段で寄付金集めに奔走しました」byエマニュエリ

なんとか集めた僅かな寄付金で、ようやく活動が始まりました。
その頃、最も力を入れたのが、カンボジアの支援でした。
当時、ポル・ポトが率いる政権は、カンボジア全土に恐怖政治を強いていました。
虐殺や、強制移住によって、100万人以上の命が奪われたと言われています。
多くの難民が生まれ、エマニュエリたちはカンボジアの隣のタイでその支援にあたります。
そこで目にしたのは、紛争地の過酷な現実でした。

「突然診療所で警報が鳴り、砲撃が始まりました
 砲弾の破片で多くの人々が負傷し、身体に大きな穴が開いた少女が運ばれてきました
 彼女を一目見て悟りました
 何もできない
 彼女を助けるのは無理だと・・・!!」byエマニュエリ

この頃、国境なき医師団に加わったのはロニー・ブローマン、当時27歳!!
やる気満々で、難民キャンプに乗り込みますが、予想もしなかった場面に直面します。

「医師団の体制が不十分だったため、資金が尽きてしまい、困ったことに食料も一切なくなりました
 すると、難民たちが食料を恵んでくれたんです
 こともあろうに、助けるはずの人たちに、逆に助けられる始末でした」byブローマン

当時の国境なき医師団を見てこう評した作家がいます。

「素人のロマンティスト」

「私たちは若かった
 何かができると思っていました
 しかし、しなければならないあらゆることが、出来なかったのです」byエマニュエリ

そんなエマニュエリたちに、一つの転機が訪れます。



1979年、カンボジアにベトナムが軍事介入!!
新政権は、タイとの国境を封鎖しました。
カンボジアで人権侵害があっても、国境の外からは全くわからず、何もできない・・・!!
タイにいたエマニュエリたちは、行動に出ます。
それは・・・

「我々は、国境までデモ行進します
 国境なき医師団としてカンボジアに入り、支援をしたいと伝えます」byエマニュエリ

1980年2月6日、カンボジアの国境付近でデモを決行・・・その名も、生存のための行進!!
反戦歌手として知られるジョーン・バエズに参加を呼びかけ、ジャーナリストたちにも声をかけました。

「カンボジア政府は、人道支援を妨害して言う事実を認めるべきだ!!」

世界の報道機関が、関心を寄せました。
アメリカやフランスの一流紙がこのデモを報じ、さらに日本でも・・・!!

「生存のための行進は、私たちの狙い通り、大いに注目されました
 おかげで多額の寄付金も集まりました
 あのデモから医師団の名が広く知られるようになったんです」byブローマン

活動資金が集まってきたことで、医師だけでなく、物資の輸送や診療所の設置を行う専門スタッフを整えられるようになりました。
さらに、広報に専念する人や、現地政府や支配勢力と交渉するためのスタッフも配置、医療支援は軌道に乗り始めます。
しかし、もうひとつの声をあげ告発するという活動の方は、各地で軋轢を生みました。

1984年、大飢饉にあえぐエチオピア・・・
国境なき医師団は、軍事政権による援助物資の横流しを告発!! 
すると、支援する団体の中から国境なき医師団だけが国外に追放されました。
メンバーが命を狙われることまで起き始めます。

「1980年代のアフガニスタンでは私たちを追い払うために病院が何度も爆撃を受けました。 
 シリア、イエメン、南スーダンでも、医師団を狙った爆撃がありました
 私たちが攻撃の標的になったことは創設以来何度もあったんです」byブローマン

国境なき医師団では、実に97人が活動中に命を落としています。
声をあげることは、時に命の危険をも伴う・・・
しかし、その声が、遂に世界を大きく動かしました。
それは、アフリカのルワンダ支援の時・・・1990年代初頭。
多数派のフツ族と少数派のツチ族が衝突しました。
国連は、PKO部隊などを現地に派遣し、平和維持にあたっていました。
そんなさ中、フツ族出身の大統領が搭乗した飛行機が撃墜されました。
怒りにかられたフツ族が、民兵を組織し、ツチ族を公然と殺害し始めました。
その犠牲者は、80万人以上ともいわれ、多くの人々が難民となり、国外に逃げました。
現地の国連部隊は、大量虐殺だと応援を要請しますが、国連本部は動きませんでした。
こうした間にも虐殺は続き、被害は拡大しました。

「ルワンダで私たちが見た暴力は、あまりに大規模でひどいものでした
 これがジェノサイド・・・大量虐殺であったことは私たちの目から見ても明らかでした」byブローマン

実は、医師団発祥の地フランス政府もまた虐殺から目を背けていました。
多数派のフツ族がしはいするルワンダ政府を長年支援してきたからです。

「なんとしても、この事実をフランスで告発し、ジェノサイドに終止符を打たなければならないと感じました」byブローマン

5月・・・ブローマンたちは、フランスの一流紙ル・モンドに広告を載せ、声をあげました。

”これは民族間の紛争ではありません
 徹底的、そして、計算された大量虐殺です
 フランス大統領と国際社会派、直ちに虐殺をやめさせ、ルワンダ国民を守り、虐殺の責任を追及すべきです”

「新聞広告は、ジェノサイドの事実を人々に知ってもらうことが目的でした
 これで虐殺を止める何かが起こるのではないかと期待したのです
 医者では大量虐殺を止められませんから」byブローマン

国境なき医師団は、創設以来初めて軍事介入を世界に訴えたのです。
その後、世界の報道機関もルワンダ虐殺阻止を訴え始めます。
ブローマンたちの告発から1か月後、遂に国連は部隊の追加派遣を決定!!
フランス政府も、軍事介入することを決めました。
紆余曲折を経ながらも、大量虐殺は収束していきました。

5年後・・・1999年10月15日。
思わぬ知らせが届きます。

「1999年のノーベル平和賞雄国境なき医師団に授与します」

受賞理由にはこうありました。

”大惨事に対して声をあげて、関心を集め、さらにその原因を指摘することによって、人権侵害や暴力に反対する世論を喚起している”

ひるまずに続けてきた声をあげる行動が、高い評価を得たのです。

「とてもうれしかった
 声をあげて殴られるよりも、ノーベル賞をもらえる方が、ずっといいね」byエマニュエリ

「声をあげるのは世の中に警鐘を鳴らし、真実を告発するためです
 こうした活動こそが、言ってみれば、国境なき医師団の神髄なのです」byブローマン

今も、国連や世界各地で告発を続ける国境なき医師団・・・

「病院を撃つな、医者を撃つな、患者を撃つな」byジョアンヌ・リュー



わずか13人から始まった活動は、世界に確かな足跡を残しています。

フランスの医師たちが始めた国境なき医師団・・・
その活動の輪は、今や世界38の国と地域に事務局を置くまでに広がっています。
創設から遅れること21年、日本でも事務局が設立されました。
しかし、参加する医師はほとんどおらず、寄付もなかなか集まりません。
そんな時、M7.3の大地震が日本を襲います。
阪神淡路大震災・・・国境なき医師団のメンバーは、いち早く駆けつけ、医療援助を行います。

・主婦・寺田朗子・・・日本での活動の礎を築いた主婦です。

今は、途上国の子供を支援する団体の代表を務める寺田朗子・・・
国境なき医師団に加わったのは、46歳の時・・・専業主婦でした。
以来、今に至るまでボランティアを続けること30年・・・半生を人道支援に捧げることになります。

「国境なき医師団に関わることが無かったら、この世界は知らないまま終わってたと思うので、私の人生を変えたものです」by寺田

30代までの寺田は、主婦として3人の子供を育てる忙しい毎日を過ごしていました。
しかし、末の子が高校生になると一度社会に出て何かをしたいと思い始めます。
大学時代の先輩から、一本の電話があったのは、ちょうどその頃でした。
あるフランス人にあってほしいという・・・
実は、寺田はフランス留学の経験がありました。

そのフランス人こそ、ドミニク・レギュイエ・・・国境なき医師団から来たという。
現在はパリにいるドミニク・・・日本にも事務局を作り、日本人の医師を医師団のメンバーにしたいと考えていました。

「日本人の人道援助に対する考え方は、欧米と同じだと思っていたので、楽観的に考えていました」byドミニク

ドミニクから通訳として手伝ってほしいと頼まれた寺田・・・
まったく知らない世界だったが、人助けになればと引き受けることに。
1992年日本事務局設立!!
寺田を入れて、4人でのスタートでした。
最初の仕事は、フランス語のニュースレターの翻訳でした。
そこで目にするNGOや人道援助と言った言葉は、当時の日本ではなじみのないものでした。
当時、ドミニクからよく聞かされた言葉があります。

「とにかくみんなが無関心でいることが、つらい人たちを増やすんだ
 そうならないように私たちが人さま方に知っていただくことをするんだ」

最初のニュースレターは、完成までに1カ月かかりました。
寺田たちは、早速この日本語のニュースレターを手に、活動を始めます。
ドミニクは、寄付金集めのために企業を訪ね歩き、寺田も度々同行しました。
しかし・・・反応は冷ややかなものでした。
一方、肝心の日本人医師の勧誘も、分厚い壁にぶつかっていました。
当時の国境なき医師団の海外派遣は、原則6カ月、手当は月10万円が精一杯でした。
東京の医師会で、参加を呼び掛けてみたものの・・・難しいものがありました。

「私たちは、まったく歓迎されませんでした。
 ある医師会の会長は、国境なき医師団のような組織が日本で活動できるとは全く思っていませんでした
 国際的な人道支援の意味は、日本ではまだ理解されていなかったのです」byドミニク

1年かけて、勧誘に回ったものの、応じてくれた医師や看護師はわずか3人・・・
国境なき医師団の活動は、日本では無理なのではないか??
寺田がそう感じていた矢先・・・
1995年1月17日・・・阪神淡路大震災が起きました。
震度7の揺れが、関西の大都市を直撃しました。
被害のあまりの大きさに、情報は錯そう・・・国も自治体も大混乱に陥りました。
その時、独自に動き始めたのがドミニクでした。

「日本で大変なことが起きていると感じました
 そして、何かをしようと思ったのです
 パリの事務局を通さず、自分たちの意思ですぐに動くことにしました」byドミニク

まず取り掛かったのが、支援物資を神戸に送ることでした。
しかし、道路は寸断され、被災地への物流は滞っていました。
スタッフ総動員・・・1日がかりで10トントラックと水・食料・毛布などを確保、なんとか神戸へ送り出しました。
震災直後は、支援が全くありませんでした。
そんなところに初めて届いた支援物資が国境なき医師団からのものでした。
ドミニクが、つてのあった避難所に送り届けたのです。

ドミニクはさらに、被災地支援の経験が豊富なエキスパートを日本に呼びました。
医師エルベ・イザンベール。
実際に神戸に入り、何をすべきか分析します。

「国境なし医師団の役割は、仲介することだと考えました。
 協力してくれる日本の医師や看護師を見つけ、現地の自治体と連絡を取りながら、必要なところに医師を派遣するのです」byイザンベール

当時の日本には、被災地にどんな医療支援をすべきか、十分なシステムが整ってはいませんでした。
イザンベールたちが考えたのは、各地にある避難所に医師を送り込む事・・・。

寺田のいる東京の事務局では、活動を通じて知り合った病院や医師と連絡を取り、被災地に行ける人を探しました。
その時、一人の医師から電話がありました。
阿竹茂・・・当時、筑波大学附属病院に勤務していました。
何かできないかと協力を申し出ます。
しかし、その為には、今の大学病院の仕事を休まなければならない・・・
阿竹は、教授の了解をなんとか取り付け、神戸へと向かいました。
2000人がいる神戸の避難所・・・そこに、医師は一人もいませんでした。
多くの被災者が、新札を求めてやってきました。
24時間体制で医療支援を行う阿竹の姿は、ニュースで報じられました。
その後、継続して医療支援を行うようになりました。
国境なき医師団の活躍が知られるにしたがって、医師や看護師からの支援の申し出も増えていきました。
その後、他の支援団体も神戸に診療所を作るなどして、医療が被災地に行き届いていきました。

阪神淡路大震災から3年後、ドミニクはフランスに帰国・・・
後任の日本事務局の会長に指名したのは、寺田でした。
寺田が会長だった7年の間に、日本事務局への寄付は10億円を超え、活動は世界に広がっていきました。
ノーベル平和賞の授賞式にも日本を代表して出席しました。

「無関心が人を殺す」byドミニク

日本での活動を広げた国境なき医師団・・・
今では、100名近い医師やスタッフが日本から世界各地に派遣されるようになりました。
しかし、皆、戦争や紛争とは縁のない日本育ち・・・
なぜ彼等は危険を冒してまで世界に向かうのか・・・??



・看護師・白川優子・・・紛争地と看護師・理想と現実の狭間で
白川がアフガニスタンに入ったのは、8月・・・タリバンが政権を握った直後でした。
白川は、アフガニスタン南部のとある町の病院で看護支援にあたりました。
都市の機能が麻痺する中で見たものは・・・??
これまで18回もの海外派遣を経験している白川。
ずっと憧れていた国際医療支援の現場には、想像をはるかに超えた現実がありました。
オーストラリアに留学し、2010年、国境なき医師団に入団します。
10年越しの夢を実現した白川・・・しかし、3度目の海外勤務・中東で現実を突き付けられます。
内戦状態にあったイエメン・・・
空爆に巻き込まれた人が、病院に運ばれてきました。

次の派遣先もまた、ない戦火の中東・・・シリアでした。
さらに過酷な体験をしていきます。
シリア政府と反政府勢力が激しく争う中で、多くの民間人が巻き添えになります。
日本人の女性ジャーナリストも命を落としました。
その後、イスラム過激派組織ISも内戦に加わり、外国人というだけで命を狙われるようになります。
白川は、反政府勢力が支配する地域で看護にあたっていました。
そこへ・・・!!
空爆!!白川のいた病院が狙われました。
それでも次々と運び込まれてくる患者たち・・・白川の中で、ある思いが芽生えていました。

紛争地で医療を施すことの限界・・・!!

思いつめた白川は、あれほど憧れていた医師団をやめようとまで考え始めます。
国境なき医師団の中に、ジレンマを抱える人は少なくありません。
理想と現実のギャップに苦しみ、医師団を去る人も多いといいます。
白川は、悩みながらもシリアで看護を続けました。
そんな時、ある少女と出会います。
空爆を受け負傷した17歳・・・
足の骨は砕かれ、自力で歩くことができなくなって絶望していました。
白川は、その少女に毎日寄り添い続けました。
それから1か月・・・任期を終え、日本に帰国することになった白川は、別れ際にこう伝えました。

「日本に帰ってからもあなたのことを忘れたくないし、一緒に写真を撮りたい」by白川

写真は笑顔でした。

その時たどり着いた想い・・・
「声をあげられない現地の人たちのために、私が目撃者として伝えなければならない」

2017年、帰国した白川は、記者会見を開き、声をあげました。
さらに、現地で見て、感じたことを書き始めました。
有名雑誌に寄稿し、紛争地での体験を一冊の本に記しました。

”紛争地の看護師”

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「現実を受け入れるには私たちはどの程度人間としての心を麻痺させなくてはならないのだろう」

そして今、白川は、国境なき医師団の活動を若い世代に伝えようとしています。
高校生を対象としたオンラインの講演会・・・500人近くが集まりました。
新型コロナの影響で、活動は限られる中でも声をあげ続けています。

悲惨な現実を変えるために声をあげる・・・!!
国境なき医師団の信念が、確かに受け継がれていました。

50年前、フランスの若い医師たちによって作られた国境なき医師団・・・
創設者のひとり、エマニュエリはこう例えました。

「人道援助は冒険である」

危険を冒してでも苦しむ人を助けたいという国境なき医師団の人生をかけた冒険・・・
今も世界中の紛争地や被災地で、多くの命を救い、同時に戦争の愚かさを告発し続けているのです。

彼等の向かうところに国境はない・・・世界の人々が、心の国境を越えて結ばれることを信じて・・・!!

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スペイン北部の小さな町・ゲルニカ・・・ここが全ての始まりでした。
1937年4月26日のゲルニカ空爆!!
戦場ではなく、一般市民を狙った無差別爆撃!!
死者の数は、未だ明らかになっていません。
当時、スペインは内戦中・・・共和国政府に反乱を起こした将軍・フランコは、ナチス・ドイツと結託。
反フランコ派の巣窟とされたゲルニカへの空爆を依頼しました。
このニュースを聞き、当時パリにいたスペイン生まれの天才が筆を執ります。

”パブロ・ピカソ”



1937年7月12日、爆撃からわずか77日後、ピカソはパリで開かれた万国博覧会・・・スペイン共和国パビリオンで一枚の絵を公開しました。
題名は”ゲルニカ”!!

子供を抱き嘆く人、途方に暮れ叫ぶ人、犠牲となった街の住人・・・ひいてはスペインの市民のために描かれたゲルニカ!!
しかし、この絵がスペインの地を踏んだのは、1962年3月3日、初公開から16131日目・・・
実に44年後のことでした。
その間には、あまりに多くの波乱がありました。
その運命とは・・・!!??

ピカソは祖国スペインのために描きましたが、パリで初公開のあと、北欧、イギリス、そしてアメリカへと転々・・・長くスペインではゲルニカを見ることができていませんでした。
そのゲルニカが、遂にスペインに帰った日・・・それが運命の分岐点です。

1981年9月10日、初公開から実に16131日後のことでした。
どうしてこんなに時間がかかったのか??
そこには3つの壁がありました。

第1の壁・・・独裁者の壁
ゲルニカの無差別爆撃に深くかかわったフランコ将軍は、戦後も長くスペインを独裁。
ゲルニカを描いたピカソは敵視され、過激派によってピカソ作品が破壊されるという事件まで発生します。
しかし、このギャラリーのオーナー、エルビラ・ゴンザレスは、危険を顧みずピカソの作品を展示し続けました。
その背景にあったゲルニカの背景にあったあまりにも強い信念とは・・・??

スペインの首都マドリード・・・この町で、エルビラ・ゴンザレスは、フランコの時代から55年間命がけでギャラリーを経営してきました。

「神様や聖人に人生を捧げる人がいるけど、私にとって、それはピカソなんです
 だから私は、ピカソの絵を飾り、待ち続けました
 彼の最高傑作、ゲルニカを迎え入れる日を・・・!!
 たとえ、テロリストに襲われてもね」byエルビラ

全てはピカソ、全てはゲルニカのために・・・!!

祖国スペインを20代で飛び出し、長く芸術の都パリで活躍していたピカソ。
第2次世界大戦直前、55歳の時にゲルニカを描き、国際的名声をさらに高めました。

「戦争が終わってしばらくたっても、ピカソの絵を展示するのははばかられていました
 芸術の観点からみればおかしなことです
 だって、20世紀以降の芸術で、ピカソの影響を受けていないものなどいないでしょう?
 ”モノを見たままに表現しなくていい”そのピカソの姿勢にほとんどすべての芸術家が倣った・・・
 マドリードでも、みんなこっそりピカソ作品に学んでいました
 でも、なんでこっそり学ぶ必要があるの?
 なんで、彼の最高傑作であるゲルニカはスペインにないの??
 それはすべて、フランコのせいでした」byエルビラ

第2次世界大戦直前、ナチスと結びつき内戦を制圧、独裁政権を樹立したフランコ・・・
複雑な国際情勢を、したたかに生き抜き、戦後もスペインを独裁し続けました。
一方、ゲルニカは、フランコが反乱を起こしたスペイン共和国のためにピカソが描いた絵・・・
世界各地で展示されたのも、共和国支援のためでした。
しかし、願いはむなしく、1939年にスペイン共和国は崩壊します。
ピカソの意思で、ゲルニカは当時展示中だったニューヨーク近代美術館で保管されることになります。
ピカソはその後、「フランコや戦争についいで何かに思うことは??」と問われた時、こう答えています。

「私は戦争を”描いた”ことはない
 写真家と違って、戦争の現場に行ってその瞬間を封じ込めたりはしないから
 戦争は常に”起きている”ものだ
 私が描いた絵の中に」byピカソ

ピカソは戦後もフランコの天敵に・・・
ピカソ作品は、もっぱら海外で見るものとなっていました。

「私が初めてゲルニカを見たのもニューヨークでした
 最初はなんで外国で自分の国の画家の絵を見なくちゃいけないの??って思っていました
 でも、見た瞬間、動けなくなりました
 あの絵は理解する以前に感動させる力を持っているんです
 戦争や弾圧という不条理に、あれほど強く立ち向かう意思を感じさせる絵はない・・・
 嘆く女性の姿に問い詰められたような気がしました
 こんな天才の作品が、祖国で見られなくていいの??って、私は私だけでもピカソの絵を展示すると決め、1966年にギャラリーを開きました
 ギャラリーの名前は”テオ”
 ゴッホの弟の名から取りました
 テオは、兄がどんなに不遇でも、兄の絵は傑作と信じ、自分のギャラリーで扱い続けた
 私も同じ
 スペインでピカソの絵がどれだけ不遇でも、彼の作品を展示し続けると決めたんです」byエルビラ

エルビラには当時、どうしても展示したい作品がありました。
ピカソがゲルニカを描く直前まで7年かけて作った珠玉の版画集「スウィート・ボラ―ル」です。

「スウィート・ボラールにはこだわりました
 だってあれは、ゲルニカの原点となった素晴らしい作品ですから」byエルビラ

ゲルニカに描かれた雄牛とのぞき込む女性の横顔・・・この二つのモチーフは、爆撃とは無関係ながら、ゲルニカを描く前の段階から書き込まれていました。
スウィート・ボラ―ルの1ページにも・・・
ピカソが最も得意としたモチーフでした。

「ゲルニカの中で、雄牛は戦火があっても凛々しく立っています
 あの独特の横顔は、戦火をのぞき込み、だれものぞき込むことを許さぬかのよう
 爆撃には関係なくとも、ピカソが描きなれたモチーフが、あの絵に”芸術”としての力をもたらしていると思います
 そんなゲルニカに続く道のりを示すためにも、スウィート・ボラールは展示したかった
 いつか、ゲルニカを迎えるときの”予習”としてね
 だから、所有しているパリの画廊に頼み込んで、私たちの展覧会のために特別に貸し出してもらったんです」byエルビラ

ギャラリー開設から5年目の1971年・・・念願のピカソ展開催を決めたエルビラ・・・
その直前、ゲルニカを巡る騒動が起きました。
きっかけは、フランコが出した異例の声明です。

”ピカソと共に「ゲルニカ」をスペインに帰還させたい
 政治的意味とは無関係に、ピカソの才能を称える芸術の宝として”

フランコは、ピカソ作品のための美術館建設を提案します。
天才ピカソとの和解は、当時経済低迷で求心力を失っていたフランコにとって、起死回生の策となるはずでした。
ただ・・・ピカソは、

”フランコのいないスペインになら「ゲルニカ」を渡そう”

ゲルニカを保管するニューヨーク近代美術館との間に、契約書を締結。
スペインに人民の自由が復活するまでは、ゲルニカは戻さない!!
フランコの面目は丸つぶれ、これを受け、フランコに心酔する一部の極右は過激な行動に出ます。
ピカソの本を扱っている書店や、ピカソのポスターを売る店が次々と見つけ出されては窓ガラスを割られます。

「私のギャラリーも、ガラスを割られるかもしれないから受付に見張りを置いたり、出来る限りの備えをしました
 でも、まさか、あんなに驚強い襲撃を受けるとは想定していませんでした」byエルビラ

事件は展覧会が始まって10日目に起きました。

「あの時、私はまだ自宅にいて、画廊に向かおうとしている時でした
 画廊オープン15分前に、”建築学の学生だ 早く見たいので入れてくれ”という若い男が来たんです
 見張りの人は、熱心な学生だと思って中に入れました
 でも、そうしたらいきなり、ドアにカギをかけられ、裏口から仲間を招き入れた
 そして、絵をナイフでズタズタに切り裂き、あたり一面に硫酸をかけて去っていったんです
 すぐに見張りの人が電話をくれて、私は駆けつけました
 正直、倒れそうになったけど、バルセロナで同じくピカソ展を行っていたギャラリーに電話をかけました
 うちは襲われた、あなたたちも気を付けてって!!
  
 電話を切った後、作品の状態を確認しました
 あれだけ頼み込んでお借りしたスウィート・ボラ―ルもズタズタ・・・心から恥じました
 ”傑作を守れなくてごめんなさい”と」byエルビラ

ショックで打ちひしがれたエルビラ・・・
彼女を立ち上がらせたのは、現場に犯人が残していった犯行声明でした。

”ピカソはマルクス主義者で非国民、ホモセクシャルだから、鉄槌を下す!!”

「なんて幼稚!!これはピカソのことを何も知らないバカで幼稚な連中の行いだとわかりました
 ピカソがホモセクシャル??彼に女性の愛人が何人いたと思っているの??
 歴史上、最も女好きで、女ばかり描いてきた画家よ!!
 勉強が足りないのもほどがある!!
 あれを読んで決意したんです
 あんな無知な連中を無くすためにも、私はピカソの展示をやめない!! 
 泣き寝入りはしない!!
 だから、警察が来た時も、お待ちなさいと言ったんです
 フランコの息がかかった警察に任せたら、うやむやにされかねないから・・・」byエルビラ

警察を待たせ、記者を呼び、全てを写真に収めさせたエルビラ・・・
写真とそのほかのすべての記録を持って、彼女が向かったのはフランス大使館でした。

「全ての証拠をフランス大使に渡したんです
 郵送すると、奪われてしまうかもしれないから直接ね
 フランスを選んだのは、パリに住むピカソに伝えたかったからです
 今のスペインは、ゲルニカを迎えるにふさわしくないし、こんな事件まで起きてしまう
 でも、この後のスペインの反応を見てほしい
 これを許してしまうのか、それともこれをとがめるのか
 まだ、フランコの時代だったのに、多くのマスコミが事件をとがめてくれた
 これではっきりしました
 ピカソを嫌っているのは、フランコと一部の暴徒たちに過ぎない
 我々スペインの大多数は、ピカソを愛しているんです」byエルビラ

エルビラがスペイン大使館に預けた写真は、ヨーロッパ中に配信されます。
国際問題を恐れたスペイン政府は、容疑者を逮捕し、刑務所に送りました。

「あれは奇跡です
 フランコの時代、彼を支持する極右の犯行はうやむやにされるのがほとんどでしたから
 あの後、いたずら電話がよくかかってきましたよ
 保険金でどれだけ儲けたんだい?って
 連中はわかっていません
 政治犯の犯行には保険は下りないんです
 私は何年もかけてスウィート・ボラ―ルの賠償金を支払いました
 同時に、ピカソの展覧会を開き続けました
 ピカソと女、ピカソと友人たち・・・いくつも・・・
 だって、私たちは、ギャラリー・テオ
 テオは天才のために仕事をし続けないといけないから
 
 私は確信していました
 傷つくのは私の事件が最後
 もう、この国でピカソがないがしろにされることはない
 いつ、ゲルニカが戻ってきても、大丈夫だと
 あとはそれがいつになるか
 私は首を長くして待っていました」byエルビラ

ゲルニカを待ち続けたエルビラ・・・
そんな彼女のもとに、1974年、アメリカからとんでもないニュースが届きました。

「誰かが展示中のゲルニカにスプレーで落書きをしたというの
 どこの過激派がしたの??
 私たちのゲルニカに何をするの??そう思いました
 でも、思えばあのクレイジーな行いが、止まっていたゲルニカを動かすきっかけになったんです」byエルビラ

スペインで人民の自由が復活するまでは・・・そんなピカソの願いのもと、自由の国アメリカに長く保管されていたゲルニカ・・・
このままずっとアメリカに??
そんな声もあった中、事態を大きく動かす大事件が起こります。

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ゲルニカ返還までの第2の壁・・・アメリカの壁に風穴を開けたのは、アーティスト、トニー・シャフラジ・・・彼は、ニューヨーク近代美術館に展示されているゲルニカに白昼堂々スプレーで落書きをしました。
まぎれもない犯罪行為・・・しかし、その背景には、このままゲルニカをアメリカが持ち続けていいのかという強烈な疑問がありました。
ゲルニカの運命を変えた落書き・・・その真意とは??

アメリカ、ニューヨークの近代美術館・・・通称MoMA
今ではセキュリティーの厳しいこの美術館で、前代未聞の落書き事件が起きたのは、1974年・・・
ピカソが亡くなって1年後のことでした。

「私のやったことをもしピカソが見たら、なんというか??
 きっと、目を覚まさせてくれたなと言ったと思う
 ”ゲルニカ”が死にかけたところを私がよみがえらせた
 だから、そのことに大きな意味を認めてくれたと思うよ」byトニー

トニーは、地震のアーティストであり、バスキアを筆頭に有名作家を育てたギャラリーのオーナーでもあります。
そんな彼にとってもピカソが特別な存在でした。

「私は十代までイランのアバランにいたんだけど、絵が大好きで、いつも友達と絵を書いてばかりだった
 その頃から私にとってのピカソは、”現代をはじめてくれた人”それまでと違う、20世紀芸術の扉を開け、こっちだと示してくれた人だった」byトニー

イスラム革命前のイランで、裕福な家庭に育ったトニー。
美術を学ぶ学生として、世界各地のアートを見て回る中、1965年にニューヨークを訪れ、初めて見た「ゲルニカ」に度肝を抜かれました。

「あの日から今まで、ゲルニカが与えてくれた衝撃は一切薄れていない
 見た瞬間、これは戦争に対する人類史上最高の絵だと思った
 それまでヨーロッパで見てきたただ上手に戦場を描いた絵とは違う
 彼等は、何百、何千という兵士や馬をとにかく細かく、とにかく美しく描き、戦場を美しく見せようとしている
 では、ピカソは??
 ゲルニカの前に立った時、何を感じたか??
 私が感じたのは、戦争が作り出す分断だ!!
 身体はバラバラ、女性の顔は何もないところから入ってきてちぎれそう・・・
 すべてが分けられている、断たれている・・・
 戦争が終わったら、誰も見ようとしない戦争の傷、戦争の後も続く終わりなき分断をここまで見事に表した絵はない
 そして、20世紀にもなって、敢えて白黒なのはなぜか??
 巨大なのは??
 私は思った
 ああ・・・もしかして映画の影響じゃないかって
 描かれた1937年当時、映画は白黒だったし、無声映画の時代からワーワーと声が出るトーキーに変わり、スクリーンに耳を傾けるようになっていった

 そう思って見てみると、絵もあちこち声が描かれている
 あー!!あー!!という叫びが聞こえてくる
 戦争に対し、絶えず声を発し続けている
 終わりなき分断、終わりなき声、最初に見たときそれに気づいて以降、何度あの絵を前にしても飽きることはなかった
 
 あの絵は生きているんだ」byトニー

学校を卒業した1970年、迷わずゲルニカのあるニューヨークに移り住んだトニー。
しかし、ゲルニカのもとに通い詰めるうち、ある違和感に襲われました。

「絵は変わりなく声を発し続けていた
 違和感を感じていたのは、そんなふうに真剣に見ている人が私以外誰もいなかった事
 なんでだ!!
 この絵が訴える戦争による”分断”は広がり続けているのに
 ベトナム戦争は、1970年代、さらにひどいことになっていたのに」byトニー

1965年にアメリカが本格介入したベトナム戦争。
その後も終わる気配はなく、泥沼化していました。

「アメリカにゲルニカがあることは、ある時期、とても大きなインパクトを持っていた
 ナチス・ドイツだろうが、フランコだろうが、やつらの独裁や理不尽に、実力を持って反対できる唯一の国だったから
 そんな国にあるからこそ、ゲルニカの声も伝わる
 だからピカソも、1939年以降はアメリカで保管されることを望んでいた
 しかし、そのアメリカは、変わってしまった
 本来ならば、あの絵を見てベトナム戦争のことを考えなくてはならないはずなのに、誰もそうせず”ゲルニカ”は、ただの観光名所になってしまっていた
 今の”モナ・リザ”と同じさ
 何億人もの人が、あれを見に行くけど、見たっていう以上の感想のある人が何人いる??」byトニー

トニーが抱いたアメリカにゲルニカがあり続けることへの違和感・・・それを決定的にするある判決がベトナム戦争中の1974年2月27日に下りました。

”カリー 1000ドルで釈放される”

「確かにあれはきっかけにはなった
 まあ、あんな最低のやつ、私にとっては重要な人間ではないのだけどね」byトニー

1968年3月16日、ウィリアム・カリー率いるアメリカ軍の中隊が、ベトナム・ソンミで虐殺を行いました。
村人507人中、死者504人・・・
赤ん坊まで惨殺されました。
後の調べによれば、カリーの命令を受けた兵士たちは、口々に”Kill them all”・・・”奴らを皆殺しにしろ”と叫んでいたという・・・
裁判にかけられましたが、1974年2月27日・・・時のニクソン大統領は、戦争継続の狙いもあって、不起訴処分としました。

「あの日も私は、ゲルニカの前を人が通るのをずっと見ていた
 ベトナムで、今も戦争で生きているのに、ひどいニュースがテレビに映っているのに
 ゲルニカの”声”を誰も聞こうとしていない
 この声を聞かせないと・・・!!
 あー!!って叫ばせてやらないと!!
 新聞の一面に載るくらいのでかい騒ぎ・・・
 みんなが、なに??なに??と、いうくらいに!!
 それを一つのアートとしてやってやると決めたんだ!!」byトニー

1974年2月28日・・・カリー不起訴処分の翌日・・・

トニーは、いつものようにゲルニカの前にいました。
いつもと違うのは、懐にスプレーを忍ばせていたこと・・・。

「新聞の一面に載らないといけないから、夜に実行しても意味がない
 みんなが寝ているときにやったりとか、忍び込んで逃げるとか、それじゃだめだ
 世界のTOPニュースにはならない・・・
 私は昼日中、堂々と落書きした
 誰かが通報しているのも気づいたけど、構わず書いた
 書いたら周りに20人ぐらい人がいたので、スプレー缶を渡したんだ」byトニー


書いたのは”KILL LIES ALL”・・・”嘘を皆殺しにしろ”
それは、ソンミで虐殺を行った兵士たちの叫んだ言葉・・・”KILL THEM ALL”のTHEMの代わりにLIES・・・嘘を入れた言葉でした。

「嘘、嘘ばかりだ
 報道も、裁判も、現実をすべて伝えているわけでなく、伝えていないものの方が多い
 それは嘘だ、嘘でしかないのに、様々な言い訳を言う・・・
 全部は伝えられないとか、立場上仕方なかったとか、そんなひどい嘘を皆殺しにできるのは芸術しかない
 こんなことがあって、こうなりました おしまい
という記録は芸術じゃない
嘘を暴き、目に見えない分断が続いていることを突き付ける・・・ゲルニカのような芸術にはそれを出来る力がある!!
 でも、その力が人々に届かなくなっていました
 だから、私は「嘘を殺せ」とメッセージを注入し、新聞の一面にゲルニカを生き返らせた
 そうやって、人々の目を覚まそうとしたんだ」byトニー
 
ゲルニカが、落書きされた!!

そのニュースは、確かに新聞の一面を飾りました。
世界を駆け巡りましたが・・・トニーの思いは伝わったのでしょうか??

何してくれるんだこいつは!!と、みんなあきれていました。
どうせ目立ちたいだけの売名行為なのに、ゲルニカやピカソを巻き込まないでほしいと思っていました。
ベトナム戦争について、何か訴えたいとしても、落書きなんてやることがバカげている・・・!!
ピカソの憧れるのはいいけど、有名になりたいからって傷をつけるのはやめてくれって思っていました。

「最初人々は、全然わかってくれなかった
 有名になりたい、全然違う!!
 ゲルニカをずっと見続ける中で、私がやるしかないと思ったからやった
 ただそれだけ
 あんな落書き、他の人には全く薦めない
 拘束された後、怯えていた
 ひどいことをしたとわかっていたから
 刑務所に入れられるかもしれないし、国外追放になるかもしれない・・・それはもう、死ぬみたいなものだ」byトニー

しかし、実際は、そんなことはありませんでした。
すぐに釈放されたのです。
最大の理由は、トニーの落書きが、一日もたたずにきれいさっぱり消せたことです。

「破壊」が目的ではなく、単なる目立ちたがりでもなく、ある種、計算された行為だとわかりました。


「もちろんそれは織り込み済みさ
 私はずっとアートを学んできた
 落書きを行う以上、絵を傷つけないことが一番大事だった
 ゲルニカは大画面だし、海外輸送も織り込み済みだから、表面には分厚いニスが塗られている
 それはよくわかっていた
 だから、ニスの上に乗せても取れやすいスプレーを選び、すぐ消されること前提で落書きしたんだ」byトニー

新聞の一面に載ることだけを狙った犯行でした。
そしてこの事件は、確かに事態を大きく変えました。
落書き事件をきっかけに、ゲルニカが現代社会に訴えかける意味や、アメリカにあることの是非を問う記事が、続々登場。
スペインへの返還も真剣に討議されるようになりました。
止まっていたゲルニカの時が動き始めました。

当時、フランコ政権の末期の末期、みんな独裁の限界を感じ、民主主義を求めていました。
その時、海の向こうからゲルニカのニュースが次々と飛び込んできました。
ゲルニカが来るようなスペインになれば、それこそ民主主義だと気づきました。
国際社会にも伝わりやすい・・・はっきりと目標が出来ました。

1975年11月20日・・・フランコ死去。
落書き事件の翌年でした。
スペインは急速に民主化していきます。
生前ピカソが出したゲルニカ帰還の条件が、次々と満たされていきます。
1981年には国王ファン・カルロス1世がアメリカを訪問し、正式にゲルニカ返還を依頼。
初公開から実に16131日・・・1981年9月10日、ゲルニカは帰還しました。

あの落書きのニュースをきっかけに、全ての歯車が回り始めました。
最後にはMoMAまでスペイン返還のお金を出してくれました。

「スペインの返還される前に、ゲルニカにもう一度火をともすことができた
 ゲルニカの持つ役割、力を、もう一度世界に再認識させることができた
 それは、本当に良かった
 その力は、長く独裁に苦しんだスペインの人々なら気付いてくれる
 アメリカではもう見られないけど、スペインに行けばいい
 私はそうしている
 あの絵はずっと生きているから、私も死ぬまで会いに行き続けるよ」byトニー



ようやくスペインにやってきたゲルニカ・・・
最後にもうひとつ壁がありました。
スペインのどこでゲルニカを展示するのかということ・・・。
ピカソの生まれ故郷マラガ、爆撃を受けたゲルニカ・・・複数の町が権利を主張します。
再び対立の火種となりかけたその時、一人の女性がゲルニカ安住の地を決めました。

現在ゲルニカが展示されるマドリードのソフィア王妃芸術センター・・・初代ディレクターを務めたカルメン・ヒメネスです。
ゲルニカは、この場所で展示されなければならないと、周囲を粘り強く説得。
その裏にあった祖国への熱い思いとは・・・??

カルメン・ヒメネス・・・ピカソの遺族にも絶大な信頼を受けるピカソ研究の世界的権威です。

「ゲルニカというのは、人の思いを如何様にも受け止めてくれる絵なんです
 作者のピカソもあの絵については、ここはこういう意味だとか説明したことは一度もない
 あの絵は、絵と見る人とで完成する世界で最も自由な絵なんです
 ゲルニカのような絵は、他にはないし、あんな絵はピカソも一枚しか描いていない
 そんな特別な絵の安住の地を決められたことを私は誇りに思っています」byカルメン

ニューヨークからマドリードに運ばれたゲルニカ・・・
その大きさの絵を展示できる場所が他にはなかったことから、プラド美術館の別館で公開されることになります。
これがヒメネスには許せませんでした。

「あの年、私はマドリードで学芸員として働いていました
 ゲルニカが見られると思ったら、プラドの別館??
 あんな物置みたいなところで??と驚きました
 しかも、絵を守るためとか言って、治安警察までいて・・・
 治安警察のあの帽子を見ると、誰もが嫌でもフランコ時代を思い出します
 そしてあの不格好なガラス・・・防弾だか何だか知らないけど、分厚くて絵を見るのに邪魔でしかたない・・・
 あの牢獄からゲルニカを開放する、それが私の使命となりました」byカルメン

どうしてゲルニカに物々しい警備がついたのか・・・??
その最大の理由は、ゲルニカの展示を巡ってスペイン国内がもめにもめていたからです。
爆撃にあったゲルニカ市・・・ピカソの故郷・マラガ市・・・そしてピカソが若き日を過ごしたバルセロナ市が権利を主張しました。
各地には、反政府組織も根強く、力づくでゲルニカを奪う輩に備えた結果、およそ美術作品を見るとは思えない環境での展示となりました。

「私も特にゲルニカ市が絵を望む気持ちがよくわかりました
 私の父はフランコと内戦で戦ったスペイン共和国の党員で、私は亡命先のモロッコで生まれました
 戦後スペインに戻った時に、ここは行かないとと思って行ったのはゲルニカ市でした。
 現地であの日何があったか聞いたんです
 爆撃があったのは、週に1度の市が立つ日でした
 人が集まることを知っていて爆撃がなされたんです
 戦場ではない、一般市民が住む場所に・・・!!
 彼等への償いだけを考えるなら、ゲルニカ市で展示するのは一つの道理です
 でも、ゲルニカの空爆のあと、戦争は無くなりましたか??
 むしろ悪化した
 あの絵が向き合うものはより広がった
 それはトニー・シャフラジが示した通りです
 それにゲルニカはもうこれ以上移動ができる状態にはありませんでした
 世界中を旅しすぎて、保存状態は限界・・・
 何よりもしピカソに聞くことができたら、彼はマドリードのプラド美術館で展示してほしいと言ったはずです 
 だって彼は、1936年、共和国によってプラド美術館館長に任命されていたのですから。」byカルメン

マドリードの中心に立つプラド美術館・・・
ベラスケスの「ラス・メニーナス」をはじめとする世界的名画を収蔵する・・・!!
ピカソは、内政直前、時のスペイン共和国政府によってこの美術館の館長に任命されていました。

「ピカソはずっとパリにいましたが、館長としてある重要な決定をしています
 内戦が起きると被害が及ばないよう ラス・メニーナスなどの名画をジュネーブに逃がしたんです
 スペインの歴史を物語る宝はプラドにないといけない・・・
 決して失ってはいけない・・・と言ってね
 そういう意味ではゲルニカも、スペインの歴史を物語る重要な作品です
 これを首都で展示すること自体がスペインの歴史が変わった証・・・
 でも、残念ながら、200年以上の歴史を誇るプラドには、もうゲルニカを飾るスペースはありませんでした
 だからと言って、あんな物置のような別館に置いていくわけにはいかない
 私はマドリードで、プラドに匹敵する特別なゲルニカ安住の地を探すことにしました
 その為に、国の文化省に就職したんです」byカルメン

ピカソのため、ゲルニカのため、1983年にスペイン文化省に入ったカルメン・・・
ある建物に目をつけます。
ゲルニカが当時あったプラド美術館別館からわずか1キロ先のソフィア王妃芸術センターです。
当時は文化省の建物でした。

「元々は、偉大な建築がサバティーニが建てたもので、プラド美術館と同じ18世紀の歴史的建築でした
 ここなら相応しい・・・!!
 あそこを文化省が持っているのは知っていました
 だから、文化省に入ったんです
 でも、建物の中を見て驚きました
 部屋が狭くて、ゲルニカには足りない・・・!!」byカルメン

建物の格はぴったり・・・でも狭い・・・どうする??
「文化省の建物の後ろ隣りに、教育省の建物があったんです
 これをつないでぶち抜いちゃえば、ゲルニカが展示できる
 教育相を譲って、お願い!!
 と思いました」byカルメン

カルメンは、関係省庁に直訴、しかし、交渉は難航します。
事情を知らないスペインのあちこちから、ゲルニカをよこせという声も高まっていました。

「保存状態の話をしたって、納得はしてくれません
 皆ができる最高の方法で展示しなければ・・・
 もう、らちが明かなかったので、スペインの未来のため、私は奥の手を使うことにしました」byカルメン

カルメンが使ったのは・・・それは、当時、ヨーロッパ美術界のドンと目されていたフランスのポンピドゥセンター館長のドミニク・ボゾを呼ぶことでした。
ボゾは常々、カルメンのピカソ研究を高く評価していました。

「ボゾが来るとなったら、当然大臣も出迎えます
 で、ボゾと大臣と一緒にまずはあの物置に行きました
 ボゾは言いましたよ
 ”これは最低だ”
 次は文化省の建物へ・・・ボゾの意見は・・・
 ”外観はいいけど仲が狭すぎる・・・!!”
 建物を出た直後、教育省が持っていた裏の建物の前をわざと通ったんです
 ボゾは鋭い人だから、すぐ気づいてくれました」byカルメン

「大臣、あそこも使えばいいじゃないですか
 フランスだったら、そうしますよ」byボゾ

「大臣も周りにマスコミがいたので、「そうします」と言わざるを得ませんでした
 作戦成功です」byカルメン

二つの建物をつなぎ、ゲルニカを迎えることとなった美術館・・・
初代展示ディレクターとなったカルメンは美術館の名前にもこだわりました。

「まだスペイン各地には、マドリードで展示することに不満もあったし、万が一ゲルニカが傷ついたりしたらいけない・・・
 だから、王妃の名前をいただいたんです
 私たちのソフィア王妃の名前を
 これなら不格好なガラスで守る必要はない・・・
 だれも、王妃の名前がついた場所を傷つけようとはしないから・・・」byカルメン

フランコの死後、民主化の立役者となった国王ファン・カルロス1世
その后・ソフィア王妃ともども、国民の絶大な支持を得ていました。
ソフィア王妃の名を掲げた美術館は、まさにスペインの自由・・・スペインの平和のシンボルとなりました。

かくして、オープンしたソフィア王妃芸術センター・・・ゲルニカは、1992年、プラド美術館の別館から無事に移動を果たします。
その時、すでにカルメンはこの美術館を去っていました。

「だってもう、ゲルニカの安住の地を作ることはできましたから
 私には、まだまだお世話をしなくてはならないピカソの作品がたくさんあったんです
 ヒューストンで絵の展示をしたと思ったら、ニューヨークで立体作品を展示したり、大忙し
 でも、芸術を愛する者にとって、ひとりの天才に尽くせる以上の幸せはありません
 それに、マドリードにさえ来れば、いつでもソフィアでゲルニカが見られます
 あの絵はもうどこにも行きませんから
 世界中の芸術を愛し、自由を愛し、平和を愛する人々をいつもゲルニカは待っています」byカルメン

世に名画と呼ばれる絵はたくさんありますが、これほど多くの人々の感情を受け止め、これほど多くの人々が人生をかけて守ろうとした絵はないでしょう。
いまだ戦争は無くならず、いまだ自由への抑圧があちこちにある世界・・・
ゲルニカは時を超えて人々に訴えかける力を今も持ち続けています。

2003年2月5日、ゲルニカが意外な形で注目を集めました。
国連の安全保障理事会・・・当時、アメリカが強行したイラク攻撃・・・各国の理解を得ようとパウエル国務長官が演説したその日・・・
騒然とする議場の外・・・ここに、普段はかかっていない青い幕が・・・
隠されていたのは、ゲルニカのタペストリーでした。
隠された本当の理由は明らかになっていませんが、各国メディアはどんな理屈を並べても、ゲルニカの前では攻撃を正当化できないからだと、報じました。

ピカソは言いました。

「戦争は常に起きているものだ  私が描いた絵の中に」byピカソ

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