日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: フランケンシュタインの誘惑

美魔女・・・年齢を感じさせない美しい女性たちのことです。
永遠の若さ・・・アンチエイジング・・・人類はこの夢を追い続けてきました。

絶世の美女クレオパトラは、金や真珠の粉末が入った風呂に入り、永遠の美を追い求めました。
楊貴妃は、人の胎盤を不老不死の生薬として服用。
小野小町は恋の生き血をすすり、美と若さを保とうとしたといいます。
そして、20世紀・・・
猿の睾丸・・・精巣をスライスし、人間の精巣に張りつけるだけで若返ると主張する男が現れます。
フランスの外科医セルジュ・ボロノフです。

「人間を20~30歳若返らせることができる」と豪語し、大衆の支持を得ました。

感染症を引き起こし、死の危険もあるこの手術は、成功例だけを報告し、マスコミに宣伝します。
1920年代、一大ブームを巻き起こし、現代の魔術師と言われました。
10年間で、数万人が手術を受けました。
童話のメーテルリンクや画家のピカソも彼の手術を受けたと噂されています。
若返りを謳ったボロノフを紹介する映画も公開、その名は世界的に広まりました。
ボロノフ城と言われる巨大な邸宅に住み、富と名声を手に入れ、パリ社交界の人気者にのし上がります。

若返りという人間の欲望を追い求めたボロノフ・・・
そこにあったのは、科学者としての探究心??それとも名声欲だったのか??



「若返り」術誕生
セルジュ・ボロノフは、1866年、ロシア南西部にあるボロネジ州でウォッカ製造を営む家の次男として生まれました。
パリ万博に向けて、エッフェル塔の建設が急ピッチで進められていた1888年秋・・・
パリ大学医学部に入学します。
そこで、今も手術で使われる器具ペアン鉗子を発明した天才外科医ジャン=エミール・ペアンの助手となります。
数百回の手術に立ち会い、ヨーロッパでもトップクラスの外科技術を身につけました。
1893年、大学を卒業すると、婦人科を開業。
金に糸目をつけない上流階級の婦人たちに、当時非合法だった中絶手術を行い年間8万フラン・・・およそ2億円という高収入を得ていました。
1896年、師匠の天才外科医ペアンの推薦により、エジプトの君主アッバース2世の宮廷医となります。
腕が良かったことから、14年間勤めあげました。

1910年、44歳でフランスに帰国したボロノフは、開業医を続ける中で呼んだある論文に衝撃を受けます。
血管を縫い合わせる手術・・・血管吻合で有名になっていたアレクシス・カレルの論文です。
早速、カレルに手紙を出します。

”あなたの興味深い論文を読みました
 私は昼間は診察で忙しいため、夜に研究しています”

この頃から、ボロノフは研究者として名声を得たいと考えるようになります。

ボロノフは、外科医としてカレルを尊敬していました。
それで、彼がいたアメリカまで渡って、カレルから技術を学んだのです。
1912年、そのカレルが、血管吻合手術の功績でノーベル賞を受賞。
刺激を受けたボロノフは、研究に専念することを決意します。

ボロノフは、自尊心が強い人間でした。
カレルがノーベル賞を受賞した時、どうして自分ではないのか・・・考えました。
後に、和k帰りの手術を始めたとき、
「必ず歴史に名を残すことをやるぞ」と、奮起したのです。
1914年、第1次世界大戦が勃発・・・
ボロノフは、フランスの軍医として従軍したのち、まだ戦火が続く1917年4月、フランスの最高権威コレージュ・ド・フランス生物学研究所に入ります。
そこで取り組んだのが、若返りの手術でした。
きっかけは、エジプトの宮廷時代に強く印象に残っていたある事・・・。
それは、去勢され、精巣を失った宦官たちの姿でした。
いずれも実年齢以上に老けており、しかも短命でした。

「精巣には生命力に関わる何かがる」

ボロノフは、未発表の自伝に、その時の思いを綴っています。

”エジプト時代から、精巣の不思議な力を年老いた人間の役に立つようにしたいと考えていた”

男性の精巣は、認知機能や肉体の発達に重要な役割を担っています。
ボロノフは、外科医としては本当に天賦の才能を持っていました。
宦官の老化が早いことに気付き、その原因を精巣がないことと結びつけたのですから、そして、老化が始まったとき、若い精巣を張りつければいいのではないかと発想したのです。

精巣による若返り手術・・・
大きなヒントとなったのは、カレルが1912年に行った実験・・・不死の細胞でした。
ニワトリの心臓細胞を栄養培地で生かし続けましたのです。
これは、栄養を補給する培養液さえあれば、細胞は生き続けることを意味していました。
ボロノフは考えます。
精巣は、豊富なリンパ液で包まれている・・・
このリンパ液が培養液の代わりになるのではないか??
実験には、老化の兆候が観察しやすいという理由で、羊が使われました。
選んだのは、推定年齢10~12歳の雄羊、およそ20頭です。
人間の年齢では、70~80歳に当たります。
中に、研究所に来た当初、震えが止まらず失禁をするほど老衰の症状を表していた羊もいたといいます。
この年老いた羊を、若返らせる実験が始まりました。
発情期が始まったばかりの若い羊から精巣を取り出します。
次に、取り出した若い羊の精巣を3mmほどの厚さにスライス・・・
そのスライス片を、年老いた羊の精巣に張りつけるように起きます。
リンパ液が培養液変わりとなって、スライスした精巣は生き続け、年老いた羊の精巣と一体化する・・・!!
こうして、若い羊の生命力を得て、年老いた羊は元気になるとボロノフは考えました。
実験から数週間後・・・
手術が終わった羊のうち、活力を取り戻したものがいました。
羊毛が伸び、性欲も復活!!
数か月後には、子どもも作ったといいます。



年老いた羊に、若い羊の精巣を張りつけるなんて、実際にはできません。
そもそも、手術を受けた羊が、本当は何歳だったのか、正確にはわかっていません。
ひょっとしたら、弱っていた若い羊がより良いケアを受けて、体調が回復しただけかもしれません。

実験の成功を信じていたボロノフは、手術から1年後、張りつけた若い羊の精巣は生き続けているか確かめるため、年老いた羊の精巣の細胞を取り出し、顕微鏡で調べようとしました。
ボロノフが検査を依頼したのは、細胞学の権威エドアー・ルテレールでした。
ルテレールは、”手術後も細胞は拒絶されずに生きている”と証言します。
第一人者が認めたことで、ボロノフの実験は、強力な後ろ盾を得ました。
さらにボロノフは、ここである作戦を決行します。
学会の前日、これまでの研究内容をマスコミにリークし、注目度を煽ったのです。

1919年10月、フランス外科学会の年次総会で、ボロノフはルテレールの検査結果も含めて論文を発表します。
そこでは成功例だけを報告・・・失敗例は取り上げませんでした。
学会の反応は懐疑的でしたが、マスコミは違いました。

ニューヨークタイムズがボロノフのインタビュー記事を掲載し、動物の若返り手術で目覚ましい結果を出したと紹介します。
記事の中でボロノフは、”人間にも近々行うつもりだ”と答えました。
このニュースが、全世界に配信されます。
ボロノフは、現代の魔術師と呼ばれ、一躍時代の寵児となりました。
ボロノフは、学会で評価されなかった分、新聞を巧みに利用しました。
科学者であれば、本来は言葉でマスコミに語るよりも、実験や研究で示すべきです。



「若返り手術」狂騒曲
ボロノフの若返り手術がマスコミに注目されたのは、当時の時代状況が大きくかかわっていました。
第1次世界大戦では、フランスだけで140万人の若い兵士が命を落としました。
出生数も、大戦前のおよそ半数に落ち込んでいました。
人々は、ボロノフの画期的な手術が、人口減少を解決してくれるのではないかと期待しました。
この頃、世界中の科学者たちが、人間の若返り手術に取り込んでいました。

1919年、アメリカ・サンクエンティン刑務所の医師レオ・スタンレーは、死刑囚の精巣を60歳の囚人に張りつけます。
囚人は、刑務所内のスポーツ大会で好成績を収めたといいます。

カンザス州の開業医ジョン・ブリンクリーは、子供ができない男性にヤギの精巣を張りつけ子供を作ることができたと宣伝しました。

1920年6月・・・後れを取ったボロノフは、ついに人間の若返り手術に取り掛かりました。
使ったのは、チンパンジーの精巣・・・血液型などが人間に近いという理由でした。
手術したのは二人・・・45歳と65歳でした。
どちらも感染症を引き起こし、失敗・・・!!
ボロノフは、人間に手術したことを隠し、公表しませんでした。
ボロノフは、年老いた羊を若返らせたのだから、人間にもできると自信を持っていました。
だから、人間の若返り手術が失敗したことを認めたら、自分の理論が崩れると思い、もう少しデータが取れるまで発表を待ったのです。

失敗から1月後・・・彼の助手のエブリン・ボストウィックと結婚。
彼女は、世界最大級の石油会社の大株主の娘でした。
経済的な後ろ盾を得たボロノフは、この年の暮れ、人間の若返り手術を実施すると大々的に発表します。
手術も無料で行うことにしました。
集まった患者は、33歳から66歳までの4人。
結果は、全員の認知能力と体力が向上し、4人中3人に性行為の回数が増えたといいます。
ボロノフは、その後2年をかけて、12人に手術を行います。
中でも最も成功したという患者は、エドワード・リアド・・・75歳のイギリス人でした。
手術前の彼は、慢性のアルコール依存症の上に糖尿病で、杖を突かなければ歩けないほど太っていました。
しかし、手術後、別人のように変身。
しわが消え、肌に張りが出てきました。
自信をつけたボロノフは、またしてもマスコミを利用します。

1922年6月、ニューヨークタイムズに近いうちに若返り手術の成果を論文にまとめ、学会に報告するつもりだと語りました。

”人間を20~30歳、若返らせることができる”byボロノフ

人類の夢・・・若返りがボロノフによってついに現実のものとなります。
ニューヨークタイムズの記事に、世界が注目しました。
「若返り」に対する人々の期待は高まっていました。
ボロノフも、大きな可能性を感じていました。
なんとしても成功させ、ノーベル賞を取りたかったのです。
しかし、マスコミの力を利用するボロノフのやり方に、フランス外科学会は反発!!
1922年フランス医学会議では、ボロノフは研究内容の一部を新聞に載せたという理由で、会議での論文発表を禁止されます。
論文発表は、未発表のものに限るという学会に規定に触れたのです。
ボロノフは、わずか3秒の記事で、私の論文内容が伝わるわけはないと反論。
騒然となった議場を、一人の男が黙らせます。
ボロノフの手術を受けたリアドでした。
リアドは、
「手術後は生まれ変わったようだ
 今ではフェンシングやテニスを楽しんでいる
 この私の姿が何よりの証拠だ」と胸を張りました。
この様子を、再びニューヨークタイムズが取り上げます。
77歳のリアドは、55歳にしか見えない!!
ボロノフは、写真が証拠となると考え、それを度々利用しました。
若返ったのが何が原因なのかはわかりません。
ボロノフは、手術の前後にホルモン検査をして比較対照すべきでした。
そうすれば、科学的な証明になるはず・・・写真だけでは全く証拠にはなりませんでした。

さらに、ボロノフは、学会に対してダメ押しの一手を打ちます。
羊の実験で精巣を調べてもらった細胞学の権威エドアー・ルテレールと共著で論文を執筆したのです。
翌年の2月、フランスの生物学会は、この論文「チンパンジーの精巣の構造とその移植の生理的効果」を受理。
権威ある医学誌にも論文の全文が開催されました。
これは、ボロノフの研究が、公式に認められたことを意味しました。

若返りの手術を紹介する映画も公開、ボロノフは、若返りの権威となり、多くの患者が押しかけました。
最初は無料だった手術費用は、7500フラン、1万5000フラン・・・現在の価値で860万円に跳ね上がりました。
それでも、1926年の1年だけで、1000人以上に手術。
童話「青い鳥」の作者メーテルリンクや画家のピカソ、フランスの元首相クレマンソー、トルコ独立運動の英雄・革命家アタチュルクなど、大物もボロノフの患者だと噂されました。
その傍ら、ボロノフは教えを乞う外科医に手術法を惜しげもなく公開、ボロノフ式手術は、30人に及ぶ弟子たちによって、世界15カ国に広まりました。
世界一有名となったボロノフ・・・パリの高級ホテルのスィートルームに住み、社交界の人気者となりました。
ボロノフの生涯は、1920年代のアメリカの大富豪を描いた小説「グレート・ギャッツビー」そのもので、彼の名は世界中に広がりました。
地位や富はもちろん、大衆の指示、とりわけ女性の人気を集めました。
一代で、人生のすべてを手に入れたのです。

1926年、ボロノフは、フランス政府から最高の栄誉レジオンドヌール勲章を送られます。
ボロノフ60歳・・・人生のピークを迎えます。



地に落ちた「若返り手術」
人間の若返り手術を行っていた同じ日、ボロノフはフランス政府の要請を植民地のアルジェリアで大規模なプロジェクトを立ち上げていました。
羊毛と羊肉の増産プロジェクト・・・3000頭の羊を使った増産計画です。
ボロノフの若返り手術の出発点となった1917年の実験は、年老いた羊を若返らせることが目的でした。
今回は、若返り手術によって、より生産性の高い品種を作り出そうというのです。
選ばれたのは、生後3、4カ月の子羊・・・
この子羊に、発情期を迎えた若い羊の精巣スライスを貼り付けます。
1年後、手術した羊に第二世代を繁殖させます。
この子羊に、また若い羊の精巣スライスを貼り付ける・・・
これを繰り返します。
元気で体格のいいスーパーシープを作ろうというのです。
実験の結果、第3世代では明らかな違いが生まれました。
生後5カ月のスーパーシープの平均体重は、38.5kg・・・同世代の平均体重は30kg・・・8キロ以上重く、羊毛では500g多かったとボロノフは報告しています。
理論的には、スーパーシープ5000頭作れば、食肉35t、羊毛2500kg増産できると豪語しました。
果たして・・・スーパーシープは本当なのでしょうか?

1927年11月、イギリスを中心とする6カ国による調査団がアルジェリアに入りました。
調査団は、手術したグループとそうでないグループ・・・そしてそれぞれから生まれた子羊を見せられました。
確かに手術したグループの羊は体も大きく健康的でした。
しかし・・・調査団の中に疑念を抱く者がいました。
イギリス・エジンバラ大学の動物育種研究所所長フランシス・クルーです。
クルーが疑ったのは、グループ分けした羊のデータが、明らかにされていなかったからです。
科学実験では、手術する羊とそうでない羊をランダムに選ばなければなりません。
もし、立派な体格の羊たちを選んで手術すれば、手術の効果に関係なく体格の良い子羊が生まれるのは当たり前です。
ボロノフの手術法が有効かどうか確かめるため、クルーは自ら再現実験を行います。
結果は、すべて失敗・・・
”手術の効果について決定的な証拠を見つけることは不可能でした。”
と、イギリス政府に報告しました。

1年後、そのクルーのもとに1通の手紙が届きます。
差出人は、モロッコの獣医、現地の繁殖ステーションの所長アンリ・ヴリュです。
手紙には、論文が同封されていました。
ボロノフの実験を追試してまとめたものでした。
結果はクルーと同じ、効果なし。
さらにヴリュは、手術した羊のうち4頭の羊の精巣を顕微鏡で確かめると・・・
貼り付けたスライス片は、全て死滅、もしくは消滅していました。
細胞は生きているといったルテレールの報告は間違いだったのです。



この頃、南アフリカとオーストラリアでボロノフと同じ実験が大規模に行われていました。
しかし・・・何一つ有益な結果は得られませんでした。
1930年に南アフリカが、1931年にオーストラリアが、相次いで実験を中止します。
手術に効果がないことが世界に知れ渡り、ボロノフの信用は大きく失墜しました。

そして、もともと羊から始まった人間の手術にも、疑問の目が向けられるようになります。
学会を黙らせたリアドの若返り・・・そこにはある仕掛けがあったのです。
ボロノフの治療法は、催眠術のようなものでした。
患者は、手術の2週間前から禁酒、禁煙、健康的な食事をとり、ストレスのない生活を送る・・・
この間に、多くの患者の体質が改善される・・・
2週間の健康的な生活を終えて通されるのが、当時最先端の手術室でした。
ここでボロノフは、手術の効果を謳いあげます。

「スライスした猿の活力ある精巣が、あなたの精巣と一体化し、衰えたあなたの生命力を蘇らせるのです」byボロノフ

術後、2週間ほどして退院すると、患者たちは別人のように爽快な気分になっていました。
思い込みによる改善効果・・・ブラセボ効果です。
患者には、長い待機期間がありました。
その間、ボロノフの本を読み、手術を受けた患者のビフォーアフターの写真を見て待ちます。
高級なクリニックで、医者達も親切・・・
ボロノフが登場し、カリスマ的存在で説得する話術を持っていました。
ボロノフ自身が、プラセボ効果の重要な構成要素のひとつでした。

一世を風靡したボロノフの若返り手術・・・
1930年代に入ると、急激に信用を失い、弟子たちも手術を辞めていきました。

1951年、ボロノフは、足の骨折をきっかけに体調を崩し、その後心不全で死去・・・
享年85。
ほとんどの新聞は、記事にもしませんでした。
その中で、1920年代、ボロノフの主張や業績を取り上げ、若返りブームに一役買ったニューヨークタイムズは訃報を掲載します。

”ボロノフ博士は、サルの精巣を使った若返りで有名になった
 だが、彼を信じる人はほとんどいない”

しかも、ボロノフの名前のスペルさえ間違えていました。
人々から忘れ去られ、随分と苦しんだようです。
晩年は、身内以外に友達もいませんでした。
それが彼を大きく傷つけました。
ボロノフは、科学的な考えと全く相容れませんでした。
自分の夢の中に生きていたのです。

アンチエイジングの夢は終わらない
ボロノフの死から70年・・・生命科学や遺伝子工学の進歩で今、若返りの夢・・・アンチエイジングは、廊下を食い止めるという新たな段階へ入ろうとしています。
カギとなるのは、染色体の末端にあり、DNAを保護する役目があるテロメア。
テロメアが無くなると、細胞の老化が進むことがわかりました。
さらに、テロメアが無くなるのを防ぐ・・・廊下を食い止める遺伝子が発見され・・・長寿遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子です。
発見したハーバード大学生物学のグループ、デビッド・シンクレアによると・・・
実験では、生後20カ月・・・人間でいえば60歳のマウスにサーチュイン遺伝子を活性化させる薬を投与します。
1週間後、それまで1キロしか走れなかった恒例のマウスが、3キロ以上も走り続けました。
サーチュイン遺伝子が働き、若さを取り持出したのだといいます。

アンチエイジング研究の第一人者・細胞生物学のミロスラブ・ラドマン
現在、健康寿命を延ばす画期的な薬を開発中です。

「まず約束できることは、近い将来私たちは、120歳、130歳まで健康なまま生きられるということです
 成功すれば、私たちは病気にならずに済み、製薬会社は倒産するかもしれません」byラドマン

センテナリアンと呼ばれる100歳以上の長寿者たち・・・
1960年には世界中で2万人でしたが、2020年には57万人以上となりました。
老化は病気の一種・・・だから、治療できる!!
そんな時代が来るのでしょうか??

アンチエイジング・・・永遠の若さを求める人類の欲望は止まらない・・・!!

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人は様々なものに手を触れ、刻印を残していきます。
指紋・・・指紋は、数々の凶悪事件を解決する徹底的な証拠となってきました。

1984年、ロサンゼルスで発生した連続殺人事件・・・
犯人は無差別に民家を襲撃、暴行、レイプ、強盗をかさね、13人も殺害・・・!!
被害者の年齢、性別、人種などがバラバラで、殺害方法も一貫性が無く、捜査が難航しました。
乗り捨てられた車が発見されたが、念入りな証拠隠滅が施され、犯人につながる遺留品は何も残っていませんでした。
しかし・・・拭き漏れた指紋が一つ・・・!!
このたった一つの指紋から、個人を特定・・・逮捕につながりました。

指紋を発見した男?ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け

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科学捜査の先駆け、指紋鑑定が確立されたのは20世紀初頭。
その誕生の裏には、科学者の醜い争いが繰り広げられていました。
指紋が犯罪捜査に利用できることを初めて提唱したのは、貧しい家に育った無名の石ヘンリー・フォールズでした。
しかし、フォールズの功績は、上流階級出身の著名な科学者フランシス・ゴールトンによってかすめ取られてしまいました。
フォールズは、激しい批判を繰り返します。
しかし、指紋の歴史にはゴールトンの名が刻まれ、フォールズの名は消されたのです。
フォールズは死ぬまで、ただひたすら自分の功績を主張し続けました。
テクノロジーの発達によって進化し続ける個人識別・・・そのルーツとなった指紋鑑定の黎明期・・・科学の世界で起こった名誉をめぐる執着の物語です。

指紋による犯罪捜査・・・そのきっかけとなった論文を発表したのはヘンリー・フォールズ。
小さな診療所で働く無名の医師でした。

「指紋は、犯罪者の身元を科学的に証明することになる」byフォールズ

ヘンリー・フォールズは、1843年、イギリス北部のスコットランドに生れました。
貧しい運送業者の家に育ち、科学への関心が強かったフォールズは医学の道を志します。
敬虔なクリスチャンでもあったフォールズは、医療宣教師となり、1871年、当時イギリスの植民地だったインドに赴任します。

その頃、当時最先端のダーウィンの進化論が科学界の大きな話題を呼んでいました。
フォールズは、キリスト教の教えと共に、進化論を説いて回ります。
しかし、進化論は神を否定するものだと考えていた他の宣教師たちは、フォールズの言動を非難、フォールズはこれに納得せず、イギリスに帰ってしまいました。

彼は自分の意思を決して曲げない人でした。
フォールズは、ダーウィンの信奉者で、彼にとってダーウィンはヒーローでした。
彼は聖書と進化論を同時に説くことができないとする教会に、大きな憤りを感じたのです。

すぐに別の会派にうつり、医療宣教師として今度は日本に渡ります。
外国人居留地である築地で、診療所の医師として働きました。
数年後、同じく日本に来ていた動物学者エドワード・モースと知り合い、彼が発見した大森貝塚の発掘に参加。
ある時、フォールズは、土器の表面に残された奇妙な紋様に目を止めました。
それは、土器を作る時に年度に圧しつけられた縄文人の指のあと・・・3000年前の指紋でした。
ダーウィンを信奉するフォールズは、指紋の研究が進化論の発展に貢献出来るかもしれないと考えました。
指紋のパターン・・・民族や年代による違いがあれば、進化の過程を説明できるのではないか??

フォールズは、家族、友人、病院関係者、患者などから指紋を収集します。
その数、数千に登りました。
ひとりひとりが持つ十の指紋・・・それを、他の人間の指紋と比較、対照していきます。
同一の指紋は一つも見つかりませんでした。
結果、指紋は個人に特有なもの・・・万人不同のものであることを確信します。

フランシス・ゴールトンの研究

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そんな時、ある事件が起こりました。
フォールズが働く病院の医療用アルコールが何者かによって飲まれていることが発覚。
フォールズは犯人がグラス代わりに使ったと思われるビーカーに気付きました。
そこには、ほぼ完全な10個の指紋が残されていました。
人間の行動のほとんどは、触れるという行為を含んでいます。
犯人は知らず知らずのうちに自分の痕跡を残していく・・・
フォールズは、試しに収集した指紋コレクションと照らし合わせてみました。
すると、その中の一つの指紋がビーカーに残された指紋すべてと一致!!
彼の病院に出入りしている医学生のものでした。

フォールズ以前にも、指紋の存在に気付いていた科学者はいます。
しかし、誰も指紋が犯罪捜査に利用できるとは考えませんでした。
犯罪捜査で個人を特定するために、指紋は変化してはいけない・・・
フォールズは、指紋を削る、薬品を使って溶かすなどの実験を試しました。
すると、例外なく同じ紋様が再生されました。
乳児から10歳の子供を対象に、指紋を2年間観察・・・
成長による指紋の変化がないことを確かめました。
こうした実験から指紋は一生変わらない、終生不変であると結論付けました。
フォールズが着目した”万人不同””終生不変”という指紋の特性こそが、個人識別を有効にする決め手です。
フォールズの深い洞察力が道を切り開いたのです。

縄文土器に残された指紋を発見してから2年後の1880年、フォールズは自信をもって研究成果を発表しました。
世界的学術誌”NATURE”に、”手の皮膚の溝について”と言う論文を発表しました。
その中で、こう提案しています。

”粘土、ガラスなどに指の跡が残っていれば、それが犯罪者の身元を科学的に証明することになるかもしれません”

指紋を犯罪捜査に活用することを提唱した史上初の論文でした。

指紋を使うことを思いついたフォールズの着眼点は、非常に鋭かった。
この時代、警察は、正確に人物を特定する方法を確立していませんでした。
目の色や入れ墨、傷跡、ひげなどを見て判別していました。
しかし、これらは変わる可能性があります。
非情に不正確なものでしたが、それしかありませんでした。
それに対し、指紋は確実に人物を特定できます。
常識を覆す革新的なものでした。

しかし、発表した論文には、何の反応もありませんでした。
理由は、著者が無名だったこと・・・。
フォールズの論文が読まれなかったのは、そもそも指紋をテーマに研究している科学者がほとんどいなかった上に、フォールズが全く無名の医師だったからです。
科学者達にはフォールズの論文を読む動機がありませんでした。
フォールズは、敬愛するダーウィンにも成果を書き送り、今後の研究への助力を頼んでいました。
しかし、高齢を理由に断られました。

フォールズは、日本から、ニューヨーク、ロンドン、パリなど主要都市の警察署長宛てに手紙を書き、指紋の利用を訴えます。
しかし、まともに取り合ってくれませんでした。
警察にしてみれば、素性もよくわからない人物からいくら素晴らしい方法だと売り込まれても、相手にしないのは当然です。
後に科学捜査の先駆けとして世界を席巻するフォールズの研究は、知られることなく埋もれていきました。

フォールズの論文発表から8年後・・・
上流階級の著名な科学者が興味を持ったことで歴史が動き始めます。
人類学者・遺伝学者であり優生学の父と呼ばれるフランシス・ゴールトン。
裕福な銀行家を父に持つ上流階級の生まれ・・・
あの進化論のダーウィンの従兄弟にあたります。
何不自由ない生活を当然のこととして成長したゴールトンは、上流階級の人間は生まれながらにして一般庶民より優秀であると考えるようになります。

「人間が生まれつき平等だという主張に私は断固として反対する」byゴールトン

ダーウィンの進化論に影響を受けたゴールトンは、著書「遺伝的天才」の中で、こう述べています。

「動物を品種改良するように遺伝的な改良によって、並外れた才能の人間集団をつくることも可能なはずだ」byゴールトン

後にこの思想を優生学と命名しました。



親から子へ、何がどう遺伝するのか・・・ゴールトンは、様々な家族を調べ上げました。
生まれながらにして優秀な人間に共通する身体的特徴はないのか??
ゴールトンは指紋に目をつけました。

優秀な人間の指紋には、終生変わらぬ特定のパターンがあるのではないかと考えたのです。
ゴールトンは二つの論文を見つけ出しました。
ひとつは、指紋は犯罪捜査に利用できると提唱したフォールズの論文。。。
ゴールトンは、面白い考えという以外には何も思うところはありませんでした。
犯罪捜査への活用には、全く関心がありませんでした。

もう一つの論文は、フォールズの論文の1か月後に発表されていた・・・
著者は、ウィリアム・ハーシェル・・・当時、植民地インドで行政官を務めていました。
父も祖父も高名な科学者で、ゴールトンと同じく上流階級出身でした。
当時インドで、契約書に偽名を使うなどのトラブルが多発・・・
そこで、ハーシェルは、署名代わりに指紋を利用していました。
論文には、20年以上も指紋で署名をとってきたと書いていました。
ゴールトンにとって、ハーシェルの指紋コレクションは貴重な物証であり、それこそが価値のある物だったのです。
フォールズは、とても興味深い考えを提示しましたが、十分な証拠を持っていませんでした。
ハーシェルが提示したのが、まさにそれでした。
ゴールトンは、ハーシェルに協力を依頼、上流階級の二人が手を組みました。
その頃、フォールズは、ロンドンから260キロ離れた田舎町で診療所の医師として生計を立てていました。
合間を縫っては、ロンドン警視庁、スコットランドヤードに出向き、指紋がいかに犯罪捜査に有効であるかを何度も繰り返し説明しました。
さらに・・・

「指紋の価値と実用性を示すために、無償でもいいから働かせてほしい」byフォールズ

反応は冷たかった・・・

「ごく小さな面積しかない指紋の皮膚が、身元をはっきりさせるのに十分な情報を含んでいると、本気で信じろというのか??」

1892年、ゴールトンは、”指紋”と題した著書を出版。
ハーシェルに指紋を提供してもらってまとめ上げた指紋の研究書でした。
本来の目的である優生学につながる成果は何もありませんでした。
結局、フォールズと同じく、犯罪捜査に指紋は有効であるという結論に行きついていました。
ゴールトンは、著書の中で、指紋照合の方法についても提唱しています。
指紋の線一本一本の先端が、どの位置にあるのか、分岐点がどこにあるのかという細部で判定をするべきだ・・・
これは現在でもつかわれている方法です。
ゴールトンの働きが無ければ、この方式の導入にはもっと時間がかかったでしょう。

そして、ハーシェルが契約書に指紋を利用していた例を詳しく紹介し、こう述べています。

”系統だった指紋の使用法を考案した最初の人物とみなされるべきは、サー・ウィリアム・ハーシェルである”

フォールズについては一言・・・”入念な研究をした人もいた”と記しただけでした。

ゴールトンは、フォールズに対して、本来なら払うべき敬意を払っていませんでした。
たとえ、フォールズがハーシェルのような物証を持っていたとしても、ゴールトンは関心を示さなかったでしょう。
ゴールトンは、上流階級の人間でした。
彼にとって、家柄や階級が全てだったのです。
ハーシェルは、とても優秀な科学者の子孫で、名だたる上流階級の家柄です。
そして、准男爵という称号も持っていました。
それらはすべてゴールトンが愛したものです。

イギリス科学界の権威・王立協会の会員であったゴールトンの著書は、内務大臣の目に留まり、”指紋の利用を検討する委員会”が発足します。



1894年、イギリス政府は、犯罪捜査に指紋を利用することを決定。
警察による運用が始まりました。
フォールズは、スコットランドヤードに指紋の利用を訴え始めて14年が経っていました。
ずっと聞き入れられることのなかった提案は、上流階級のゴールトンの著書によって、あっさりと採用されたのです。
ゴールトンはすでに著名な科学者で、フォールズは無名の医者でした。
あの時代、これはとても大きな違いでした。
フォールズは、上流階級に入り込もうとする侵入者のように思われたのでは・・・??

指紋の利用を検討した委員会の報告書には、指紋鑑定の提唱者はハーシェルであると記載されていました。
フォールズの名は、どこにもありませんでした。
自分の業績が正当に評価されていないと感じたフォールズは、激怒!!
さらに、フォールズを怒らせたのは、ゴールトンの著書でした。
フォールズのことに触れているのは1文だけ・・・しかも、名前の綴りが間違っていました。

フォールズのスペルを間違え、さらに「ミスター」としています。
彼がドクターであったことを知らなかったのです。
明らかに見下していました。

フォールズは再びNATUREに投稿し、こう訴えます。

「ゴールトン氏は私の名前の綴りを間違えている
 指紋による犯罪捜査について提唱したのは、間違いなく私が最初である
 ハーシェル氏が何をしたのかはっきりさせるべきだ」byフォールズ

名指しで批判されたハーシェル・・・すぐに同じくNATUREに反論を投稿します。

「フォールズ氏が、たかだか2年程度の短い実験期間で、”指紋は永久に不変”とする結論を立証できたとは到底思えない」byハーシェル

フォールズは、指紋鑑定のアイデアを最初に提唱しましたが、指紋の有用性を立証したのはゴールトンとハーシェルでした。
その為に、フォールズは、指紋鑑定の歴史から完全に外されてしまったのです。
指紋の犯罪捜査への利用を提唱したフォールズの功績は、上流階級のゴールトンとハーシェルによってかすめ取られてしまいました。

犯罪捜査に指紋が利用されるようになって11年経った1905年・・・
イギリスデトフォードの町で塗料店を営む老夫婦が殺害されました。
犯人を特定する材料は、金庫に残された親指の指紋のみ・・・
懸命の聞き込みにより、現場付近を走り去った男の存在が浮かび上がりました。
その男の親指から採取された指紋が残された指紋と一致!!
スコットランドヤードは逮捕、起訴に踏み切りました。
この事件は、指紋鑑定の未来を決定づけることになります。
当時、警察内では、指紋鑑定人などの専門家が地位を確立していましたが、裁判において指紋が決定的な証拠として扱われたことはまだ一度もありませんでした。
指紋鑑定は、完全には信用されていなかったのです。

警察は、成功事例を求めていました。
現場に残された指紋だけで犯人を特定し、逮捕する・・・
その指紋によって、裁判での有罪が確定する!!
そこまですべて成し遂げる必要があったのです。
裁判の争点となったのは、指紋の照合方法でした。
検察が決め手としたのは、指紋の線の細部・・・
ゴールトンの照合方法にのっとったものでした。
弁護側はこれを否定し、提出された指紋の証拠能力に疑問を投げかけます。
その弁護側の証人席に座っていたのはフォールズでした。

彼は、たった一つの指紋では証拠とは不十分で、確実に個人を特定するためには10本の指を鑑定すべきだと考えていました。
フォールズが警察に敵対し、指紋の証拠能力に疑問を呈したのは、個人的な恨みの感情もありました。
自分の功績は奪われ、不当に扱われていると信じていました。
彼は、人生に不満だらけでした。
検察は、スコットランドヤードの指紋鑑定人を証人として招きました。
ゴールトンが提唱した照合方法は、指紋の線の分岐点など細部の特徴が一致するかどうかで判定します。
被告の指紋と現場に残された指紋の拡大写真が陪審員に提示されました。
そして、二つの指紋には、細部に一致する箇所は11あることを示しました。

「このように、細部の特徴が一致している場合でも、別人の指紋の可能性はありますか」by検察官

「それはあります
 しかし、9万点以上の指紋を扱ってきた私の経験では、別人の指紋の特徴が一致するのは最大でも3カ所です」by鑑定人

「次の質問には人の命がかかってきますので、特に慎重にお答え下さい
 この2つの指紋が別人の指紋の可能性はありますか?」by検察官

「いいえ、この二つの指紋は、確実に同一人物のものです」by鑑定人

当時、殺人の罪は死刑でした。
弁護側は、フォールズの証言の前に個人識別のための政府顧問を務めた科学者に証言させました。

「あなたがこの2つの指紋を照合した結果はどのようなものでしたか」by弁護士

「全く別の指から取られた可能性を否定できません」by科学者

弁護側の証人は、二つの指紋の曲線の角度に微妙な違いがあることを指摘しました。
しかし、検察側は・・・指を押しつける圧力の違いに過ぎないと反論しました。

「指先にかかる圧力が違っていれば、この程度の差異は生じてくるものです」by鑑定人

この検察側の証言は、陪審員を大いに納得させました。
弁護側の2人目の証人としてフォールズはこの窮地を立て直そうとしました。
しかし、また証言を覆されることを恐れた弁護士は、フォールズの証言を取りやめてしまいました。
指紋鑑定の発案者であるはずのフォールズは、発言することすら許されませんでした。
判決は有罪・・・死刑が宣告されました。



デトフォードの事件は、本当に重要な出来事でした。
司法や世間一般の人々が、指紋の信頼性を認める大きな後押しとなったのです。
指紋は、その地位を確立しました。
フォールズは、それまで何年もの間、理不尽を強いられてきました。
最初の論文提出から25年間、ゴールトンやハーシェルと争ってきましたが、この事件が最後の決定的な一打となって敗れ去ったのです。

デトフォードの事件をきっかけに、指紋は裁判における決定的な証拠として市民権を得ました。
自分とは無関係に指紋鑑定が広まっていくのをフォールズは許せませんでした。
それは自分の業績だと訴え続けました。
裁判の直後に出版した著書「指紋による個人識別の手引き」で、デトフォードの裁判を糾弾!!
提出された指紋は、一致しない点の方が多かったと主張し、鑑定方法が誤っていると決めつけました。

「このような指紋を、証拠として法廷に提出すべきではない
 数千人もの無実の人が、対象になりかねない」byフォールズ

これを非難したのは、ゴールトンでした。

「フォールズは、相も変わらずお馴染みの不平を繰り返している
 裁判の証拠のあら探しばかりだ」byゴールトン

1911年にゴールトンが亡くなった後、ハーシェルが相手となりました。
舞台はあのNATURE・・・!!
フォールズ73歳、ハーシェル83歳、

「ハーシェルは、指紋鑑定の歴史に私が果たしたささやかな役割を完全に無視した」byフォールズ

「フォールズは、社会的な礼節というものをすべて踏みにじっている」byハーシェル

ハーシェルも亡くなり、争う相手がいなくなると、自分のノートに思いを綴りました。

”私は正直に生きるひとりの国民として主張したいのだ
 国のために尽くした努力に対し、何らかの評価を受ける資格が私にはある”

フォールズ、ゴールトン、ハーシェル・・・それぞれに貢献があったのです。
しかし、フォールズだけが、評価されないまま終わってしまいました。
指紋鑑定に関わったことで、ある意味彼の人生は狂ってしまったと言えるでしょう。

1930年・・・フォールズは86歳でこの世を去りました。
最期まで彼の業績が認められることはありませんでした。

世界初の指紋の研究書を発表し、指紋鑑定の確立に多大な影響を及ぼしたフランシス・ゴールトン・・・
彼は生前、本来の目的であった優生学につながる結果を見出すことができず、指紋への興味を急速に失っていきます。
にもかかわらず、ゴールトンは、指紋鑑定の先駆者として歴史に名を刻まれました。

1974年・・・その歴史が見直され始めました。
きっかけは、指紋鑑定関係者の世界的組織・指紋協会の設立でした。
この協会によって、指紋の歴史が研究し直され、埋もれていたフォールズの業績が掘り返されていきました。
1987年、荒れ果てた状態だったフォールズの墓を、指紋協会が立て直しました。
その墓碑には、こう刻まれています。

”指紋による科学的個人識別の先駆者”

フォールズの死から57年、論文発表からは107年が経っていました。

フォールズ、ゴールトン、ハーシェルが発見した指紋鑑定技術・・・研究が進み、肉眼では見えない指紋をあぶりだす方法が開発されています。
指紋から新たな情報を引き出すことも可能となりました。
現場に残された指紋には、汗や油の成分が含まれています。
この成分を分析することで、薬物の常習性、性別が判断できます。
病歴や人種、食生活を示す場合もあれば、過去数カ月の生活状況までわかる可能性が出てきました。
犯行現場に残された指紋から、あらゆる情報を読み取ることができるのです。

さらに、指紋から始まった個人識別は、生体認証技術として多様化の一途をたどっています。
瞼や角膜で保護され傷つきにくいため理想的な生体認証とされる虹彩認証、あるく姿で個人を認証する歩行認証、顔認証は、監視カメラに写った人物の顔から個人を特定する技術・・・犯人の特定や、逃走先の分析で成果をあげています。
日常生活のあらゆる場面で、個人情報が収集されてゆく現在、指紋が切り開いた個人識別の世界はどこへ向かうのか・・・!?

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日本に投下された2つの原子爆弾は、一瞬にして都市を破壊し、多くの市民の命を奪いました。
この恐るべき兵器を作り出したマンハッタン計画・・・
当時最高の科学と技術を結集した巨大プロジェクトでした。
ノーベル賞受賞者をはじめ、世界の頭脳がアメリカに・・・彼等を率いたのは、物理学者のロバート・オッペンハイマーでした。

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科学者たちが挑む、原子から巨大なエネルギーを取り出す最先端の研究・・・
それは、大量殺りく兵器の製造にほかなりませんでした。
第2次世界大戦中、原子爆弾を作り出した科学者たち・・・その罪と罰に迫ります。

アメリカ・ニューメキシコ州・・・1945年7月16日、ここである歴史的な実験が行われました。
人類史上初の核実験成功・・・人間が原子爆弾という兵器を生み出した瞬間でした。
その巨大な力を作り出したのは、神でも悪魔でもない・・・

原爆の父とよばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー。
如何にしてこの男は原子爆弾を作り出したのか・・・??
始まりは、1938年のドイツに遡ります。
2人の科学者が、核分裂を発見したのです。
物質を構成する原子を、その中核をなす原子核に中性子をぶつけると、二つに分裂することがわかりました。
この時、巨大なエネルギーが放出される・・・!!
これに科学者たちは注目しました。
そして、核分裂連鎖反応を起こせば、莫大なエネルギーを作りだせると考えました。
当時、ドイツはヒトラー率いるナチスの支配下・・・今にも戦争をはじめようとしていました。
ヒトラーが巨大なエネルギーを手に入れれば、恐ろしい兵器を作るに違いない・・・。
いち早く、危険を察知したのは科学者達でした。

ナチスから逃れてアメリカに亡命していたユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインもその一人でした。
危機感を持った科学者の呼びかけに応え、アインシュタインはアメリカ大統領への手紙に署名しました。

”この核分裂連鎖反応は、爆弾の製造にもつながります
 それも、きわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます”

近い将来、ドイツで原子爆弾の製造ができるようになると警告します。
そこには、アメリカにドイツより早く原爆を完成させるようにする狙いがありました。
アメリカ合衆国大統領ルーズベルトは、原子爆弾の製造を決意します。

1942年8月、ニューヨークに司令部を設置・・・マンハッタン島ブロードウェイ270番地・・・
ここに、マンハッタン計画が誕生しました。
科学部門の責任者に選ばれたのは、カリフォルニア大学で物理を教えていたオッペンハイマーでした。
学生から愛称で呼び親しまれる教師・・・
後のブラックホール発見につながる先駆的な研究で注目される理論物理学者でした。
ユダヤ系アメリカ人として生まれたオッペンハイマーは、少年時代から科学、歴史、語学と様々な学問に興味を抱き、秀でていました。
その教養を武器に、あらゆる分野に対応することができると軍の上層部が目をつけたのです。

軍が求めていた科学的大事業に必要なリーダーシップをオッペンハイマーは全て備えていました。
オッペンハイマーは、観察眼が非常に鋭く、そして頭の回転も極めて速かったのです。
要するに、原子爆弾を早急に開発するための実践的能力に抜きんでていたのです。

オッペンハイマーはまず、計画の拠点となる研究所をどこにするかを考えました。
広大なアメリカの国土から選んだのは・・・マンハッタンから3200キロ離れたニューメキシコのロスアラモスでした。
崖の上に広がる独特の地形が決め手でした。
周囲から隔絶された辺境の地・・・機密保持には最適でした。
続いて、化学者の人選です。
オッペンハイマーはまず、一流の科学者だけに狙いを絞りました。
既に「ノーベル賞を受賞していた世界的物理学者エンリコ・フェルミ・・・
後にノーベル賞を受賞する物理学会の重鎮ハンス・ベーテ。
戦後、コンピューターの基礎を築くことになる数学者フォン・ノイマン。
ビッグネームが揃うと、その名前につられるように参加者が増え、有名科学者に憧れる若手研究者も多く集まりました。
オッペンハイマーの狙い通りでした。

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オッペンハイマーは、研究所設立のセールスマンでした。
誰もが研究所に入りたがるような魅力的な人選をしました。
多くの若い科学者たちは、研究所に入り、自分が目標とする科学者と働けることを望みました。

続いてオッペンハイマーは、研究環境を整えます。
原爆開発は、陸軍主導のプロジェクト・・・軍は機密漏洩を防ぐため、科学者同士の会話も制約しようとしていました。
オッペンハイマーは、軍と粘り強く交渉・・・科学者たちの研究エリアに憲兵を立ち入らせないようにしました。
オッペンハイマーは、研究所は研究所らしくあるべきだと訴えたのです。
科学者全てが自由に議論でき、全ての情報を知ることができなければならない・・・
そして、全員が自由に意見を言えなければならないと軍に認めさせたのです。
科学者とその家族たちが続々と集まり、研究所の周りには町が作られました。
オッペンハイマ―は、科学者が心おおきなく研究できるように配慮しました。

こうして、マンハッタン計画の拠点としてロスアラモス研究所が完成しました。
所長に就任したオッペンハイマーのもと、原爆開発が動き出します。
最初に取り組んだのは、ウランの核分裂を利用した爆弾・・・核分裂を起こすことができる十分な量の濃縮ウランを二つに分け、筒の両端に配置・・・それを高速でぶつかり合わせ、核分裂を引き起こして爆発させる方法です。
仕組みは単純ですが、ウラン型爆弾には欠点がありました。
原料となる濃縮ウランを生成するのに膨大な手間と費用が掛かり、兵器として量産が出来ないこと・・・。
そこで、目をつけたのがプルトニウムでした。
濃縮ウランよりも容易に作ることができ、大量生産が可能でした。
ただし、ウランと同じ工法ではうまく核分裂させることができない・・・
科学者達は、プルトニウムを急激に圧縮すれば核分裂を引き起こせるのではないかと考えました。
プルトニウムを火薬で覆い、それを爆発させて一気に圧縮する爆縮という方法です。
この時、プルトニウムに均等かつ同時に力を加えなければ失敗してしまう・・・。
これこそが、原爆開発の最大の難問でした。

オッペンハイマーは、理論と技術、それぞれの専門家に知恵を求めました。
まずは理論・・・
爆弾の威力や弾道の計算で第一人者だった数学者フォン・ノイマンに設計を委ねます。
ノイマンは、均等にプルトニウムを圧縮するには火薬の種類や配置をどうすればよいか、最適な条件を計算で割り出そうとしました。
しかし、爆発という複雑な現象を計算することは至難の技でした。
思い通りに爆発させるためには、火薬をコントロールしなければなりません。
とても骨の折れる作業でした。
卓上計算機に手で打ち込み、繰り返し計算しなければなりませんでした。
このままでは、爆縮の計算など実現不可能だとみんな考えていました。

無数にある選択肢から最適な条件を導くため、ノイマンは当時最新型のパンチカード式計算機を活用。
昼夜フル活動させます。
そして、一つの答えにたどり着きました。
それは、プルトニウムの周りを32の区画に分け、火薬と点火装置を配置。
均等かつ同時に圧縮することが、理論的に可能になりました。
この設計図を技術チームが実現していきます。
火薬を爆破させるための点火装置も32の区画それぞれに設置します。
そのすべてを同時に点火しなくてはなりません。
ノイマン率いる理論チームの計算によれば、許される誤差はわずか2/100万秒でした。

誤差が少しでも生じたら爆縮は起きません。
当時、2/100万秒というのは、きわめて短い時間でした。
そこで、高速の解析カメラが欲しいという話になりました。
32個の点火装置が同時に点火するかどうかを検証するためのものです。

オッペンハイマーは、一瞬の光を捕らえることのできる超高速カメラを手配しました。
オッペンハイマーは、時間を見つけてはあらゆる部署を回り、仕事の新着情報を確認しました。
科学者は技術者の直面している問題に耳を傾け、解決のヒントを与え、答えに導いていったのです。
彼は全てのことを知り尽くしていました。
核、原子、流体力学・・・天才だったといっても過言ではありません。
しかも、親しみやすく、話しやすい人物でした。
オッペンハイマーについて全ての科学者が口にするのは、彼のリーダーシップが無ければ1945年の夏に原爆は出来上がっていなかっただろうということです。



原爆開発は進んでいきます。

原子爆弾を生み出す核分裂の連鎖反応・・・
それは、人類が作り出した究極の暴走だ!!
頭脳と情熱の限りを尽くし、原爆開発に突き進んだ科学者たち・・・
自らもまた暴走していることに気が付いていたのか・・・??

1944年6月6日・・・連合軍は、ドイツ占領下のフランス・・・ノルマンディに上陸。
8月25日には、ヒトラーの支配下にあったパリを奪還。
ナチスドイツの敗戦が濃厚になっていきました。
さらにアメリカ軍の諜報部隊が、ドイツの原爆開発に関する重大な情報を入手します。
ドイツは原子爆弾を作ってはいませんでした。
ドイツの原爆開発を恐れて始まったマンハッタン計画・・・その他意義が失われました。

故郷ポーランドで妻をナチスに殺された物理学者ジョセフ・ロートブラット・・・
「もはや原爆を作る必要はない」
1944年の冬にただ一人ロスアラモスを去りました。

オッペンハイマーの教え子で、濃縮ウランの精製技術を研究していたロバート・ウィルソンは、悩んでいました。
原爆の開発を続けるべきか、その是非を問う集会を開きたいと考えます。
オッペンハイマーに意見を求めたところ、

「そんな集会をやれば、君は軍の連中ともめ事を起こすことになるだろう
 だから、集会はやめた方が賢明だと思うね」

そんな集会を開くには、まったくふさわしくないタイミングだとオッペンハイマーは考えたのです。
計画が、加速度的に進展していたので、軍とことを荒立て開発がストップするのは避けたかったのでしょう。
軍の意向を慮るオッペンハイマーに失望し、ウィルソンは集会を決行します。
すると驚いたことに、参加者の中にオッペンハイマーの姿がりました。
そして発言の機会を求めて語り始めました。

「このままドイツとの戦争が終われば、原爆はアメリカの軍事機密となり、いつ新たな戦争で使われるかわからない
 むしろ、原爆を完成させて実験を行い、世界の人々に原爆の恐ろしさを知ってもらえば、国際平和を話し合ういい機会になる」

オッペンハイマーは、原爆が世界平和に貢献すると主張し、同席した科学者をひとり残らず納得させました。
ウィルソンは、その時の様子をこう回想しています。

”荷物をまとめて研究所を去ろうなんて、誰も言い出さなかった
 それどころ、あみんな取りつかれたような熱心さでまた仕事に戻っていった”

オッペンハイマーは、計画を継続するべきであると見事に納得させたのです。
彼の野望は、出来るだけ早く原爆を作ることでした。
それはプライドや野心といえるし、出世欲だったのかもしれません。
いずれにせよ、科学者がみんなオッペンハイマーの元、原爆開発に向けて一致団結したのです。

1945年5月7日、ナチス・ドイツが無条件降伏・・・原子爆弾開発の目的は消え失せました。
しかし、アメリカにはまだ敵がいました。
日本です。
太平洋戦争で激戦を繰り広げ、多くの死傷者を出していたアメリカは、日本への原爆投下を検討していました。
オッペンハイマーたちマンハッタン計画の科学者達もその議論に参加していました。
同じ頃、科学者の一部から日本への投下は望ましくないという意見が出ていました。
すでに、空襲で壊滅状態の日本に原爆を使うことが本当に必要なのか??
彼等はデモンストレーションとして原爆を砂漠や無人島で爆発させる提案をしていました。
各国の関係者に公表すれば、その脅威を理解させることができるというのです。
戦争を終わらせる手段としてデモンストレーションが効果的なのか??
議論は真っ二つに分かれました。



デモンストレーションを支持するものの主張
①実戦で使うのは、人道に反する
②アメリカが国際的な批判を受ける

原爆投下を支持するものの主張
①実戦で使用しない限り日本の戦争指導者を降伏させるのは難しい
②多くのアメリカ兵の命を救える

オッペンハイマーたちの最終報告書・・・

”我々は、戦争を終結させる手段として、デモンストレーションを提案することはできません
 つまり、原爆の直接的軍事使用の他には考えられません”

結論は、日本への原子爆弾の投下でした。

そして、最後にこう付け加えられていました。

”我々が、科学者として原子力利用について考える機会を得た数少ない市民であることは間違いありません
 しかし、我々には政治的、社会的、軍事的問題を解決する能力はありません”

オッペンハイマーたちは、科学者には軍事に関する特別な能力がないからと言い訳して、原爆投下の決定を事実上認めました。
何故なら、彼らは戦争に勝利し、早期に集結させることが、科学者の責任だと思っていたのです。

1945年7月・・・実践に向けた原爆の爆発実験の準備が始まりました。
トリニティー実験です。
爆発させるのは、爆縮の技術を駆使したプルトニウム型原子爆弾・・・
32個の点火装置も、2/100万秒以内の誤差で点火で来るように仕上がりました。

1945年7月16日午前5時29分45秒・・・
爆発の瞬間、真昼の太陽数個分に匹敵する閃光が、半径30キロを照らしました。
巨大な日の玉は、やがてきのこ雲となり、高度3000メートルの地点にまで上昇。
爆発音は、160キロ先まで聞こえ、200キロ先に窓ガラスも割れたといいます。

オッペンハイマーはただ一言「上手くいった」とつぶやきました。

ノイマンと同じ理論チームにいたロイ・クラウバー・・・
100キロ離れた地点から、実験を目撃しました。

「私は山頂から見ました
 すさまじい閃光とともの、実験場から爆風が広がりました
 そして、蒸気が幾重にも幾重にも立ち上っていきました
 空全体が明るくなるのを見て、実験が成功したことを、そして、実験が現実の事なのだと悟りました
 恐ろしかったです
 嬉しいことなどひとつもありません
 山頂からロスアラモスまで帰る途中、誰も一言も口をきかなかった」

開発を続けるべきか、迷って集会を開いたロバート・ウィルソンは、
酷いものを作ってしまったと座り込んでしまいました。

そして、オッペンハイマーは、一緒にいた科学者にこう言われました。

「オッピー、これで俺たちはみんなクソッタレだよ」

オッペンハイマーは晩年、トリニティー実験を回想しています。

”世界は前と同じでないことを私たちは悟った
 ある者は笑い、ある者は泣き、ほとんどの者は押し黙った
 私はヒンズー教の聖典の一説を思い起こした
 
 今 我は死となる 世界の破壊者となる”



1945年8月6日、広島・・・ウラン型原子爆弾リトルボーイ・・・
8月9日、長崎・・・プルトニウム型原子爆弾ファットマン。
二つの爆弾が日本に投下されました。

原子爆弾の開発は、科学者にとって悪魔との契約でした。
この契約は、いったん交わしたら撤回できない・・・日本に対して核兵器を使用したことは、世界の歴史で最も重大な出来事になりました。
我々人類は、いつの日か恐ろしい代償を払うことになるでしょう。

1945年8月15日、日本のみ条件降伏によって第2次世界大戦が集結。
オッペンハイマーは、戦争を終わらせた原爆の父として一躍国家的な英雄となりました。
そして物理学研究の名門プリンストン高等研究所所長に就任。
配下には、あのアインシュタインもいました。
さらに、政治の世界でも影響力を持ち、数多くの政府機関にも名を連ね、原子力政策への発言力を高めていきました。
オッペンハイマーは、原子力の国際管理、世界各国が協力する必要があると訴えました。

”世界の他の国々と、信頼関係を築き、協力し合うことこそが、安全な未来への唯一の道なのです”

しかし、世界はすでに東西冷戦に突入していました。
1949年8月・・・ソ連が原爆開発に成功。
対向してアメリカは、1952年11月、原爆の数百倍の威力を持つ水素爆弾の開発に成功します。
オッペンハイマーは、水爆開発を批判しました。
一方で、原爆の方が優れていると主張します。
原爆を小型化すれば、船上の限られた標的だけに使える・・・そうすれば、民間人を巻き添えにしないという理由でした。

そして、米ソの核開発競争が過熱すると、今度は真正面から政府を批判しました。

”我々の状態は、一つのびんの中の二匹のサソリに似ていると言えよう
 どちらも相手を殺すことができるが、自分の殺されることを覚悟しなければならない”

政府の政策に否定的な発言を繰り返したオッペンハイマー・・・
1953年、政府からソ連のスパイ容疑という濡れ衣を着せられ、公職から追放されます。
オッペンハイマーは、原爆開発で忠誠を誓ったアメリカに捨てられたのです。

アインシュタインは言いました。
「オッペンハイマーよ、君の役目は終わった 立ち去るべきだ」
しかし、彼はできませんでした。
そして、政府に裏切られたのです。

かつての国家的英雄の名は、世間から次第に忘れ去られていきました。
晩年、オッペンハイマーは日本への原爆投下を後悔していたといいます。

1967年2月18日、ロバート・オッペンハイマー死去 62歳。

咽頭がんでした。

オッペンハイマーの教え子で、原爆開発を続けるべきか集会を開いたロバート・ウィルソン。
戦後は、国立研究所の所長としてアメリカの物理学研究を牽引。
ドイツ降伏の時点で、ロスアラモスから去るべきだったと終生後悔しました。

ただ一人、ロスアラモスを離れたジョセフ・ロートブラット。
イギリスにわたり、核兵器と戦争の廃絶を訴えるパグウォッシュ会議を創設。
初代事務局長を務め、1995年ノーベル平和賞を受賞しました。



そして、アインシュタイン・・・原爆開発を促した手紙に署名したことを死ぬまで悔やんだといいます。

広島、長崎の原爆投下から70年以上・・・
世界の核兵器保有数は、現在1万5000にのぼると言われています。

現代の科学者にとって大切なこと・・・
科学自身は知識であって、自然から学んでいるだけ・・・
しかし、危ないものに使えば大変なことになる・・・
必ずプラスとマイナスがあるのです。
そこを常に見返して、科学者は間違った方向に行きそうだったらちゃんと警告しなければならない。
科学者は知識を持っていて、何が起こるかということも想像できます。
だから、それを活かしていろいろな問題について社会に対して助言をするということ・・・それが科学者の社会的責任です。

原爆の誕生を、生涯悔やんだアインシュタイン・・・
後に彼はこう語っています。

「この世には、無限なものが二つある
 宇宙と人間の愚かさだ
 宇宙の方は断言できないが・・・」

アメリカ・ニューメキシコにあるホワイトサンズミサイル実験場
その一角に年に2日だけ一般公開され・・・毎回数千人訪れる場所があります。
世界初の核実験・トリニティーの爆心地です。
ある世論調査で・・・アメリカ人の56%が日本への原爆投下は正しかったと答えました。

ロイ・グラウバーは、マンハッタン計画に参加したことをこう振り返ります。

「ロスアラモス研究所には、様々な科学者がいました
 優秀な科学者、才能に溢れた科学者、そうでない人物も含めてね
 そんな科学者たちと、素晴らしい環境で仕事を出来たことは、他の事には代えがたい日々でした
 しかし、それは私にとって、常に背負いきれない重荷でもあります
 あの場に居合わせた科学者は、みなそう感じていると思います」

原爆の父オッペンハイマー・・・広島、長崎の原爆投下から2年後にこんな言葉を残しています。

「物理学者は罪を知った」byオッペンハイマー

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奇跡の薬と言われた化学物質・・・その物質の名はDDT。
戦後の日本で、進駐軍によって害虫駆除のため大量散布されたことで知られるDDTは、殺虫剤として人類を疫病から、農薬として飢餓から解放しました。
世界で5億人もの命を救ったと言われています。
DDTの効果を発見したのは、スイスの化学者・・・パウル・ヘルマン・ミュラー
多くの命を救った功績が評価され、ノーベル医学生理学賞を受賞しました。
DDTは、20世紀の科学が生んだ万能薬とたたえられました。
しかし・・・
1962年「沈黙の春」という本が、それを死の薬と告発します。
DDTをはじめとする化学物質は、環境に残留し、食物連鎖によって濃縮され、やがて鳥の中内春が来る・・・と。
著者の名は、レイチェル・カーソン・・・化学物質の危険性を初めてよに知らしめ、人間にも発がんや不妊の恐れがあると警告しました。
誰もが奇跡の薬として信じて疑わなかったDDTの顔が、一冊の本で暴かれたのです。
大ベストセラーとなったその本は、アメリカ大統領にまで取り上げられます。
そしてDDTは、アメリカ政府によって使用禁止となります。
人類を破滅させる死の薬か、それとも人類を救う奇跡の薬か・・・
20世紀最大の疑惑の化学物質・DDT・・・その数奇な運命とは・・・??



・奇跡の薬誕生
スイス北西部の都市・バーゼル・・・DDTの効果を発見したのは、この町の合成染料メーカー・ガイギー社の化学者パウル・ヘルマン・ミュラーでした。
ミュラーは、17歳で化学実験に取りつかれ高校を落第、実験技師のアルバイトを経て復学し、26歳で博士号を取得。
合成染料を開発する研究者となりました。
1935年、働き始めて10年・・・その頃会社では、害虫からウールを守る新たな殺虫剤を作ろうとしていました。
それまで殺虫剤には、除虫菊やニコチンなど、天然の原料が輸入され、使われていました。
しかし、大恐慌の余波を受け原料価格が高騰、ミュラーに求められたのは、科学的に大量に合成できる殺虫剤の開発でした。

研究を始めたミュラーは、自らの理想とする殺虫剤に7つの厳しい条件を付けました。
①害虫に対し猛毒性
②哺乳類には無毒、または微毒
③即効性がる
④匂いがない
⑤効果が長く持続する
⑥安価で作れる
⑦できる限り多くの害虫に効く

同僚の化学者たちは、害虫がそれを食べることで死ぬ径口型の殺虫剤を開発しようとしていました。
しかし・・・それではできる限り多くの害虫に効くという条件を満たしません。
虫たちが、みな同じ餌を好むはずがないからです。
ミュラーが目指したのは、どんな害虫にもそれに触れただけで死ぬ・・・接触型の殺虫剤でした。

同僚たちは、最初はミュラーの研究方法をバカにしていました。
ミュラーの研究方法は、当時とても珍しいものでした。
彼の専門は化学ですが、同時に生物学にも造詣が深かったのです。
なので、全ての虫が同じ毒の餌を好むはずがないことに気付いていました。
ミュラーは、4年間で349種類もの化学物質を調べました。
少しでも見込みがあると、化学式を一カ所いじって別の物質を作る・・・
ほんのわずかな違いでも、物質全体の性質はがらりと変わります。
ミュラーは、会社の研究室にとどまらず、自宅にも器具を持ち帰り研究を繰り返しました。

「化学で結果を導くのは忍耐のみである」byミュラー

1939年、ミュラーは、通算350番目となる物質を試します。
驚いた・・・その物質を塗った壁に触れた虫が、次々と落ちて死んだのです。
他の虫でも試してみました。
触れただけでみな死んだ・・・しかも、殺虫効果は、何週間も持続したのです。
この物質こそ、後に奇跡の薬と言われるDDT・・・ジクロロジフェニルトリクロロエタンです。
4年がかりでようやく突き止めた・・・しかし、それは、60年前にすでに発見されていた物質でした。
DDTはすでにオーストリアの大学院生によって卒業論文の課題として合成されていました。
しかし、ごく普通の化学物質に見えたので、誰もその効果を調べようとはしなかったのです。

ミュラーがDDTの殺虫効果を発見したその日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦がはじまりました。
戦争は、この殺虫剤にとってチャンスでした。
当時、戦場では戦死者よりも発疹チフスなど疫病で死ぬ兵士の方が多かったからです。
DDTが、発疹チフスを媒介するシラミにも効果があることを確かめたミュラーと会社は、1941年、戦争参加国にDDTを売り込みます。

食いついたのはアメリカでした。
アメリカ軍は、それまで除虫菊を日本などから輸入して使っていましたが、開戦によりその量が激減・・・
代わりになる殺虫剤を血眼で探していました。
そんな折、スイスからもたらされた殺虫剤に、アメリカ軍は狂喜します。
その薬に触れるだけで害虫が次々と死ぬからです。
害虫が触れるとDDTはまず、接触した虫の外郭の油の層に溶け込みます。
そして、神経の末端から中枢神経へと浸透し、マヒを起こします。
DDTは、マラリアを媒介とする蚊にも効果がありました。
殺虫力は除虫菊の4倍・・・実験を行ったアメリカ軍と農務省は、5%に希釈すれば人体には無害と太鼓判を押しました。

1943年、アメリカ軍は、DDTを正式採用・・・戦争で使い始めます。
安価で生産できるため、軍はDDTを戦場に大量投入。
これで、貴重な戦力を疫病で失う不安が無くなりました。
ドイツの占領から解放されたイタリアのナポリでは、1日7万人に散布し、シラミを撃退。
およそ100万人の市民も、発疹チフスから救い、DDTは奇跡の薬と呼ばれるようになります。

そして終戦、1945年・・・アメリカ政府はすぐにそれまで独占していたDDTの生産販売を民間に許可します。
アメリカに勝利をもたらした奇跡の薬に、国民は夢中になって飛びつきます。
DDTは、動物実験も、長期使用による生態学実験も行われずに、民間に開放されました。
多くの国民にとっては、科学の発見が全てで、その治験にはお金を払おうとはしません。
発見されたら、それ以上を知ろうともしませんでした。

農場では、害虫を駆除する農薬としてまかれ、収穫量を飛躍的に向上させました。
誰もが奇跡の薬として信じて疑わず、基準量を大幅に超えたDDTを大量に散布しました。

1948年、DDTの殺虫効果を発見した功績が認められ、ミュラーはノーベル医学生理学賞を受賞します。
この賞が、医師ではない化学者に与えられたのは、史上初めてのことでした。
晩さん会でスピーチを求められたミュラーは、自らの成し遂げた仕事を芸術家のそれになぞらえました。

「芸術家は、自然を真似て自然にはない美しさを創造します
 化学者も、自然に学び、新しい物質を創造することでは芸術家と同じ仕事なのです」byミュラー

ミュラーがもたらした奇跡の薬は、発見からわずか10人で、500万人以上の命を救いました。



奇跡の薬・失墜
アメリカ・メリーランド州・・・パタクセント野生生物保護区。
DDTに関する最初の警告は、1946年、ここから始まりました。
野生生物の保護管理を行うアメリカ魚類野生生物局が行った実験です。
害虫駆除のためにまかれるDDTは、他の生物にどんな影響を及ぼすのか??
濃度や回数を変えて、何度も散布し、1年かけて調査しました。
高濃度で回数を多くまいた区域に、注目すべき変化が起きました。
川魚が死に、野鳥が巣を放棄したのです。
しかし、それがDDTによって起きた現象なのか・・・断定できませんでした。
彼等は、報告書にこう記しました。

”必要でない限り、DDTを使用しないこと
 使わざるを得ない場合は、最小限にすること
 何が起きるか、まだ誰にもわからない”

当時、この報告書を読んだ者たちの中に、同じ、魚類野生生物局に務めるひとりの女性がいました。
レイチェル・カーソンです。
カーソンは、生物学を学び博士号を目指しますが、経済的な理由で挫折。
政府刊行物の編集者・兼・野生生物に関するエッセイを書く作家として働いていました。
自然と生き物をこよなく愛する彼女は、国の推奨する薬が生態系に影響を及ぼす可能性があることを知り、激しく動揺します。
しかし、当時のカーソンは、政府の職員でした。
公に政策を批判することはできません。
その後も、国はDDTの大量散布を続けます。
編集者だったカーソンのもとには、全米各地の生物学者たちから魚や鳥の謎の死の報告が、次々と集まるようになりました。

1955年、WHO・・・世界保健機関は、DDTを使って世界マラリア撲滅キャンペーンを始めます。
アフリカ諸国やスリランカなど、マラリアの流行を繰り返す国に、DDTの使用を強く要請します。
先進国の資金援助を受けたこのキャンペーンにより、11カ国でマラリアを根絶。
DDTの生産量は、戦時中の10倍以上に膨れ上がりました。

1958年、カーソンのもとに1通の手紙が届きます。
それは、アメリカ北東部に住むひとりの主婦からのものでした。

”去年の夏、蚊を駆除するために飛行機が私たちの小さな町の上空を飛びました
 7羽の鳥が死んでいるのを見つけました
 さらに翌日、1羽のコマツグミが近くの森の枝から落ちてきました
 彼等は苦悶のあまり、クチバシを大きく開け、胸の上の足は爪を広げていました”

手紙は、次々に開発され、大量散布される化学物質が、異常事態を引き起こしていることを伝えていました。
その頃のカーソンは、瀬オフ職員を辞め、作家に専念していました。
自由に発言できる立場となっていました。
カーソンは、化学物質の調査を始めます。
しかし、政府に知られると妨害されるかもしれない・・・
捜査は、秘密裏に行われました。

そしてついに、化学物質の知られざる危険性を示唆したある研究報告にたどり着きます。
ミシガン州立大学のキャンパスで、死んだコマツグミの体内から異常な量のDDTが検出されました。
1年前、キャンパスにはニレの立ち枯れ病を防ぐためにDDTが散布されていました。
その年、コマツグミは死ななかった・・・しかし、1年後、コマツグミの死体が次々と見つかります。
一体何が・・・??

論文を書いた科学者は、一つの推論を導き出していました。
ニレに撒かれたDDTは、落ち葉となっても葉の中に残留する・・・
その落ち葉を食べるミミズの体内にDDTが蓄積され、ミミズの体内のDDTの量が増える・・・
治になると、ミミズをコマツグミが食べ・・・ミミズを食べれば食べるほど、DDTがコマツグミの体内に蓄積され。やがて致死量に達する・・・
こうしてコマツグミは死に至ったのではないか??
それは、DDTが食物連鎖によって上位に行くほど濃縮されることを示していました。
生体濃縮と呼ばれるこの現象によって、直接DDTを浴びるより、毒性が増すのです。

同じような研究結果を報告する論文が、次から次へと見つかります。
中には、DDTが動物に、ガンや不妊を引き起こすという実験報告もありました。
それは、食物連鎖の頂点にいる人間にも、やがて起こり得ることだと思えました。

1962年、調査開始から4年をかけて、カーソンは「沈黙の春」を発表します。
DDTに代表される化学物質の問題を取り上げたこの本の中で、カーソンはその危険性を告発しました。
これらの化学物質は、死の薬だと・・・

「DDTに代表される化学物質の恐ろしさは、食物やえさの連鎖によって、その物質が移動していくという事実にある
 最初は、ごくわずかな蓄積が、次々と積み重なって増えていく
 最後には、一体どうなるのか・・・まだ誰にもわからない」byカーソン

その恐ろしさは、後に水俣病で実証されることになります。
工場排水に含まれていた水銀が、プランクトンから魚や貝、それを食べた人間へと食物連鎖の過程で蓄積、濃縮され、悲惨な公害事件となったのです。
生体濃縮の恐ろしさを初めて世に知らしめた「沈黙の春」は、たちまち大反響を巻き起こしました。



奇跡の薬VS死の薬

1962年8月29日、アメリカ大統領の記者会見で・・・

「大統領、科学者の間ではDDTをはじめとする化学物質を広範囲に使用することで、長期的に危険な副作用が発生する可能性を懸念する声が高まっているようですが・・・」by記者

「私はその問題をすでに承知している
 ミス・カーソンの本がそれを扱っているからね」byケネディ大統領

「沈黙の春」は、アメリカの政治にまで影響を及ぼしました。
記者会見でこの本に触れたケネディ大統領は、特別委員会を招集・・・沈黙の春に書かれていることは事実なのか、科学者にアドバイスを求めました。

一方、化学物質を製造する企業は、反撃ののろしを上げます。
お抱えの化学者に、DDTは死の薬ではなく、奇跡の薬なのだと反論させました。

「カーソン女史には悪意があります
 念入りに研究開発された安全な農薬の価値をすべて否定して、弊害の可能性ばかりを誇張しています」byロバート・スティーブンス博士

「農薬は酒、睡眠薬、アスピリンと同じだ
 死亡した人はいない」byアメリカ農務省農薬規制部部長

「世界中のどの国よりも、豊かで清潔な食料を生産するためには、農薬や農業用の科学物質は必要不可欠だ」by化学企業顧問弁護士

反論は、やがてカーソン個人に対する誹謗中傷へとエスカレートします。

「子供もいない独身女性がなぜ遺伝のことを心配しないといけないのか?」by前アメリカ農務省長官

「おそらく彼女は、共産主義者に違いない」byカリフォルニア州在住の男性

しかし、カーソンも黙ってはいません。
沈黙の春の執筆を始めた頃、カーソンの胸には乳がんが見つかっていました。
病魔と闘いながら、カーソンは自らの信じる科学を訴えました。

「私はDDTの使用をやめようと言っているのではなく、使い方を変えようと言っているのです
 利益と生産という神々に仕えるために基礎科学の真実が汚されている
 私たちは一体、誰の声を聞いているのでしょう?
 科学の声でしょうか?それとも利益を守ろうとしている産業界の声でしょうか?」byカーソン

産業界は、彼女を黙らせようとしました。
でも、彼女は、誰かに黙らせられる人間ではなかったのです。
カーソンは「戦う人」だったのです。
そんなカーソンを、ケネディの特別委員会は擁護しました。

「政府は、化学物質の価値を認めつつ、同時にその危険性を国民に周知するべきである」by大統領化学諮問委員会報告書

DDTの効果を発見したパウル・ヘルマン・ミュラーは、会社を退き、自宅の実験室で新たな殺虫剤の開発に没頭していました。

DDTの悲劇的な運命は、ミュラーのせいではありません。
使用をめぐって大論争となったのは、DDTが大衆に非常に支持された科学物質だったからです。
沈黙の春の出版から2年足らず・・・1964年4月、レイチェル・カーソンは57歳で死去。
その後を追うように、1965年10月、パウル・ヘルマン・ミュラーも66歳でひっそりと世を去りました。



論争決着・・・科学と政治
1970年代、カーソンの沈黙の春をきっかけに環境保護という思想が生まれます。
環境保護活動家たちは、かつて絶大な人気を誇ったDDTを汚染物質の象徴と見なし、葬り去らない限り子供たちに未来はないと声をあげました。
次第に高まるこの声を、アメリカ政府は無視できませんでした。
1970年12月、ニクソン大統領は環境保護庁を発足させます。
それは、世界に先駆け、世界で環境保護を専門とする政府機関でした。

ニクソンが、環境保護庁がの初代長官に抜擢したのは当時38歳の若手議員ウィリアム・ラッケルスハウスでした。
就任直後、ラッケルスハウスは、まず大規模な排ガス規制に乗り出します。
自動車の排気ガスに含まれる汚染物質を5年後まで9割減少させること・・・この目標を達成できなければ、即、販売禁止にすると宣言しました。
強引な規制でしたが、その後、低公害自動車が続々と開発されました。
次に狙いをつけたのが、DDTでした。
1971年8月~1972年2月・・・DDT使用を巡る公聴会を開催。
ところが、ラッケルスハウスは、環境保護庁の長官でありながら、7カ月続いた公聴会に1回も出席しませんでした。
そして、長官不在の公聴会で、専門家たちが科学的証拠に基づいて出した結論は、意外なものでした。

「DDTは体内で濃縮され、食物連鎖によってはこばれる」

「指定された量と回数を守れば、淡水魚、野鳥、その他の野生動物に害を及ぼすことはない」

さらに、
「DDTは人にとって毒性が極めて低く、発がん性物質ではない」

公聴会は、制限付きのDDTの使用を認めていました。
その結論に、一度も出席しなかったラッケルスハウスが覆します。

「公衆衛生上、特に重要と考えられる場合を除き、アメリカ国内でのDDT使用を全面禁止する」

ニクソンの所属する共和党は、民主党よりも環境問題に疎いというのが常識でした。
そこで、ニクソンは次の大統領選挙に向け、自分の立場を高めようとしたのです。
DDTを使用禁止にしたのは、環境問題に対する国民の批判をかわすためでした。
科学ではなく、政治的な駆け引きだったのです。

この決定の背景を、ある大学の研究チームが分析しています。

「公聴会が開催される以前に、ニクソンはDDTを段階的に廃止すると述べていた
 最初から結論ありきの公聴会だった
 もし、ラッケルスハウスがDDT禁止令を出さなければ、彼はニクソンによって職を追われていただろう」ノーザン・イリノイ大学の研究ノート

戦時中と戦後、国はDDTを奇跡の薬として利用しました。
国民は、浴びるようにDDTを使い、その恩恵にあずかりました。
しかし、都合が悪くなると、あっさりと切り捨てました。



アメリカでのDDTの使用禁止は、思わぬ結果をもたらします。
取り残されたのは、発展途上国の子供たちでした。
1955年に始まり、5億人の命を救ったとされる世界マラリア撲滅キャンペーン・・・環境団体の圧力を受けた先進国からの資金援助が途絶え、1969年、いやおうなしに中止となりました。
すると、今まで抑えてきたマラリアの流行が再びぶり返し、抵抗力のない数百万人もの子供たちが死んでいきました。

2006年9月15日、WHOは、マラリア対策での新たな方針を発表・・・DDT の再使用でした。

「私たちはこの病気と闘うために、使える限りのあらゆる武器を使っているのか?
 マラリアに対抗する「強力な武器」が配備されないままになっている」WHO記者会見

強力な武器とは、DDT でした。

その後、開発された化学物質の中で、DDTほど安価で人間に害が少なく、マラリアに効果がある薬はなかったのです。
現在DDTは、アフリカ諸国でマラリアのリスクがDDTのリスクを上回ると考えられる場合、環境に影響を及ぼさない屋内噴霧に限定して使用されています。
人にとって、ガンや不妊の原因となるかどうかは、ハッキリとした科学的根拠が発見されておらず、今も研究中です。

人類はこれまで、いくつもの化学物質を生み出してきました。
その中には、時を経て評価が変わった物質があります。

かつて生活を豊かにするとされてきたフロン・・・
冷蔵庫やエアコンの冷媒として世界中で広く使用されたがオゾン層を破壊することがわかり1987年全廃が決定。

サリドマイド・・・
妊婦馬服用すると、奇形児が生まれるなど1960年代に世界的な薬害を起こしたが、現在はハンセン病や骨髄ガンの治療薬として再評価されています。

人類の敵だと非難された物質が、人類を救う薬に変わったこともあります。

新しいものが発見されると、それは考えるのをやめる時ではなく、考えはじめる時なのです。
もし、予期しなかった影響が見つかったら、私たちは考えを変えることを恐れてはならないのです。

今、次々と生み出される化学物質・・・
それは、奇跡の薬なのか??それとも、死の薬なのか???

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オリンピック・・・世界中のアスリートが技を競い合います。
その陰に、ドーピングという負の歴史があります。
1970年代から圧倒的な強さを誇った旧東ドイツ・・・その裏に、国家ぐるみのドーピング政策がありました。
国家計画14.25
東ドイツ政府が極秘に進めた禁止薬物による競技エリート育成の国家政策です。
関わった科学者やトレーナーは3000人、未成年を含む1万5000人の選手に禁止薬物が投与されました。
この計画を指揮したのが、医師マンフレッド・ヒョップナーです。
あみ出したのは、ドーピング検査をすり抜ける巧妙な技術の数々です。
しかし、薬物の副作用は深刻な被害を生み出します。
身体能力の限界をこじ開けた、恐るべき人体実験でした。
これまで解き明かされていなかった旧東ドイツの組織的なドーピング政策・・・いったい何が行われていたのでしょうか?

第1章 旧東ドイツ 国家の威信をかけて
1934年、ヒョップナーはナチス政権下のドイツに誕生。
1945年、11歳の時、敗戦によって母国が東西に分裂します。
新たに社会主義国として一党独裁体制のドイツ民主共和国・・・旧東ドイツが誕生します。
ヒョップナーは、大学で医学を学び、1964年に東ドイツスポーツ医学研究所に勤務します。
陸上連盟の専門医となりました。
当初は、医学の発展が目覚ましく、中でも性ホルモンの研究が進んでいました。
男性ホルモンを人工的に合成した筋肉増強剤も、この時代に開発されました。
筋肉増強剤にいち早く目をつけたヒョップナーは、スポーツ医になってわずか3年・・・
33歳の若さでこの研究所の副所長に抜擢されました。
異例の出世には理由がありました。



ヒョップナーは、医学的なケアだけでなく、ドーピングを使って選手の成績を上げたのです。
短い期間に成果を出して、自分には指導力があるということをアピールしたのでしょう。
人口わずか1600万の小国東ドイツ・・・
経済的困窮の為、また秘密警察の監視から逃れるため、建国以来、200万もの国民が西ドイツに逃亡。
人口の流出を防ごうと、1961年ベルリンの壁建設、国民への締め付けを強化します。
国民の不満や閉塞した状況を、どうすれば変えられるのか??
ヒョップナーに課された課題は、オリンピックで何としても結果を出すことでした。
折しも、メキシコシティ大会から、それまで東西統一チームとして出場していたドイツは、それぞれ単独国として参加することが決まっていました。

政府は、東ドイツの肯定的な側面を見せる方法を探していました。
国外に向かってだけでなく、自国民に力のある素晴らしい国であると示すことが重要でした。
それを達成できる唯一の手段がスポーツでした。
トレーニングを効率化し、成績を効果的に向上させる・・・ありとあらゆる可能性を探ることになります。
ヒョップナーにとっては、政治をスポーツの分野でどのようにサポートできるかを示す最大のチャンスでした。

1968年、ヒョップナーを指揮官に、東ドイツスポーツ医研究所は、極秘ドーピング実験を行いました。
この実験で使われたのは、筋肉増強剤の経口トリナボール。
本来は、やけどやけがなどの回復能力を高めるために東ドイツで開発された医薬品です。
初めての実験台は、砲丸投げ選手マルギッタ・グメル・・・女性が選ばれました。
筋肉増強剤トリナボールが、男性ホルモンから作られっているため、より高い効果があると考えたからでした。
効果はすさまじく・・・彼女は毎日2錠のトリナボールを飲み、11週間で記録を10mも伸ばすことに成功しました。
手ごたえを感じたヒョップナーは、他の選手にもトリナボールを投与しました。

1968年、メキシコシティーオリンピック
マルギッタ・グメルは、世界記録を更新。
2位との差を1m近く引き離し、見事金メダルに輝きました。
この大会で、東ドイツが獲得した金メダルの数は、西ドイツを上回る9個。
前回の東京オリンピックで東ドイツ出身の選手が獲得した3個から大きく飛躍しました。
この成功をもとにヒョップナーは、トリナボールの使用を拡大していきます。

1972年、ミュンヘンオリンピック
東ドイツが獲得した金メダルは倍増して20個。
メダルの総数も、ソ連、アメリカに次ぐ3位と大躍進を遂げます。
東ドイツ選手の活躍に、国中がわき返りました。

市民にとってオリンピックはとても重要なものでした。
我が国の選手が、いくつメダルをとれるか、その話で持ちきりでした。
裏で何が起きていたか、知らなかったのです。
オリンピック中継に、みな興奮していました。
勝利の一つ一つが、東ドイツ市民を誇らしい気持ちにしました。
まさに、プロパガンダの成功です。
しかし、その2年後、国際オリンピック委員会は、トリナボールを禁止薬物に指定します。
東ドイツ政府、そしてヒョップナーは、窮地に陥りました。



第2章 国家計画14.25
国家計画14.25・・・ドーピングの研究開発を国家的規模で進め、8歳以上のすべての有力選手投与する一大プロジェクトです。
全権を任されたのが、ヒョップナーでした。
まず取り組んだのは、禁止された筋肉増強剤トリナボールの隠蔽工作です。
成績向上に欠かせないこの薬物を使い続けながら痕跡を隠す必要がありました。
しかし、トリナボールは、使用をやめても2週間尿検査で陽性反応が出てしまいます。
どうすれば使い続けられるのか・・・??

マスキングという方法です。
禁止されていない薬を使って誤魔化すのです。
トリナボールの使用を大会2週間前でやめ、その効果を持続する禁止されていない薬に切り替える方法です。
ヒョップナーが目をつけたのが、体内で生成される男性ホルモン・・・テストステロンです。
テストステロンは、トリナボールより効果は弱いが、大量に投与すれば、筋肉増作用があることを突き止めます。
トリナボールを接種すると、効果は高まるがやめると一気に効果が無くなってしまう・・・
テストステロンを注射することで、その減少をなだらかにして比較的効果の高い状態を維持したのです。
検査で陽性反応を出さないことに成功します。
ヒョップナーたちが開発したドーピングを隠蔽する技術・・・マスキング。
まさに、ドーピングの技術革命でした。
当時の東ドイツは、ドーピングの技術において世界最先端でした。

1976年、モントリオールオリンピック
東ドイツの金メダル獲得数は、前回の20個から倍の40個へ。
その数は遂にアメリカを上回り、ソ連に次いで2位となりました。
中でも女子競泳では、13種目中11個もの金メダルを獲得。
しかし、この大会で、女子競泳選手たちの低い声がメディアに取り上げられ、ドーピングによる副作用ではないかと疑われました。
実は、ヒョップナーは副作用について早くから認識していました。

”筋肉増強剤の使用は、多くの女性、とりわけ水泳選手の健康被害を起こしている
 例えば、男性化による体毛の増加、変声、性欲障害である”

ヒョップナーは、こうした副作用を知っていながら10代の幼い選手たちにもビタミン剤と称し、筋肉増強剤を与えていました。
選手たちは何をも知らされていませんでした。

国際大会ではいつも話題になっていました。
女性が男性のような外見になり、男性のような低い声で話していたからです。
なにより、能力が通常では達成できないほど飛躍的に向上したからです。
ドーピング疑惑が広がることを恐れたヒョップナーは、IOCの認可を得たドーピングコントロール研究所を設立。
国内外にクリーンな競技体制をアピールしました。
しかし、その本当の狙いは、最新の検査技術の情報を入手し、それに対抗するドーピング、マスキングの技術を開発することにありました。
まず取り組んだのは、全く新しい筋肉増強剤の開発でした。

1980年に作られた新薬STS646・・・筋肉が増えても体重はあまり変わらずスリムな体型を維持することができる・・・新薬の為、禁止されておらず、大会期間中も使い続けることができました。
ドーピングのためだけに開発されたこれまでにない全く新しい薬でした。
世界的にも、前例のないことでした。

1980年、モスクワオリンピック
西側諸国が参加しなかったこともあって、東ドイツは凄まじい活躍を見せました。
金メダルは過去最多の47個。
メダル獲得総数は、126に上りました。
しかし・・・1983年、IOCは、新しいドーピング検査法を導入します。
筋肉を作る男性ホルモン・テストステロンは、体内で作用すると、副産物としてエピテストステロンという物質を生成します。
ドーピングをしていない状態の尿では、テストステロンとエピテストステロンの比率は1対1から多くても6対1の間に収まる・・・この比率が、6対1を超えると、ドーピングと見なすというものです。
STS646も、テストステロンを含んでいます。
摂取すれば、確実に6対1を超えてしまう・・・
ヒョップナーにとっては、絶体絶命の大ピンチでした。
つまり、禁止されていない薬すら、投与できなくなってしまう・・・。



1983年12月、ヒョップナーは新たなマスキング方法を開発します。
問題は、テストステロンとエピテストステロンの比率です。
ドーピングでテストステロンが増えることから人工的にエピテストステロンを作って投与すれば、6対1の比率のうちに収められる・・・
からくりは、ただの水増しでした。
しかし、ドーピング効果のないエピテストステロンをわざわざ人工的に作るなんて、誰も思いつきませんでした。
成果の影でドーピングに反対する者もいました。
ヒョップナーは、彼等を密告し、追放しました。

元クロスカントリーのトレーナーは、薬物の投与をやめるよう訴えましたが・・・

「私は秘密警察から尋問され、監視されました
 そして、トレーナーとしての職を失いました
 私は解雇されました
 無期限で、解任されたのです
 私は多くのトレーナーはこんなふうに考えていたと思っています
 ”いたるところでドーピングが行われている
  だから考える必要はない
  皆がやっているのだから”と」

ヒョップナーは、政府への報告書にはっきりと書き記しています。

”補助薬の使用を拒んだ場合、どうやって政府から指示されたように勝つことができるのか?
 トレーニングだけでは足りないのです”

ヒョップナーは、東ドイツのドーピングの頭脳として、東ドイツのメダル獲得のために魂を売ったのです。
選手に何が起きるかなんて、彼にとってはどうでもいいことだったのでしょう。
いまだに選手は、旧東ドイツの選手が作った記録を破ることができていません。
記録は今でも生きているのです。
メダルも剥奪されません。

ドーピング検査は、特定の大会の特定の試合でその選手にドーピングがあったかどうかを血液や尿などの検体を調べることで行います。
当時の検査をすり抜けた検体が、その後破棄されてしまったために、今となってはドーピングが行われていたのかさえ、証拠を上げられないからです。
科学の力でもたらされた東ドイツの栄光・・・しかし、偽りの輝きがはがされた時、記録は意味を失い、メダルは汚されました。
選手たちに待っていたのは、残酷な行為でした。



最3章ドーピング 残酷な結末
1989年ベルリンの壁崩壊・・・
東西ドイツが統一に向かう中、国家ぐるみのドーピングの発覚を恐れた旧東ドイツ政府は、関係書類の処分に急ぎます。
しかし・・・わずかに秘密文書が残っていました。
それを見つけ出し、この国家計画を告発したのがフランケ教授でした。

「日本でもドーピングは、ちょっとした詐欺のように思われているだろうが、事態はもっと深刻だ
 東ドイツのドーピングは、副作用を知りながら、メダルのために人体を利用した
 特に女性の90%に健康被害が出ている」byフランケ

その象徴的な例が、元陸上選手のアンドレアス・クリーガーです。
かつて女性でした。
1986年に女子砲丸投げのヨーロッパ選手権で優勝。
しかし、筋肉増強剤で男性化が進み、性転換を余儀なくされました。
男性ホルモンの過剰投与は、男の選手にも様々な影響を及ぼしました。
その副作用は、今も多くの選手を苦しめています。

ドーピングの被害者を救済するために活動する女性がいます。
ドーピング犠牲者支援協会代表イネス・ガイペルです。
薬の副作用に苦しむ元選手の相談により、支援をするとともに被害の実態を調査しています。

「国家が薬剤リストにないような薬を使って、大規模な実験を行ったのです
 これは犯罪的な人体実験です」byガイペル

支援協会によると、健康被害に苦しむ元選手の数は、確認されているだけでも700人。
そのうち、30人が死亡しています。

ガイペル自身も犠牲者の一人です。
陸上選手でした。
1984年、24歳の時に女子400mリレーで世界記録を樹立。
一躍国民的スターとなりました。
しかし、フランケ教授の告発によって、はじめて自らの記録が薬によってつくられたものだと知りました。

「人生のすべてがチリとなって消えてしまいました
 全てが嘘なら、私は誰なのか
 記録は、勝利は、あの喜びは何だったのかと・・・
 これまでの人生が粉々になり、壊れてしまった」byガイペル

その瞬間は、地面が崩れ落ちるような感じでした。
幼いころから走るのが好きだった・・・
そんな少女が17歳の時、陸上の名門クラブチームにスカウトされます。
強化選手として育成され、最初から錠剤をのまされたといいます。

「薬はたくさんありました
 驚くべき変化でした
 わずか半年のうちに、私は走り幅跳びで東ドイツのジュニアチャンピオンになったんです
 一生懸命練習に励みました
 すべてが新鮮で、やる気がみなぎっていたの
 トラックがある、医学プログラムもある、足のセラピーもある・・・なんでもありました
 わあ、すごい!!
 これなら成長できると思っていました」byガイペル

それから7年間、薬を飲み続けました。
そしてついに24歳・・・世界新記録を打ち立てます。
この輝かしい栄光は、全て偽りでした。

「私は知らないうちにドーピングをされていました
 ドーピングなしで走り、世界記録を出すチャンスすら奪われたのです
 薬を使わない選択肢が、私の競技人生にはありませんでした
 私のすべてをかけた青春時代は、自分の意思ではなく、国家によって操作されていたのです
 その怒りや悲しみは、消えることはありません
 もう、取り戻すことはできないのですから」byガイペル

彼女に残されたのは、薬の副作用による心臓や肝臓の疾患、そして重い精神障害でした。

「私は薬を使い続けたことで中毒状態になったのです
 それはひどいものでした
 非常に典型的な男性ホルモンの影響です
 重いそううつ症状になり、苦しかったです
 身も心もボロボロになりました」byガイペル

ドーピングを知らされていなかったため、自らが被害者であることを最近になって知った元選手も多い・・・
長年原因不明の体調不良に苦しむ選手も・・・
彼女の体はドーピングの影響でホルモンの生産、分泌が出来なくなってしまっていました。
今は、薬でそれを補っています。
13歳でベルリンのスポーツ学校に入った彼女は、バレーボールの強化選手となりました。
17歳でジュニアチームの代表に選抜され、数々の大会で活躍しました。

「私たちはドーピングをしていたことは知りませんでした
 薬物は、ドリンク剤やビタミン剤、クッキーの中にも入っていたのです
 そういう物を、毎日とっていました」

22歳で引退するまで9年間、知らずに薬物をとり続けていました。
そして彼女は、これからもうずっと薬を手離すことができない・・・



こういったドーピング被害者たちの告発で、ヒョップナーをはじめ、国家計画14.25の首謀者の刑事責任を問う裁判が、2000年にベルリン地方裁判所で開かれました。

ヒョップナーは、故意に142人の女性の健康を害する行為を幇助した罪に問われました。
起訴事実を認めたうえで、ヒョップナーは、こう主張しました。

「医療の素人が実権を握っていたら、選手たちはもっとひどい健康被害に苦しんでいただろう
 だから私は、ドーピングシステムが選手のプラスになったと確信している」byヒョップナー

ヒョップナーに下された判決は、禁固刑1年6カ月、執行猶予2年。

刑務所に入ることはありませんでした。
ガイペルはこの時、ヒョップナーのとった行動に驚きます。

「判決が読み上げられた時のことを覚えています
 ヒョップナーが私のところに来て、
 ”あなたはまだ若い 新しく出直しなさい”と言ったのです
 その言葉を聞いて、信じられない気分でした
 彼には、私たちの苦しみが・・・なにも伝わっていなかったのです」byガイペル

裁判から3か月後、史上最大のドーピング事件は全貌を明らかにされないまま時効を迎えました。

第4章繰り返されるドーピング
東ドイツ崩壊後も、世界中でドーピングが後を絶ちません。
常にいたちごっこです。
1994年広島アジア競技大会
当時、競泳種目で驚異的な成績を上げていた中国チームが、新たなマスキング技術を使っていました。
新しい方法は、常に考えられています。
しかし、こうした裏には、科学的知識を持った医者が必ずいる・・・
選手が、図書館へ行って専門書を読んで、こんな薬が使えるな・・・と、考えるわけではないのです。
医者達が、「これは検査機関ではまだ知られていない薬だぞ」「使ってみよう」と、選手に勧めるのです。

2003年アメリカ・・・
新薬の開発も止まりません。
禁止薬物に登録のない新種の筋肉増強剤が発覚しました。
有名選手を巻き込むスキャンダルとなりました。
サンフランシスコの栄養補助食品会社が独自に開発したデナイザーズステロイドと呼ばれるドーピング専用の筋肉増強剤・・・
人気メジャーリーガーや、陸上界のスターなど20人以上のトップアスリートに提供していたのです。

2018年、平昌オリンピック
組織的なドーピングを行ってきたと指摘されたロシアは、国としての参加を認められませんでした。
選手は個人での出場となったのです。

国家の思惑、国民の期待、選手自身の功名心・・・
ドーピング技術は、ますます巧妙になるばかりです。
古代ローマの剣闘士・グラディエーターは、興奮剤によって闘争心を高め、観客はその激しい戦いに酔いしれ、更なる刺激を求めたといいます。
科学が誘惑しているのは、果たして科学者と選手だけなのでしょうか?

2017年、世界アンチドーピング機構がある発表をしました。

「遺伝子ドーピングは全面的に認めない」

遺伝子ドーピングとは、ゲノム編集技術を使って筋力を増強する遺伝子や持久力を高める遺伝子を選手の体内に組み込む技術です。
人類は、遺伝子っ組み換えアスリートを生み出す一歩手前まで来ています。

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