「ご苦労様」
近代日本の夜明けのために、命を捧げた男が露と消えました。
男の名は、吉田松陰。
その辞世の句・・・
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂
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吉田松陰の素顔①遊ばない子供
山口県萩市・・・かつての長州藩の城下町です。
1830年、吉田松陰はこの町で、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
幼名は虎之介・・・兄弟は6人で、2歳下の妹・千代は、後年、松陰についてこう語っています。
「兄・松陰は、幼い頃から遊びということを知らないような子供でした
いつも、机に向かって書物を読んでいるか、筆をとっているか、それ以外の姿はあまり思い浮かびません」by千代
遊ばずに学問ばかりしていたという松陰・・・その理由は、父にありました。
父・百合之介は、半士半農の質素な生活を送る下級武士でしたが、大の学問好きでした。
野良仕事の際には、手伝いをする松陰たちと一緒に「孟子」や「論語」を読誦。
夜は、米つきなどをしながら親子で読書。
そうした父の影響で、松陰は学問の面白さに目覚め、遊びよりも学問に夢中になっていきました。
さらに、松陰が学問にはげむようになったきっかけが、5歳の時のこと。
父の弟で、吉田家の養子に入っていた吉田大助が、男子を残さないまま大病を患ったため、松陰が吉田家の跡継ぎとなるべく、大助の養子となりました。
吉田家は、江戸時代前期の兵学者・山鹿素行が開いた山鹿流の兵学師範の家でした。
代々長州藩主・毛利家に仕えてきました。
兵学とは、敵に打ち勝つ方法を考える学問です。
間もなくして、義理の父が亡くなり、6歳にして吉田家の当主となった松陰は、兵学師範としては約独り立ちしなくてはなりませんでした。
そこで、大助の弟子だったもう一人の叔父・玉木文之進が、松陰の教育係を務めることになりました。
その教え方は尋常ではありませんでした。
文之進はスパルタ教育で、体罰も日常茶飯事でした。
それは、松陰を早く一人前の兵学者に育て上げるためでした。
松陰も、根をあげることなく学問に精進しました。
しかし、松陰は、大助がなくなると同時に、杉家で兄弟たちと共に過ごしています。
1840年、松陰は猛勉強の甲斐あって、11歳で聴衆藩主・毛利敬親の御前で兵法の講義を行う機会が訪れます。
松陰は、藩主や多くの家臣が居並ぶ中、一つも物おじせず、抗議をやり遂げました。
毛利敬親は松陰を絶賛し、その後もしばしば講義を行わせ、耳を傾けていたといいます。
こうして松陰は、若き天才兵学者としてその名を馳せるようになりました。
1848年、19歳になった松陰は、山鹿流の兵学師範として独り立ちをします。
長州藩の藩校・明倫館で教壇に立つことになります。
しかし、松陰の教壇デビューはほろ苦いものでした。
長州藩には、四流派の先生がいて、明倫館の学生たちは、好きなものを選ぶことができました。
松陰の講義は一番不人気で、ひとりしかいないこともありました。
しかし、講義そのものの評判は悪くなかったようで・・・
「大人も子供も兄を慕うようになりました」by千代
松陰の素顔②あふれる家族愛
明倫館の師範となった翌年の1849年、松陰は兵学者としての意見書を長州藩に提出します。
「西洋諸国を研究し、その長所を柔軟に受け入れながら、既存の兵法を時勢に合うよう政変すべし」と訴えました。
そして1850年8月、松陰は藩の許可を得て、九州遊歴へ出発します。
建前上は、平戸にある山鹿流兵学の宗家を訪ねるというものでした。
本当の目的は、長崎や平戸というところは海外の窓口が近いということで、海外情勢、動向・・・アヘン戦争などの最新の世界の情報を得るためでした。
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吉田松陰の名言「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし~」額付き書道色紙/受注後直筆(千言堂)Z0002 新品価格 |

1840年に勃発したアヘン戦争は、イギリスがアジアの大国・清に圧勝した侵略戦争でした。
松陰はその詳細を知ることで、海外列強の強さを推し量ろうとしたのです。
萩を発った松陰は、まず鎖国中唯一外国との門戸が開かれていた長崎へ!!
そこで、出島のオランダ商館などを見学。
長崎奉行の計らいで、オランダ船に乗せてもらった際には、様式を細かく記録しています。
その後松陰は、平戸に向かい、山鹿流の兵学者・葉山左内を訪ね、その蔵書を完読します。
アヘン戦争んついて書かれた「阿芙蓉彙聞」、西洋砲術書「百幾撤私(ぺキサンス)」など、50日ほどの滞在で、80冊を読破しました。
世界の情勢をおぼろげながら掴むとともに、西洋列強に対する危機感をいっそう強めたのでした。
こうして九州遊歴を終えた松陰は帰路に付き、年明けには実家に着く予定でしたが・・・急遽急ぎ足で大晦日の夜に実家に着きました。
家族と一緒に正月を迎えたい!!という理由でした。
吉田松陰の素顔③不器用な生き方
1851年、家族と正月を過ごした吉田松陰でしたが、西洋列強に対する危機感は高まっていました。
さらなる知識と情報が必要だと考え、藩主の参勤交代に同行して江戸へ・・・
そして、4月に江戸につくと、儒学・兵学・洋学など様々な学者に弟子入りします。
なかでも浸水したのが、松代藩士・洋学者の佐久間象山でした。
象山は、アヘン戦争の衝撃を受けて、江戸で西洋砲術塾を開いていました。
「開国して西洋の科学技術を学び富国強兵に務めるべし」と提唱していたのです。
松陰は、学者たちに学ぶとともに、長州藩江戸藩邸にて勉強会を開催します。
多い月では1か月に30回もありました。
勉強のし過ぎでフラフラになっても、酒もたばこも、大食することも戒めていました。
仲間たちがつけたあだ名は仙人でした。
学用品を買うので、食事のおかずは金山寺味噌か梅干しで・・・ガリガリにやせ細っていました。
しかし、研究心は劣らず、江戸に兵学修行に来ていた旧知の友・熊本藩士・宮部鼎藏らと共に、東北視察の旅を計画します。
当時の東北地方は、ロシア船が我が物顔で津軽海峡を頻繁に往来していました。
宮部らと共に決めた出発予定日は、12月15日。
ところが、出発直前に問題が起こります。
長州藩が、松陰の手形の発行に手間取ったのです。
「出発を延期せよ」と通告してきました。
手形を持たずに出発すれば、それは脱藩!!重罪です。
長州藩士であれば、出発を延期する以外道はありませんでしたが・・・
松陰は手形のないまま予定通りに出発してしまいました。
松陰は、東北視察の旅日記に記しています。
”藩に背いた罪は、私の一身に留まる
藩を辱めるより余程良い”
友との約束をたがえる方が長州の名折れとなると思ったのです。
余りにも不器用な生き方・・・しかし、松陰は、元来そういう性分でした。
厳罰覚悟で江戸を発った松陰は、水戸や佐渡を経由して、東北各地をくまなく偵察します。
江戸にもどったのは、翌年の4月で、すぐに長州藩の江戸藩邸に出頭しました。
すると、「萩に帰って謹慎し、処分を待つように」と命じられました。
そして、およそ7か月後、萩の実家に戻っていた松陰に下されたお沙汰は、”御家人召放し”・・・藩士の籍を剥奪し、家禄を没収するという厳しいものでした。
これで松陰は、一介の浪人となってしまいました。
しかし、その能力を高く買っていた毛利敬親は、松陰を見捨てませんでした。
実父・百合之介の育の立場となりました。
育とは、身分を剥奪された藩士を、親族の保護課に置き、後に復帰できるようにした長州藩独自の制度のことです。
そして、実父に、松陰の諸国遊歴の願書を提出させました。
藩が10年間の諸国遊歴を認めたことで、松陰は自由に他国修業が出来るようになりました。
毛利敬親が、天祐ともいえる諸国遊歴を許したのは、見識を広げた松陰を、いずれ藩士に復帰させるつもりだったからと言われています。
ところが・・・
吉田松陰の素顔④猪突猛進
脱藩の罪で浪人となるも、長州藩主・毛利敬親の温情で諸国遊歴を許された吉田松陰。
再び江戸の地を踏んだのは、1853年5月24日でした。
日本の眠りを覚ます大事件が起こったのは、その9日後のことです。
アメリカ船隊・・・黒船来航です。
マシュー・ペリー率いる黒船が、浦賀に来航しました。
黒船の来航を知った松陰は、江戸を飛び出し5日の深夜に浦賀につくと、先に到着していた佐久間象山たちと合流。
高台に登って4隻の黒船をつぶさに観察しました。
驚くのも当然、当時の和船は150tでしたが、黒船は4000t近くもあったのです。
さらに9日には、日本に開国を求める第13代大統領フィルモアの親書が浦賀奉行に手渡されました。
アメリカに抗えない日本の姿に、松陰は落胆しました。
松陰と同じように黒船を見た佐久間象山も欧米の技術力の高さを改めて痛感します。
「留学生を欧米に派遣して、その技術を学ばせるべきだ」by象山
と、幕府に建白書を提出しましたが、幕府はこれを却下しました。
「ならば、講義に頼らず渡航するしかない」by象山
とはいえ、国禁を破る渡航は死罪にもなり得る重罪でした。
誰がその役を担うのか・・・??
「私が行きましょう」by松陰
この時、松陰24歳でした。
1854年1月16日、ペリーが再び来航しました。
幕府と数回の交渉の末、3月3日に日米和親条約が締結します。
日本は開国への一歩を踏み出しました。
江戸で密航の機会を伺っていた松陰は、ようやく締結後、下田に移動した黒船に狙いを定め、ともにアメリカに渡りたいと申し出た足軽・金子重之助を連れて下田へ向かいます。
3月27日、下田についた松陰は、午前2時ごろ・・・盗んだ小舟で黒船に向けて漕ぎ出しました。
ところが、盗んだ小舟には、櫓を固定する杭がついていなかったので、なかなか前に進みません。
松陰は、櫓をふんどしで縛り、やっとのことでミシシッピー号にたどり着いたのですが・・・
ミシシッピ号には、日本語の分かる船員がいなかったため、再びポーハタン号に移ります。
そこで、ようやく日本語の話せる通訳のウィリアムスと対面します。
ウィリアムスは、松陰たちの勇気を讃えます。
しかし、「アメリカに連れてはいけない」と、きっぱりと拒否しました。
失意の中、引き返そうとした松陰たちでしたが、乗ってきた小舟が流されてしまいます。
暗闇で、船の行方も分からず・・・止むなく、ウィリアムスが用意してくれたボートで陸地まで送ってもらいました。
翌朝「公儀も放っては置かないであろう」と、金子重之助をつれて奉行所に出頭しました。
潔く自首することで、自分たちの行動の意味を幕府に問おうとしたのです。
「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり」by孟子
誠の心で接すれば、必ず人の心を動かすことができる・・・
松陰はこれを実行したと言われています。
しかし、国禁を破る重罪・・・未遂だったとはいえ、死罪を覚悟していました。
幕府が下したお沙汰は・・・
”父・百合之介に引き渡し、在所において蟄居を申し付ける”
実家での謹慎でした。
金子に対しても、”長州藩に身柄を引き渡し、萩で蟄居させよ”という寛大なものでした。
実は、2人に対するお沙汰が寛大だったのは、外国に渡ろうとした松陰たちの勇気をペリーが讃え、厳しい処罰は避けてほしいと幕府に通告したからでした。
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罪人用の駕籠に乗せられた松陰たちが萩についたのは、1854年10月でした。
生きて再び家族の顔を見ることができた松陰は、感激していたといいます。
しかし、長州藩は、松陰たちの蟄居を許さず、萩城下の牢獄に入れました。
長州藩は、海外密航の罪を甘くは見ていないという幕府へのアピールでした。
こうして松陰は、武士階級の罪人用の牢獄・野山獄に・・・
元々染物屋の息子だった金子は、庶民の罪人用の岩倉獄に入れられました。
岩倉獄は劣悪で、1855年1月に、金子は岩倉獄で死去。
同志を失った松陰は、深く悲しみ、野山獄で使う日用品を節約して蓄えた金を、金子重之助の遺族に送りました。
吉田松陰の素顔⑤根っからの指導者
獄中で松陰は、読書漬けの日々を送っていました。
記録によれば、約2カ月間で106冊を読破。
ジャンルは歴史・地理・兵学・医学など幅広く、みな、兄・梅太郎が差し入れしたものでした。
また妹の千代も、食料品などを松陰に差し入れていました。
松陰は、女性に対して非常に潔癖で、30歳までは結婚しないと宣言していました。
結婚すれば、学問に費やせる時間が減り、志が揺らぐ恐れがあると考えていたからです。
まさに、学問一筋!!
そんな松陰が、野山獄に改革をもたらします。
野山獄は、一般的な牢獄と違い罪人だけでなく身内から厄介払いされた者も収容していました。
その為、出獄の見込みがなく、自暴自棄になっている囚人が多かったのです。
そこを松陰は、ひとりひとりの才能を磨くように、「孟子」や「論語」など、儒学の知識を提供します。
囚人たちで知識を共有します。
松陰が始めた獄中勉強会・・・やがて牢番も参加するようになり、消灯時間を延長するという便宜も図ってくれるようになりました。
松陰は、野山獄に学問をする環境を作ることで、囚人たちに希望を与えたのです。
そして、1855年12月、松陰は病気・保養を名目として野山獄から釈放されます。
しかし、罪を許されたわけではなく、実家での幽閉を命じられました。
与えられた部屋は3畳半・・・外出は許されず、公に他人と接触するのも禁止。
そんな松陰を父は不憫に思い、気晴らしになればと身内を相手に「孟子」の講義を行わせました。
すると、近所の下級武士の子弟なども受講するようになります。
その評判が広がると、さらに受講生も増え、ついには私塾のような形になりました。
松陰の松下村塾の始まりです。
塾生は、90~100人ほどだったと言われ、入塾には身分の制限がなかったため、武士だけでなく、町人や僧侶、医者の子弟などがいました。
松陰は、どの塾生も対等に扱い、自身も決して選ぶらず、塾生たちを一緒に学ぶ友と呼び、塾生たちの間を歩き回りながら授業を行ったといいます。
決まったテキストがなく、塾生それぞれに合わせたテキストを与えていました。
24時間体制・・・講義の時間割も、月謝もありません。
塾生への食事の提供もありました。
「あなたは何をするためにここに来たのか}by松陰
その答えの最後は、”実行に移すことが大事、実行を以て世の中の役に立ちなさい”と言っていました。
塾生のことを第一に考えた松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋などが在籍し、その力を育んでいきました。
吉田松陰の素顔⑥誠を貫く
吉田松陰が、主催する松下村塾で塾生たちの教育に心血を注いでいた1858年6月19日、幕府の大老・井伊直弼が朝廷の同意を得ないまま日米修好通商条約を締結。
その勝手な行為に、外国嫌いの孝明天皇が激怒!!
これを知った松陰は、”大義を議す”と題した意見書を長州藩に提出。
そこにはこう記されていました。
「公儀は、帝を無視して亜米利加にへつらった
これは将軍の罪であり、攻め滅ぼしてよく
少しも許す必要はない」
幕府への不満が限界を超えた松陰は、ついに討幕を視野に入れるようになります。
一方幕府は、大老・井伊直弼のもと、幕府の政策に反対する者たちを次々と弾圧!!
世にいう安政の大獄です。
そんな中、松陰は、気になる情報を手に入れます。
尾張・水戸・越前・薩摩の四藩で井伊直弼を暗殺する動きが起こっていて、長州藩にも協力が求められているというのです。
「今から長州が加わっても、天誅の手柄は四藩に奪われてしまう」
焦った松陰は、別の幕閣の暗殺を画策します。
目をつけたのが、井伊直弼のもとで安政の大獄の指揮を執る老中・間部詮勝でした。
松陰は、松下村塾の塾生たちに、暗殺計画への参加を呼びかけ、藩には暗殺に使用する武器弾薬の借用したいと申し入れます。
しかし、幕府・老中の暗殺計画に、藩が手を貸すはずもなく・・・勝因を危険人物とみなし、松下村塾は閉鎖。
松陰は再び野山獄に投じられました。
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1859年4月19日、安政の大獄を進める幕府は、危険人物である松陰の身柄を差し出すように長州藩に命じます。
そして、江戸に送られる前日の5月24日。
松陰は野山獄の役人の計らいで、1日だけ実家に帰ることを許されました。
風呂に入っていた松陰に、母の滝が、
「江戸から無事にもどり、もう一度その顔を見せておくれ」というと、
「見せましょうとも、必ず元気で帰りますよ」
翌朝、護送用の駕籠に乗せられた松陰は、家族に見送られて出発。
その顔に涙はありませんでした。
しかし、萩郊外の高台で駕籠を止めてもらうと、故郷の風景をしばらく眺めていたといいます。
7月9日、江戸についた松陰の取り調べが始まりました。
しかし・・・松陰は、老中の暗殺計画について追及されると思っていましたが、問われるのは身に覚えのない罪状ばかり・・・
実は、幕府は松陰の老中暗殺計画を知りませんでした。
他の過激派との関係を取り調べていたのです。
このままでいけば命は助かるはずでした。
「僕は国をよくしたいだけだ
その為なら、ご老中・間部殿の天誅も辞さなかった」
老中の暗殺計画を自白してしまいました。
そして下されたお沙汰は、”死罪”
松陰の至誠はむなしくも通じませんでした。
1859年10月27日、刑場に連れてこられた松陰は、処刑に立ち会う役人たちに毅然と声をかけました。
「ご苦労様」
そして、誠を貫いた30年の人生に幕を閉じました。
松陰が処刑前日に書き上げた「留魂録」
”もし、私の真心に共感し、志を受け継いでくれるものがいれば、それは撒かれた種に絶えることなく実を結ばせるも同じである”
その遺言とも取れる松陰の厚き思いは、松下村塾の塾生たちに受け継がれ、時代を動かすことになったのです。
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