「アメリカの移民として最近起きた事件について、市民の皆さんと世界中の友人に伝えたいことがあります」byアーノルド・シュワルツェネッガー
2021年1月、アーノルド・シュワルツェネッガーさんがアメリカで起きた連邦議事堂襲撃事件についてメッセージを発表し、世界から注目を集めました。
「私はオーストリアで育ちました
”水晶の夜”という事件を良く知っています
1938年、ナチの過激グループによって多くのユダヤ人の街が襲撃された事件です
水曜日は、ここアメリカにおける”水晶の夜”でした
この国や世界中で、同じようなことが起こり得る恐怖があるのです」byアーノルド・シュワルツェネッガー

21世紀、民主主義の国アメリカが、どうして80年前の独裁政治のナチ・ドイツに重なるのか・・・??
あのような世の中は、いつ、どこでも現れ得るのだろうか・・・??
1930年代、ドイツ国民を独裁政治のもとに置いたアドルフ・ヒトラー・・・彼らはなぜ、笑顔で従ったのか??
今もヒトラーを慕う人々・・・その心の内とは・・・??
集団はなぜ簡単に従うのか??
ナチ社会がいきついたのは、弱者の安楽死でした。
庶民の笑顔が生み出した惨劇とは・・・??
総統アドルフ・ヒトラーのカリスマ的独裁・・・
メディアを活用した国民を欺くプロパガンダ。
批判するものは徹底的に取り締まる恐怖政治。
これまで、ヒトラー時代のドイツ国民は、狂気の集団・ナチ党に騙され、統制され、強引に熱狂に巻き込まれたと思われていました。
しかし、1990年代以降、新たな研究が進みました。
「まさに過ちのない神でした
それが、我らの総統でした」
「1932年頃、ヒトラーをバカにしている子供たちに出会ったとき、私は”あれは許せない!”と怒って、その子たちとつかみ合いのケンカになりました
私たち家族は、心の底からナチでした
いつもヒトラーの写真を持ち歩いていたのです」
当時、ヒトラーを心から支持し、何十年たってもあの頃は良かったと語る人々・・・
一体、ヒトラーとナチのどこに惹かれたのでしょうか?
1920年代、ドイツ・・・ヒトラー登場以前のドイツは、新たな民主主義の時代・・・女性も選挙権を持ち、外に出て働く新しい女性がもてはやされました。
都市部での工業化が進み、産業が発展、当時の政治・・・ワイマール共和制では、議会主導のもと人権を尊重する自由な社会を目指していました。
ところが・・・この頃、ドイツの経済は二重の困難に見舞われていました。
1914年~1918年の第一次世界大戦に敗北し、領土の13%を失い、莫大な賠償金1320億金マルクを戦勝国に支払わされていました。
さらに、1929年の世界恐慌で、国民の暮らしはどん底に・・・失業者は550万人以上!!
そこに現れたのが、アドルフ・ヒトラー・・・過激な言動や演説で話題を集め、弱小政党だったナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党を急速に成長させつつあるリーダーでした。
ヒトラーは、戦勝国に奪われたドイツ領土の奪還を国民に宣言!!
敗戦によってドイツがうけた恨みと屈辱を打ち破ろうと、いう呼びかけは、生活苦に苦しむ人々の心に火をつけました。
「ヒトラーこそ、敗戦からドイツを立ち直らせ、成功に導く救世主だ」
ヒトラーの呼びかけは、ドイツ人男性の心をくすぐるものでした。
当時のドイツ男性の多くは、戦争で戦って世界大戦で失ったものを取り戻したいと考えていました。
15世紀ドイツに”ランツクネヒト”という傭兵たちがいます。
彼等のように、最前線で泥にまみれて勇猛果敢に戦い抜くことに、魅力を感じていたのです。

1940年、ナチ党女性向け機関誌の表紙は・・・工業労働者、農民と並ぶ兵士がいます。
男たちの団結によって、母親と赤ん坊が守られています。
当時、都市部の工業優先に不満を感じていた農民に、ヒトラーは目をつけます。
盛んに農村を訪れ、農村にも役割があり、国家は君を必要としていると、呼びかけました。
さらに、保守的な主婦層の声を拾い、社会進出する女性よりも、家庭で子供を産み育てる女性こそ大切だと語り掛けたのです。
新しい女性を興奮して受け入れた女性たちは案外少なく大多数は新しい現象を見て不安に陥っていたのです。
大多数の女性たちがよって立つところは、女性のいる場所は家庭であって、妻であり母である・・・この役割を認知してもらわなければならない・・・というのが、ナチ党を受け入れる太い下地になっていたのです。
民族共同体・・・男女の性の違い、労働の種類に関係なく、ドイツ民族の誰もが国家のために役立つ存在であり、皆で一致団結した公平な社会を目指そう!!と訴えたのです。
自分たちは、国家の必要とされている・・・!!
承認欲求をくすぐられ、喜びを感じた人々は、次々にナチ党を支持・・・
1928年にはわずか12/491席だったナチ党の国会での議席数は、1930年には107/577議席、1932年には230/608議席にまで急増・・・
1934年、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた国家元首・総統を名乗り、前権力を握ったのです。
「必要不可欠なのは、ひとりの指導者の医師、ひとりが命じ、他の人々はそれを実行すればよい
統治とは、上から始まり下で終わるものだ」byヒトラー
ナチ党のスローガン”そうとは命じ我々は従う”
統一された制服を身に着け、一糸乱れぬ更新をする八の隊員たち・・・
こうした集団行動も、人々が自らナチスに従う感情を掻き立てたといいます。

ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか/田野大輔【1000円以上送料無料】
「総統は命じ、我々は従う
我々は彼に敬意を払い、愛したのです
我らの総統として
単純なことです」
近年の研究で合意独裁・・・ヒトラーが命じ、従うことに誇りと喜びを感じる国民の共同作業によって、独裁政治が実現したのです。
ヒトラーに、本当にカリスマ性があったのでしょうか??
カリスマとは、民衆が特定の人物に願いを投影したその結果です。
それによって、本当にカリスマに見えてしまうのです。
”勝利万歳!!”
”総統万歳!!”
1933年、政権を取ったヒトラーは、国民の更なる一致団結を目指し心をくすぐる政策を打ち出していきます。
ヒトラーの国民サービス ①歓喜力行団
旅行代理店のような政府機関で、旅行やスポーツ、コンサートなどの贅沢なレジャーを国民に格安で提供する組織です。
労働者の月給が1か月7万円ほどの時代に、絶景が大人気シュヴァルツヴァルトの旅1泊3食付きで1400円!!
後に世界遺産にもなる温泉地・エルツ山地への温泉旅行・8泊9日で1万2000円!!
安い!!かつて、お金持ちの特権だったレジャーを、労働者たちに開放。
”よく働いたらよく休む、国家のために力を蓄えてくれ”
という触れ込みでした。
ヒトラーの国民サービス ②国民車構想
一家に一台自動車を・・・!!エリート層限定だった自動車を、労働者層でも買えるようフォルクスワーゲン社が開発!!
数年後の納車を楽しみに、人々は積立金を支払いました。
ヒトラーの国民サービス ③アウトバーン
全国7000キロもの高速道路網アウトバーン計画・・・大型機械の使用を控え、出来るだけ手作業にすることで、年間60万人もの雇用を約束。
一時期550万人を越えていた失業者数は、ナチス時代に見る見るうちに下がり、1939年には12万人に!!
ところが、こうした魅力的な政策には、からくりがありました。
アウトバーンは、ヒトラー以前からアイデアがあり、計画が進んでいました。
ヒトラーの功績ではないのです。
国民車も、人々から積立金を集めるだけで、実際には納品されませんでした。
戦争に向けて、軍用車の製造で手いっぱいだったのです。
また、失業対策も、年間60万人の雇用を約束したアウトバーン建設では、実際の雇用者は10万人どまり。
それでも失業者が大きく減っ多様に見えるのは、若者を年間40万人も勤労ボランティアにつかせ、専業主婦にさせることで失業者のカウントから外したというのが実態でした。
さらに、1935年からは、戦争に向けての徴兵や軍需産業への動員で、失業者を減らしています。
ところがこれをヒトラーは、経済政策の政策だと宣伝・・・人々はこれを喜び、国家のために働く団結心を強めたのです。
しかし・・・表向きの一致団結には、裏側で生贄が必要でした。
それは、共同体の敵を作ること・・・!!
その標的が、ユダヤ人でした。
ユダヤ人は、古くからヨーロッパ各地で迫害を受け続けてきました。
苦境にあえぐドイツの中で、商業の成功で豊かな暮らしをするユダヤ人に妬みと憎しみが集まっていました。
ヒトラーたちは、ユダヤ人をドイツ人を食い物にし、ドイツが堕落した原因と決めつけ弾圧を開始。
1933年4月1日、ナチ党は国民にユダヤ人商店へのボイコットを呼びかけました。
ナチ党の武装組織・突撃隊が、ユダヤ人を象徴する六芒星や罵倒する言葉を落書き・・・買い物しようとする人を威圧しました。
この騒ぎに、ユダヤ人商店の前は、やじ馬で溢れかえりました。
当時の映像には、ボイコットという名の迫害現場を笑顔で見物する人々が記録されています。
映像に映っている人々の大半は、ナチの突撃隊ではなく、ただの見物人でした。
しかし、映像を見た人は、こう受け取ってしまいました。
「あの店ではもう買うべきではない」
「店のユダヤ人と自分たちは別である」
国民の中でバリアができてしまいました。
こうした直接暴力を振るうものと、見物するものとの関係が、予想だにしない恐ろしい効果を生みます。

その後、ナチ党は、新たな法律によってユダヤ人への迫害を強めていきます。
弁護士や医師などの職業、商業の権利などをユダヤ人から奪い、ドイツ人のものとしました。
こうしたユダヤ人から合法で略奪した金品は、国の財源に充てる一方、格安で競売にかけることで、共同体を構成する国民に分配されたのです。
収容所送りとなったユダヤ人一家の家財道具を大勢のドイツ人が競り落としました。
彼等は、元の持ち主であるユダヤ人家族が、二度と戻ってこないとわかっているからこそ、安心して買えたのです。
共同体が団結すれば、皆が一緒に豊かになれる・・・
この幻想に喜ぶに人々は、その裏にある迫害を見て見ぬふりをすることで、さらにヒトラーの独裁を支えていきました。
街中で燃え上がる炎・・・まるでキャンプファイヤーを楽しむかのように笑うドイツの若者たち・・・
彼等が燃やしているのは書物の山・・・焚書です。
1933年5月10日、国内34の大学都市で学生団体が呼びかけます。
伝統的なドイツの価値観を守るためと称して、ユダヤ人の書物などを焼き払いました。
そして5年後・・・民衆の暴走が一銭を超える事件が起きます。
11月・・・ポグロム(虐殺)・・・水晶の夜
ドイツ全土のユダヤ人街を、ナチ突撃隊が襲撃、放火した事件です。
発端は、1938年11月7日、フランス・パリで、ドイツ大使館職員がユダヤ人青年に銃撃され死亡する事件が発生しました。
すると、ドイツの複数の地域で、ユダヤ教礼拝堂・シナゴーグへの放火など、報復行為が始まりました。
さらに事件の2日後、国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが奇妙な演説をしました。
「各地の反ユダヤデモで商店が破壊され、シナゴーグが焼かれている
しかし、この行動は、あくまで自然発生的なので、抑える必要はない
それが総統のご意向だ」byゲッベルス
報復を政府は止めない・・・
ところが、これが党幹部を通じて、全国のナチ党支部へ伝わるうちに、恐ろしい事態を引き起こします。
11月9日夜・・・ドイツ全土でナチ突撃隊によるユダヤ人街襲撃が始まりました。
一方、警察は、こうした暴力に対してみて見ぬふり・・・
だれも止める者がいない中、見物していた一般市民も暴走し始めます。
自分は手足となって、代弁者となって、権威者の願いや希望を遂行する・・・
野蛮な行動や暴力的な行為でも、責任を負わない・・・。
正しいことをやっている、いいことをやれる、模範市民として正当化する論理を持っていました。
襲撃は朝まで続きました。
放火されたシナゴーグ1400。
略奪、破壊されたユダヤ人商店7500軒。
負傷者多数、死者100人以上。
その後、事件の原因はユダヤ人側にあるとして、ユダヤ人3万人が逮捕。
頭を丸刈りにされ、収容所で強制労働をするか、財産を放棄して国外退去するか選択が迫られます。
上層部の無責任な扇動がもたらす民衆の無責任馬暴力の解放・・・
止めるもの無き共同体の暴走は、その後、急激に加速していきます。
首都ベルリンの中心地ティアガルテン通り4番地・・・
美術館やベルリンフィルハーモニーと並んで、ガラスの慰霊碑が立っています。
かつてここにあった司令部から障害者を安楽死させよという作戦・・・T4作戦です。
1939年9月1日、ポーランド侵攻・・・
これを機に第2次世界大戦がはじまりました。
この頃作られたナチ党のプロパガンダ映画「過去の犠牲者」・・・精神障害者の施設が映し出されています。
「健康な国民を健全にするための資金が、障害者を扶養するために使われている
この施設の費用に、これまで7700万円かかった
この資金があれば、数多くの健康な人が、家を買えたはずだ」
ヒトラーはこの障害者を5000人安楽死させることができれば、年間50億円の介護費が軽減できると計算しました。
莫大な戦争費用の足しにできると考えたのです。
1939年10月、T4作戦発動!!
医師たちは、全国の障害者施設や病院を調査して回り、労働力になりそうもない者を見つけると見つけるとこう呼びました。
「生きるに値しない命」
親に対しては、特別な治療が必要と嘘をつくとバスに乗せて安楽死施設へと連れ去りました。
彼等が連れてこられた施設内には、離れの建物がありました。
障害者たちはまずシャワーを浴びよと中に入ります。
そこは、ガス室でした。
全国6カ所の安楽死施設・・・その一つがあるハダマー・・・。
住民たちは、丘の上にある施設で何が行われているのかうすうす感付いていました。
「施設から煙がのぼっているのが見えて、何だろうと皆で噂しました
戦場からの帰還兵が言いました
死体が焼けるにおいと同じだと
満席のバスが丘の上にのぼるのですが、帰りはいつも空っぽです
施設はもう人でいっぱいのはずなのに、おかしいと思いました」
障害者の親の一部は、安楽死を歓迎しました。
わが子が障害者であることを恥と思う親もいたのです。
当時、精神的な疾患の場合、親や兄弟も障害者と疑われるからです。
しかし、T4作戦のうわさが広がると、次第に反発の声が上がります。
ドイツカトリック教会のフォン・ガーレン司教は強く非難しました。
「私たちは、他者から生産的であると認められた時だけ生きる権利がるというのでしょうか
もし、非生産的な市民を殺してよいとするならば、病人、傷病兵、仕事でケガをした人、老いて弱った時の私たちすべてを殺すことが許されるのです」
宗教界からの反発に、国民がなびくことを恐れたヒトラーは、1941年8月、T4作戦の中止を命令します。
しかし・・・
「医療施設自身でどうにかする時が来たのだ」by安楽死施設医師
作戦の中止が伝えられたのちも、医師や看護師が自発的に安楽死を続けたのです。
この暴走に対して、ナチ政府が罰則を設けたり、富めたるすることはありませんでした。
「私は生涯一度も悪いことをしていません
私は常に勤勉で、患者にも人気があり、上司の評価も良かったのです
治療不可能な精神病患者が、国や国民、家族の負担になっているため、惠の死を与える法律が作られたせいなのです
私は当時、そう信じていました」by安楽死施設の看護師
やがて安楽死の対象は、高齢の病人、空襲で傷を負った市民、さらには第1次世界大戦で負傷した退役軍人まで、戦争の役に立たないと殺害・・・その数は、20万人に拡大しました。
このT4作戦で使われた技術や使われた医師や看護師は、後にホロコースト・・・ユダヤ人大量虐殺の担い手となりました。
1945年4月30日、独裁者アドルフ・ヒトラー自殺・・・。
彼がドイツ国民に見させた夢・・・民族共同体は崩壊します。
ドイツは再び敗北・・・国民が喜んで従い、一致団結した独裁の結果、国民自身も含め数千万もの命が失われました。

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「私はオーストリアで育ちました
”水晶の夜”という事件を良く知っています
1938年、ナチの過激グループによって多くのユダヤ人の街が襲撃された事件です
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あのような世の中は、いつ、どこでも現れ得るのだろうか・・・??
1930年代、ドイツ国民を独裁政治のもとに置いたアドルフ・ヒトラー・・・彼らはなぜ、笑顔で従ったのか??
今もヒトラーを慕う人々・・・その心の内とは・・・??
集団はなぜ簡単に従うのか??
ナチ社会がいきついたのは、弱者の安楽死でした。
庶民の笑顔が生み出した惨劇とは・・・??
総統アドルフ・ヒトラーのカリスマ的独裁・・・
メディアを活用した国民を欺くプロパガンダ。
批判するものは徹底的に取り締まる恐怖政治。
これまで、ヒトラー時代のドイツ国民は、狂気の集団・ナチ党に騙され、統制され、強引に熱狂に巻き込まれたと思われていました。
しかし、1990年代以降、新たな研究が進みました。
「まさに過ちのない神でした
それが、我らの総統でした」
「1932年頃、ヒトラーをバカにしている子供たちに出会ったとき、私は”あれは許せない!”と怒って、その子たちとつかみ合いのケンカになりました
私たち家族は、心の底からナチでした
いつもヒトラーの写真を持ち歩いていたのです」
当時、ヒトラーを心から支持し、何十年たってもあの頃は良かったと語る人々・・・
一体、ヒトラーとナチのどこに惹かれたのでしょうか?
1920年代、ドイツ・・・ヒトラー登場以前のドイツは、新たな民主主義の時代・・・女性も選挙権を持ち、外に出て働く新しい女性がもてはやされました。
都市部での工業化が進み、産業が発展、当時の政治・・・ワイマール共和制では、議会主導のもと人権を尊重する自由な社会を目指していました。
ところが・・・この頃、ドイツの経済は二重の困難に見舞われていました。
1914年~1918年の第一次世界大戦に敗北し、領土の13%を失い、莫大な賠償金1320億金マルクを戦勝国に支払わされていました。
さらに、1929年の世界恐慌で、国民の暮らしはどん底に・・・失業者は550万人以上!!
そこに現れたのが、アドルフ・ヒトラー・・・過激な言動や演説で話題を集め、弱小政党だったナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党を急速に成長させつつあるリーダーでした。
ヒトラーは、戦勝国に奪われたドイツ領土の奪還を国民に宣言!!
敗戦によってドイツがうけた恨みと屈辱を打ち破ろうと、いう呼びかけは、生活苦に苦しむ人々の心に火をつけました。
「ヒトラーこそ、敗戦からドイツを立ち直らせ、成功に導く救世主だ」
ヒトラーの呼びかけは、ドイツ人男性の心をくすぐるものでした。
当時のドイツ男性の多くは、戦争で戦って世界大戦で失ったものを取り戻したいと考えていました。
15世紀ドイツに”ランツクネヒト”という傭兵たちがいます。
彼等のように、最前線で泥にまみれて勇猛果敢に戦い抜くことに、魅力を感じていたのです。
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1940年、ナチ党女性向け機関誌の表紙は・・・工業労働者、農民と並ぶ兵士がいます。
男たちの団結によって、母親と赤ん坊が守られています。
当時、都市部の工業優先に不満を感じていた農民に、ヒトラーは目をつけます。
盛んに農村を訪れ、農村にも役割があり、国家は君を必要としていると、呼びかけました。
さらに、保守的な主婦層の声を拾い、社会進出する女性よりも、家庭で子供を産み育てる女性こそ大切だと語り掛けたのです。
新しい女性を興奮して受け入れた女性たちは案外少なく大多数は新しい現象を見て不安に陥っていたのです。
大多数の女性たちがよって立つところは、女性のいる場所は家庭であって、妻であり母である・・・この役割を認知してもらわなければならない・・・というのが、ナチ党を受け入れる太い下地になっていたのです。
民族共同体・・・男女の性の違い、労働の種類に関係なく、ドイツ民族の誰もが国家のために役立つ存在であり、皆で一致団結した公平な社会を目指そう!!と訴えたのです。
自分たちは、国家の必要とされている・・・!!
承認欲求をくすぐられ、喜びを感じた人々は、次々にナチ党を支持・・・
1928年にはわずか12/491席だったナチ党の国会での議席数は、1930年には107/577議席、1932年には230/608議席にまで急増・・・
1934年、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた国家元首・総統を名乗り、前権力を握ったのです。
「必要不可欠なのは、ひとりの指導者の医師、ひとりが命じ、他の人々はそれを実行すればよい
統治とは、上から始まり下で終わるものだ」byヒトラー
ナチ党のスローガン”そうとは命じ我々は従う”
統一された制服を身に着け、一糸乱れぬ更新をする八の隊員たち・・・
こうした集団行動も、人々が自らナチスに従う感情を掻き立てたといいます。

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我々は彼に敬意を払い、愛したのです
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近年の研究で合意独裁・・・ヒトラーが命じ、従うことに誇りと喜びを感じる国民の共同作業によって、独裁政治が実現したのです。
ヒトラーに、本当にカリスマ性があったのでしょうか??
カリスマとは、民衆が特定の人物に願いを投影したその結果です。
それによって、本当にカリスマに見えてしまうのです。
”勝利万歳!!”
”総統万歳!!”
1933年、政権を取ったヒトラーは、国民の更なる一致団結を目指し心をくすぐる政策を打ち出していきます。
ヒトラーの国民サービス ①歓喜力行団
旅行代理店のような政府機関で、旅行やスポーツ、コンサートなどの贅沢なレジャーを国民に格安で提供する組織です。
労働者の月給が1か月7万円ほどの時代に、絶景が大人気シュヴァルツヴァルトの旅1泊3食付きで1400円!!
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ヒトラーの国民サービス ②国民車構想
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一時期550万人を越えていた失業者数は、ナチス時代に見る見るうちに下がり、1939年には12万人に!!
ところが、こうした魅力的な政策には、からくりがありました。
アウトバーンは、ヒトラー以前からアイデアがあり、計画が進んでいました。
ヒトラーの功績ではないのです。
国民車も、人々から積立金を集めるだけで、実際には納品されませんでした。
戦争に向けて、軍用車の製造で手いっぱいだったのです。
また、失業対策も、年間60万人の雇用を約束したアウトバーン建設では、実際の雇用者は10万人どまり。
それでも失業者が大きく減っ多様に見えるのは、若者を年間40万人も勤労ボランティアにつかせ、専業主婦にさせることで失業者のカウントから外したというのが実態でした。
さらに、1935年からは、戦争に向けての徴兵や軍需産業への動員で、失業者を減らしています。
ところがこれをヒトラーは、経済政策の政策だと宣伝・・・人々はこれを喜び、国家のために働く団結心を強めたのです。
しかし・・・表向きの一致団結には、裏側で生贄が必要でした。
それは、共同体の敵を作ること・・・!!
その標的が、ユダヤ人でした。
ユダヤ人は、古くからヨーロッパ各地で迫害を受け続けてきました。
苦境にあえぐドイツの中で、商業の成功で豊かな暮らしをするユダヤ人に妬みと憎しみが集まっていました。
ヒトラーたちは、ユダヤ人をドイツ人を食い物にし、ドイツが堕落した原因と決めつけ弾圧を開始。
1933年4月1日、ナチ党は国民にユダヤ人商店へのボイコットを呼びかけました。
ナチ党の武装組織・突撃隊が、ユダヤ人を象徴する六芒星や罵倒する言葉を落書き・・・買い物しようとする人を威圧しました。
この騒ぎに、ユダヤ人商店の前は、やじ馬で溢れかえりました。
当時の映像には、ボイコットという名の迫害現場を笑顔で見物する人々が記録されています。
映像に映っている人々の大半は、ナチの突撃隊ではなく、ただの見物人でした。
しかし、映像を見た人は、こう受け取ってしまいました。
「あの店ではもう買うべきではない」
「店のユダヤ人と自分たちは別である」
国民の中でバリアができてしまいました。
こうした直接暴力を振るうものと、見物するものとの関係が、予想だにしない恐ろしい効果を生みます。
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その後、ナチ党は、新たな法律によってユダヤ人への迫害を強めていきます。
弁護士や医師などの職業、商業の権利などをユダヤ人から奪い、ドイツ人のものとしました。
こうしたユダヤ人から合法で略奪した金品は、国の財源に充てる一方、格安で競売にかけることで、共同体を構成する国民に分配されたのです。
収容所送りとなったユダヤ人一家の家財道具を大勢のドイツ人が競り落としました。
彼等は、元の持ち主であるユダヤ人家族が、二度と戻ってこないとわかっているからこそ、安心して買えたのです。
共同体が団結すれば、皆が一緒に豊かになれる・・・
この幻想に喜ぶに人々は、その裏にある迫害を見て見ぬふりをすることで、さらにヒトラーの独裁を支えていきました。
街中で燃え上がる炎・・・まるでキャンプファイヤーを楽しむかのように笑うドイツの若者たち・・・
彼等が燃やしているのは書物の山・・・焚書です。
1933年5月10日、国内34の大学都市で学生団体が呼びかけます。
伝統的なドイツの価値観を守るためと称して、ユダヤ人の書物などを焼き払いました。
そして5年後・・・民衆の暴走が一銭を超える事件が起きます。
11月・・・ポグロム(虐殺)・・・水晶の夜
ドイツ全土のユダヤ人街を、ナチ突撃隊が襲撃、放火した事件です。
発端は、1938年11月7日、フランス・パリで、ドイツ大使館職員がユダヤ人青年に銃撃され死亡する事件が発生しました。
すると、ドイツの複数の地域で、ユダヤ教礼拝堂・シナゴーグへの放火など、報復行為が始まりました。
さらに事件の2日後、国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが奇妙な演説をしました。
「各地の反ユダヤデモで商店が破壊され、シナゴーグが焼かれている
しかし、この行動は、あくまで自然発生的なので、抑える必要はない
それが総統のご意向だ」byゲッベルス
報復を政府は止めない・・・
ところが、これが党幹部を通じて、全国のナチ党支部へ伝わるうちに、恐ろしい事態を引き起こします。
11月9日夜・・・ドイツ全土でナチ突撃隊によるユダヤ人街襲撃が始まりました。
一方、警察は、こうした暴力に対してみて見ぬふり・・・
だれも止める者がいない中、見物していた一般市民も暴走し始めます。
自分は手足となって、代弁者となって、権威者の願いや希望を遂行する・・・
野蛮な行動や暴力的な行為でも、責任を負わない・・・。
正しいことをやっている、いいことをやれる、模範市民として正当化する論理を持っていました。
襲撃は朝まで続きました。
放火されたシナゴーグ1400。
略奪、破壊されたユダヤ人商店7500軒。
負傷者多数、死者100人以上。
その後、事件の原因はユダヤ人側にあるとして、ユダヤ人3万人が逮捕。
頭を丸刈りにされ、収容所で強制労働をするか、財産を放棄して国外退去するか選択が迫られます。
上層部の無責任な扇動がもたらす民衆の無責任馬暴力の解放・・・
止めるもの無き共同体の暴走は、その後、急激に加速していきます。
首都ベルリンの中心地ティアガルテン通り4番地・・・
美術館やベルリンフィルハーモニーと並んで、ガラスの慰霊碑が立っています。
かつてここにあった司令部から障害者を安楽死させよという作戦・・・T4作戦です。
1939年9月1日、ポーランド侵攻・・・
これを機に第2次世界大戦がはじまりました。
この頃作られたナチ党のプロパガンダ映画「過去の犠牲者」・・・精神障害者の施設が映し出されています。
「健康な国民を健全にするための資金が、障害者を扶養するために使われている
この施設の費用に、これまで7700万円かかった
この資金があれば、数多くの健康な人が、家を買えたはずだ」
ヒトラーはこの障害者を5000人安楽死させることができれば、年間50億円の介護費が軽減できると計算しました。
莫大な戦争費用の足しにできると考えたのです。
1939年10月、T4作戦発動!!
医師たちは、全国の障害者施設や病院を調査して回り、労働力になりそうもない者を見つけると見つけるとこう呼びました。
「生きるに値しない命」
親に対しては、特別な治療が必要と嘘をつくとバスに乗せて安楽死施設へと連れ去りました。
彼等が連れてこられた施設内には、離れの建物がありました。
障害者たちはまずシャワーを浴びよと中に入ります。
そこは、ガス室でした。
全国6カ所の安楽死施設・・・その一つがあるハダマー・・・。
住民たちは、丘の上にある施設で何が行われているのかうすうす感付いていました。
「施設から煙がのぼっているのが見えて、何だろうと皆で噂しました
戦場からの帰還兵が言いました
死体が焼けるにおいと同じだと
満席のバスが丘の上にのぼるのですが、帰りはいつも空っぽです
施設はもう人でいっぱいのはずなのに、おかしいと思いました」
障害者の親の一部は、安楽死を歓迎しました。
わが子が障害者であることを恥と思う親もいたのです。
当時、精神的な疾患の場合、親や兄弟も障害者と疑われるからです。
しかし、T4作戦のうわさが広がると、次第に反発の声が上がります。
ドイツカトリック教会のフォン・ガーレン司教は強く非難しました。
「私たちは、他者から生産的であると認められた時だけ生きる権利がるというのでしょうか
もし、非生産的な市民を殺してよいとするならば、病人、傷病兵、仕事でケガをした人、老いて弱った時の私たちすべてを殺すことが許されるのです」
宗教界からの反発に、国民がなびくことを恐れたヒトラーは、1941年8月、T4作戦の中止を命令します。
しかし・・・
「医療施設自身でどうにかする時が来たのだ」by安楽死施設医師
作戦の中止が伝えられたのちも、医師や看護師が自発的に安楽死を続けたのです。
この暴走に対して、ナチ政府が罰則を設けたり、富めたるすることはありませんでした。
「私は生涯一度も悪いことをしていません
私は常に勤勉で、患者にも人気があり、上司の評価も良かったのです
治療不可能な精神病患者が、国や国民、家族の負担になっているため、惠の死を与える法律が作られたせいなのです
私は当時、そう信じていました」by安楽死施設の看護師
やがて安楽死の対象は、高齢の病人、空襲で傷を負った市民、さらには第1次世界大戦で負傷した退役軍人まで、戦争の役に立たないと殺害・・・その数は、20万人に拡大しました。
このT4作戦で使われた技術や使われた医師や看護師は、後にホロコースト・・・ユダヤ人大量虐殺の担い手となりました。
1945年4月30日、独裁者アドルフ・ヒトラー自殺・・・。
彼がドイツ国民に見させた夢・・・民族共同体は崩壊します。
ドイツは再び敗北・・・国民が喜んで従い、一致団結した独裁の結果、国民自身も含め数千万もの命が失われました。

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