1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハを占領!!
ロンドンの金融街で働いていたニコラス・ウィントンは、プラハに向かいます。
ウィントンは、ホテルの一室でパスポートとイギリス行きのビザを偽造。
ウィントンは数カ月の間に、8本の記者で数百人の子供たちをプラハから脱出させました。
それは親を失うことになる旅でした。
669人の子供を救ったニコラス・ウィントン。
しかし彼は、そのことを決して口にはしませんでした。
彼の行動が知られることになったのは、50年近くたってからです。
妻が偶然古い資料を見つけたのです。
1988年、テレビ番組に招かれたウィントンは、突然、周りにいるのが自分が救った子供たちだと知らされます。
イギリスのシンドラーともいわれるウィントン。
彼は、あるモットーに従って行動していました。
「不可能でない限り 必ず道はある 私はそう信じています」
1988年2月、BBCがウィントンの日誌を紹介し、センセーションを巻き起こします。
そこには彼が1939年に、ユダヤ人の子供669人をプラハから救出したことが記されていました。
事の発端は、1987年の冬・・・
ウィントンの妻がロンドン郊外にある自宅の屋根裏部屋を片付けていた時のこと。
ウィントン夫人は、革張りの古いアルバムを見つけました。
ページをめくるうちに、夫ニコラスのものだと気づきます。
書類や報告書、写真の数々・・・それは、夫が第2次大戦直前、子供たちの救出活動に動いたことを示していました。
ウィントンは、妻にさえその話をしていませんでした。
「戦争を経験した人は、当時のことを語ったりしないものです
他の人に比べて、私が特に謙虚だったわけではありません」byウィントン
ニコラス・ウィントンの両親は、イギリスに移住したドイツ系ユダヤ人で、元々の苗字はベルトハイムでした。
夫妻は子供たちに、イギリス式の教育を受けさせました。
ウィントンは幼いころに、英国国教会で洗礼を受けます。
運動も得意で、フェンシングでオリンピックのイギリス代表を目指していました。
ナチズムが台頭する中、一家は苗字をイギリス風に変えることを決めます。
そして、たまたま電話帳で見つけて気に入ったウィントンを名乗るようになりました。
ロンドンの金融街で働き始めたウィントンは、証券ディーラーとして成功をおさめます。
ドイツ語が堪能で、仕事でヨーロッパ中を飛び回っていた彼は、ヒトラーの台頭がヨーロッパに戦争をもたらしかねないと、危惧していました。
「私はイギリス国内やヨーロッパの政治情勢をよく理解していました
イギリスの政策が正しいとは思えませんでした」byウィントン
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1938年9月、ドイツ・イタリア・イギリス・フランスの首脳によるミュンヘン会談で、チェコスロバキアのズデーデン地方がドイツに割譲されることが決まります。
イギリスとフランスが宥和政策をとったため、ヒトラーは戦わずして勝利を得ます。
大ドイツ帝国の建設を目指していたヒトラーが、ドイツ系住民が多いズデーデン地方の併合に成功したのです。
首都プラハのユダヤ人は不安を募らせます。
1938年11月、ドイツ全土で水晶の夜と言われるユダヤ人への襲撃が起きます。
シナゴーグに火が放たれ、商店は略奪され、多くの人が命を奪われました。
クリスマスが近づくロンドンでは、誰もが平和を願っていました。
ヒトラーは、ミュンヘン会談で平和を約束していました。
当時29歳だったウィントンは、クリスマス休暇をスイスで過ごすことにしていました。
しかし、荷造りの最中にかかっていた1本の電話が、スキー旅行の計画はおろか、彼の人生までも帰ることとなります。
1938年のクリスマス直前・・・
親友のマーティン・ブレイクとスキー旅行に行く準備をしていました。
その時、マーティンから電話がありました。
「スキーには行かない・・・今、僕はプラハにいるんだ
君にも来てほしい」
と言われました。
親友の電話で、緊急事態に違いないと思ったウィントンは、すぐにロンドンのリバプールストリート駅からチェコスロバキアへと向かいました。
その時点でわかっていたのは、マーティンが難民支援活動をしていて助けを必要としているということだけでした。
それでも、ウィントンは、親友が待っているプラハのホテルへと向かいました。
到着すると、マーティンは真っ先にドーリーン・ウォーリナーという女性に引き合わせました。
イギリス難民委員会という組織のプラハ支部の責任者でした。
彼女の薦めで数日後、ウィントンはユダヤ人の難民キャンプを訪れました。
「あの冬、難民キャンプで何が起きていたのか、私はこの目で見ました」byウィントン
ナチスによる迫害を恐れ、ドイツやオーストリアから逃れてきたユダヤ人・・・
そして、ズデーデン地方から追放されたユダヤ人が、プラハ郊外の難民キャンプに押し込められていました。
空腹を抱え、寒さに震える子供たちの姿に衝撃を受けたウィントンは、直ちに行動を起こします。
一刻の猶予もないと思ったウィントンは、文章を偽造し始めました。
難民委員会のレターヘッドがついた便せんに、手作りのスタンプを押して、児童保護課という架空の部署を作り出したのです。
そして、イギリス内務省あてに数通の電報を送って、当局から活動へのお墨付きを得ました。
時間との戦いでした。
ドイツ軍は、まだプラハに入っていませんでしたが、秘密国家警察ゲシュタポがユダヤ人を捕らえ始めていました。
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ウィントンの部屋は、難民委員会の本部と化し、朝6時にはもうホテルの廊下に人があふれていました。
ユダヤ人の子供を救ってくれるというイギリス人に会おうと、親たちがホテルに詰めかけたのです。
ウィントンは、朝早くから日が暮れるまで親たちと面会しました。
金融業界で培った手際の良さで、危険な状況にある子供たちの記録を次々とまとめていきます。
その数は、2週間で400人ののぼりました。
作業量は膨大で時間が足りませんでしたが、ウィントンのクリスマス休暇は終わりに近づいていました。
そこで彼は上司に休暇の延長を申し出ます。
しかし、返信は・・・”会社のために働いてもらいたい”でした。
止む無く帰国することになったウィントンは、なんとか資金を工面し、プラハに事務所を設置しました。
ウィントンは、1939年1月21日に仕事に復帰します。
しかし、頭の中はユダヤ人の子供をプラハからイギリスに連れてくるため、イギリス政府の許可を取ることでいっぱいでした。
証券取引所が午後3時半に閉まると、家に帰るとすぐに本当の仕事に取り掛かりました。
ウィントンは、ロンドンの実家に事務所を開設し、母親と二人のボランティアに手伝ってもらって活動を続けました。
2月初め、ようやく内務省から子供たちの受け入れに許可が出ます。
しかし、それには条件がありました。
すべての子供に里親を見つけること、そして、ひとり50ポンドの保証金を支払うことでした。
受け入れ家庭を見つけるため、ウィントンは1ページに6人の子供の写真を載せたカタログを用意し、新聞や慈善団体に送りました。
彼のもとには、大量の郵便物が届くようになり、地元の郵便局が不審に思い始めます。
「どうしてチェコスロバキアから大量の手紙が届くのか??」
工作員ではないのか??と。
ウィントンにとって手段は重要ではなく、結果が全てでした。
この方法は功を奏し、イギリス中の人が彼の呼びかけに応じました。
里親が決まった子供には印がつけられます。
選ばれなかった子供たちは、消えゆく運命にありました。
チェコスロバキアでは、1万5000人ものユダヤ人の子供が収容所に送られ命を失いました。
ユダヤ人の中には、ウィントンの活動に異議を唱える人もいました。
ユダヤ上司同社のグループが訪ねてきて、
「ユダヤ人の子供をイギリスに連れてきて、キリスト教徒の家庭で養育させようとしているそうだがやめるべきだ」と。
「第一に、あなた方には関係ないことです
第二に、あなた方はユダヤ人の子がキリスト教徒の家庭で生き延びるよりも死んだ方がいいとおっしゃるのか!!」
ヒトラーにとって、答えは単純明快でした。
よいユダヤ人とは死んだユダヤ人でした。
ミュンヘン協定の代わりに約束された平和は、わずか半年で崩れ去りました。
1939年3月15日、ドイツ軍は、何の抵抗も受けることなくプラハを占領します。
ヒトラーは、プラハ城でドイツ軍部隊を前に、チェコスロバキアのボヘミア地方とモラビア地方を保護領にしたと宣言しました。
チェコスロバキアは解体され、この国のユダヤ人30万人の自由が奪われました。
難民委員会は、里親が見つかった子供たちの渡航書類の準備に追われていました。
ウィントンは、ゲシュタポに金を支払い、プラハを発つ汽車を手配しました。
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イギリス当局は、戦争が迫っているとは考えていなかったため、ビザの発給を急ごうとはしませんでした。
不可能でない限り道は必ずあると考えるウィントンは、密かに印刷機を購入しビザの偽造をはじめます。
手遅れになる前に、子供たちを救いださなければなりません。
1939年7月31日の日の夜、悲しげな一団がカレル橋を渡ってプラハの駅へと向かっていました。
この日は、ウィントンが手配した8本目の記者が出発する日でした。
プラハ中央駅では、68人の子供が親と別れ旅立とうとしていました。
その後ろにはドイツ兵が立っていました。
ドイツにとっては悪くない話でした。
ウィントンが、ユダヤ人の子供を厄介払いしてくれる上、汽車1本につき1000ポンドを払ってくれるのです。
一人につき3枚の荷札が配られました。
2枚は荷物用、1枚は子供につけるためです。
荷物は衣類のみ、貴重品の持ち出しは禁じられました。
子供たちの多くは、しばらく旅行に出かけるだけだと思っていました。
ナチスから守るために、見ず知らずの人に託すのだと言えない親もいました。
ドイツが出国を許したのは、生後数カ月から17歳までの子供でした。
汽車はドイツを横断しなければなりませんでした。
しかし、旅の終わりには自由が待っていました。
自由になったと実感したのは、汽車がドイツからオランダに入った瞬間でした。
それまで固く閉じられていた窓も開けられました。
子供たちに笑顔が戻りました。
オランダの民族遺書いうに身を包んだ女性たちが、ココアやサンドイッチで出迎えてくれました。
そのあと、大きな船に乗せられて、イギリス海峡を渡ったのです。
朝、イギリス南東部はリッジの港に到着。
祖国を追われた子供たちにとって、新たな人生の始まりでした。
子供たちは船を降りると汽車に乗ってロンドンに向かいました。
リバプールストリート駅には、イギリス各地から里親たちが迎えに来ていました。
ウィントンは、子供たちを乗せた汽車がロンドンにつくたび、自ら駅で出迎えました。
里親が子供たちに会うのは初めてでした。
目当ての相手を探し当てるまでには混乱がありました。
子供たちは、新しい親につれられ、イギリス各地に旅立っていきました。
駅には、引き取り手が見つからなかった年長の子供たちが残されました。
ウィントンは、里親を見つけるという条件を無視して、彼等を連れてきていました。
見捨てることができなかったのです。
後にウェールズに送られた子供もいました。
チェコスロバキアの亡命政府が、引き取り手のいない子どものための施設を用意したのです。
1939年3月以降、8本の汽車がプラハを出発、669人の子供たちが、イギリスで安全な居場所を手に入れました。
しかし、救出を待つ子供は、まだ5000人残っていました。
ウィントンたちは、これまでで最大規模の計画の準備を進めていました。
250人の子供が親元を離れてプラハを出発し、里親が待つイギリスに渡ることになっていたのです。
しかし、この9本目の汽車が出発することはありませんでした。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。
ヨーロッパは戦争に突入しました。
国境は閉鎖され、子供たちは行き場を失います。
「それまでで最大の250人の子供が、9月1日に出発する予定でした
しかし、それはかないませんでした
悔やんでも悔やみきれません
250人の子供をイギリスに送るために、膨大な労力と費用をかけて準備しました
でも、たった1日の差で、250人を安全な場所に移すことができなかったのです
ひとりかふたり、生き延びたという話を耳にしましたが、ほとんどの子が命を失いました」byウィントン
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1939年9月3日、イギリスが参戦すると、ウィントンは、赤十字の難民支援活動に参加します。
しかし、ナチスの残虐行為に衝撃を受け、イギリス空軍に参加。
プラハから助け出された年長の子供の中にも、イギリスとチェコスロバキアのために戦うことを望み、軍に志願する者もいました。
15歳でイギリスにやってきた少年は、18歳になるとイギリス空軍のチェコスロバキア部隊への入隊を認められます。
機関銃の射手として爆撃機に乗って戦った少年をはじめ、プラハから逃れてきた子供の多くが連合軍の勝利に貢献しました。
1945年5月、ドイツの無条件降伏を受け、バッキンガム宮殿では後に女王となるエリザベス王女が、群衆と共に勝利を祝いました。
この日はまた、犠牲者を悼む日となります。
兄弟のもとにその手紙が届いたのは、書かれてから4年後のことでした。
両親は手紙を書いた数日後にプラハの北にあるテレジンのユダヤ人強制収容所に送られていました。
”愛する息子たちへ
あなたたちがこの手紙を読むときには戦争は終わっているでしょう
私たちにとって何より大切なあなたたちにお別れを言いたくてペンを執りました
母さんたちは未知の世界に向かいます
二人が同じ運命をたどらずに済んだことに心から感謝しています
あなたたちを里子に出すと決めた時から、父さんと母さんの心は常に二人と共にあります
あなた達に良くしてくださった人々に感謝します”
テレジン収容所に送られ、飢えやナチスの残虐行為で命を落としたユダヤ人は3万3000人。
また、9万人がここから汽車でアウシュビッツに送られました。
我が子の命を救った親たちは、今、テレジンの墓地で眠っています。
戦後、ウィントンは、証券取引の仕事には戻らず、国際難民帰還でナチスに奪われたユダヤ人の財産を取り戻す仕事に尽力します。
パリで出会ったデンマーク人のグレタと結婚。
ロンドン近郊に居を構え、3人の子供に恵まれました。
1971年には仕事を引退します。
そしてある日、彼の話が有名なジャーナリスト、エスター・ランツェンの耳に入ったのです。
屋根裏部屋をかたずけていたウィントン夫婦・・・
夫人がブリーフケースを見つけました。
開けてみると・・・中にはスクラップブックが入っていました。
夫人が聞くと・・・ウィントンは、戦前の出来事の記録だと答えました。
スクラップブックに収められた書類や写真を見た夫人は、
「命を救われた子供たちにとっては、とても価値のある貴重な資料よ!!」
と言いました。
ウィントン夫人は、スクラップブックを歴史家の友人に見せます。
彼女の夫は、新聞王ロバート・マックスウェルで、彼自身ホロコーストを生き抜いたチェコスロバキアのユダヤ人でした。
ニコラス・ウィントンの話は新聞に掲載され、テレビ番組も企画されました。
1988年2月、ウィントンは、BBCの番組(司会エスター・ランツェン)に招かれます。
しかし、番組の内容についてはほとんど知らされていませんでした。
「父は二人の女性の間に座っていました
父は彼女たちが誰であるのかを知りませんでした
しかし、2人は父のことを知っていました
司会者は、父のスクラップブックの資料を説明し始めました」byバーバラ・ウィントン
「客席のヴェラ・ギッシングさん、あなたの隣にいるのがニコラス・ウィントンさんです」byエスター・ランツェン
全く予期せぬ出来事でした。
ウィントンは、50年前に救った子供と初めて再会したのです。
「当時9歳のミレナ・フライシュマンさんは、父親がナチスの標的となり妹と脱出
リストに彼女の名前があります
今はグレンフェル・ベイン夫人です
イギリスに来た日の名札を今もお持ちだとか??」byエスター・ランツェン
「これを首から下げていました
入国の許可証もあります
私もあなたに救われた子です」
反響が大きかったため、司会者のエスター・ランツェンは、他の子供たちも探すことを決めます。
「もし、ウィントン氏に救われた方がいたら、是非手紙か電話でご連絡ください」byエスター・ランツェン
電話も手紙もたくさん来たので、再度番組にウィントンを招きます。
「ウィントン氏に感謝を伝える機会を提供したいと呼びかけました
彼に命を救われたという方が、この場にいたらご起立ください」byエスター・ランツェン
その場所にいたすべての人が立ちました。
この再会で、ニコラス・ウィントンの子供は一気に数百人に増えました。
かつての子供たちは、遂に命を救ってくれた父親と会えたのです。
「子供たちとの再会には、本当に素晴らしい出来事でした
彼等だけでなく、その子供や孫たちとも親しくさせてもらっています
まるで第二の人生をプレゼントされたようです」byウィントン
2009年、ウィントンに救われた子供たちは命の恩人の100歳の誕生日を祝って列車をチャーターしました。
プラハからロンドンまで・・・かつて命と自由を求めて通った道のりを再びたどります。
”今の私があるのはひとえに彼のおかげです”
この日、リバプールストリート駅には、最後の汽車とともに消えた250人の魂も来ていたかもしれません。
彼等もまた、ウィントンの子供たちとして、恩人に敬意と感謝を表していたことでしょう。
「私たちは、ニコラス・ウィントンを父親のように思っています
娘は子供をニコラスと名づけました
私には、ニコラスという孫と、ウィントンという名のひ孫がいます」
669人の子供たち・・・その孫やひ孫の数は6000人余りに上ります。
ナイトの称号を与えられたニコラス・ウィントンは、106歳で点に召されました。
「不可能でない限り、必ず道はある
私はそう信じています」byニコラス・ウィントン
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