マインドコントロール・・・その罠は、日常の至る所に潜んでいます。
セミナー、ボランティア、SNS・・・自らの意思で選んだように見せかけ、一度入れば抜け出せない・・・
そして恐ろしい事件を引き起こしてしまうかも・・・??
今から40年前、南米ジャングルの中の町で起きた前代未聞の集団自殺・・・
死者の数909人・・・信者を自ら死に追い込んだのは、人民寺院の教祖・ジム・ジョーンズでした。
社会正義を掲げ、人々を熱狂させ、奇跡を起こす・・・
しかしその一方、信者を恐怖で縛る・・・!!
彼等はどうして自分の生き死にまで操られてしまったのでしょうか?

南米ガイアナのジャングルを切り開いて作られた町・・・ジョーンズタウン・・・
今からおよそ40年前、アメリカから集団移住した宗教団体は、人種の垣根を超え、理想郷を作ろうとしていました。
ところが、1978年11月18日・・・
彼等の理想郷は突如崩壊します。
子供を含む909人が集団自殺したのです。
死因は猛毒のシアン化合物による服毒自殺でした。
この集団自殺を引き起こしたのは、人民寺院・・・そして信者たちをしに追いつめたのが、ジム・ジョーンズでした。
人民寺院は、数千人の熱狂的な信者を抱える大教団・・・

始まりは、集団自殺事件の47年前・・・
アメリカのインディアナ州・・・ジム・ジョーンズは、1931年5月13日に州都インディアナポリスにほど近い900人ほどの小さな町で生れました。
当時、アメリカ各地で激しい人種差別が蔓延し、インディアナ州もそんな一つでした。

”私の家は、地域の中でも間違いなく貧しい方でした。
 子供の頃を思い出そうとすると、とても辛くなります。”

貧しい暮らしの中で、事務の人格形成に大きく影響を及ぼしたのが、母のリネッタでした。

母親は、輪廻転生を信じていました。
今の自分が不幸なのは、周りの抑圧と嫉妬のせいだと信じていました。
その反動からか、ジムのことを幼いころから
「あなたは特別な人」
「神はあなたが世界を変える人になるのを望んでいる」
と、繰返し言い聞かせました。

幼くして強烈な使命感と自己愛を背負い込んだジム・ジョーンズは、自分の生きる道を当時コミュニティーの中心だった教会に求めます。
6歳の頃から町じゅうの教会を回り、聖職者がどのように人々の関心を集め、世間に影響力を持つのか・・・
説教の仕方や振る舞い・・・
そして、1952年21歳の時、インディアナポリスの地元の白人教会の見習い牧師に就任します。
この頃、信者獲得の方法を研究していたジム・ジョーンズは、ある教会の集会に参加し、衝撃を受けます。
それは、ペンテコステ派教会の集会で、聖霊体験を通じて信仰を深めるというものでした。
信仰に没頭する信者を見たジム・ジョーンズは、この手法を利用することを考えます。

1954年、23歳の若さで人民寺院設立。
人民寺院は、貧しい人の救済や人種差別の撤廃などを掲げ、黒人や貧民を引き付けていました。
設立当時の人民寺院は・・・
人種差別と貧困に苦しむ黒人たちの心をわしづかみにしたのは、ジム・ジョーンズが熱狂的に掲げる理想の社会でした。

”私は神の原理 すなわち神の社会主義を身をもって実現しています
 完全に平等な社会 人々が全ての物事を共有する社会
 貧富の差がなく、人種の区別がない社会の代表者なのです
 平等や正義を求めて闘う人あらば、そこに私は存在します
 そのような場所こそが、私の居場所なのです。”

インディアナポリスでは、人気者となりました。
白人の牧師なのに、他民族の共生生活やマイノリティーの社会問題を取り上げ、熱く語りました。
これまでそんな話をする牧師は、見たことも聞いたこともありませんでした。
ジム・ジョーンズは、理想を語るだけでなく、自ら実践しました。
貧しい人々やホースレスに無料で食事を提供・・・スープ&キッチン
他にも、悩み事相談、衣服の配布など、社会奉仕の輪を広げ、知名度を上げていきます。
そして、さらに多くの信者を集めることにも熱心でした。
そのために彼がやったとこは・・・
足腰の悪い人に暗示をかけて、歩かせる奇跡に成功。
これは信仰治療・・・大衆の面前で病気を治し(ちなみにこの女性はサクラと判明)、この奇跡に多くの人々が押し寄せ、教団の規模は拡大していきます。

”私は奇跡を起こすことができる”
”私は病気を癒し、癌を治すことができる”
”私は太陽の輝きを止めることができる!!”
”私は雨を降らせることができる!”
”そう、何でもできるのです”
”平等や正義を求め戦うあなた
 そんなあなたのそばに私はいます”

世の中とうまくいかず、苦しんでいる人にとっては心動かされるセリフです。
その一方で、ジム・ジョーンズは信者獲得のために怪しい治療もしていました。
彼は何をやろうとしていたのでしょうか?

カルトとは、ラテン語で”儀礼””神々の崇拝”という意味です。
しかし、この事件が起きて、否定的な意味合いが加わってしまいました。
破壊的カルトと位置付けます。
こっそりと人権侵害をする集団・・・
破壊的カルトは、集団優先・私生活の蜂起・批判の封鎖・絶対服従という特徴を持っています。
1950年代~70年代にかけて、アメリカは価値観が大いに揺らいだ時代でした。
その中で、ビジョンを掲げる人がたくさんいて、ジム・ジョーンズもその中のひとりでした。
病気、空白感、人間関係・・・悩みを相談する相手もいない・・・
相談しても「みんなそんなもの」「我慢しなさい」といわれてしまう。。。
そこに、教祖カリスマが、
「あなたの悩みはわかりますよ」
「こういうことを求めているんですね」
という事で、魅力的になるのです。
「信じる信じない」は、自分や周りが体験したことだけしかない・・・それを与えられてしまうと信じてしまうのです。

マーチン・ルーサー・キング・・・
1960年、公民権運動が盛んになる一方で、それを阻止しようとする白人との対立が深まった時代・・・ジム・ジョーンズは、1961年、30歳でインディアナポリスが選出する人権委員会委員長に就任。
人権委員会は、言論の自由、暴力の禁止などを啓蒙する民間組織で、ジム・ジョーンズは、白人専用の店や映画館などの施設を、国民に開放するなど強引に改革を進めました。
しかし、地位と名声を手に入れる一方で、彼の行動に異変が・・・。

人種差別が根強い中での急激な改革・・・
マスコミを使って自分の成果を過剰にアピールする手法などが、保守的な白人の反感を買い、ジム・ジョーンズのストレスとなっていました。
やがて、ジム・ジョーンズや人民寺院、教団の周りで嫌がらせが頻発するようになります。
深夜に鳴り響く無言電話、自宅の窓ガラスが割られることも・・・
ところが、ジム・ジョーンズは気が付いてしまいました。
そのガラスの破片は家の外側に飛び散っていたのです。
ジム・ジョーンズの不正行為・・・
ジム・ジョーンズや教団への攻撃は、ジム・ジョーンズの作り話だったのです。
自分自身で恐怖を作り上げ、信者に訴えていました。
被害妄想になっていたのです。
自作自演や、彼の指示による信者たちによる仕業・・・

”核の地獄によって、アルマゲドンが起きるだろう
 私たちはそれに備えなければならない
 独裁者が支配した時のことを考え、他の場所へ移動するみゅんびもしておかなければならない”

東西冷戦によって、核戦争の危機が恐れられていた当時、ジム・ジョーンズは、核戦争の恐怖まで利用しようとしました。
彼は、信者をコントロールするのに、”恐怖”が一役買っていることを知っていました。
彼は、「外界には巨大な悪の世界がある」と、信者に思いこませたかったのです。
ジム・ジョーンズは、あらゆる恐怖を利用し、自分達を脅かす敵は外にいるとし、「君たちを守れるのは教団だけ」だと、信者たちを追い込んでいきます。

そしてその決め手が・・・1965年教団の移設でした。
インディアナから3700キロカリフォルニア州に、140人ほどの信者を引き連れて向かいます。
彼等の移住先となったのが、レッドウッドバレー・・・ブドウ畑が一面に広がる農村地帯でした。
移住に当たり、ジム・ジョーンズは、信者たちに全財産を寄進させます。
家を売り払い、仕事も辞めさせ、人間関係まで断ち切らせました。
ここでの共同生活を強いたのは・・・そこには教祖ジムの野望が・・・!!
移住によって、教団の結束力は高まります。
彼等には家族のような強い絆が・・・!!
しかし、それは、ジムに忠誠を誓わせ、意のままにコントロールしようとするジム・ジョーンズに都合のいい偽りの家族でした。
教祖になる人の共通点は、ナルシストで自己愛が強く、自己顕示が強い・・・
他人は自分の道具のように平気でウソをついて操ることが許されると思っています。
周りから攻撃をされると自尊心が傷つき、それが嫌。
「崇拝されている自分」を感じたい・・・!!
そしてメンバーを逃がさないために、恐怖を与える!!

選ばれた少数派・・・そこに誇りを持つ人々は、自分たちのグループに属さない人を排除しようとします。
自分達は真理を知っている・・・真理に近い・・・!!
よりよい人生を歩んで、将来は”不老不死”
辛くても、そこにいることが大事で、抜け出ることが敗北なのです。
自分達こそが救われる・・・だからがんばる・・・!!
外部の人が、ヤジ、バッシングをしようと聞き入れる必要はない・・・!!
という気持ちがあるので、いくら話をしてもダメなのです。

1972年、41歳の時、組織拡大のため、人民寺院の拠点を大都市に移します。
サンフランシスコ・フィルモア地区です。
黒人たちの信者を獲得しながら、ジム・ジョーンズは新たな戦略を立てていました。

”社会を変えようと願う白人学生の心を掴む”こと。

当時は、ベトナム戦争反対をきっかけに、社会運動が盛んな時代でした。
ジム・ジョーンズは、アメリカ社会から脱出し、精神的自由を得ようとする若者に狙いを定めたのです。

人民寺院は、教団運営を教祖の側近たちによる合議制が表向き・・・民主的に進めているようでしたが、実際はジム・ジョーンズの独裁でした。
側近たちは、彼に弱みを握られた人たちで、主にセックスパートナーで、主にジムの汚い仕事を任されていました。極秘の仕事です。
女性たちが任された汚い仕事・・・その一つは、真夜中のゴミ漁り・・・信者になりそうな家のゴミ箱をあさって、個人情報を集め、礼拝の時に使います。
おもむろに名前を呼び・・・あらかじめ得た情報で、悩みや病気を言い当て、奇跡の能力と見せかけて勧誘する・・・
しかし、この詐欺まがいの事実を知っても、側近たちは止めさせようとはしませんでした。
彼のユートピア建設という革命的ビジョンに共感し、社会を変えると興奮していたからです。
彼の発言に疑問を感じても、自分が間違っていると言い聞かせていました。
ジム・ジョーンズが、自分に疑問を抱いている信者がいないか、側近たちに監視させました。
見つかれば、信者は徹底的に自己批判させされました。
自己批判は、人間浄化ともいわれ、集会など、多くの信者の前で行われました。

人間浄化といわれるつるし上げは、巧妙な計算のもとに行われていました。
友人、親、兄弟から批判させ、最後は集団でなじる・・・家族の絆を断ち切り、孤立化させるのです。
救いが得られるのは教祖だけ・・・。

人間浄化は、見ている者も恐怖で縛りつけます。

理想社会を目指す教団の恐怖の実体は、秘密として守られ続けるはずでした。
重要な幹部が逃亡・・・教団の弁護士の妻で、サンフランシスコ寺院の管理を担当する者です。
さらに、ジム・ジョーンズが最も恐れていた事態が・・・地元の有力紙・サンフランシスコクロニクルの記者が、ジム・ジョーンズの異様さに気付き、脱会した信者を調べ始めたのです。
ジム・ジョーンズの恐怖の支配に亀裂が入ろうとしていました。

家を売り、仕事を捨て、ジム・ジョーンズについてきた人たち・・・もう後戻りはできません。
その先にあると信じたのは、輝かしい未来に満ちた楽園・・・
そこで待っていたのは破滅でした。

1977年8月1日、遂に人民寺院の告発記事が出ます。
ジム・ジョーンズの本当の姿が暴かれたのです。

”敵が人民寺院を陥れようとしている”

ジム・ジョーンズは恐怖で煽り立てます。
告発記事が掲載されると、1000人もの信者がカリフォルニアから姿を消しました。
その先は、南米の国・・・ガイアナ・・・。
ジム・ジョーンズは、密かにジャングルの中に巨大な街を築き上げていました。
ジョーンズタウンと名付けられた街には、学校や病院も完備されていました。
信者は財産のすべてを教団に譲り渡し、衣食住のすべてを教団が面倒を見る仕組みです。
信者の子どもは、人民寺院の子として育て、18歳未満の子供は300人近く暮らしていました。

一方アメリカでは、家族を取り戻そうと被害者家族の会が結成されました。
下院議員が現地調査に乗り出すことに・・・!!
アメリカ政府の動向がジム・ジョーンズに伝わると、彼の被害妄想は悪化していきます。
不安が増すと、1日中拡声器で信者に恐怖を訴え続けます。

1878年11月14日、調査団はジョーンズタウンに向かいます。
ライアン下院議員に同行したのは被害者の会メンバー14人、報道関係者9人、視察期間は、11月17日、18日のみ。
11月17日、ジョーンズタウンに入ります。
カメラを向けた信者たちのすべてが、ジョーンズタウンを褒め称えます。
この日の夜、歓迎祝賀会が開催されます。
笑顔と歓声・・・その裏で、ジョーンズタウンのバランスが崩れ始めていました。
11月18日、視察2日目・・・取材班は、ジム・ジョーンズにインタビューする機会を得ていました。
彼等は独自に入手した情報をぶつけて暴こうとします。

恐怖について・・・
「昨晩、一人の信者がこのメモを私に託してきました」
そこには・・・「助け出してほしいと」名前入りの信者の手紙でした。
取材後、さらに2家族13人が、ジョーンズタウンから出たいと願い出ます。
ジム・ジョーンズが理想と恐怖でしばりつけたほころびが次第に大きくなっていきます。

差別や格差のない社会を夢見て、全てを捨てジム・ジョーンズについてきた信者たち・・・。
しかし、たどり着いた先は、教祖と教団による恐怖と抑圧・・・こんなはずではなかった・・・本当に他の道は選べなかったのか・・・??
調査団が急遽チャーターした飛行機は2機・・・空港に着くと、まず信者たちを乗せようとしました。
その時・・・滑走路に多くの人を乗せた不審なトラクターが・・・!!
11月18日午後5時・・・人民寺院信者の襲撃により、ライアン議員と報道関係者たち5人が死亡、5人が重軽傷を負いました。
その直後、ジョーンズタウンでは、ジム・ジョーンズの最後の説教が始まろうとしていました。

”下院議員はなくなりました。
 裏切り者も死んでいます。
 今日、起こったことから私たちはもう逃れることはできません。
 私たちはとても危険な状況に追い込まれてしまいました。
 平和に暮らすことができないのなら、平和のうちに死を選びましょう。”

説教の最中、側近たちは集団自殺のためのシアン化合物の入ったジュースを用意していました。
教祖の示した死に抵抗したのは、女性一人でした。

「自ら死を選ぶのは敗北です
 最期まで戦うべきです
 ここにいる赤ちゃんを見てください
 みんな生きる権利があります」

「そう思うよ だが、赤ん坊にも平和に逝くという権利もあるのを忘れてはいけない」

「平和な暮らしを求めてここに来たのです
 ロシアに亡命する選択肢はもうないんですか?」

「なに?わかった すぐロシアに電話してやろう
 ほかに案はあるか?」

シアン化合物入りジュースは、幼い子供から順に飲まされ・・・ガイアナ人民寺院事件・・・死者918人(18歳未満の子ども304人)
集団自殺を免れた信者は87人

教祖の実子スティーブン・ジョーンズは、バスケットの試合で他の町に行っていたために生き延びました。
事件後、教祖の子として他の道を選べなかったのか、スティーブンは長い間悩み続けました。

マインドコントロールをされないために・・・誰にも依存することなく、自分で考え続けることが大切なのです。

サンフランシスコの小高い丘に、ジョーンズタウンで亡くなった人たちのメモリアルが・・・。
身元が確認できなかった409遺体がここに埋葬されました。
ほとんどが子供達です。
生き延びた者たちは、長い年月、自分が生き延びた意味に悩みつつ・・・2018年、彼らが完成させた墓碑銘には、ガイアナで亡くなった全ての人の名前が刻まれています。
反対意見もあったが、ジム・ジョーンズの名前も・・・!!

本当に他の道はなかったのか・・・??
深い後悔と自責の念を抱え、元信者たちは毎年11月18日、ここで祈りを捧げるのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

人民寺院―ジム・ジョーンズとガイアナの大虐殺

中古価格
¥4,087から
(2019/9/12 23:48時点)

ガイアナ人民寺院の悲劇 [DVD]

中古価格
¥4,550から
(2019/9/12 23:49時点)