日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:ヒトラー

人間にとって勇気とは何か??
かつて、独裁者に命がけで挑んだ人々がいました。
今から78年前の1944年7月20日、ドイツを支配するナチ政権を倒すべく、結構されたクーデター・・・恐怖の根源・ヒトラーを暗殺せよ!!
戦士の運命を決める乙女・・・ワルキューレの名のもとに・・・!!

ドイツの指導者アドルフ・ヒトラー・・・彼を救世主と信じ、破滅へと暴走する国民達。
そうした圧倒的な世間に背を向け、運命を変えようとした人々がいました・・・!!
巨大な流れに抵抗する人々が背負った苦労と責任と誇りとは・・・??

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ビールと歴史の町、ドイツ南部の大都市ミュンヘン・・・
この町の巨大ビアホール・ビュルガーブロイケラーは、20世紀半ば、世界的な大事件が起きた場所でした。
1939年9月、第2次世界大戦勃発!!
ナチスドイツは、ヨーロッパ征圧へと動き出しました。
1939年11月8日、戦争が順調に進む中、ヒトラーがミュンヘンを来訪。
ナチ党が、昔からなじみのビアホールで演説をするためです。
午後7時30分、演説開始。
およそ2時間、9時30分ごろまで続く予定でした。
ナチ党員およそ2000人が詰めかけ、最前列にはゲッペルス、ヒムラー、ヘス、ボルマン・・・最高幹部が並びました。
しかし、ヒトラーの背後わずか1m・・・大きな石の柱の内部では・・・??
9時20分ごろ爆発が発生!!
演壇の周囲は粉々に破壊、屋根が崩れ落ち、大勢が下敷きになりました。
ヒトラー爆殺を図ったのは、一体何者・・・??
ミュンヘンから北西・・・およそ130キロ・・・工場用の機械部品作りの町ケーニヒスブロン。
爆発からおよそ1時間後、この町で働く男が時限爆弾を仕掛けた容疑で逮捕されました。
家具職人ゲオルク・エルザ―・36歳です。
無口で目立たず真面目な彼が・・・!!と、周囲を驚かせました。
しかし、物静かな物腰に対し、心ではヒトラーへの怒りが燃え上がっていました。

「必要不可欠なのは、1人の指導者の意志
 1人が命じ、他の人々はそれを実行すればよい
 統治とは、上から始まり下で終わるものだ」byヒトラー

ヒトラーが政権を握ったのは、1933年。
それ以来、ドイツが発展するためにはすべての国民が心を一つに団結し、ヒトラーの命じた通りに動くことが必要だと盛んに宣伝しました。
一定年齢の青少年は、ヒトラーユーゲントに参加し、軍事用の訓練や思想教育が施されました。
大人たちの職場は、労働者は兵器工場へ、若者は軍隊へと動員され、軍事力の向上を目指しました。

1938年、オーストリア併合。
圧倒的な武力を背景に、オーストリア、ポーランドと領土を拡大・・・
国民の多くは、ヒトラーに従えば皆が幸せになると信じました。
しかし、ヒトラー暗殺を狙ったエルザ―は、見せかけの幸せに隠された偽りに気付いていました。
逮捕後の尋問調書に、ヒトラーへの怒りが・・・!!

「私を含む労働者は、間違いなく強制された状態に置かれています
 ヒトラーユーゲントのために、親は自分の子供を自由に育てることもできなくなりました
 私は考えた末に、現在の国家指導部・ヒトラー・ゲーリング・ゲッペルスの三人を排除しない限り、ドイツの状況は変わらないという結論になりました」

ヒトラーと最高幹部を爆殺・・・!!

エルザ―はなぜ、たった一人で戦いを挑んだのでしょうか・・・??
実際は、エルザ―と同じようにヒトラーの独裁に、多くの人が不満を持っていました。
しかし、”何かをしなければならない”と、行動に移したのは彼ただひとりだったのです。

エルザ―は、当時働いていた工場から、火薬や時計の材料を盗み、数か月をかけて時限爆弾を完成させます。
ヒトラーが演説を予定しているビヤホール・ビュルガーブロイケラーに、客として毎日のように通います。
こっそりと物置に隠れて夜中まで待ち、人がいなくなるや否や演台の後ろ、大きな石の柱にコツコツと穴をあけ続けました。
1カ月かけて大きくしたその穴に、時限爆弾を仕掛け、板で隠します。
そして、1939年11月8日、ヒトラーの演説・・・夜9時20分。
死者8人、負傷者63人・・・多くがナチ党員・・・犠牲者の葬儀の様子は映像に収められ、爆弾事件の残虐さを伝えました。

ヒトラーは生きていました。

事件の夜、ミュンヘンでは霧が発生。
ヒトラーは、移動手段を飛行機から列車に変更しました。
その為、30分ほど早く、演説を切り上げ、最高幹部と共に会場を離れていました。
その差、わずか十数分・・・

「私は神の摂理に守られている」byヒトラー

殺人者ゲオルク・エルザ―・・・悪質な残虐行為・・・!!
総統の奇跡的脱出!!
ヒトラーのカリスマ性が高まる一方、エルザ―は国民から残虐な人殺しと憎まれました。

ゲオルク・エルザ―(42)・・・1945年4月19日・銃殺

ヒトラーへの抵抗・・・その新たな動きは、意外なところから湧き上がってきました。
ヒトラーのもとで、ソビエトと戦っていたドイツ国防軍です。
1941年6月、ソビエト二侵攻開始・・・東へと勢力を伸ばします。
対ヒトラーの動きは、その最前線・ベルリンから1000キロ以上離れた東部戦線から始まります。
1942年4月、その男は、東部戦線の司令部に着任しました。
国防軍ヘニング・フォン・トレスコウ主席作戦参謀(41)。
先祖代々軍人の貴族でした。
十代から戦場で戦い、指揮官としての信頼もある・・・優秀な将校でした。
しかし、トレスコウのもう一つの顔は反逆者・・・!!

「ヒトラー、奴を撃ち殺さなければならない」

一体、何がエリート軍人を反ヒトラーに駆り立てたのか・・・??

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当時、国家元首であるヒトラーは、国防軍の最高司令官・・・
大きな作戦方針は、直接下され、トレスコウ太刀国防軍は、絶対服従でした。
しかし、東部戦線に対するヒトラーの作戦は強引で杜撰・・・
ソビエトの猛反撃を受けても、退却を認めず、兵士は絶望しながら命を落としていきました。
計り知れない数の兵士が、ヒトラーの作戦の犠牲となったのです。
軍事に無能なヒトラーに対して、トレスコウたち現場の将校は、不信感を持ったのです。
さらにトレスコウは、自分たちのすぐ後ろで行われているおぞましい行為を知ります。
捕虜や民間人の大量虐殺です。
ナチ政権の国家保安警察が組織した特殊部隊”移動虐殺部隊”・・・彼等は、国防軍の占領地域で、ユダヤ人をはじめ、抵抗勢力や共産主義者と疑われた人を虐殺。
第2次世界大戦中、1000万人以上の民間人が殺されたともいわれています。

ヒトラーは、ソビエトとの戦争目的を・・・絶滅戦争ととらえていました。
我々の戦いが、常軌を逸した虐殺に利用されている・・・しかも、国防軍も協力しているとは、これを止めるにはたとえ反逆罪になろうとも、ヒトラー排除しかない・・・!!

「”行動に出る者がいた”と世界と歴史に示すことが重要なのだ」

彼は同僚に、虐殺を見過ごせない理由を語ります。

「この残虐行為は、百年経っても悪影響を残すだろう
 責めを負うべきはヒトラーだけでなく、むしろ君や私であり、君の子供や私の子供でもあり、通りを横切っているあの女性でもあり、あそこでボールを蹴っている若者でもある」

トレスコウは、同じ司令部の中で、ヒトラーに反感を持つ将校を見出し、密かに暗殺計画を練り始めます。
しかし、この頃、ヒトラーは、暗殺を極端に恐れ、信頼するものしか近づけなくなっていました。
食事の時は毒殺を恐れ、用意した毒見薬は12人!!
しかも、移動の際には、戦闘機の護衛はもちろん、同じ型の飛行機を2機用意、ヒトラーがどちらにいるのかわからないようにしました。
トレスコウは、この飛行機に目をつけました。

1943年3月13日、ヒトラーはトレスコウがいる司令部を来訪。
最前線の視察を終え、総統専用機を大本営に帰ろうとしていました。
その直前、トレスコウは、ヒトラーと同じ飛行機で帰る側近に用事を頼みます。

「私の友人に借りがあるんだ
 お酒を2本渡してくれないか?」

側近は、酒が入った荷物を受け取ると、疑うことなく総統専用機へ・・・!!
やがて専用機はヒトラーを乗せて飛び立ちました。
実は、トレスコウの荷物は、時限爆弾が隠されていました。
時計の音がしないよう、化学薬品の反応で時間を調節。
化学反応が進むと・・・!!

しかし、トレスコウたちがいくら待っても、専用機墜落の報せが来ません・・・!!
離陸から2時間後、ヒトラーは大本営に到着。
爆弾は不発でした。

その原因は、専用機が上空を飛び、気温が下がることによって時限爆弾の化学反応が起きなかったからだと言われています。

そのわずか8日後、トレスコウは、第2の暗殺を謀ります。
ベルリンで、ヒトラーが兵器の展示会を見学した時、トレスコウの同志ゲルスドルフが爆弾を懐に入れ、自爆覚悟でヒトラーを案内しますが・・・なんの気まぐれか突然立ち去ってしまいました。

トレスコウたちの2度の暗殺は失敗に終わりました。
そして、トレスコウの果たせなかった思いは、新たな暗殺者へと引き継がれていきます。

ポーランド北東・ケントシン郊外の森・・・
分厚いコンクリートに囲まれた異様な建造物ヴォルフスシャンツェ・・・オオカミの砦と名付けられたヒトラー秘密の大本営の一部。
爆撃を防ぐシェルターの壁の厚さは6~8m。
広大な敷地は、二重の閉鎖区画に仕切られ、周囲に埋められた地雷は5万4000。
2000人もの警備兵がヒトラーを暗殺から守っていました。
ヒトラーは、こうした各地の大本営に身を隠しながら、信用できるわずかな者だけを呼びだし、作戦を立案しました。
ところが・・・ヴォルフスシャンツェの堅い守りを潜り抜けた暗殺者が・・・!!
陸軍・国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐(36)です。
最大にして最後のヒトラー暗殺計画の首謀者です。
名門貴族出身の若きエリートで、率直な性格、同僚から「限界までいこうとする男」と評される熱血漢です。
ナチ政権のユダヤ人弾圧、大量虐殺は、ドイツの恥と感じ、ヒトラーへの怒りを募らせていました。

「責任はヒトラーにある
 奴が排除されなければ、抜本的改革は無理だ
 私にはその用意がある」

北アフリカ戦線・・・
1943年、シュタウフェンベルクは、敵の銃撃で左目・右手・左手の指2本を失います。
しかし、瀕死の状態から奇跡の生還を果たします。
そこで、ヒトラー排除の決意を固めます。
自分の命は、何か目的があって救われたのかもしれない・・・!!
それは、ナチ政権に対して反乱を起こすべきという神の啓示ではないか・・・??
彼はそんな感情になったのかもしれません。

「勇気ある者は、自分の名前がドイルの歴史に”裏切者”と記されるのを覚悟しなければならない
 だが、それを恐れて逃げてしまえば、自らの良心に対する裏切り者になる」

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1943年9月、首都ベルリン・・・
重傷を克服し、軍に復帰したシュタウフェンベルクは、ドイツ本国内の部隊、国内予備軍の参謀に就任。
その頃、国防軍内部では、陸軍元帥ヴィッツレーベン、元陸軍参謀長ベックなど、100人以上が反ヒトラーグループを結成。
そこで、シュタウフェンベルクは、暗殺計画の中心的役割を担っていきます。
さらに、反ヒトラーの市民グループとの会合に参加。
これから目指すべき、新しいドイツ国家のプランを聞きます。
・ユダヤ人迫害の即時停止
・法の尊厳の回復
こうした市民グループを連携することで、計画はナチ政権を倒すクーデターへと発展していきます。

極秘で進めるため、作戦は、国防軍が別の目的で建てたものを流用しました。

作戦名「ワルキューレ」

ベルリンで緊急事態、何者かの反乱発生、その時、国内予備軍が反乱を鎮圧する作戦です。
これを、ナチ政権転覆のクーデターに使おうというのです。

第1段階・・・大本営のヒトラーに近づき、爆弾で殺害。
第2段階・・・総統ヒトラーの死亡の混乱の中、ナチ党が反乱を起こしたと称して「ワルキューレ」作戦発動
第3段階・・・国内予備軍らがベルリン各所を占拠、同時にナチ党幹部たちを反逆者として逮捕、新政府を樹立

1944年7月、反ヒトラー派にチャンスが・・・!!
国内予備軍の参謀長シュタウフェンベルクが、総統大本営の作戦会議に招かれました。
ヒトラー暗殺・・・そしてクーデター計画は、急速に動き始めます。
そこで、シュタウフェンベルクは、作戦成功のカギを握る軍人の説得に向かいます。
国内予備軍司令官フリードリヒ・フロムです。
反乱者を鎮圧する最高責任者です。
フロムの協力なしでは鎮圧軍は動かしにくい・・・!!
シュタウフェンベルクは、切り出します。

「この戦争はもう勝てません
 完全にヒトラーのせいです」

その熱弁を聞いた後、フロムは答えました。

「私の見解も、君とそう大きく違っていないよ」

賛成のようではあるが、不安が残る返事でした。
フロムはもともと反乱鎮圧計画としてのワルキューレ作戦の責任者でした。
一方で、それをクーデターに使う反ヒトラー派にも気のあるそぶりを見せていました。
しかし、完全にかかわることには躊躇したのです。
そして、ついにヒトラー暗殺結構の時が・・・!!
運命のその日は、1944年7月20日!!
ドイツの・・・世界の運命がかかった日でした。
ベルリン陸軍総司令部・・・ナチ党政権転覆のクーデター・ワルキューレ作戦が始まれば、ここは、反ヒトラーグループが終結する重要拠点となります。
一方、ベルリンから700キロ・・・総統大本営ヴォルフスシャンツェ・・・
「ヒトラーの作戦会議に出席せよ」
シュタウフェンベルクは、ヒトラー暗殺に挑みます。
午前11時・・・閉鎖区画に到着。
作戦会議開始の午後1時まであと2時間!!
その間に爆弾の準備をします。
突然の時間変更で、会議は12時30分からに・・・!!
残り30分、シュタウフェンベルクは、副官と共に時限爆弾の準備を急ぎます。
しかし、2つ用意した爆薬の1つしか起爆セットが出来ませんでした。
そこで、機転を利かせます。

「総統の近くに場所をとってくれないか?
 話をよく聞きたい
 ケガのせいで聞こえづらいんだ」

会議室へ・・・!!

そこに、ヒトラーがいました。

場所を開けてもらい、爆弾入りのかばんを置きます。
ヒトラーの2つとなり・・・ここなら間違いない!!
爆発まであと数分!!

「電話を・・・」

と部屋を出たのが午後0時39分。

爆弾は一つでも、威力は十分でした。
シュタウフェンベルクは、見ました。
運ばれる男にかけられた総統のマント・・・間違いない、ヒトラーだ!!
シュタウフェンベルクは、直ちにクーデターの現場ベルリンへ!!
この間にヒトラーの死が伝わり、同志たちがワルキューレ作戦を開始する手はずとなっていました。
午後3時45分、ベルリン空港到着。
副官が、陸軍総司令部に電話をします。
クーデターはどこまで進んだのか・・・??

クーデターは始まっていませんでした。

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ヒトラー暗殺直後の午後1時、混乱するヴォルフスシャンツェから、断片的な情報が入ってきていました。

「総統の暗殺が企てられたが、ご無事だ」

成功か失敗か、正確にわかるまで作戦実行は慎重にいこう・・・
陸軍総司令部・・・彼等はまず、様子を見ることにしました。
シュタウフェンベルクは、司令部に伝えます。

「ヒトラーは死んだ!私は見たんだ!
 ワルキューレ作戦の発動を!!」

ベルリン各所に電文が飛びます。

”総統アドルフ・ヒトラー逝去
 ナチ党幹部のごろつきどもがこの状況を利用し、政府転覆を図っている” 
 
3時間遅れで、国内予備軍が出動。
ナチ党幹部を逮捕に向かうとともに、中央官庁街や通信施設など重要施設を占拠。
午後4時30分、陸軍総司令部にシュタウフェンベルクが到着。
新政権の閣僚予定者・元陸軍参謀長ベックや政治家、知識人や市民グループも集まり、クーデター成功の時を待ちました。
ところが・・・

「シュタウフェンベルク!お前たちは国家反逆罪だ!死刑にしてやる!」

国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム・・・反ヒトラーを認め、曖昧な賛成をした男・・・
ヒトラーが生きていた場合、クーデター側にいればわが身が危ない・・・フロムは、反クーデターの立場を示します。
さらに、午後6時30分、宣伝大臣ゲッベルス邸を包囲・・・そこで隊長のレーマーは、ゲッベルスから電話を渡されました。

「私の声がわかるかね?」

総統アドルフ・ヒトラーが生きていたのです。

爆発から4時間後、ヴォルフスシャンツェを訪れたムッソリーニを迎えるヒトラーの映像が残されています。
死者4人、重症者7人という爆発の中、脳震盪に打撲、やけど程度で済んでいたのです。
ムッソリーニに爆発現場を見せながら、何度も言いました。

「私は不死身だ、私は不滅だ」

どうしてヒトラーは無事だったのでしょうか?
一説には、シュタウフェンベルクが爆弾入りのかばんを置いて出たのち、別の将校が邪魔だと感じて頑丈な机の脚の裏側に移動、その為にヒトラーへの爆風が弱まったともいわれています。

「必要ならあらゆる手段を使い抵抗を鎮圧せよ
 私に歯向かうものはすべて殺せ わかったかね?」byヒトラー

午後9時30分・・・陸軍総司令部がヒトラー派に包囲する中、クーデター派のある者は逃げ出し、ある者は言い訳探しに必死になりました。

「みんなが私を見殺しにした」byシュタウフェンベルク

シュタウフェンベルクの周りにいた高官の多くは、彼に暗殺とワルキューレ作戦を行わせるつもりでも、自分自身が100%すべてをかけてクーデターに身を投じるつもりはありませんでした。
自分が望むことを、自分に代わって他の誰かのしてもらいたい・・・
「代理人症候群」だったのかもしれません。
その日深夜、午前0時30分・・・陸軍総司令部中庭・・・クラウス・フォン・シュタウフェンベルク銃殺。
その後、およそ600人が国家反逆罪で逮捕。
裁判では、毅然とヒトラーを批判し続ける人も・・・。

「総統が世界の歴史に果たした役割は、凶悪な犯罪者であると確信し・・・」by法学者ハンス・ベルント・V・ヘフテン

処刑者100人以上・・・東部戦線のトレスコウも過去の暗殺未遂が発覚し自殺。
それから9か月後・・・1945年4月30日・・・アドルフ・ヒトラー自殺。
その日まで、独裁者は自ら止まることなく、無数の命を奪い続けました。

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7月20日事件(クーデター事件)の軍人たちが評価されるのは、1950年代です。
1980年代になって本当の研究が出てきます。 
ゲオルク・エルガーの場合は、もっと大変で、故郷ケーニヒスブロンでエルザ―が”勇気ある反抗者”と認められるのは、1980~90年代になってからのことです。
今日ではナチスの過去を記憶にとどめる”記憶の文化”が運動となり、市民的な勇気を体現した人間としてゲオルク・エルガーの存在が、今日位置付けられています。

民主主義とは脆弱であり、放っておくと暴力国家に転じる可能性があります。
そうなる前に、早い時点で芽を摘み取る努力が必要なのです。
同調圧力に屈せず自立的に生きる・・・生きる私たちにとって最大の課題です。

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ヒトラー暗殺、13分の誤算(字幕版)

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90年前・・・催眠術や交霊術を発揮し、世界一の予言者と呼ばれた霊能力者がいました。
その名は、第三帝国の予言者エリック・ヤン・ハヌッセン!!
予言者ハヌッセンは、あやしい霊能力を使い、ヒトラーの黒幕と噂された謎の男・・・
ナチス・ドイツを支持すれば、幸せな未来が来ると、民衆の期待を煽り続けた時代の申し子です。



1932年アメリカ・・・子ヤギに布をかける怪しげな男女・・・大勢の観客が見守る中、魔法の呪文でヤギが人間に・・・!!
観客が大喜びのイリュージョンです。
20世紀前半、欧米を興奮の渦に巻き込んだ男エリック・ヤン・ハヌンセン。
ステージに立てば、常に満員!!
交霊術で死者の声を告げれば、トランス状態であらゆる未来を予測・・・

「ハヌンセン!!世界一有名な予言者」

1930年、41歳の時に出版した自叙伝”私の生命線”の序文には、
”透視能力や催眠術師として名を馳せた男の人生”
自信に満ちた謎の霊能力者はどこから来たのでしょうか?

ハヌンセンが生まれたのは、1989年6月2日、芸術の都ウィーン、かつて栄華を誇ったオーストリア帝国が衰退を迎えていた時代です。
ハヌンセンが育ったオッタクリングは、当時のウィーンの西のはずれ・・・労働者が暮らす貧しい地域でした。
本名ヘルマン・シュタインシュナイダー・・・ハヌッセンは、後に北欧風の芸名をつけたものです。
父ジークフリートは、ヨーロッパ各地を巡業する旅役者で、母ジュリーも同じステージに立つ歌手でした。
旅芸人の暮らしは不安定・・・食卓にはパンとスープだけだったといいます。

”父親は何の役にも立たない貧しい悪魔だった
 私の子供時代は決して楽ではなかった
 私は英雄になりたかった”

自伝によると、ハヌッセンは9歳の頃、近所の人々を前に初めて予言をしたといいます。

「この工場に指名手配のギャングが潜んでいるというお告げがありました
 僕がこれから火をつけて、ヤツを追い出して見せます」

そして、工場に火を・・・すると、なんと本当にギャングが逃げ出してきたのです。
予言者ハヌッセンの始まりでした。
ところが、アメリカのハヌッセン研究者によると・・・実際にあった話ではないのではないのか??
彼は幼いころ、ウィーンの貧しい環境で暮らしていたので、裕福な人々と自分とのギャップをとても感じていました。
その体験から、彼が目指していたのは富と名声を手に入れること・・・そして、認められることでした。
人から注目されることに飢えていたのです。

ハヌッセンは、14歳の時、自分の力で一旗揚げようと親元を離れました。
サーカスの猛獣使い、歌手、マジックショー・・・あらゆるステージテクニックを学びます。
しかし・・・一向に目が出ません。
さらに25歳の時、第1次世界大戦が勃発・・・ハヌッセンは、半年で33万人の死者を出したポーランドの激戦地ゴルリツェに派遣されました。
いつ死ぬかもわからぬ日々・・・ハヌッセンは、自分の才能に目覚めます。

直属の上官の未来を超能力で予言します。

「赤ん坊が見えます 男の子・・・そう、元気な男の子が・・・!!」

言われた上官も半信半疑・・・ところが5日後、

「妻に子供が生まれたんだ
 しかも男の子だ!!
 予言が当たったよ!!」

大喜びした上官は、ハヌッセンを危険な前線任務から外しました。
ところが・・・この霊能力予言には種がありました。
前線近くの野戦郵便局・・・そこで働く友人を買収し、予言する相手あての手紙を前もってのぞき見していたのです。



1918年第1次世界大戦終了・・・
ハヌッセン30歳、ドイツの首都ベルリンに拠点を移し、再びステージへ!!
そこで、今まで学んだステージテクニックを花開かせます。
霊能力を駆使したテレパシーショーです。
ステージ上のハヌッセンは、まず、目と耳を完全にふさぎます。
その間に、観客の一人が、他の観客にわかるように客席のどこかにマッチ箱や煙草入れを隠します。
続いて、無作為に選んだ協力者の心をテレパシーで読み取ります。

「隠したものの形、材質、しっかり心の中でイメージしてください」
そして、協力者の腕を握り、その目と心を通して隠し場所探り当てるのです。

これぞ本物の神秘の力・・・!!

ハヌッセンの霊能力ショーは、大ヒット、チケットは完売し、4万6000人以上を動員。
噂は瞬く間に広がり、ステージの依頼が殺到!!
月収は1000万円!!
セレブ相手の交霊術や、個人占いも始めます。
料金は1回で労働者の月給の4倍・・・30万円という荒稼ぎでした。
金と名誉を獲得したハヌッセンは、あらゆる欲望へと手を広げ、週末ごとに自分の高級ヨットにセレブを集め、いかがわしいパーティー三昧・・・
そんな彼のヨットに世間がつけたあだ名は「七つの大罪」号でした。
傲慢、強欲、色欲、暴食・・・欲望の赴くまま・・・ハヌッセンは、子供の頃からあこがれ続けていた世界へとなりあがったのです。

ハヌッセンは本当に霊能力の持ち主だったのでしょうか??
整理心理学の一種の応用的な手法を用いたと考えられます。
通常では気が付かない程度の僅かな反応を、彼が手を握ることによって読み取った可能性があります。
人力ウソ発見器です。

人間は、緊張すると無意識に脈拍が上がり、汗がにじみ、筋肉がこわばります。
テレパシーショーの場合、ハヌッセンが隠し場所に近づくと協力者は緊張し、このような生理現象が出ます。
そのまま通りすぎたりすればホッとして生理現象が弱まります。
ハヌッセンは、握った協力者の腕から微妙な変化を読み取りながら隠し場所に向かったとされます。
筋肉リーディングという高等テクニックです。

必要なものは観察眼、共感性です。
それをエンターテインメントでうまくパッケージングしたものなのです。

「僕は英雄になりたかった」

貧しかった時代から抜け出し、富と名声を手に入れたハヌッセン。
しかし、1度火が付いた野望は、治まることを知らず、更なる野望へと突き進んでいくのです。

霊能力ショーで成功したハヌッセン・・・種も仕掛けもあったとはいえ、並外れた才能がありました。
ステージが始まる前、ハヌッセンは助手を使って今日の観客の情報をリサーチしていました。
それを本番直前に暗記することで、どんな観客が相手でも言い当てることができるようにしていました。
観客は、ワンステージで数百人分・・・公演のたびに記憶をしていました。
数か月たっても完璧に覚えていたといいます。
しかし、彼はステージの成功だけでは満足しません。
さらなる富と名声を求めて近づいていったのは、あのナチスでした。

1930年初頭・・・ハヌッセンが活躍したドイツ・ベルリンは混乱の中にありました。
1929年に襲った世界好況によって、ドイツの失業者は600万人に膨れ上がっていました。
失業率は、実に30%・・・未曽有の危機・・・!!
そんな中、ドイツ議会では二つの政党が人気を集め、急成長をしていました。
ひとつは低賃金労働者層に支持され、富と権力を独占する富裕層打倒を目指すドイツ共産党、もうひとつは・・・

「他の政党をドイツから追い出すことが第一の目的だ!!」byヒトラー

アドルフ・ヒトラーを当主とするナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党です。
話し合いばかりで問題解決ができない議会民主制ではなく、即断できる独裁制で新時代を切り開こうと訴えて人気を集めている勢力でした。
ナチ党と共産党は、お互いを宿敵と憎み、労働者層の占拠票を奪い合い、乱闘騒ぎを起こしていました。
そんなある日、ハヌッセンはベルリンの社交界でナチ党の幹部と友人になります。
ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵です。
ナチ党突撃隊ベルリン支部の指揮官でした。
突撃隊は、ナチ党が政敵を排除するための暴力専門集団で、その幹部へルドルフも強硬派の恐ろしい男・・・
ただし、ギャンブル好きという弱点を持っていました。
借金がなんと1億6000万円・・・そのうち半分をハヌッセンが肩代わりしたといいます。
ハヌッセンは、へルドルフの人脈を生かし、名だたるナチ党幹部に接近します。
ナチ党幹部に資金提供をすることで、上り調子の政治権力に食い込むことを狙いました。

ハヌッセンとへルドルフは、持ちつ持たれつの仲でした。
へルドルフはお金が必要で、ハヌッセンは上級階級のコネを求めていたからです。
ハヌッセンは更なる名誉と権力を得ようとしていたのです。

1932年1月・・・ハヌッセンは、世間への新たなアピールに打って出ます。
印刷所を買収し、新聞を発行!!
その名も「週刊ハヌッセン新聞」です。
記事の中身は、
”10分の瞑想が3時間の睡眠に匹敵”
”自ら愛用のインド式数珠をPR”
”催眠による若返り療法”
大衆受けする健康情報や、お役立ち情報などをハヌッセンのオカルトチックな味付けで打ち出します。
これが大ヒット!!
創刊時の発行部数8000部が、1年後には15万部、さすが世間の空気を読むヒットメーカーです。

ところが、4か月後の5月、別の新聞から攻撃を受けます。
ドイツ共産党の機関紙「ベルリン・アム・モルゲン」です。
”ベルリンを支配する詐欺師”
”高級車、高級ヨット、印刷工場、全て詐欺まがいの商法で得た富”
”霊能力商売で荒稼ぎをし、欲望をむさぼるハヌッセンは、金持ちの堕落そのもの”
と叩かれたのです。
これに対し7月、ハヌッセンは自らの新聞で反撃!!
”ヒトラーに政権を”
”ヒトラーの首相就任やいかに?ゴール間近!”
予言や占いという形で、ヒトラーが政権を取るべきだと応援をはじめました。
ハヌッセンにとって、有力な人脈を作ってきたナチ党は、同じ共産党を敵とする仲間同士でした。
そこで、「ヒトラーがもうすぐ大統領から任命され首相になるはず」と世間にアピールします。
そして、共産党の勢力を削ぎ、攻撃から身を守ろうちしたのです。
一方ナチ党にとっても、人気者ハヌッセンによる「ヒトラーが政権を取る」予言は好都合でした。
黙っていても、プロパガンダをするハヌッセンは、利用価値がありました。
予言者ハヌッセンと扇動者ヒトラー・・・過激な方法で、大衆心理を掴む二人が今、歩み寄ろうとしていました。



ヒトラーに接近し、更なる栄光を目指すハヌッセン・・・そのハヌッセンを利用して、政権の獲得を目指すヒトラー・・・この二人には、多くの共通点がありました。

同じオーストリアの出身で生まれた歳も同じ1889年、2人とも孤独な幼少期を送り、若い頃はヒトラーは画家になろうとして挫折、ハヌッセンはショービジネスで失敗続き・・・
一方で、成功のきっかけは、ヒトラーは人の心をつかみ過激な演説で、ハヌッセンは人の心を操る怪しげなショーで・・・。
これは運命なのか??混ぜてはいけない危険な二人が、ドイツの未来を闇へといざないます。

1932年7月、ナチ党は第1党に・・・!!
”選挙戦に向けて星占い”
”ナチ党と突撃隊、そしてヒトラーなしでは国民の勝利とドイツの復活は不可能”
1932年後半、ハヌッセンは予言によるヒトラー応援にさらに力を入れていました。
一方、別の出版社からはハヌッセンとヒトラーのつながりを掻き立てる本が・・・!!

”ヒトラーが手を伸ばすとハヌッセンは手相を注意深く見てこう伝えた
 「あなたはいつかドイツのアイドルになるでしょう
  あなたが政府のかじ取りをする素晴らしい日がいよいよやってきます」”byハヌッセン ドイツのラスプーチン

大人気霊能力者のヒトラーへのいれあげぶりに、世間では引っこ抜くと声をあげる魔法植物マンドラゴラをハヌッセンがヒトラーに贈ったという噂も出ました。
アメリカCIAの機密文書では、諜報機関(OSS)によるヒトラー分析で、黒幕にハヌッセンがいると指摘しています。

”ヒトラーは、ハヌッセンという人物から定期的に演説や大衆心理のレッスンを受けていた”

ハヌッセンは、本当にヒトラーのアドバイザーだったのでしょうか?
ハヌッセンとヒトラーがあっていたという確証はありません。
世間の人々は、エゴやカリスマ性という共通点を持つハヌッセンとヒトラーがたがいにひかれ、繋がっていると信じたかったのかもしれません。
2人の実際の交流を勘繰るほど、ヒトラーの首相就任に期待をかけ、予言を続けるハヌッセン・・・!!
しかし、応援を初めて数か月・・・現実はなかなか予言通りにはいきませんでした。
8月・・・ドイツ政府の内部で「大衆に人気があるヒトラーを首相に任命するべきでは?」という意見が上がります。
しかし、大統領ヒンデンブルクはこれを拒否。
しかも、3か月後の11月6日、選挙でナチスは議席数を230→196と大きく減らします。
ヒトラーとナチ党の銃成長が行き詰ったのです。

さらにハヌッセン自身にも危機が訪れます。
12月12日、ある一般新聞のスクープ記事に、ハヌッセンは驚愕します。
”予言者の闇・・・ハヌッセン・・・本名ヘルマン・シュタインシュナイダーはユダヤ人である”
ハヌッセンの結婚式の証明書には・・・ユダヤ人教会で行われたと司祭が書き記しています。
ハヌッセンはこれまでユダヤ人という事実をひた隠しにしてきました。
この報道に、友人へルドルフは激怒!!
「君がユダヤ人だというのは本当なのか??」
彼が所属するナチ党は、設立当初からユダヤ人をドイツ民族の敵とみなす反ユダヤ主義を掲げていました。
しかも、へルドルフは、突撃隊幹部としてベルリンでのユダヤ人迫害に積極的にかかわる強硬派・・・!!
ハヌッセンがユダヤ人だとしたら、ただで済ますわけにはいかない・・・!!

「それは全くのでたらめだ・・・ 
 俺の両親は、デンマークの貴族だったが、早くに亡くなってしまい親切なユダヤ人夫婦の養子になった」byハヌッセン

ステージで鍛え上げた度胸と機転で、とっさに過去をでっち上げ、なんとかその場を取り繕いました。
ユダヤ人でありながら、ナチ党の幹部たちと付き合い、さらにはヒトラーの政権獲得を応援するハヌッセン・・・
どうして、このような危険な行動をとったのでしょうか??
知人に語っています。

「私は、ナチの反ユダヤ主義は、ナチ党が選挙で大衆の支持を得るためのトリックに過ぎないと思っていた」byハヌッセン

ハヌッセンは、ナチ党の行動の真意を、完璧に読み取れていると自信を持っていました。
さらに・・・彼は、ナチの寄付金の領収書、借金の借用書を大量に持っていました。
これが世間に出ると、ナチはユダヤ人のハヌッセンを頼りにしているとバレてしまいます。
ナチは、自分になついているし、この切り札がある限りは安全だと考えていたのです。

多少のリスクは乗り越えられる・・・ハヌッセンは自分の未来をヒトラーの成功に賭けました。
その賭けは、ある日突然決着を迎えます。
1933年1月28日・・・内閣が突如総辞職・・・
2日後の1月30日、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命しました。
ヒトラー政権が誕生したのです。
予言がついに現実となりました。

”ハヌッセン新聞、世界史を先取り”
 
その上、ハヌッセンは、ヒトラーに自分を売り込むかのような熱烈なメッセージを 

”帝国首相閣下!
 私は閣下の時代の到来を予見し、それを信じてきた人たちに真実をそのまま告げました
 これまで私は閣下の成功を予言するたびに、嘲笑され、風刺画を描かれ、イカサマ予言者と呼ばれました
 それでも自分が再興の社会「閣下の社会」に属しているという思いこそが、私の慰めとなったのです”

ヒトラー政権誕生と時を同じく・・・1933年1月、ハヌッセンはベルリン中心街の高級アパートに入居します。
内装に2000万円以上かけた部屋を披露します。
通称オカルト宮殿・・・友人たちを招いて交霊術や占星術を行う特注テーブル。
セラピーを行う帆船を模した巨大な像
全ての客室には盗聴器がつけられ、ゲストの占いやショーに当たっての情報収集も万全でした。
我はヒトラーの予言者・・・ハヌッセンは栄華の絶頂にありました。


ヒトラー政権誕生から1か月・・・2月27日、謎の大事件が起きます。
午後9時30分ごろ・・・民主主義政治の中心・国会議事堂が炎上します。
真赤な炎と黒煙に包まれました。
駆けつけたヒトラー首相は、これは共産党による国家転覆の陰謀だとまくし立てました。

「まさに今、ドイツの新たなる章の幕開けを目撃している
 この炎が始まりだ!
 共産党の活動家は、全員射殺だ!!」byヒトラー

一方、国会炎上前夜・・・
あのオカルト宮殿にセレブや新聞記者を招き交霊会を行っていたハヌッセン・・・
ハヌッセンは翌日のヒトラーと同じようなことを口走っていました。

「炎が見える、巨大な炎・・・火事だ・・・大きな火災が発生している
 放火魔が、罪を働いている」byハヌッセン

それはまさに、国会議事堂放火の予言でした。

実は、この国会議事堂放火事件は、ナチの自作自演と言われています。
自ら国会に放火した上で、共産主義者を犯人に仕立て、クーデターをでっち上げたのだという・・・
ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領に依頼し、緊急事態に対応する法令を布告。
事件翌日には、国民の基本的人権のほとんどを停止、共産主義者の徹底弾圧を強行しました。
逮捕者2万5000人以上・・・ヒトラーはわずか1日で、敵とみなす相手を一掃する手段を手に入れたのです。
遂に、恐怖政治の本性をむき出しにしたヒトラー・・・
国会放火事件を予言したハヌッセンは、ヒトラーの陰謀を事前にリークしたことになります。
ハヌッセンは、特別なセンセーションを見せたかったのでしょう。
自分がいかに予知能力を持っているか・・・実行直前の国会議事堂放火に関する情報は、へルドルフから得ていたと思われます。
ハヌッセンのこの予言が浅はかで、行き過ぎだったのは言うまでもありません。

この直後から、ハヌッセンは何者かの影におびえるような発言を友人に語るようになります。

「私の頭上には、暗い雲が浮かんでいて、それが覆いかぶさっている
 自分に残された時間はわずか
 自分には大きな災難が近づいている
 ここ数週間、気分が乱れていて、武装した護衛なしには劇場へ向かいたくない
 できるだけ早くアメリカに腰を下ろすつもりだ」byハヌッセン

1か月後の4月からは、ウィーンでの公演を控えていました。
これを機に、海外脱出を目指そうとしたのか・・・??
しかし、一方で、ハヌッセンの秘書は近証言をしています。

「ハヌッセンの部屋には、ナチ党員の証明書がありました」

追い詰められたハヌッセンは、ベルリンでキリスト教に改宗して、ナチ党に入党しています。
これは、ハヌッセンの最後の悪あがきだったのです。
このままベルリンでナチとの良好な関係を期待するのか?
それとも海外へ脱出した方が安全なのか??

しかし、ウィーン公演へ向かう10日ほど前・・・ハヌッセンは再びあってはならないミスを犯します。
1933年3月19日、ある出版社の買収に参加したハヌッセンは、売り手側の裏切りに遭います。
へルドルフの部下の突撃隊幹部ヴィルヘルム・オーストが、買収に割り込んできたというのです。

「それなら、おーすとはこれまで私が貸してきた金をすべて返すべきだ」

ナチが、ユダヤ人のハヌッセンから借金をしていることは、借金証書をハヌッセンが切り札にするほど重大な秘密でした。
それを、おーすとにつながる人物の前で、口走ってしまったのです。


1933年3月24日夜10時・・・スカラ劇場・・・
いつものステージ・・・出演時間の夜10時になってもハヌッセンは姿を見せませんでした。

その2時間前・・・オカルト宮殿を訪ねたのは、4人のナチ突撃隊員でした。
オーストもいました。

「借用証書全てを渡してもらおう」

もはや、友人の顔ではありませんでした。

「それは渡せない」

抵抗するハヌッセン・・・しかし借用証書も寄付金の領収書もすべて奪われました。
ハヌッセンは車に乗せられました。
2週間後の1933年4月7日・・・ベルリン郊外の森で遺体が発見されました。
背後から3発の銃撃を受けた遺体は、野生動物の餌食となっていました。

ハヌッセンが連れ去られる前日の3月23日、臨時の国会議事堂をナチ突撃隊が包囲する中、全権委任法が成立。
ヒトラーは、国会を通さず、自由に法律を作る権限を手に入れました。
もはや、予言者など不要でした。
やがて、独裁政治を確立していくヒトラーによって、ドイツ支配下のユダヤ人は、財産も、人権も、そして命を奪われていきます。

ベルリン中心部から南西に30キロ・・・ハヌッセンは、遺体発見の勅語、ドイツ・朱ターンすドルフの南西教会霊園に埋葬されました。
墓碑銘には、エリック・ヤン・ハヌッセンとだけ・・・華やかな肩書も、ユダヤ人としての本名もない・・・。
埋葬の時、参列者はわずか7人でした。

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日本に投下された2つの原子爆弾は、一瞬にして都市を破壊し、多くの市民の命を奪いました。
この恐るべき兵器を作り出したマンハッタン計画・・・
当時最高の科学と技術を結集した巨大プロジェクトでした。
ノーベル賞受賞者をはじめ、世界の頭脳がアメリカに・・・彼等を率いたのは、物理学者のロバート・オッペンハイマーでした。

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科学者たちが挑む、原子から巨大なエネルギーを取り出す最先端の研究・・・
それは、大量殺りく兵器の製造にほかなりませんでした。
第2次世界大戦中、原子爆弾を作り出した科学者たち・・・その罪と罰に迫ります。

アメリカ・ニューメキシコ州・・・1945年7月16日、ここである歴史的な実験が行われました。
人類史上初の核実験成功・・・人間が原子爆弾という兵器を生み出した瞬間でした。
その巨大な力を作り出したのは、神でも悪魔でもない・・・

原爆の父とよばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー。
如何にしてこの男は原子爆弾を作り出したのか・・・??
始まりは、1938年のドイツに遡ります。
2人の科学者が、核分裂を発見したのです。
物質を構成する原子を、その中核をなす原子核に中性子をぶつけると、二つに分裂することがわかりました。
この時、巨大なエネルギーが放出される・・・!!
これに科学者たちは注目しました。
そして、核分裂連鎖反応を起こせば、莫大なエネルギーを作りだせると考えました。
当時、ドイツはヒトラー率いるナチスの支配下・・・今にも戦争をはじめようとしていました。
ヒトラーが巨大なエネルギーを手に入れれば、恐ろしい兵器を作るに違いない・・・。
いち早く、危険を察知したのは科学者達でした。

ナチスから逃れてアメリカに亡命していたユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインもその一人でした。
危機感を持った科学者の呼びかけに応え、アインシュタインはアメリカ大統領への手紙に署名しました。

”この核分裂連鎖反応は、爆弾の製造にもつながります
 それも、きわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます”

近い将来、ドイツで原子爆弾の製造ができるようになると警告します。
そこには、アメリカにドイツより早く原爆を完成させるようにする狙いがありました。
アメリカ合衆国大統領ルーズベルトは、原子爆弾の製造を決意します。

1942年8月、ニューヨークに司令部を設置・・・マンハッタン島ブロードウェイ270番地・・・
ここに、マンハッタン計画が誕生しました。
科学部門の責任者に選ばれたのは、カリフォルニア大学で物理を教えていたオッペンハイマーでした。
学生から愛称で呼び親しまれる教師・・・
後のブラックホール発見につながる先駆的な研究で注目される理論物理学者でした。
ユダヤ系アメリカ人として生まれたオッペンハイマーは、少年時代から科学、歴史、語学と様々な学問に興味を抱き、秀でていました。
その教養を武器に、あらゆる分野に対応することができると軍の上層部が目をつけたのです。

軍が求めていた科学的大事業に必要なリーダーシップをオッペンハイマーは全て備えていました。
オッペンハイマーは、観察眼が非常に鋭く、そして頭の回転も極めて速かったのです。
要するに、原子爆弾を早急に開発するための実践的能力に抜きんでていたのです。

オッペンハイマーはまず、計画の拠点となる研究所をどこにするかを考えました。
広大なアメリカの国土から選んだのは・・・マンハッタンから3200キロ離れたニューメキシコのロスアラモスでした。
崖の上に広がる独特の地形が決め手でした。
周囲から隔絶された辺境の地・・・機密保持には最適でした。
続いて、化学者の人選です。
オッペンハイマーはまず、一流の科学者だけに狙いを絞りました。
既に「ノーベル賞を受賞していた世界的物理学者エンリコ・フェルミ・・・
後にノーベル賞を受賞する物理学会の重鎮ハンス・ベーテ。
戦後、コンピューターの基礎を築くことになる数学者フォン・ノイマン。
ビッグネームが揃うと、その名前につられるように参加者が増え、有名科学者に憧れる若手研究者も多く集まりました。
オッペンハイマーの狙い通りでした。

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オッペンハイマーは、研究所設立のセールスマンでした。
誰もが研究所に入りたがるような魅力的な人選をしました。
多くの若い科学者たちは、研究所に入り、自分が目標とする科学者と働けることを望みました。

続いてオッペンハイマーは、研究環境を整えます。
原爆開発は、陸軍主導のプロジェクト・・・軍は機密漏洩を防ぐため、科学者同士の会話も制約しようとしていました。
オッペンハイマーは、軍と粘り強く交渉・・・科学者たちの研究エリアに憲兵を立ち入らせないようにしました。
オッペンハイマーは、研究所は研究所らしくあるべきだと訴えたのです。
科学者全てが自由に議論でき、全ての情報を知ることができなければならない・・・
そして、全員が自由に意見を言えなければならないと軍に認めさせたのです。
科学者とその家族たちが続々と集まり、研究所の周りには町が作られました。
オッペンハイマ―は、科学者が心おおきなく研究できるように配慮しました。

こうして、マンハッタン計画の拠点としてロスアラモス研究所が完成しました。
所長に就任したオッペンハイマーのもと、原爆開発が動き出します。
最初に取り組んだのは、ウランの核分裂を利用した爆弾・・・核分裂を起こすことができる十分な量の濃縮ウランを二つに分け、筒の両端に配置・・・それを高速でぶつかり合わせ、核分裂を引き起こして爆発させる方法です。
仕組みは単純ですが、ウラン型爆弾には欠点がありました。
原料となる濃縮ウランを生成するのに膨大な手間と費用が掛かり、兵器として量産が出来ないこと・・・。
そこで、目をつけたのがプルトニウムでした。
濃縮ウランよりも容易に作ることができ、大量生産が可能でした。
ただし、ウランと同じ工法ではうまく核分裂させることができない・・・
科学者達は、プルトニウムを急激に圧縮すれば核分裂を引き起こせるのではないかと考えました。
プルトニウムを火薬で覆い、それを爆発させて一気に圧縮する爆縮という方法です。
この時、プルトニウムに均等かつ同時に力を加えなければ失敗してしまう・・・。
これこそが、原爆開発の最大の難問でした。

オッペンハイマーは、理論と技術、それぞれの専門家に知恵を求めました。
まずは理論・・・
爆弾の威力や弾道の計算で第一人者だった数学者フォン・ノイマンに設計を委ねます。
ノイマンは、均等にプルトニウムを圧縮するには火薬の種類や配置をどうすればよいか、最適な条件を計算で割り出そうとしました。
しかし、爆発という複雑な現象を計算することは至難の技でした。
思い通りに爆発させるためには、火薬をコントロールしなければなりません。
とても骨の折れる作業でした。
卓上計算機に手で打ち込み、繰り返し計算しなければなりませんでした。
このままでは、爆縮の計算など実現不可能だとみんな考えていました。

無数にある選択肢から最適な条件を導くため、ノイマンは当時最新型のパンチカード式計算機を活用。
昼夜フル活動させます。
そして、一つの答えにたどり着きました。
それは、プルトニウムの周りを32の区画に分け、火薬と点火装置を配置。
均等かつ同時に圧縮することが、理論的に可能になりました。
この設計図を技術チームが実現していきます。
火薬を爆破させるための点火装置も32の区画それぞれに設置します。
そのすべてを同時に点火しなくてはなりません。
ノイマン率いる理論チームの計算によれば、許される誤差はわずか2/100万秒でした。

誤差が少しでも生じたら爆縮は起きません。
当時、2/100万秒というのは、きわめて短い時間でした。
そこで、高速の解析カメラが欲しいという話になりました。
32個の点火装置が同時に点火するかどうかを検証するためのものです。

オッペンハイマーは、一瞬の光を捕らえることのできる超高速カメラを手配しました。
オッペンハイマーは、時間を見つけてはあらゆる部署を回り、仕事の新着情報を確認しました。
科学者は技術者の直面している問題に耳を傾け、解決のヒントを与え、答えに導いていったのです。
彼は全てのことを知り尽くしていました。
核、原子、流体力学・・・天才だったといっても過言ではありません。
しかも、親しみやすく、話しやすい人物でした。
オッペンハイマーについて全ての科学者が口にするのは、彼のリーダーシップが無ければ1945年の夏に原爆は出来上がっていなかっただろうということです。



原爆開発は進んでいきます。

原子爆弾を生み出す核分裂の連鎖反応・・・
それは、人類が作り出した究極の暴走だ!!
頭脳と情熱の限りを尽くし、原爆開発に突き進んだ科学者たち・・・
自らもまた暴走していることに気が付いていたのか・・・??

1944年6月6日・・・連合軍は、ドイツ占領下のフランス・・・ノルマンディに上陸。
8月25日には、ヒトラーの支配下にあったパリを奪還。
ナチスドイツの敗戦が濃厚になっていきました。
さらにアメリカ軍の諜報部隊が、ドイツの原爆開発に関する重大な情報を入手します。
ドイツは原子爆弾を作ってはいませんでした。
ドイツの原爆開発を恐れて始まったマンハッタン計画・・・その他意義が失われました。

故郷ポーランドで妻をナチスに殺された物理学者ジョセフ・ロートブラット・・・
「もはや原爆を作る必要はない」
1944年の冬にただ一人ロスアラモスを去りました。

オッペンハイマーの教え子で、濃縮ウランの精製技術を研究していたロバート・ウィルソンは、悩んでいました。
原爆の開発を続けるべきか、その是非を問う集会を開きたいと考えます。
オッペンハイマーに意見を求めたところ、

「そんな集会をやれば、君は軍の連中ともめ事を起こすことになるだろう
 だから、集会はやめた方が賢明だと思うね」

そんな集会を開くには、まったくふさわしくないタイミングだとオッペンハイマーは考えたのです。
計画が、加速度的に進展していたので、軍とことを荒立て開発がストップするのは避けたかったのでしょう。
軍の意向を慮るオッペンハイマーに失望し、ウィルソンは集会を決行します。
すると驚いたことに、参加者の中にオッペンハイマーの姿がりました。
そして発言の機会を求めて語り始めました。

「このままドイツとの戦争が終われば、原爆はアメリカの軍事機密となり、いつ新たな戦争で使われるかわからない
 むしろ、原爆を完成させて実験を行い、世界の人々に原爆の恐ろしさを知ってもらえば、国際平和を話し合ういい機会になる」

オッペンハイマーは、原爆が世界平和に貢献すると主張し、同席した科学者をひとり残らず納得させました。
ウィルソンは、その時の様子をこう回想しています。

”荷物をまとめて研究所を去ろうなんて、誰も言い出さなかった
 それどころ、あみんな取りつかれたような熱心さでまた仕事に戻っていった”

オッペンハイマーは、計画を継続するべきであると見事に納得させたのです。
彼の野望は、出来るだけ早く原爆を作ることでした。
それはプライドや野心といえるし、出世欲だったのかもしれません。
いずれにせよ、科学者がみんなオッペンハイマーの元、原爆開発に向けて一致団結したのです。

1945年5月7日、ナチス・ドイツが無条件降伏・・・原子爆弾開発の目的は消え失せました。
しかし、アメリカにはまだ敵がいました。
日本です。
太平洋戦争で激戦を繰り広げ、多くの死傷者を出していたアメリカは、日本への原爆投下を検討していました。
オッペンハイマーたちマンハッタン計画の科学者達もその議論に参加していました。
同じ頃、科学者の一部から日本への投下は望ましくないという意見が出ていました。
すでに、空襲で壊滅状態の日本に原爆を使うことが本当に必要なのか??
彼等はデモンストレーションとして原爆を砂漠や無人島で爆発させる提案をしていました。
各国の関係者に公表すれば、その脅威を理解させることができるというのです。
戦争を終わらせる手段としてデモンストレーションが効果的なのか??
議論は真っ二つに分かれました。



デモンストレーションを支持するものの主張
①実戦で使うのは、人道に反する
②アメリカが国際的な批判を受ける

原爆投下を支持するものの主張
①実戦で使用しない限り日本の戦争指導者を降伏させるのは難しい
②多くのアメリカ兵の命を救える

オッペンハイマーたちの最終報告書・・・

”我々は、戦争を終結させる手段として、デモンストレーションを提案することはできません
 つまり、原爆の直接的軍事使用の他には考えられません”

結論は、日本への原子爆弾の投下でした。

そして、最後にこう付け加えられていました。

”我々が、科学者として原子力利用について考える機会を得た数少ない市民であることは間違いありません
 しかし、我々には政治的、社会的、軍事的問題を解決する能力はありません”

オッペンハイマーたちは、科学者には軍事に関する特別な能力がないからと言い訳して、原爆投下の決定を事実上認めました。
何故なら、彼らは戦争に勝利し、早期に集結させることが、科学者の責任だと思っていたのです。

1945年7月・・・実践に向けた原爆の爆発実験の準備が始まりました。
トリニティー実験です。
爆発させるのは、爆縮の技術を駆使したプルトニウム型原子爆弾・・・
32個の点火装置も、2/100万秒以内の誤差で点火で来るように仕上がりました。

1945年7月16日午前5時29分45秒・・・
爆発の瞬間、真昼の太陽数個分に匹敵する閃光が、半径30キロを照らしました。
巨大な日の玉は、やがてきのこ雲となり、高度3000メートルの地点にまで上昇。
爆発音は、160キロ先まで聞こえ、200キロ先に窓ガラスも割れたといいます。

オッペンハイマーはただ一言「上手くいった」とつぶやきました。

ノイマンと同じ理論チームにいたロイ・クラウバー・・・
100キロ離れた地点から、実験を目撃しました。

「私は山頂から見ました
 すさまじい閃光とともの、実験場から爆風が広がりました
 そして、蒸気が幾重にも幾重にも立ち上っていきました
 空全体が明るくなるのを見て、実験が成功したことを、そして、実験が現実の事なのだと悟りました
 恐ろしかったです
 嬉しいことなどひとつもありません
 山頂からロスアラモスまで帰る途中、誰も一言も口をきかなかった」

開発を続けるべきか、迷って集会を開いたロバート・ウィルソンは、
酷いものを作ってしまったと座り込んでしまいました。

そして、オッペンハイマーは、一緒にいた科学者にこう言われました。

「オッピー、これで俺たちはみんなクソッタレだよ」

オッペンハイマーは晩年、トリニティー実験を回想しています。

”世界は前と同じでないことを私たちは悟った
 ある者は笑い、ある者は泣き、ほとんどの者は押し黙った
 私はヒンズー教の聖典の一説を思い起こした
 
 今 我は死となる 世界の破壊者となる”



1945年8月6日、広島・・・ウラン型原子爆弾リトルボーイ・・・
8月9日、長崎・・・プルトニウム型原子爆弾ファットマン。
二つの爆弾が日本に投下されました。

原子爆弾の開発は、科学者にとって悪魔との契約でした。
この契約は、いったん交わしたら撤回できない・・・日本に対して核兵器を使用したことは、世界の歴史で最も重大な出来事になりました。
我々人類は、いつの日か恐ろしい代償を払うことになるでしょう。

1945年8月15日、日本のみ条件降伏によって第2次世界大戦が集結。
オッペンハイマーは、戦争を終わらせた原爆の父として一躍国家的な英雄となりました。
そして物理学研究の名門プリンストン高等研究所所長に就任。
配下には、あのアインシュタインもいました。
さらに、政治の世界でも影響力を持ち、数多くの政府機関にも名を連ね、原子力政策への発言力を高めていきました。
オッペンハイマーは、原子力の国際管理、世界各国が協力する必要があると訴えました。

”世界の他の国々と、信頼関係を築き、協力し合うことこそが、安全な未来への唯一の道なのです”

しかし、世界はすでに東西冷戦に突入していました。
1949年8月・・・ソ連が原爆開発に成功。
対向してアメリカは、1952年11月、原爆の数百倍の威力を持つ水素爆弾の開発に成功します。
オッペンハイマーは、水爆開発を批判しました。
一方で、原爆の方が優れていると主張します。
原爆を小型化すれば、船上の限られた標的だけに使える・・・そうすれば、民間人を巻き添えにしないという理由でした。

そして、米ソの核開発競争が過熱すると、今度は真正面から政府を批判しました。

”我々の状態は、一つのびんの中の二匹のサソリに似ていると言えよう
 どちらも相手を殺すことができるが、自分の殺されることを覚悟しなければならない”

政府の政策に否定的な発言を繰り返したオッペンハイマー・・・
1953年、政府からソ連のスパイ容疑という濡れ衣を着せられ、公職から追放されます。
オッペンハイマーは、原爆開発で忠誠を誓ったアメリカに捨てられたのです。

アインシュタインは言いました。
「オッペンハイマーよ、君の役目は終わった 立ち去るべきだ」
しかし、彼はできませんでした。
そして、政府に裏切られたのです。

かつての国家的英雄の名は、世間から次第に忘れ去られていきました。
晩年、オッペンハイマーは日本への原爆投下を後悔していたといいます。

1967年2月18日、ロバート・オッペンハイマー死去 62歳。

咽頭がんでした。

オッペンハイマーの教え子で、原爆開発を続けるべきか集会を開いたロバート・ウィルソン。
戦後は、国立研究所の所長としてアメリカの物理学研究を牽引。
ドイツ降伏の時点で、ロスアラモスから去るべきだったと終生後悔しました。

ただ一人、ロスアラモスを離れたジョセフ・ロートブラット。
イギリスにわたり、核兵器と戦争の廃絶を訴えるパグウォッシュ会議を創設。
初代事務局長を務め、1995年ノーベル平和賞を受賞しました。



そして、アインシュタイン・・・原爆開発を促した手紙に署名したことを死ぬまで悔やんだといいます。

広島、長崎の原爆投下から70年以上・・・
世界の核兵器保有数は、現在1万5000にのぼると言われています。

現代の科学者にとって大切なこと・・・
科学自身は知識であって、自然から学んでいるだけ・・・
しかし、危ないものに使えば大変なことになる・・・
必ずプラスとマイナスがあるのです。
そこを常に見返して、科学者は間違った方向に行きそうだったらちゃんと警告しなければならない。
科学者は知識を持っていて、何が起こるかということも想像できます。
だから、それを活かしていろいろな問題について社会に対して助言をするということ・・・それが科学者の社会的責任です。

原爆の誕生を、生涯悔やんだアインシュタイン・・・
後に彼はこう語っています。

「この世には、無限なものが二つある
 宇宙と人間の愚かさだ
 宇宙の方は断言できないが・・・」

アメリカ・ニューメキシコにあるホワイトサンズミサイル実験場
その一角に年に2日だけ一般公開され・・・毎回数千人訪れる場所があります。
世界初の核実験・トリニティーの爆心地です。
ある世論調査で・・・アメリカ人の56%が日本への原爆投下は正しかったと答えました。

ロイ・グラウバーは、マンハッタン計画に参加したことをこう振り返ります。

「ロスアラモス研究所には、様々な科学者がいました
 優秀な科学者、才能に溢れた科学者、そうでない人物も含めてね
 そんな科学者たちと、素晴らしい環境で仕事を出来たことは、他の事には代えがたい日々でした
 しかし、それは私にとって、常に背負いきれない重荷でもあります
 あの場に居合わせた科学者は、みなそう感じていると思います」

原爆の父オッペンハイマー・・・広島、長崎の原爆投下から2年後にこんな言葉を残しています。

「物理学者は罪を知った」byオッペンハイマー

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ローマ・カトリック教会に新時代を切り開く教皇フランシスコ・・・
教皇は、長くバチカンに秘蔵されてきた記録の公開に踏み切りました。
史上最も賛否が分かれる教皇の一人・・・ピウス12世に関する文書です。
ナチス・ドイツによる数百万ものユダヤ人虐殺・・・ピウス12世はその間、沈黙を通しました。
その為、彼をヒトラーの教皇と呼ぶ人もいます。
一方で、秘密裏に数千人のユダヤ人を救った聖者だという人も。
ピウス12世はどうしてホロコーストに沈黙を続けたのでしょうか??
真実を解明する時が来ています。



ローマ・バチカン市国・・・220年3月20日、この日、ピウス12世に関する文書が初めて公開されました。
在位した1939年から58年までの数百万ファイルが、初めて研究者たちの目に触れました。

ドイツ人の歴史家フ―ベルト・ヴォルフ・・・
調査を続けて20年になりますが、今回の公開は特別でした。
多くの疑問に答えが得られるかもしれないからです。
ピウス12世は、ユダヤ人大量虐殺を知っていたのか??
いつ、だれが知らせ、教皇はそれを信じたのか??

教皇フランシスコが公開を決定したのは1年前の3月でした。

「教会は歴史を恐れず愛します
 神が愛するように歴史への愛を深めたい
 前任者たちの信任のもと、私はこの遺産を公開し、研究者に委ねます」

バチカンニュースの総編集長アンドレア・トルニエッリは、教皇を良く知る人物の一人です。
この決定は、透明性ある教会を目指す教皇の強い意志の表れだといいます。

教会は真実を恐れない。
教皇フランシスコは固く守る原則です。
教皇は、聖職者による性的虐待問題でも完全な透明性を主張しました。
今回の文書の公開も、同じ考えによるのでしょう。 

性的、金銭的スキャンダルが相次いだカトリック教会・・・その信用回復が、教皇フランシスコの使命です。
バチカンに秘密を容認する余地は、もうない・・・
たとえ、不都合な真実でも、公にしなければならない・・・。
こうして、秘蔵文書の公開に踏み切ったのです。

文書の公開は大ニュースでした。
ピウス12世についてカトリック教徒とユダヤ人が白熱した議論を世界中で戦わせてきたからです。
この公開によって、後にピウス12世の列福(教皇庁が”福者”と宣言すること)が検討されるとき、次のいいずれかの合意に達することができるでしょう。
彼は教皇として最善を尽くした、または、出来ることはもっとあった、教皇として違いやり方があった筈だ。と。
ピウス12世の名声が揺らぐきっかけを作ったのが1960年代に上映された””神の代理人””・・・
ホロコーストに沈黙していた教皇を描いた作品得です。
世界中で論議が巻き起こり、時の教皇パウロ6世は第2次世界大戦中の数千もの文書の公開を決定。
しかし、それらの文書だけでは事実は明らかにならず、ピウス12世の評価は定まりませんでした。

カトリック教会の現代化を図ったのがピウス12世です。
彼はメディアを利用するすべにもたけていました。
教皇の役で出演した映画”パスター・アンジェリカス”は、バチカンの歴史にその名を刻まれています。
教皇の日常が描かれています。
バチカンの庭園を歩いたり、演出の都合で取り直したシーンもあります。
ピウス12世は、1876年生まれ・・・本名エウジェニオ・パッチェッリ。
23歳で聖職につくと、教会内の階級を駆け上り、1917年教皇の大使として当時のバイエルン王国の首都ミュンヘンに赴きます。
未来のピウス12世は、ここからバチカン教皇庁に向けて、数多くの手紙を書いています。
パッチェッリが赴任したバイエルンは、カトリックの王国で、彼は温かく迎えられました。
しかし、1918年の終わりごろ、政治情勢が彼の望まない方向に向かいます。

第1次世界大戦が終わった1918年11月、敗戦国ドイツでは混乱の中社会主義政権を目指す勢力が台頭してきました。
パッチェッリのいたミュンヘンでは社会主義共和国が宣言されます。
社会主義勢力の代表が、バチカンの大使館に押し寄せ、車を没収しようとする事態も起きます。
この出来事によって、パッチェッリは共産主義がカトリックの教義と相容れないことを知識としてではなく肌で知ったのです。

彼等は、私の頭に銃を突き付けた
そして、大混乱を招いた・・・と。



1925年、パッチェッリはベルリンに転属となります。
そして、教会とドイツの関係について定める条約コンコルダート(政教条約)の締結交渉にあたります。
政治システムがガラッと変わりました。
君主制だった国が、突然共和制に移行したのです。
このため、カトリック教会と国の関係を丸ごと再構築しなければなりませんでした。
国の祝日や、カトリック教育をはじめ、広い範囲で調整が必要になりました。

第2次大戦中、バチカンには数千通の手紙が届きました。
そして、可能な限り返信が出されました。
ピウス12世は、安易な選択などしません。あらゆる角度から検討し、間違いのないように決断する人でした。

ピウス12世を聖人に列するための手続きは、1965年に始まります。
最終的な承認が下りない理由は、カトリック教会が規定する条件・・・奇跡を起こしたことが証明されていないためです。

「ピウス12世の件は保留中です
 彼の行った奇跡が確認されていないからです
 ”奇跡”なしでは、前に進まない これが現状です」by教皇フランシスコ

列福の前に立ちはだかるさらに大きな壁が、ナチスドイツとの関係をめぐる論争です。
1930年代、パッチェッリは、すでに教皇庁の国務長官になっていました。
教皇に次ぐNo,2です。
同じ頃、ドイツで台頭してきたのが、国家社会主義ドイツ労働者党とその党首アドルフ・ヒトラーです。

パッチェッリは当初、ヒトラーのことなど何一つ知りませんでした。
ウィーン滞在中の教皇大使に手紙を書いて、あのヒトラーとか言う男について教えてほしいと送っているほどです。
ヒトラーとあったこともありません。
ヒトラーを大きな脅威だとまだ見ていませんでした。

1933年1月、ヒトラーは、ドイツの首相となりました。
2月の国会議事堂火災事件のあと、ドイツにいるユダヤ人の迫害が始まります。
4月、エーディト・シュタインという女性のユダヤ人が、時の教皇ピウス11世に手紙を書きました。
エーディト・シュタインは、哲学の高等教育を受けた女性でした。
エーディトは、教皇に緊急のお願いを綴りました。
ユダヤ人の迫害を公に、声高に非難してほしいと嘆願したのです。
注意すべきは、ユダヤ人だった彼女が、既にカトリックに改宗していたという点です。
パッチェッリの残したメモからも、この手紙が当時の教皇に実際に手渡されたことがわかっています。

”ドイツの状況を目の当りにする私たち、教会の忠実な子供らは、教会の更なる沈黙により、その評判が地に落ちることを心配いたします”byエディート・シュタイン

この手紙に、返信したのがパッチェッリでした。
それは、エディートを当惑させるような内容でした。
教皇は手紙をご覧になり、励ましの言葉を述べ、祝福をお与えになった・・・
彼女の訴えには、具体的に触れていませんでした。

当時のユダヤ人とカトリック教会の関係は・・・??

パッチェッリの主な狙いは、まずカトリック教会と信者をナチスから守ることでした。
バチカンにとって、ユダヤ人の問題は最優先事項ではなかったのです。

現在、ローマ教皇フランシスコは、ユダヤ人社会から温かく受け入れられています。
前任者たちと同様、ユダヤ人を”兄たち”と呼んでいます。

「かつて敵同士だった我々は、今や、友人、兄弟です
 キリスト教がユダヤ教にルーツを持つということに同意し、あらゆる反ユダヤ主義に反対します」by教皇フランシスコ

カトリックとユダヤの関係改善に当たっている司教は、1930年代、カトリック聖職者の多くが反ユダヤ主義に影響されていたといいます。
ユダヤ人は、キリストを救世主と認めていません。
1930年代、カトリック信者のほとんどが、そういう考えにとらわれていました。
イエスが十字架に架けられたのは、ユダヤ人のせいだという考えも一般的でした。
そのような説教も多かったのです。



ヒトラーは、議会で過半数を得るため、カトリック教会に取り入ろうとします。

「キリスト教の2宗派は、国家の伝統を保持するうえで、最重要と政府は考える」byアドルフ・ヒトラー

この後、ヒトラーは、バチカンに条約の締結を持ち掛けます。
パッチェッリが、20年来から携わっていた政教条約・・・コンコルダートです。
バチカンはこれを受け入れました。
ナチスと署名を交わしたのは、パッチェッリ自身でした。

ヒトラーにとっては、大勝利でした。
国際社会から信用されていなかったナチス政権が、最初に取りつけた国際条約・・・それが、教皇庁とのものだったからです。
究極の道徳権威である教皇庁が手を結んだならば、他の国々も追随しやすくなります。

この4年前の1929年、バチカンは同じような条約をムッソリーニが独裁権力を振るうイタリアと結んでいました。
イタリアの聖職者の多くが、賛同しました。
イタリアにいた聖職者は、ほとんどがムッソリーニのファシスト政権を支持者でした。
聖職者の多くが、若いころ兵士として祖国イタリアのために戦っていました。
自分たちのことを、愛国的聖職者と感じていたのです。

また、当時カトリック聖職者の多くは、ファシズムを真の敵・・・共産主義よりはましだと考えていました。
無神論のイデオロギーは、教会が何世紀にもわたって目指して来た社会を転覆させかねません。
ロシア革命後の急激な展開を、彼等は早くから警戒していました。
ロシア正教への迫害が起こっていました。
教会は閉鎖され、聖職者は逮捕、信者も嫌がらせを受けました。
ことは正教会だけにとどまりません。
カトリック教会にも及んでいました。

しかし、ヒトラーは、ドイツ国民への支配力を増すにつれ、教会も標的に定めます。
国の唯一の宗教はナチズムなのだと・・・!!
ヒトラーが掲げた国家社会主義は、政治的な性格を持った宗教・・・または、その代用品のようなものでした。
ナチスはキリスト教を破壊し、教会での礼拝を、ナチス礼拝に置き換えようとしたのです。
ヒトラーは、カトリックの影響が色濃いオーストリアで育ち、死ぬまで教会税を払っていました。
カトリックから受けた影響は、ナチスのシンボルや儀式に見て取れます。

ヒトラーは、カトリック教会の序列構造に魅せられていました。
一方の頂点に教皇、他方・・・ドイツの総統は自分です。
ある種の魅力を感じていたとはいえ、彼にとって教会は敵でした。

ドイツにいるカトリック司教たちは、ナチスの政策に拒否感を強めていきました。
抗議も起こりました。
ナチスのイデオロギーをきっぱりと拒絶しました。
それは、人種差別、心身障碍者の安楽死プログラム、そしてナチス教を作ろうとする試みに対するめいかくな拒絶です。
ドイツ・ミュンスターの司教だったクレメンス・フォン・ガレンは、この点で特に重要です。
彼が強く抗議したおかげで、ナチスは安楽死プログラムを中止せざるを得ませんでした。
フォン・ガレンたちは、政教条約に違反するナチス・ドイツに対し、正式な抗議をするようバチカンに求めました。
カトリック系の学校は、閉鎖を余儀なくされました。
それが、条約違反であるにもかかわらず・・・
聖職者が、刑務所で行う心のケアもできなくなりました。
残ったのは、従軍司祭としての活動のみでした。
もはや、政教条約など、無視されていて、違反だと訴えていても無駄でした。

時の教皇ピウス11世は、ドイツの信者に向けて手紙を書き、1937年復活祭の直前、ドイツのすべての教会で読み上げられました。
教皇の回勅(教皇が信者に宛てた公式文書)は、深い憂慮をもってというタイトルがついていました。
ドイツのカトリック教会がうけている迫害への憂慮を鮮明に表すためです。
そのタイトルは、パッチェッリによって変えられました。
彼はより強い形容詞をつけ、”燃えるような憂慮をもって”となりました。
教皇庁が、いかに事態を深刻にとらえているか、強調するためです。

ナチスは激怒しました。
気付いたのは、手紙がドイツの全教会で読まれた後だったからです。
しかし、手紙の効果は・・・それっきりでした。
一瞬の花火・・・その後の進展はありませんでした。

ピウス11世は、実際にヒトラーやムッソリーニのユダヤ人排斥政策を非難する手紙を書きました。
しかし、内容は公開されませんでした。
止めたのはパッチェッリ。
謎の解明は秘蔵文書の調査終了を待たなくてはなりません。
1939年2月、ピウス11世が亡くなると、次の教皇に選ばれ他のはパッチェッリでした。
前の教皇に敬意を表し、ピウス12世と名乗りました。

パッチェッリが新しい教皇になったことを、ムッソリーニはとても心配しました。
ドイツもイタリアと同じく動揺しました。
ドイツの答えは、氷のような沈黙でした。
”あなたは我々の教皇ではない
 必ずしも歓迎しているわけではない”
そういうメッセージでした。



新教皇誕生から半年後、ヒトラーはポーランドに侵攻・・・第2次世界大戦が勃発します。
軍を持たない世界最小国の元首としての教皇に、ヒトラーに対抗するすべなどほとんどありません。
頼れるのは外交・・・そして、博愛の力のみでした。
第2次世界大戦中のピウス12世については、多くの謎が残されています。
彼はユダヤ人絶滅計画を一体いつ知ったのでしょうか?

1942年夏・・・アメリカのルーズベルト大統領に、あるユダヤ人団体から手紙が届きます。
ポーランドとウクライナにおけるユダヤ人大量虐殺について書かれていました。

”ワルシャワのゲットーで、ユダヤ人を一掃する作戦が進んでいます
 無差別にゲットーから連れ出され、集団で銃殺されます
 その体からは、脂を、骨からは肥料を作っているのです
 大量虐殺は、ワルシャワではなく専用に作られた収容所で行われています”

アメリカの特命大使がバチカンにやってきました。
バチカンが同じような情報に接しているか、教皇が共同抗議に同意するかを確認するためです。
教皇庁は、二つの情報を手に入れていました。
ひとつは、ウクライナを旅してきた伯爵からのものです。
後に彼は、教皇パウロ6世となるモンティーニに、ドイツ中がどれだけ恐ろしいことをユダヤ人にしているか話しました。
二つ目は・・・ウクライナの大司教が、ユダヤ人団体の手紙に書かれている虐殺が事実であると報告していたのです。
バチカンは「そのような話は聞いていますが、真実かどうか確認が取れていません」と言いました。
どうしてそう答えたのか・・・??

教皇のアドバイザーであるアンジェロ・デラクアが残したメモ・・・
そこには
”アメリカの要請は重要です
 もしその情報が正しいのなら、ユダヤ人を信用できますか?
 彼らはいつも誇張する
 政治的には慎重に、声をあげれば一方の肩を持つ
 我々は中立でなくては”

ローマ教皇ピウス12世の沈黙の理由が見え隠れします。
教皇は何をしたのか??
何故そうしたのか??この文書だけでは確かな答えは得られません。
総合的な判断が必要であり、それには全ての資料を徹底的に調べなければなりません。
信頼性を担保できる唯一の方法です。
たった1週間の調査でも、これだけ重要な発見があったのです。

教皇は、1942年の秋には、ユダヤ人虐殺の規模について報告を受けていたことになります。
アメリカの特使が、数字の確認を依頼していたのですから。
しかし、教皇はその要請には答えませんでした。
独自の情報源があったというのに・・・
何故なら、教皇とバチカン国務長官は、それらの情報源を信頼していなかったのです。
デラクアが、それらの情報が当てにならないと吹き込んでいたのかもしれません。

1942年のクリスマスミサ・・・
ピウス12世が唯一沈黙を破った時ともいえますが、ユダヤ人に直接言及することはありませんでした。
「人類は誓わねばなりません
 罪なき数十万の人々が、死や困窮に追いやられているのです
 民族や出自だけが理由の場合もあります」byピウス12世

教皇は、戦争のさ中、民族や宗教、出自を理由に迫害を受けている人たちについて語りました。
ステルペという言葉を使いましたが、これは人種ではなく、血統を意味します。
つまり、広い意味での迫害について語ったので、ユダヤ人迫害に特に触れたわけではなかったのです。

大戦勃発当初から、教皇のもとには様々な国のユダヤ人から手紙が来ました。
どれも残虐行為について書かれており、助けを求める内容でした。

”謹んでお願い申し上げます
 スロバキアのカトリック聖職者に教皇様から呼びかけていただきたいのです
 彼らの力で、この酷い強制輸送を即刻停止させてほしいのです”
 
”自分の死にざまが目に見えます
 有刺鉄線に囲まれ、自分で掘った墓穴にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて死ぬのです
 子どもは活きたまま、大人は裸にされ、こん棒でたたかれ投げ入れられます
 最後の仕上げが銃弾数発”

信じがたいほどの数、おそらく数千通もの手紙が、各地のユダヤ人から教皇宛てに送られてきました。
その多くは嘆願書です。
教皇は、ホロコーストの実態を、抽象的な数としてでなく、ひとりひとりの生身の出来事として知っていました。
1週間の調査で、こうした手紙を発見しましたが、そのとき教皇庁がどう反応したのかはわかっていません。
一部の嘆願は却下され、何の進展も見られませんでした。

一方、教皇庁が助けようと動き、実際助けたケースもありました。
1943年、戦争はバチカンの門前に迫ります。
連合国軍から激しい爆撃を受けたローマの廃墟で、ピウス12世が祈りを捧げます。
程なく、ムッソリーニ政権が崩壊し、ドイツ軍がイタリアに入ります。
ローマもまたナチスの占領下となりました。
ナチス親衛隊は、バチカンのサン・ピエトロ広場までやってきます。
1943年10月、ローマのゲットーが捜索され、1024人のユダヤ人がアウシュビッツへ送られました。
生き残ったのは16人だけでした。

ピウス12世は、ユダヤ人を守るため、何をし、何をしなかったのか??

ローマ教皇は、伝統的にローマのユダヤ人を守ってきました。
しかし、1943年10月の強制連行の時、ピウス12世が非難の声をあげることはありませんでした。
ナチスの強制連行は、教皇が介入することなく実施されたのです。
ピウス12世は、いくつかのレベルで対処しようとしました。
第1に当時バチカンに滞在していたナチス・ドイツの大使にこう伝えます。

”私はユダヤ人の味方だ
 教皇領土内でユダヤ人が迫害を受けることが無いよう全力を尽くしてほしい”

第2は避難場所の確保です。
男子修道会や教会、その他教会の持つ施設のどれがユダヤ人の保護に適しているか??
立地や構造などを調べさせました。
実際、多くの修道院だけでなく、教皇庁の施設でもユダヤ人が匿われました。

第3は、実現しませんでした。
声高に訴える公の抗議はなかったのです。

忘れてはならないのは、1943年10月16日の時点で、ローマにはおよそ1万人のユダヤ人がいて、そのうちの2割がバチカンの施設に匿われていました。
例えば、教皇の夏の別荘などです。
バチカン文書がこの事実を伝えています。

イスラエルの国立ホロコースト追悼施設所蔵の文書には、ドイツによるローマ占領中に4715人のユダヤ人がバチカン内外のカトリック施設に匿われていたとあります。
ローマのユダヤ教指導者リカルド・リッセニは、教皇にできることはもっとあった。
ローマのユダヤ人全員を強制連行から救えたはずだといいます。
暗黙の合意のようなものが、バチカンとナチスの間にありました。
バチカン側のメッセージは、2度とあんなひどいことはしないように、すでに起きてしまったことは忘れてあげるから・・・そういうことです。
不幸なことですが、それが現実でした。
こうして、罪もない多くのユダヤ人がアウシュビッツに送られました。



教皇には自分の意見を知らしめる手段がいくつもありました。
彼がユダヤ人に手出しするなというだけで、ドイツには十分外交的脅威となった筈です。
もし、ある人物が、社会の道徳面での指導者なのであれば、その地位にふさわしい行動をとるべきです。
ピウス12世の場合は、私たちは答えを見つけなければなりません。

カトリック教会の高位聖職者の中には、声をあげた人もいました。
ジュール・ジェロ―サリエージュです。
1942年の強制連行を、公に非難しました。
これが、フランスのヴィシー政権を動かし、ナチスの強制連行を大幅に遅らせました。ひとりの聖職者が公にあげた声が、反ユダヤ主義や強制連行に大きな影響を与えることができたのです。

公然と非難するか、沈黙を守るか・・・ピウス12世は声をあげずに行動する外交に道を求めました。
教皇のこの選択は、1942年にオランダで起きたある出来事に理由があるのかもしれません。
司教たちの抗議が、より多くのユダヤ人強制移送を招いてしまったのです。
被害者の中には、エディート・シュタインもいました。
カトリックに改宗したユダヤ人で、ユダヤの窮状を時の教皇に訴え、聞き入れられなかったあの女性です。
彼女は後に、聖人に列せられます。

「親愛なる兄弟姉妹へ
 エーディト・シュタインはユダヤ人であるが故、姉ローザや他の多くのカトリックのユダヤ人と共に、オランダからアウシュビッツ強制収容所へ送られました
 そしてガス室で亡くなりました
 私たちは、彼女らを崇敬の念をもって追悼します」ヨハネ・パウロ2世

1944年、連合国軍がローマを落とします。
ドイツによる占領の終わりを祝福して、教皇ピウス12世が祈りを捧げます。
1年後、ユダヤ人強制収容所の映像が初めて公開されましたが、ピウス12世が沈黙を破ることはありませんでした。
なぜか・・・??バチカン文書の調査報告が待たれます。

過去の大切さを知る元ローマ教皇フランシスコ・・・
教会は過去の過ちから学び、報道の結果だけでなく、沈黙の結果についても検証すべきでしょう。

我々は、正しいことを支持しなければなりません。
そして、キリスト教の価値観と相容れないことに関しては声をあげることが求められます。
我々の社会を一つにつなぎとめてきたそうした価値観を守り、多数派が沈黙に陥らないようにしなくてはなりません。

ピウス12世の沈黙の謎・・・今後解明が進む中、置き去りにされてはならないのが透明性の確保です。

歴史と真摯に向き合うこと・・・それに勝るものはありません。
ドイツにとっても、教会にとっても・・・!!
歴史と真摯に向き合えば、必ず何かを学ぶことができます。
そしてそれを可能にするのが、ピウス12世に関するバチカン秘蔵文書です。

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その男は、ナチス・ドイツの総統ヒトラーと過ごした日々を誇らしげに語っていました。

「ヒトラーというやつは、天才であることは疑いのないことでしょうからね  
 私、こういうこと言われたことありますよ  
 ”実際、独裁者というものはつらいものだ”
 非常に人の言う意見
 ”お前どう思う お前どう思う”って聞きたがる」

男の名は、大島浩・・・駐ドイツ特命全権大使・・・”ナチスに最も食い込んだ日本人”です。

戦後、A級戦犯として終身刑の判決を受け、89歳で亡くなるまで自らの行いについて口を固く閉ざしてきたとされてきました。
その大島の肉声を記録した12時間に及ぶテープが見つかりました。
日本が太平洋戦争に突き進む外交の舞台裏・・・国内外の研究者たちも初めて聞く歴史の真相です。
ヒトラーに傾倒し、ナチス党員よりもナチスらしいと評された大島。
ドイツの力を過信していたと認める言葉口にしていました。
日本は大島がドイツからもたらす情報を信じ込み、破滅への道を突き進んでいきます。
強い発言力を持っていた大島に、異を唱える者は左遷され、反対意見が封じられたこともありました。
ナチスと日本を結び付けた黒幕・・・大島浩。
国をミスリードした男の知られざる告白です。



序章・・・口を閉ざしていた男
1973年、神奈川県にあった大島の自宅に通い、公表しないという条件で録音を許されました。
録音したのは、国際政治学者の三宅正樹。

”あなたには何でもしゃべるけれども、自分がしゃべったことが外に出ると、大島は自己弁解をしているというふうに受け取られるおそれがあるから、絶対に外に出さないでくれ
 自分は失敗した人間である、日本という国を誤った方向に導いたそういう失敗をした人間であるから弁明はしたくない”と、大島は言っていました。

当時、大島は86歳。
A級戦犯として服役した後、自宅で妻と二人ひっそりと暮らしていました。
録音の2年後に亡くなった大島・・・まもなく、夫人から1通のハガキが届きました。

「あのテープの内容は、どうぞご随意に発表してくださって結構であります」

と、書かれていました。
外に出すなとおっしゃりながら、記録として残したい気持ちがあったのでしょう。

大島の言葉を後世に残すことが大切だと考え、初めて音声を航海することとなりました。
3日間、12時間にわたって証言した大島・・・
ナチスの独裁者ヒトラーとの親密な関係を饒舌に語っていました。

「ヒトラーがね、なにしろ変わってますからね、性格が。
 常人の物差しじゃ非常にやりにくいところがあるんですよ
 私は非常に心やすくなったんですがね
 例えば私が酒好きだってことを知っているものですからね
 私にだけキルシュという一番強い酒を出すんですよ
 私だけ特別だってね」

ヒトラーの別荘に招かれ、長時間二人で語り合ったこともあったといいます。

「非常に人の言う意見”お前どう思う お前どう思う”と聞きたがるんですね
 その時に黙っていたり、変なこと言っちゃいけないんです
 ヒトラーという男は考えますからね
 天才であることは疑いのないことでしょうからね」

ヒトラー信仰が強かったのかもしれません。
自分の一番華やかだった時代を、思い出しているようでした。



第1章 ナチスに最も食い込んだ日本人

大島は、なぜナチスと親密な関係を築くことになったのでしょうか?
大島の性格は、朗らかで陽気な人でした。
日本の軍人のように幻覚というわけではなく、らいらくで冗談が多くて・・・。
日本の軍人らしくなかった大島・・・それは、ドイツに留学した経験を持つ父・健一の影響でした。
幼いころからドイツ式の英才教育を受け、流暢なドイツ語を話すことができました。

「新しい世界の平和を築くために、日本はドイツとともに戦いぬく!!」

その性格と身につけた素養が大きな武器となりました。
非常に深くドイツのことを勉強していて、洞察力もあり、大変なドイツびいきでした。
日本はドイツと一緒になれば怖い物は無いとはっきりと言っていました。

大島がナチスと最初に接近したのは、太平洋戦争が始まる7年前の1934年、ベルリンでした。
ベルリン駐在の陸軍武官として赴任しました。
ドイツでは、前年にナチス政権が誕生。
ヒトラーは、第1次世界大戦からの復興と雇用に取り組み、国民から熱狂的な支持を得ていました。
ドイツとの関係強化を陸軍の上層部から命じられていた大島・・・目をつけたのが、当時ヒトラーの外交ブレーンだったヨアヒム・フォン・リッベントロップ・・・後の外務大臣です。
ドイツ語に堪能で、ヨーロッパの文化にも精通していた大島のことを、リッベントロップは気に入り、度々面会するようになりました。
2人がドイツ語で会話できたことは大きなメリットで、お互いに信頼していました。
笑顔が絶えない時間でした。

大島とリッベントロップは、外交政策についても意気投合していきます。
そのことを、大島はテープの中で語っていました。

「あの時の情勢はソビエトは敵であることには変わりないわけです
 秘密条約を結ぼうではないかということを、リッベントロップに話したんです
 そしたら彼も同意して、やろうということになった」

当時日本は、中国東北部に満州国を建国。
国境を接するソ連と緊張が高まっていました。
一方、ドイツもソ連の共産主義やスラブ民族を敵視、ヒトラーは、東方に生存圏を確保すると主張していました。
ソ連という共通の敵を想定していた大島とリッベントロップ・・・
秘密裏に交渉を・・・1936年11月25日、日独防共協定調印。
共産主義の教義に対抗するため、互いの軍の情報を共用することが定められたのです。
大島は、協定の実現が評価され、1938年駐ドイツ特命全権大使に。

その頃、足繁く通っていたのは南ドイツにあるある別荘でした。
別荘の主はヒトラー。
親密になった大島に対し、側近にも話せない悩みを打ち明けていたといいます。

「”実際、独裁者というものはつらいものだ”
 自分の決心ひとつで全国民の利害に関係がある
 議会があれば責任はそれにあるんだから非常に楽だけれども”
 ”総統酒を召し上がりませんか”と言ったら、
 ”いや、私は酒を飲みます
 だけど独裁者としては酒は飲みません
 いつどんな重大な判決をしなければならない場合があるかわからないから”」by大島

側近にも弱みを見せなかったヒトラーにとって、大島は数少ない心を許せる人物だったようです。
ヒトラーは、他人を心から信頼することがない慎重な男でした。
それでも大島は難なく溶け込みました。
知識も豊富で、ナチスの高官たちは次第に大島の能力を高く評価するようになり、彼を非常に優れた能力がある人物と見なしたのです。

ナチスの幹部たちが高く評価した大島の能力・・・
それは、外交官としての手腕だけではなかったことがわかってきています。

ナチスの親衛隊長ハインリヒ・ヒムラーが、大島との会談について記したメモが残っています。
ヒムラーは、1939年、大島とある密談をおこなっていました。
その内容をまとめたメモには、大島が関わっていたソ連に対する秘密工作の実態が記されています。

”大島は20人のロシア人に爆弾を持たせ、ユーカサスの国境を超えることに成功したと述べた
 彼等はスターリンの暗殺の任務を帯びていた”

日本とドイツが敵視していたソ連の指導者スターリン・・・
その暗殺計画に、大島が関与していたというのです。
暗殺計画の首謀者とされるロシア人に、資金援助をしていたのが大島だったとみられています。
大島はテープの中で、スターリンを脅威に感じていたことを打ち明けています。

「スターリンというのが、それはもう実に悪い奴ですけど、この戦争で一番出たえらい奴は、私はスターリンだと思う
 ルーズベルトでもトルーマンでもチャーチルでも、この戦に勝てばいいというだけでやっていた
 スターリンだけは、勝った後にどういう自分が獲物(領土)を取るかということも前から工作していた
 だから、2歩、3歩彼等より先に出てるんです」

大島と親交のあったナチスの幹部(宣伝相・ゲッベルス)が残した日記・・・
日本とドイツの利益のために邁進する大島を高く評価する言葉が綴られています。

”大島は常にわれわれの思い通りに動いている
 勇敢で兵士のようにまっすぐだ
 日本の利益を追求しているが、そのうえ私たちの利益のために考え行動してくれている
 いつか、ドイツに彼の記念碑を建てる必要があるだろう”



第2章 日独伊三国同盟の”黒幕”

大島が残した12時間に及ぶ証言・・・
長い時間をかけ、詳細に語っていたのが日独伊三国同盟の舞台裏でした。

「あれは私が言い出したんですからね、三国同盟
 日本だって志那事変をやってイギリスやアメリカににらまれてますから
 おそらく日本政府は(同盟を)やることには応じるだろうと」

1940年9月、日本、ドイツ、イタリアの間で結ばれた三国同盟・・・
太平洋戦争を決定づけたといわれる軍事同盟です。
当時、泥沼の日中戦争を続けていた日本は、中国を支援するアメリカとの対立を深めていました。
そこで、ヨーロッパでの戦争で勢力を拡大していたドイツ、さらにイタリアと手を結ぶことで、アメリカを牽制しようと考えたのです。
この時、大島はドイツ大使の任を解かれ、一民間人にすぎませんでした。
1年前、ドイツが日本に相談することなく独ソ不可侵条約を締結。
ドイツ大使でありながら、その情報を事前に把握できていなかった責任を取らされたのです。
しかし、大島は、三国同盟の締結に、自らが重要な役割を果たしていたと告白しています。

「スターマー(ドイツ特使)が来た時に、私はもう(大使)やめておりましたけど、一番初めにスターマーが訪ねてきたのは私の家なんですよ」

1940年9月7日、同盟締結に向けた交渉のために来日したスターマー。
真っ先に訪れたのが、旧知の中だった大島の自宅でした。
大島は、スターマーと外務大臣・松岡洋右を引き合わせたのは自分だったとしています。

「松岡氏が私に来てくれというので、松岡氏訪ねて、スターマーにあったこともなければどんな人間かも知らないものだから、スターマーという人間はどうだこうだという話をした
 そこで至急一つ松岡大臣に会ってくれと、俺は電話をかけるからと言って、そして電話をかけて彼が松岡さんのところへ行ったわけです」

さらに、大島は松岡から条約の原案を書いてほしいと頼まれたといいます。

「私に”一案書いてくれ”と言いましたよ
 その内容の骨子をね
 ”参考に骨子ひとつ書いてくれ”とね
 それで出しましたがね、骨子を」

手元にあった便せんに、急いで書いたという骨子。
それをもとに作られたのが、日本、ドイツ、イタリアの軍事的な相互援助を定めた三国同盟だったのです。

当時一民間人に過ぎなかった大島が、どうしてここまで同盟締結に深く関与できたのか??

その頃、大島はベルリンにいるリッベントロップと連絡を取り合うことができました。
リッベントロップは、東京にあるドイツ大使館に、秘密の通信システムを作り上げていました。

大島と親密な関係にあったドイツの外務大臣リッベントロップ。
民間人の大島が、ドイツ大使館に自由にデイル出来るように計らい、モールス信号などを使った大島とのホットラインを用意していたというのです。
大島は当時、正式な大使という肩書がないだけで、以前として日独関係の中心にいたのです。
大島は、日本とドイツを強力に結びつける黒幕でした。
三国同盟をめぐっては、当時かい軍上層部などに根強い反対意見がありました。
アメリカと熾烈な戦争になることが危惧されていたのです。
しかし、1940年9月27日、大島らが強力に推し進めた日独伊三国同盟締結。
スターマー特使の来日からわずか20日後のことでした。

「この条約は、世界平和を招来する第一着工として締結せられたのであります」by松岡洋右

同盟締結の祝賀会で、誇らしげな大島の姿がありました。
大島には、一種、ドイツ屋という強烈な自負がありました。
世界史を動かしたという自負もあったかもしれません。



同盟締結後、大島は再びドイツ大使に任命され、華々しくベルリンに赴任します。
しかし、一方で、三国同盟は世界中に戦火を広げる転機となりました。
もともと日本がアジアで始めた戦争と、ドイツがヨーロッパで始めた戦争は、直接的な結びつきはありませんでした。
しかし、三国同盟によってこれらの戦争は結びつき、締結の1年後、戦火が地球規模に広がったことで、世界大戦となったのです。

第3章 封じられた真実

1941年12月8日、三国同盟でアメリカとの対立が決定的となった日本は、戦争に突入します。
この時、日本の指導者たちの判断に影響を与えたのが、大島のもたらすドイツ優勢の情報でした。
真珠湾攻撃の2か月前の1941年10月、大島が外務大臣にあてた公伝・・・。

”ドイツは、計画通り厳冬期前にソ連軍に殲滅的打撃を与え、ソ連の資源の大部分を押さえて、再起不能の状態にできるだろう”

当時、ナチス・ドイツはヨーロッパの広い範囲を制圧し、ソ連への侵攻をはじめていました。
しかし、ドイツ軍は、大島の報告したような圧倒的優位にはありませんでした。
ソ連の抵抗は予想以上で、苦戦していました。
大島は、当時、ドイツ軍の強さを十分な根拠なく信じ込んでいたと打ち明けています。

「私は2回ドイツの軍を視察しているんです
 実に立派にできている
 今考えると、大体ドイツが勝だろうという前提に立ってやったわけなんですよ」

一方、日本国内では、ドイツの国力の限界を客観的に分析する人もいました。
陸軍中佐・秋丸二朗を中心とする秋丸機関です。
経済学者らに依頼して、ドイツなど各国の資源や工業生産力を調査、戦争遂行能力を報告書にまとめ上げていました。
ドイツの交戦力は、1942年から次第に低下せざるを得ない・・・
独ソ戦が短期間で終わるか、長期戦になるかで大戦の運命は決定される。。。
実際の独ソ戦は、泥沼の長期戦となりました。
ドイツ軍は極寒の地で、進軍さえままならない状況だったのです。
それでも大島はベルリンから優勢を伝え続けました。

”ドイツはソ連軍の殲滅をほぼ完成している
 ソ連側の抵抗が急に増すこともあり得ず、戦局ははなはだ楽観すべき状態だ”

秋丸機関の参加者は、当然「ドイツというのはもうすでに限界である、依存したところでまったく意味がない」と考えていました。
大島は、ナチスに心酔しているような状態で、ナチスは非常に強大な国家になっている、それを事実だと信じ込んでいました。

さらに、大島に異を唱えた人物が冷遇される実態がありました。
大島と同じ時期にハンガリーで大使を務めた大久保利隆。
生前書き残した回想録に、大島と対立した様子が記されています。

1942年秋・・・大島の主催で、ベルリンの大使館にヨーロッパ駐在の大使や公使、15人が集められました。
その場で大島は、同盟国ドイツのために、日本もソ連との戦争に参戦すべきだと提案します。

「独ソ戦もドイツの有利に展開し、もう一押しというところだ
 日本が東からソ連を攻撃すれば、屈服するだろう
 日本政府に対してそう意見具申すべきである」by大島

大島を恐れ、誰も反対意見を言わない中・・・
声をあげたのが大久保でした。

「ソ連軍は、日本が行動に出るかもしれないと予測して、むしろ増員、強化されていると聞く
 日本こそ、苦境に立たされるに違いない」by大久保

大久保は、既に独ソ戦に参戦していたハンガリー軍の情報から、ドイツの劣勢を確信していました。
結局、意見具申は見送られることになりました。
その後、大久保はハンガリー公使の任を解かれ、降格の憂き目にあいます。
降格を告げられた大久保は、上司に帰国を願い出る手紙を書きます。
大島は、当時ヨーロッパですごい権力を振るっていました。
大使や公使が本国に打つ電報をチェックし、ドイツに良くないことを書くとベルリンの日本大使館に呼び出され、叱られる人たちが出始め、書かなくなっていったと言われています。



強い発言力を持っていた大島の情報を信じ込み、ナチスと命運を共にしていった日本・・・。
国民を巻き込んだ無謀な戦争が、繰り広げられていきました。

1945年5月、ベルリン陥落。

終章 A級戦犯として

終戦後、大島はA級戦犯とされ、東京裁判の法廷に立ちました。
自分は国の方針に従って、ドイツとの関係強化に努めたに過ぎない、そう釈明し、ヒトラーとの親密な関係も否定しました。
そして、1票差で絞首刑を免れ、終身刑の判決を受けます。
刑に服した大島は、1955年12月に釈放。

家の小さな机の上にはヒトラーと対面している写真がありました。
「ヒトラーは天才だよ、今でもそう思っているよ
 当時は国の力をいかに強くするかっていうことが世界中のどの国にとっても一番大切なことだった
 だから、その為に自分は日本の国をいかに崇徳して大きくするかということだけを考えていたから、ヒトラーとは非常に気が合ったんだ」by大島

一方、大島は自分には重い戦争責任があったことを率直に認めていました。
今回見つかったテープのなかでも反省を口にしていました。

「私はもちろん自分の責任を痛感する側で、非常にそういうことを感じます
 私が陸軍武官の時は、軍が強いか、弱いか見ていればいいけど、大使になれば経済力だとか、産業だとか、そういうことに関する判断もしなければならない
 経済力、生産力なんていう判断は、全くやってないんですよ、私はね
 郡力だけでこれは勝だろうと」by大島
 
大島だけではなく、当時の指導者や国民は、ドイツの勢いに惑わされていたことを忘れてはなりません。
”バスに乗り遅れるな”・・・当時の流行語です。
裏返せば、「強いものにつけ」という単純な考えです。
そういう物が永久普遍なのか・・・??
状況が動く中で、国家ビジョンをもって見る目を持たないと、国論は、進む方向など危なくて為政者に任せられない・・・ということになるのではないのか??
その責めを、大島だけに背負わせていいのか??
しかし、大島を見ることによって、問題点が浮き彫りになってくるのです。

晩年、大島は公の場に姿を現すことなく、神奈川県茅ケ崎の自宅でひっそりと暮らしました。
自分は国を誤った道に導いた人間だ・・・
口を閉ざしていた男が最後に残した12時間の告白。。。
それは、冷静な判断力を失い、破局へと突き進んだ日本の実像・・・そのものでした。

1975年6月6日、大島浩 死去。

ヒトラーを信じすぎた男の89年の生涯でした。

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