スペイン北部の小さな町・ゲルニカ・・・ここが全ての始まりでした。
1937年4月26日のゲルニカ空爆!!
戦場ではなく、一般市民を狙った無差別爆撃!!
死者の数は、未だ明らかになっていません。
当時、スペインは内戦中・・・共和国政府に反乱を起こした将軍・フランコは、ナチス・ドイツと結託。
反フランコ派の巣窟とされたゲルニカへの空爆を依頼しました。
このニュースを聞き、当時パリにいたスペイン生まれの天才が筆を執ります。
”パブロ・ピカソ”
1937年7月12日、爆撃からわずか77日後、ピカソはパリで開かれた万国博覧会・・・スペイン共和国パビリオンで一枚の絵を公開しました。
題名は”ゲルニカ”!!
子供を抱き嘆く人、途方に暮れ叫ぶ人、犠牲となった街の住人・・・ひいてはスペインの市民のために描かれたゲルニカ!!
しかし、この絵がスペインの地を踏んだのは、1962年3月3日、初公開から16131日目・・・
実に44年後のことでした。
その間には、あまりに多くの波乱がありました。
その運命とは・・・!!??
ピカソは祖国スペインのために描きましたが、パリで初公開のあと、北欧、イギリス、そしてアメリカへと転々・・・長くスペインではゲルニカを見ることができていませんでした。
そのゲルニカが、遂にスペインに帰った日・・・それが運命の分岐点です。
1981年9月10日、初公開から実に16131日後のことでした。
どうしてこんなに時間がかかったのか??
そこには3つの壁がありました。
第1の壁・・・独裁者の壁
ゲルニカの無差別爆撃に深くかかわったフランコ将軍は、戦後も長くスペインを独裁。
ゲルニカを描いたピカソは敵視され、過激派によってピカソ作品が破壊されるという事件まで発生します。
しかし、このギャラリーのオーナー、エルビラ・ゴンザレスは、危険を顧みずピカソの作品を展示し続けました。
その背景にあったゲルニカの背景にあったあまりにも強い信念とは・・・??
スペインの首都マドリード・・・この町で、エルビラ・ゴンザレスは、フランコの時代から55年間命がけでギャラリーを経営してきました。
「神様や聖人に人生を捧げる人がいるけど、私にとって、それはピカソなんです
だから私は、ピカソの絵を飾り、待ち続けました
彼の最高傑作、ゲルニカを迎え入れる日を・・・!!
たとえ、テロリストに襲われてもね」byエルビラ
全てはピカソ、全てはゲルニカのために・・・!!
祖国スペインを20代で飛び出し、長く芸術の都パリで活躍していたピカソ。
第2次世界大戦直前、55歳の時にゲルニカを描き、国際的名声をさらに高めました。
「戦争が終わってしばらくたっても、ピカソの絵を展示するのははばかられていました
芸術の観点からみればおかしなことです
だって、20世紀以降の芸術で、ピカソの影響を受けていないものなどいないでしょう?
”モノを見たままに表現しなくていい”そのピカソの姿勢にほとんどすべての芸術家が倣った・・・
マドリードでも、みんなこっそりピカソ作品に学んでいました
でも、なんでこっそり学ぶ必要があるの?
なんで、彼の最高傑作であるゲルニカはスペインにないの??
それはすべて、フランコのせいでした」byエルビラ
第2次世界大戦直前、ナチスと結びつき内戦を制圧、独裁政権を樹立したフランコ・・・
複雑な国際情勢を、したたかに生き抜き、戦後もスペインを独裁し続けました。
一方、ゲルニカは、フランコが反乱を起こしたスペイン共和国のためにピカソが描いた絵・・・
世界各地で展示されたのも、共和国支援のためでした。
しかし、願いはむなしく、1939年にスペイン共和国は崩壊します。
ピカソの意思で、ゲルニカは当時展示中だったニューヨーク近代美術館で保管されることになります。
ピカソはその後、「フランコや戦争についいで何かに思うことは??」と問われた時、こう答えています。
「私は戦争を”描いた”ことはない
写真家と違って、戦争の現場に行ってその瞬間を封じ込めたりはしないから
戦争は常に”起きている”ものだ
私が描いた絵の中に」byピカソ
ピカソは戦後もフランコの天敵に・・・
ピカソ作品は、もっぱら海外で見るものとなっていました。
「私が初めてゲルニカを見たのもニューヨークでした
最初はなんで外国で自分の国の画家の絵を見なくちゃいけないの??って思っていました
でも、見た瞬間、動けなくなりました
あの絵は理解する以前に感動させる力を持っているんです
戦争や弾圧という不条理に、あれほど強く立ち向かう意思を感じさせる絵はない・・・
嘆く女性の姿に問い詰められたような気がしました
こんな天才の作品が、祖国で見られなくていいの??って、私は私だけでもピカソの絵を展示すると決め、1966年にギャラリーを開きました
ギャラリーの名前は”テオ”
ゴッホの弟の名から取りました
テオは、兄がどんなに不遇でも、兄の絵は傑作と信じ、自分のギャラリーで扱い続けた
私も同じ
スペインでピカソの絵がどれだけ不遇でも、彼の作品を展示し続けると決めたんです」byエルビラ
エルビラには当時、どうしても展示したい作品がありました。
ピカソがゲルニカを描く直前まで7年かけて作った珠玉の版画集「スウィート・ボラ―ル」です。
「スウィート・ボラールにはこだわりました
だってあれは、ゲルニカの原点となった素晴らしい作品ですから」byエルビラ
ゲルニカに描かれた雄牛とのぞき込む女性の横顔・・・この二つのモチーフは、爆撃とは無関係ながら、ゲルニカを描く前の段階から書き込まれていました。
スウィート・ボラ―ルの1ページにも・・・
ピカソが最も得意としたモチーフでした。
「ゲルニカの中で、雄牛は戦火があっても凛々しく立っています
あの独特の横顔は、戦火をのぞき込み、だれものぞき込むことを許さぬかのよう
爆撃には関係なくとも、ピカソが描きなれたモチーフが、あの絵に”芸術”としての力をもたらしていると思います
そんなゲルニカに続く道のりを示すためにも、スウィート・ボラールは展示したかった
いつか、ゲルニカを迎えるときの”予習”としてね
だから、所有しているパリの画廊に頼み込んで、私たちの展覧会のために特別に貸し出してもらったんです」byエルビラ
ギャラリー開設から5年目の1971年・・・念願のピカソ展開催を決めたエルビラ・・・
その直前、ゲルニカを巡る騒動が起きました。
きっかけは、フランコが出した異例の声明です。
”ピカソと共に「ゲルニカ」をスペインに帰還させたい
政治的意味とは無関係に、ピカソの才能を称える芸術の宝として”
フランコは、ピカソ作品のための美術館建設を提案します。
天才ピカソとの和解は、当時経済低迷で求心力を失っていたフランコにとって、起死回生の策となるはずでした。
ただ・・・ピカソは、
”フランコのいないスペインになら「ゲルニカ」を渡そう”
ゲルニカを保管するニューヨーク近代美術館との間に、契約書を締結。
スペインに人民の自由が復活するまでは、ゲルニカは戻さない!!
フランコの面目は丸つぶれ、これを受け、フランコに心酔する一部の極右は過激な行動に出ます。
ピカソの本を扱っている書店や、ピカソのポスターを売る店が次々と見つけ出されては窓ガラスを割られます。
「私のギャラリーも、ガラスを割られるかもしれないから受付に見張りを置いたり、出来る限りの備えをしました
でも、まさか、あんなに驚強い襲撃を受けるとは想定していませんでした」byエルビラ
事件は展覧会が始まって10日目に起きました。
「あの時、私はまだ自宅にいて、画廊に向かおうとしている時でした
画廊オープン15分前に、”建築学の学生だ 早く見たいので入れてくれ”という若い男が来たんです
見張りの人は、熱心な学生だと思って中に入れました
でも、そうしたらいきなり、ドアにカギをかけられ、裏口から仲間を招き入れた
そして、絵をナイフでズタズタに切り裂き、あたり一面に硫酸をかけて去っていったんです
すぐに見張りの人が電話をくれて、私は駆けつけました
正直、倒れそうになったけど、バルセロナで同じくピカソ展を行っていたギャラリーに電話をかけました
うちは襲われた、あなたたちも気を付けてって!!
電話を切った後、作品の状態を確認しました
あれだけ頼み込んでお借りしたスウィート・ボラ―ルもズタズタ・・・心から恥じました
”傑作を守れなくてごめんなさい”と」byエルビラ
ショックで打ちひしがれたエルビラ・・・
彼女を立ち上がらせたのは、現場に犯人が残していった犯行声明でした。
”ピカソはマルクス主義者で非国民、ホモセクシャルだから、鉄槌を下す!!”
「なんて幼稚!!これはピカソのことを何も知らないバカで幼稚な連中の行いだとわかりました
ピカソがホモセクシャル??彼に女性の愛人が何人いたと思っているの??
歴史上、最も女好きで、女ばかり描いてきた画家よ!!
勉強が足りないのもほどがある!!
あれを読んで決意したんです
あんな無知な連中を無くすためにも、私はピカソの展示をやめない!!
泣き寝入りはしない!!
だから、警察が来た時も、お待ちなさいと言ったんです
フランコの息がかかった警察に任せたら、うやむやにされかねないから・・・」byエルビラ
警察を待たせ、記者を呼び、全てを写真に収めさせたエルビラ・・・
写真とそのほかのすべての記録を持って、彼女が向かったのはフランス大使館でした。
「全ての証拠をフランス大使に渡したんです
郵送すると、奪われてしまうかもしれないから直接ね
フランスを選んだのは、パリに住むピカソに伝えたかったからです
今のスペインは、ゲルニカを迎えるにふさわしくないし、こんな事件まで起きてしまう
でも、この後のスペインの反応を見てほしい
これを許してしまうのか、それともこれをとがめるのか
まだ、フランコの時代だったのに、多くのマスコミが事件をとがめてくれた
これではっきりしました
ピカソを嫌っているのは、フランコと一部の暴徒たちに過ぎない
我々スペインの大多数は、ピカソを愛しているんです」byエルビラ
エルビラがスペイン大使館に預けた写真は、ヨーロッパ中に配信されます。
国際問題を恐れたスペイン政府は、容疑者を逮捕し、刑務所に送りました。
「あれは奇跡です
フランコの時代、彼を支持する極右の犯行はうやむやにされるのがほとんどでしたから
あの後、いたずら電話がよくかかってきましたよ
保険金でどれだけ儲けたんだい?って
連中はわかっていません
政治犯の犯行には保険は下りないんです
私は何年もかけてスウィート・ボラ―ルの賠償金を支払いました
同時に、ピカソの展覧会を開き続けました
ピカソと女、ピカソと友人たち・・・いくつも・・・
だって、私たちは、ギャラリー・テオ
テオは天才のために仕事をし続けないといけないから
私は確信していました
傷つくのは私の事件が最後
もう、この国でピカソがないがしろにされることはない
いつ、ゲルニカが戻ってきても、大丈夫だと
あとはそれがいつになるか
私は首を長くして待っていました」byエルビラ
ゲルニカを待ち続けたエルビラ・・・
そんな彼女のもとに、1974年、アメリカからとんでもないニュースが届きました。
「誰かが展示中のゲルニカにスプレーで落書きをしたというの
どこの過激派がしたの??
私たちのゲルニカに何をするの??そう思いました
でも、思えばあのクレイジーな行いが、止まっていたゲルニカを動かすきっかけになったんです」byエルビラ
スペインで人民の自由が復活するまでは・・・そんなピカソの願いのもと、自由の国アメリカに長く保管されていたゲルニカ・・・
このままずっとアメリカに??
そんな声もあった中、事態を大きく動かす大事件が起こります。
ゲルニカ返還までの第2の壁・・・アメリカの壁に風穴を開けたのは、アーティスト、トニー・シャフラジ・・・彼は、ニューヨーク近代美術館に展示されているゲルニカに白昼堂々スプレーで落書きをしました。
まぎれもない犯罪行為・・・しかし、その背景には、このままゲルニカをアメリカが持ち続けていいのかという強烈な疑問がありました。
ゲルニカの運命を変えた落書き・・・その真意とは??
アメリカ、ニューヨークの近代美術館・・・通称MoMA
今ではセキュリティーの厳しいこの美術館で、前代未聞の落書き事件が起きたのは、1974年・・・
ピカソが亡くなって1年後のことでした。
「私のやったことをもしピカソが見たら、なんというか??
きっと、目を覚まさせてくれたなと言ったと思う
”ゲルニカ”が死にかけたところを私がよみがえらせた
だから、そのことに大きな意味を認めてくれたと思うよ」byトニー
トニーは、地震のアーティストであり、バスキアを筆頭に有名作家を育てたギャラリーのオーナーでもあります。
そんな彼にとってもピカソが特別な存在でした。
「私は十代までイランのアバランにいたんだけど、絵が大好きで、いつも友達と絵を書いてばかりだった
その頃から私にとってのピカソは、”現代をはじめてくれた人”それまでと違う、20世紀芸術の扉を開け、こっちだと示してくれた人だった」byトニー
イスラム革命前のイランで、裕福な家庭に育ったトニー。
美術を学ぶ学生として、世界各地のアートを見て回る中、1965年にニューヨークを訪れ、初めて見た「ゲルニカ」に度肝を抜かれました。
「あの日から今まで、ゲルニカが与えてくれた衝撃は一切薄れていない
見た瞬間、これは戦争に対する人類史上最高の絵だと思った
それまでヨーロッパで見てきたただ上手に戦場を描いた絵とは違う
彼等は、何百、何千という兵士や馬をとにかく細かく、とにかく美しく描き、戦場を美しく見せようとしている
では、ピカソは??
ゲルニカの前に立った時、何を感じたか??
私が感じたのは、戦争が作り出す分断だ!!
身体はバラバラ、女性の顔は何もないところから入ってきてちぎれそう・・・
すべてが分けられている、断たれている・・・
戦争が終わったら、誰も見ようとしない戦争の傷、戦争の後も続く終わりなき分断をここまで見事に表した絵はない
そして、20世紀にもなって、敢えて白黒なのはなぜか??
巨大なのは??
私は思った
ああ・・・もしかして映画の影響じゃないかって
描かれた1937年当時、映画は白黒だったし、無声映画の時代からワーワーと声が出るトーキーに変わり、スクリーンに耳を傾けるようになっていった
そう思って見てみると、絵もあちこち声が描かれている
あー!!あー!!という叫びが聞こえてくる
戦争に対し、絶えず声を発し続けている
終わりなき分断、終わりなき声、最初に見たときそれに気づいて以降、何度あの絵を前にしても飽きることはなかった
あの絵は生きているんだ」byトニー
学校を卒業した1970年、迷わずゲルニカのあるニューヨークに移り住んだトニー。
しかし、ゲルニカのもとに通い詰めるうち、ある違和感に襲われました。
「絵は変わりなく声を発し続けていた
違和感を感じていたのは、そんなふうに真剣に見ている人が私以外誰もいなかった事
なんでだ!!
この絵が訴える戦争による”分断”は広がり続けているのに
ベトナム戦争は、1970年代、さらにひどいことになっていたのに」byトニー
1965年にアメリカが本格介入したベトナム戦争。
その後も終わる気配はなく、泥沼化していました。
「アメリカにゲルニカがあることは、ある時期、とても大きなインパクトを持っていた
ナチス・ドイツだろうが、フランコだろうが、やつらの独裁や理不尽に、実力を持って反対できる唯一の国だったから
そんな国にあるからこそ、ゲルニカの声も伝わる
だからピカソも、1939年以降はアメリカで保管されることを望んでいた
しかし、そのアメリカは、変わってしまった
本来ならば、あの絵を見てベトナム戦争のことを考えなくてはならないはずなのに、誰もそうせず”ゲルニカ”は、ただの観光名所になってしまっていた
今の”モナ・リザ”と同じさ
何億人もの人が、あれを見に行くけど、見たっていう以上の感想のある人が何人いる??」byトニー
トニーが抱いたアメリカにゲルニカがあり続けることへの違和感・・・それを決定的にするある判決がベトナム戦争中の1974年2月27日に下りました。
”カリー 1000ドルで釈放される”
「確かにあれはきっかけにはなった
まあ、あんな最低のやつ、私にとっては重要な人間ではないのだけどね」byトニー
1968年3月16日、ウィリアム・カリー率いるアメリカ軍の中隊が、ベトナム・ソンミで虐殺を行いました。
村人507人中、死者504人・・・
赤ん坊まで惨殺されました。
後の調べによれば、カリーの命令を受けた兵士たちは、口々に”Kill them all”・・・”奴らを皆殺しにしろ”と叫んでいたという・・・
裁判にかけられましたが、1974年2月27日・・・時のニクソン大統領は、戦争継続の狙いもあって、不起訴処分としました。
「あの日も私は、ゲルニカの前を人が通るのをずっと見ていた
ベトナムで、今も戦争で生きているのに、ひどいニュースがテレビに映っているのに
ゲルニカの”声”を誰も聞こうとしていない
この声を聞かせないと・・・!!
あー!!って叫ばせてやらないと!!
新聞の一面に載るくらいのでかい騒ぎ・・・
みんなが、なに??なに??と、いうくらいに!!
それを一つのアートとしてやってやると決めたんだ!!」byトニー
1974年2月28日・・・カリー不起訴処分の翌日・・・
トニーは、いつものようにゲルニカの前にいました。
いつもと違うのは、懐にスプレーを忍ばせていたこと・・・。
「新聞の一面に載らないといけないから、夜に実行しても意味がない
みんなが寝ているときにやったりとか、忍び込んで逃げるとか、それじゃだめだ
世界のTOPニュースにはならない・・・
私は昼日中、堂々と落書きした
誰かが通報しているのも気づいたけど、構わず書いた
書いたら周りに20人ぐらい人がいたので、スプレー缶を渡したんだ」byトニー
書いたのは”KILL LIES ALL”・・・”嘘を皆殺しにしろ”
それは、ソンミで虐殺を行った兵士たちの叫んだ言葉・・・”KILL THEM ALL”のTHEMの代わりにLIES・・・嘘を入れた言葉でした。
「嘘、嘘ばかりだ
報道も、裁判も、現実をすべて伝えているわけでなく、伝えていないものの方が多い
それは嘘だ、嘘でしかないのに、様々な言い訳を言う・・・
全部は伝えられないとか、立場上仕方なかったとか、そんなひどい嘘を皆殺しにできるのは芸術しかない
こんなことがあって、こうなりました おしまい
という記録は芸術じゃない
嘘を暴き、目に見えない分断が続いていることを突き付ける・・・ゲルニカのような芸術にはそれを出来る力がある!!
でも、その力が人々に届かなくなっていました
だから、私は「嘘を殺せ」とメッセージを注入し、新聞の一面にゲルニカを生き返らせた
そうやって、人々の目を覚まそうとしたんだ」byトニー
ゲルニカが、落書きされた!!
そのニュースは、確かに新聞の一面を飾りました。
世界を駆け巡りましたが・・・トニーの思いは伝わったのでしょうか??
何してくれるんだこいつは!!と、みんなあきれていました。
どうせ目立ちたいだけの売名行為なのに、ゲルニカやピカソを巻き込まないでほしいと思っていました。
ベトナム戦争について、何か訴えたいとしても、落書きなんてやることがバカげている・・・!!
ピカソの憧れるのはいいけど、有名になりたいからって傷をつけるのはやめてくれって思っていました。
「最初人々は、全然わかってくれなかった
有名になりたい、全然違う!!
ゲルニカをずっと見続ける中で、私がやるしかないと思ったからやった
ただそれだけ
あんな落書き、他の人には全く薦めない
拘束された後、怯えていた
ひどいことをしたとわかっていたから
刑務所に入れられるかもしれないし、国外追放になるかもしれない・・・それはもう、死ぬみたいなものだ」byトニー
しかし、実際は、そんなことはありませんでした。
すぐに釈放されたのです。
最大の理由は、トニーの落書きが、一日もたたずにきれいさっぱり消せたことです。
「破壊」が目的ではなく、単なる目立ちたがりでもなく、ある種、計算された行為だとわかりました。
「もちろんそれは織り込み済みさ
私はずっとアートを学んできた
落書きを行う以上、絵を傷つけないことが一番大事だった
ゲルニカは大画面だし、海外輸送も織り込み済みだから、表面には分厚いニスが塗られている
それはよくわかっていた
だから、ニスの上に乗せても取れやすいスプレーを選び、すぐ消されること前提で落書きしたんだ」byトニー
新聞の一面に載ることだけを狙った犯行でした。
そしてこの事件は、確かに事態を大きく変えました。
落書き事件をきっかけに、ゲルニカが現代社会に訴えかける意味や、アメリカにあることの是非を問う記事が、続々登場。
スペインへの返還も真剣に討議されるようになりました。
止まっていたゲルニカの時が動き始めました。
当時、フランコ政権の末期の末期、みんな独裁の限界を感じ、民主主義を求めていました。
その時、海の向こうからゲルニカのニュースが次々と飛び込んできました。
ゲルニカが来るようなスペインになれば、それこそ民主主義だと気づきました。
国際社会にも伝わりやすい・・・はっきりと目標が出来ました。
1975年11月20日・・・フランコ死去。
落書き事件の翌年でした。
スペインは急速に民主化していきます。
生前ピカソが出したゲルニカ帰還の条件が、次々と満たされていきます。
1981年には国王ファン・カルロス1世がアメリカを訪問し、正式にゲルニカ返還を依頼。
初公開から実に16131日・・・1981年9月10日、ゲルニカは帰還しました。
あの落書きのニュースをきっかけに、全ての歯車が回り始めました。
最後にはMoMAまでスペイン返還のお金を出してくれました。
「スペインの返還される前に、ゲルニカにもう一度火をともすことができた
ゲルニカの持つ役割、力を、もう一度世界に再認識させることができた
それは、本当に良かった
その力は、長く独裁に苦しんだスペインの人々なら気付いてくれる
アメリカではもう見られないけど、スペインに行けばいい
私はそうしている
あの絵はずっと生きているから、私も死ぬまで会いに行き続けるよ」byトニー
ようやくスペインにやってきたゲルニカ・・・
最後にもうひとつ壁がありました。
スペインのどこでゲルニカを展示するのかということ・・・。
ピカソの生まれ故郷マラガ、爆撃を受けたゲルニカ・・・複数の町が権利を主張します。
再び対立の火種となりかけたその時、一人の女性がゲルニカ安住の地を決めました。
現在ゲルニカが展示されるマドリードのソフィア王妃芸術センター・・・初代ディレクターを務めたカルメン・ヒメネスです。
ゲルニカは、この場所で展示されなければならないと、周囲を粘り強く説得。
その裏にあった祖国への熱い思いとは・・・??
カルメン・ヒメネス・・・ピカソの遺族にも絶大な信頼を受けるピカソ研究の世界的権威です。
「ゲルニカというのは、人の思いを如何様にも受け止めてくれる絵なんです
作者のピカソもあの絵については、ここはこういう意味だとか説明したことは一度もない
あの絵は、絵と見る人とで完成する世界で最も自由な絵なんです
ゲルニカのような絵は、他にはないし、あんな絵はピカソも一枚しか描いていない
そんな特別な絵の安住の地を決められたことを私は誇りに思っています」byカルメン
ニューヨークからマドリードに運ばれたゲルニカ・・・
その大きさの絵を展示できる場所が他にはなかったことから、プラド美術館の別館で公開されることになります。
これがヒメネスには許せませんでした。
「あの年、私はマドリードで学芸員として働いていました
ゲルニカが見られると思ったら、プラドの別館??
あんな物置みたいなところで??と驚きました
しかも、絵を守るためとか言って、治安警察までいて・・・
治安警察のあの帽子を見ると、誰もが嫌でもフランコ時代を思い出します
そしてあの不格好なガラス・・・防弾だか何だか知らないけど、分厚くて絵を見るのに邪魔でしかたない・・・
あの牢獄からゲルニカを開放する、それが私の使命となりました」byカルメン
どうしてゲルニカに物々しい警備がついたのか・・・??
その最大の理由は、ゲルニカの展示を巡ってスペイン国内がもめにもめていたからです。
爆撃にあったゲルニカ市・・・ピカソの故郷・マラガ市・・・そしてピカソが若き日を過ごしたバルセロナ市が権利を主張しました。
各地には、反政府組織も根強く、力づくでゲルニカを奪う輩に備えた結果、およそ美術作品を見るとは思えない環境での展示となりました。
「私も特にゲルニカ市が絵を望む気持ちがよくわかりました
私の父はフランコと内戦で戦ったスペイン共和国の党員で、私は亡命先のモロッコで生まれました
戦後スペインに戻った時に、ここは行かないとと思って行ったのはゲルニカ市でした。
現地であの日何があったか聞いたんです
爆撃があったのは、週に1度の市が立つ日でした
人が集まることを知っていて爆撃がなされたんです
戦場ではない、一般市民が住む場所に・・・!!
彼等への償いだけを考えるなら、ゲルニカ市で展示するのは一つの道理です
でも、ゲルニカの空爆のあと、戦争は無くなりましたか??
むしろ悪化した
あの絵が向き合うものはより広がった
それはトニー・シャフラジが示した通りです
それにゲルニカはもうこれ以上移動ができる状態にはありませんでした
世界中を旅しすぎて、保存状態は限界・・・
何よりもしピカソに聞くことができたら、彼はマドリードのプラド美術館で展示してほしいと言ったはずです
だって彼は、1936年、共和国によってプラド美術館館長に任命されていたのですから。」byカルメン
マドリードの中心に立つプラド美術館・・・
ベラスケスの「ラス・メニーナス」をはじめとする世界的名画を収蔵する・・・!!
ピカソは、内政直前、時のスペイン共和国政府によってこの美術館の館長に任命されていました。
「ピカソはずっとパリにいましたが、館長としてある重要な決定をしています
内戦が起きると被害が及ばないよう ラス・メニーナスなどの名画をジュネーブに逃がしたんです
スペインの歴史を物語る宝はプラドにないといけない・・・
決して失ってはいけない・・・と言ってね
そういう意味ではゲルニカも、スペインの歴史を物語る重要な作品です
これを首都で展示すること自体がスペインの歴史が変わった証・・・
でも、残念ながら、200年以上の歴史を誇るプラドには、もうゲルニカを飾るスペースはありませんでした
だからと言って、あんな物置のような別館に置いていくわけにはいかない
私はマドリードで、プラドに匹敵する特別なゲルニカ安住の地を探すことにしました
その為に、国の文化省に就職したんです」byカルメン
ピカソのため、ゲルニカのため、1983年にスペイン文化省に入ったカルメン・・・
ある建物に目をつけます。
ゲルニカが当時あったプラド美術館別館からわずか1キロ先のソフィア王妃芸術センターです。
当時は文化省の建物でした。
「元々は、偉大な建築がサバティーニが建てたもので、プラド美術館と同じ18世紀の歴史的建築でした
ここなら相応しい・・・!!
あそこを文化省が持っているのは知っていました
だから、文化省に入ったんです
でも、建物の中を見て驚きました
部屋が狭くて、ゲルニカには足りない・・・!!」byカルメン
建物の格はぴったり・・・でも狭い・・・どうする??
「文化省の建物の後ろ隣りに、教育省の建物があったんです
これをつないでぶち抜いちゃえば、ゲルニカが展示できる
教育相を譲って、お願い!!
と思いました」byカルメン
カルメンは、関係省庁に直訴、しかし、交渉は難航します。
事情を知らないスペインのあちこちから、ゲルニカをよこせという声も高まっていました。
「保存状態の話をしたって、納得はしてくれません
皆ができる最高の方法で展示しなければ・・・
もう、らちが明かなかったので、スペインの未来のため、私は奥の手を使うことにしました」byカルメン
カルメンが使ったのは・・・それは、当時、ヨーロッパ美術界のドンと目されていたフランスのポンピドゥセンター館長のドミニク・ボゾを呼ぶことでした。
ボゾは常々、カルメンのピカソ研究を高く評価していました。
「ボゾが来るとなったら、当然大臣も出迎えます
で、ボゾと大臣と一緒にまずはあの物置に行きました
ボゾは言いましたよ
”これは最低だ”
次は文化省の建物へ・・・ボゾの意見は・・・
”外観はいいけど仲が狭すぎる・・・!!”
建物を出た直後、教育省が持っていた裏の建物の前をわざと通ったんです
ボゾは鋭い人だから、すぐ気づいてくれました」byカルメン
「大臣、あそこも使えばいいじゃないですか
フランスだったら、そうしますよ」byボゾ
「大臣も周りにマスコミがいたので、「そうします」と言わざるを得ませんでした
作戦成功です」byカルメン
二つの建物をつなぎ、ゲルニカを迎えることとなった美術館・・・
初代展示ディレクターとなったカルメンは美術館の名前にもこだわりました。
「まだスペイン各地には、マドリードで展示することに不満もあったし、万が一ゲルニカが傷ついたりしたらいけない・・・
だから、王妃の名前をいただいたんです
私たちのソフィア王妃の名前を
これなら不格好なガラスで守る必要はない・・・
だれも、王妃の名前がついた場所を傷つけようとはしないから・・・」byカルメン
フランコの死後、民主化の立役者となった国王ファン・カルロス1世
その后・ソフィア王妃ともども、国民の絶大な支持を得ていました。
ソフィア王妃の名を掲げた美術館は、まさにスペインの自由・・・スペインの平和のシンボルとなりました。
かくして、オープンしたソフィア王妃芸術センター・・・ゲルニカは、1992年、プラド美術館の別館から無事に移動を果たします。
その時、すでにカルメンはこの美術館を去っていました。
「だってもう、ゲルニカの安住の地を作ることはできましたから
私には、まだまだお世話をしなくてはならないピカソの作品がたくさんあったんです
ヒューストンで絵の展示をしたと思ったら、ニューヨークで立体作品を展示したり、大忙し
でも、芸術を愛する者にとって、ひとりの天才に尽くせる以上の幸せはありません
それに、マドリードにさえ来れば、いつでもソフィアでゲルニカが見られます
あの絵はもうどこにも行きませんから
世界中の芸術を愛し、自由を愛し、平和を愛する人々をいつもゲルニカは待っています」byカルメン
世に名画と呼ばれる絵はたくさんありますが、これほど多くの人々の感情を受け止め、これほど多くの人々が人生をかけて守ろうとした絵はないでしょう。
いまだ戦争は無くならず、いまだ自由への抑圧があちこちにある世界・・・
ゲルニカは時を超えて人々に訴えかける力を今も持ち続けています。
2003年2月5日、ゲルニカが意外な形で注目を集めました。
国連の安全保障理事会・・・当時、アメリカが強行したイラク攻撃・・・各国の理解を得ようとパウエル国務長官が演説したその日・・・
騒然とする議場の外・・・ここに、普段はかかっていない青い幕が・・・
隠されていたのは、ゲルニカのタペストリーでした。
隠された本当の理由は明らかになっていませんが、各国メディアはどんな理屈を並べても、ゲルニカの前では攻撃を正当化できないからだと、報じました。
ピカソは言いました。
「戦争は常に起きているものだ 私が描いた絵の中に」byピカソ
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1937年4月26日のゲルニカ空爆!!
戦場ではなく、一般市民を狙った無差別爆撃!!
死者の数は、未だ明らかになっていません。
当時、スペインは内戦中・・・共和国政府に反乱を起こした将軍・フランコは、ナチス・ドイツと結託。
反フランコ派の巣窟とされたゲルニカへの空爆を依頼しました。
このニュースを聞き、当時パリにいたスペイン生まれの天才が筆を執ります。
”パブロ・ピカソ”
1937年7月12日、爆撃からわずか77日後、ピカソはパリで開かれた万国博覧会・・・スペイン共和国パビリオンで一枚の絵を公開しました。
題名は”ゲルニカ”!!
子供を抱き嘆く人、途方に暮れ叫ぶ人、犠牲となった街の住人・・・ひいてはスペインの市民のために描かれたゲルニカ!!
しかし、この絵がスペインの地を踏んだのは、1962年3月3日、初公開から16131日目・・・
実に44年後のことでした。
その間には、あまりに多くの波乱がありました。
その運命とは・・・!!??
ピカソは祖国スペインのために描きましたが、パリで初公開のあと、北欧、イギリス、そしてアメリカへと転々・・・長くスペインではゲルニカを見ることができていませんでした。
そのゲルニカが、遂にスペインに帰った日・・・それが運命の分岐点です。
1981年9月10日、初公開から実に16131日後のことでした。
どうしてこんなに時間がかかったのか??
そこには3つの壁がありました。
第1の壁・・・独裁者の壁
ゲルニカの無差別爆撃に深くかかわったフランコ将軍は、戦後も長くスペインを独裁。
ゲルニカを描いたピカソは敵視され、過激派によってピカソ作品が破壊されるという事件まで発生します。
しかし、このギャラリーのオーナー、エルビラ・ゴンザレスは、危険を顧みずピカソの作品を展示し続けました。
その背景にあったゲルニカの背景にあったあまりにも強い信念とは・・・??
スペインの首都マドリード・・・この町で、エルビラ・ゴンザレスは、フランコの時代から55年間命がけでギャラリーを経営してきました。
「神様や聖人に人生を捧げる人がいるけど、私にとって、それはピカソなんです
だから私は、ピカソの絵を飾り、待ち続けました
彼の最高傑作、ゲルニカを迎え入れる日を・・・!!
たとえ、テロリストに襲われてもね」byエルビラ
全てはピカソ、全てはゲルニカのために・・・!!
祖国スペインを20代で飛び出し、長く芸術の都パリで活躍していたピカソ。
第2次世界大戦直前、55歳の時にゲルニカを描き、国際的名声をさらに高めました。
「戦争が終わってしばらくたっても、ピカソの絵を展示するのははばかられていました
芸術の観点からみればおかしなことです
だって、20世紀以降の芸術で、ピカソの影響を受けていないものなどいないでしょう?
”モノを見たままに表現しなくていい”そのピカソの姿勢にほとんどすべての芸術家が倣った・・・
マドリードでも、みんなこっそりピカソ作品に学んでいました
でも、なんでこっそり学ぶ必要があるの?
なんで、彼の最高傑作であるゲルニカはスペインにないの??
それはすべて、フランコのせいでした」byエルビラ
第2次世界大戦直前、ナチスと結びつき内戦を制圧、独裁政権を樹立したフランコ・・・
複雑な国際情勢を、したたかに生き抜き、戦後もスペインを独裁し続けました。
一方、ゲルニカは、フランコが反乱を起こしたスペイン共和国のためにピカソが描いた絵・・・
世界各地で展示されたのも、共和国支援のためでした。
しかし、願いはむなしく、1939年にスペイン共和国は崩壊します。
ピカソの意思で、ゲルニカは当時展示中だったニューヨーク近代美術館で保管されることになります。
ピカソはその後、「フランコや戦争についいで何かに思うことは??」と問われた時、こう答えています。
「私は戦争を”描いた”ことはない
写真家と違って、戦争の現場に行ってその瞬間を封じ込めたりはしないから
戦争は常に”起きている”ものだ
私が描いた絵の中に」byピカソ
ピカソは戦後もフランコの天敵に・・・
ピカソ作品は、もっぱら海外で見るものとなっていました。
「私が初めてゲルニカを見たのもニューヨークでした
最初はなんで外国で自分の国の画家の絵を見なくちゃいけないの??って思っていました
でも、見た瞬間、動けなくなりました
あの絵は理解する以前に感動させる力を持っているんです
戦争や弾圧という不条理に、あれほど強く立ち向かう意思を感じさせる絵はない・・・
嘆く女性の姿に問い詰められたような気がしました
こんな天才の作品が、祖国で見られなくていいの??って、私は私だけでもピカソの絵を展示すると決め、1966年にギャラリーを開きました
ギャラリーの名前は”テオ”
ゴッホの弟の名から取りました
テオは、兄がどんなに不遇でも、兄の絵は傑作と信じ、自分のギャラリーで扱い続けた
私も同じ
スペインでピカソの絵がどれだけ不遇でも、彼の作品を展示し続けると決めたんです」byエルビラ
エルビラには当時、どうしても展示したい作品がありました。
ピカソがゲルニカを描く直前まで7年かけて作った珠玉の版画集「スウィート・ボラ―ル」です。
「スウィート・ボラールにはこだわりました
だってあれは、ゲルニカの原点となった素晴らしい作品ですから」byエルビラ
ゲルニカに描かれた雄牛とのぞき込む女性の横顔・・・この二つのモチーフは、爆撃とは無関係ながら、ゲルニカを描く前の段階から書き込まれていました。
スウィート・ボラ―ルの1ページにも・・・
ピカソが最も得意としたモチーフでした。
「ゲルニカの中で、雄牛は戦火があっても凛々しく立っています
あの独特の横顔は、戦火をのぞき込み、だれものぞき込むことを許さぬかのよう
爆撃には関係なくとも、ピカソが描きなれたモチーフが、あの絵に”芸術”としての力をもたらしていると思います
そんなゲルニカに続く道のりを示すためにも、スウィート・ボラールは展示したかった
いつか、ゲルニカを迎えるときの”予習”としてね
だから、所有しているパリの画廊に頼み込んで、私たちの展覧会のために特別に貸し出してもらったんです」byエルビラ
ギャラリー開設から5年目の1971年・・・念願のピカソ展開催を決めたエルビラ・・・
その直前、ゲルニカを巡る騒動が起きました。
きっかけは、フランコが出した異例の声明です。
”ピカソと共に「ゲルニカ」をスペインに帰還させたい
政治的意味とは無関係に、ピカソの才能を称える芸術の宝として”
フランコは、ピカソ作品のための美術館建設を提案します。
天才ピカソとの和解は、当時経済低迷で求心力を失っていたフランコにとって、起死回生の策となるはずでした。
ただ・・・ピカソは、
”フランコのいないスペインになら「ゲルニカ」を渡そう”
ゲルニカを保管するニューヨーク近代美術館との間に、契約書を締結。
スペインに人民の自由が復活するまでは、ゲルニカは戻さない!!
フランコの面目は丸つぶれ、これを受け、フランコに心酔する一部の極右は過激な行動に出ます。
ピカソの本を扱っている書店や、ピカソのポスターを売る店が次々と見つけ出されては窓ガラスを割られます。
「私のギャラリーも、ガラスを割られるかもしれないから受付に見張りを置いたり、出来る限りの備えをしました
でも、まさか、あんなに驚強い襲撃を受けるとは想定していませんでした」byエルビラ
事件は展覧会が始まって10日目に起きました。
「あの時、私はまだ自宅にいて、画廊に向かおうとしている時でした
画廊オープン15分前に、”建築学の学生だ 早く見たいので入れてくれ”という若い男が来たんです
見張りの人は、熱心な学生だと思って中に入れました
でも、そうしたらいきなり、ドアにカギをかけられ、裏口から仲間を招き入れた
そして、絵をナイフでズタズタに切り裂き、あたり一面に硫酸をかけて去っていったんです
すぐに見張りの人が電話をくれて、私は駆けつけました
正直、倒れそうになったけど、バルセロナで同じくピカソ展を行っていたギャラリーに電話をかけました
うちは襲われた、あなたたちも気を付けてって!!
電話を切った後、作品の状態を確認しました
あれだけ頼み込んでお借りしたスウィート・ボラ―ルもズタズタ・・・心から恥じました
”傑作を守れなくてごめんなさい”と」byエルビラ
ショックで打ちひしがれたエルビラ・・・
彼女を立ち上がらせたのは、現場に犯人が残していった犯行声明でした。
”ピカソはマルクス主義者で非国民、ホモセクシャルだから、鉄槌を下す!!”
「なんて幼稚!!これはピカソのことを何も知らないバカで幼稚な連中の行いだとわかりました
ピカソがホモセクシャル??彼に女性の愛人が何人いたと思っているの??
歴史上、最も女好きで、女ばかり描いてきた画家よ!!
勉強が足りないのもほどがある!!
あれを読んで決意したんです
あんな無知な連中を無くすためにも、私はピカソの展示をやめない!!
泣き寝入りはしない!!
だから、警察が来た時も、お待ちなさいと言ったんです
フランコの息がかかった警察に任せたら、うやむやにされかねないから・・・」byエルビラ
警察を待たせ、記者を呼び、全てを写真に収めさせたエルビラ・・・
写真とそのほかのすべての記録を持って、彼女が向かったのはフランス大使館でした。
「全ての証拠をフランス大使に渡したんです
郵送すると、奪われてしまうかもしれないから直接ね
フランスを選んだのは、パリに住むピカソに伝えたかったからです
今のスペインは、ゲルニカを迎えるにふさわしくないし、こんな事件まで起きてしまう
でも、この後のスペインの反応を見てほしい
これを許してしまうのか、それともこれをとがめるのか
まだ、フランコの時代だったのに、多くのマスコミが事件をとがめてくれた
これではっきりしました
ピカソを嫌っているのは、フランコと一部の暴徒たちに過ぎない
我々スペインの大多数は、ピカソを愛しているんです」byエルビラ
エルビラがスペイン大使館に預けた写真は、ヨーロッパ中に配信されます。
国際問題を恐れたスペイン政府は、容疑者を逮捕し、刑務所に送りました。
「あれは奇跡です
フランコの時代、彼を支持する極右の犯行はうやむやにされるのがほとんどでしたから
あの後、いたずら電話がよくかかってきましたよ
保険金でどれだけ儲けたんだい?って
連中はわかっていません
政治犯の犯行には保険は下りないんです
私は何年もかけてスウィート・ボラ―ルの賠償金を支払いました
同時に、ピカソの展覧会を開き続けました
ピカソと女、ピカソと友人たち・・・いくつも・・・
だって、私たちは、ギャラリー・テオ
テオは天才のために仕事をし続けないといけないから
私は確信していました
傷つくのは私の事件が最後
もう、この国でピカソがないがしろにされることはない
いつ、ゲルニカが戻ってきても、大丈夫だと
あとはそれがいつになるか
私は首を長くして待っていました」byエルビラ
ゲルニカを待ち続けたエルビラ・・・
そんな彼女のもとに、1974年、アメリカからとんでもないニュースが届きました。
「誰かが展示中のゲルニカにスプレーで落書きをしたというの
どこの過激派がしたの??
私たちのゲルニカに何をするの??そう思いました
でも、思えばあのクレイジーな行いが、止まっていたゲルニカを動かすきっかけになったんです」byエルビラ
スペインで人民の自由が復活するまでは・・・そんなピカソの願いのもと、自由の国アメリカに長く保管されていたゲルニカ・・・
このままずっとアメリカに??
そんな声もあった中、事態を大きく動かす大事件が起こります。
ゲルニカ返還までの第2の壁・・・アメリカの壁に風穴を開けたのは、アーティスト、トニー・シャフラジ・・・彼は、ニューヨーク近代美術館に展示されているゲルニカに白昼堂々スプレーで落書きをしました。
まぎれもない犯罪行為・・・しかし、その背景には、このままゲルニカをアメリカが持ち続けていいのかという強烈な疑問がありました。
ゲルニカの運命を変えた落書き・・・その真意とは??
アメリカ、ニューヨークの近代美術館・・・通称MoMA
今ではセキュリティーの厳しいこの美術館で、前代未聞の落書き事件が起きたのは、1974年・・・
ピカソが亡くなって1年後のことでした。
「私のやったことをもしピカソが見たら、なんというか??
きっと、目を覚まさせてくれたなと言ったと思う
”ゲルニカ”が死にかけたところを私がよみがえらせた
だから、そのことに大きな意味を認めてくれたと思うよ」byトニー
トニーは、地震のアーティストであり、バスキアを筆頭に有名作家を育てたギャラリーのオーナーでもあります。
そんな彼にとってもピカソが特別な存在でした。
「私は十代までイランのアバランにいたんだけど、絵が大好きで、いつも友達と絵を書いてばかりだった
その頃から私にとってのピカソは、”現代をはじめてくれた人”それまでと違う、20世紀芸術の扉を開け、こっちだと示してくれた人だった」byトニー
イスラム革命前のイランで、裕福な家庭に育ったトニー。
美術を学ぶ学生として、世界各地のアートを見て回る中、1965年にニューヨークを訪れ、初めて見た「ゲルニカ」に度肝を抜かれました。
「あの日から今まで、ゲルニカが与えてくれた衝撃は一切薄れていない
見た瞬間、これは戦争に対する人類史上最高の絵だと思った
それまでヨーロッパで見てきたただ上手に戦場を描いた絵とは違う
彼等は、何百、何千という兵士や馬をとにかく細かく、とにかく美しく描き、戦場を美しく見せようとしている
では、ピカソは??
ゲルニカの前に立った時、何を感じたか??
私が感じたのは、戦争が作り出す分断だ!!
身体はバラバラ、女性の顔は何もないところから入ってきてちぎれそう・・・
すべてが分けられている、断たれている・・・
戦争が終わったら、誰も見ようとしない戦争の傷、戦争の後も続く終わりなき分断をここまで見事に表した絵はない
そして、20世紀にもなって、敢えて白黒なのはなぜか??
巨大なのは??
私は思った
ああ・・・もしかして映画の影響じゃないかって
描かれた1937年当時、映画は白黒だったし、無声映画の時代からワーワーと声が出るトーキーに変わり、スクリーンに耳を傾けるようになっていった
そう思って見てみると、絵もあちこち声が描かれている
あー!!あー!!という叫びが聞こえてくる
戦争に対し、絶えず声を発し続けている
終わりなき分断、終わりなき声、最初に見たときそれに気づいて以降、何度あの絵を前にしても飽きることはなかった
あの絵は生きているんだ」byトニー
学校を卒業した1970年、迷わずゲルニカのあるニューヨークに移り住んだトニー。
しかし、ゲルニカのもとに通い詰めるうち、ある違和感に襲われました。
「絵は変わりなく声を発し続けていた
違和感を感じていたのは、そんなふうに真剣に見ている人が私以外誰もいなかった事
なんでだ!!
この絵が訴える戦争による”分断”は広がり続けているのに
ベトナム戦争は、1970年代、さらにひどいことになっていたのに」byトニー
1965年にアメリカが本格介入したベトナム戦争。
その後も終わる気配はなく、泥沼化していました。
「アメリカにゲルニカがあることは、ある時期、とても大きなインパクトを持っていた
ナチス・ドイツだろうが、フランコだろうが、やつらの独裁や理不尽に、実力を持って反対できる唯一の国だったから
そんな国にあるからこそ、ゲルニカの声も伝わる
だからピカソも、1939年以降はアメリカで保管されることを望んでいた
しかし、そのアメリカは、変わってしまった
本来ならば、あの絵を見てベトナム戦争のことを考えなくてはならないはずなのに、誰もそうせず”ゲルニカ”は、ただの観光名所になってしまっていた
今の”モナ・リザ”と同じさ
何億人もの人が、あれを見に行くけど、見たっていう以上の感想のある人が何人いる??」byトニー
トニーが抱いたアメリカにゲルニカがあり続けることへの違和感・・・それを決定的にするある判決がベトナム戦争中の1974年2月27日に下りました。
”カリー 1000ドルで釈放される”
「確かにあれはきっかけにはなった
まあ、あんな最低のやつ、私にとっては重要な人間ではないのだけどね」byトニー
1968年3月16日、ウィリアム・カリー率いるアメリカ軍の中隊が、ベトナム・ソンミで虐殺を行いました。
村人507人中、死者504人・・・
赤ん坊まで惨殺されました。
後の調べによれば、カリーの命令を受けた兵士たちは、口々に”Kill them all”・・・”奴らを皆殺しにしろ”と叫んでいたという・・・
裁判にかけられましたが、1974年2月27日・・・時のニクソン大統領は、戦争継続の狙いもあって、不起訴処分としました。
「あの日も私は、ゲルニカの前を人が通るのをずっと見ていた
ベトナムで、今も戦争で生きているのに、ひどいニュースがテレビに映っているのに
ゲルニカの”声”を誰も聞こうとしていない
この声を聞かせないと・・・!!
あー!!って叫ばせてやらないと!!
新聞の一面に載るくらいのでかい騒ぎ・・・
みんなが、なに??なに??と、いうくらいに!!
それを一つのアートとしてやってやると決めたんだ!!」byトニー
1974年2月28日・・・カリー不起訴処分の翌日・・・
トニーは、いつものようにゲルニカの前にいました。
いつもと違うのは、懐にスプレーを忍ばせていたこと・・・。
「新聞の一面に載らないといけないから、夜に実行しても意味がない
みんなが寝ているときにやったりとか、忍び込んで逃げるとか、それじゃだめだ
世界のTOPニュースにはならない・・・
私は昼日中、堂々と落書きした
誰かが通報しているのも気づいたけど、構わず書いた
書いたら周りに20人ぐらい人がいたので、スプレー缶を渡したんだ」byトニー
書いたのは”KILL LIES ALL”・・・”嘘を皆殺しにしろ”
それは、ソンミで虐殺を行った兵士たちの叫んだ言葉・・・”KILL THEM ALL”のTHEMの代わりにLIES・・・嘘を入れた言葉でした。
「嘘、嘘ばかりだ
報道も、裁判も、現実をすべて伝えているわけでなく、伝えていないものの方が多い
それは嘘だ、嘘でしかないのに、様々な言い訳を言う・・・
全部は伝えられないとか、立場上仕方なかったとか、そんなひどい嘘を皆殺しにできるのは芸術しかない
こんなことがあって、こうなりました おしまい
という記録は芸術じゃない
嘘を暴き、目に見えない分断が続いていることを突き付ける・・・ゲルニカのような芸術にはそれを出来る力がある!!
でも、その力が人々に届かなくなっていました
だから、私は「嘘を殺せ」とメッセージを注入し、新聞の一面にゲルニカを生き返らせた
そうやって、人々の目を覚まそうとしたんだ」byトニー
ゲルニカが、落書きされた!!
そのニュースは、確かに新聞の一面を飾りました。
世界を駆け巡りましたが・・・トニーの思いは伝わったのでしょうか??
何してくれるんだこいつは!!と、みんなあきれていました。
どうせ目立ちたいだけの売名行為なのに、ゲルニカやピカソを巻き込まないでほしいと思っていました。
ベトナム戦争について、何か訴えたいとしても、落書きなんてやることがバカげている・・・!!
ピカソの憧れるのはいいけど、有名になりたいからって傷をつけるのはやめてくれって思っていました。
「最初人々は、全然わかってくれなかった
有名になりたい、全然違う!!
ゲルニカをずっと見続ける中で、私がやるしかないと思ったからやった
ただそれだけ
あんな落書き、他の人には全く薦めない
拘束された後、怯えていた
ひどいことをしたとわかっていたから
刑務所に入れられるかもしれないし、国外追放になるかもしれない・・・それはもう、死ぬみたいなものだ」byトニー
しかし、実際は、そんなことはありませんでした。
すぐに釈放されたのです。
最大の理由は、トニーの落書きが、一日もたたずにきれいさっぱり消せたことです。
「破壊」が目的ではなく、単なる目立ちたがりでもなく、ある種、計算された行為だとわかりました。
「もちろんそれは織り込み済みさ
私はずっとアートを学んできた
落書きを行う以上、絵を傷つけないことが一番大事だった
ゲルニカは大画面だし、海外輸送も織り込み済みだから、表面には分厚いニスが塗られている
それはよくわかっていた
だから、ニスの上に乗せても取れやすいスプレーを選び、すぐ消されること前提で落書きしたんだ」byトニー
新聞の一面に載ることだけを狙った犯行でした。
そしてこの事件は、確かに事態を大きく変えました。
落書き事件をきっかけに、ゲルニカが現代社会に訴えかける意味や、アメリカにあることの是非を問う記事が、続々登場。
スペインへの返還も真剣に討議されるようになりました。
止まっていたゲルニカの時が動き始めました。
当時、フランコ政権の末期の末期、みんな独裁の限界を感じ、民主主義を求めていました。
その時、海の向こうからゲルニカのニュースが次々と飛び込んできました。
ゲルニカが来るようなスペインになれば、それこそ民主主義だと気づきました。
国際社会にも伝わりやすい・・・はっきりと目標が出来ました。
1975年11月20日・・・フランコ死去。
落書き事件の翌年でした。
スペインは急速に民主化していきます。
生前ピカソが出したゲルニカ帰還の条件が、次々と満たされていきます。
1981年には国王ファン・カルロス1世がアメリカを訪問し、正式にゲルニカ返還を依頼。
初公開から実に16131日・・・1981年9月10日、ゲルニカは帰還しました。
あの落書きのニュースをきっかけに、全ての歯車が回り始めました。
最後にはMoMAまでスペイン返還のお金を出してくれました。
「スペインの返還される前に、ゲルニカにもう一度火をともすことができた
ゲルニカの持つ役割、力を、もう一度世界に再認識させることができた
それは、本当に良かった
その力は、長く独裁に苦しんだスペインの人々なら気付いてくれる
アメリカではもう見られないけど、スペインに行けばいい
私はそうしている
あの絵はずっと生きているから、私も死ぬまで会いに行き続けるよ」byトニー
ようやくスペインにやってきたゲルニカ・・・
最後にもうひとつ壁がありました。
スペインのどこでゲルニカを展示するのかということ・・・。
ピカソの生まれ故郷マラガ、爆撃を受けたゲルニカ・・・複数の町が権利を主張します。
再び対立の火種となりかけたその時、一人の女性がゲルニカ安住の地を決めました。
現在ゲルニカが展示されるマドリードのソフィア王妃芸術センター・・・初代ディレクターを務めたカルメン・ヒメネスです。
ゲルニカは、この場所で展示されなければならないと、周囲を粘り強く説得。
その裏にあった祖国への熱い思いとは・・・??
カルメン・ヒメネス・・・ピカソの遺族にも絶大な信頼を受けるピカソ研究の世界的権威です。
「ゲルニカというのは、人の思いを如何様にも受け止めてくれる絵なんです
作者のピカソもあの絵については、ここはこういう意味だとか説明したことは一度もない
あの絵は、絵と見る人とで完成する世界で最も自由な絵なんです
ゲルニカのような絵は、他にはないし、あんな絵はピカソも一枚しか描いていない
そんな特別な絵の安住の地を決められたことを私は誇りに思っています」byカルメン
ニューヨークからマドリードに運ばれたゲルニカ・・・
その大きさの絵を展示できる場所が他にはなかったことから、プラド美術館の別館で公開されることになります。
これがヒメネスには許せませんでした。
「あの年、私はマドリードで学芸員として働いていました
ゲルニカが見られると思ったら、プラドの別館??
あんな物置みたいなところで??と驚きました
しかも、絵を守るためとか言って、治安警察までいて・・・
治安警察のあの帽子を見ると、誰もが嫌でもフランコ時代を思い出します
そしてあの不格好なガラス・・・防弾だか何だか知らないけど、分厚くて絵を見るのに邪魔でしかたない・・・
あの牢獄からゲルニカを開放する、それが私の使命となりました」byカルメン
どうしてゲルニカに物々しい警備がついたのか・・・??
その最大の理由は、ゲルニカの展示を巡ってスペイン国内がもめにもめていたからです。
爆撃にあったゲルニカ市・・・ピカソの故郷・マラガ市・・・そしてピカソが若き日を過ごしたバルセロナ市が権利を主張しました。
各地には、反政府組織も根強く、力づくでゲルニカを奪う輩に備えた結果、およそ美術作品を見るとは思えない環境での展示となりました。
「私も特にゲルニカ市が絵を望む気持ちがよくわかりました
私の父はフランコと内戦で戦ったスペイン共和国の党員で、私は亡命先のモロッコで生まれました
戦後スペインに戻った時に、ここは行かないとと思って行ったのはゲルニカ市でした。
現地であの日何があったか聞いたんです
爆撃があったのは、週に1度の市が立つ日でした
人が集まることを知っていて爆撃がなされたんです
戦場ではない、一般市民が住む場所に・・・!!
彼等への償いだけを考えるなら、ゲルニカ市で展示するのは一つの道理です
でも、ゲルニカの空爆のあと、戦争は無くなりましたか??
むしろ悪化した
あの絵が向き合うものはより広がった
それはトニー・シャフラジが示した通りです
それにゲルニカはもうこれ以上移動ができる状態にはありませんでした
世界中を旅しすぎて、保存状態は限界・・・
何よりもしピカソに聞くことができたら、彼はマドリードのプラド美術館で展示してほしいと言ったはずです
だって彼は、1936年、共和国によってプラド美術館館長に任命されていたのですから。」byカルメン
マドリードの中心に立つプラド美術館・・・
ベラスケスの「ラス・メニーナス」をはじめとする世界的名画を収蔵する・・・!!
ピカソは、内政直前、時のスペイン共和国政府によってこの美術館の館長に任命されていました。
「ピカソはずっとパリにいましたが、館長としてある重要な決定をしています
内戦が起きると被害が及ばないよう ラス・メニーナスなどの名画をジュネーブに逃がしたんです
スペインの歴史を物語る宝はプラドにないといけない・・・
決して失ってはいけない・・・と言ってね
そういう意味ではゲルニカも、スペインの歴史を物語る重要な作品です
これを首都で展示すること自体がスペインの歴史が変わった証・・・
でも、残念ながら、200年以上の歴史を誇るプラドには、もうゲルニカを飾るスペースはありませんでした
だからと言って、あんな物置のような別館に置いていくわけにはいかない
私はマドリードで、プラドに匹敵する特別なゲルニカ安住の地を探すことにしました
その為に、国の文化省に就職したんです」byカルメン
ピカソのため、ゲルニカのため、1983年にスペイン文化省に入ったカルメン・・・
ある建物に目をつけます。
ゲルニカが当時あったプラド美術館別館からわずか1キロ先のソフィア王妃芸術センターです。
当時は文化省の建物でした。
「元々は、偉大な建築がサバティーニが建てたもので、プラド美術館と同じ18世紀の歴史的建築でした
ここなら相応しい・・・!!
あそこを文化省が持っているのは知っていました
だから、文化省に入ったんです
でも、建物の中を見て驚きました
部屋が狭くて、ゲルニカには足りない・・・!!」byカルメン
建物の格はぴったり・・・でも狭い・・・どうする??
「文化省の建物の後ろ隣りに、教育省の建物があったんです
これをつないでぶち抜いちゃえば、ゲルニカが展示できる
教育相を譲って、お願い!!
と思いました」byカルメン
カルメンは、関係省庁に直訴、しかし、交渉は難航します。
事情を知らないスペインのあちこちから、ゲルニカをよこせという声も高まっていました。
「保存状態の話をしたって、納得はしてくれません
皆ができる最高の方法で展示しなければ・・・
もう、らちが明かなかったので、スペインの未来のため、私は奥の手を使うことにしました」byカルメン
カルメンが使ったのは・・・それは、当時、ヨーロッパ美術界のドンと目されていたフランスのポンピドゥセンター館長のドミニク・ボゾを呼ぶことでした。
ボゾは常々、カルメンのピカソ研究を高く評価していました。
「ボゾが来るとなったら、当然大臣も出迎えます
で、ボゾと大臣と一緒にまずはあの物置に行きました
ボゾは言いましたよ
”これは最低だ”
次は文化省の建物へ・・・ボゾの意見は・・・
”外観はいいけど仲が狭すぎる・・・!!”
建物を出た直後、教育省が持っていた裏の建物の前をわざと通ったんです
ボゾは鋭い人だから、すぐ気づいてくれました」byカルメン
「大臣、あそこも使えばいいじゃないですか
フランスだったら、そうしますよ」byボゾ
「大臣も周りにマスコミがいたので、「そうします」と言わざるを得ませんでした
作戦成功です」byカルメン
二つの建物をつなぎ、ゲルニカを迎えることとなった美術館・・・
初代展示ディレクターとなったカルメンは美術館の名前にもこだわりました。
「まだスペイン各地には、マドリードで展示することに不満もあったし、万が一ゲルニカが傷ついたりしたらいけない・・・
だから、王妃の名前をいただいたんです
私たちのソフィア王妃の名前を
これなら不格好なガラスで守る必要はない・・・
だれも、王妃の名前がついた場所を傷つけようとはしないから・・・」byカルメン
フランコの死後、民主化の立役者となった国王ファン・カルロス1世
その后・ソフィア王妃ともども、国民の絶大な支持を得ていました。
ソフィア王妃の名を掲げた美術館は、まさにスペインの自由・・・スペインの平和のシンボルとなりました。
かくして、オープンしたソフィア王妃芸術センター・・・ゲルニカは、1992年、プラド美術館の別館から無事に移動を果たします。
その時、すでにカルメンはこの美術館を去っていました。
「だってもう、ゲルニカの安住の地を作ることはできましたから
私には、まだまだお世話をしなくてはならないピカソの作品がたくさんあったんです
ヒューストンで絵の展示をしたと思ったら、ニューヨークで立体作品を展示したり、大忙し
でも、芸術を愛する者にとって、ひとりの天才に尽くせる以上の幸せはありません
それに、マドリードにさえ来れば、いつでもソフィアでゲルニカが見られます
あの絵はもうどこにも行きませんから
世界中の芸術を愛し、自由を愛し、平和を愛する人々をいつもゲルニカは待っています」byカルメン
世に名画と呼ばれる絵はたくさんありますが、これほど多くの人々の感情を受け止め、これほど多くの人々が人生をかけて守ろうとした絵はないでしょう。
いまだ戦争は無くならず、いまだ自由への抑圧があちこちにある世界・・・
ゲルニカは時を超えて人々に訴えかける力を今も持ち続けています。
2003年2月5日、ゲルニカが意外な形で注目を集めました。
国連の安全保障理事会・・・当時、アメリカが強行したイラク攻撃・・・各国の理解を得ようとパウエル国務長官が演説したその日・・・
騒然とする議場の外・・・ここに、普段はかかっていない青い幕が・・・
隠されていたのは、ゲルニカのタペストリーでした。
隠された本当の理由は明らかになっていませんが、各国メディアはどんな理屈を並べても、ゲルニカの前では攻撃を正当化できないからだと、報じました。
ピカソは言いました。
「戦争は常に起きているものだ 私が描いた絵の中に」byピカソ
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