THEナンバー2
久しぶりに見ました。(*≧m≦*)
夏休みの疲れも、映画でリフレッシュ!やっと、普通の生活になれそうです。
今回は、~戦国最強の僧侶~太原雪斎です。
この人は、実はよく知りませんでした。戦国ゲームの中では、知る人ぞ知る、とっても有名な人だそうですね。彼は、臨済宗の僧侶で、今川義元の名参謀でした。
雪斎は、今川義元の父から、義元の教育係を任されます。
というのも、この義元も、もともと家督を継ぐ立場ではなく、1536年氏輝が死去、その弟も不審死、当時は仏門に入っていた義元が、18歳で家督を継ぐことになったのです。
そうして、跡目争いに勝利し、この義元を当主にするため、お家安泰を望み、立ち上がるのです。
僧侶といえば、今では平和主義的なお坊さんというイメージですが、江戸時代前の僧侶は、織田信長で有名な比叡山焼き討ちなど、結構戦闘的な僧侶が多かったのは事実です。
僧侶は、経文だけでなく、孫子や六韜三略など、軍略書にも明るかった上に、使僧として、全国を回れたという強みがあったのです。この使僧とは、俗世間から切れているという「無縁の原理」によって、国をまたいだ旅が出来たというものです。これが、雪斎の強みでした。
今川の内乱を抑えるため、武田信虎から支援してもらうことを確約させます。これは、最大の敵を味方につけることによって、戦いの先手を取ったのです。義元を当主にした後、武田家との関係を強化するため、武田晴信に京都三条家娘を娶らせ、信虎の娘を義元に娶らせます。いわゆる婚姻外交を進めるのです。
そうした中、1541年、武田晴信が、自分の父である信虎を追放します。この信虎の身元引受人になったのが雪斎で、武田側と話をまとめます。
諸説ありますが、この追放劇は、晴信と雪斎の密約があって、二人の策略かともいわれています。
そして、上洛するため、武田・北条と三国同盟を結びます。これは、武田は上杉と、北条も北と、今川は西と、背を見方にする必要があったからです。
1546年、三河へと侵攻を始めます。軍の総指揮は雪斎。松平とは、竹千代(家康)を人質にとることで同盟を約束したにもかかわらず・・・。田原城主が織田側に買収されていて、「駿河には海で行くほうが・・・。」と、船に乗せられてしまい、船はあれよあれよと織田側へといってしまうのです。織田が、竹千代強奪に成功します。
そんな中、松平の家臣をまとめたのも雪斎でした。小豆坂で織田信秀の長男・信広と対決し、信広を生け捕ります。そうして、竹千代と交換するのです。
そうして、雪斎は竹千代の教育係になるのです。
1554年、北条、武田、今川の間で三国同盟(不可侵条約)が成立しようとしていましたが、雪斎は今までの無理がたたり59歳で亡くなるのです。
後に家康が語っています。
「雪斎亡き後は今川の国政ととのわざりき」と。
雪斎の死から5年、義元は桶狭間の戦い(本当は田楽狭間の合戦らしい)で討ち死にすることになるのです。
今川義元の失敗は、雪斎に代わる人材を作っておかなかったことでしたが、はじめの通り、雪斎はと義元は師弟関係にあり、雪斎を尊敬していた義元には、考えられなかったのかも知れません。
しかし、聡明な愛弟子、家康には数々のことを、自らの兵法の極意を伝授していました。それは、家康の中に類稀な才能を見出していたのかも知れません。そして自分がナンバー2として大きな存在になりすぎたことを憂慮して、家康にはあまり公言しないように、また、家康も公言しなかったといいます。
こんなに有名になる要素がたくさんあるのに、何で知らなかったんだろう?ε~( ̄、 ̄;)ゞフー安国寺恵けいとかぐらいです・・・。
まだまだ修行が足りませんね。(TmT)
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村
久しぶりに見ました。(*≧m≦*)
夏休みの疲れも、映画でリフレッシュ!やっと、普通の生活になれそうです。
今回は、~戦国最強の僧侶~太原雪斎です。
この人は、実はよく知りませんでした。戦国ゲームの中では、知る人ぞ知る、とっても有名な人だそうですね。彼は、臨済宗の僧侶で、今川義元の名参謀でした。
雪斎は、今川義元の父から、義元の教育係を任されます。
というのも、この義元も、もともと家督を継ぐ立場ではなく、1536年氏輝が死去、その弟も不審死、当時は仏門に入っていた義元が、18歳で家督を継ぐことになったのです。
そうして、跡目争いに勝利し、この義元を当主にするため、お家安泰を望み、立ち上がるのです。
僧侶といえば、今では平和主義的なお坊さんというイメージですが、江戸時代前の僧侶は、織田信長で有名な比叡山焼き討ちなど、結構戦闘的な僧侶が多かったのは事実です。
僧侶は、経文だけでなく、孫子や六韜三略など、軍略書にも明るかった上に、使僧として、全国を回れたという強みがあったのです。この使僧とは、俗世間から切れているという「無縁の原理」によって、国をまたいだ旅が出来たというものです。これが、雪斎の強みでした。
今川の内乱を抑えるため、武田信虎から支援してもらうことを確約させます。これは、最大の敵を味方につけることによって、戦いの先手を取ったのです。義元を当主にした後、武田家との関係を強化するため、武田晴信に京都三条家娘を娶らせ、信虎の娘を義元に娶らせます。いわゆる婚姻外交を進めるのです。
そうした中、1541年、武田晴信が、自分の父である信虎を追放します。この信虎の身元引受人になったのが雪斎で、武田側と話をまとめます。
諸説ありますが、この追放劇は、晴信と雪斎の密約があって、二人の策略かともいわれています。
そして、上洛するため、武田・北条と三国同盟を結びます。これは、武田は上杉と、北条も北と、今川は西と、背を見方にする必要があったからです。
1546年、三河へと侵攻を始めます。軍の総指揮は雪斎。松平とは、竹千代(家康)を人質にとることで同盟を約束したにもかかわらず・・・。田原城主が織田側に買収されていて、「駿河には海で行くほうが・・・。」と、船に乗せられてしまい、船はあれよあれよと織田側へといってしまうのです。織田が、竹千代強奪に成功します。
そんな中、松平の家臣をまとめたのも雪斎でした。小豆坂で織田信秀の長男・信広と対決し、信広を生け捕ります。そうして、竹千代と交換するのです。
そうして、雪斎は竹千代の教育係になるのです。
1554年、北条、武田、今川の間で三国同盟(不可侵条約)が成立しようとしていましたが、雪斎は今までの無理がたたり59歳で亡くなるのです。
後に家康が語っています。
「雪斎亡き後は今川の国政ととのわざりき」と。
雪斎の死から5年、義元は桶狭間の戦い(本当は田楽狭間の合戦らしい)で討ち死にすることになるのです。
今川義元の失敗は、雪斎に代わる人材を作っておかなかったことでしたが、はじめの通り、雪斎はと義元は師弟関係にあり、雪斎を尊敬していた義元には、考えられなかったのかも知れません。
しかし、聡明な愛弟子、家康には数々のことを、自らの兵法の極意を伝授していました。それは、家康の中に類稀な才能を見出していたのかも知れません。そして自分がナンバー2として大きな存在になりすぎたことを憂慮して、家康にはあまり公言しないように、また、家康も公言しなかったといいます。
こんなに有名になる要素がたくさんあるのに、何で知らなかったんだろう?ε~( ̄、 ̄;)ゞフー安国寺恵けいとかぐらいです・・・。
まだまだ修行が足りませんね。(TmT)
↓ランキングに参加しています。

↓応援してくれると嬉しいです。


にほんブログ村