こともなき世に
面白く
幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。
しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。
1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?
日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・
15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。
1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。
1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。
”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”
ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。
晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。
”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”
そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。
”松陰先生の仇は必ず取る
しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”
それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。
”男子としてこの宇宙に生れたのだ
筆や硯の家来などになっていられない”
しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。
幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?
1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。
”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”
1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。
”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”
更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。
”国の情勢が切迫している・・・!!”
もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。
晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。
”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”
そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。
”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”
奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。
1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。
追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。
こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。
”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”
この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。
1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。
1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。
”後れても後れてもまた
君たちに誓いし言を
吾忘れめや”
この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。
長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。
”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
藩が受けた辱めをそそぎたい”
もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。
”この腰抜けどもが!!
ぼくは毛利家300年の家臣だ
たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”
晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。
自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!
”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
これより長州男児の肝っ玉をお見せする”
晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。
そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。
晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。
”腹痛がひどかったが、少し良くなった
征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”
1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。
”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”
6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・
晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・
”進撃や勝利に大変喜んでいます
体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
ご笑殺ください”
この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。
”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”
そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。
翼あらば
千里の外も飛めぐり
よろづの国を
見んとぞおもふ
1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。
面白き
こともなき世に
面白く
晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。
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