日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

第2次世界大戦中のプラハで、多くのユダヤ人の子供をホロコーストから救ったイギリス人男性がいました。
1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハを占領!!
ロンドンの金融街で働いていたニコラス・ウィントンは、プラハに向かいます。
ウィントンは、ホテルの一室でパスポートとイギリス行きのビザを偽造。
ウィントンは数カ月の間に、8本の記者で数百人の子供たちをプラハから脱出させました。
それは親を失うことになる旅でした。
669人の子供を救ったニコラス・ウィントン。
しかし彼は、そのことを決して口にはしませんでした。
彼の行動が知られることになったのは、50年近くたってからです。
妻が偶然古い資料を見つけたのです。

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1988年、テレビ番組に招かれたウィントンは、突然、周りにいるのが自分が救った子供たちだと知らされます。
イギリスのシンドラーともいわれるウィントン。
彼は、あるモットーに従って行動していました。

「不可能でない限り 必ず道はある 私はそう信じています」

1988年2月、BBCがウィントンの日誌を紹介し、センセーションを巻き起こします。
そこには彼が1939年に、ユダヤ人の子供669人をプラハから救出したことが記されていました。

事の発端は、1987年の冬・・・
ウィントンの妻がロンドン郊外にある自宅の屋根裏部屋を片付けていた時のこと。
ウィントン夫人は、革張りの古いアルバムを見つけました。
ページをめくるうちに、夫ニコラスのものだと気づきます。
書類や報告書、写真の数々・・・それは、夫が第2次大戦直前、子供たちの救出活動に動いたことを示していました。
ウィントンは、妻にさえその話をしていませんでした。

「戦争を経験した人は、当時のことを語ったりしないものです
 他の人に比べて、私が特に謙虚だったわけではありません」byウィントン

ニコラス・ウィントンの両親は、イギリスに移住したドイツ系ユダヤ人で、元々の苗字はベルトハイムでした。
夫妻は子供たちに、イギリス式の教育を受けさせました。
ウィントンは幼いころに、英国国教会で洗礼を受けます。
運動も得意で、フェンシングでオリンピックのイギリス代表を目指していました。
ナチズムが台頭する中、一家は苗字をイギリス風に変えることを決めます。
そして、たまたま電話帳で見つけて気に入ったウィントンを名乗るようになりました。
ロンドンの金融街で働き始めたウィントンは、証券ディーラーとして成功をおさめます。
ドイツ語が堪能で、仕事でヨーロッパ中を飛び回っていた彼は、ヒトラーの台頭がヨーロッパに戦争をもたらしかねないと、危惧していました。

「私はイギリス国内やヨーロッパの政治情勢をよく理解していました
 イギリスの政策が正しいとは思えませんでした」byウィントン
 

「英国のシンドラー 669人の子どもを救った男」



1938年9月、ドイツ・イタリア・イギリス・フランスの首脳によるミュンヘン会談で、チェコスロバキアのズデーデン地方がドイツに割譲されることが決まります。
イギリスとフランスが宥和政策をとったため、ヒトラーは戦わずして勝利を得ます。
大ドイツ帝国の建設を目指していたヒトラーが、ドイツ系住民が多いズデーデン地方の併合に成功したのです。
首都プラハのユダヤ人は不安を募らせます。

1938年11月、ドイツ全土で水晶の夜と言われるユダヤ人への襲撃が起きます。
シナゴーグに火が放たれ、商店は略奪され、多くの人が命を奪われました。
クリスマスが近づくロンドンでは、誰もが平和を願っていました。
ヒトラーは、ミュンヘン会談で平和を約束していました。
当時29歳だったウィントンは、クリスマス休暇をスイスで過ごすことにしていました。
しかし、荷造りの最中にかかっていた1本の電話が、スキー旅行の計画はおろか、彼の人生までも帰ることとなります。

1938年のクリスマス直前・・・
親友のマーティン・ブレイクとスキー旅行に行く準備をしていました。
その時、マーティンから電話がありました。

「スキーには行かない・・・今、僕はプラハにいるんだ
 君にも来てほしい」

と言われました。

親友の電話で、緊急事態に違いないと思ったウィントンは、すぐにロンドンのリバプールストリート駅からチェコスロバキアへと向かいました。
その時点でわかっていたのは、マーティンが難民支援活動をしていて助けを必要としているということだけでした。
それでも、ウィントンは、親友が待っているプラハのホテルへと向かいました。
到着すると、マーティンは真っ先にドーリーン・ウォーリナーという女性に引き合わせました。
イギリス難民委員会という組織のプラハ支部の責任者でした。
彼女の薦めで数日後、ウィントンはユダヤ人の難民キャンプを訪れました。

「あの冬、難民キャンプで何が起きていたのか、私はこの目で見ました」byウィントン

ナチスによる迫害を恐れ、ドイツやオーストリアから逃れてきたユダヤ人・・・
そして、ズデーデン地方から追放されたユダヤ人が、プラハ郊外の難民キャンプに押し込められていました。
空腹を抱え、寒さに震える子供たちの姿に衝撃を受けたウィントンは、直ちに行動を起こします。
一刻の猶予もないと思ったウィントンは、文章を偽造し始めました。
難民委員会のレターヘッドがついた便せんに、手作りのスタンプを押して、児童保護課という架空の部署を作り出したのです。
そして、イギリス内務省あてに数通の電報を送って、当局から活動へのお墨付きを得ました。
時間との戦いでした。
ドイツ軍は、まだプラハに入っていませんでしたが、秘密国家警察ゲシュタポがユダヤ人を捕らえ始めていました。

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ウィントンの部屋は、難民委員会の本部と化し、朝6時にはもうホテルの廊下に人があふれていました。
ユダヤ人の子供を救ってくれるというイギリス人に会おうと、親たちがホテルに詰めかけたのです。
ウィントンは、朝早くから日が暮れるまで親たちと面会しました。
金融業界で培った手際の良さで、危険な状況にある子供たちの記録を次々とまとめていきます。
その数は、2週間で400人ののぼりました。
作業量は膨大で時間が足りませんでしたが、ウィントンのクリスマス休暇は終わりに近づいていました。
そこで彼は上司に休暇の延長を申し出ます。
しかし、返信は・・・”会社のために働いてもらいたい”でした。
止む無く帰国することになったウィントンは、なんとか資金を工面し、プラハに事務所を設置しました。
ウィントンは、1939年1月21日に仕事に復帰します。
しかし、頭の中はユダヤ人の子供をプラハからイギリスに連れてくるため、イギリス政府の許可を取ることでいっぱいでした。
証券取引所が午後3時半に閉まると、家に帰るとすぐに本当の仕事に取り掛かりました。
ウィントンは、ロンドンの実家に事務所を開設し、母親と二人のボランティアに手伝ってもらって活動を続けました。
2月初め、ようやく内務省から子供たちの受け入れに許可が出ます。
しかし、それには条件がありました。
すべての子供に里親を見つけること、そして、ひとり50ポンドの保証金を支払うことでした。
受け入れ家庭を見つけるため、ウィントンは1ページに6人の子供の写真を載せたカタログを用意し、新聞や慈善団体に送りました。
彼のもとには、大量の郵便物が届くようになり、地元の郵便局が不審に思い始めます。

「どうしてチェコスロバキアから大量の手紙が届くのか??」

工作員ではないのか??と。

ウィントンにとって手段は重要ではなく、結果が全てでした。
この方法は功を奏し、イギリス中の人が彼の呼びかけに応じました。
里親が決まった子供には印がつけられます。
選ばれなかった子供たちは、消えゆく運命にありました。
チェコスロバキアでは、1万5000人ものユダヤ人の子供が収容所に送られ命を失いました。

ユダヤ人の中には、ウィントンの活動に異議を唱える人もいました。
ユダヤ上司同社のグループが訪ねてきて、

「ユダヤ人の子供をイギリスに連れてきて、キリスト教徒の家庭で養育させようとしているそうだがやめるべきだ」と。

「第一に、あなた方には関係ないことです
 第二に、あなた方はユダヤ人の子がキリスト教徒の家庭で生き延びるよりも死んだ方がいいとおっしゃるのか!!」

ヒトラーにとって、答えは単純明快でした。
よいユダヤ人とは死んだユダヤ人でした。

ミュンヘン協定の代わりに約束された平和は、わずか半年で崩れ去りました。
1939年3月15日、ドイツ軍は、何の抵抗も受けることなくプラハを占領します。
ヒトラーは、プラハ城でドイツ軍部隊を前に、チェコスロバキアのボヘミア地方とモラビア地方を保護領にしたと宣言しました。
チェコスロバキアは解体され、この国のユダヤ人30万人の自由が奪われました。
難民委員会は、里親が見つかった子供たちの渡航書類の準備に追われていました。
ウィントンは、ゲシュタポに金を支払い、プラハを発つ汽車を手配しました。

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イギリス当局は、戦争が迫っているとは考えていなかったため、ビザの発給を急ごうとはしませんでした。
不可能でない限り道は必ずあると考えるウィントンは、密かに印刷機を購入しビザの偽造をはじめます。
手遅れになる前に、子供たちを救いださなければなりません。
1939年7月31日の日の夜、悲しげな一団がカレル橋を渡ってプラハの駅へと向かっていました。
この日は、ウィントンが手配した8本目の記者が出発する日でした。
プラハ中央駅では、68人の子供が親と別れ旅立とうとしていました。
その後ろにはドイツ兵が立っていました。

ドイツにとっては悪くない話でした。
ウィントンが、ユダヤ人の子供を厄介払いしてくれる上、汽車1本につき1000ポンドを払ってくれるのです。
一人につき3枚の荷札が配られました。
2枚は荷物用、1枚は子供につけるためです。
荷物は衣類のみ、貴重品の持ち出しは禁じられました。

子供たちの多くは、しばらく旅行に出かけるだけだと思っていました。
ナチスから守るために、見ず知らずの人に託すのだと言えない親もいました。
ドイツが出国を許したのは、生後数カ月から17歳までの子供でした。
汽車はドイツを横断しなければなりませんでした。
しかし、旅の終わりには自由が待っていました。
自由になったと実感したのは、汽車がドイツからオランダに入った瞬間でした。
それまで固く閉じられていた窓も開けられました。
子供たちに笑顔が戻りました。
オランダの民族遺書いうに身を包んだ女性たちが、ココアやサンドイッチで出迎えてくれました。
そのあと、大きな船に乗せられて、イギリス海峡を渡ったのです。
朝、イギリス南東部はリッジの港に到着。
祖国を追われた子供たちにとって、新たな人生の始まりでした。

子供たちは船を降りると汽車に乗ってロンドンに向かいました。
リバプールストリート駅には、イギリス各地から里親たちが迎えに来ていました。
ウィントンは、子供たちを乗せた汽車がロンドンにつくたび、自ら駅で出迎えました。
里親が子供たちに会うのは初めてでした。
目当ての相手を探し当てるまでには混乱がありました。
子供たちは、新しい親につれられ、イギリス各地に旅立っていきました。
駅には、引き取り手が見つからなかった年長の子供たちが残されました。
ウィントンは、里親を見つけるという条件を無視して、彼等を連れてきていました。
見捨てることができなかったのです。
後にウェールズに送られた子供もいました。
チェコスロバキアの亡命政府が、引き取り手のいない子どものための施設を用意したのです。
1939年3月以降、8本の汽車がプラハを出発、669人の子供たちが、イギリスで安全な居場所を手に入れました。
しかし、救出を待つ子供は、まだ5000人残っていました。

ウィントンたちは、これまでで最大規模の計画の準備を進めていました。
250人の子供が親元を離れてプラハを出発し、里親が待つイギリスに渡ることになっていたのです。
しかし、この9本目の汽車が出発することはありませんでした。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。
ヨーロッパは戦争に突入しました。
国境は閉鎖され、子供たちは行き場を失います。

「それまでで最大の250人の子供が、9月1日に出発する予定でした
 しかし、それはかないませんでした
 悔やんでも悔やみきれません
 250人の子供をイギリスに送るために、膨大な労力と費用をかけて準備しました
 でも、たった1日の差で、250人を安全な場所に移すことができなかったのです
 ひとりかふたり、生き延びたという話を耳にしましたが、ほとんどの子が命を失いました」byウィントン

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1939年9月3日、イギリスが参戦すると、ウィントンは、赤十字の難民支援活動に参加します。
しかし、ナチスの残虐行為に衝撃を受け、イギリス空軍に参加。
プラハから助け出された年長の子供の中にも、イギリスとチェコスロバキアのために戦うことを望み、軍に志願する者もいました。
15歳でイギリスにやってきた少年は、18歳になるとイギリス空軍のチェコスロバキア部隊への入隊を認められます。
機関銃の射手として爆撃機に乗って戦った少年をはじめ、プラハから逃れてきた子供の多くが連合軍の勝利に貢献しました。

1945年5月、ドイツの無条件降伏を受け、バッキンガム宮殿では後に女王となるエリザベス王女が、群衆と共に勝利を祝いました。
この日はまた、犠牲者を悼む日となります。

兄弟のもとにその手紙が届いたのは、書かれてから4年後のことでした。
両親は手紙を書いた数日後にプラハの北にあるテレジンのユダヤ人強制収容所に送られていました。

”愛する息子たちへ
 あなたたちがこの手紙を読むときには戦争は終わっているでしょう
 私たちにとって何より大切なあなたたちにお別れを言いたくてペンを執りました
 母さんたちは未知の世界に向かいます
 二人が同じ運命をたどらずに済んだことに心から感謝しています
 あなたたちを里子に出すと決めた時から、父さんと母さんの心は常に二人と共にあります
 あなた達に良くしてくださった人々に感謝します”

テレジン収容所に送られ、飢えやナチスの残虐行為で命を落としたユダヤ人は3万3000人。
また、9万人がここから汽車でアウシュビッツに送られました。
我が子の命を救った親たちは、今、テレジンの墓地で眠っています。

戦後、ウィントンは、証券取引の仕事には戻らず、国際難民帰還でナチスに奪われたユダヤ人の財産を取り戻す仕事に尽力します。
パリで出会ったデンマーク人のグレタと結婚。
ロンドン近郊に居を構え、3人の子供に恵まれました。
1971年には仕事を引退します。
そしてある日、彼の話が有名なジャーナリスト、エスター・ランツェンの耳に入ったのです。

屋根裏部屋をかたずけていたウィントン夫婦・・・
夫人がブリーフケースを見つけました。
開けてみると・・・中にはスクラップブックが入っていました。
夫人が聞くと・・・ウィントンは、戦前の出来事の記録だと答えました。
スクラップブックに収められた書類や写真を見た夫人は、

「命を救われた子供たちにとっては、とても価値のある貴重な資料よ!!」

と言いました。
ウィントン夫人は、スクラップブックを歴史家の友人に見せます。
彼女の夫は、新聞王ロバート・マックスウェルで、彼自身ホロコーストを生き抜いたチェコスロバキアのユダヤ人でした。
ニコラス・ウィントンの話は新聞に掲載され、テレビ番組も企画されました。

1988年2月、ウィントンは、BBCの番組(司会エスター・ランツェン)に招かれます。
しかし、番組の内容についてはほとんど知らされていませんでした。

「父は二人の女性の間に座っていました
 父は彼女たちが誰であるのかを知りませんでした
 しかし、2人は父のことを知っていました
 司会者は、父のスクラップブックの資料を説明し始めました」byバーバラ・ウィントン
 
「客席のヴェラ・ギッシングさん、あなたの隣にいるのがニコラス・ウィントンさんです」byエスター・ランツェン

全く予期せぬ出来事でした。
ウィントンは、50年前に救った子供と初めて再会したのです。

「当時9歳のミレナ・フライシュマンさんは、父親がナチスの標的となり妹と脱出
 リストに彼女の名前があります
 今はグレンフェル・ベイン夫人です
 イギリスに来た日の名札を今もお持ちだとか??」byエスター・ランツェン

「これを首から下げていました
 入国の許可証もあります
 私もあなたに救われた子です」

反響が大きかったため、司会者のエスター・ランツェンは、他の子供たちも探すことを決めます。

「もし、ウィントン氏に救われた方がいたら、是非手紙か電話でご連絡ください」byエスター・ランツェン

電話も手紙もたくさん来たので、再度番組にウィントンを招きます。

「ウィントン氏に感謝を伝える機会を提供したいと呼びかけました
 彼に命を救われたという方が、この場にいたらご起立ください」byエスター・ランツェン

その場所にいたすべての人が立ちました。
この再会で、ニコラス・ウィントンの子供は一気に数百人に増えました。
かつての子供たちは、遂に命を救ってくれた父親と会えたのです。

「子供たちとの再会には、本当に素晴らしい出来事でした
 彼等だけでなく、その子供や孫たちとも親しくさせてもらっています
 まるで第二の人生をプレゼントされたようです」byウィントン

2009年、ウィントンに救われた子供たちは命の恩人の100歳の誕生日を祝って列車をチャーターしました。
プラハからロンドンまで・・・かつて命と自由を求めて通った道のりを再びたどります。

”今の私があるのはひとえに彼のおかげです”

この日、リバプールストリート駅には、最後の汽車とともに消えた250人の魂も来ていたかもしれません。
彼等もまた、ウィントンの子供たちとして、恩人に敬意と感謝を表していたことでしょう。

「私たちは、ニコラス・ウィントンを父親のように思っています
 娘は子供をニコラスと名づけました
 私には、ニコラスという孫と、ウィントンという名のひ孫がいます」

669人の子供たち・・・その孫やひ孫の数は6000人余りに上ります。
ナイトの称号を与えられたニコラス・ウィントンは、106歳で点に召されました。

「不可能でない限り、必ず道はある
 私はそう信じています」byニコラス・ウィントン


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1944年夏・・・大事件が起きます。
ワクチンを接種された400人近いインドネシアの労働者が命を落としたのです。
労働者の大量死・・・日本軍はインドネシアの研究者が毒を入れたとして逮捕、処刑!!
謀略事件として処理しました。
しかし戦後、冤罪ではないかと疑問の声が上がりました。
近年、研究者たちがこの事件の真相に迫ろうとしています。
日本軍が作った破傷風ワクチンの有効性を試すために、毒素のあるワクチンを労務者に接種してしまった・・・その結果、意図的ではなかったが、彼等は命を落とした??
戦場の感染症に向き合っていた日本軍・・・
ワクチン開発の舞台裏で何が起きていたのでしょうか??



太平洋戦争中、日本は石油資源の豊富なインドネシアを占領します。
オランダ軍を破り、3年にわたって軍政を敷きました。
1944年8月、ジャカルタの病院に、急患が次々と運び込まれました。
手当の甲斐なく、命を落としていきました。
治療に当たった日本人医師は、回想しています。

”口を固く食いしばり、背筋を弓のように張り、前震のけいれんを起こし、呼吸もできぬ悲惨な有様
 恐るべき破傷風であった”

破傷風は、土の中にいる破傷風菌が傷口から入り感染。
脳やせき髄の神経に作用して、筋肉のけいれんが起こり、死に至ることもあります。
患者は当時、ロームシャ・労務者と呼ばれたインドネシア人で、泰緬鉄道の建設のため村々から動員されていました。
ジャカルタ東部のクレンデル・・・労務者たちは、港に近い収容所に集められました。
ジャングルの工事現場に送られる前に、予防接種を受けていました。
コレラ・チフス・赤痢の三種混合ワクチン、接種された直後、破傷風の症状が現れました。
一体何が起きたのでしょうか?
当時、東京の大本営に現地の軍医部長から報告が送られていました。
4回にわたる極秘の報告です。
474人が罹患し、364人が命を落としています。
事件を捜査した憲兵隊は、予防接種に当たったインドネシアの看護人3人とスレイマン医師を逮捕しました。

その後、スレイマン医師の自供により、捜査の矛先は思わぬ方向に向かいます。
当時、ジャカルタで感染症の研究に当たっていたエイクマン研究所。
アフマッド・モホタル所長をはじめ、13人の現地の研究員が連行されました。
憲兵隊の激しい取り調べの末、モホタルが自供したというのです。

”細菌謀略を行い、日本軍の誤れる労務者対策を是正せん”

モホタルが日本軍の労務者動員に反対して、破傷風菌を混入したとされました。
1945年1月、軍律会議はモホタルに死刑、スレイマンに禁固7年の判決を下しました。
事件は細菌謀略として処理されたのです。
しかし・・・捜査の過程に疑問が残ります。
最初は事実関係を述べていて、相違はないと思われます。
しかし、誰が犯人かというあたりで作為が感じられます。
モホタルは、最後まで悪者でした。
モホタルは、オランダへの留学経験があり、当時インドネシアではもっとも著名な感染症の研究者でした。
モホタルが、大量殺人を・・・??

当時、エイクマン研究所は、そもそもワクチンを製造していませんでした。
問題のワクチンはどこで作られたのか??
パスツール研究所は、元々はオランダの植民地時代に設立され、バンドンで感染症の研究を進めていました。
1942年、それを日本軍が接収し、南方軍防疫給水部の支部となりました。
問題のワクチンは、モホタルが所長を務めていたエイクマン研究所ではなく、南方軍防疫給水支部で製造されていました。
しかし、憲兵隊は、エイクマン研究所に疑惑の目を向けました。
拷問が続く中、とらわれていたアリフ医師が命を落としました。
日本の記録では、心臓麻痺とされています。

”アリフ医師の遺体は大きく膨れ、臭気を放っていました
 許しがたい光景でした”



アリフ医師の死の直後、モホタルは自供を始めます。
そこには、どのような背景があったのでしょうか?

”逮捕の理由は、クレンデル収容所の労務者の死に関わることだとわかりました
 伯父が事件の首謀者だと責められている
 威厳があり、評価されていた伯父が、なぜインドネシアの労務者を殺すのでしょうか
 全く筋が通りません?
 モホタルは父に言いました
 「憲兵隊の狙いは私なんだよ
  心配するな、お前たちはもうすぐ釈放される」
 そしてそれは現実になりました。
 父は12月に、1月には全員が解放されました。
 伯父以外全員です。
 自分が自白すれば、全員が釈放されると・・・
 想像できますか?どんな人だったかを?
 私たちがどれほど怒り、憎んだかわかるでしょう”

結局、モホタルひとりだけが死刑となりました。
モホタルを断罪した日本軍には、政治的な意図があったのではないか??
大本営への報告では、モホタルは独立運動に関係しており、細菌謀略を以て原住民の半日反軍思想を醸成しようとしたとされていました。
独立運動の指導者モハメド・ハッタと同じ故郷でした。
スマトラのミナンカバウ族・・・民族運動のリーダーをたくさん輩出していました。
反日謀略のスケープゴートにするには一番都合が良かった。。。
最大の大物・・・反日的なミナンカバウ族の医者だったのです。

モホタルは、冤罪ではないのか??
戦後、遺族は疑問を投げかけてきました。
近年になって、現地に渡ったアメリカの感染症研究者・ケビンが、新たな光を当てようとしています。
2015年、インドネシアの研究者と共に、著書を出版します。

”日本軍占領下インドネシアにおける戦争犯罪”

この本では、モホタルが冤罪の可能性が高いとしています。

日本軍医たちが、意図的に労務者たちを殺したとは思えませんが、即席で作った破傷風ワクチンの有効性を証明しようとしたと考えられます。
日本軍兵士に接種する前に、試そうとしたのです。
そのワクチンが、労務者を殺すことになった・・・
日本軍が破傷風ワクチンの開発のため、労務者で実験をしたのではないか??
当時、日本軍は破傷風ワクチンの開発・製造を急いでいました。
南方の戦場で、破傷風は感染すると死に至る病と日本軍兵士から恐れられていました。
もともと破傷風の治療法は、日本の北里柴三郎博士によって発見されました。
破傷風の毒素を馬に注射して、抗体を得、それを患者に注射する血清療法です。
しかし、血清はすぐに患者に打たないと、効果がなく、大量生産や輸送も難しかったのです。



一方、アメリカ軍などの連合国軍は、太平洋戦争開戦前に破傷風ワクチンの開発に成功していました。
第2次世界大戦中、破傷風の感染はたった12件・・・
陸軍と海軍、そして公衆衛生局が協力して破傷風ワクチンを推奨しました。
ワクチン開発のために軍は民間の研究所と協力しました。
マラリアとの戦い同様に、協力体制を整えたのです。
アメリカは国が主導して、第2次世界大戦中に従軍したすべての兵士に破傷風のワクチンを接種していました。
連合国に追いつこうと、ワクチン開発を急いだ日本・・・
北里柴三郎ゆかりの北里研究所は、日本軍のワクチン開発には不備があったと指摘します。
ワクチンは疾病に対する武器です。
その認識が、陸軍の人たちにありましたが国として重要性を感じていませんでした。
一部の人が認識しているだけで、陸海軍と一緒になって軍全体でやろうという考えはなかったのです。

陸軍と海軍が別個に進めていた破傷風のワクチン開発・・・
海軍が開発を急ぐ中で人体実験を行っていた記録がありました。
日本のBC級戦犯の裁判記録・・・
1945年、インドネシアのスラバヤで、海軍の軍医が死刑囚に破傷風ワクチンを接種し、その効果を確かめようとしました。
その結果、15人が亡くなり、戦後戦争犯罪に問われました。
裁判で実験を担当した軍医将校は、次のように供述しています。

「連合国軍の上陸を前にワクチンの有効性を実証する必要があり、時間がありませんでした
 100%成功する自信を持っていたが、予想に反した結果になったのは実験の過程に原因があったからだと思います」

実験では、破傷風の毒素にホルマリンを加えて不活化。
トキソイドと呼ばれるワクチンを製造します。
このワクチンを、2回にわたって接種。
その後、毒素を注射し、免疫ができているかどうかを確かめます。
軍医と共に裁かれた法務官・・・海軍における法の番人として、当初実験には反対だったと供述していました。

「私は、囚人が処刑されるまで、決まった手順で収監されるべきであり、弁護士の立場から賛同することはできないといいました」

しかし、海軍の准尉から強く説得されたといいます。

「ワクチンの実験が必要との結論に至ったので、実現するために協力してほしい
 心配だろうが、専門家からの意見によれば動物実験でも成功しているので不幸な結果にはならないであろう」

結局、実験では19人中15人が死亡しました。
軍医は最後に接種した毒素の量が多すぎたことが原因だと認めました。
軍医は禁固4年、法務官は3年の判決を受けました。



破傷風の毒素を測定することは非常に難しく、本来はモルモットで試すべき実験です。
彼等は人間を動物として扱いました。
バンドンの日本陸軍も、労務者の存在を実験の機会だととらえたのでしょう。
クレンデルでも日本軍が労務者を使って破傷風ワクチンの効果を確かめようとしたのではないか??
労務者の大量死事件を大本営に伝えた報告書・・・
コレラ、赤痢、腸チフスのワクチンに、破傷風の不活化したワクチンを一緒に入れた・・・
入れた破傷風の毒素が完全に不活化されていなかったことが一番の大きな原因でした。

破傷風の毒素をホルマリンで不活化しワクチンを作った際に問題があったのではないか??
製造のミス・・・混合する前に不活化されているか、チェックする必要がありました。
そもそも日本陸軍は、破傷風ワクチンの開発をどのように進めてきたのでしょうか?

731部隊の破傷風の実験の記録・・・
731部隊でも、ワクチン研究は重要視されていました。
関東軍防疫給水部・・・731部隊。
石井四郎陸軍中将のもと、旧満州で細菌兵器の開発に携わっていました。
ワクチン開発も重要な任務でした。
破傷風ワクチン開発のために、人体実験を行っていたのです。
破傷風の毒素をマルタと呼ばれる中国人に接種し、筋肉の電位変化を測定した実験・・・14人全員が死亡しています。
こうした731部隊の研究は、南方軍防疫給水部に引き継がれたといいます。
731部隊の人脈が、南方軍防疫給水の創始者になっています。
大連にあった支部では、ワクチンの研究が盛んでした。
大連にいた人間が、バンドンの初代所長になっています。
太平洋戦争開戦と共に731部隊の多くのメンバーが、南方軍防疫給水部の設立に関わりました。
彼等はシンガポールやバンドンでワクチン開発を続けていました。
さらに、南方軍防疫給水部でも、細菌兵器の開発も行われていました。

陸軍省の業務日誌に記された南方軍防疫給水部からの報告・・・

”粟は南方において発育良好なり
 繁殖力も大なり
 種餅を1回輸入すれば、あとは現地自活も可能なり”

ノミを粟、ネズミを餅と・・・本来の防疫給水とは違う、国際法に違反することをしているのです。
ペスト菌が体内に入っているノミを敵方の支配地域に投下する作戦を考えていました。
細菌兵器となるペストノミが製造されていたのです。
しかし、使用されることはありませんでした。
細菌兵器を使用すると、連合軍から倍返しされるのではないか?と。

ペストノミの製造と共に、シンガポール本部でもワクチンの開発が進められていました。
当時、ワクチン製造に従事していた現地の男性の証言によると・・・

「私たちは、破傷風のワクチンを作っていた
 豚の胃や肝臓を集めて、培養液を作り、日本人が破傷風菌をいれた
 ネズミやモルモットに注射して、死ぬかどうかを試した」

731部隊から南方軍防疫給水部へと引き継がれたワクチンと細菌兵器の開発・・・
インドネシアの大量死事件を読み解くには、このつながりが重要でした。
開発したものが、日本軍兵士にとって効くかどうか??
南方軍防疫給水部にマルタはいないので、とりあえず労務者に打ってみて効果があれば日本軍兵士にすると・・・労務者を使って試したのではないのか??
日本軍のワクチン接種によって400人近いインドネシア人が命を落としました。
しかし、遺族に事件の詳細が知らされることはありませんでした。

労務者の大量死は、戦後何故問題にならなかったのでしょうか??
戦中、日本軍に協力して労務者動員の先頭に立っていたスカルノ。
戦後、初代大統領となっていました。
スカルノは、日本と賠償協定を結び、インフラの整備を進めていました。
インドネシア社会で、労務者が声をあげることは難しかったのです。



南方軍防疫給水部が本部を置いたシンガポール。
敗戦と共に、旧宗主国のイギリス軍が戻ってきました。
南方軍防疫給水部は、細菌兵器などの証拠書類を隠蔽しました。
イギリス軍は、細菌兵器を製造できる部署がシンガポールやマレーにあったことに気づきませんでした。
その後、各国独立し始めて、誰も追及、研究しようとしませんでした。
段々闇の中に消えてしまって今日までになったのです。
南方軍防疫給水部の隊員が、戦後どのように生きたのか??
現在、確認できただけで30名が細菌や感染症に関わる研究で、医学者として学位を受けていました。
多くが、医療や製薬会社の中枢で活躍しています。
防疫給水部のことは一言も話さず・・・。

戦争中のインドネシアの大量死・・・
その全容は、今も解明されていません。
戦後、BC級戦犯として裁かれたスラバヤでの海軍の破傷風ワクチンの実験・・・
疑問を抱きながらも立ち会った法務官・・・裁判で次のように供述していました。

「彼らが病気になったと聞いたときには大変驚き、すぐに全員を病院に送って治療を受けさせ、私もできる限りのことをしました」

法務官は、禁固3年の刑に服したのち、1950年に帰国。
戦後は弁護士として生きました。

ジャカルタ郊外のアンチョール墓地・・・
日本の占領時代に命を落とした人が葬られています。
終戦の直前・・・1945年7月3日、木の下でモホタルは日本軍の手によって斬首されたという・・・
遺体は密かに葬られたが、近年埋葬場所が明らかとなりました。
6年前から、モホタルの追悼を続けています。

仲間を救うために、自らの豊かな人生を犠牲にしたこと・・・
実験の責任を取らなかったことに対して、無罪の人間に罪を着せ、殺したことに、怒りを抱いています
この事件は、これまで埋もれてほとんど知られていませんでした
私はも夫ひろく知ってほしいと思います
医学の人道的責務が、軍事に踏みにじられた
戦争が軍医たちにそうした道を選ばせたのです
モホタルをめぐる事件は、厳しく強い教訓を残しています    byケビン
 
戦後・・・日本軍の感染症対策、その真相に迫る試みが、今も続いています。

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80年前に始まった太平洋戦争・・・その戦場で多くの負傷兵が感染症に斃れていきました。
餓死や戦病死は戦没者の6割に達したと言われています。
中でも南方のジャングルで兵士たちに畏れられた感染症がありました。
マラリアです。
感染症から兵士を守るため、組織された部隊がありました。
防疫給水部・・・予防と衛生対策に奔走しました。
汚れた水を浄化することも重要な任務でした。
日本軍は、当初マラリアの特効薬キニーネを独占し、連合国に優位に立っていました。
一方、南太平洋に展開したアメリカ軍は、その感染に苦しんでいました。
やがて、日本の敗色が濃くなると、日本軍兵士は赤痢、チフス、マラリア・・・感染症で斃れて行きました。
同じ頃、アメリカ軍はマラリア感染を押さえ込むことに成功していました。
何があったのか??
感染症をめぐる日米の攻防とは・・・??



1941年、太平洋戦争開戦と同時にマレー半島を南下した日本軍・・・イギリス軍の拠点シンガポールを陥落させました。
1942年6月、医科大学を接収し、南方軍防疫給水部の本部が置かれました。
細菌の培養や研究が進められました。
本部の建物は、今、シンガポールの保健省となっています。
シンガポールの港は設備がいいので、ここを中心に東南アジアへ色んな薬品や人を送り込むことが便利でした。
破傷風、天然痘、ペスト菌、マラリア・・・研究が行われました。
南方軍防疫給水部・・・軍医や衛生兵など、最盛期には800人を超える隊員を数えました。
シンガポールを中心に、ビルマ、タイ、フィリピン、ジャワなど、日本軍が占領した東南アジアに支部を広げました。
防疫給水部は、戦場で汚水をろ過し、感染症予防を行うことを主な任務としていました。
濾水機は、医療用石井式濾水機を用いました。
中国の戦場で汚水に苦しんだ日本軍・・・石井四郎と軍医学校が、独自の濾水機を開発したのです。
珪藻土を用いた濾過筒によって、泥水も飲料水となり、99.9%の浄水率を誇ったといいます。
石井の依頼を受けて開発に当たった会社・日本濾水機工業は、今も濾過筒の製造を続けています。

戦時中、防疫給水部によって作詞作曲された歌があります。

山河幾百踏み越えて
はるばる運んだ 濾水機だ
友よ 存分飲んでくれ
病に倒れてなるものか
病原菌をせん滅だ

太平洋戦争が始まると、防疫給水部は東南アジアからニューギニア、ソロモン諸島にまで展開していきます。
なかでも防疫活動に力を入れたのが、ビルマでした。
感染症対策の最前線に立った防疫給水部・・・その隊員名簿が公開されました。
隊は師団ごとに編成されました。
名簿には、隊員ひとりひとりの氏名、職種、階級、留守家族の情報などが記されていました。

日本軍を苦しめたマラリア・・・
ハマダラカが、マラリア原虫を媒介し感染します。
1日おきに発熱が続く三日熱マラリア・・・罹患する兵士が相次ぎました。
マラリアの感染が特に著しかったのがビルマ戦線でした。
ビルマに派遣された第26野戦防疫給水部隊・・・軍医少尉が、戦場での体験を語っています。

「340名の部隊・・・衛星兵器の濾水機甲で、綺麗な水を作り、各部隊に・・・
 一番被害が多い会ったのはマラリア
 その外にアメーバ赤痢、熱帯潰瘍、チフス・・・
 バタバタとそういうような病気にかかって亡くなられ、B封現微生物ミクロに対する戦いでした」

軍医は、ビルマの体験手記に詳細に残しています。
マラリア対策は、住民の血液検査から始まりました。

”患者の血液をスライドガラスの上に一滴とり、薄くのばし、これをアルコールで固定
 染色液で染め、顕微鏡で見れば、赤血球の中にマラリア原虫が発見された” 

感染した患者には、特効薬のキニーネを与え、マラリア原虫を駆除しました。


日本のマラリア対策は、植民地の台湾であみ出されました。
下腹部が大きく膨れる脾腫と呼ばれる感染の目安とされました。
マラリア原虫を駆除する原虫対策が、日本の基本方針となりました。
太平洋戦争が始まると、兵士一人一人にキニーネが配られていました。
キニーネは、キナと呼ばれる木の樹皮から採取されます。
キナはもともと南米に自生していました。
西洋人によって発見され、治療薬として開発されました。
キナの木は、太平洋戦争当時インドネシアのジャワ島で世界の9割が生産されていました。

太平洋戦争は、感染症の大きな転換点となりました。
キニーネの生産は、オランダ領だったインドネシアで行われていました。
そこに、進駐した日本軍がキニーネの世界市場を独占します。
それは、アメリカ、イギリスにとって非常に大きな脅威でした。
キニーネが入手できなくなったアメリカ軍・・・
太平洋戦争開戦と共にマラリアの感染に苦しめられることになります。
1943年1月までのニューギニアで、米軍の唐リア感染率は年間1000人当たり3300以上・・・!!
つまり、兵士たちはマラリアに3回感染しています。
この数字は、マッカーサー将軍の注意をひきました。
将軍が軍医に告げます。

「この戦域の勝利を妨げる最大の脅威はマラリアだ」

太平洋での戦いで、当初、マラリアによる死者が戦闘による死者の5倍に達したアメリカ・・・
対策のため、キニーネに代わる特効薬の開発に乗り出さざるを得なくなります。

タイ・カンチャナブリ・・・太平洋戦争中、タイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設が進められました。
イギリス、オランダの捕虜や、インドネシアの労働者などが動員されましたが、1943年、コレラやチフスなどの感染症が拡大しました。

鉄道第七連隊第一大隊・・・
ジャングルを切り開く工事現場では、経験したことのない熱帯熱マラリアの感染が広がっていました。
ミニムス、マクラータスなど、ハマダラカが媒介する熱帯熱マラリア・・・
早く治療しないと短期間で重症化し、死に至ることがあります。
熱帯熱マラリアが蔓延するタイ、ビルマ国境の工事現場・・・
対策のために派遣されたのが、南方軍鉄道隊防疫給水部でした。
部隊の詳細な報告書を発見・・・
排水溝を整備、水を流し、ボウフラの発生を防ぐ!!
ボウフラが繁殖する沼地の排水、蚊が生息するジャングルの伐採、油の散布や、湿地を無くす排水溝の整備、いずれも、蚊が繁殖する環境を無くそうとするもので、対蚊対策と呼ばれました。
さらに、どの地域にどのような種類の蚊が生息するのかを調査してまとめています。

日本のマラリア対策は、台湾を基盤としていた対原虫対策・・・血液検査をして患者を発見してキニーネを投与してマラリアを治す・・・結局、うまくいかなくなってきました。
現中隊k策ではなく、蚊に対する対策をやっていった転換点でした。



原虫対策から対蚊対策へ・・・
ビルマで防疫活動をつ透けていた軍医たちも、対蚊対策に苦闘していました。
そして、マラリア工作どころではなくなっていくのです。

戦線が、中国、ニューギニア、東南アジアに拡大すると、物資の供給が上手くいかなくなってきました。
成功体験があるがゆえに、縛られて変えることが難しい・・・
現場では、いけないということが蓄積されていますが、ボトムアップされ政策転換を明確に行うまでには至らないのです。

ミッドウェー海戦に破れた日本軍・・・制空権を失い、輸送船は次々と撃沈されました。
食糧や医薬品の補給が滞っていきます。
ガダルカナル・・・たくさんの人々が死んでいきました。
薬もなければ食料もない・・・野戦病院は、屍の収容所となっていました。

兵士たちが特効薬と信じてきたキニーネ・・・しかし、その信頼が揺らぐ事態が戦場で起きていました。
ラバウル・・・キニーネを毎晩一錠ずつ飲んでいたのにかかったのです。
身体が衰弱していました。

マラリア対策に行き詰った日本軍・・・
1943年7月、参謀総長の杉山元は、発言しています。

「戦力が、マラリヤのために1/4に減じてしまった
 増兵をいくらやってもマラリヤ患者を作るようなものなり」

一方、当初マラリヤ対策に苦慮していたアメリカ軍・・・
キニーネに代わる特効薬アテブリンの兵士への供給を始めます。
1943年、アメリカ軍は、アテブリンなどの物資の輸送を最優先することを決定します。
医薬品、食糧の補給で日本軍を圧倒していきます。
補給が滞った日本軍・・・
兵士に原因不明の病が広がっていました。
極度に痩せ、慢性の下痢から死に至る兵士・・・
戦争栄養失調症と呼ばれ・・・日中戦争から大きな問題となっていました。
身体がミイラ状となり、生ける屍のようになる兵士も現れました。

原因究明のため、兵士の解剖を行った日本軍・・・
戦争栄養失調症は、ニューギニアやソロモン諸島で報告され、陸軍軍医学校の軍医が調査研究しました。
しかし、十分に解明することができないまま、敗戦を迎えました。
マラリアや、戦争栄養失調症と並んで、戦場で日本軍に恐れられていた病気・・・それは、デング熱です。
デング熱は、向こうに行ってから初めてであった病気でした。
熱が出る症状でしたが、経験がないので怖かったのです。
デング熱は、デングウィルスを持っている蚊に刺されることで発症します。
発熱や頭痛、筋肉痛などの症状が現れます。
当時、原因は不明で、治療薬はありませんでした。
戦争中、長崎や沖縄でも流行し、病理の解明が急がれました。
当時、日本医学に掲載された論文・・・
陸軍医学校の軍医が、デングウィルスを人体に接種した実験が報告されています。
さらに、デング熱が治った者に、再び病毒を接種させ、免疫力がついているかを見ました。
死に至ることはありませんでしたが、デング熱を発症し、38度以上の高熱に陥りました。

南方進出した軍にとっては、マラリア制圧に次ぐ、重大な病気だとして研究されるようになりました。
しかし、デング熱は人しかかからないので、動物実験ができませんでした。
まだウィルス概念がなく、病原は捕まっていませんでした。


1942年から43年にかけて、盛んに人体実験が行われていました。
実験の対象となったのは、当時、東京の精神科病院・松沢病院に入院していた20人以上の患者たちでした。
戦後、この病院に務めた医師は、人体実験の事実を知り大きな衝撃を受けました。
戦時下、患者たちは食糧不足で多くが栄養失調に陥っていました。
栄養失調の始まっているときに実験をしたという憤りと、よくも秘密にしきったというすごさ・・・
立派な教授たちで、尊敬する人たちでしたが、残念なことでした。

感染症対策の最前線だったビルマ・・・
1944年、インパール作戦は、兵士たちをさらに過酷な状況に追い込みます。
補給を無視した作戦で、多くが飢餓に斃れて行きました。
兵士たちの屍が横たわる退却路は、白骨街道と呼ばれました。
防疫給水部の軍医は、倒れた兵士たちの公葬に奔走していました。

「激しい腐臭があたりに立ちこめ、十数名の死者が横たわっていた
 あるものはすでに顔面をウジに食い荒らされ、うつろの目と口には白骨があらわれ、目を向けられない形相であった
 まだ、虫の息で余命を保っている一名を探し出した
 しかし、あの大きく動く像の背の後送には、耐えられぬと判断した
 せめて、安らかに成仏してもらいたいものと、モルヒネを注射し、この場を離れた」

感染症に斃れる兵士を最後まで看護し続けようとした防疫給水部員。

汚水を濾過して清水をゴム枕に入れ、第一線に運んだ
コレラ、赤痢、チフスなど、様々な病原菌との戦い・・・
克明に描いていたのが、終戦間際の敗走でした。

「総退却となると、味方は散り散りバラバラに
 歩けません、早く、早く殺してください
 栄養失調とマラリアでは、皆が根気はないものばかり
 何の罪もない見方を、殺生する勇気もなく、胆力もなく、心を残しつつ走り去ることのつらさは、胸を突かれる思いであった」



1945年4月、米軍沖縄本島上陸。
この時、新たに開発された殺虫剤を散布しました。
DDT・・・大量生産が可能な、塩素系の殺虫剤です。
DDTを散布することで、アメリカ軍は感染症の抑制に成功します。
さらに、マラリア対策に特化した部隊を編制しました。
太平洋戦争の終結後、DDTは感染症対策や農薬として世界各地で散布されました。
しかし、60年代に入り、環境汚染や発がん性物質があることがわかり、その使用は規制されていきます。
米軍が戦場において感染症を管理することに成功したのは事実です。
60年代、70年代にベトナム戦争でDDTのような薬品を使って戦場を管理してしまいます。
自然を征服し、管理してしまうという発想によってもたらされたダメージも検証されるべき問題です。
ある段階で上手くいったことが、次の段階で必ず上手くいくとは言えないのです。
そこで生活している人たちの生存という視点に立って、検証してみる視点も必要です。

新型コロナウィルス変異株の感染拡大が続く日本・・・
戦争の時代に感染症と向き合った防疫給水部の経験は、何を伝えているのか・・・??
現場では原因もわかって、個々のお医者さんが懸命に対策をやろうと頑張っています。
しかし、全体として上手くいかない・・・
対策の重要性が広く共有されていなかった可能性があります。
日本軍の、あるいは当時の日本社会の感染症に対する意識の低さ、認識の甘さが事態を招いたのです。

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ローマ・カトリック教会に新時代を切り開く教皇フランシスコ・・・
教皇は、長くバチカンに秘蔵されてきた記録の公開に踏み切りました。
史上最も賛否が分かれる教皇の一人・・・ピウス12世に関する文書です。
ナチス・ドイツによる数百万ものユダヤ人虐殺・・・ピウス12世はその間、沈黙を通しました。
その為、彼をヒトラーの教皇と呼ぶ人もいます。
一方で、秘密裏に数千人のユダヤ人を救った聖者だという人も。
ピウス12世はどうしてホロコーストに沈黙を続けたのでしょうか??
真実を解明する時が来ています。



ローマ・バチカン市国・・・220年3月20日、この日、ピウス12世に関する文書が初めて公開されました。
在位した1939年から58年までの数百万ファイルが、初めて研究者たちの目に触れました。

ドイツ人の歴史家フ―ベルト・ヴォルフ・・・
調査を続けて20年になりますが、今回の公開は特別でした。
多くの疑問に答えが得られるかもしれないからです。
ピウス12世は、ユダヤ人大量虐殺を知っていたのか??
いつ、だれが知らせ、教皇はそれを信じたのか??

教皇フランシスコが公開を決定したのは1年前の3月でした。

「教会は歴史を恐れず愛します
 神が愛するように歴史への愛を深めたい
 前任者たちの信任のもと、私はこの遺産を公開し、研究者に委ねます」

バチカンニュースの総編集長アンドレア・トルニエッリは、教皇を良く知る人物の一人です。
この決定は、透明性ある教会を目指す教皇の強い意志の表れだといいます。

教会は真実を恐れない。
教皇フランシスコは固く守る原則です。
教皇は、聖職者による性的虐待問題でも完全な透明性を主張しました。
今回の文書の公開も、同じ考えによるのでしょう。 

性的、金銭的スキャンダルが相次いだカトリック教会・・・その信用回復が、教皇フランシスコの使命です。
バチカンに秘密を容認する余地は、もうない・・・
たとえ、不都合な真実でも、公にしなければならない・・・。
こうして、秘蔵文書の公開に踏み切ったのです。

文書の公開は大ニュースでした。
ピウス12世についてカトリック教徒とユダヤ人が白熱した議論を世界中で戦わせてきたからです。
この公開によって、後にピウス12世の列福(教皇庁が”福者”と宣言すること)が検討されるとき、次のいいずれかの合意に達することができるでしょう。
彼は教皇として最善を尽くした、または、出来ることはもっとあった、教皇として違いやり方があった筈だ。と。
ピウス12世の名声が揺らぐきっかけを作ったのが1960年代に上映された””神の代理人””・・・
ホロコーストに沈黙していた教皇を描いた作品得です。
世界中で論議が巻き起こり、時の教皇パウロ6世は第2次世界大戦中の数千もの文書の公開を決定。
しかし、それらの文書だけでは事実は明らかにならず、ピウス12世の評価は定まりませんでした。

カトリック教会の現代化を図ったのがピウス12世です。
彼はメディアを利用するすべにもたけていました。
教皇の役で出演した映画”パスター・アンジェリカス”は、バチカンの歴史にその名を刻まれています。
教皇の日常が描かれています。
バチカンの庭園を歩いたり、演出の都合で取り直したシーンもあります。
ピウス12世は、1876年生まれ・・・本名エウジェニオ・パッチェッリ。
23歳で聖職につくと、教会内の階級を駆け上り、1917年教皇の大使として当時のバイエルン王国の首都ミュンヘンに赴きます。
未来のピウス12世は、ここからバチカン教皇庁に向けて、数多くの手紙を書いています。
パッチェッリが赴任したバイエルンは、カトリックの王国で、彼は温かく迎えられました。
しかし、1918年の終わりごろ、政治情勢が彼の望まない方向に向かいます。

第1次世界大戦が終わった1918年11月、敗戦国ドイツでは混乱の中社会主義政権を目指す勢力が台頭してきました。
パッチェッリのいたミュンヘンでは社会主義共和国が宣言されます。
社会主義勢力の代表が、バチカンの大使館に押し寄せ、車を没収しようとする事態も起きます。
この出来事によって、パッチェッリは共産主義がカトリックの教義と相容れないことを知識としてではなく肌で知ったのです。

彼等は、私の頭に銃を突き付けた
そして、大混乱を招いた・・・と。



1925年、パッチェッリはベルリンに転属となります。
そして、教会とドイツの関係について定める条約コンコルダート(政教条約)の締結交渉にあたります。
政治システムがガラッと変わりました。
君主制だった国が、突然共和制に移行したのです。
このため、カトリック教会と国の関係を丸ごと再構築しなければなりませんでした。
国の祝日や、カトリック教育をはじめ、広い範囲で調整が必要になりました。

第2次大戦中、バチカンには数千通の手紙が届きました。
そして、可能な限り返信が出されました。
ピウス12世は、安易な選択などしません。あらゆる角度から検討し、間違いのないように決断する人でした。

ピウス12世を聖人に列するための手続きは、1965年に始まります。
最終的な承認が下りない理由は、カトリック教会が規定する条件・・・奇跡を起こしたことが証明されていないためです。

「ピウス12世の件は保留中です
 彼の行った奇跡が確認されていないからです
 ”奇跡”なしでは、前に進まない これが現状です」by教皇フランシスコ

列福の前に立ちはだかるさらに大きな壁が、ナチスドイツとの関係をめぐる論争です。
1930年代、パッチェッリは、すでに教皇庁の国務長官になっていました。
教皇に次ぐNo,2です。
同じ頃、ドイツで台頭してきたのが、国家社会主義ドイツ労働者党とその党首アドルフ・ヒトラーです。

パッチェッリは当初、ヒトラーのことなど何一つ知りませんでした。
ウィーン滞在中の教皇大使に手紙を書いて、あのヒトラーとか言う男について教えてほしいと送っているほどです。
ヒトラーとあったこともありません。
ヒトラーを大きな脅威だとまだ見ていませんでした。

1933年1月、ヒトラーは、ドイツの首相となりました。
2月の国会議事堂火災事件のあと、ドイツにいるユダヤ人の迫害が始まります。
4月、エーディト・シュタインという女性のユダヤ人が、時の教皇ピウス11世に手紙を書きました。
エーディト・シュタインは、哲学の高等教育を受けた女性でした。
エーディトは、教皇に緊急のお願いを綴りました。
ユダヤ人の迫害を公に、声高に非難してほしいと嘆願したのです。
注意すべきは、ユダヤ人だった彼女が、既にカトリックに改宗していたという点です。
パッチェッリの残したメモからも、この手紙が当時の教皇に実際に手渡されたことがわかっています。

”ドイツの状況を目の当りにする私たち、教会の忠実な子供らは、教会の更なる沈黙により、その評判が地に落ちることを心配いたします”byエディート・シュタイン

この手紙に、返信したのがパッチェッリでした。
それは、エディートを当惑させるような内容でした。
教皇は手紙をご覧になり、励ましの言葉を述べ、祝福をお与えになった・・・
彼女の訴えには、具体的に触れていませんでした。

当時のユダヤ人とカトリック教会の関係は・・・??

パッチェッリの主な狙いは、まずカトリック教会と信者をナチスから守ることでした。
バチカンにとって、ユダヤ人の問題は最優先事項ではなかったのです。

現在、ローマ教皇フランシスコは、ユダヤ人社会から温かく受け入れられています。
前任者たちと同様、ユダヤ人を”兄たち”と呼んでいます。

「かつて敵同士だった我々は、今や、友人、兄弟です
 キリスト教がユダヤ教にルーツを持つということに同意し、あらゆる反ユダヤ主義に反対します」by教皇フランシスコ

カトリックとユダヤの関係改善に当たっている司教は、1930年代、カトリック聖職者の多くが反ユダヤ主義に影響されていたといいます。
ユダヤ人は、キリストを救世主と認めていません。
1930年代、カトリック信者のほとんどが、そういう考えにとらわれていました。
イエスが十字架に架けられたのは、ユダヤ人のせいだという考えも一般的でした。
そのような説教も多かったのです。



ヒトラーは、議会で過半数を得るため、カトリック教会に取り入ろうとします。

「キリスト教の2宗派は、国家の伝統を保持するうえで、最重要と政府は考える」byアドルフ・ヒトラー

この後、ヒトラーは、バチカンに条約の締結を持ち掛けます。
パッチェッリが、20年来から携わっていた政教条約・・・コンコルダートです。
バチカンはこれを受け入れました。
ナチスと署名を交わしたのは、パッチェッリ自身でした。

ヒトラーにとっては、大勝利でした。
国際社会から信用されていなかったナチス政権が、最初に取りつけた国際条約・・・それが、教皇庁とのものだったからです。
究極の道徳権威である教皇庁が手を結んだならば、他の国々も追随しやすくなります。

この4年前の1929年、バチカンは同じような条約をムッソリーニが独裁権力を振るうイタリアと結んでいました。
イタリアの聖職者の多くが、賛同しました。
イタリアにいた聖職者は、ほとんどがムッソリーニのファシスト政権を支持者でした。
聖職者の多くが、若いころ兵士として祖国イタリアのために戦っていました。
自分たちのことを、愛国的聖職者と感じていたのです。

また、当時カトリック聖職者の多くは、ファシズムを真の敵・・・共産主義よりはましだと考えていました。
無神論のイデオロギーは、教会が何世紀にもわたって目指して来た社会を転覆させかねません。
ロシア革命後の急激な展開を、彼等は早くから警戒していました。
ロシア正教への迫害が起こっていました。
教会は閉鎖され、聖職者は逮捕、信者も嫌がらせを受けました。
ことは正教会だけにとどまりません。
カトリック教会にも及んでいました。

しかし、ヒトラーは、ドイツ国民への支配力を増すにつれ、教会も標的に定めます。
国の唯一の宗教はナチズムなのだと・・・!!
ヒトラーが掲げた国家社会主義は、政治的な性格を持った宗教・・・または、その代用品のようなものでした。
ナチスはキリスト教を破壊し、教会での礼拝を、ナチス礼拝に置き換えようとしたのです。
ヒトラーは、カトリックの影響が色濃いオーストリアで育ち、死ぬまで教会税を払っていました。
カトリックから受けた影響は、ナチスのシンボルや儀式に見て取れます。

ヒトラーは、カトリック教会の序列構造に魅せられていました。
一方の頂点に教皇、他方・・・ドイツの総統は自分です。
ある種の魅力を感じていたとはいえ、彼にとって教会は敵でした。

ドイツにいるカトリック司教たちは、ナチスの政策に拒否感を強めていきました。
抗議も起こりました。
ナチスのイデオロギーをきっぱりと拒絶しました。
それは、人種差別、心身障碍者の安楽死プログラム、そしてナチス教を作ろうとする試みに対するめいかくな拒絶です。
ドイツ・ミュンスターの司教だったクレメンス・フォン・ガレンは、この点で特に重要です。
彼が強く抗議したおかげで、ナチスは安楽死プログラムを中止せざるを得ませんでした。
フォン・ガレンたちは、政教条約に違反するナチス・ドイツに対し、正式な抗議をするようバチカンに求めました。
カトリック系の学校は、閉鎖を余儀なくされました。
それが、条約違反であるにもかかわらず・・・
聖職者が、刑務所で行う心のケアもできなくなりました。
残ったのは、従軍司祭としての活動のみでした。
もはや、政教条約など、無視されていて、違反だと訴えていても無駄でした。

時の教皇ピウス11世は、ドイツの信者に向けて手紙を書き、1937年復活祭の直前、ドイツのすべての教会で読み上げられました。
教皇の回勅(教皇が信者に宛てた公式文書)は、深い憂慮をもってというタイトルがついていました。
ドイツのカトリック教会がうけている迫害への憂慮を鮮明に表すためです。
そのタイトルは、パッチェッリによって変えられました。
彼はより強い形容詞をつけ、”燃えるような憂慮をもって”となりました。
教皇庁が、いかに事態を深刻にとらえているか、強調するためです。

ナチスは激怒しました。
気付いたのは、手紙がドイツの全教会で読まれた後だったからです。
しかし、手紙の効果は・・・それっきりでした。
一瞬の花火・・・その後の進展はありませんでした。

ピウス11世は、実際にヒトラーやムッソリーニのユダヤ人排斥政策を非難する手紙を書きました。
しかし、内容は公開されませんでした。
止めたのはパッチェッリ。
謎の解明は秘蔵文書の調査終了を待たなくてはなりません。
1939年2月、ピウス11世が亡くなると、次の教皇に選ばれ他のはパッチェッリでした。
前の教皇に敬意を表し、ピウス12世と名乗りました。

パッチェッリが新しい教皇になったことを、ムッソリーニはとても心配しました。
ドイツもイタリアと同じく動揺しました。
ドイツの答えは、氷のような沈黙でした。
”あなたは我々の教皇ではない
 必ずしも歓迎しているわけではない”
そういうメッセージでした。



新教皇誕生から半年後、ヒトラーはポーランドに侵攻・・・第2次世界大戦が勃発します。
軍を持たない世界最小国の元首としての教皇に、ヒトラーに対抗するすべなどほとんどありません。
頼れるのは外交・・・そして、博愛の力のみでした。
第2次世界大戦中のピウス12世については、多くの謎が残されています。
彼はユダヤ人絶滅計画を一体いつ知ったのでしょうか?

1942年夏・・・アメリカのルーズベルト大統領に、あるユダヤ人団体から手紙が届きます。
ポーランドとウクライナにおけるユダヤ人大量虐殺について書かれていました。

”ワルシャワのゲットーで、ユダヤ人を一掃する作戦が進んでいます
 無差別にゲットーから連れ出され、集団で銃殺されます
 その体からは、脂を、骨からは肥料を作っているのです
 大量虐殺は、ワルシャワではなく専用に作られた収容所で行われています”

アメリカの特命大使がバチカンにやってきました。
バチカンが同じような情報に接しているか、教皇が共同抗議に同意するかを確認するためです。
教皇庁は、二つの情報を手に入れていました。
ひとつは、ウクライナを旅してきた伯爵からのものです。
後に彼は、教皇パウロ6世となるモンティーニに、ドイツ中がどれだけ恐ろしいことをユダヤ人にしているか話しました。
二つ目は・・・ウクライナの大司教が、ユダヤ人団体の手紙に書かれている虐殺が事実であると報告していたのです。
バチカンは「そのような話は聞いていますが、真実かどうか確認が取れていません」と言いました。
どうしてそう答えたのか・・・??

教皇のアドバイザーであるアンジェロ・デラクアが残したメモ・・・
そこには
”アメリカの要請は重要です
 もしその情報が正しいのなら、ユダヤ人を信用できますか?
 彼らはいつも誇張する
 政治的には慎重に、声をあげれば一方の肩を持つ
 我々は中立でなくては”

ローマ教皇ピウス12世の沈黙の理由が見え隠れします。
教皇は何をしたのか??
何故そうしたのか??この文書だけでは確かな答えは得られません。
総合的な判断が必要であり、それには全ての資料を徹底的に調べなければなりません。
信頼性を担保できる唯一の方法です。
たった1週間の調査でも、これだけ重要な発見があったのです。

教皇は、1942年の秋には、ユダヤ人虐殺の規模について報告を受けていたことになります。
アメリカの特使が、数字の確認を依頼していたのですから。
しかし、教皇はその要請には答えませんでした。
独自の情報源があったというのに・・・
何故なら、教皇とバチカン国務長官は、それらの情報源を信頼していなかったのです。
デラクアが、それらの情報が当てにならないと吹き込んでいたのかもしれません。

1942年のクリスマスミサ・・・
ピウス12世が唯一沈黙を破った時ともいえますが、ユダヤ人に直接言及することはありませんでした。
「人類は誓わねばなりません
 罪なき数十万の人々が、死や困窮に追いやられているのです
 民族や出自だけが理由の場合もあります」byピウス12世

教皇は、戦争のさ中、民族や宗教、出自を理由に迫害を受けている人たちについて語りました。
ステルペという言葉を使いましたが、これは人種ではなく、血統を意味します。
つまり、広い意味での迫害について語ったので、ユダヤ人迫害に特に触れたわけではなかったのです。

大戦勃発当初から、教皇のもとには様々な国のユダヤ人から手紙が来ました。
どれも残虐行為について書かれており、助けを求める内容でした。

”謹んでお願い申し上げます
 スロバキアのカトリック聖職者に教皇様から呼びかけていただきたいのです
 彼らの力で、この酷い強制輸送を即刻停止させてほしいのです”
 
”自分の死にざまが目に見えます
 有刺鉄線に囲まれ、自分で掘った墓穴にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて死ぬのです
 子どもは活きたまま、大人は裸にされ、こん棒でたたかれ投げ入れられます
 最後の仕上げが銃弾数発”

信じがたいほどの数、おそらく数千通もの手紙が、各地のユダヤ人から教皇宛てに送られてきました。
その多くは嘆願書です。
教皇は、ホロコーストの実態を、抽象的な数としてでなく、ひとりひとりの生身の出来事として知っていました。
1週間の調査で、こうした手紙を発見しましたが、そのとき教皇庁がどう反応したのかはわかっていません。
一部の嘆願は却下され、何の進展も見られませんでした。

一方、教皇庁が助けようと動き、実際助けたケースもありました。
1943年、戦争はバチカンの門前に迫ります。
連合国軍から激しい爆撃を受けたローマの廃墟で、ピウス12世が祈りを捧げます。
程なく、ムッソリーニ政権が崩壊し、ドイツ軍がイタリアに入ります。
ローマもまたナチスの占領下となりました。
ナチス親衛隊は、バチカンのサン・ピエトロ広場までやってきます。
1943年10月、ローマのゲットーが捜索され、1024人のユダヤ人がアウシュビッツへ送られました。
生き残ったのは16人だけでした。

ピウス12世は、ユダヤ人を守るため、何をし、何をしなかったのか??

ローマ教皇は、伝統的にローマのユダヤ人を守ってきました。
しかし、1943年10月の強制連行の時、ピウス12世が非難の声をあげることはありませんでした。
ナチスの強制連行は、教皇が介入することなく実施されたのです。
ピウス12世は、いくつかのレベルで対処しようとしました。
第1に当時バチカンに滞在していたナチス・ドイツの大使にこう伝えます。

”私はユダヤ人の味方だ
 教皇領土内でユダヤ人が迫害を受けることが無いよう全力を尽くしてほしい”

第2は避難場所の確保です。
男子修道会や教会、その他教会の持つ施設のどれがユダヤ人の保護に適しているか??
立地や構造などを調べさせました。
実際、多くの修道院だけでなく、教皇庁の施設でもユダヤ人が匿われました。

第3は、実現しませんでした。
声高に訴える公の抗議はなかったのです。

忘れてはならないのは、1943年10月16日の時点で、ローマにはおよそ1万人のユダヤ人がいて、そのうちの2割がバチカンの施設に匿われていました。
例えば、教皇の夏の別荘などです。
バチカン文書がこの事実を伝えています。

イスラエルの国立ホロコースト追悼施設所蔵の文書には、ドイツによるローマ占領中に4715人のユダヤ人がバチカン内外のカトリック施設に匿われていたとあります。
ローマのユダヤ教指導者リカルド・リッセニは、教皇にできることはもっとあった。
ローマのユダヤ人全員を強制連行から救えたはずだといいます。
暗黙の合意のようなものが、バチカンとナチスの間にありました。
バチカン側のメッセージは、2度とあんなひどいことはしないように、すでに起きてしまったことは忘れてあげるから・・・そういうことです。
不幸なことですが、それが現実でした。
こうして、罪もない多くのユダヤ人がアウシュビッツに送られました。



教皇には自分の意見を知らしめる手段がいくつもありました。
彼がユダヤ人に手出しするなというだけで、ドイツには十分外交的脅威となった筈です。
もし、ある人物が、社会の道徳面での指導者なのであれば、その地位にふさわしい行動をとるべきです。
ピウス12世の場合は、私たちは答えを見つけなければなりません。

カトリック教会の高位聖職者の中には、声をあげた人もいました。
ジュール・ジェロ―サリエージュです。
1942年の強制連行を、公に非難しました。
これが、フランスのヴィシー政権を動かし、ナチスの強制連行を大幅に遅らせました。ひとりの聖職者が公にあげた声が、反ユダヤ主義や強制連行に大きな影響を与えることができたのです。

公然と非難するか、沈黙を守るか・・・ピウス12世は声をあげずに行動する外交に道を求めました。
教皇のこの選択は、1942年にオランダで起きたある出来事に理由があるのかもしれません。
司教たちの抗議が、より多くのユダヤ人強制移送を招いてしまったのです。
被害者の中には、エディート・シュタインもいました。
カトリックに改宗したユダヤ人で、ユダヤの窮状を時の教皇に訴え、聞き入れられなかったあの女性です。
彼女は後に、聖人に列せられます。

「親愛なる兄弟姉妹へ
 エーディト・シュタインはユダヤ人であるが故、姉ローザや他の多くのカトリックのユダヤ人と共に、オランダからアウシュビッツ強制収容所へ送られました
 そしてガス室で亡くなりました
 私たちは、彼女らを崇敬の念をもって追悼します」ヨハネ・パウロ2世

1944年、連合国軍がローマを落とします。
ドイツによる占領の終わりを祝福して、教皇ピウス12世が祈りを捧げます。
1年後、ユダヤ人強制収容所の映像が初めて公開されましたが、ピウス12世が沈黙を破ることはありませんでした。
なぜか・・・??バチカン文書の調査報告が待たれます。

過去の大切さを知る元ローマ教皇フランシスコ・・・
教会は過去の過ちから学び、報道の結果だけでなく、沈黙の結果についても検証すべきでしょう。

我々は、正しいことを支持しなければなりません。
そして、キリスト教の価値観と相容れないことに関しては声をあげることが求められます。
我々の社会を一つにつなぎとめてきたそうした価値観を守り、多数派が沈黙に陥らないようにしなくてはなりません。

ピウス12世の沈黙の謎・・・今後解明が進む中、置き去りにされてはならないのが透明性の確保です。

歴史と真摯に向き合うこと・・・それに勝るものはありません。
ドイツにとっても、教会にとっても・・・!!
歴史と真摯に向き合えば、必ず何かを学ぶことができます。
そしてそれを可能にするのが、ピウス12世に関するバチカン秘蔵文書です。

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今から500年前の戦国時代・・・勇猛果敢な侍たちが、日本各地で血で血を洗う戦いを繰り広げました。
天下統一に向け、大きなターニングポイントとなった七つの戦い・・・これまでは、日本国内の出来事として描かれてきました。
ところが、海外で続々と新資料が発見されています。
そこから、ヨーロッパの国々が、戦国日本に深く関係していたことがわかってきました。

当時は、ヨーロッパの国々が富や領土を求め、世界各地に進出した大航海時代・・・。
大海原へと乗り出した彼等は、壮大な野望を秘め、戦国日本へと押し寄せていたのです。
この時、ヨーロッパの大国と対峙したのは、天下統一を目指す三人の英雄たちでした。

戦国の革命児・織田信長・・・その戦いを支援したのは、キリスト教の宣教師でした。
信長の後を継いだ豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・その裏では、ヨーロッパの超大国と激しい駆け引きが繰り広げられていました。
戦国の世に終止符を打った徳川家康・・・その最後の戦いとなったのが、大坂の陣でした。
徳川と豊臣の争いの背景には、世界制覇を狙うオランダとスペインの激しい対立がありました。
ヨーロッパの大国が狙うのは、世界屈指の産出量を誇る銀・・・ジャパン・シルバーでした。
戦国日本は、世界のパワーバランスを塗り替えていきます。

世界規模の視点から明らかになる新たな歴史とは・・・??



愛知県新城市にある長篠の戦い古戦場・・・2019年夏、戦国の覇者・織田信長をめぐる大きな発見あがりました。
50人がかりで行われた初めての大規模な調査・・・
見つかったのは、長篠の戦いで信長軍が使った鉄砲玉でした。
ここに、信長と世界との意外なつながりがありました。

1575年長篠の戦い・・・織田信長VS.武田勝頼
武田信玄の後を継いだ勝頼が、騎馬軍団を率いて信長と同盟を結ぶ徳川家康の領地へと攻め入りました。
対する信長は、3万の援軍を送り家康を支援します。
武田軍と織田・徳川連合軍は正面からぶつかります。
甲斐を拠点に戦国最強と恐れられていた武田家・・・天下統一を目指す信長を脅かしていました。
宿敵・武田を打ち破るため、信長は当時最新の兵器だった鉄砲を大量に購入。
騎馬軍団を主力とする武田軍は、なすすべもなく敗れ去ったと言われてきました。
ところが、長篠の戦いの絵図をつぶさに見ると、武田軍の中にも鉄砲を構える兵士たちの姿があります。
実は、長篠の戦いは、鉄砲VS.鉄砲の戦いでもあったのです。
何が両者の勝敗を分けたのでしょうか??

その謎を解く手がかりが、武田家ゆかりの神社に残されていました。
山梨県にある富士御室浅間神社・・・武田家からの鉄砲玉に関する古文書です。
鉄砲玉のもととして徴収していたのは、お賽銭でした。
武田軍は、原料の入手に苦労していたのです。
その不足を補うため、銅で作られたお賽銭を鋳つぶし、鉄砲玉へと作り変えていました。
ところが・・・銅の弾丸は銃身に詰まりやすく暴発が多かったといいます。
一方、発見された信長軍の鉄砲玉の素材は鉛・・・当時の日本では極めて貴重な金属でした。
鉛の成分を解析すると・・・外国産でした。
信長軍の弾丸は、海外で産出された鉛で出来ていたのです。
どこの鉱山??
候補の一つとして浮かび上がってきたのは、日本から4000キロ離れた東南アジアのタイでした。
首都・バンコクから車で4時間・・・カンチャナブリ―鉱山です。
坑道の総距離は50キロ・・・アジア有数の巨大鉱山でした。
鉛の埋蔵量は、300万トン・・・鉄砲玉に換算すると、20億発に相当する巨大な鉛の生産地でした。
分子レベルでの研究によって、この鉱山の鉛と長篠の戦いで使われた弾丸の成分が一致しました。
海外の鉱山まで延びるこのネットワークこそが、信長の勝因の一つだったのです。

一体、信長はこのタイの鉛をどうやって手に入れていたのでしょうか?

それを紐解くカギが・・・2014年アラビア海で見つかりました。
沈んでいたのは、大航海時代の交易船です。
大量の武器、弾薬を運んでいました。
中には、ヨーロッパで作られた鉄砲・・・これらを運んでいたのは、ヨーロッパの国・ポルトガルでした。
信長が鉛を入手できたのも、この国の交易船のおかげだったのです。
イベリア半島の西側に位置するポルトガル・・・16世紀半ば、日本が初めてであったヨーロッパの国でもありました。
優れた航海技術で、大航海時代の先駆者となったポルトガル・・・
この国が、海外進出にあたり、特に力を入れていたものはそれが、キリスト教の布教でした。
カトリックの総本山・バチカン市国・イエズス会ローマ文書館
戦国日本に関する貴重な資料があります。

それは、戦国日本を訪れた宣教師の記録です。

ここに、日本に鉛を売るように命じたポルトガル人の名前が記されていました。
日本へと派遣された宣教師のリーダー・・・フランシスコ・カブラルでした。
当時、日本になかったメガネをかけていたため、”4つ目のカブラル”と呼ばれていました。

1572年、カブラルは初めて信長の屋敷を訪問します。
カブラルは、信長への軍事支援と布教を結びつけていました。

「天下統一をしたければキリスト教を支持せよ」

カブラルは、布教を後押ししてもらうため、戦に欠かせない軍事物資を信長に提供していたのです。
カブラルをはじめ、宣教師が担っていたのは、”全世界をキリスト教の国へ”という壮大な使命でした。
それを達成するため、宣教師が日本で極秘の情報活動をしていたこともわかっています。

1572年の記録・・・密かに進められていた将軍の暗殺計画を掴んだことを記しています。
信長配下の軍勢の動きも正確に把握、宣教師は、各地の日本人キリシタンと協力して、広大な情報網を築き、戦国武将の動向を探っていたのです。
宣教師は、日本人キリシタンから政治情勢について情報を得ていました。
それによって、日本の中枢で何が起きているのかも知ることができたのです。

宣教師は、布教拡大を図るため、各地の戦国武将に接触を試みていました。
その中で、最も有力な候補者と考えたのが、織田信長だったのです。
現在の愛知・尾張の領主だった信長は、急速に兵力を広げていました。

”信長はもともと弱小国の武将だったが、鋭い判断力と慎重さを持っていた”

信長は、宣教師と手を組んだことで、大量の軍事物資を獲得、長篠の戦いに勝利し、天下統一に大きな一歩を踏み出したのです。
しかし、信長の前に、最大の敵が立ちふさがっていました。
信長と10年に及ぶ死闘を繰り広げた大坂の石山本願寺です。



1570年~1580年 石山合戦・・・織田信長VS.石山本願寺勢力
石山本願寺を率いるのは、住職の顕如。
武装した僧侶や信徒を多く率いていました。
最新の鉄砲もいち早く導入し、信長軍を窮地に追い込みます。
さらに、各地の大名と連携し、信長包囲網を形成。
その勢力は、信長軍をはるかに凌いでいました。
苦境に立たされた信長・・・この時、救いの手を差し伸べたのが、あの宣教師でした。

機密文書には、石山合戦の記録も残されていました。 

”日本のの渦たちが、信長に激しい戦いを挑んでいた
 彼等は、キリスト教の代々の敵であり、我々の布教活動の妨げとなっている”

日本の仏教界は、キリスト教のライバルと言える存在です。
キリスト教の布教には、仏教が潜在的に有害な存在でした。
仏教界が弱体化すれば、キリスト教が勢力を伸ばせる・・・!!と、宣教師たちは考えたのです。
キリスト教以外の宗教は、邪教・・・悪魔の教えであると考えていた宣教師・・・信長の敵である仏教勢力が奇しくも宣教師たちの敵でもあったのです。
信長と宣教師は、起死回生の策を講じます。

キリスト教の布教に大きな貢献をした人々を祀るスペインの教会・聖イグナシオ洞窟教会には、カギを握った日本人が描かれていました。
キリスト教の信仰に人生を捧げた人々・・・フランスの国王、スペインの総督、そして・・・キリシタン大名・高山右近です。
この右近こそ、仏教勢力を打ち破る切り札でした。
右近は、石山本願寺に近い摂津国の領主でした。
ここが信長軍の攻撃拠点となれば戦いが有利になります。
1578年、高槻城・・・信長は、右近を説得するため宣教師を派遣します。
味方にならなければ、キリスト教を弾圧すると脅していました。

”この国のキリスト教の行く末が、あなたの決断にかかっているのですぞ・・・!!”

宣教師は、度々右近のもとを訪ねて説得します。

右近を中心に、1万人を超えるキリシタンの援軍を得た信長軍・・・宣教師の力を借りて、ついに、最大の敵をうち破ります。
天下統一を目前にした信長は、日本の新たな中心とすべく、安土城を築城します。
城下町には、宣教師の希望を受け入れ、キリシタンを養成する神学校が建てられました。
安土に神学校を建設すれば、キリスト教の宣教師が主流派になったと日本人が理解すると考えたのです。
キリシタンの勢力拡大を狙っていた宣教師・・・それを示す資料がポルトガルで発見されました。

その南蛮屏風・・・修繕をしようと裏側を外したところ、驚くべき発見がありました。
補強のために使われていた書簡やメモ類が大量に表れたのです。
日本の和紙だからこそ、現代まで残ったものでした。
屏風から、神学校で使われたと思われる教科書が見つかりました。
天使や悪魔も知らなかった当時の日本人・・・悪魔は天狗になぞらえて教えられていました。
神学校に通っていたのは、10歳から18歳までの各地の大名や有力武将の子供たち・・・
彼等を取り込むことで、宣教師たちは日本国内に着々と勢力を伸ばしていました。



信長に取り入ることに成功した宣教師・・・しかし、宣教師は、信長の想像を超える野望を秘めていました。
インド・ゴア・・・ヒンドゥー教徒が多いインドで、人口の3割がキリスト教徒という珍しい街です。
きっかけは、大航海時代に遡ります。
コショウやクローブなどアジアで取れる香辛料を求め、ポルトガルの船が到来・・・
同時にゴアの街にもたらされたのが、キリスト教でした。
街を武力で制圧し、伝統的なヒンドゥー教の施設をことごとく破壊・・・跡地に教会を立て、住民たちに改宗を強いたのです。
従わないものには、容赦ない罰が待ち受けていました。
過激な理論ですが、改宗は精神を征服することでした。
心を支配することで、ヨーロッパ型の思想や社会を広めようとしたのです。

キリスト教の布教に秘められていた征服の意図・・・
ポルトガルによるゴアの支配は、そののち400年以上も続きます。
こうした脅威が、戦国日本にも迫っていたのです。

日本をキリスト教の国に作り替えようとした宣教師カブラル・・・その為の具体的なプランが、資料に記されていました。

”信長をキリスト教に改宗させる・・・そうすれば、日本人を素早くキリスト教に改宗することができる”

カブラルは、早速信長の説得に向かいます。

”デウス様のみが国を支配する力がある
 天下統一を望むのなら、デウス様に仕えるのです”

”わしに、キリシタンになれと申すか・・・!!”

信長自身は改宗しなかったものの、一族や家臣が改宗することは認めます。
信長は、宣教師の計画を察知しながらも、軍事物資を手に入れるため手を組み続けたと考えられています。
信長にとって、それは天下統一の為でした。
しかし、キリスト教勢力が、力を増すことは秩序を乱すリスクでもありました。
信長は、敵に対抗するための駒とみて、リスクに目をつぶっていました。
ところが、石山合戦が集結した1580年、宣教師の計画を加速させる事態がヨーロッパで起きました。
征服王と呼ばれたスペインのフェリペ2世がポルトガルを併合したのです。
これは、世界情勢を大きく塗り替える事態でした。
当時、無敵艦隊を抱え、世界有数の海軍力を誇ったスペイン・・・そのスペインが、ポルトガルの広大な植民地をも飲み込んで、世界の覇権を手中に収めたのです。
日の沈まない大国・・・スペイン帝国の誕生でした。
フェリペ2世は、世界帝国を築くことで、キリスト教を中心とした生き方を強制しようとしました。
布教によって”救済”と”進歩”が社会にもたらされる・・・征服は”正当な戦争”だと考えていました。

「アジアの征服に尽力せよ」byフェリペ2世

この指令は、日本にいる宣教師たちにも直ちに伝えられました。
戦国日本に迫る、大国スペインの脅威・・・対する信長は・・・??

宣教師の情報網がつかんだ信長と家臣・豊臣秀吉の会話は・・・
「宣教師は密かに征服計画を進めている」by秀吉
宣教師を脅威ととらえ、進言します。
しかし、信長の考えは異なっていました。
スペインが、はるかヨーロッパから大軍を送り込むのは難しい・・・日本が直ちに征服されることはない・・・と、信長は踏んでいたのかもしれません。
さらに、信長の判断に影響を与えたと言われているのが、戦国に日本で行われていた軍事革命です。
鉄砲の信管・・・海外産より日本産の方が不純物が分散されて作られていました。
つまり、国産の銃身の方が強度が安定しているのです。
日本の鉄は、和鉄といって、砂鉄精錬によって作られています。
非情にきめ細やかに鍛錬されているのです。
そのカギとなるのは、日本の玉鋼をはじめとする和鉄を鍛錬する高度な技術でした。
秘密は、鍛造と呼ばれる技法にあります。
この技は、日本刀の製作で磨かれたものです。
鉄を鍛え上げることで、強度を飛躍的に高めたのです。
日本の鉄砲は独自のイノベーションを遂げていました。

この進化した鉄砲の大量生産を推し進めたのが、信長でした。
信長が直轄地として治めた堺の町・・・
地元の商人が、鉄砲伝来の地・種子島からいち早く製造方法を持ち帰り、一大産地へと発展しました。
見つかったのは、鉄砲の製造について記された2万点の古文書・・・戦国時代には、堺に鉄砲鍛冶が住んでいた・・・
その職人たちのリスト・・・銃身から台座、火蓋まで、戦国時代には分業制がとられ、鉄砲の大量生産が行われていたのです。
戦国日本にあった鉄砲の数は、30万丁と呼ばれ、世界一の銃大国だったのです。
世界でも突出した軍事力を手中に収めていた信長・・・

その様子をつぶさに見ていた宣教師は、計画の変更を迫られます。

”日本は絶え間なく軍事力を高めている
 ここで日本と戦争をすることは、得策ではなかろう
 だが、この軍事力は将来必ずスペインの利益となるであろう”アレッサンドロ・バリニャーノ

日本の軍事力をどう利用するのか??
その記述が、スペイン帝国に宛てた宣教師の秘密文書に記されていました。
浮かびあがってきたのは、アジア征服に向けた壮大な計画でした。

”我々の最大の目標は中国の征服である
 それは、スペイン国王の権力の発展につながる”

当時、明と呼ばれた中国は、アジア最大の国土と人口を抱えていました。
さらに、高価な陶磁器や絹織物を生産する世界一豊かな国でもありました。
キリスト教がアジアを席巻するためには、この国の征服が不可欠だと考えられていました。

”スペイン国王が行う中国征服事業の為、日本は非常に有益な存在となるあろう”

当時日本は、中国に比べて非常に好戦的な国だと考えられていました。
宣教師は、日本の軍事力を利用すれば、中国の征服も可能だと分析していました。



アジア征服の為、日本の軍事力を利用しようとする宣教師・・・
宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長!!
お互いの利益のために結び付いてきた両者・・・しかし、その関係に終わりが近づきます。
信長の言葉です。

「我、神にならん!!」by信長

天下統一を目前に自信を深めた信長・・・キリスト教の神ではなく、自分こそこの世の支配者だと宣言したのです。
それは宣教師にとって、許せない発言でした。

”信長は、悪魔に取りつかれた”

信長は、意のままにはならない・・・
戦略の立て直しを図ることとなった宣教師・・・新たな計画に乗り出します。
実行の部隊は、信長の拠点から遠く、中国大陸にも近い九州・・・
宣教師が作った計画書には・・・??

”長崎を強大にするため、住民全員に武器を持たせよ”

宣教師は、1580年、貿易港として栄える長崎一帯をキリシタン大名から譲り受け、直接支配下に置きます。
岬の発端にあった教会を難攻不落の要塞へと作り変えました。
さらに・・・当時、世界最先端の兵器だった大砲・・・鉄砲に比べ、破壊力も格段に増していました。
宣教師が大砲を送った大名の名が砲身に残されていました。
”フランシスコ”・・・現在の大分・豊後国の戦国大名・大友宗麟の洗礼名です。
宣教師から最新の兵器を贈られた九州の大名たちが、次々にキリスト教に改宗していました。

九州は、宣教師たちにとって、征服計画を始めるためのプラットフォームでした。
宣教師が蓄えた強大な軍事力は、信長にとって大きな脅威になっていきます。

1580年代、キリスト教の勢力範囲は九州を中心に10万人に増加。
巨大な勢力へと成長していました。
宣教師を天下統一への駒と考えていた信長・・・しかし、宣教師は、信長の想像を超えたアジア征服計画を実現しようとしていたのです。

緊張をはらんだ両者の関係は、突然の事件によって断ち切られます。

1582年、本能寺の変!!
京都にいた信長が、家臣・明智光秀の軍勢に襲われたのです。
この時のことを、宣教師はつぶさに記録していました。

”信長は、襲撃を察知できていなかった
 なぎなたで戦った後、銃弾を受けた”

信長は、自身を戦国の覇者へと導いた鉄砲に撃ち抜かれました。
天下統一を目指す信長の野望は、ここに砕け散りました。

その後、信長の遺志を継ぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。
キリシタンは脅威だと信長に進言していました。
ところが・・・スペインで発見された資料によると・・・

”信長の死はキリシタンの増加につながった”

秀吉の時代、国内のキリシタンは順調に増え続けていたのです。
そのきっかけは、秀吉と光秀が繰り広げた信長の跡目争いにありました。
1582年、山崎の戦い
本能寺の変の11日後に起きた山崎の戦い・・・
豊臣秀吉が、謀反人・明智光秀を討ち果たした戦いです。
毛利攻めの最中だった秀吉は、主君の訃報を聞くや破竹の勢いで京へと駆け戻り、光秀を打ち倒します。
この戦いにも宣教師の影が・・・!!
スペイン・エスコリアル修道院にその実態を紐解く資料が残されていました。

”右近の活躍によって敵を撃破した”

とあります。

右近・・・高山右近です。
石山合戦で活躍したキリシタン大名でした。
秀吉が勝利するとした宣教師が、高山右近らキリシタン大名に対し、秀吉側につくよう働きかけていたのです。

”光秀は暴君、神父たちに危険が及ぶので、決して味方してはならない”

右近たちが勝利すれば、キリスト教の勢力拡大に有利に働きます。
宣教師は、情勢の変化に期待していたのです。

秀吉軍の先鋒を務めた右近・・・
見事な活躍を見せ、秀吉の家臣に取り立てられます。
キリシタンの力を利用することで、天下統一を目指した秀吉・・・政権中枢には、多くのキリシタン大名が名を連ねました。

この時代、キリスト教の教えが、急速に広まっていたことも明らかになっています。
京・大坂の中心に位置する高槻城・・・山崎の戦いで活躍した高山右近の居城です。
2019年、二の丸の発掘調査が行われ、巨大な堀の跡が見つかりました。
当時、最新の設備だった石垣・・・堀の底に土手を築き、敵の侵入を難しくさせる障子堀・・・堅固な城の実態が明らかになりました。

三の丸の跡から見つかったのは、27基に及ぶキリシタンの墓でした。
遺骨のそばには、数珠のような玉が散らばっていました。
ロザリオでした。
埋葬されていたのは、子供から老人まで、様々な年齢の男女でした。
武士や特権階級だけが葬られるのではなく、年齢の差も、性別も、隔たりのない、一般の方も眠っている墓地でした。
博愛、身分差のない信仰の教えを形にしています。
秀吉の時代、日本のキリシタンは30万人を突破。
こうして、信長の死後もキリスト教の信者は着々と増えていたのです。

1587年、天下統一を目前にした秀吉のもとで、思わぬ追い風が吹き始めます。

”秀吉殿は日本を平定したあとは、どのように・・・??”

「明国への出兵・・・!!」by秀吉

秀吉が、次なる目標と語ったのは、奇しくも宣教師の狙いと同じ、明への遠征でした。
宣教師は、この機会を見逃しませんでした。

”我らの軍船をお貸ししましょう
 キリシタンも意のままに動きましょう”

1592年~1598年 朝鮮出兵

1592年、キリシタン大名を先陣とする大部隊が、海を渡りました。
中国征服の足掛かりにしようと始まった朝鮮出兵です。
日本軍の猛攻撃を受けた朝鮮軍は、劣勢を強いられます。
これに対し、中国の明が朝鮮に大規模な援軍を派遣。
闘いは激化し、推定で74万人が動員される大戦争となりました。
この時、最前線で戦うキリシタン大名の犠牲が急増・・・
しかし、それは秀吉にとって戦略の一環だったと考えられています。



朝鮮出兵を通じて、中国の征服を目指した秀吉は、実はもう一つの思惑を秘めていました。
キリシタン大名を最前線で戦わせることで、消耗させ、軍事力を弱体化させようとしていたのです。

拡大を続けるキリシタン勢力を脅威ととらえ、その力を削減しようとしていた秀吉・・・
これに先立ち、日本では伴天連追放令が出され、キリスト教の布教も禁じられていました。
キリシタンが所有する神社仏閣の破壊や改宗を強制、キリスト教の布教活動が目に余るようになっていたのです。
秀吉に忠誠をつくして来たキリシタン大名の高山右近も、領地を没収され、国外追放を命じられます。
宣教師の思惑とはかけ離れた形で進んでいくアジア征服計画・・・!!
さらに、宣教師たちにとって想定外の事態が起きます。
スペインの植民地・フィリピン・・・宣教師は、現地からの情報で、秀吉の野心がフィリピンにも向かったことを知ります。

”日本の密偵が放たれている
 秀吉の狙いは、フィリピンからスペイン王に送る大量の金である”

秀吉が狙ったのは、スペインの富・・・征服王・フェリペ二世の植民地を奪うことで、朝鮮出兵の戦費を賄おうとしていました。

「スペインの富を手に入れよ!!
 そして、明国を討ち滅ぼすのじゃ!!」by秀吉

”秀吉は、傲慢と野心の塊で、世界を簡単に支配できると考えている”

フィリピンの状況を知ったヨーロッパの超大国スペイン・・・一触即発に備え、警戒します。

有史以来、人類が体験したことのない未曽有の事態でした。
アジアを発火点に、「最初の世界戦争」が起きようとしていたのです。
戦国時代、ヨーロッパから伝わった兵器を進化させ、世界屈指の軍事国家へとなった日本。。。
秀吉の底知れぬ野心によって、ヨーロッパとアジアが激突する世界戦争の危機を招いていたのです。

しかし・・・1598年、緊迫した恐恐が一変します。
スペインのフェリペ2世が急死・・・その5日後、日本で秀吉が死去。
日本軍が朝鮮半島から撤退を決定します。
宣教師と秀吉が思い描いた中国征服計画は、ここに幕を閉じたのです。

1600年 関ケ原の戦い

秀吉の死から2年後、天下をにぎわす大決戦が行われました。
天下分け目決戦・・・関ケ原の戦いです。
東軍を率いるのは信長・秀吉のもとで力を蓄えていた徳川家康でした。
対する西軍は、石田三成を筆頭とする豊臣恩顧の武将たちが参戦していました。

総勢20万ともいわれる大軍が激突した史上空前の合戦・・・!!
しかし、家康の策によって、西軍から寝返る武将が相次ぎ、半日足らずで勝敗が決します。
この家康の勝利には、当時新たにヨーロッパで力を持ち始めた国が深く関係していました。

大航海時代・・・新興の商業国家として世界各地に進出していたオランダです。
オランダと戦国日本との運命の出会いは、関ケ原の戦いの半年前に遡ります。
オランダの貿易船が、嵐に見舞われ難破・・・命からがら日本にたどり着きました。
船には、最新式の銃500丁、弾5000発、火薬300kg・・・大量に積まれていました。
このオランダ船に目をつけたのが、徳川家康でした。
家康は、自ら生き残った船員たち(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステン)を尋問しました。
この時の詳細なやり取りが、記録に残されています。

”家康は、スペインとの戦争について詳しく知りたいといった
 私は、家康が満足するまで、ヨーロッパの覇権争いについて説明した”

当時、大国スペインの支配下にあったオランダ・・・
圧政を逃れるべく、独立を宣言し、激しい戦争をはじめていました。
しかし、スペインの力は強大でした。
世界中の植民地から、莫大な富を獲得。
この財力で無敵艦隊という最強の海軍を支えていました。
独立間もないオランダは劣勢に・・・
この時、オランダが考えたのが、外国との貿易によって軍資金を得ることでした。
その計画の鍵を握るのが、戦国日本でした。

2016年、日本とオランダの知られざる関係を示す資料が見つかりました。
日本に滞在したオランダ商館にあった日誌や手紙などの膨大な記録です。
これは、謎だったオランダ貿易の実態を明らかにするものでした。
どういう商品が貿易されて、どんな商売の仕方をしていたのか・・・??
日本の資料にない記述や出来事もたくさん記録されていました。

史料には、戦国武将の懐に入り、利益を上げようと奔走するオランダ商人の姿が書かれていました。

”徳川家と豊臣家との間に戦争がおこるという確かな情報を入手した
 戦場で着る陣羽織の需要が高まるに違いない
 生地を売り込むチャンスだ 
 ありったけを送れ”

オランダには、これまで日本にやってきた船と大きく違う点がありました。
ポルトガルやスペインが重視していたのが、キリスト教の名のもとに信者を増やし、自国の領土を広げることです。
それに対し、商人たちが作った国・オランダは、布教にこだわらず、純粋に利益を上げることだけを目的としていたのです。

「日本に来た狙いは?」by家康

”貿易です
 我々の武器を買えば、あなたはより強くなるはずです”

天下取りを目指す家康・・・軍事力を強化するために、オランダの提案は渡りに船でした。
家康は、船員たちを家臣として召し抱えることを決めます。
船に積まれていた大量の武器弾薬は、家康の手に収まることになりました。
この半年後に起きたのが、関ケ原の戦いだったのです。

当時の宣教師の記録に、その様子が記されています。

”徳川軍が撃つ嵐のような弾丸
 瞬く間に三成たちの軍は総崩れとなった”

両軍の火力差は歴然でした。
オランダの武器を手にした家康が勝利を得たのです。
しかし、家康が天下を取るには最大の障壁が残されていました。
父・秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼です。



2019年、大坂城そばの発掘調査で、秀頼に関する新たな発見がありました。
巨大な建物跡・・・秀頼に従う大名屋敷がありました。
こうした大名屋敷が、大坂城を中心に幾つも立ち並んでいたのです。
これが、秀頼の絶大な力を示しています。

当時、大坂を訪れた外国人の記録には、こう記されています。

”大坂は、日本で最も素晴らしい商業都市、堅固な城を持っている
 秀頼さまは皇帝になるかもしれない”

父・秀吉から莫大な遺産を受け継いでいた秀頼・・・その元には、豊臣家に忠誠を誓う武将たちが集結していたのです。
激しさを増す徳川家と豊臣家の争い・・・
同じ頃、ヨーロッパでもオランダとスペインの戦いが新たな局面を迎えていました。

1602年、世界初の株式会社・オランダ東インド会社の誕生です。
グローバル経済の先駆者となるオランダ・東インド会社・・・本来、国の持つさまざまな特権が一つの会社に託されていました。
外国の領主と独自に条約を結ぶ権利、兵士を雇い要塞を築く権利、さらに、貨幣を作り権利まで・・・最前線に立つ商人に、強力な権限を与えることで、迅速な海外進出を目指し、宿敵スペインに打ち勝とうとしたのです。

オランダ東インド会社は、貿易に関するあらゆる権限を持った非常に洗練された組織でした。
その目的の一つは、スペインの海外での収益を奪うことです。
つまり、経済戦争に勝利することでした。

この世界初の株式会社は、戦国日本に正式な使節を送り込みます。
オランダ商館長のジャック・スペックスです。
オランダ東インド会社が狙っていたのは??
近年、ヨーロッパの沖合・ジブラルタル海峡でそれを紐解く発見がありました。
水深1100mに沈んだ貿易船の調査・・・莫大な数の財宝が引き上げられました。
59万枚・・・17トンに及ぶ銀貨・・・その銀こそが、世界の覇権を握る原動力でした。
16世紀、アメリカ大陸で大規模な銀山が見つかると、銀貨が大量に作られます。
ヨーロッパの商人たちは、この銀貨を使い、東南アジアの香辛料や中国の陶器など、世界各地の商品を購入できるようになりました。
銀は、ヨーロッパとアジア、アメリカをつなぐ、世界初の国際通貨だったのです。
当時、この銀を独占していたのが、世界最大の帝国スペインでした。
スペインは、新大陸の植民地で、巨大な銀山を次々と開発、世界の生産量の8割を握っていたのです。

一方、新興の商業国家オランダ・・・
スペインに対抗するために、銀の独自の入手先が必要でした。
当時、オランダは、スペインに対して独立戦争をしています。
世界貿易に乗り出すのであれば、銃南米、スペイン領以外のどこかで銀を入手できる地域を確保する必要がありました。
そして、アジアで最も銀を多く生産しているのが日本だったのです。
16世紀にヨーロッパで出版されたドラード「日本図」・・・そこには、銀山王国と記されていました。
戦国時代に、日本は銀の産出国として知られていたのです。

”この国の銀山から我々がB必要とする銀すべてを採掘できる可能性がある
 秘密裏に佐渡の銀を調査せよ”

新潟県佐渡島・・・戦国時代、ここに日本最大級の銀山がありました。
この銀山の開発を進めたのが、徳川家康でした。
家康は、豊臣家と対抗する資金源として銀を重視・・・関ケ原の戦いのあと、一早くを押さえていました。
家康の号令で始まった佐渡のシルバーラッシュ・・・
家康は5万人の労働者を送り込み、昼夜交代で休みなく採掘を進めました。
佐渡全体での埋蔵量は、2300tを超え、世界トップレベルの銀山でした。
家康が、幕府を開いたときに、一番日本で勢いのある鉱山であることは間違いありません。
ここから出る金銀を当てにしていたのは、間違いありませんでした。
家康は、佐渡をはじめ、全国各地で次々と鉱山開発を進めました。
日本の銀の生産量は、急速に拡大し、年間100トンを超えます。
世界の生産量のおよそ1/3を占めました。
日本の銀を狙うオランダのスペックス・・・
調査の結果、佐渡の銀は、スペインの銀以上に純度が高いことがわかりました。
しかし、当時、良質の銀を国外に持ち出すことは、禁じられていました。
スペックスは家康との交渉に乗り出します。

スペックスは、家康が好む商品を入念に調査・・・献上品として用意していました。

”家康さまの贈り物として、美しい毛織物、色とりどりのガラス、最高級の鏡が喜ばれるだろう”

スペックスは、非常に柔軟で、日本に適応して、習慣や文化も理解しました。
オランダの動きに焦ったのが、スペインでした。
家康のもとに使者を送りこみます。
ロドリゴ・デ・ビベロです。
ビベロは、家康との交渉に有効なカードを持っていました。
鉱山技師です。
最先端の技術を持つ技師がいれば、日本の銀の生産量を伸ばすことができる・・・!!
ところが、
”鉱山技師を派遣するには、条件がございます
 新たに採掘した銀の半分はスペインのものとすること
 オランダ人を国外追放すること”
オランダ人を排除し、銀を独り占めを狙うスペイン・・・中でも最重要の条件がありました。

”キリスト教の教会を建て、宣教師を置くこと”

スペインは、必ずしも商人ではなく聖職者もついてきます。
彼等にとって、キリスト教布教と貿易は、表裏一体であったのです。
必ずキリスト教布教も許しなさいの一点張りでした。
全世界をキリスト教の国にしようとしたスペイン・・・キリスト教の布教が、家康の欲する鉱山技師派遣の条件とされたのです。

そこには、隠された狙いがありました。
ビベロが国王に送っていた文書には・・・

”日本には数多くの銀の鉱脈があります
 この地に侵入するのは極めて有益です
 しかし、軍事力に秀でた日本を征服するのは容易ではありません
 キリスト教の布教を進めるべきです
 キリシタンが増えれば、家康の死後、陛下を新たな王仰ぐぐことでしょう”

キリスト教の布教の先にあるアジア征服計画が、再び始まっていたのです。
スペインの野心を察知したオランダは、家康に訴えます。

”スペインは、キリスト教を広め、キリシタンの反乱によって国を崩し、征服しようとしています。
 フィリピンやメキシコも、この方法で支配下に置き、植民地にしてきたのです。”

家康が選んだのは、オランダでした。
家康は、軍事物資と交換にオランダに銀を渡すことを約束します。
世界屈指の生産量を誇った日本の銀・・・オランダは、巧みな交渉術でその扉を開くことに成功したのです。
オランダは、スペインがキリスト教を広めた後、国を征服するとはっきり家康に進言しています。
尚且つ、自分たちは宗教を広めず、貿易にしか関心がないと始めから明言しました。
江戸幕府は、色々な情報を判断して、オランダならば自分たちの望むような貿易をしてくれると期待したのです。



一方、スペインに対して家康は不信感を募らせていました。

”キリシタンの徒党、日本の占領を企てている
 後世必ず国家の患いとなろう”

1612年、禁教令を出します。
各地で厳しい弾圧の嵐が吹き荒れました。
この時、キリシタンに手を差し伸べたのが、家康と敵対する大坂城の主・豊臣秀頼でした。

”秀頼様は、自由な布教と教会の建設を約束してくださった”

家康との直接対決が近づいていたこの時期、禁教令によって行き場を失っていたキリシタンの兵力は、豊臣方にとって喉から手が出るほど欲しい存在でした。
秀頼は、宣教師を通じて全国各地のキリシタンに働きかけます。
キリシタンは軍事勢力として考えたとき、全国からやってきたらかなりの数にのぼりました。
南蛮国から援軍がやってくるということを、城内に籠っている人たちは信じていました。
そのような期待は、江戸幕府と戦うにあたって大阪城でもありました。

豊臣軍は、総勢10万の大軍に膨れ上がっていました。

1614年~1615年、大坂の陣
戦国最大にして最後の合戦となった大坂の陣・・・
キリスト教を禁止した家康、キリシタンの援軍を得た秀頼・・・
大坂の陣は、キリスト教布教の行く末を左右する戦いでもあったのです。
大軍で四方から攻め寄せる徳川軍・・・
しかし、豊臣軍から一斉射撃を浴びせられ、大坂城に近づくことも困難でした。
窮地に陥った家康・・・
豊臣軍善戦の裏には、宣教師とつながるキリシタン勢力の存在がありました。
決戦の舞台となった大坂城の発掘調査で・・・
地下から現れたのは、豊臣軍の軍事基地の跡でした。
そこから、作りかけの鉄砲玉が発見されました。
大坂城下では、戦のさ中、銃弾の製造がおこなわれていました。
それを可能にしたのが、スペインとつながるキリシタン商人だったのです。
キリシタン商人は、玉の原料となる鉛をかき集め、大坂城に運び込んでいました。

追い詰められた家康・・・起死回生の策とは??
大砲による大坂城への直接攻撃です。
しかし、徳川軍の陣地から本丸までは、最短でも500m・・・従来の大砲の有効射程を超えていました。
この時、家康が頼みの綱としたのがオランダでした。

”家康さまが、大砲と砲弾をすべて購入することを報告する”byスペックス

家康の待ち望んだオランダの大砲・・・
17世紀にオランダが開発したブロンズ製の大砲です。
当時、最新式のカノン砲です。
オランダ東インド会社は、海外の戦場で売れる商品として大砲に着目・・・
多額の開発資金を投じ、イノベーションを加速していました。
オランダは、ヨーロッパの軍事産業の中心地で、常に新兵器の開発が行われていました。
最新式の大砲を積んだオランダの船は、武器市場を世界に広げました。
特に成果を上げたのが、戦国時代の日本だったのです。

オランダの大砲の技術は・・・??
有効射程は500m以上、世界各国で開発された大砲の中でも、群を抜く性能でした。
絶大な衝撃力で、その恐怖は尋常ではありませんでした。
最新式のオランダの大砲12門が、戦いのさ中家康のもとに届けられました。
さらにオランダは、熟練の砲手を送り込んで、徳川軍を支援します。

砲弾は、天守と御殿を直撃・・・多数の死傷者を出します。
キリシタンを率いる秀頼は、戦意を喪失。
家康は、オランダの力をかり、150年にわたる戦国の世に終止符を打ったのです。

戦いの背後で暗躍していたスペックス・・・
大坂の陣を機にオランダ東インド会社は待望の銀を手にします。

”家康さまに、大砲と砲弾を納品した
 代金は、銀貨1万2000枚にのぼる”

家康の信頼を勝ち得たオランダ・・・年々取引高を伸ばし、最盛期には年間94tもの銀が日本から運び出されます。
銀だけではなく・・・さらに、日本から輸出されたある物が、世界の覇権を左右していきます。
オランダの積み荷リスト・・・火縄銃や槍、日本刀・・・戦乱の中で性能を高めた日本製の武器は、恰好の商品でした。
さらに、武器と共に数多く記されているのが、日本人の名前です。
ひとりひとりに細かく給料が定められています。
彼等の正体は、金で雇われ、海外の戦場で戦う日本人傭兵でした。
日本の侍たちが、商品として輸出していたのです。
背景にあったのは、日本の戦国時代が幕を閉じたことでした。
天下泰平の江戸時代が訪れると、それまで戦を生業としていた多くの侍が失業・・・新たな戦いの場を求めていたのです。
日本人傭兵の総数は、おそらく数千人を超えていました。
彼等は、アジア各地に散らばり、ヨーロッパ勢の植民地争いで大変重用されました。
とても豊富な戦争経験を持っていたからです。
東南アジアで繰り広げられていたオランダとスペインの植民地争奪戦・・・この戦いの鍵を握っていたのが日本人傭兵でした。



知られざる戦国・・・日本人傭兵の戦い
日本人傭兵を雇い入れるために家康との交渉役となったのが、あのスペックスでした。
スペックスのもとに、東南アジアの植民地総督から救援要請が届きます。

”スペインとの戦争に投入するため、果敢な日本人を可能な限り送ってくれ”

スペックスは、日本の侍を、一気に数百人規模で雇いあげようと画策します。
その実現のため、家康との直接交渉に乗り出しました。
オランダから武器を入手し、利益を得ていた家康・・・スペックスの申し出を特別に許可します。

”家康さまに日本人傭兵の出国許可を願い出た
 とても見事な兵士を届けることができるだろう”

日本人傭兵を手にしたオランダ・・・スペインがしはいするモルッカ諸島に定めます。
モルッカ諸島は、スペインの最重要拠点の一つでした。
特産品の香辛料は、一粒が同じ重さの銀に匹敵すると言われ、莫大な利益を生む商品でした。
スペインは、モルッカ諸島の各所に強固な要塞を築き、防備を固めます。
オランダは長年その攻略を試みるも果たせずにいたのです。
この時、突破口を切り開くために投入されたのが、日本人傭兵だったのです。

モルッカ攻略作戦

夜の闇に紛れて軍艦を近づけ、砲撃を加える
敵がくぎ付けになっている隙に、歩兵隊が上陸
夜が明けるとともに、敵の死角から一気に攻め入りました
先陣を切ったのは侍たち・・・槍や日本刀による接近戦で、敵を切り崩しました。
侍たちの決死の攻撃で、要塞は陥落・・・オランダは勝利を手にしました。

”日本の傭兵は、オランダ人以上に勇敢だった
 彼らの旗が、城壁に最初に掲げられた“
 
勢いに乗ったオランダは、スペイン・ポルトガルの植民地を次々に奪取。
東南アジアにおける優位を確立します。
インドネシアのジャカルタに築かれたオランダ東インド会社の総督府・・・家康が送り出した日本人傭兵が、世界のネットワークを大きく似り変えたのです。

こののち、世界の海を行くヨーロッパの船の3/4にオランダの旗が翻ることになります。
世界屈指の産出量を誇ったジャパン・シルバー。
長きにわたる戦乱の世が最強の兵士・侍を・・・オランダは、戦国日本と結びつくことで、世界の覇権を握ることとなったのです。

大航海時代の世界は、ヨーロッパの視点で語られることがほとんどです。
しかし、それは、物語の一部にすぎません。
戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線だったのです。
戦国日本と深く結びついていた激動の世界・・・今、アジア各地で様々な調査が行われています。
ベトナム・ラム川の河口・・・音波探査機の調査では、朱印船が沈んでいるのでは??
朱印船とは、家康の正式な許可を得て送り出された貿易船です。
日本の銀と引き換えに、国内では手に入りにくい生糸や絹織物を輸入していました。
日本版・大航海時代を夢見た家康・・・この計画を支えていたのがオランダでした。
世界の海で培った技術や造船方法を家康に惜しげもなく提供。
多い時には年間30隻近くの船が、ベトナムやタイなど東南アジア各国との間を往復していました。

この朱印船に乗って、多くの商人たちが海を渡っていました。
その痕跡を探る調査も行われています。
海を渡った日本人商人たちは、東南アジア各地で活躍、日本人町を形成していました。
ヨーロッパの人々が続々とアジアに押し寄せた大航海時代・・・
それはまた、日本人が未知の大海原へと漕ぎ出した時代だったのです。

世界と初めて対峙した戦国日本・・・
小国の領主に過ぎなかった信長は、宣教師とつながることで戦国の覇者へと上り詰めました。
天下統一を成し遂げた秀吉は、超大国スペインを出し抜き、海の向こうまでその野望を広げました。
そして、新興国オランダと結び、250年もの天下安泰をもたらした家康・・・
3人の天下人は、ヨーロッパの大国と熾烈な駆け引きを繰り広げながら、この国の進路を決定づけていきました。
戦国・・・それは、日本が激動の世界と向き合った最初の時だったのです。

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